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2009.12.02

[書評]傍観者の時代(P・F・ドラッカー)

 私はちょっと勘違いをしていたのだが、本書「傍観者の時代(P・F・ドラッカー)」(参照)は、その表題から、また「ドラッカー名著集」の12巻目に位置していることから、1979年に風間禎三郎訳で出た「傍観者の時代 わが20世紀の光と影(P・F・ドラッカー)」(参照)と同じ本だとばかり思っていた。

cover
ドラッカー名著集12
傍観者の時代
P・F・ドラッカー
 この本のオリジナルは、2006年に「ドラッカー わが軌跡」(参照)として新訳が出たものの、その後絶版になっていた(古書は流通している)。新訳のほうが絶版になって、30年も前の訳が復刻になっているのはどんなもんだろうと思っていた。それが私の勘違いで、「ドラッカー名著集」のこれが新訳の改題だった。まあ、素直に、「ドラッカー名著集」を読めばいいということでもあった。
 というわけばかりでもないが、先日「[書評]ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(ディヴィッド・ハルバースタム): 極東ブログ」(参照)を書いた後、読み返してみると、やはりこれは面白いな、ちょっと感想でも書いておくかなという気になった。
 翻訳の標題には変遷があったが、オリジナルは「Adventures of a Bystander(Peter Ferdinand Drucker)」(参照)で、いわば「目撃者の冒険」とでも訳せそうなタイトルである。今回読みながら、"bystander"という語感と本書のbystanderとしてのドラッカーとはなんだろうかといろいろ思いを巡らした。自分なりの答えはまだ出ていないが、「傍観者」ではない。また、この本はしばしばドラッカーの自伝として読まれるが、自伝というには微妙に違う。
 構成は、彼の欧州時代とアメリカ時代に分かれており、そうした点からも、20世紀という時代の「証言者」というのが近いように思えた。つまり、本書は20世紀という時代がなんであったのか。欧州とはなんだったのか。米国とはなんだったのか。それらへの証言集であり、いわゆる歴史書からはわからない微妙な機微が描かれている。
 ドラッカーについてはいろいろなことが言われている。崇める人もおりけなす人もいる。私はこっそり言うのだが、そんなことはすっかり忘れてこの本を読んでごらんなさい。ドラッカーの経営学とかの知識はまるで要らない。しいていえば、晩年の禿爺さん写真も忘れて、30歳くらいの前世紀のオーストリア人青年を想定して読んだほうがよいと思う。
 青年はウィーンを出るのだと堅く心に決めていた。産まれた街を捨てるのだと決めていた。それが青春ということのすべてだった。まだ当時の人々がナチスをあざ笑っているときに、青年はナチスが何をしでかすかを感じ取っていた。そういう風景が本書になんども繰り返される。私はそれを読みながら、もし私が若かったら、日本を出ると心に決めただろうなと思った。
 本書はある種ミニマリズムの短編小説集と言ってもよいかと思う。時代は流れるし、ドラッカー青年という視点は存在する。しかし、欧州人という不思議な人々を描いた短編集である。なんというかジョイスの「ダブリナーズ」(参照)にも近いものがあると言いつつ、この柳瀬尚紀訳はまだ読んでなかったなとかちょっと思う。
 ウィーンを捨てるんだ、街を出るんだという、青年特有の思いの詩情にあいまって、ところどころ、胸にぐさぐさとくるシーンがある。私は失念していたのだが、こういう話もある。懇意にしていた年長者から父がフリーメーソンであることを聞く。

 私は知っていた。父から聞いたわけではなかった。父はフリーメーソンの秘密を守っていた。「君がフリーメーソンをどう思っているかは知らない。私自身は会員ではない。しかし、お父さんの名前がすでにナチスのブラックリストに載っていることは間違いない。僕はもう何年も、お父さんにいつでも逃げられるようにしておくように言ってきた。でも聞き入れてくれないんだ。」

 この時代のウィーンのフリーメーソンには独自な意味合いもあるのだろうが、父と子の間でも語られない友愛団結社の秘密というものがあった。
 ところでこうドラッカーが書くことで彼は何を告げているのだろうか。ドラッカーもフリーメーソンだっただろうか。たぶん違うのではないか。ただ、私はそのことを考えながら、ドラッカーは敬虔なカトリック教徒ではなかったかという思いがした。どこかにそのことのウラでもないかと検索して探したがわからなかった。私は最近、人の持つ信仰というものはなんだろうと思う。宗教を信じるというのは、結局のところ、公衆でそう語るか、集団に所属するということに等しい。そして人の信仰というのはそれに従属するものだ。しかし、人には人生の経験から自然にと澱が溜まるような信仰というものがあるように思える。誰に言うまでもなく、どの集団に所属するまでもなく。自然に孤独になり、絶対者の前に立たされるような。そしてそうして立った人だけが見えるある種の友愛のようなものがあるようにも思える。
 ドラッカーは自身をライターとして捉えていた。本書を読むとわかるが、ドラッカーは単純に天才であるし、正統の学者としても一流だった。しかし、彼は自分の信じるところが切りひらく世界を誤解を恐れずに進んでしまった。つまり、一流の学者とは見られなくてもいいやと割り切っていた。その割り切り方は、フロイトやカール・ポランニに接した経験の影響もあるかもしれない。
 さりげなく恐ろしい話も書かれている。

