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2009.12.31

「輝きのある日本へ」、そうだったらいいのにな♪

 鳩山政権は30日の閣議でようやく成長戦略の基本方針「輝きのある日本へ」(参照)を決定した。本来なら経済危機の状況下では成長戦略こそがマニフェストであるべきだった。経済危機にある状況下では最初から取り得る政策は限定されているから、むしろ政治のモラトリアムこそが求められるべきだった。あるいは政権交代をするのであれば、経済危機を脱していかなる成長戦略を描くのが問われるべきだった。
 しかし、民主党は成長戦略とは関係ない空疎な理想を選挙中はわめきちらし、後になって鳩山首相自身「政治主導」「官僚任せ」が「どういうものかも分かっていなかった」と告白するに至った。最初から無意味な政権交代だった。が、変わったことはあった。政権交代後になってから、民主党政権は自民党政権にチェンジした。民主党が劣化自民党に変わった。今年はつまりそういう変化の年だった。
 民主党は今回の成長戦略で、国内総生産(GDP)を2020年までに実質で年2%、名目では3%強で成長させるという数値目標を掲げた。来年は米国の経済の持ちかえしや中国の新バブルの影響で日本経済が多少立ち直る可能性があるが、無理だろう。昨年の名目成長率はマイナスマイナス4.3%だった。来年度の名目成長率も0.4%程度と予想されている。そもそも3%以上の名目成長率は1991年以降一度もない。普通に考えれば、今回の成長戦略も選挙中のマニフェストのような画餅にすぎない。
 2020年というターゲットも笑える鳩山ブーメランになっている。民主党の当時の鳩山代表は選挙前の7月30日、自民党が発表した10年後のビジョンをこう批判したものだった。いわく、「次の選挙までに何をするかが契約なのに、そんな先の契約には意味がない。10年後のことをどうやって国民が審判すればいいのか」(参照)。その民主党が今や2020年までのビジョンを描いているのだ。地に足が着いた控えめな成長戦略と、来年の予算編成のことをもっと真剣に考えてほしいものだ。
 今回の民主党の成長戦略はどういうしろものか。6つの柱から成り立っている。


  1. 環境・エネルギー……新規市場50兆円超、雇用140万人、温室効果ガスの削減目標25%(1990年比)
  2. 健康(医療・介護)……新規市場45兆円、雇用280万人
  3. 観光……訪日外国人2500万人、雇用56万人
  4. 地域活性化……食料自給率50%、農産物輸出1兆円
  5. アジア……ヒト・モノ・カネの流れを2倍に
  6. 科学・技術……官民の研究開発投資をGDP比4%以上
  7. 雇用・人材……フリーター半減、待機児童問題を解消

 懐かしいなと思う。
 私は麻生内閣の成長戦略「新たな成長に向けて」(参照)や「経済財政改革の基本方針2009」(参照PDF)などを思い出す。2020年までに麻生政権下で描かれていた項目を民主党風に整理してみよう。

  1. 環境・エネルギー……低炭素革命で、世界をリードする国。新規市場約50兆円、雇用140万人、温室効果ガスの削減目標8%(1990年比)
  2. 健康(医療・介護)……安心・元気な健康長寿社会。新規市場35兆円、雇用210万人
  3. 観光……日本の魅力発揮。訪日外国人2,000万人、新規市場4.3兆円
  4. 地域活性化……食料自給率50%(2008年所信表明演説)、農産物輸出1兆円(13年まで)
  5. アジア……アジア経済倍増へ向けた成長構想。アジアの経済規模を2倍に
  6. 科学・技術……最先端研究開発支援プログラム
  7. 雇用・人材……2200万人の介護雇用創出プラン。

 比較ポイントの重点の置き方の差によって見解も変わるだろうが、大筋で民主党の成長戦略の基本方針「輝きのある日本へ」は、麻生内閣の成長戦略と特段に変わる点はない。
 もともと民主党は成長戦略を持っていなかった。世論に押されて半月の短期間でどさくさにまとめ上げたものだ。前政権までの蓄積に依存する他はなかった。各省から「政策集」を寄せ集めて、民主党風味にしたという程度にしかならないのは、最初からわかりきっていたことだ。
 しいて違いを取り出すとすれば、その風味の部分だろうか。民主党は「雇用が内需拡大と成長力を支える」という発想を成長戦略の基点に置いていることは評価できるかもしれない。日本に求められているのは内需の拡大であり、そのためには国民に富を再配分し、雇用を促進するという考えはありうる。
 だが、それこそがまさに現状は困難となっている。富の再配分だが、民主党マニフェストの目玉とも言える子供手当もだが、各種の手当てもデフレ下の経済にあれば、定常的に再配分された富は投資ではなく貯蓄に向かう。デフレでは貨幣を保有してできるだけ使わないことがもっとも優れた利殖になる。金利はゼロに等しいのに物の価格は低下するから、保有された貨幣の価格は実質的には増えていく。
 同時に市場は縮小する。市場の拡大を通した雇用の拡大は見込めない。雇用の確保を法的に義務づけても、企業がそれに見合う成長の見込みがなければ、より低価格な雇用をもとめて海外に出て行くしかない。
 いくら美しい絵を描いても画餅では意味がない。実際にこの民主党の成長戦略ビジョンは達成可能なのだろうか。現実問題としてはかつての鳩山さんが見抜いていたように、「10年後のことをどうやって国民が審判すればいいのか」はわからないものだ。そもそも、どうやってデフレを脱却するのか。そこが考慮されていないかぎり、日本の成長戦略はありえないだろう。
 藤井財務相はこの成長戦略について、「過去の高度経済成長期の大規模公共投資や輸出中心の政策から脱却したと自賛したが(参照)、現実問題として向こう数年は、成長するアジアに会わせて輸出産業の強化もしなければならないだろうし、「コンクリートから人へ」という珍妙な標題の背後で、コンクリートに支えられてきた人たちは割を食らう。18.3%も削減された公共事業費は地方の雇用をそれだけすぐに奪いながら代替がすぐに補充されるわけではないからだ。
 しかし、おそらく来年夏の参議院選挙もこの民主党が勝つだろう。民主党の渡部恒三前最高顧問は「勝つ。自民党が負けてくれる」(参照)と喝破した。そのとおりだ。劣化自民党である民主党は劣化の優位性で自民党を駆逐した。その後になにが来るか。渡部氏はこう言う、「心配なのは、自民党も民主党もダメならば、政治不信になる。民主主義の危機だ」。それがたぶん、来年の光景なのだろう。

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2009.12.30

「鳩山総理大臣は気まぐれな指導者だ」とのワシントンポスト紙記事について

 オバマ政権は鳩山政権にいらだっている……このネタはもういいでしょうとも思ったが、お昼のNHKニュースでも流れるほどお茶の間のニュースにもなっていたので、補足の意味で触れておこう。30日NHK「米紙“米政権内でいらだち”」(参照)より。


沖縄の普天間基地の移設問題をめぐって、アメリカの新聞は、鳩山総理大臣が2度にわたってオバマ大統領に自分を信頼するよう求めるメッセージを送りながら年内の決着を見送ったため、オバマ政権内部でいらだちが募っていると伝えました。

 人によってはまたかよと思うだろう。いわく、日本の一部の勢力や米国のブッシュ政権の残党が日本のマスコミにプレッシャーをかけているのであって、米国は鳩山政権に否定的な考えはもってないのだ、とか。
 いえいえ、このニュースのポイントはそこではない。鳩山首相がオバマ米大統領に「ボクを信じてよ(Trust me)」と言ったという話でもない。それはもうみなさんご存じ。では、どこがポイントなのか。
 「2度」というところである。1度はみなさんが知っている。2度を知っているのは、日米両政府関係者だけだ。今回の話がただのフカシじゃないというのを、両国政府関係者しか知らない事実を暴露することで、ただの見解じゃないという質を取った形になっているのがポイントだ。

 これは、ワシントン・ポストが29日、複数のアメリカ政府当局者の話として伝えたものです。それによりますと、鳩山総理大臣は11月に東京で行われた普天間基地の移設問題についてのオバマ大統領との会談の中で「トラスト ミー=私を信頼して」と発言したほか、オバマ大統領に送った書簡の中でも同じ内容のメッセージを送っていたということです

 鳩山首相は、オバマ米大統領訪日のあと、さらに非公開書簡で「ボクを信じてよ(Trust me)」とやった。なぜか?
 鳩山首相はオバマ米大統領から疑われていると思ったからである。疑いは晴れたか? 晴れなかったことがこの記事であり、オバマ政権側の暴露の意味である。

 アメリカ側はこれを鳩山総理大臣が現行の日米合意のとおりに年内に決着を図ることを約束したものと受け止めていましたが、結局、結論は平成22年に先送りされたことから、オバマ政権内部では「鳩山総理大臣は気まぐれな指導者だ」と鳩山政権に対するいらだちが募っているということです。

 オバマ政権側としては裏切られたことになった。2度も。
 あとでワシントンポスト紙記事の原文の一部を紹介するが、「鳩山総理大臣は気まぐれな指導者だ」の原文は「Hatoyama as a mercurial leader」である。mercurialは学習向けの辞書には訳語が載ってないかもしれない。英辞郎などにはこうある。

【形】
頭の回転の速い、機知に富んだ、機知縦横の、抜け目のない
水銀の[に関する・を含む]
水星の◆Mercurialとも表記
〔神話の〕マーキュリーの◆Mercurialとも表記
〔感情の変化が〕気まぐれな、移り気な

 してみると「Hatoyama as a mercurial leader」は「頭の回転の速い指導者としての鳩山氏」と訳してもよさそうに思える。違います。
 こういうときに意味の使用頻度順のロングマンの辞書が役立つ。

mer・cu・ri・al
1 [literary] having feelings that change suddenly and without warning:
an actor noted for his mercurial temperament
2 [literary] quick and clever:
her mercurial wit
3 [technical]  containing mercury

 普通の米語では、「鳩山氏は警告なく突然気分が変わる人」というふうに読まれるだろうとしていい。ちなみに、この意味は、ローマ神話のメルクリウス神がそういうキャラだったということだ。
 ところで、「鳩山氏は警告なく突然気分が変わる人」なのだろうか? ちょっと面白い話がある。
 先日のエントリ「年明けはサービスたっぷりの鳩山迷走発言から: 極東ブログ」(参照)でも触れたが、サービス精神とはいえそれまで普天間飛行場移設について語ってこなかった鳩山首相が、突然「全面移設が難しい」「抑止力の観点からみて」と言い出した。もしかして、これって「鳩山氏は警告なく突然気分が変わる人」なので、ころっと変わっただけなんじゃないだろうか?
 ところが警告はあるにはあった。この鳩山首相の問題発言は(社民党が沸騰するくらいの問題にすぎないが)、アール・エフ・ラジオ日本の番組収録でのことだった。この日の首相動静を眺めてみる(参照)と面白い。

【午前】
10時11分、公邸で外交評論家の岡本行夫氏。
【午後】
1時55分、東京・麻布台の「アール・エフ・ラジオ日本」の番組収録。
2時43分、公邸。
4時27分、NPO法人「インドセンター」のビバウ代表。
5時56分、東京・赤坂のANAインターコンチネンタルホテル東京。中国料理店「花梨」で、幸夫人、平野官房長官、松野、松井の両官房副長官らと会食。
8時37分、公邸。
43分、松野氏、資源エネルギー庁の石田長官。
9時9分、両氏出る。

 毎度ご夫人とリッチなディナーだなぁ。麻生元総理みたいに食い物でがたがた叩かれない鳩山首相はいいなぁ……そんなことはどうでもよろし。
 重要なのは「アール・エフ・ラジオ日本」の番組収録の前に、外交評論家の岡本行夫氏に面談していることだ。岡本行夫氏といえば、このブログの過去エントリを検索してもろくな情報はないが、橋本内閣で沖縄担当の内閣総理大臣補佐官だった人だ。普天間移設問題の渦中にいて状況を知悉している人である。どうやら岡本氏から正確なレクチャーを受けた頭のまま、ラジオ収録でしゃべってしまったと見てよさそうだ。
 それって、「鳩山氏は警告なく突然気分が変わる人」そのものじゃないのか。
 というか、会う人ごとに「ボクを信じてよ(Trust me)」を言いまくる人なのだろう。きっと岡本氏から「ご了解いただけましたでしょうか」で、ガッテンガッテンガッテンとかやってしまったわけだ。
 ところでなぜ岡本氏が?
 22日産経新聞記事「日米関係の深刻さにやっと気づいた?首相、外交ブレーン交代を模索」(参照)が背景を伝えている。

 東アジア重視の姿勢を強調する一方、「今まで米国に依存しすぎていた」としていた鳩山由紀夫首相が、米国に気を使い始めている。米軍普天間飛行場の移設先送りなど「鳩山政権の一連の対米挑発行為」(政府高官)が招いた米側の怒りに気づき、ようやく対米関係の重要性を認識し始めたようだ。最近では、自身の外交ブレーンについても米国に批判的な寺島実郎・日本総合研究所会長から知米派の外交評論家、岡本行夫氏への乗り換えを模索している。

 ちなみに寺島実郎氏はこういう御意見のかた。「世界を知る力 第40回」(参照)より。

中国との2000年以上に渡る歴史がいかに我々の体内時間のごとく体の中に埋め込まれるように日本人、日本文化の中に存在しているという事を理解してくると、自分たちがいかに戦後なる時代、アメリカの影響をあまりにも受けてしまったがために、アメリカを通じてしか世界を見ないという見方を身につけてしまっているかという事に気がつき始めると思います。


いまの一番生々しい話題で、直近の日米の関係について言うと、私は日米同盟によって飯を食っている人たちが当り前だと思っていることを飛び越えなければならないと思います。日米関係等には極端に言うと何の関心もない人に、常識にかえって「いまの日米の同盟関係の軸になっている日米安保に基づく米軍基地がこのような状況になっていますが、あなたたちはどのように思いますか?」と客観的に偏見でも余談でもなく、事実を事実として示した時に、はたして世界的なインテリ、或いは、知識人、ジャーナリスト等と呼ばれる人たちがどのように思うのかという事を色々と語りかけて議論をしてみると、殆どの人はあらためてそのような事を質問するとびっくりするのです。アメリカ人でさえも、「えっ! そんな事になっていたのか」とびっくりするような状況があるのです。


私も日米安保は当り前の事で今後も日米間の同盟関係が大事だと思っている立場の人間で、これを「いますぐ止めてしまえ」というような話のために言っているわけではないのです。しかし、いままでのこのような仕組みがいつまで続いても当り前だと思っている感覚から、(アメリカを通じてしか世界を見ないという事の一つの話題でもありますが、)我々自身が陥っているところから踏み出す勇気もなく、議論をする勇気もないのがこれまでの日本の姿です。日米同盟が崩れるという不安感によって、例えば、本来ただしていかなければならない筋道さえも議論の俎上に乗せないまま、我々は60数年間を過ごしてしまったわけなのです。我々の子供たちの時代に引き継いでいくという事に思いを寄せた時に、本当にこのままでよいのかという気持ち、つまり、アメリカとの本当の意味においてのこれからの長い友好関係を大事にする人間だからこそ、ただして筋道をしっかりと求めていかなければならないという事に気がつかなければなりません。

 そういう考えもあるでしょうが。
 先の産経記事に戻ると、寺島実郎氏は鳩山政権をサポートすべく活動もしていたようだ。

寺島氏は12月初め、「鳩山首相への誤解を解く」という趣旨でワシントンを訪れたが、米政府の現職当局者らは面会を拒否した。実は、日本政府内にも寺島氏の反米傾向や同盟軽視論を危ぶむ意見があり、「駐日米大使館のズムワルト首席公使を通じ、米側に寺島氏とは会わないよう働きかけた」という関係者もいた。

 寺島実郎氏の活動だが、どうやら27日日経新聞社説「歴史に判断委ねた佐藤密約」(参照)に対応していそうな雰囲気があった。

 外交における密約が望ましくないのは当然である。だが、佐藤氏は沖縄返還のために、自分限りの約束として署名し、歴史に判断を委ねたのだろう。
 事情を複雑にするのは、密使の存在である。「功」もあるのだろうが、二元外交を招き、交渉過程を不透明にするなど「罪」が多い。若泉氏がかかわったこの文書も私的な文書とされた。公式な外交文書なら原則30年たてば公開されていたはずだが、それがなされなかった。
 外務省の官僚たちに信頼を置かぬ歴代首相は、しばしば密使を使う。外務省と距離をとる鳩山由紀夫首相にも、その傾向がないだろうか。

 ところで寺島氏から岡本氏への切り替えは先の産経記事ではこう伝えていた。

 首相も遅まきながら寺島氏一辺倒では判断を誤ると考えたのか、目をつけたのがかつて首相が批判してきた橋本、小泉両内閣で首相補佐官を務めた岡本氏だった。岡本氏は今月中旬に訪米し、民主党、共和党を問わず幅広い関係者と日米関係を語り合っている。
 首相は11日、北沢俊美防衛相の紹介で官邸で岡本氏と会い、昼食をともにした。21日には再び官邸に岡本氏を招き、外交面での協力を要請した。首相周辺には岡本氏を首相補佐官とするアイデアもあったが、岡本氏はあくまで「個人的な立場」で協力することになったという。

 裏で動いたのは北沢防衛相だったようだ。
 ところで、では北沢防衛相を動かしたのは何か?

 コペンハーゲンでのクリントン米国務長官との会話について、首相は19日には、移設先変更を検討するための結論先送りを米側も理解したとしていたのに対し、22日には発言を修正した。クリントン氏による大使呼び出しという異例の事態に、慌てたものとみられる。
 首相は就任以来、周囲に「普天間の件は心配していない」と漏らし、首相周辺も「普天間は日米関係のほんの一部」と楽観的だったが、認識を改めざるをえなくなったようだ。
 今回、藤崎氏は国務省に入る際の映像をメディアに撮らせ、クリントン氏との会談後には記者団の取材に応じて「重く受け止める」と述べた。この意味について外交筋はこう解説する。
 「藤崎さんは慎重な性格で、ふだんはぶらさがり取材に応じないが、今回は国務省に行くのもあらかじめメディアに知らせておいたのだろう。首相らに現実を理解してほしかったということだ」

 岡本氏登場を促したのは、文脈的にもクリントン米国務長官と藤崎一郎駐米大使の対談だったと見てよいだろう。また、藤崎米大使が呼び出されたのか自主的に伺ったのかだが、産経記事の外交筋が正しければ、マスメディアに知らせるために自ら伺うという形式になったのであり、実質はクリントン長官側からの呼び出しだったと見てよいだろう。
 というのも、その微妙な関係を含めて、当のワシントンポスト紙の記事「U.S. concerned about new Japanese premier Hatoyama(米国は日本の鳩山新首相に気苦労する)」(参照)が始まるからだ。

While most of the federal government was shut down by a snowstorm last week, there was one person in particular whom Secretary of State Hillary Rodham Clinton called in through the cold: Japanese Ambassador Ichiro Fujisaki.

先週の豪雪で連邦政府が店じまいしているというのに、特別な一人の人物がいた。クリントン米国務長官が寒波を押して招いたのは、藤崎一郎駐米大使だった。


 通常なら連邦政府はお休みという状況にありながら、そうはできないという切羽詰まった状況があったと見て良く、クリントン長官はそのなかでじっと藤崎米大使を待っていたことになる。状況? それは鳩山首相のコペンハーゲンでの言動にあった。

After the dinner, Hatoyama told Japanese reporters that he had obtained Clinton's "full understanding" about Tokyo's need to delay. But that apparently was not the case. To make sure Japan understood that the U.S. position has not changed, Clinton called in the Japanese ambassador during last week's storm, apparently having some impact.

夕食後、鳩山は日本の記者に、普天間基地移設決定が遅れている件についてクリントンから十分な理解を得たと語った。しかし、明白に事実無根であった。日本に向け、米国の見解は依然変更がない(遅れを認めているわけではない)ことを確認するために、クリントンは、重要性を伝えるかのように、先週の嵐のなか日本大使を招いた。


 端的に言えば、クリントン長官は鳩山首相が嘘をついていると認識していたことになる。
 そして、これが逆鱗に触れた形で、玉突きのように、鳩山ブレーンを寺島氏から岡本氏に切り替え、その新レクチャー後三歩進んだところでラジオで新見解を発表したというのが、ことの流れだ。
 ワシントンポスト紙の記事だが、重点は、米国の怒りというより、アジアの困惑を伝えていることにある。NHKニュースが次のように伝えている部分だ。

ワシントンポストはさらに、韓国やシンガポール、それにオーストラリアなどでは、日米関係のこうしたあつれきがアジア全体の安全保障に悪影響を及ぼすのではないかと懸念が強まっているとも伝えています。

 原文では次の箇所だ。

U.S. allies in Singapore, Australia, South Korea and the Philippines -- and Vietnamese officials as well -- have all viewed the tussle between Washington and Tokyo with alarm, according to several senior Asian diplomats.

アジア諸国の高官によれば、米国の同盟勢力はシンガポール、オーストラリア、韓国、フィリピン、さらにベトナム東京にもいるが、彼らはみな、米国と日本の格闘に警戒しているとのことだ。

The reason, one diplomat said, is that the U.S.-Japan relationship is not simply an alliance that obligates the United States to defend Japan, but the foundation of a broader U.S. security commitment to all of Asia. As China rises, none of the countries in Asia wants the U.S. position weakened by problems with Japan.

なぜなら、日米関係は単純に米国が日本を守る義務を持つという同盟だけではなく、全アジア域の広範な安全保障制約の基礎になっているからだと、ある外交官は語る。中国が台頭するなか、日本が引き起こすトラブルで米国の地位が弱まることを望むアジアの国は存在しない。


 こうした懸念は、米国側で日本が外交戦略を大きく転換させているのではないかとの疑念につながり、先日の天皇会見を伴った習近平中国副主席来日もその文脈で米政府関係者は見ているようだ。私が意外に思えたのは、先週のイランの核交渉の責任者サイード・ジャリリ国家安全保障最高会議書記の訪日もその文脈で米国が見ているらしいことだ。考えてみれば、この時期にイランからの訪日を受けるのも変な話といえば変な話だ(参照)。
 今回のワシントンポスト記事はNHKと限らず他でも報道されが、原文に存在する小沢一郎民主党幹事長についての言及を取り上げた報道社はなかったように思われる。その原文にも触れておこう。この部分はマイケル・グリーン元米国家安全保障会議(NSC)アジア上級部長の見解を引いたものだ。

Michael Green, senior director for Asia at the National Security Council during the Bush administration, said the concern is that senior officials in Hatoyama's party with great influence, such as Ichiro Ozawa, want to push Japan toward closer ties with China and less reliance on the United States. That would complicate the U.S. position not just in Japan but in South Korea and elsewhere.

ブッシュ政権下で米国家安全保障会議アジア上級部長だったマイケル・グリーンは、懸念されるのは、鳩山の民主党で、小沢一郎氏のような有力者が、中国との連帯を強め米国への信頼を減らそうとすることだ。このことが、日本における米国の立ち位置を複雑にするばかりか、韓国その他でも複雑にしている。

"I think there are questions about what kind of role Ozawa is playing," Green said, adding that Ozawa has not been to the United States in a decade, has yet to meet the U.S. ambassador to Japan, John Roos, and only grudgingly met Clinton during an earlier trip to Japan.

グリーン氏は「小沢氏の役割が何かが問題なのだと思う」と述べ、さらに、小沢氏が10年来米国を訪問していないことや、ルース駐日米国大使に依然面会しないこと、政権前のクリントン長官の面談はいやいやながらであったことを加えた。


 この視点についてはグリーン氏とワシントンポストの偏向の可能性もあり、必ずしも米国政府の意向とは異なるかもしれない。それでも、小沢氏を問題視する視点が米国政府内で論じられつつある動向を示しているだろう。

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2009.12.29

「〇八憲章」主要起草者、劉暁波氏の初公判の文脈

 中国の文芸評論家で詩人の劉暁波氏の初公判について、メモ書き程度だが簡単に触れておいたほうがよいだろう。インターネットに意見を公開しただけで国家政権転覆扇動罪に問われ、懲役11年の求刑となった暗黒裁判の結果もだが、ごく当たり前の人権問題というよりも、「習近平国家副主席訪日の意味は何だったか、その後の文脈から見えてくるもの: 極東ブログ」(参照)に関連した文脈のほうが重要な意味をもちそうだ。
 劉暁波氏の国際的な評価だが、今年のノーベル平和賞はオバマ米大統領ではなく彼が受賞すべきだったとの評価は多い。例えば、フォーリン・ポリシー「Nobel Peace Prize Also-Rans」(参照)は、ノーベル平和賞が与えられるべき7人の偉人をまとめているが、ガンジー、エレノア・ルーズベルト、ヴァーツラフ・ハヴェル、ケン・サロ=ウィワ、サリ・ヌセイベ、コラソン・アキノに劉暁波を加えている。彼はこの生存者4人のうちの1人である。

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天安門事件から「08憲章」へ
劉暁波, 劉燕子
横澤泰夫, 及川淳子
蒋海波
 1955年生まれの劉暁波氏は、1989年、北京師範大学所属の研究者として米国留学中であったが、天安門事件の直前に中国に帰国し、民主化運動に参加した。だが軍隊繰り出され市民虐殺が開始されるや、学生たちを可能な限り撤退させるよう努力した。運動鎮圧後、劉氏は、天安門事件の煽動者として北京市公安局に逮捕された。その後裁判を受けたが、刑事処分免除で済んだ(公職は追放された)。この時は西側諸国の圧力が強く、また胡耀邦氏や趙紫陽氏につならり弾圧を懸念する人々も多く、中国政府も刑を軽くせざるをえなかった。よく知られているように、胡錦濤氏も胡耀邦氏の人脈である。
 劉暁波氏は、1993年にはキャンベラにあるオーストラリア国立大学に短期留学し、そのまま亡命すると見られていたが、帰国した。あくまで中国国内での活動に命をかけることに決意したと見られる。当時、シドニーで読売新聞が劉氏とインタビューを行っており、そこで身の危険について問われた氏は「政府と違うことを考え、それを口にする私は、いつも危険に直面している。私は八九年にも米国から中国に戻ったが、海外で反体制運動をするつもりはない。国際的な物ごいは嫌だ」と答えている。
 1995年には、天安門事件6周年の記念よろしく拘束され入獄。政府批判の罪で強制労働を伴う労働改造刑によって1996年から1999年まで3年間労働教養所に拘束された。その後も言論活動で拘束されては釈放される。
 2007年に中国指導部に人権状況の改善などを呼びかける公開書簡を発表。翌年、劉暁波氏が共同起草者に含まれる「〇八憲章」(参照)は、知識人ら303人人の連名で世界人権宣言60周年記念日の2008年12月10日を意識して公開された。劉氏自身はこの公表直前に拘束されていた。
 国家政権転覆扇動容疑として劉氏の逮捕に至ったのは2009年6月23日であり、「〇八憲章」公開後の拘束から半年の時間が経過している。なぜこの遅れが生じたのだろうか。
 2月24日付け香港の英字紙サウスチャイナ・モーニングポストは、対応を巡って胡錦濤主席と党政治局の李長春氏および周永康両常務委員の対立を報じている(参照)。天安門事件処理後の対応を思い出しても、共産党指導部でなんらかの権力闘争に発展していた可能性ある。
 興味深いことだが、11月25日、香港の人権団体・中国人権民主化運動ニュースセンターは、劉氏が近く釈放されるという見通しを出していた。錯綜した情報にそれなりの理由があるのだろうか。この話は後で触れよう。
 そして今回12月25日の北京市第一中級人民法院(地裁)の判決だが、朝日新聞「民主化運動の封じ込め、鮮明に 中国、作家に重い量刑」(参照)はこう伝えている。

 朝日新聞が入手した判決文によると、劉氏が憲章で共産党独裁を廃止し、民主憲政に基づく「中華連邦共和国」の樹立を呼びかけたことに加え、ネット上に掲載した共産党や指導者を批判した六つの文章が重大な犯罪行為に当たるとしている。
 傍聴した劉氏の弟、劉暁暄氏(52)によると、裁判官は劉氏や弁護士の陳述を途中で打ち切ったという。弁護士は「審理はたったの3日で、判決文は起訴状をそのまま写しただけ。十分な審理を尽くしておらず、何の実害も出ていないのに量刑はあまりに重すぎる」と批判した。


 当局は外国メディアの取材も制限。朝日新聞は23日の初公判と25日の判決の傍聴を申請したが、拒否された。裁判所の一角に臨時に設けられた「取材区」から出られず、裁判所では傍聴した家族や弁護士にも接触できなかった。米国などの大使館員も傍聴を求めたが、いずれも認められなかった。

 単純に一種の暗黒裁判として見てよいだろうし、国際的にもそう見られている。公判前の15日時事「作家の釈放要求は内政干渉=中国」(参照)では、欧米諸国からの批判を伝えている。

中国外務省の姜瑜副報道局長は15日の記者会見で、欧米諸国が反体制作家の劉暁波氏の中国での拘束を批判し即時釈放を求めていることについて「非難は受け入れられない。外部勢力が中国の内政と司法の主権に干渉することに反対する」と述べた。

 日本の民主党政府がこの欧米からの批判に与したかについての報道を私は見ていない。鳩山政権は、今回の中国における人権侵害の状況になんらかの批判を出しただろうか。
 これに対して、日本の民間の声を7日の産経抄(参照)はこう伝えている。

日本でも、「08憲章」の内容と、詩人でもある劉さんの存在を広く紹介したいと、大阪在住の作家、劉燕子(リュウイェンズ)さんらがこのほど編集したのが『天安門事件から「08憲章」へ-中国民主化のための闘いと希望』(劉暁波著、藤原書店)だ。
 ▼「編者解説」のなかで劉燕子さんは、アメリカやヨーロッパに比べて日本の知識人が、中国の民主化や人権の問題に関心が薄いことを嘆き、「中国批判は反中国の右翼というレッテルを貼られるというおかしな状況」に首をかしげている。

 日本では、中国の人権問題に触れるだけで右翼のレッテルを貼られることがあるというのは、奇妙ではあるが、共感できる指摘だ。
 先ほど言及した中国人権民主化運動ニュースセンターと思われるアナウンスに戻るが、朝日新聞記事はこう言及している。

 オバマ米大統領が訪中した11月、劉氏が釈放されるのではとの期待が人権活動家たちの中ではあったが、オバマ氏は首脳会談の場で人権問題に踏み込まず、「中国側は米国が強硬には出ないという確信を得た」と北京の外交筋はみる。その後、1カ月足らずで起訴され、判決まで進んだ。

 端的に言ってしまえば、人権問題の観点ではオバマ米大統領によって劉暁波氏が見捨てられたか、あるいは端的に米国外交の失敗であったと言えるだろう。
 いずれにせよ、中国は、米国が人権問題に軟化したと理解したことで、ようやく劉氏の厳罰に踏み込むことが可能になったと見ることはできそうだ。もちろん、オバマ米大統領一人が責められる問題ではない。2月にはクリントン米国務長官、5月にはペロシ米下院議長が訪中したが、人権問題には触れなかった。しいていえば、米国民主党の大きな汚点となったと言ってよいだろう。
 裁判の文脈ではさらに産経新聞「「08憲章」重刑は警告 背景に「人権カード」消した欧米 見抜いた「大国化」する中国」(参照)の次の指摘が興味深い。

 当局は劉氏に「海外出国」を打診していたとされ、この日の判決は「あくまで国内にとどまり、体制批判を続ける」(劉氏)との“信念”に対する回答でもあった。

 それが本当なら、オバマ訪米までの時点では劉暁波氏を暗黒裁判にかけないシナリオが11月までは存在した可能性がある。
 今回の公判の日程だが、「習近平国家副主席訪日の意味は何だったか、その後の文脈から見えてくるもの: 極東ブログ」(参照)で触れたように、習近平国家副主席アジア諸国歴訪も関係しているようだ。23日付け産経新聞「「罪は重大」と検察 独裁放棄求めた「08憲章」の劉氏初公判」(参照)はこう伝えている。

劉氏は「08憲章」を発表した昨年12月に拘束され、今年6月に逮捕された。拘束から1年を経た裁判は、「オバマ米大統領の訪中など(外交上の)重要日程を終えたタイミングを図った」(民主活動家)とみられている。
 習近平国家副主席の訪日やフランスのフィヨン首相の訪中などの一連の外交日程を終えたことも裁判日程と関係するとみられる。

 カンボジアからウイグル人の強制送還を実現させた習近平国家副主席のアジア諸国歴訪の完成として、この劉暁波氏暗黒裁判があると見てもよさそうだ。
 逆に、劉氏の暗黒裁判を習近平国家副主席が最高権力者の主席になるための階梯として見ると、その経緯に別の光が当てられる。
 最初に想定されるのは、「習近平副主席訪日の天皇特例会見のこと: 極東ブログ」(参照)で言及した習近平国家副主席による訪日天皇陛下会見の、中国側のどたばたが劉氏の暗黒裁判へのプロセスときれいに重なることだ。単純に言えば、オバマ米大統領訪中に劉暁波氏弾圧を批判するメッセージを強めていたら、習近平国家副主席が次期主席となる階梯の手順としての訪日天皇陛下会見が実現できなかったかもしれない。
 またこの1年の経緯を振り返ると、胡錦濤および李克強ラインは、「〇八憲章」と劉暁波氏への弾圧緩和に苦慮していたようにも見えるが、習近平国家副主席を支える集団に、逆にその苦慮で足を掬われた形になったのでないか。
 中国という国は為政者が少しでも弱みを見せれば致命的な失点となる。ゆえに、為政者が妥協的な政策や緩和的な政策を秘めていていたとしても、対立者からそこを弱みとして突かれると逆に、弱みを隠すために強硬派を演じなくてはならなくなる。この罠に胡錦濤および李克強ラインがはまっていたのではないか。そしてそこから抜け出すいいアイデアが陽出る処の国を経由して提供されてしまったということはないだろうか。

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2009.12.27

年明けはサービスたっぷりの鳩山迷走発言から

 普天間飛行場移設問題に鳩山首相もいよいよ決断をするのかと思わせる報道があり、関心をもったらとんでもないオチになった。ネットでいう「釣り」ということなんだろうか。
 話は、私の記憶では最初、時事の報道で見たように思う。該当記事と思われる記事のタイムスタンプは変わっているので書き換えがあったか私の誤認か、いずれにせよ内容はより正確にはなっている。「普天間、国外移設を否定=「抑止力の点でグアム無理」-鳩山首相」(参照)より。


 鳩山由紀夫首相は26日午後、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設先について「現実の中で考えれば、抑止力の観点からみて、グアムにすべて普天間を移設させることは無理があるのではないか」と述べ、米領グアムなど国外移設の可能性を事実上否定した。アール・エフ・ラジオ日本の番組収録で語った。社民党が有力な国外移設先と位置付けるグアムを首相が排除する考えを示したのは初めて。同党からは「真意が理解できない」と批判する声が上がっている。
  首相は普天間の国外移設に関し「果たして抑止力という観点から、十分かどうかという議論は、やはり相当大きくある」と強調。その上で、米海兵隊約8000人のグアム移転で米側と合意していることを指摘し、「それ以上(の国外移転)というのはなかなか難しい」と語った。

 社民党などから提案されていたグアム移転案を鳩山首相自らが否定した形になっている。
 私はこれはガセではないか、あるいは誤報でないかと懸念して続報を待った。その後、NHKも流したので誤報の可能性は残るとしても、NHKなりの裏が取れ、報道内での合意にはなりそうだと認識した。「“グアムへ全面移設 難しい”」(参照)より。

これに関連して、鳩山総理大臣は、26日に行われた民放のラジオ番組の収録の中で、「グアムは候補地の一つとしてはあったと思うし、その可能性を検討すべきときがあったのかもしれない。しかし、現実の中で考えれば、抑止力の観点から、必ずしもグアムに普天間基地のすべてを移設させるということは無理があるのではないか」と述べ、抑止力の観点から、普天間基地のグアムへの全面的な移設は難しいという認識を示しました。

 さらにこうも加えられている。

また、鳩山総理大臣は、この問題をめぐって閣内の足並みの乱れを指摘されたことについて、「関係閣僚とは、しっかり打ち合わせをして、話すべきでないところは話すべきではなかった。しかし、閣僚それぞれが自分の思いを正直に述べてきたきらいもあった」と述べ、閣内の調整に問題があったという考えを示しました。

 この先に改憲の話もついているのでメモ的に引用するが、今回はここには立ち入らない。

さらに、鳩山総理大臣は、憲法改正問題への対応について、「心の中には、今考えられるベストな国のあり方のための憲法を作りたいという気持ちはある。必ずしも9条ということではなく、地方と国との関係を大逆転させるなど、議論をすることが非常に大事だ。議会人としての責任ではないかと思っている」と述べました。

 NHKの報道で、そこはどうだろうかと疑問に思えたのは関係閣僚についての認識で、実際には北澤防衛相の名前が挙がっていた。共同「首相「サービス精神」がぶれに 普天間発言で自己弁護」(参照)より。

 閣僚間で意見の違いが出た点は「それぞれの閣僚が自分の思いを正直に話した。本来なら首相か(北沢俊美)防衛相か、一人が発言するようにとどめておかなければいけなかった」と調整不足を認めた。ただ首相は「発言権」がある閣僚に岡田克也外相を挙げなかった。民主党内には、以前から首相と岡田氏の関係を懸念する声があることから、今後憶測を呼ぶ可能性もある。

 この普天間問題で、鳩山首相と岡田外相がどういう関係にあるのかは、藤崎一郎駐米大使とクリントン国務長官との会談も関係し、実際にかなり微妙な問題になっているので、その部分を共同としてはあえて踏み込みたかったのだろう。
 鳩山首相の新発言どおり、グアムに全面移転できないならどうするのか。読売「普天間移設先、国内で候補検討へ…首相」(参照)では国内移転だとしている。

 首相は26日、ラジオ日本の正月番組収録で、社民党が政府に検討を求めているグアムへの移設案について、「一つの候補地として可能性を検討すべき時があったのかもしれないが、現実の中で考えれば、抑止力の観点から見て、グアムにすべて普天間(の機能)を移設するのは無理がある」と述べ、可能性を否定した。
 「国内で解決するということか」と司会者に問われると、「そうだ」と述べた。
 首相は、2006年の日米合意に在沖縄海兵隊8000人のグアム移転が盛り込まれている点を指摘し、「それ以上というのは、なかなか難しい」とも述べた。
 政府は与党3党の実務者級との協議機関で新たな移設先を選定する方針で、28日に首相官邸で初会合を開く予定だ。

 話題の原点に戻る。
 鳩山首相のグアム移転発言はどこでなされたか。ラジオ番組ということだが、そこはどのようなものだったか。読売系のスポーツ報知「鳩山首相、ラジオ出演はテンション低ぅ~」(参照)がわかりやすい。

 鳩山首相は26日、アール・エフ・ラジオ日本の番組収録にゲスト出演。年明けの放送だが、献金問題をふまえ「おめでとうございますというのが心の中に響きにくい」と、いきなり低いテンションでスタートした。
 政治ジャーナリストの細川珠生さんから、普天間問題などでの発言のぶれを指摘され「ぶら下がりなどで多少サービスをする発想になっている」と釈明。「サービスは国益にならない。お気をつけになられた方がいい」と直言されてタジタジに。

 問題発言の出所は、まだ放送されていないアール・エフ・ラジオ日本の番組収録だった。正月にお茶の間に放送されるのだろう。いや、単純な疑問として、この番組は本当に年明けに放送されることになるのだろうか。もしこれが、政治的な圧力でそのままの形で放送されないとすればさらに大問題になるだろう。
 今回の鳩山発言の性格だが、どうやらこれは鳩山首相が「多少サービスをする」つもりでぺらぺらとやらかしたようだ。細川珠生氏も「直言」したそうだが、不用意な発言であったことは間違いない。次の発言からも推察できる。

また、選挙中に叫び続けた「政治主導」「官僚任せ」の意味を、首相になるまで「どういうものかも分かっていなかった」と告白。

 そんな人が日本国の首相になっていたのだと驚くのであれば、「鳩山一族 その金脈と血脈 (文春新書)(佐野眞一)」(参照)を一読され免疫をつけておくほうがよいだろう。
 鳩山首相自身も適切な対応ではなかったと反省しているらしい。読売「「取材に話しすぎた」…普天間迷走で首相」(参照)より。

 鳩山首相は26日、ラジオ日本の正月番組収録で、沖縄の米軍普天間飛行場の移設問題で政府の対応が迷走したことについて、「ぶら下がり(取材)などで『多少サービスするか』みたいな発想になったところが、拡大されて伝わってしまった。『決まるまでは何もしゃべらない方がいい』と指摘されており、その通りだと反省している」と述べ、適切な対応でなかったとの考えを示した。

 あらためて見直すと、鳩山首相の反省は何を意味しているのだろうか。
 「拡大されて伝わっ」たということは、自身も失言であったという認識なのか、その後のメディアの取り上げ形に不満なのか、誤解されたと思っているのか。
 いずれにせよ、本人には発言の趣旨が正確に伝わっていないという認識があるなら、何が正確な意思だったのか。「サービス」抜きだとすると、グアム全面移転をどのように鳩山首相は考えているのか。そこがわからない。
 それにもまして不可解なのは、「『決まるまでは何もしゃべらない方がいい』と指摘されており」というのは、ラジオ番組の細川珠生さんの直言を意味するのか、民主党内で実質的に権力をお持ちの方から諫められているのか。そこもわからない。
 反省したら負けになるのか、共同「首相「サービス精神」がぶれに 普天間発言で自己弁護」(参照)では本人としてはトータルには矛盾がないそうだ。

 首相は自身の発言に関し「サービス精神は言い訳にならない。結論が出る前に話すべきでないところは話すべきではなかった」と反省の弁も。一方で「私の発言をトータルで見ると変わっていない」と強調した。

 おそらくこれらの発言を追っても「鳩山首相のマニフェスト違反より深刻な問題: 極東ブログ」(参照)で言及したガソリン税暫定税率についての鳩山首相発言のように同一人物の発言とは思えない困惑に至るだだろう。
 つまり、明日28日に首相官邸で予定されている与党三党の実務者級との協議機関で連立政権としての公式な見解が出されるだろう。それは過去の経緯からみて、ただの先延ばしの確認の無内容なものになり、さらにその内容を鳩山首相をしゃらっと公言し、かくして、その後に正月にこのトーク番組が流れ、まいどの鳩山対鳩山(参照)という構図になりそうだ。あけましておめでとう。鳩山さん、やあ、こちらも鳩山さん。弟さん、いやご本人。正月の漫才か。
 実際の落とし所については別途エントリを分けていずれ議論したいが、今回の鳩山首相の迷走報道には、COP15の約束にも似た微妙な留保事項があることは指摘しておくほうがよいだろう。「全面移設が難しい」という「全面」ということと、「抑止力の観点からみて」という2点の留保だ。
 以上で、このエントリの話はおしまいだが、蛇足めいた話として、関連の藤崎一郎駐米大使とクリントン国務長官との会談に少し触れておく。
 曖昧な推測になるので控えていたが、クリントン国務長官が呼び出しかどうかという点では、米国務省から否定のアナウンスが出ている(参照)ので、呼び出しはなかったとしてよいだろう。
 ではなぜ藤崎米大使が会談に向かったかといえば、それにもなんらかの背景があるのだろう。その背景はなにかだが、クリントン国務長官を藤崎大使が忖度したかあるいは別リークで動かされたということだろう。その内容だが、時事「首相への不信決定的に=普天間移設、発言捏造に不快感-米政権」(参照)が伝えるところに等しいだろう。

 首相は、17日にコペンハーゲンで会談したクリントン長官が、同県名護市のキャンプ・シュワブ沿岸部に移設する現行計画見直しを検討するとの自身の説明に理解を示したと発表した。しかし、複数の日米関係筋によると、同長官は会談で、合意履行を「最善の道」として早期決着を求めたのが真相だ。
 同長官は21日の会談で、藤崎大使に「わたしが了承したかのような話になっているが、そんなことはない」と、首相の「捏造(ねつぞう)」に不快感を表明。現行案を譲るつもりのない米政府の強い姿勢を改めて首相らに伝えるよう求めた。