 ナチスの大量殺人者アイヒマンについての本で、ドイツ系アメリカ人の哲学者、故ハンナ・アーレント女史は、「悪の平凡さ」について書いた。だが、これほど不適切な言葉はない。悪が平凡なことはありえないのである。往々にして平凡なのは、悪を成す者のほうである。
 アーレント女史は、悪を成す大悪人という幻想にとらわれている。しかし、現実にはマクベス夫人などほとんどいない。ほとんどの場合、悪を成すのは平凡な者である。悪がヘンシュやシェイファーを通して行われるのは、悪が巨大であって、人間が小さな存在だからにすぎない。悪を「闇の帝王」とする一般の言い方のほうが正しい。

 ヘンシュやシェイファーの物語を読まないと、この引用はわかりづらいかもしれないが、ドラッカーはやすやすとアーレントをいなしている。頭ごなしに否定しているのではない。また、しいて言うならドラッカーが正しく、アーレントが間違っているというものでもない。むしろ、ドラッカーが提示しているのは、悪の実在という奇妙な神学的なテーマである。

 主の祈りが「試みに遭わせず、悪より救い給え」というのは、人が小さく弱いからである。いかなる条件においても人が悪と取引してはならないのは、悪が平凡だからではなく、人が平凡だからである。それらの条件は、常に悪の側からの条件であり、人の側の条件ではないからである。

 抽象的なお説教として読み捨てられるかもしれないし、まして経営学の神様ドラッカー先生と見る人はこういう部分を単純なモラルとしてしか読まないかもしれない。
 アメリカ時代の話はがらりと雰囲気が変わる。そういえば「大恐慌の時、米国民はけっこう健康だったらしい: 極東ブログ」(参照)というエントリを書いたことがあるが、なんのことはない。その秘密もこの本のなかに書かれていた。

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コメント

×オーストラリア

○オーストリア

投稿: 労働 | 2009.12.02 23:23

1個所(というか2個所)だけ。

>30歳くらいの前世紀のオーストラリア人青年を想定した読んだほうが

・オーストラリア人 → オーストリア人
・想定した → 想定して

投稿: 深海魚 | 2009.12.02 23:51

お久しぶりです。些細なことですが、
「オーストラリア人青年」×→「オーストリア人青年」○
直ぐ後に「ウィーンを」と続いていますから、あえてするような指摘ではないと思いますが、気になってしまったもので(汗)。


失礼いたしました。

投稿: 夢応の鯉魚 | 2009.12.03 00:36

誤字ご指摘ありがとうございます。修正しました。

投稿: finalvent | 2009.12.03 07:37

栗本慎一郎先生も、この本を読んでドラッカーびいきになったようです。でも、ドラッカーはバーク主義者で、栗本先生はマルクスシンパだから思想軸は違うのだけれど。

ドラッカーはキルケゴールの信奉者だったようです。自己啓発について、キルケゴールの「キリスト教の鍛錬」を紹介しています。

「産業人の未来」を読むと、ドラッカーは、悪について、シェリングの「人間的自由の本質」の影響を受けた考えを持っていたように思われます。ただ、この点は、シェリングの影響を直接受けたのか、ハイデガーかヤスパース経由でシェリングの思想を知ったのかわかりません。ドラッカーは、「産業人の未来」の中で、明確に、「アリストテレスの自由」と「キリスト教の自由」を峻別しています。

ドラッカーの出発点は政治学者です。たぶん、経済学や経営学や社会学のアカデミズム学者がドラッカーに冷淡なのは、ドラッカーが基本的に道徳家であり、軸足がいつも政治学者だからだろうと思います。

投稿: enneagram | 2009.12.03 08:29

>ドラッカーは、悪について、シェリングの「人間的自由の本質」の影響を受けた考えを持っていたように思われます。ただ、この点は、シェリングの影響を直接受けたのか、ハイデガーかヤスパース経由でシェリングの思想を知ったのかわかりません

ドラッカーの実質的な処女作は経済人の終わりではなく、シュタールというドイツの保守派法哲学者について扱ったものでしたが、そういったものを扱っていた人ですからおそらくはシェリングの影響は直接的なものだったのではないでしょうか。

ドラッカーの宗教については、家族がフリーメイスンと関係があったぐらいですから、カソリックではなくルター派だった様です。

投稿: とおりすがり | 2009.12.18 22:07

興味をそそられる書評です。
ジャーナリスト、ブルース・ローゼンステイン氏が
ドラッカーについて話してた内容にこの本の存在が
ありました。

ドラッカーは晩年 あのオバマ大統領の開会式で務めた
牧師のリック・ウォレン師のマネジメントをしていましたので
プロテスタントとの関係もあったかもしれないです。

投稿: daisuke | 2011.04.16 01:53

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