 さらにその背景には朝日「普天間結論「しばらく待ってて」 首相、米国務長官に」(参照)で報道された鳩山首相の発言がある。

鳩山由紀夫首相は18日夕(日本時間19日未明)、記者団に対し、17日夜のデンマーク女王主催晩餐(ばんさん)会で隣席になったクリントン米国務長官から、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題の年内決着を先送りした経緯の説明を求められたことを明らかにした。
 首相によると、クリントン長官には「選挙で民主党が勝ち、(県外移設を求める)沖縄県民の期待感が高まっている。日米合意が大変重いことはよく理解しているが、逆に(沖縄県名護市辺野古に移設する現行計画を)強行すると、大変危険だと感じている。新たな選択を考えて努力を始めている。しばらくの間、待っていていただきたい」と理解を求めたという。
 首相に説明を求めたこと自体、米側が首相の対応に不信感を持っていることの表れとみられるが、首相は記者団に「正確な言葉は覚えていないが、『よくわかった』という思いをお伝えいただいた」と述べ、クリントン長官は首相の説明を了解したとの考えを示した。「1時間半ほど隣にいて親しく歓談できた。日米同盟の重要性をお互いに確認でき、大変いい機会だった」とも語った。

 この「首相によると」発言は共同などを通じて英文でも報道されており、クリントン長官が時事の伝えるように「捏造」と理解した可能性はある。
 この関連の話題では、この記事に限らず時事がどうもお話を作りすぎているのではないかという疑念はあるが、その後の急展開の展開を見ると、やはり「鳩山首相が語るクリントン長官の意向」という伝聞を長官自身がただしておかなくてならないという懸念が米国側にあっただろう。それは例のオバマ米大統領に「ボクを信じてね(Trust me!)」とした鳩山首相への苦い経験があっただろう。
 ブログなどでこうした踏み込んだ推測をすると毎度のテンプレのご批判(誹謗に近いものだが)をいただいくが、「正確な言葉は覚えていないが、『よくわかった』という思いをお伝えいただいた」という話がそれ以上の確認もなくマスコミで一人歩きをしてしまっている現状は、日本の安全保障がかかっており、国民にも困惑した状況だというのはシンプルな事実である。

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2009.12.26

習近平国家副主席訪日の意味は何だったか、その後の文脈から見えてくるもの

 習近平国家副主席訪日が何だったのかは、その後の文脈から見えてくるものがある。そして見えてきたものからして、民主党政権がどのような外交をしてしまったのかということがあらためて問われるだろう。
 国内報道やネットでの騒ぎという点で見るなら、習近平国家副主席と天皇陛下会見を巡る話も一段落ついたころだろうか。私は「習近平副主席訪日の天皇特例会見のこと: 極東ブログ」(参照)で紛糾の遠因に中国国内の後継者選びの問題を見ていた。そうした私の意見はブログにありがちな奇矯な意見として孤立していたようにも思えたが、ようやく中華圏からも同種の視点が出て来たようだ。「後継者問題の対立が原因か=副主席の「天皇会見」申請遅れ-中国」(参照)より。


【香港時事】中国政府が習近平国家副主席と天皇陛下の会見を日本側のルールが定める1カ月前までに申し込まず、特例として会見が認められたことについて、胡錦濤国家主席の後継者問題をめぐる内部対立があったためとの見方が出ている。
 香港紙・リンゴ日報は22日の論評で、習副主席と天皇の会見を希望していながら、申し込みが遅れたことについて「このような低級なミスを中国外務省が絶対に犯すはずがない」と指摘。習副主席の次期最高指導者としての「身分」をめぐる同国指導部内の意見対立が原因だった可能性があるとの見方を示した。

 問題は私の見立ての正否というよりも、「習副主席の次期最高指導者としての「身分」をめぐる同国指導部内の意見対立」の有無であり、有るというなら、民主党政権の対応がそれにどうかかわったか、かかわっていくかについては、日本国側の今後の問題になる。そしてその点で、その後の文脈が重要になってきた。
 文脈といってもそう難しい読みではなく、習近平国家副主席訪日は日本が対象であったというのではなく、実は米国オバマ大統領のアジア訪問が日本を皮切りに実施されように、習氏においてもアジア諸国、つまり日本、韓国、ミャンマー、カンボジアの4か国7日間のアジア歴訪の皮切り的なものであったことだ。その全体の成果は、習副主席の次期最高指導者の演出であったことは間違いないのだが、さらに微妙な成果とも言えるものだったのは、国際的に非難の高まるミャンマーが含まれていることでもわかる。結論から言えば、もっと複雑な問題を孕んでいたのはカンボジアへの訪問であった。
 事実としては毎日新聞記事「習・中国副主席:「後継」の存在感 4カ国歴訪、東南アジアで成果」(参照)がわかりやすい。

 ミャンマー軍政は8月、対中国境地帯の少数民族と武力衝突し、数万人規模が中国側に越境していた。習氏は軍政トップのタンシュエ国家平和発展評議会(SPDC)議長から国境安定化に努力するとの言質を引き出した。
 また、両国間で建設が進む石油パイプラインについて、中国国有石油大手、中国石油天然ガス集団(CNPC)の子会社に独占経営権と所有権などを与えるとした文書にも調印している。
 カンボジアでは、中国新疆ウイグル自治区ウルムチで7月に起きた大規模暴動の後、ベトナム経由でカンボジアに密入国したウイグル族20人が首都プノンペンの国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に亡命を申請していた。しかし、カンボジア政府は習氏訪問前の19日、国際社会の非難を無視する形で全員を中国に送還。習氏はフン・セン首相から「いかなる勢力も反中国の活動をすることを許さない」との約束を引き出した。

 さらりと書かれているが、ようするに中国は習氏によって、ミャンマー軍政を是認し、カンボジアという対外的でありながらウイグル人弾圧を行うという意思表示を行ったことになる。言うまでもないが、この文脈に天皇陛下会見が配置されたことに注意されたい。
 ウイグル人弾圧と習氏の関係は先にも言及した「習近平副主席訪日の天皇特例会見のこと: 極東ブログ」(参照)でも触れたが、私の見立てでは習氏の失策とした。しかし、この失策は、失策故にウイグル人弾圧をやめるように是正されるのではなく、どうやら習氏を旗頭に強化される動向にあるようだ。習氏のアジア諸国歴訪と並行した形でさらなる弾圧が継続していた。
 まず4日CNN「ウルムチ騒乱で死刑判決新たに5人、計17人に」(参照)が注目される。

北京(CNN) 新華社電によると、中国の裁判所は3日、今年7月に新疆ウイグル自治区ウルムチで起きた騒乱で、新たに5人に死刑判決を言い渡した。
 英字紙チャイナ・デーリーによると、同日判決を受けたのは13人。死刑判決を受けなかった8人には禁固刑が言い渡された。

 9日のAFP「中国当局、逃亡中の94人を逮捕 新疆暴動に関与の疑い」(参照)ではさらに逮捕者が増えた。

【12月9日 AFP】中国の新疆ウイグル自治区(Xinjiang Uighur Autonomous Region)当局は、今年7月5日に区都ウルムチ(Urumqi)で発生した暴動に関与した疑いがもたれていた、逃亡中の94人を逮捕した。国営新華社(Xinhua)通信が9日、報じた。
 中国当局はウルムチの暴動をめぐり、すでに9人の死刑を執行し、8人に死刑判決を下しているが、新華社の報道からはさらなる厳しい判決が下されることが予想される。

 25日共同「ウルムチ暴動でウイグル族さらに10人に死刑判決」(参照)はさらに関連する死刑を伝える。

 中国新疆ウイグル自治区ウルムチ市で7月に起きた大暴動で、同市の中級法院(地裁)は22~23日、殺人などの罪で10人に死刑判決(うち5人は執行猶予付き)を言い渡した。同自治区政府が25日、発表した。
 暴動に絡む死刑判決は計30人となった。10人は名前からいずれもウイグル族。7月5日夜、市内で漢族住民の頭部を殴るなどして殺害したとされる。

 このような文脈のなかで、習氏のカンボジア訪問に際して国際社会の非難を無視する形でカンボジアに密入国したウイグル人の中国引き渡しが実施された。これが中国によるカンボジア支援とバーターで行われたことは、22日ニューヨークタイムズ「China, Cambodia and the Uighurs」(参照)が伝えている。さらに送還者に幼児が含まれていたことにも言及している。過去の問題に触れた後次の話になる。

That was then. Today, Cambodia has baldly violated its international commitments and put at risk the lives of 20 members of the Uighur minority --- including two infants --- who were forcibly deported back to China on Friday.

それはかつての話。今日の話としては、カンボジアは国際公約を悪しく違反し、金曜日(18日)中国への強制送還によって、2人の幼児を含む少数民族ウイグル人20人の生命を危機に陥れた。

Poor, weak Cambodia is not the only villain in this piece. China shoulders even more blame for misusing its growing wealth and clout to force Cambodia to do its bidding. Already Cambodia’s largest foreign investor, China rewarded Cambodia on Monday with 14 deals, valued at an estimated $850 million, including help in building roads and repairing Buddhist temples.

貧困・弱小国カンボジアがこの問題の唯一の元凶ではない。成長経済の富と影響力の悪用し強制した中国の罪責がより大きい。すでにカンボジアにとって最大の対外投資国となっている中国は、月曜日(21日)、道路建設や寺院修復援助も含め、推定8億5000万ドルを与えた。


 もう一点注目したいのは道路建設や寺院修復という地域慰撫策は中国がカンボジア・ミャンマー経由で中近東・アフリカからのシーレーン確保の意図もありそうなことだ。
 こうした習氏旗頭の動向は実はこの機に吹き出したものではない。国際的には失言として話題になったメキシコ発言だが、この一連の文脈からして習氏の政治的なポリシーで実施されたと見てよさそうだ。今年の2月の共同「「中国あげつらうな」…中国の習近平副主席、メキシコ訪問で失言」(参照)より。

 中国の習近平国家副主席が外遊先のメキシコで、「腹がいっぱいになってやることのない外国人がわれわれの欠点をあれこれあげつらっている」と発言し、「国家指導者にふさわしくない失言」(中国紙記者)と話題になっている。
 副主席は11日、華僑と会談した際、中国が13億人の食糧問題を基本的に解決したのは人類に対する貢献だとし、「中国は革命も輸出せず、飢餓や貧困も輸出せず、外国に悪さもしない。これ以上いいことがあるか」と述べた。

 さらに

 中国でもインターネットで発言や映像が伝わり、直後からブログなどで「酒に酔った勢いでの発言ではないか」「穏健な胡錦濤指導部のイメージを傷つける」と批判が広がった。習副主席は胡国家主席後継の最有力候補とされる。

 インターネットでの関連映像はユーチューブで「堂堂國家副主席「吃飽沒事幹」都講得出,太子黨果然係狗口長不出象牙!」(参照)などで見ることができる。
 日本としては、国際的に非難を浴びるこのような中国外交に天皇を駆り出してまで日本が同意しているのではないことは、中国に直接的に対抗するという稚拙な手をとらずしても、アジア諸国やその他の国際社会にアピールしていく必要があり、つまりは民主党の課題でもある。すでに岡田克也外相は22日の記者会見で、カンボジアからのウイグル人強制送還について「そういった措置によってこのウイグル族の皆さんが、生命や安全の危険にさらされる可能性があり、難民条約の精神に照らして、かつ人道的見地から今回の措置が適切であったとは言い難く遺憾であるとその旨カンボジア政府には日本政府として懸念を表明した」(参照)と述べたが、大手紙社説が沈黙している現状、日本政府側からさらに国際社会に日本の立場を鮮明にする必要があるだろう。

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2009.12.25

鳩山首相政治資金問題会見、雑感

 昨晩、ちょっとした偶然で鳩山首相の会見をNHKで実況で見てしまった。気持ちの悪いものを見てしまったなというのが率直な感じだが、そう言ってしまえば、鳩山首相を気持ちの悪い奴だと思ったのかと誤解されるだろう。そうではない。もしそうなら、他のスプラッタなニュースと同様私は見ない。気持ちが悪かったのは、鳩山首相のクチから出てくるある毎度の特有なロジックだった。それが日本を戦争に導いたものだし、日本の宿痾と言えるものだ。平成のこのご時世になっても、こいつはでんと日本に鎮座しているのかと暗澹たる思いがした。
 記者会見の理由は、鳩山由紀夫首相の資金管理団体「友愛政経懇話会」の政治資金収支報告書虚偽記載問題で、東京地検特捜部が、元公設秘書を政治資金規正法違反の罪で在宅起訴、また元政策秘書を略式起訴したことを受け、彼を監督する立場にあり、同会の代表でもある鳩山氏が国民に説明し、進退を明らかにするということだった。鳩山氏本人については、検察としては、資金管理団体の代表だが虚偽記載への関与が確認できない(嫌疑不十分)として不起訴処分とした。
 率直に言って、この御仁は退陣されないだろうとは思ったが一縷の希望はもって聞いていた。やはり退陣はしないと予想は当たったが、暗澹たることはそんなことではなかった。いやそれも予想外とは言えないのだが。キーワードは「私腹」である。記者に問われた鳩山首相の答えから(参照)。


 --首相が現政権を続けるということが責任を果たすと言ったが、首相でなければ議員を辞めていたのか。また、今回の責任の取り方について、具体的に何か形として考えているものはあるか
 「仮定のことでありますので、今、十分な答えができないかもしれませんが、私は過去の発言というものは、確かに自分なりに発言したことは理解をしております。くどいようですが、自分のポケットマネーを増やすとか、そういう私腹をこやすために秘書がおかしたことではないと、そのように確信をしておりまして、そこの意味において、今までの私の発言と今回の私の事象との間で違いがあるのではないかと思っております。従って、仮定のことで答えることはできませんが、どのような立場にたっていたら、職をとしていたかっていう、あるいは議員を辞めたかっていうことになると、わかりませんが、辞めていない可能性もあると、そのように考えております」

 釈明も「私腹」の話で締めていた(参照)。

 「わたしは先ほど申し上げましたように過去の発言に対して、そのことを否定するつもりもありません。逃げてはいかんと思っております。事実は事実として申し上げたいと思います。ただ私がその過去の発言というものを顧みて、思っておりますのは、私腹をこやしたり、不正の利得というものを陰でいろいろ得ていながら、それを表に公表しないというような事象が中心であったと。そのように思っておりまして、先ほど申し上げましたように、今回の件に関してそのような私服を自分がこやしたという思いは一切ないと。不正な利得を得たという思いも一切ないものでございますので、私は責任の取り方として先ほど申し上げましたように、反省すべきところは当然反省いたします。」

 呆れたなと私は思った。
 私は政治家としては「私腹をこやしたり」する人がよいと思っている。日本の政治の現状では、私腹なりを使って切り抜けていかなければならない状況が多いと認識しているせいもある。談合や賄賂などは民主主義のコストだと割り切っている。もちろん、そんなことは良いわけではない。しかし、そこまでして悪にまみれても政治を行うのだという政治家の精神を私は貴ぶ。泥にまみれてしまったという自責感のない政治家のほうが格段に怖い。ぞっとする。
 このことは私にとっては普通の戦後世界の庶民感覚だと思っている。私が傾倒した思想家吉本隆明は、正確な言葉ではないが、こう言っていた。食えなくなったら盗みでもしなさい、それは悪いことではないのだ、と。盗んで食えるものがあるなら盗めばいい。人が飢えて死ぬより何倍もよい。人が飢えるような世界そのものにいかなる正義でも認めてはいけない。少なくとも、他者にそんな正義を求めるような社会を作ってはいけない。この世にあって大衆が生きること、その倫理こそが社会の根幹ではなくてならないし、そこには必然的に悪が含まれる。
 オバマ米国大統領やピーター・ドラッカーではないが、この世に悪は存在すると私も思う。しかし、人は誰でも追い込まれれば悪に陥る弱い存在でもあると思う。毀誉褒貶の激しい安田好弘弁護士はだからこそ世間から礫を投げられる大罪人といつも共にあろうとし、そこに人が悪に陥るある必然を見てきた。
 人がどのように悪に陥るのか。欲望や誘惑が原因と言えば抽象的だが、少なくともカネは大きな現実的な要因だ。食うことができなければ盗めばいいと私は思うが、それは率直に言えば、食い物に限定されたほうがよい。シベリア抑留の人々や沖縄の戦後石川収容所にあった人々がそうした食い物の盗みを話を蕩々するのを私はいつも愉快に聞いた。
 しかし、カネがなければ食えないという状況でカネを盗むということもその延長に想像できないことではない。「銭ゲバ」ではないがカネがなければ親が死ぬという状況もある。そういう状況に立つ人が悪を自身の倫理と受け入れるなら、罪は罪でもしかたがないと思うし、同情せざるを得ない。
 少なくとも、カネがあって、カネを使って汚い所作を他者に押しつけて、自身は潔白だという人間よりは、食い物やカネをくすねた人間のほうがはるかに尊いと私は思っているし、それは戦後日本の餓えをしのいだ記憶やその生の話を伝え聞く庶民には当然のことのように思っている。
 鳩山さん、昭和の庶民はそう見ていますよと、伝えたいようにも思えたが、昭和の庶民もかならずしもそこまでの庶民倫理に生きているわけでもなかった。
 日本の歴史は常に清廉なる聖者を求めてきた。庶民がそれを待望もした。本質的な「悪」というものがあるなら、それはそうした日本の庶民の幻想的な希求にこそ宿っている。5.15事件は卑劣な暗殺事件としてか後代の歴史家は見ないかもしれないが、当時の庶民は暗殺者たちを清廉故に罪を減じるように嘆願書を送ったものだった。清廉で私心なく、まして私腹もこやさない聖者や革命家、政治家に求めて、日本は悲惨のどん底に落ちた。「日本教について」(参照)でイザヤ・ベンダサンはこのようすをこう語った。

 それ故私は、日本は徹底した差別の国だと思っております。日本教の教義に基づく「人間の純度」という不思議な尺度に基づく差別なのです。ただこの差別は、「純度」の認定によって絶えず変化しますから「人間の純度による流動的なアパルトヘイトの国」と規定してよいと思います。従って、日本の裁判は、ある国のある時代の南部の裁判に似て、純度が高いと認定された者は最も卑劣な殺人を犯しても、天皇に反逆しても、実質的には無罪になると考えてよいと思います。それゆこの「純粋人」(いわば一種の白人)と認識された被告に対しては、その行為がどれほど卑劣であろうと、三十五万通もの減刑嘆願書が寄せられるわけです。この点はもちろん戦後も変わりません。変わったのは「純度表」の表現だけです。

 清廉で私心なく、まして私腹もこやさない聖者なら罪は許される。罪状が問われれば、清廉で私心なく、まして私腹もこやさないと弁明する。
 鳩山首相の場合は、指摘されなければ脱税のままであり、脱税とは国家のカネをくすねた罪人であるのに、清廉で私心なく、まして私腹もこやさないと弁明してみせる。
 しかも、清廉なのは本人の罪を他者の忖度でなすりつけたからだというのも、何かに似ている。現在では著作権が山本七平の親族に移譲され「山本七平の日本の歴史」(参照)というタイトルになっているが、当初の著作権者イザヤ・ベンダサンはこう述べていた。漱石の「こころ」の文脈で。

 この点で、この作品に乃木将軍が登場するのは偶然ではない。彼を軍神にしたのは、実は、日本人ではない。むしろ逆輸入であって、少なくとも戦争中と直後は「乃木無能」が定評であった。彼は確かに無能である、というより「即天皇去私の人」であり、この点でまさに真空的人格であった。
 従って彼は、意志、決断、それに基づく指導力などはじめから皆無なのが当然であり、ただその真空的な人格が周囲に異常なエネルギーを巻き起させただけである。そして、それが発揮する --- というより実際には「させる」だが --- 一種独自の力に、逆に超人乃至は超人的偉力をもつ指揮官と錯覚したのは、日本人よりも外国人であった。彼らには「去私の人」のもつ真空が発生させるエネルギー、それは理解できないが故に、かえって不思議な魅力になっていき、自分もそれに巻き込まれて、正当な評価を下しえなくなってしまうのである。
 実はこれが「天皇制」のもつエネルギーである。中心に、欲望の無力状態、人間関係・社会関係における無菌人間を設定し、一種の真空状態を作り出す。これを「去私の人」と言いうるなら、そういって良い。本人は真空であるから、一切の意向はない。いや、たとえあったとしても、ないと設定される。従って意志決定も決断もしない。それが徹底すればするほど、それはますます真空状態を高め、それが周囲に異常なエネルギーを起こして台風を発生させ、全日本を含み、東アジアを巻き込み、遠く欧米まで巻き込んで、全世界を台風圏内に入れてしまう。しかし「台風の目」は、静穏であり虚であり、真空であって、ここには何もない。たとえ「目」が非常な早さでどこかへ進行しても、それは周囲の渦巻が移動させているのであって、「目」が「目」の意向に従って進路を決定しているのではない。

 私腹をこらすことなどないと言い、決断も示さない真空鳩山首相を放置しておけば、その回りに生み出される真空エネルギーが高まる。すでに高まってきている。
 このような指摘をしたイザヤ・ベンダサンも山本七平一人の偽名であり右翼であり、よって純粋でないがゆえに左派からバッシングされた。イザヤ・ベンダサンや山本七平を敬愛する私も同様に純粋でないがゆえにネットでバッシングされてきた。そのような、「純粋ではないがゆえの誹謗」はまさに日本を破滅させた真空天皇制の論理そのものであるにも関わらず。
 現下の真空鳩山首相が何を引き起こすかはっきりとはわからない。存外に年明けで世界の好景気にのって日本の景気が向上すればなんら問題ないとなるかもしれない。ただ、歴史は繰り返すというのであれば、イザヤ・ベンダサンは終息のパターンをこう見ていた。

 だがこの「去私」のエネルギーは、その「目」が、真空でなくなれば、瞬時にして消える。これが終戦の謎であろう --- 「去私」の意思表明は、一挙にこのエネルギーを消失させる。

 国の実質的な指導者が泥まみれで意志を語り出せば、バッシングもされるだろうが、危機は終息に向い出すだろう。政権交代に終戦が訪れ、焼け野原からやり直す眺望も見えてくるだろう。

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2009.12.24

finalvent's Christmas Story 4

 近所のドラッグストアの売り子で少し気になる印象を与える20歳くらいの女性がいた。天気のことや街のことを話しかけると、はずしてはいないが曖昧な答えが返る。特別な大理石に優しくノミを当てていくような感じだった。天使を彫るならそうするだろう。彼女が店から消えたことに気がついたのは、夏の終わりだった。休暇を取ったのだろうと思ったが、二か月しても戻らなかった。新しい店員にきいてみたが、知らないというのだった。街路に枯葉が舞うころ、多分もう彼女を見かけることも話しかけることもないのではないかとさみしく思った。
 今年はKFFサンタクロース協会からサンタクロースに扮する依頼はなかった。会を束ねているマリーからも連絡はなかった。このままクリスマスには彼女からグリーティングカードを受け取るだけだろうと思っていたが、ふと気になって協会のサイトにログインし、会報を見る気になった。年金運用の話がある。関心はない。それから、とりわけ重要ではないがサンタクロース役を買って出たい人を求める掲示板をなんとなく眺めた。
 いや、なんとなくではない。アテネで検索していた。リストの中の20歳のティナという女性が気になった。20歳はサンタクロースを夢見る年頃ではない。彼女の説明はほとんどないのに、キーワードには「化学」「孤独」「憎しみ」が設定してあった。掲載間違いかもしれないが事務局に打診のメールを出してみた。数日後、詳細の返信メールがあり、希望のプレゼントも記されていた。
 やはりそうだった。ティナの母親はかつての私の恋人だった。もっとも彼女にしてみれば私は友人の一人に過ぎなかった。アテネ郊外のアパートで半年同棲した。夜をともにすることは少なかった。彼女はあのころ政界にのり出そうと活動していた。別れてから数か月後、彼女は結婚し、娘を産み、二年ほどで離婚した。それから政治家となり要職を歴任した。十年前に交通事故で亡くなった。アフリカにいたころ新聞記事で知って私はアテネに旅立ったことがある。
 サンタクロースを自分の希望で請け負いたかったが、個人的な理由だったので迷った。マリーにその旨メールした。彼女からは、「かまいませんよ、でもその話は協会にはしないでください」とのことだった。もしかしたら、あのリストはマリーが作らせたのではないかと思った。
 24日の夕方アテネ空港に着き、とりあえずタクシーでシンタグマ広場に向かった。そのほうがタクシーも他の客を拾いやすいだろう。案の定、三人の相乗りとなった。広場から少し歩きホテルにチェックインしたあと、下町のプラカに行って懐かしいカフェで粉っぽいコーヒーを飲んだ。彼女のアパートまでは地下鉄で行くことにした。今年はサンタクロースのコスチュームはなし。プレゼントもジャケットのポケットに収まる小さなものだ。
 目的の三階の個室のドアの前に着いたのは予定の九時を少し回っていたころだった。形だけサンタ帽を被りベルを鳴らすと、若い女性がにこやかに迎えてくれた。私がティナです、ようこそサンタクロースさん、いえ、お父さん、と彼女は言った。それは予想外のことではなかった。予想外だったのは、夏の終わりに消えた若い女性に似ていたことだった。
 「メリークリスマス!」と私は言った。他のうまい表現は思いつかなかった。
 「メリークリスマス!」と彼女も言った。「簡単な食事を用意しました。召し上がっていきますよね」
 「喜んで」私は帽子を脱いだ。
 食事をしながら、率直に、私を本当にお父さんだと思っているかきいてみた。彼女は軽く笑いながら、「いいえ」と答えた。「でも、本当のお父さんだったらよかったと思ってました」
 「どうして?」と私は反射的にきき返した。彼女は自分の父親を知っているはずだ。彼女の母親の夫がそうではないのか。
 「形のあるものが憎めたらよかったから」と彼女は笑って言ったが、そのとき、目は一瞬凍った。政治家の目で、彼女の母親と同じ目だった。私の愛が届かない目だった。
 「憎しみがぶつけられるから?」
 「見えない憎しみを相手に生きているのはつらいから」
 「憎しみにはそれ自体の本当の形がある」と私は答えた。
 それには彼女はきき返さえなかった。食器を片付け、コーヒーと小さなお菓子を用意して、「プレゼント、いただけるんですよね、サンタクロースのお父さん」と言った。
 「もちろん」と私はポケットから青いプラスチックの箱を取り出して渡した。密封された箱を開くと、黒い小さな長方形の石のような物体が見える。彼女は少し驚いていた。
 「リチウム」と私は答えた。「あなたのご希望」
 彼女は「これがですか?」と幼い子どものように答えた。「金属か白い粉のようなものと思ってました」
 「これもリチウムの化合物なんだ。こういうのが得意な友だちに作ってもらった。水を張った大きめなグラスはあるかな?」
 彼女がキッチンからグラスをもって来るとき、電灯を小さくするように頼んだ。グラスをテーブルに置き、その水にリチウムの化合物を入れると、水面でじゅーっと反応を始める。彼女は驚いて身を少し引いた。
 「爆発はしない」 私は一緒に持ってきたオイルライターで反応している小片に火をつけると、ネオンのように鮮明な赤い炎が小さく燃え上がった。
 彼女は黙ってそれを見ていた。一分ほどして炎は消え、電灯を付けた。
 「面白かったかい」
 「ええ。あんなに赤い色を出すんですね、リチウムって」と彼女は感心しているようだった。そして詩を読むように「暗闇のなかで私は自分知る。私が消えるまで自由にはなれない」とつぶやいた。
 「しかしそこに美しい炎がある。若い時には気がつかないかもしれないが」
 「年を取ればわかりますか?」 本当の娘から問われているようだった。
 「結果的に年を取ることもある」私は自分を恥じながら少し笑った。「憎しみも美しい炎の色を見せる」
 「憎しみが、ですか?」 ティナは困惑した顔で私を見つめた。
 「苦しみも悲しみも、むなしさも」 美しい炎の色を見せる。
 私はそう思うようになった。あなた自身がその美しい炎だと言葉にして伝えることはできなかった。
 訪問は一時間と決まっている。私は帰ることにした。名残惜しい感じを引きずるのはよくないという同意のようなものが別れを単純にした。
 アテネ郊外の人の少ない駅のホームで私は若い日の孤独な夜の旅立ちを思い出した。ウーゾが飲みたいと思った。アブサンに似たアニスの臭いのするリキュール。ティナの母親は、ギリシャで一番まずいお酒よ、乾杯、と言った。夜空に乾杯したい。メリークリスマス!

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2009.12.23

鳩山首相のマニフェスト違反より深刻な問題

 明白なマニフェスト(公約)違反で特徴付けられる鳩山政権の税制改正大綱が決まった。公約違反の予想はしていたのでさほどの驚きはないが、それに関連した深刻な問題に国民が直面することになった。しかし、まず表面的な問題からみていこう。
 鳩山政権の税制改正大綱で、形の上ではりガソリン税の暫定税率を廃止としたが、ただ看板を掛け替えるだけで税の内実は維持された。民主党のマニフェスト(参照PDF)で示されていたことは、その減税効果を国民生活に及ぼすことであった。しかし、鳩山政権は暫定税の看板を「環境税」に書き換えて税収を国庫に納める決定をした。しかも「暫定」を「恒久」にした分、自民党政権よりもひどいことをやすやすとやってのけた。

photo
民主党公約の破綻
from 民主党マニフェスト(公約)PDF

 自身の偽装献金すら認めているほど素直な鳩山首相なので(そして当然秘書の罪は議員の罪とする信条の鳩山氏は年初には素直に辞任されるのだろうが)、これがマニフェスト違反ではないとまで強弁しないところが国民に愛される所以であろう。「マニフェストに沿えなかったということに関しては、率直におわびを申し上げなければならないと思います」「暫定税率を廃止して、また同じ額を平行移動して、『許してください』と、財源が足りないからしょうがありませんみたいな議論は、やはり国民の皆さんには認められないだろう」(参照)と素直に公約違反を認めている。伝説のワシントンの桜の木である。昭和天皇も感動した話だ。
 鳩山首相はかねてより、「当然のことながら公約が実現できなかったときは、政治家としての責任を取ります。言うまでもありません」(参照)との政治信念を持っているので、どのように「政治家としての責任を取る」のか首相辞任後のあり方も見守っていきたい。
 民主党はかねてよりガソリン税の暫定税率廃止を掲げ自民党政権下で批判を繰り返してきたものだった。そのことへの反省は微塵もなく踏みにじられた。2008年1月の衆議院本会議で鳩山氏はこう述べていた。


 道路特定財源は、道路整備が最優先だった五十四年前の昭和二十九年に創設され、暫定税率は三十四年前の第二次石油ショックへの対応として導入され、そのまま既得権化しています。自民、公明の政府には、この硬直した構造を変えるつもりは全くありません。原油高に苦しむ国民の皆さんの声は、自公政権には届かないのであります。
 民主党は、道路特定財源を現地の地方のニーズに合わせて社会保障や教育などにも使えるように一般財源化をして、期限を迎えた暫定税率は廃止します。民主党は、この国会を生活第一・ガソリン国会と位置づけています。

 そして「ガソリン値下げ隊」(参照)なる興行を街中に繰り出していた。菅直人副総理・経済財政相はこう述べていたものだった。

 また菅代行はガソリン税についても触れ、「30~40年ほど昔はどろんこ道が多く、ガソリン税で道を作るということは良かったかもしれない。しかし役人が天下りをつくるために、30~40年前に作った法律を未だに続けている。まさに日本の政治は国会で決めているのではなく、長い間官僚が決めたことを与党が丸呑みしている」と官僚の権力が肥大化していることと与党の体質に対して徹底的に批判した。
 同時に菅代行は、「税金は役所で使い道を決めるのではなく、国民のために国会で決めればよい」と当たり前のことを当たり前にすると述べると同時に、「暫定と言いながら30~40年も続く税率を廃止し、一般財源化することをぜひ民主党の手でやらせていただきたい」と決意を表し、マイクを収めた。

 首相後釜を狙って沈黙しすぎている菅直人副総理も、今回の公約違反を認めないわけではなかった。「約束を守れなかったことは大変、申し訳ないと思っている」(参照)とイラ菅の面目もなく陳謝した。選挙運動時点で疑問が上がっていた「行政の無駄削減でマニフェストの財源確保は可能」という主張には、ようやく「ややその困難さに対する準備が十分でなかった」と反省された。なのでもっと準備してからもう一度政権交代にチャレンジしていただきたいとも思うが、戻すべき自民党は実質解体してしまった。昭和の言葉に「路頭迷う」というのがあるが、国民はそんな感じをかみしめている。
 他の主立った鳩山政権議員にはバックレも目立つ(参照)。仙谷由人行政刷新担当相は「首相がリーダーシップを発揮して決断したことを多としたい」と述べた。どこにリーダーシップがあるのかは、後で批判したい。
 北沢俊美防衛相は「現実的な選択で、ぜひ国民に理解いただきたい」と述べたが、そうした現実の泥かぶりをやってきたのが自民党政権だのだから、理解はどこに行き着くべきなのか。
 社民党党首福島瑞穂消費者・少子化担当相は「やむを得ない。今の状況では妥当ではないか」との認識を示したが、状況でやすやすと信念を曲げていくありかたでは、いずれ同じ認識を普天間飛行場移設問題に示されるのではないかと懸念される。
 長妻昭厚生労働相は「国民の皆さま、期待をされていた方には申し訳ない」とさりげなく陳謝した。さすがに長妻氏は後期高齢者医療制度などを含めてすでにマニフェスト違反が多く手慣れた発言だった。
 中井洽国家公安委員長は「地方の圧倒的な支援があっただけに大変残念。苦渋の判断だろう」と述べ、国民が眼中にないことを公言した。
 しかし、こうした事態はそれほど予想外のことでもなく、国民としても、「迷走民主党ならなんでもありだからなぁ」という印象で今年は終わるだろう。そういえば例年行われる越冬闘争も昨年は場所を日比谷に代えて政局の政治運動と化したが、今年は例年通りに戻したようだ。民主党政権ならなんでもありだよなという麻痺した感覚で一年が終わることで、今年を象徴する漢字に麻痺・麻生・麻婆豆腐の「麻」が選ばれたのもさもありなん。
 今回の民主党の冗談のような公約違反だが、この過程で明らかになった深刻な問題が三つある。いやこれも想定内なのだと言えないこともないが、麻痺していく政治関心のなかで指摘しておいたほうがいいだろう。

1 鳩山首相の君子豹変の資質
 東洋においては君子豹変は美徳である。だからそれでいいのではないかという論者もあるだろう。しかし、なんのポリシーも感じられない豹変を肯定的に評価するのは、普通は難しいのではないか。
 今回のガソリン税の暫定税率廃止問題だが、数年前からの民主党の主張やマニフェストをさて置くとしても、12月3日の時点では、まったく別の主張を鳩山首相はしていた(参照)。


私が申し上げたのは、暫定税率の議論は前から行っていて、暫定税率は廃止すると民主党は選挙でもうたってきた。したがって、暫定税率を廃止して同じ額を平行移動して、環境目的だから許してくれみたいな議論をしても、一方で、本来ならばしなきゃならない増税の議論を行わないで国民の皆さんに認めてくださいと言っても、それは許されない話でしょうということを申し上げています。


すなわち、約束した暫定税率はまずは廃止をするということを行わなきゃいけない。時間的にズレるかズレないか。それは増税の議論をしっかりと国民の皆さんに行って、「分かったよ」。国民の皆さんが認めていただければ、あるいは、われわれの結論を出すことができれば、それはそれでいいと思います


したがって、やはり新しい税を議論するわけですから、政府税調で行っていただいているわけですから、あまり中に入るつもりはありません。結果として増税になったり、何も変わらなかったりと言うような話は、私はなかなか国民の皆さんが納得されないんじゃないかと思っています

 これが3週間前の鳩山首相の発言であったということに、議論以前に溜息が出てくる。
 重要なことは、鳩山首相自身が「環境税」といった正義の御旗ではなく、ただの「新しい税」だということを認識していた点と、それには国民の合意のプロセスが必要だとも認識していた点だ。
 そこが3週間後、なんの説明もなく、すっぽり抜けた。そして3週間後にはこう述べている鳩山首相がいた(参照)。

暫定税率に関しては、熟慮に熟慮を重ねました。国民の皆さんのさまざまなご意見にも耳を澄まして傾けさせていただきました。私が最終的に得た結論は、地球環境、景気の二つを考えたときに、まず、これは暫定税率の仕組みそのものはいったんは廃止することになりますけれども、問題としては、その税率は維持をするということにいたしました。


今申し上げましたように、私も、国連、9月に参りましたけれども、この間もコペンハーゲン、行って参りました。この地球環境問題、25%削減を温暖化ガスでするという思いのもとで、いろいろと環境の問題を世界で考えていく中で、今ガソリンの価格などは割と低位で安定をしているという状況であります。このような中で、国民の皆さんの思いもだいぶ地球環境に対してやさしいお考えを持ってこられたということもあって、ライフスタイルの変化なども考えて、やはりこういう時期に暫定税率、確かに私ども、党としてはマニフェストでうたったことではありますけれども、そのマニフェストに沿えなかったということに関しては、率直におわびを申し上げなければならないと思いますけれども、現実問題を考えていく中で、まずは地球環境を守ろうではないかという、国民の皆さんのさまざまな意思も大事にさせていただいて、暫定税率を維持したいと決めたところであります。

 デンマークのコペンハーゲンで開かれた「国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)」の余波はあるかもしれないが、会議内容も事前に想定されていたことであり、ここに来ていきなり「環境税」が出てくる理由にはならない。そのことはこの税の性質が現状なんら議論されていないことからも明白だ。
 むしろ景気対策ということなのだろうが、であれば、かねて民主党が主張してきたとおり暫定税率廃止のほうがよい。
 ここは今朝の朝日新聞社説「税制大綱 財源なしに公約は通らぬ」(参照)の主張のように、他のバラマキ財源不足のしわ寄せがいったというにすぎない。
 くどいが、3週間でころっとポリシーもなく政策変更し、恒久的な新税を設立し、そして説明が嘘くさいという、この鳩山首相の資質はやはり深刻な問題だろう。

2 手順からするとマニフェスト全体の崩壊
 今回のマニフェスト違反は、次年度の全体公約の7.1兆円のうちの2.5兆円と比率は大きいが部分に過ぎないとも言える。しかし、この一部公約の破綻で明らかになったのは、個別の問題ではなく、民主党マニフェスト実施プロセスの崩壊だった。
 民主党マニフェスト(参照PDF)では、「政権政策の実行手順」として、次の段階が規定されていた。


  1. マニフェストで国民に約束した重要政策を、政治の意志で実行する。
  2. 「税金のムダづかい」を再生産している今の仕組みを改め、新たな財源を生み出す。
  3. その他の政策は、優先順位をつけて順次実施する。

 今回の民主党マニフェスト崩壊の最大の理由は、「2 『税金のムダづかい』を再生産している今の仕組みを改め、新たな財源を生み出す」に起因するものだが、むしろ問題なのは、1に関連してマニフェストに明示されていない新税の増設を、プロセスも説明もない「政治の意志で実行」した点にある。そして言うまでもないが、この「政治の意志」とは小沢一郎民主党幹事長であったと言ってよいだろう。民主党渡部恒三元衆院副議長がこの状況を「(鳩山由紀夫首相より)圧倒的に小沢一郎幹事長の方が力がある。(同党議員のうち)130人は兵隊みたいに何でもついていく。大政翼賛会だ」(参照)という認識を示しているが、説得力がある。
 別の言い方をすれば、現政権構成者が今回のマニフェスト違反にろくな抗弁もできないことが象徴するように、国民から乖離したこの「政治の意志」に対応できない構造がある。
 問題は、マニフェストの一部が破綻したのではなく、民主党政権内の権力構造にある。

3 財務省とのアコードの不在
 3点目はやや背理法的な指摘になるが、素朴な疑問でもあるので問うてみたい。なぜ、埋蔵金で充填しなかったのか?
 これには単純に「埋蔵金なんてない」という回答もあるだろう。しかし、現在の民主党政権の予算は、すでに10兆円の埋蔵金を前提にしている。面白連立政党である国民新党は次のように15兆円すら提示している(参照)。


内訳は<1>財政投融資特会積立金3・4兆円<2>外国為替特会剰余金1・8兆円<3>労働保険特会積立金3兆円<4>国債整理基金特会剰余金7兆円。

 社民党はもっと面白い(参照)。

活用する埋蔵金の内訳は、(1)財政投融資特会4兆円(2)外国為替資金特会6兆円(3)国債整理基金への繰り入れの一部停止で4兆円(4)日本銀行納付金などその他の税外収入1兆円――の4項目となる。

 面白いお話の5兆円分はさておくとしても、民主党としても10兆円の埋蔵金が前提になっているなか、それをマニフェストを台無しにしてまで切り崩せないというのは不可解だ。おそらく、12月3日時点での鳩山首相の念頭にあったのは、埋蔵金から工面だったのではないか。
 それが当面不可能になったのは 財務省とのアコードの不在を意味しているだろう。あるいは、財務省のグリップが小沢氏を介して影響したのではないか。だとすれば、このどたばたのすべてのシナリオは財務省が握っていたということになる。

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2009.12.21

本当は怖い「コペンハーゲン協定」の留意

 デンマークのコペンハーゲンで開かれた「国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議」通称、COP15は失敗に終わった。いや何をもって成功とし、何をもって失敗とするかが明確でなければ、およそ失敗も成功もないが、さて、何が成功と想定されていたか。
 それは、2012年で期限が切れることになっていた京都議定書以降の新議定書の合意だったはずだ。その点から見れば、明白な失敗だった。今回の結果は、"The conference decides to take note of the Copenhagen Accord of December 18, 2009(本会議は、2009年12月18日のコペンハーゲン協定に留意すると決定した)"(参照)というものだった。留意とは「コペンハーゲン協定というのがあったよね」ということ。それだけの結果だったかに見える。何の合意も決定されなかったし、なにも合意は承認されなかった。承認されたのは、「留意(take note)」ということだった。しかし…。
 「留意(take note)」とは何か? 国連が出している会議のガイドライン「Intergovernmental Negotiations and Decision Making at the United Nations:A Guide(国連における国際間交渉と意志決定:ガイド」(参照)が参考になる。


Verbs determine different levels of commitment to an issue or action, and when delegates disagree with a proposal but sense they won’t be able to eliminate it, they often counter by watering down the verbs. Such verbs include: endorse, decide, welcome, call upon, invite, encourage, recognize, acknowledge, reaffirm, express concern, take note with appreciation, and take note.

議題や活動への関与レベルの差異は動詞表現で決まる。代表者たちが提案に反対してもそれを排除できないと判断するときには、しばしば動詞表現で緩和する。このような用途の動詞表現には次のものがある。endorse, decide, welcome, call upon, invite, encourage, recognize, acknowledge, reaffirm, express concern, take note with appreciation, and take note.


 国連の議論で合意が形成できないものの、なんとか決裂を避けるために、妥協的な表現が階梯的に模索されるのだが、その段階の最低が、"take note(留意する)"である。「もうダメダメな話だけでそこは提案者の面子もあるかもしれないな、しゃーないつぶせない」という最低線が"take note(留意する)"であり、それがCOP15の結果だった。
 「ダメすぎだろ、普通に考えて」なので、ニューヨークタイムズ(NYT)もワシントン・ポスト(WP)もそこに着目して報道していた。

NYT: U.N. Climate Talks ‘Take Note’ of Accord Backed by U.S.参照
The chairman of the climate treaty talks declared that the parties would “take note” of the document, named the Copenhagen Accord, leaving open the question of whether this effort to curb greenhouse gases from the world’s major emitters would gain the full support of the 193 countries bound by the original, and largely failed, 1992 Framework Convention on Climate Change.

気候条約会議議長は、部会としてコペンハーゲン協定と呼ばれる文書に留意しうると宣言したものの、世界の主要国による温室効果ガス削減努力が、193か国の十分な支援が得られるか疑問を残した。この193か国は大半は失敗に帰したが原案の1992年気候変動会議の枠組にある。



WP: Delegates 'take note' of brokered agreement参照
Negotiators here chose to "take note" of a U.S.-brokered agreement on climate change Saturday morning, after being unable to get a consensus on formally adopting the accord as an official decision of the U.N. Framework Convention on Climate Change.

土曜日の朝になって、現地交渉は、米国調停による気候変動協定に留意する選択をした。この選択は、国連の気候変動会議の枠組みによる公式決定としては正式に本協定の採択が合意できないという状況後のことだった。


 ぐだぐだの妥協の産物をなんとか米国の面子で会議をしたという形だけに留めたにすぎなかった。
 ところで、やや余談めくが、この決定に対する日本の大手紙の反応が興味深かった。私が観測した範囲にすぎないが、その状況をジャーナリズム観測の意味からも記しておこう。
 朝日新聞は当初次の報道を流し、後修正したが、「コペンハーゲン協定」ではなく「コペンハーゲン合意」は訂正しなかった。

当初:COP15 政治合意文書を承認、削減義務づけ求めず
国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP15)は19日午前(日本時間19日午後)、主要国を中心にまとめた政治合意文書「コペンハーゲン合意」を承認した。これにより、地球温暖化被害を受ける途上国の支援策が動き出すことになる。


変更:COP15 合意文書を承認、採択見送り決裂回避
国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP15)は19日、2013年以降の地球温暖化対策の国際枠組みの骨格を示した政治合意文書「コペンハーゲン合意」を採択できず、承認にとどめて閉幕した。焦点だった各国の温室効果ガス排出の削減義務づけは、来年末に向けて改めて合意をめざすことになった。

 読売新聞は三転した。また朝日新聞と同じく「コペンハーゲン合意」とした。

1稿:COP15、「コペンハーゲン合意」を承認
国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)は、「コペンハーゲン合意」を承認した。


2稿:COP15、「コペンハーゲン合意」を承認
国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)は19日午前、全体会合を開き、主要二十数か国の非公式首脳会合で決めた「コペンハーゲン合意」について、議長が「合意に留意する」と宣言、拍手で承認した。


3稿:COP15、「コペンハーゲン合意」を承認
国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)は19日午前、全体会合を開き、主要二十数か国の非公式首脳会合で決めた「コペンハーゲン合意」について、議長が「合意に留意する」と提案し、承認された。

 毎日新聞も変更があった。

当初:COP15:政治合意を承認…途上国に自主目標
国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)は19日、政治合意「コペンハーゲン協定」を承認した。協定は18日に日米中インド、欧州諸国、ブラジルなどが提案、全体会合にはかられた。しかし、協議に参加できなかった途上国から「手続きが民主的でない」「温室効果ガス削減策が不十分」との不満が噴出し会議が紛糾。断続的な協議の末に、採択より拘束力の弱い承認の形をとった。


変更:COP15:政治合意は「留意する」として承認…閉幕
コペンハーゲンで開かれた国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)は19日、京都議定書に定めのない13年以降の温暖化対策の国際的枠組みの構築を目指す政治合意「コペンハーゲン協定」に「留意する」との決定を下し承認、閉幕した。先進国の温室効果ガス削減目標や議事手続きに一部途上国が反発し、正式採択は見送られた。

 産経、日経、NHKは概ね初報から正確だったようだ。

産経:コペンハーゲン協定「留意」の決議を採択
2013年以降の地球温暖化対策の国際的な枠組み(ポスト京都議定書)を話し合う国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)は19日、日米や中国、インドなど主要26カ国がまとめた「コペンハーゲン協定」について「留意する」との決議を採択した。世界の長期的な温室効果ガスの削減数値目標を見送るなど拘束力の薄い内容にとどまったものの、途上国の反発は強く、全体会合での採択を断念した。


日経:政治合意に「留意」 COP15全体会合、正式採択は見送り
第15回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP15)は19日、2013年以降の国際的な地球温暖化対策(ポスト京都議定書)の方向性を示す「コペンハーゲン合意」をまとめた。先進国は20年までの温暖化ガス排出削減の中期目標を来年1月末までに約束し、新興・途上国も経済発展の段階に応じて削減計画を作成する。ただ一部の途上国の反対で正式採択を見送り、「合意に留意する」との文書を採択するにとどめた。


NHK:COP15 合意案留意を決定
温暖化対策の新たな枠組みを話し合う国連の会議、COP15は、およそ190の国と地域のすべてが参加する全体会合で、「コペンハーゲン合意」と題する合意案について「留意すること」を決定しました。これについて、日本政府筋は政治合意がなされたとしています。

 報道の質としては、合意ではない「コペンハーゲン合意」の訳語が気になるものの、日本政府の立場としてのみ「政治合意がなされた」を特記したNHKが優れているだろう。朝日および読売については、日本政府筋の評価と事実の報道の混乱の余波が続いた。翌日19日は大手紙社説はすべてこの問題を扱ったが、報道視点は混乱したままになっていたものが目立った。

朝日新聞社説:「COP15閉幕―来年決着へ再起動急げ」参照
 コペンハーゲンで開かれた国連の気候変動枠組み条約締約国会議(COP15)は、決裂寸前の土壇場で主要国が何とか政治合意をまとめた。全締約国がこれに「留意」することで一致したが、温室効果ガスの排出削減をはじめ重大な懸案を来年に持ち越した。

 朝日新聞社説の「政治合意をまとめた」は認識が間違っていると言ってよいだろう。

読売新聞社説:COP15 懸案先送りで決裂を回避した参照
 決裂を回避できたことが、国連気候変動枠組み条約の第15回締約国会議(COP15)が残した唯一の成果といえよう。
 COP15は主要国がまとめた政治合意文書である「コペンハーゲン合意」を承認した。

 読売新聞社説は朝日新聞社説よりも誤認の度合いが深い。次の部分も同様である。

 合意には、「先進国は20年の削減目標を来年1月31日までに合意の別表に記載する」という内容が盛り込まれた。この数値が次期枠組みで各国が負う削減義務となる可能性が高い。
 日本が不利な削減義務を負った京都議定書を教訓に、次期枠組みは、公平なものにしなくてはならない。米国などより大幅に厳しい「90年比25%減」を記載するのか。日本政府が難しい判断を迫られるのは、これからである。

 読売新聞社説執筆者は、もしかすると京都議定書以降の次期枠組みまでの不在が何を意味するのか認識がないのかもしれない。後で触れるが、どうやら今回のCOP15の失敗で、京都議定書はそのまま生き残った可能性がある。
 毎日新聞社説は、朝日・読売よりもきちんと今回の失敗を明確に打ち出している。

毎日新聞社説:国連気候変動会議 危うい「義務なき協定」参照
地球の気候を安定化させ、悪影響を防ぐために、世界がどこまで歩み寄れるか。100カ国を超える各国首脳が集い温暖化防止に向け合意を探った会議は、「コペンハーゲン協定」を採択できずに終わった。

 産経新聞社説は奇妙なことに自社報道とずれた内容になっていた。新聞社としての内部連携がうまくいっていないのだろうか。

産経新聞:COP政治合意 温暖化の放置は不可解だ参照
 世界の閣僚と約100カ国の首脳がコペンハーゲンに集まった国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)は、迷走の末に全体会合で「コペンハーゲン合意」をまとめた。

 日経新聞社説は、他大手紙と事なり京都議定書の問題を明確に描いていて秀逸だった。

日経新聞社説:弱い約束を確かな排出削減合意に育てよ参照
京都議定書の枠組みも残る。京都議定書とその後の新議定書を融合させるのか、2本立てになるのか、決着は来年の会議に持ち越された。新議定書の採択を目指して日米欧にさらに粘り強い交渉を求めたい。

 今回のCOP15で日本にとって重要なことは、鳩山政権が主張する「政治合意がなされた」ではなく、新議定書が採択されなかったことで、京都議定書はどういう扱いになるかということだ。日経新聞社説では、(1)京都議定書がそのまま残る、(2)京都議定書とその後の新議定書を融合させる、の関係を問うているが、いずれにせよ、京都議定書の基本的な枠組みが残ってしまったと見てよい。
 この問題を整理するために、鳩山政権が主張する「政治合意がなされた」という「コペンハーゲン協定」の意味を京都議定書との関係でまとめておくほうがよいだろ。ロイター「FACTBOX - What was agreed and left unfinished in U.N. climate deal」(参照)がわかりやすい。翻訳された報道(参照)もあるが試訳を添えておく。

COPENHAGEN ACCORD
(コペンハーゲン協定)

1. A NEW TREATY?
(新規条約なのか?)

* No decision on whether to agree a legally binding successor to the Kyoto Protocol.
(京都議定書を継承する、法的に拘束力のある合意についてはなんら決定事項は存在していない。)

* No agreement on whether to sign one new treaty replacing Kyoto, or two treaties.
(京都議定書に代わる新規協定を締結するか、京都議定書に加えて新たな協定を結ぶかについては、なんら合意事項は存在していない。)

* Kyoto limits the emissions of nearly 40 richer countries from 2008-2012, but the United States never ratified the Protocol and it does not bind the emissions of developing nations.
(京都議定書は先進約40か国について2008年から2012年の排出上限が規定されているが、米国の批准は存在しない上、発展途上国の排出量についての拘束力はない。)

* Rich nations prefer one new treaty including all countries; developing countries want to extend and sharpen rich nation commitments under Kyoto, and add a separate deal binding the United States and supporting action by poorer countries.
(先進諸国はすべての国を含む新規協定を支持するが、発展途上国は京都議定書に従った先進国の活動目標の延長と強化を求めることに加え、米国の拘束と、貧困国支援活動についての特別規定を求めている。)

* No agreement on whether a new pact would run from 2013-2017 or 2013-2020, or any another time frame.
(新規協定の期間を2013年から2017年、または2013年から2020年、あるいはそれ以外の期間とするかについてもなんら合意は存在しない。


 意欲的な「鳩山イニシアティブ」はCOP15では、潘基文議長から日本単独でやってみてはどうかという推奨があったものの、全体としてはほぼ無視された状態だったと言ってよいだろう。日本にとっての問題は京都議定書の扱いに絞られる。
 京都議定書では、温室効果ガスの削減は日本とEUにのみ課せられ、日本は2008年から2012年の間で、8パーセント削減が義務づけられている。実は、日本とEUだけという限定条件を覆すブラフとして「鳩山イニシアティブ」がEUからも評価されてきたし、それなりにブラフでなかったわけでもなかった。が、ここに至り、はったりは終わり、日本だけ屋根に登ったものの梯子は消えた状態になった(EUの削減は日本ほど困難ではなさそう)。
 日本の京都議定書の進捗だが、2007年時点で9パーセント増加している。この時点で現状から15パーセント削減の必要性が生じた。来年から2年間という短期間で鳩山政権はいよいよ本気で温室効果ガス削減に取り組まないとさらなる罰則が科せられることにる。幸い、2008年度は1990年度比で1.9%増と微増に抑えられ、加えて、森林吸収分と政府が海外の排出枠を購入が進み、初年度の目標達成に近づいた。ただし、昨年度は国際金融ショックによる産業低迷の影響にもよる産業部門の10.4%減の影響も大かった(参照)。

追記
 コメント欄で昨年度の進捗のご指摘いただいた。この部分は確かに反映させておくべき事項なので、エントリにその情報を加え、否定的な見通しを改めた。

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2009.12.19

暴露されたイラン核兵器開発疑惑に関連して

 鳩山政権のスラップスティックにマスメディアの関心が向いているせいか、外信が相対的に少なくなったように見える。国内報道がないわけではないが、イラン情勢に変化があるので簡単にメモしておきたい。
 イラン情勢について昨今の大手紙の社説としては今朝の読売新聞「イラン核増設 なぜ国際的な孤立を選ぶのか」(参照)が、それなりに触れていた。イランの新設ウラン濃縮施設に対して米国オバマ政権が年明け早々に強い制裁に乗り出すという話が軸になっている。


 イラン政府は、新たに国内10か所にウラン濃縮施設を建設するという。うち5施設について、サレヒ副大統領兼原子力庁長官は、「2~3か月以内に着工する」と語った。
 国際社会が濃縮停止を求めているにもかかわらず、である。
 それだけではない。低濃縮ウランを国外で燃料化する計画を、拒否する姿勢も示している。
 計画が履行されれば、イラン国内のウラン備蓄量が減り、軍事転用に歯止めがかかる。オバマ米大統領は「信頼醸成の一歩」になると期待していた。
 イランが挑戦的な態度に出たのは、建設中の国内2番目の濃縮施設に対して、国際原子力機関(IAEA)が即時建設中止を求める決議を採択した直後だった。
 専門家によれば、イランには10施設も増設する技術も部品もないという。増設を公言したのは単なる意趣返しの性格が強い。
 オバマ政権はすでに、「イランは孤立の道を選んだ」として、来年1月上旬にも、ガソリンの禁輸など対イラン追加制裁を実現するため、国連安全保障理事会のメンバーに働きかけている。追加制裁は当然の選択だろう。

 日本の大手紙社説にありがちな論旨不明ではないものの、ウラン濃縮施設がIAEA決議に違反するから制裁につながるようにしか読めない。間違いでもないし、読売新聞社でも別途報道しているが、この間に重要な展開があった。イランの核兵器開発が暴露されたことだ。14日付け読売新聞「イラン、核起爆装置開発着手…英紙が機密文書入手」(参照)より。タイムス紙の孫引きなのであえて全文引用する。

【ロンドン=鶴原徹也】英紙ザ・タイムズ(14日付)は、イランが2007年から4か年計画で核爆弾の起爆装置の開発にあたっていることを示唆する機密文書を入手した、と報じた。
 入手先は明らかにされていないが、ペルシャ語の機密文書には、欧米が「イランの核兵器開発責任者」と見なすモフゼン・ファフリザデ氏の署名がある。英国を含む複数の欧米諸国の情報機関や、国際原子力機関(IAEA)もこの文書を入手しているという。
 文書は中性子起爆装置開発の4か年計画に関するもので、07年初頭に作成された模様だという。同紙は、中性子起爆装置には核爆弾以外の使途はなく、イランが秘密裏に進める核兵器開発の「有力な証拠」だとしている。
(2009年12月14日22時34分 読売新聞)

 時事通信のほうが詳しい。同日の時事「イランが核兵器用の機材開発=西側・IAEAも資料入手-英紙」(参照)より。

 専門家によれば、同装置を用いるウラン重水素化物は、1998年のパキスタンの核実験で使われ、核兵器以外での用途はあり得ないとされる。
 タイムズ紙によると、既に英国を含む複数の西側情報当局のほか、国際原子力機関(IAEA)高官もこの資料を入手している。これに関連して、英デーリー・テレグラフ紙(電子版)は10日、イランが台湾の企業を経由して、核開発に必要な精密機器を輸入していると報じた。(2009/12/14-17:56)

 参照されたタイムズ紙の記事には、「Secret document exposes Iran’s nuclear trigger」(参照)、「Discovery of UD3 raises fears over Iran’s nuclear intentions」(参照)および「Leaked memo identifies man at head of Iran’s nuclear programme」(参照)がある。資料自体も「Iran's secret nuclear trigger: translation of full document」(参照)として公開されている。他の報道機関の動向からも察して、ガセネタではなさそうだ。もっとも、なぜこの時期にタイムズ紙でという疑問は残る。また、テレグラフ紙の報道は「Iran seeks nuclear parts through Taiwan」(参照)で台湾企業の関与を報じている。中国の関与については現時点ではなんともいえないという状態のようだ。
 14日のタイムズ紙の暴露によって、IAEAを最終的には通すことになるが、事実上、ウラン濃縮の平和利用といったイラン側の話が嘘であったということなるだろう。ではそこで米国主導の制裁なのかだが、微妙なところだ。
 というのは、日本国内では報じられていないようだが、タイムズ「Secret document exposes Iran’s nuclear trigger」(参照)にあるマーク・フィツパトリック(Mark Fitzpatrick)氏のコメントが微妙な響きを持っているからだ。

Mark Fitzpatrick, senior fellow for non-proliferation at the International Institute for Strategic Studies in London, said: “The most shattering conclusion is that, if this was an effort that began in 2007, it could be a casus belli. If Iran is working on weapons, it means there is no diplomatic solution.”

ロンドンの国際戦略問題研究所(IISS:the International Institute for Strategic Studies)の核拡散防止分野マーク・フィツパトリック(Mark Fitzpatrick)上級研究員は、「今回の暴露のもっとも驚愕すべき結論は、イランの核兵器開発の努力が2007年に開始されたものなら、それは、開戦理由(casus belli)になりうることだ。もし、イランが核兵器を開発してるなら、その意味は、もはや外交的解決はないということだ」と述べている。


 ここが現状のイラン問題の最大の焦点で、今回のイラン核兵器開発計画の暴露は、戦争、つまりイランへの攻撃を正当化しうるということだ。つまり、イスラエルによるイラン攻撃の正当化の前段を意味しているという点だ。この点はAP「Israeli says some time left for diplomacy on Iran」(参照)が呼応している。
 すぐに思い浮かぶ裏スジは、イランを空爆したいイスラエルに戦争への正当化理由を与えるためにこのような暴露を誘導したということだろう。だが、私は、逆ではないかと見ている。イスラエルの暴発を事前に阻止すべく、イランへの制裁を空転さぜずに米国主導下で国際連携を図ろうとしているのではないだろうか。つまり、ここでようやく、読売新聞社説のような国際連携のスジにつながってくる。
 この間、イラン側でも挑発がエスカレートしている。イランは16日、イスラエルを射程に収める最新型の中距離弾道ミサイルの発射した。ミサイルの詳細が非常に興味深い。産経新聞「イランのミサイル発射で高まる緊張 米政府が非難、年内に追加制裁も」(参照)より。

 ロイター通信によると、イランが発射したのは2段式の中距離弾道ミサイル「セジル2」の改良型。イラン側は設定した目標に命中させたと発表している。同ミサイルの射程は2千キロ以上とみられ、イスラエルやアラブ各国、欧州の一部を射程に収める。
 北朝鮮の中距離ミサイル「ノドン」をモデルに開発したとみられる「シャハブ3」が液体燃料を使用しているのに対して、「セジル2」は固体燃料を使っている。固体燃料の場合、液体燃料のように発射前に注入する必要がなく、攻撃を受ける可能性が低くなる利点がある。イスラエルによるイラン国内の核施設への先制攻撃を防ぐための示威行為ともみられている。

 イランの核搭載ミサイルは北朝鮮が関与しているが、その関連の暴露も同じ文脈で出て来ている。産経新聞「テポドン2の部品か 押収武器はイラン向けの可能性」(参照)より。

タイの首都バンコクのドンムアン空港で、北朝鮮から到着したグルジア国籍の貨物機、イリューシンIL76から大量の兵器が見つかった事件で、タイ政府高官は17日、積み荷の一部が北朝鮮の長距離弾道ミサイル「テポドン2」の部品で、イランに運ばれる途中だったとの見方を明らかにした。ロイター通信が伝えた。

 この暴露もとりわけ陰謀論ということでもなく、英米側のこの文脈でのリークによるものだろう。
 イラン危機は高まったのかということが気になるが、まだまだ年末年始にかけて騒ぎは続くだろうが、私は逆にとりえず鎮火の方向に向かっていると見ている。イスラエルさえ抑えこめば大きな問題にはならないし、ロシアや中国もここに至ってイランを強く援護しづらいのではないか。
 この点で良識的なのはフィナンシャルタイムズ17日社説「Dealing with Iran(イランを扱う)」(参照)だ。

The guiding principles in dealing with Iran are: first, forge a phalanx of unity at international level; and second, make sure your policy discriminates between the regime and Iranian citizens – whose tolerance of the Islamic Republic has reached breaking point after last summer’s imposed election result and its bloody aftermath. Do the new sanctions pass either test?

イランを扱う際にガイドラインとなる原理はこうだ。第一に、国際協調の上に機動部隊を創設すること。第二に、イランの政体と市民を政策上区別すること。イラン共和国の市民は、昨年夏には強制された選挙結果と流血の余波に忍耐強く対応している。さて、新規の制裁はこの2点を満たすほどのもだろうか。


 フィナンシャルタイムズ社説はこの先強い制裁に疑問を呈している。確かにフィナンシャルタイムズの言うように、あまり強行な制裁より、国際協調のもと、イラン市民のありかたを見守ることが重要になるだろうし、日本としては、北朝鮮の問題と関連しながら、中国とともにイランの軟化、つまり、IAEA管理下に置く方向に進めるべきだろう。現民主党政権にそれだけの力量と見識があるかは、なんとも言い難いが。

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2009.12.16

習近平副主席訪日の天皇特例会見のこと

 この話題は微妙であることと裏がよく読めないこともあって、ブログでの言及は控えていたが、その後世間の話題は膨らみ、時代の記憶に残る事件にもなったので、少し記しておこう。
 前提となる「1か月ルール」だが、1995年頃、現鳩山首相が村山政権の連立与党代表時に、天皇陛下と外国要人との会見は1か月前までに文書で正式申請する慣例として成立した。経緯から考えても当然だが、現鳩山首相はこのルールの策定側におり、その意義も熟知していた。そのうえで踏みにじったわけである。いつもの鳩山ブーメランよりたちが悪い。
 今回、習近平副主席訪日の会見申請が出されたのは11月26日で、外務省は「1か月ルール」に従い、中国側に会見はできない旨回答した。しかし中国側は納得せず、別ルートでの天皇特例会見を求めた。そのルートの一つとして、民主党小沢一郎幹事長が鳩山首相に特別会見実現を働きかけた。鳩山首相は「1か月ルール」を知りながらこれを曲げ、平野博文官房長官に実現検討を指示し、12月7日、宮内庁羽毛田信吾長官に特別の要請をした。
 羽毛田長官は天皇陛下のご体調を含め「1か月ルール」の観点から会見を断ったが、12月10日、再度同ルートから鳩山首相の指示ということで話が蒸し返され、異例ではあるが曲げて羽毛田長官は天皇陛下に会見をお願いし、特例会見の実現となった。
 羽毛田長官がことの経緯を秘していれば、国民が鳩山首相による「1か月ルール」無視のごり押しを知ることはなかっただろう。しかし羽毛田長官は、二度とこのような異例の対処がないよう事態を公言し、社会的な波紋を投げかけた。
 さらに民主党の不手際の傷を広げたのが14日の小沢民主党幹事長の記者会見である。小沢氏は「1か月ルール」無視は憲法上問題はないと無茶な議論を繰り出し、異論を述べるなら羽毛田長官は辞任せよと恫喝した。ここに至り、多くの国民から小沢氏と民主党への反感が高まった。加えて、永田メール事件でガセネタの怖さに懲りたのではないかと思われていた前原誠司国交相がこりゃまたお調子者を買って出て、天皇会見要請したのは自民党の元首相だと吹いてみた。かくして話がブログ論壇のようなグダグダになってしまった。
 その後の報道による、特例会見の1週前7日に中曽根康弘元首相が首相官邸を訪れていることから、中曽根氏が習近平副主席訪日の天皇特例会見を要請した自民党の元首相はではないかと見られている。しかし、話の流れからすると、中曽根氏による要請があったとしても、その結果は「1か月ルール」で引き下がったと見てよさそうなのは、10日に鳩山・平野ルートのごり押しがあるからだ。前原氏はこの手の馬鹿騒ぎが懲りないのだろうかと問うてみて、そうえばJAL問題もお調子者発言でぐだぐだにしてしまったなと思い返す。
 今回の天皇特例会見の是非は、天皇の政治的な意味合いを理解している人なら、なにも杓子定規に「1か月ルール」と言い出さずとも理解できるだろう。小沢氏は「天皇陛下の国事行為は内閣の助言と承認で行われる」から天皇の政治利用にはあたらないとしたが、天皇の外国要人会見は国事行為そのものではなく、それに準じた「公的行為」である。また、公的行為であっても内閣が責任持てばよいのだという屁理屈もあるが、そんな話を進めていけば、天皇と政権の関係は危うくなる。むしろ「1か月ルール」はその常識から出た妥当な線引きであった。また、小沢氏は「天皇陛下ご自身に聞いてみたら、会いましょうと必ずおっしゃると思う」とも語ったが、2.26事件の亡霊にでも取り憑かれたのであろう。桑原桑原。
 以上が報道から見える部分であり、現下の民主党に昭和史から学ぶ知恵も常識も期待するのは酷というものかなという感想で終わりそうだが、背景はこれで十分わかったわけではない。ネタに飢えているブロガーやブログ読みならずとも疑問は沸く。
 なぜ羽毛田長官は黙っていなかったのだろうか。彼の公言が小沢氏の理性を吹っ飛ばせることは想定できたはずだし、結果的に中国に泥とまではいえないが習近平副主席にクリームパイくらいは投げつけたことになった。中国としても形は得たものの不愉快だろう。羽毛田長官が想定していなかったと考えるのはナイーブすぎる。
 中国側を考えると、そもそもなぜそこまでして、習近平副主席の天皇特例会見を求めたのだろうか。これにはいちおうマスメディア的な解答は与えられている。1998年に胡錦濤現国家主席が副主席として来日した際も天皇陛下と会見していることから、習近平副主席の国家主席就任の段取りとして見られていたということだ。しかし、そうだとすると、ゴリ押ししてまでもその段取りを習氏に踏ませる中国側のお家の事情というものがあったことになる。
 もう一つの疑問は、山口一臣の「ダメだめ編集長日記」「天皇の「政治利用」は霞が関のトリックだ」(参照)の話だ。山口氏の話では、習副主席の来日を打診されたのは前政権下の2009年の初めであり、最終的に中国側から習副主席の来日を伝えてきたのは10月としている。その時期なら十分「1か月ルール」に間に合うはずである。そこで山口氏は、外務省の怠慢で失敗したのを「政治利用問題」にすり替えて責任回避したと推理している。つまり、羽毛田長官の公言理由もそこに見ている。
 私自身は、山口氏の言われる報道を習近平副主席訪日スケジュールとして確認していないのだが、スケジュールはそれに近いかもしれないと思う。だが、読みは山口氏とは全く異なる。という以前に、山口氏は習近平副主席の中国でのご事情を読みに加えていないので、正確な推測ができていないと私は思う。
 今回の習近平副主席を巡る問題で最大の前提となるのは、9月15日から18日に開催された中国共産党の中央委員会総会(第17期4中総会)である。
 この共産党総会での最大の注目点は、2012年に国家主席を引退する現胡錦涛国家主席の後継者問題であり、2007年に小沢一郎氏と懇意の李克強より一段階上位に上がった習近平国家副主席(参照)が中央軍事委員会の副主席に選ばれるかどうかだった。ここで習氏が選出されれば、10年前の胡錦涛氏と同じ経路を取ることが確実視される。逆にここで選出されなければどうか。加藤青延解説委員は、「もし今回万一、習近平さんが、ポスト胡錦涛の地位固めをしない場合、3年後の党大会で、複数の候補をたてて後継者を選ぶということへの含みも残されるわけです」(参照)と指摘していたが、3年後の党大会に中国の権力後継者問題が延期されることになる。これはまた単なる後継者問題というより、権力の委譲がどのようになるのかを中国国内および世界に問う改革そのものでもあった。
 結果はどうだったか。習近平国家副主席は選出されなかった。
 その意味で、習近平国家副主席は現現胡錦涛国家主席の国内での順当な後継の階梯を上っていないどころか、より厳しい選択の視線に晒されていることは明らかで、当然、今回の訪日天皇特例会見もその文脈から読み解かなくてはならない。
 なぜ習近平国家副主席は中央委員会総会で選出されなかったのか。
 そもそも2007年に習近平氏が李克強より一段階上位に回ったのは、中国共産主義青年団(共青団)の背景を共有することで李克強氏を推す胡錦濤国家主席のグループと、習氏を推す江沢民前国家主席を含む上海グループとの確執で胡錦濤側が雪辱した結果であった。この対立は、共青団と太子党(二世政治家)の対立でもある。いずれにせよ、習近平氏を国家主席に立てるための最大の条件は、共青団に対して弾圧するか宥和するかにかかっている。
 単純に考えれば今回の習近平国家副主席の非選出の理由はなんらかの逆境であったと見ることができる。そしてその逆境を許した理由はなにか。ウイグル暴動だった。
 7月イタリアのラクイラで開催された主要国首脳会議に胡錦濤国家主席が出席し中国を不在にした。内政を習近平国家副主席に任せていたこの時期にウイグル暴動(参照)が発生した。担当の権力者に責任が問われるのは万国共通だが、こうした場合、中国の政治論理では権力取得の階梯で重要な汚点になる。中国人の人生はいかに減点を避けるかにかかっている。
 習近平氏の躓きがウイグル暴動の始末にあったことは明白だ。この時期、国際的な面子を潰してまで胡錦濤国家主席がイタリアから中国に慌てて帰国していることからすると、習近平氏の下手打ちは相当に深刻で、さらに何らかの国内事情があったとも推測される。いずれにせよ、この汚点を濯がずしてのうのうと中央委員会総会で選出はありえないだろう。
 さてパズルを解く基本は時系列だ。
 9月下旬の時点で、中国国内的には習近平国家副主席が胡錦濤国家主席の後継者とは目されなくなっていた。では、10月に習近平国家副主席が日本訪問をした場合、天皇と会見したとして、後継者の文脈が生きてくるだろうか。時間的に相当に無理があるだろう。日本の外務省側でも、地位の定まらない状態に相当に警戒するだろう。
 むしろ習近平国家副主席の訪日打診の遅滞は、習氏の微妙な地位に対する日中間の躊躇があったと想定してよいだろうし、この間、日本では不毛な政権交代もあり、この政権の安定について中国側も確信が持てないでいた。
 しかもそこに李克強と懇意な関係を築いてきた小沢氏の、事実上朝貢が中国にやってくる。
 元来、中国において朝貢とは化外の国が皇帝の徳を慕ってやってくるという演出をもって中国国内への権威のディスプレイを行う行儀である。しかもこの小沢朝貢団は共青団・胡錦濤の背景で李克強氏の華麗な演出となり、習近平側の面子を潰すことになる。それでいいじゃないかという状況と、それではまずいという状況があり、今回は後者だった。
 現状の中国の最高権力者の後継問題が複雑なのは、おそらく後継者と目される習近平氏と李克強氏が単純な対立関係にあることではないことにある。むしろこの二人が、中国国家内の大きな対立を統合するように、現在の胡錦濤・温家宝路線のようなペアを組むことが求められているし、二人も理解している。習氏と李氏も賢い人だから、時の状況に従って上下を割り振るだろう。
 さて、私の読みはこうだ。
 胡錦濤・李克強側が、太子党や上海閥に恩を売るかたちで、習近平国家副主席の訪日と、事実上の後継者問題への暫定的な道筋を付けたのだろう。小沢氏も恩を売る側に回った。それでペイされるものは何か。中国国内的には、胡錦濤の院政もあるだろうが、共産党政権樹立60周年でまたぞろ頭をもたげてきた江沢民氏の本格的なご引退であろう。小沢氏の分け前は何になるのかよくわからない。あまり考えたくない感じだが、今回の日本国内のどたばたからうっすら見えてくるものがないわけでもなさそうだ。

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2009.12.15

日本国憲法の平和主義とオバマ米大統領の平和思想

 オバマ米大統領のノーベル平和賞授賞式演説について、日本のマスコミでもブログの世界でもそれほど話題になっていない印象がある。私はダルフールのジェノサイドを「ジェノサイド」と明確に言明し、その犯罪責任を曖昧にしないこの演説に感銘を受けた。同時に、彼の平和思想の起源と、日本国憲法の平和主義の類似性について関心を持った。思いが拡散してしまう前にメモ書きをしておきたい。
 オバマ米大統領のノーベル平和賞授賞式演説だが、その主要テーマは何であろうか? この演説をオバマ米大統領の平和主義と呼んでよいだろうか? その前提となる平和主義とは何か? いろいろと曖昧な問題が複数立ち上がる。そもそも平和主義という概念が成立するのか? 成立すると見てよい。その場合、コアとなる概念は、暴力・武力放棄による紛争・対立の解決となるように思われる。
 この時点でまた疑問が二点浮かぶ。武力の放棄は平和主義の本質のなすものだろうか? 同等の本質を持つ平和学との対比はどうなるのか? 
 平和学者高柳先男氏が「戦争を知るための平和入門」(参照)で一般向けに解説した「平和学」で強調されているのは、いわゆる平和主義とは異なったものだった。あえて単純にいえば、国家間の戦争または地域紛争などの暴力を発現させないための仕組みや計画(戦略)として妥当なあり方を模索する知的な営みだった。ゲーム理論なども応用される。その意味では、目的が同じであっても、平和を求める平和学は平和主義とは異なる。
 明白なことだが、オバマ米大統領は軍事力行使を否定していない。その時点ですでに平和主義ではないとも言えるかもしれない。また、彼の演説の実質を占めているのは、平和を可能にする三つの要件であり、それは平和を実現する手立てとして位置づけられていて、平和学にやや似ている。だが、平和学と異なるのは倫理的な課題が問われていることだ。
 平和主義でも、平和学でもないなら、では、オバマ米大統領演説の主題はなんだったのだろうか?
 回りくどい言い方になるのだが、あの演説の最も重要な概念は、"Just war"であった。
 共同通信はこれを「大義のある戦争」、朝日新聞は「正しい戦争」とそれぞれ訳していた。字引を見ると「正義の戦い」ともある。この3つの訳語の日本語の意味合いはそれぞれ異なる。「大義ある戦争」は戦争を起こす理由としての正義が問われている。「正しい戦争」は、どちらかといえばルール概念だろう。「正義の戦い」というのは、その戦いよって正義を決するという響きがある。どれが間違いというものでもない。もちろん訳語としては朝日新聞は「正しい戦争」が定訳語だろう。
 "Just war"とは何か? これはラテン語の"Bellum justum"または"Jus ad bellum"の英語の定訳語である。ラテン語に起源があることは、この議論(正戦論とも呼ばれる)が、西欧の共通語としてのラテン語で議論されたということもあるが、ラテン語古典を背景に持つことは明白だろう。すぐに連想されるのはローマ法など、ローマ由来の哲学だが、これらと、ラテン語文化のおよび哲学を実質支えているカトリックの思想も関係してくる。この点は、ウィキペディアの解説が示唆的だ(参照)。


【ウィキペディア】
Just War theory is a doctrine of military ethics of Roman philosophical and Catholic origin[1][2] studied by moral theologians, ethicists and international policy makers which holds that a conflict can and ought to meet the criteria of philosophical, religious or political justice, provided it follows certain conditions.

"Just war"理論は、道徳神学者、倫理学者および国際政治家によって研究された、ローマ哲学およびカトリック教義に根を持つ軍事倫理の基本原則である。彼らは、紛争は、哲学的、宗教的および政治的な公正の基準にかなうものであるべきだとしている。その基準は以下の通りである。


 ローマ法からカトリックに引き継いだ倫理・神学的な背景が"Just war"の概念にある。具体的にはキケロとトマス・アクィナスを背景に持っているが、それらの議論の整合がオバマ演説の理解の直接的な補助線となるわけではないので詳細には立ち入らない。基本は、"Just war"理論では、倫理的な基準から戦争に「公正」が問われることだ。別の言い方をすれば、"Just war"の"Just"は、正義や大義というより、「公正」の概念であり、"Just war"とは、「公正なる戦争」ということだろう。
 また、"just"が"jury"とラテン語で同起源にあり、"Jus ad bellum (Justice to War)"の語感からも、「法の公正」や審判的な含みがある。個人的な印象だが、正戦論の議論の全体的な骨格は神義論(Theodicy)と同型なのではないか。神義論(Theodicy)のコアは「悪(evil)」の存在論であり、オバマ米大統領も今回の演説で「悪(evil)」の実在をドグマとしていることも連想した。
 「公正なる戦争」という視点で見ていくと、オバマ米大統領演説の主題はわかりやすくなる。まさに、「戦争の公正性はいかにあるべきか」がこの演説で問われていたからだ。
 ここで話を込み入らせることなるのだが、「戦争の公正性」と平和とはどのような関係があるのだろうか?
 この時点で言うのは拙速だが、私の印象では、「戦争の公正性が平和主義である」というのがオバマ米大統領の主張のように思える。だから平和学とも違う。「戦争の公正性が平和主義である」というのは、従来の平和主義とは異なる哲学でもある。
 そして、この哲学は、おそらく日本国憲法の平和主義と密接な関係を持つ哲学のようだ。
 話が不用意に複雑になるのを恐れるのだが、現代の米国において"Just war"の議論が強く意識されたのは冷戦であり、冷戦を色づけたのは核戦争であったことも興味深い。

【ウィキペディア】
The Just War theory is an authoritative Catholic Church teaching confirmed by the United States Catholic Bishops in their pastoral letter, The Challenge of Peace: God's Promise and Our Response, issued in 1983. More recently, the Catechism of the Catholic Church, in paragraph 2309, lists four strict conditions for "legitimate defense by military force":

「公正なる戦争」の理論は、米国カトリック司教区の司教書簡、1983年の「The Challenge of Peace: God's Promise and Our Response(平和の挑戦:神の約束と我々の使命)」によって成立した正統カトリック教会の教えである。近年では、公教要理2309にて4つの条件が「軍事力による正当防衛」として厳格に定められている。


 「The Challenge of Peace: God's Promise and Our Response」(参照PDF)は原文がネットで公開されているので、核問題の視点から読み直すと面白いだろう。
 その4条件だが、オバマ米大統領の議論とは直接は噛み合っていない。だが、オバマ米大統領の思想全体から見れば符帳もある。"Evil(悪)"として実際にこの文脈で議論されている核兵器の不使用であるからだ。
 "Just war"には、ラテン語文化、およびカトリック神学の色合いがあるが、"Just war"がすべてカトリック的な神学によるわけではなく、より一般化されてもいる。と同時に、冷戦のみがその現代的な背景でもない。そして、その一般化の過程では、"Just war"の西欧的な思索の系譜は、どこかの時点で、「神」からその代理店のような「人権」に置き換わり、また「悪」は「人権への罪責」に置き換わったようだ(このあたりの変遷は私にはよくわからない)。
 私が以上の文脈、つまり戦争への公正なる審判ということで想定しているのは、言うまでもなく、ニュルンベルク裁判と極東国際軍事裁判である。これらは国際軍事裁判であると同時に、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」を掲げており、そこからバックトラックするように「公正」の議論の追求によって、連合軍の戦争が「公正なる戦争」となった。
 同時に、この公正性を受け入れたかたちで日本国憲法が成立した。日本国憲法は一見、平和主義と見られている。しかし、こうした背景を背負っていていることから、それは本当に平和主義なのだろうかと問い直せる部分がある。
 話をオバマ演説の骨格に戻してみたい。
 彼は、実際上「戦争の公正性が平和主義である」という命題を持ち出した。そしてこれはナチスと大日本帝国を壊滅させた戦争の公正を保持している米国の歴史的連続性でもあった。
 この命題を裏打ちするのは裁かれるべき「悪」の存在である。悪を規定しているのは、人道への違反としての平和の侵害ではあるが、歴史という文脈でこの論理を見れば、必然的に米国の公正に対抗する者は「悪」であることになる。そこには直感的な疑念を持つ人も少ないだろうし、であるからこそ、正戦論、つまり「戦争の公正性」が声高に議論される背景がある。
 オバマ演説では、戦争を無くすこと、あるいは戦闘を回避するするのが平和ではなく、あくまで「戦争の公正性が平和主義である」としている。逆に言えば、平和とは「戦争の公正性」として問われる。
 彼は演説の本論として、平和実現の3つの方策を提唱する。これが実質的な「公正性」の要件をなすと見ていいだろう。
 第一は、軍事力に匹敵する効果を持つ代替の強調である。その代替は、諸国家の協力なしにはありえないともしている。だが、その代替とは何かは明示的には問われないかに見える。
 議論の表向きでは、軍事力の代替によって軍事力を極力回避することによって平和を見いだすということで、その点では「平和主義」にも「平和学」にも近い。だが、ここで問われているのは、やはり「公正」である。
 結論を先に言うと、この代替とは、日本国憲法の「high ideals」であるだろうし、ここでオバマ大統領が述べているのは、日本国憲法の次の箇所と同質だろう。

【日本国憲法】
We desire to occupy an honored place in an international society striving for the preservation of peace, and the banishment of tyranny and slavery, oppression and intolerance for all time from the earth.

私たちは、平和を維持し、独裁制度と奴隷制度、圧政と異説への不寛容に対して、この地上から払拭するための間断なき努力によって、国際社会で名誉ある位置にいたいと願う。


 それが日本国憲法の「high ideals」であり、これは、考えようには奇妙な論理なのだが、世界平和に貢献する制御機能を持つとされている。

【日本国憲法】
We, the Japanese people, desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship,

私たち日本人は常時平和を望み人間関係を制御する高い理想というものを深く意識する。


 つまり、高い理想が諸国間の対立を統制しうるという考えかたがある。これは暗黙に、戦争の代替としての含みがある。これが日本国憲法の平和主義または平和学的な主張の機能的な側面である。
 オバマ米大統領が常に高い理想を提示していることからも、おそらく日本国憲法の倫理機能性がオバマ米大統領のいう代替と等しいだろう。演説の文脈でいうなら、諸国が協力しうるのは、高い理想=公正に賛同して集結するからだ。
 日本国憲法ではこの「公正」は、"laws of political morality(政治的な道徳の規則)"として、こう表現されている。

【日本国憲法】
We believe that no nation is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal; and that obedience to such laws is incumbent upon all nations and justify their sovereign relationship with other nations.

私たちはこう信じている。自国だけに責任を持てば済むとする国家は存在しない。政治的な道徳の規則というのは(国を問わない)普遍的なものである。だからこのような規則を守ることは、どの国家にも課せられた義務であり、その義務は自国の主権を維持しようとする国家に課せられている。


 むしろ日本国憲法が、オバマ演説の第一原則を解説している。
 これらは素晴らしい思想ではあるが、疑問もある。日本国憲法が半世紀以上晒されてきた疑問であるが、本当に「高い理想が諸国間の対立を統制する」のだろうか?
 オバマ米大統領の演説では、「Sanctions must exact a real price.(制裁には実効性が伴わなければならない)」とし、あたかも理想を越えた部分で実行力を想定しているようにも受け取れる。だとすると、問題はそれが再び暴力に回帰する経路を隠し持っていることになる。しかし、戦争の代替を担保するものが結局戦争では矛盾するようにも見える。
 オバマ米大統領の平和思想の基点が「公正な戦争」に置いている以上、もちろん最終の制裁としての軍事オプションは排除されていない。しかし、おそらく彼の平和思想には、日本国憲法と同様に「人間関係を制御する高い理想」の機能を優先しているはずだ。それはどのような仕組みで機能するのだろうか?
 「公正な戦争」が発動する前段階では、極東国際軍事裁判で出された公正性としての人道への罪への処罰も含まれている。演説では、"consequences"とやや曖昧に表現されている部分だ。

【オバマ演説】
When there is genocide in Darfur, systematic rape in Congo, repression in Burma -- there must be consequences.

ダルフール・ジェノサイドや、コンゴでの組織的なレイプ、ビルマでの弾圧にも、報復が必要だ。


 戯画的に言えば、「公正な戦争」を要請する状況においては、戦争の実現よりも、悪を抜き出して処罰することが優先されていると言える。
 オバマの第一原則をまとめよう。それは、高い理想によって統制された国際社会は、その国家間の協力により、特定国家や地域から悪を抜き出し公正の下に処罰することで、できるだけ戦争を回避することが可能だが、最終手段としては放棄されない、となる。
 第二原則はどうか。これは第一の原則のほぼ必然的な帰結であり、平和が「戦争の公正性」であるなら、公正の質となるのは人権であるということだ。

【オバマ演説】
This brings me to a second point -- the nature of the peace that we seek. For peace is not merely the absence of visible conflict. Only a just peace based on the inherent rights and dignity of every individual can truly be lasting.

第二の話は第一からつながる。平和といってもどのような平和を私たちは求めているかだ。平和を求めることは単に、見える紛争をなくすことではない。誰もが生まれながらにして持つ人権と尊厳に基づく正当な平和こそが、真に永続的になりうる。


 人権は普遍的なもので、諸国の独自文化・歴史によっては否定されないともしている。このあたりからは、「戦争の公正性」はいかる異文化も超越するし、異文化が公正でなければ最終的には戦争で押しつぶすと取れないでもない。

【オバマ演説】
For some countries, the failure to uphold human rights is excused by the false suggestion that these are somehow Western principles, foreign to local cultures or stages of a nation's development.

国によっては、人権を擁護できないことについて、それは西洋の原則に過ぎないとか、文化によっては違和感があるとか、国家の発展段階によるのだとか弁解している。

So even as we respect the unique culture and traditions of different countries, America will always be a voice for those aspirations that are universal.

私たち米国民は、さまざまな国々の独自の文化や伝統を尊重しつつも、常に普遍的な価値を希求する声を上げつづける。


 人権が文化を越えて普遍であるという主張は日本国憲法でも前提となっていて、先にも触れたがここに該当する。

【日本国憲法】
no nation is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal;

自国だけに責任を持てば済むとする国家は存在せず、政治的な道徳の規則というのは(国を問わない)普遍的なものである。


 第三の原則は第二の原則の補足のように見えるが、日本国憲法と字句まで対応しつつ、そこを補足しているのが興味深い。

【オバマ演説】
Third, a just peace includes not only civil and political rights -- it must encompass economic security and opportunity. For true peace is not just freedom from fear, but freedom from want.

第三に、正当な平和に含まれているのは、市民権と参政権だけではない。経済的な安定と機会が含まれていなくてはならない。真の平和は恐怖からの自由だけではなく、貧困からの自由でもあるからだ。


 日本国憲法前文では、恐怖や貧困からの自由を平和とするに留まっている。

【日本国憲法】
We recognize that all peoples of the world have the right to live in the peace, free from fear and want.

世界のどの国民も平和で恐怖や貧困のない生活を過ごす権利がある、と私たちは理解している。


 しかし日本国憲法の本文では、恐怖や貧困からの自由以上に、市民権と参政権が規定されているのだから、実質的にはオバマ原則の通りになり、ここでも同型性がある。
 以上のようにオバマ平和思想の実質要件の三点をみるとわかるが、彼のノーベル平和賞授賞式演説は日本国憲法の平和主義とまったく同根であり、ただ立場を変えただけの鏡像であることがわかる。もっと単純に言えば、今回のオバマ演説は日本国憲法前文の主語を置き換えてもそう違和感のない関連主張になっている。
 ただし、オバマ米大統領の演説では、「公正なる戦争」への不参加は、日本国憲法9条を持ち出すまでもなく想定されていない。戦争放棄と理解される日本国憲法と比較して、この点はどうなのだろうか。

【日本国憲法】
we have determined to preserve our security and existence, trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world.

私たちの安全と生存の保持は、平和を愛する世界の国民の正義と信頼に委託しようと、私たちは決めた。


 日本国憲法では、その成立時には、灰燼に帰した国土から二度と軍隊が持てるほど豊かな国家は生まれないと見られていたのではないだろうか。まだ逆コースも進んでいなかった頃だ。だから、日本国憲法前文は「公正なる戦争」によって守られることだけを述べており、それが9条につながっているとも読める。その解釈なら日本国憲法は平和主義というより、オバマ米大統領の「公正なる戦争」を支援する弱小国家の規定だとも言える。それが戦後日本では、平和主義として理解されてきたのかもしれない。しかしその意味での平和主義は、かつて米国の「公正なる戦争」において「悪」として見られてきたことへの、対置された正義(平和が正義だ)としての申し立てではなかったか。敗戦による反米意識に支えられたものではなかった。
 日本国憲法前文に振り返ると、公正の法に対する"obedience(服従)"としての自由国家の連帯の義務が語られていることにも気がつく。

【日本国憲法】
obedience to such laws is incumbent upon all nations who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other nations.

このような規則に服従することは、どの国家にも課せられた義務であり、その義務は自国の主権を維持しようとする国家に課せられている、また、その義務は他国との関係で公正を実現しようとする国に課せられている。


 日本国憲法におけるこの公正の法に対する"obedience(服従)"は、「戦争の公正性が平和主義である」とするオバマ演説の次の部分と同質ではないだろうか。

【オバマ演説】
Inaction tears at our conscience and can lead to more costly intervention later. That's why all responsible nations must embrace the role that militaries with a clear mandate can play to keep the peace.

軍事行動を取らずにいることは、私たちの良心を苛まし、後になって犠牲の多い軍事介入に至らせる。だから責任ある諸国は、シビリアンコントロールの下にある軍隊が平和維持に寄与することを承認しなければならない。


 試訳ではあえて、"militaries with a clear mandate can play to keep the peace"を「シビリアンコントロールの下にある軍隊が平和維持に寄与する」と訳した。直訳すれば、「平和維持のために明確な委任を受けた軍隊」となる。
 おそらく日本国憲法の平和主義は、人道主義の高い理想の実現で諸国間が強調して「悪」を排斥するとともに、その最終的な裏付けとしての軍事力に対して、"a clear mandate (明確な委任)"を持っているだろう。これは、9条との関係でいうなら、日本国国権の発動としての戦争は放棄されても、国家間の公正性に委託される軍事力の運用は否定されていないのではないか。
 だとすれば、ここにおいてオバマ米大統領のノーベル平和賞授賞式演説が日本国憲法と同型であることの証明は終わる。

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2009.12.13

オバマ米大統領ノーベル平和賞受賞演説抜粋

 オバマ米大統領ノーベル平和賞受賞演説(参照)はすばらしかった。自分のメモとして要点部分を抜粋したあと、そういえばとブログ用に試訳を添えてみた。ネットを覗くと、朝日新聞(参照)と共同(参照)の訳があり、それらの訳文を見ると、ほぉと思うこともあったので列記しておきたい。

*  *  *  *

I face the world as it is, and cannot stand idle in the face of threats to the American people. For make no mistake: Evil does exist in the world. A non-violent movement could not have halted Hitler's armies. Negotiations cannot convince al Qaeda's leaders to lay down their arms. To say that force may sometimes be necessary is not a call to cynicism -- it is a recognition of history; the imperfections of man and the limits of reason.

【朝日新聞訳】
私はあるがままの世界に立ち向かっている。米国民への脅威に対して、手をこまねいてることはできない。間違ってはいけない。世界に邪悪は存在する。非暴力の運動では、ヒトラーの軍隊をとめることはできなかっただろう。交渉では、アルカイダの指導者たちに武器を置かせることはできない。武力行使がときに必要だと言うことは、冷笑的な態度をとることではない。それは人間の不完全さと、理性の限界という歴史を認めることだ。

【共同訳】
私は現実の世界に対峙(たいじ)し、米国民に向けられた脅威の前で手をこまねくわけにはいかない。誤解のないようにいえば、世界に悪は存在する。非暴力運動はヒトラーの軍隊を止められなかった。交渉では、アルカイダの指導者たちに武器を放棄させられない。時に武力が必要であるということは、皮肉ではない。人間の欠陥や理性の限界という歴史を認識することだ。

【試訳】
私は現実の世界に向き合っているから、米国民に脅威が向けられたとき何もせずにいることはできない。間違いなく、この世には悪が存在するのだ。非暴力の活動ではヒトラーの軍隊を止めることはできなかった。話し合いでアルカイダ指導者に武器を捨てさせることはできない。軍事力が必要な時もあると言うのは、皮肉を弄しているのではなく、歴史を認識することなのだ。それは人間が不完全な存在であり、理性には限界があるということだ。

I believe that force can be justified on humanitarian grounds, as it was in the Balkans, or in other places that have been scarred by war. Inaction tears at our conscience and can lead to more costly intervention later. That's why all responsible nations must embrace the role that militaries with a clear mandate can play to keep the peace.

【朝日新聞訳】
私は、バルカンや、戦争で傷ついた他の場所でそうであったように、人道的な見地からの武力行使は正当化できると信じる。行動をしないことは我々の良心を引き裂き、後により高くつく介入へとつながりうる。だからすべての責任ある国は、明確な任務を与えられた軍隊が平和を維持するために果たすことができる役割を認める必要がある。

【共同訳】
私は、バルカン諸国や、戦争に傷ついた他の地域でそうであったように、武力は人道的見地から正当化できると考えている。何もせずに手をこまねくことは良心の呵責(かしゃく)を生み、後により大きな犠牲を伴う介入が必要になる可能性がある。だからこそ、すべての責任ある国家は、平和維持において、明確な指令を受けた軍隊が果たし得る役割というものを認めなければならない。

【試訳】
私は人道的な見地から軍事力を正当化できると確信している。それはバルカン諸国や戦争の傷痕を残す地域に当てはまるようにだ。軍事行動を取らずにいることは、私たちの良心を苛まし、後になって犠牲の多い軍事介入に至らせる。だから責任ある諸国は、シビリアンコントロールの下にある軍隊が平和維持に寄与することを承認しなければならない。

I understand why war is not popular, but I also know this: The belief that peace is desirable is rarely enough to achieve it. Peace requires responsibility. Peace entails sacrifice. That's why NATO continues to be indispensable. That's why we must strengthen U.N. and regional peacekeeping, and not leave the task to a few countries. That's why we honor those who return home from peacekeeping and training abroad to Oslo and Rome; to Ottawa and Sydney; to Dhaka and Kigali -- we honor them not as makers of war, but of wagers -- but as wagers of peace.

【朝日新聞訳】
戦争がなぜ不人気なのかは分かっている。だが私は同時に、平和が望ましいという信念だけで平和が達成できることはめったにないことを知っている。平和には責任が必要だ。平和は犠牲を伴う。だからこそ、NATOは不可欠なのだ。だからこそ、我々は国連と地域の平和維持活動を強化せねばならないし、その役割を限られた国に任せてはいけない。だからこそ、我々はオスロやローマ、オタワやシドニー、ダッカやキガリへと、国外での平和維持活動や訓練から帰還した者をたたえるのだ。戦争を起こす者としてではなく、平和を請け負う人たちとしてたたえるのだ。

【共同訳】
私は、なぜ戦争が好まれないのか理解している。だが、同時に、平和を求める信条だけでは、平和を築き上げることはできないということも分かっている。平和には責任が不可欠だ。平和には犠牲が伴う。そうだからこそ、NATOが不可欠であるのだ。そうだからこそ、われわれは国連と地域の平和維持を強化しなければならない。いくつかの国だけにこの役割を委ねたままにしてはいけないのだ。
 だからこそ、われわれは国外での平和維持活動と訓練から、オスロとローマ、オタワとシドニー、ダッカやキガリへ、故郷へと戻った者たちをたたえるのだ。戦争を引き起こす者としてではなく、平和を請け負う者たちとしてたたえるのだ。

【試訳】
私は戦争が多くの人に好まれない理由を理解しているが、同時に平和を祈念するだけでは平和にならないことも理解している。平和には責任が伴うのだ。平和には必然的に犠牲が伴う。だから、冷戦後も北大西洋条約機構(NATO)の継続が必要なのだ。国連と地域平和維持活動を強化しなければならないのも同じ理由だし、特定の国だけにこの任務を任せきってはいけない。オスロからローマへ、オタワからシドニーへ、ダッカからキガリへと、平和維持活動と軍事演習で海外に駆り出されて帰還した兵士に私たちが敬意を払うのも同じ理由だ。彼らは紛争を引き起こすのではない。平和を請け負っているからこそ私たちは名誉を称えるのだ。

I have spoken at some length to the question that must weigh on our minds and our hearts as we choose to wage war. But let me now turn to our effort to avoid such tragic choices, and speak of three ways that we can build a just and lasting peace.

【朝日新聞訳】
戦争の遂行を選ぶ際、我々の頭や心に重くのしかかる問題について、私は時間を割いて話してきた。しかし、そのような悲劇的な選択を避けるための我々の努力に話を移し、正義として持続する平和を築く三つの方法について話したい。

【共同訳】
われわれが戦争を行うことを選択するとき、心に重くのしかかる問題について私は言及してきた。しかし、そうした悲劇的な選択を避けるための努力についてもう一度立ち戻り、公正で永続的な平和を構築する上で必要な三つの方策を説明しよう。

【試訳】
私たちが戦争という選択をするときに私たちの理性と心情に必然的にのしかかる難問について少し長めに私は話してきた。ここで、そうしたつらい選択を避けるための努力の話題に移り、正当でかつ継続する平和を構築するための3つの方法について話をしたい。

First, in dealing with those nations that break rules and laws, I believe that we must develop alternatives to violence that are tough enough to actually change behavior -- for if we want a lasting peace, then the words of the international community must mean something. Those regimes that break the rules must be held accountable. Sanctions must exact a real price. Intransigence must be met with increased pressure -- and such pressure exists only when the world stands together as one.

【朝日新聞訳】
一つ目は、ルールや法を破る国々に対応する際、暴力ではない形で(その国の)ふるまいを変えさせねばならないということだ。もし持続的な平和を求めるなら、国際社会の言葉は、何らかの意味のあるものでなければならない。ルールを破る政権は責任をとらなければならない。制裁は、真の代償を払わせるものでなければならない。非妥協的な態度にはより強い圧力で対応せねばならない。そして、そのような圧力は、世界が一つにまとまった時にのみ、存在するのだ。

【共同訳】
まず最初に、規則や法を破る国と立ち向かう際に、態度を改めさせるのに十分なほどに強い、暴力に代わる選択肢を持たなければならないと私は信じている。なぜなら、永続的な平和を望むなら、国際社会の言葉は何らかの意味を持たなければならないからだ。規則を破るような政治体制には責任を負わせねばならない。制裁は実質的な効果がなければならない。非協力的な態度には圧力を強めなければならない。そうした圧力は世界が一つになって立ち上がったときにのみ、成り立つのだ。

【試訳】
第一に、規則や法を破る国家を扱うときは、暴力の代替として、それらの国の態度を実際に変更させるに足る選択肢を考案しなければならないと私は考えている。私たちが継続的な平和を望むのであれば、国際社会が発する声明には裏付けがなくてはならない。規則を破る国家に責任ある行動を取らせなくなくてはならない。制裁には実効性が伴わなければならない。硬直的な程度にはより強い圧力が伴わなければならないが、そうした圧力は、世界が結束して立ち上がったときにのみ成立する。

The same principle applies to those who violate international laws by brutalizing their own people. When there is genocide in Darfur, systematic rape in Congo, repression in Burma -- there must be consequences. Yes, there will be engagement; yes, there will be diplomacy -- but there must be consequences when those things fail. And the closer we stand together, the less likely we will be faced with the choice between armed intervention and complicity in oppression.

【朝日新聞訳】
同じ原則は、自国民を残虐に扱うことで国際法を犯している者にも当てはまる。(スーダンの)ダルフールでの集団殺害、コンゴ(旧ザイール)での組織的なレイプ、ビルマ(ミャンマー)での抑圧などは、必ず重大な結果が伴うべきだ。もちろん、対話や外交も行われるだろう。だが、そうした営みが失敗したときには重大な帰結を招くべきなのだ。我々が団結を強めればそれだけ、軍事介入と抑圧の共謀者となるという二者択一に直面しなくても済むだろう。

【共同訳】
同様の原則は国際法に違反し、自国の人々をむごたらしく扱う国々にも適用される。ダルフール(スーダン)の大虐殺やコンゴ(旧ザイール)での組織的強姦(ごうかん)、ミャンマーの弾圧、これらは責任が問われなければならない。そう(国際社会の)関与はあるだろう。そう、外交努力があるだろう。だが、これらが失敗した場合には、(こうした国々の)責任が問われなければならない。われわれが結束すればするほど、武力介入するか(何もせず)抑圧の共謀者となるか、われわれは選択を迫られなくなるであろう。

【試訳】
同一の原則は、国際法に違反し、自国民を虐待する者にも当てはまる。ダルフール・ジェノサイドや、コンゴでの組織的なレイプ、ビルマでの弾圧にも、報復が必要だ。国際協調も外交が必要だろう。だが、失敗するときには、報復が必要になるのだ。私たちが結束すれば、武力で介入したり、協調して圧力をかけたりしなくてすむ。

This brings me to a second point -- the nature of the peace that we seek. For peace is not merely the absence of visible conflict. Only a just peace based on the inherent rights and dignity of every individual can truly be lasting.

【朝日新聞訳】
そこで私は二つ目の点、我々が求める平和の本質について語りたい。なぜなら、平和は単に目に見える紛争がないということではない。すべての個人の持つ尊厳と生来の権利に基づく公正な平和だけが、本当に持続することができるのだ。

【共同訳】
これは第2の点につながる。われわれが求める平和の本質についてだ。平和は目に見える紛争状態がないということだけではない。すべての人々が生まれながらに持つ人権と尊厳に基づく平和だけが、真に永続することができる。

【試訳】
第二の話は第一からつながる。平和といってもどのような平和を私たちは求めているかだ。平和を求めることは単に、見える紛争をなくすことではない。誰もが生まれながらにして持つ人権と尊厳に基づく正当な平和こそが、真に永続的になりうる。

For some countries, the failure to uphold human rights is excused by the false suggestion that these are somehow Western principles, foreign to local cultures or stages of a nation's development.

【朝日新聞訳】
一部の国では、人権はいわば西洋の原則であって固有の文化や自国の発展段階の中では異質のものである、という間違った主張をもとに人権を維持しない口実にしている。

【共同訳】
人権は西洋の原理だとか、地域の文化に合わないとか、国家の発展の一段階にあるので守れないなどと間違った考えで言い訳する国もある。

【試訳】
国によっては、人権を擁護できないことについて、それは西洋の原則に過ぎないとか、文化によっては違和感があるとか、国家の発展段階によるのだとか弁解している。

So even as we respect the unique culture and traditions of different countries, America will always be a voice for those aspirations that are universal. We will bear witness to the quiet dignity of reformers like Aung Sang Suu Kyi; to the bravery of Zimbabweans who cast their ballots in the face of beatings; to the hundreds of thousands who have marched silently through the streets of Iran. It is telling that the leaders of these governments fear the aspirations of their own people more than the power of any other nation. And it is the responsibility of all free people and free nations to make clear that these movements -- these movements of hope and history -- they have us on their side.

【朝日新聞訳】
米国は、様々な国の独自の文化と伝統を尊重しながらも、普遍的な希望のためにいつでも声をあげる。我々は、静かに威厳を保っている(ミャンマーの)アウン・サン・スー・チーのような改革者の証人となる。暴力にさらされながらも票を投じるジンバブエ人の勇気や、イランの通りを静かに行進した何十万の人々についても証人になる。これら政府の指導者は他のいかなる国家の力よりも、自国民の希望を恐れるということがわかる。そして、希望と歴史に根ざしたこれらの運動に対して、我々が味方であることを明らかにするのは、すべての自由な国民と自由主義諸国の責任だ。

【共同訳】
米国はさまざまな国の独特の文化や伝統に敬意を払いながらも、常に人類共通の思いの代弁者になる。(ミャンマーの民主化運動指導者)アウン・サン・スー・チーさんのような改革者の静かなる威厳の証人となる。暴力にさらされながらも票を投じる勇敢なジンバブエ人や、イランの通りを静かに(デモ)行進した数十万の人々の証人となる。このことは、これらの政府の指導者は、ほかの国家の力よりも、国民の思いを恐れているということを物語っている。希望と歴史はこうした運動の味方になるとはっきりと示すことが、すべての自由な人々と自由な国家の責任だ。

【試訳】
私たち米国民は、さまざまな国々の独自の文化や伝統を尊重しつつも、常に普遍的な価値を希求する声を上げつづける。アウンサンスーチーのような改革者の寡黙な品位、弾圧のさなかでも投票するジンバブエ人の勇気、イランの街路を静かにデモ行進する数十万の人々、私たちはこれらが正しいのだと証言し続ける。彼らの状況は、その国の指導者が外国の武力よりも自国民の希求を恐れていることを示している。これらの希望と歴史の動向の側に付くと公言することは、自由な国民と自由な国家の責務である。

Let me also say this: The promotion of human rights cannot be about exhortation alone.

【朝日新聞訳】
もう一つ言わせてほしい。人権の促進は、言葉で熱心に説くだけでのことではない。

【共同訳】
これも言わせてほしい。人権は、言葉で熱心に説くだけでは促進できない。

【試訳】
これも言っておきたい。人権の促進は声高に叫べばいいだけことではない。

Third, a just peace includes not only civil and political rights -- it must encompass economic security and opportunity. For true peace is not just freedom from fear, but freedom from want.

【共同訳】
第3に、市民の権利や政治的な権利があるだけでは公正な平和とはいえない。経済的な安定と機会が保障されなければならない。なぜなら真の平和は恐怖からだけではなく、貧困からの解放でもあるからだ。

【朝日新聞訳】
三つ目に、正義としての平和とは、市民的・政治的権利だけではなく、経済的な安全と機会を含まなければならない。というのも、真の平和とは恐怖からの解放だけでなく、欠乏からの自由でもあるからだ。

【試訳】
第三に、正当な平和に含まれているのは、市民権と参政権だけではない。経済的な安定と機会が含まれていなくてはならない。真の平和は恐怖からの自由だけではなく、貧困からの自由でもあるからだ。

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2009.12.12

フィナンシャルタイムズは民主党の緊急経済対策をどう見たか

 政権交代のギャンブルを勧めていたフィナンシャルタイムズだが(参照)、今回の民主党の緊急経済対策をどう見ていただろうか。9月時点では、日が浅いこともあり日本人に済まなかったなという感じではなかった(参照)。しかしさすがに今回の、自民党麻生政権ゾンビのような緊急経済対策については、弁解のしようもないのではないか。どう評価していただろうか。8日付けの該当社説「Japan attempts another stimulus(日本は別の財政刺激を試みる)」(参照)を仔細に読むと、笑ちゃっていいのか泣いたほうがいいのか、なかなか微妙な見解だった。
 大筋で今回の緊急経済対策を肯定的にフィナンシャルタイムズは見ているものの、連立政党の亀井金融・郵政改革相に掻き回わされた対応はまずかったとしているようだ。


The \7,200bn fiscal stimulus announced on Tuesday may not be bad economics --- but it will make it harder to fulfil the DPJ’s ambitious manifesto pledges. More than a third of the money comes from restoring the new government’s cuts to stimulus plans the LDP had prepared before leaving office. The DPJ and its partners originally wanted the savings to fund expensive promises such as bigger child credits in the next fiscal year.

8日火曜日に公開された7兆2000億円の景気刺激策は日本経済にとって悪くはないが、民主党の野心的なマニフェスト実現を困難なものにするだろう。総額の三分の一以上は、自民党が下野前に用意した刺激策を新政権で削減して得たはずの金額を復活したものだ。民主党と連立政党は元来この削減分を子供手当など次年度の巨費支出に充てる元金にしたかった。

This turnabout is hardly a technocratic decision. The prime minister, Yukio Hatoyama, has sided with his small coalition partners, such as Shizuka Kamei, leader of the People’s New Party, who have pushed strongly for more stimulus spending to keep growth going. The package was delayed at the behest of Mr Kamei, who successfully demanded that its size be increased from original plans.

この逆走は経済を考慮した決定ではない。経済刺激策強行を求めてきた連立小党の国民新党亀井静香党首に鳩山由紀夫首相が同調したからだ。経済対策が遅れてしまったのも、原初案を膨らませるのに成功した亀井のせいである。


 デフレ日本に悪い経済刺激策ではないが、民主党としてはなんの考慮もなく、連立小政党に引っかき回された結果だとしている。
 そのとおりなのだが、フィナンシャルタイムズのトーンには、「そんなことしなくてもよかったのではないか」というトーンも感じられる。そこはどうなのか。背景として、フィナンシャルタイムズは、それほど日本経済は悪くはないという視点に立っている。

Japan’s recession was severe but ended early. Indeed the initial severity gives cause for optimism, as it was more due to now-rebounding world trade than domestic financial sins. Japan outdid other rich economies with impressive output growth of 1.2 per cent in the last quarter.

日本の不況は深刻だが早期に終了している。実際初期の低迷に楽観的でいられたのは、国内の金融政策の悪行より、世界経済の回復があったからだ。日本は先進国のなかでも、前四半期の成長率は1.2パーセントと群を抜いていた。


 うーん、うなるところだ。元来日本はそれほどリーマンショックの影響を受けるはずはなく、どちらかといえば、自民党政権下でも続いていた実質的なデフレに心理的な要素が加わったものではないかとも思う。だが、第三四半期で成長率が維持できてのは、麻生政権の思い切った経済政策が功を奏したからではないだろうか。世界経済の回復の恩恵が得られたのも輸出企業を援助する麻生政権の政策によるところが大きく、民主党政権下ではその期待が弱まっている点が大きな問題だ。私はビル・エモット氏の「民主党政権の現在のマクロ経済運営は、残念ながら、予想以上に酷いと言わざるを得ない」(参照)という見解に同意する。
 フィナンシャルタイムズは随分と民主党寄りで、かつ日本経済を楽観視しているようだが、この先にはけっこうブレも見られる。

But danger signs abound. The growth figure was boosted by inventories; it is also expected to be revised down significantly on Wednesday. Several leading indicators dropped markedly in November.

しかし日本には経済危機の兆候も多い。成長率の数値も在庫で水増しされている。だから、9日水曜日には大幅下方修正されることになる。その他の主要経済指標も11月には目に見えて低下した。

As in other big economies, policymakers are therefore wise to keep the foot on the accelerator: doing too little is a greater risk than doing too much. Judging by a deflation rate of 2.2 per cent, the balance of risks favours stimulus more in Japan than elsewhere.

だから日本は他の経済大国と同様に、政策立案者はアクセルを踏み続けておくほうがよい。わずかな刺激策では、やり過ぎよりもはるかにリスクを高くする。2.2パーセントというデフレ率からすると、リスクとのバランスにおいて日本は他国よりも刺激策が好ましい。


 このブレは何? さっきの話と違うじゃないか思わず突っ込みたくなるところで、フィナンシャルタイムズは民主党を援護しようとして矛盾してしまっている。だが、どちらかといえばこちらの認識が正しく、現状の執拗なデフレ下においては多少やり過ぎのリスクがあっても、刺激策が好ましいし、結局、亀井案は民主党を救うことになるだろうし、やっぱり経済モラトリアムが求められる時期の政権交代は国民に不利益をもたらしたなという印象が強い。
 財政出動は赤字国債を伴う。そこをフィナンシャルタイムズがどう見ているかというと、「国債発行残高は疑いなく度を超している(Government debt is without doubt beyond extravagant.)」とのこと。それでも手に負えないほどではないし、国債が国内で消化されていることも指摘している。ざっくり言えば危険領域という認識だ。日銀が買い取りをすればよいといった示唆はない。いわゆるリフレ派とは違う。
 打開策はどこにあるのだろうか。結語はジョークなのかもしれないが、こう述べている。

If only domestic consumers were as willing. But Japan has always had a half-hearted attitude to stimulus, fiscal or monetary. Unless leaders show confidence in the policy, it will not inspire consumers.

日本国民がもっと活発に消費してくればよいのだが。しかし、日本はいつでも経済刺激策を真剣にはやらない。財政出動も量的緩和もいいかげんだ。政府が信念をもった政策を実施しないかぎり、消費が活性化するわけもない。


 まあ、率直に言えば、フィナンシャルタイムズの結語はめちゃくちゃになっている。民主党政権はどのような政策に信念を持つべきだったのか。マニフェスト? へ? へっくしょん。

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2009.12.11

米国の報道も同じく鳩山首相に困惑

 普天間飛行場の移設問題について、「アメリカは怒ってる」と日本のマスコミが連呼してるように感じる人がいる。5日にはローレス前米国防副次官が「年内に合意受諾を」、8日にはアーミテージ元米国務副長官が「合意通りに辺野古へ移設しないと日米同盟は白紙に戻る」、グリーン元米国家安全保障会議アジア上級部長が「普天間基地をこのままにしておくのは危険だ」といったニュースばかり垂れ流しているかにも見える。
 しかも、これら親日派と言われている彼らの肩書きを見ると、「前」や「元」などみんな前ブッシュ政権時代の人間である。現政権とは関係ないと誤解する日本人がいても不思議ではないが、彼らが登場せざるをえなくなってしまったのは、国家安全保障の責任者であるロバート・ゲーツ米国防長官の鳩山政権への交渉失敗を懸念してのことだった。
 なにより象徴的なのは、ゲーツ米国防長官もまた前ブッシュ政権時代の人間でありながら、オバマ政権の現職でもあることだ。つまり米国は、国防問題においてブッシュ政権との一貫性を持っていることを明確に世界にアピールしている。そして、その関連としてこれらの「前」や「元」の知日派の人々が出てきているのであって、日本国民に愛想をつかされて下野した自民党が現鳩山政権のやることにケチをつけてるのとはまったく構図が違っている。
 数々の報道の中で興味深いのが4日、岡田克也外相と北沢俊美防衛相を前にルース駐日米大使が、「顔を真っ赤にして大声を張り上げ、年内決着を先送りにする方針を伝えた日本側に怒りをあらわにした」という産経新聞記事だ(参照)。岡田外相は8日の記者会で「ルース大使もしっかりと自らの主張を言われましたが、別に顔を真っ赤にするとか、怒鳴り上げるとか、冗談じゃないと思っております」と否定したものの、同席した外務省幹部も厳しい表情で「にこやかな雰囲気ではなかった」と証言しているように(参照)、報道に誇張はあるとはいえ険悪な対談であったと見てよいだろ。
 激怒の背景も想像に難くない。鳩山首相はルース米大使に「心配されているかもしれないが、そうした報道などに惑わされないでください」と極秘書簡を11月13日に渡していたとFNNは3日に報道していたが(参照)、それが事実なら、ルース大使には鳩山首相は二枚舌に見えたことだろう。ただ、これもFNN報道なので産経系と同じ疑うならそれまでのことではあるが。
 普天間飛行場移設に関連して米国のメディアが困惑しているようすは、10月時点ですでにウォールストリート・ジャーナル(参照)やワシントンポスト(参照)などでも報じられたが、これらの高級紙に対して日本の政権交代に好意的な配慮を見せていたニューヨークタイムズも、12月10日「Obama's Japan Headache(オバマは日本で頭が痛い)」(参照)を掲載して、その困惑の一端を伝えるようになった。たとえば、一部を抜粋すると、こんな感じだ。
 「日米の信頼は醤油に入れたわさびよりも速く溶けきってしまった。対立の炎は沖縄南部の海兵隊基地の将来についてだ。当地では、基地騒音や犯罪や環境汚染への嫌悪は在沖米軍のせいだとされている。ことの真相は複雑だ。日本人は、3万7千人の在日米軍を冷戦後の米国依存の苛立ちの象徴としている。鳩山はその苛立ちを公言している」
Instead, trust has dissolved faster than wasabi in soy sauce. The spark has been the future of a Marine air station in the southern island of Okinawa, where local feelings run high over the noise, crime and pollution many associate with the U.S. military presence. The deeper issue is more complex: growing Japanese restiveness over postwar dependency on Washington of which the most visible symbol is the 37,000 American troops here. Hatoyama has given voice to that chafing.
 さらに肝心の部分だが、こんなことも書かれている。長島昭久防衛政務官が鳩山首相を弁護したのに関わらずだ。
 「長島氏の弁解にもかかわらず、米国側には疑念が縫い込まれ、疑念は誤解を通して膨れあがった。米国大統領が先月当地に滞在したおり、鳩山は信頼を強調し、オバマもそれを確かなものと受け止めた。しかし、両者は相互の信頼が何を意味するのか明確にはしなかった。鳩山にとって、それは同盟の未来であったが、オバマにとっては、260億ドルを要する沖縄に関する2006年の同意の実行であった。」
But doubts have been sewn on the American side. They’ve multiplied through misunderstanding. When the president was here last month, Hatoyama appealed for trust, Obama said sure, but they never cleared up what the mutual trust was about. To Hatoyama, it was the future of the alliance. To Obama it was the implementation of the $26 billion 2006 Okinawa accord.
 アーミテージ元米国務副長官の訪日の活動についても、オバマ大統領も同意していると補足している(Richard Armitage, a former deputy secretary of state who’s been running around town, is only the most visible expression of U.S. impatience. Obama shares it.)。産経報道などの主張とニューヨークタイムズのこの記事との差はほとんどないことがわかる。米国には多様な意見はあるが、基調としては米国政府は日本の鳩山政権に困惑していると見てよいだろう。
 ワシントンポストも11日、「Does Japan still matter?(日本は依然問題なのか)」(参照)の記事で、鳩山首相の「僕を信じてくれよ(Trust me)」というオバマ米大統領へのメッセージについて、「この問題対処での鳩山の素人芸に愕然としたものの、オバマ政権高官はなんとか困難を越えて、政治経験不足の同盟と同盟合意実施の適当な配分に到達している」と、鳩山氏の幼稚な態度に呆然としたようすを伝えながらも、米国が大人の対処したことを報じている。
Frustrated by Hatoyama's amateurish handling of the issue, Obama administration officials are scrambling to come up with the right mix of tolerance for the coalition's inexperience and firmness on implementing an agreed-upon deal.
 とはいえ、両記事は米国の怒りに賛同しているわけではない。むしろ日本に向けられる米国の怒りを緩和しようと議論している。結語を次のように結ぶあたりは、ニューヨークタイムズらしいところだ。
 「手短に言えば、たとえ日本人が現状の卑屈な状態から逃れたいと望むとしても、日米同盟は現実的な課題なのである。この問題では誰もが、まず深呼吸をしようではないか。鳩山党が、おとぎ話のような友愛の世界とやらの夢想にふけっているとしても、米国はもっと忍耐づよくあるべきなのだ。普天間問題は柔軟に考えよう。だが、日米間の戦略的な必要性はより強固にしていかなくてはならない」
In short, the need for the Japan-U.S. alliance is real even if the Japanese urge for liberation from its more demeaning manifestations is growing. That says to me that everyone should take a deep breath. U.S. impatience should be curbed along with the pie-in-the-sky “world of fraternity” musings of elements in Hatoyama’s party. Be flexible on Futenma but unyielding on the strategic imperative binding America and Japan.
 マッカーサー将軍は「日本はまだ12歳の少年だ」といった言葉が思い出される。もっともこの将軍の真意は、12歳にもなれば平和憲法の欺瞞くらいわかるだろうという意味だった。あれから半世紀以上経ったが、戦後最強のニートとの尊称もある鳩山由紀夫氏は、その夢を未だに抱いているのかもしれない。将軍からすれば12歳の知能に足りないほど清廉潔白なのは、普天間飛行場は硫黄島へ行けと主張する社会民主党ばかりでもない。東大法学部在学中社青同の構造改革派の活動家だった仙石由人行政改革担当相も、早稲田大学政経学部在学中同じく社青同で解放派であった赤松広隆農林水産相も、連合国軍総司令部(GHQ)が吹き込んだ美しい夢を信じ続けているのかもしれない。元はといえば米国が撒いた種。刈り取り時期には我慢も必要になる。
 現状、米国は我慢を見せている。懸念されていた在沖海兵隊のグアム移転予算は米国議会を通ったし(参照)、鳩山政権側も普天間飛行場移転予算は計上する意向だし(参照)、さらに沖縄の新米軍基地受け入れの見返りにも手付け金は出している(参照)。カネの流れだけ見るなら、あたかたも事は問題なく進んでいるように見える。

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2009.12.10

ドバイショックって結局、何?

 人類は滅亡する。確実に滅亡する。私は冗談で言っているのではない。本当だ。幸い、2012年のことではない。もう少し先。宇宙の時間からすればわずかなひととき。1億年は保たないのではないかと思う。いずれ60億年ほどで太陽は膨張し赤色巨星となり、地球の公転軌道が大きく外側に逸れ、地球は生物の生存に適さない極寒の星になる。人類は滅亡している。あれだけ地球温暖化阻止にがんばったのにな。残念。
 で、この前振りの教訓は何か?
 不吉な予言は、いつかは当たるということだ。
 世界経済の破綻など根気よく10年も唱えていれば、チャンスはやって来る。不吉な予言者に必要なのは、ちょっとした不幸の予兆におっちょこちょいな馬鹿騒ぎをしない忍耐力だ。
 今月の文藝春秋「「ユニクロ型デフレ」で日本は沈む」の浜矩子同志社大教授の発言を読んで、そんなことを連想した。


 こうして議論している間にも、今度はアラブ首長国連邦の一角、ドバイ発の信用不安が地球経済を震撼させることになりましたね。デフレ旋風が吹き荒れている中で、いわば最後のバブルの砦となっていた砂漠の大御殿に金融大激震が及んだ格好です。まさに砂上の楼閣が崩れたという感じですね。この間、それこそヒト・モノ・カネのすべてが「ドバイ詣で」モードになっていた。そのドバイが、へたをすれば国家全体として巨大な不要債券化する恐れが出て来ました。そうなれば、打撃を受けた金融機関の経営難でまたカネは回らなくなる。巨大建設プロジェクトのためのモノづくりは行き詰まり、ヒトの働き口も消えてなくなる。
 グローバル時代は連鎖の時代ですから、その影響は立ちどころに世界を巡ることになるでしょう。

 ハズレ。
 不幸の予言は見事に外れた。この予言は、もうちょっと我慢したほうがよかった。1億年も待つことはないけど、世界の識者がこの問題をどう見ているかくらいはざっと見ておくべきだった。例えば、11月27日の時点でフィナンシャルタイムズはドバイを"It's a small financial player.(金融プレヤーとしては小者)"(参照)と割り切っていた。そんな世界の金融規模からすれば世界を揺るがすほどの規模をそもそも持っていないのである。

During the boom, the government of Dubai and its enterprises ran up at least $80bn of debt obligations. This may be a lot of money for a small country, but it pales in comparison to Lehman Brothers’ $613bn of liabilities. Dubai is a big property developer and a heavily indebted government, but a small financial player.

好調期にドバイ政府とその企業は少なくとも800億ドルの負債を重ねた。小国にとっては大金といえるかもしれないが、リーマン・ブラザーズの6130億ドルの負債には見劣りがする。ドバイは不動産開発者であり政府負債が重いとはいえ、金融プレヤーとしては小者なのである。


 そもそも世界経済にリーマンショックのようなインパクトを与えられるような玉ではない。
 が、実際にはインパクトはあるにはあった。フィナンシャルタイムズ記事も記しているが、FTSEは2.3%、日経平均は3.8%、米国債は0.12%、英国債は0.09%低下した。日本でもドバイショックと騒がれて、経済音痴で、浜矩子教授に傾聴する民主党は、ドバイショックを受けて亀井金融相のブラフをごっくんしてしまった。
 じゃあ、影響力はあったんじゃないのか?
 いやその影響力とは何かが問題ということだった。影響力は浜教授が宣わったようなカネの問題ではなく、まさに浜教授のような不吉な予言そのものが問題だった。
 12月3日のニューズウィーク記事「Economic Panic Attack」(参照)がよく解いていた。

So why did the markets stage a mini-meltdown? Chalk it up to muscle memory, an important concept in markets as well as in physiology. Financial behavior is conditioned by prior trauma. Once a lightning bolt strikes, people tend to over-estimate the likelihood of a repeat strike.

ではなぜ市場は小規模なメルトダウンを演じたのか? 筋肉レベルの記憶のせいだ。それは生理学同様に市場でも重要な概念だ。金融の活動はトラウマがあれば影響を受けるものだ。雷に遭えば、人はまたそれに遭遇するのではないかと過剰に反応する傾向を持つ。


 つまり、市場の心理的な問題だった。過剰な不安に浜教授のような不吉な予言が合わさり、メディアも不幸ネタはおいしいこともあって記者が書き散らし、愚かな政治家が踊って、そしてパニックを演出した。
 それだけのことだった。
 もっともそれでギリシャ経済は危機に陥ったということもあるかもしれないが、そのからくりもフィナンシャルタイムズの先の記事にあるように、ざっくりいえば国の運営の問題だった。しいていえば、国がしっかりしてないと小さな心理パニックが社会パニックになりかねないのだが、現下の日本人だと、お前が言うなの話ではある。

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2009.12.09

自民党麻生政権のゾンビと化した民主党鳩山政権

 結論から言えば、8日に決まった鳩山民主党政府による7兆2千億円規模の緊急経済対策は正解であったと私は思うし、であればそれを押し通した亀井静香金融相の政治力は大したものだった。そしてこの財政出動によって、民主党鳩山政権は自民党麻生政権のゾンビと化した。
 新規国債の発行は緊急経済対策で53.5兆円に跳ね上がった。自民党小泉政権時代に「国債発行額を年30兆円以下に抑制する法案」を提出していた当時の鳩山由紀夫民主党代表が懐かしい(参照)。当時は「民主党では、財政健全化への取組み開始後5年以内にプライマリー・バランスを均衡させることを主張しており、本法律案は、その第一ステップとなるものだ」と述べていたものだった。
 この鳩山氏の志は今年の総選挙時も変化がなく、「国債というものをどんどん発行して、最後に国民の皆さんに負担を求める。こんなバカな政治をやめたいんです。みなさん」(参照)と熱弁していた。しかしもうお馴染みの鳩山ブーメランのとおり、その「バカな政治」とやらを彼自身が推進することになった。悪口ではない。鳩山首相は素直に反省している(参照)。


これはあの、リーマンショックからきていますからね。それまで私ども野党時代を通じて、経済対策をもっと早く打てば良かったのにな、という思いがあります。それだけに、ここまで深刻になってしまったことは、残念なことではありますけども、しかし経済をある意味では、しっかりと立て直していかなければならんということで、補正を組んだ前政権の考え方も分からんわけではない。

 自民党麻生政権のリーマンショック対応をようやく民主党鳩山首相が理解した。しかも、政権交代にあたり経済対策が無策であったことも、ようやくきちんと反省された。この素直な低姿勢が、いくら脱税をしても国民から愛想を尽かされない秘訣もあるのだろう。
 民主党の遅まきながらの緊急経済対策は、エコカー購入補助金や省エネ家電へのエコポイントの期間延長など麻生政権の劣化コピーと言えるような代物(景気対策には力不足)となっているが、麻生元首相が信念を持って効果を問うた種を、ようやく果実を見てからであれ、きちんと真似することはよいことだし、断熱改修住宅の省エネ化といった味付けもご愛敬がある。
 1次補正の見直しで執行停止した公共事業約4800億円分もきちんと自民党時代に復元された。野党時代に非難していた公共事業とハコモノ(老朽化した橋の架け替えや電線地中化など)や、公共事業を目的とする交付金(建設国債を充てて2千億円)の盛り込みも自民党政権の懐かしさに戻った。もともとこの民主党政権は、自民党の経世会の流れを組む人たちが牛耳る政権じゃないか。
 亀井静香金融相の胆力の結果とはいえ、民主党単独としては実際には無策だった状況も露わになった。民主党自体の元来の2009年度第2次補正予算案の緊急経済対策は2兆7千億円だった。自民党麻生政権の1次補正分の執行を停止した分を当ててその場を凌ごうとしていたのである。また、鳩山首相の時論であった赤字国債の上限44兆円を意識してのことだった。
 しかし、これが天籟ドバイの音を背景に、民主党内の合意もなく、ただイラ管こと菅直人国家戦略担当相の些細な口論はあったものの(参照)、土壇場の鳩の一声でエイと4.5兆円跳ね上がった。
 先日のアフガン小切手外交でも民主党は米国に言われたままの金額をエイと50億ドルに決めてしまった。密室でエイやと何兆何億というカネの使途を決まってしまうのは、さすがのリーダーシップと評価する向きもあるだろう。が、事業仕分けであれだけ連日多数で大騒ぎをして、埋蔵金を除けば0.6兆円しか出て来ず、しかもこれから削りすぎを修正することになる金額の10倍近い額が、エイと密室で決まる様は感動的でもある。
 鳩山首相が政権交代時に想定した44兆円の赤字国債を、今回10兆円近くのびのびと足を出したのは、09年度の税収見込みが36.9兆円となったこともある。私は実際にはこれよりさらに落ちるのではないかと思うが、民主党はこの額を想定していなかったようだ。だから、のほほんと10年度予算の概算要求は史上最大の95兆円に積み上げていた。積み残しの事項要求分を含めれば97兆円規模まで膨らむだろう。
 民主党の金色に輝く印籠たるマニフェストの実現には97兆円かかるのだが、かたや税収はというと、今回の緊急経済対策でも力不足で二番底が懸念されている状態であり、おそらく今年と変わらないのではないか。来年度は、37兆円の収入で、97兆円の支出。その差の不足は小学生の算数で60兆円になるはずで、それを赤字国債で補うしかないはずだが、鳩山首相は「そのバランスの中で私は44兆円、来年度に関してはそれに向けて努力しようじゃないか、ということで申し合わせたわけです」(参照)と述べているのが常人には理解しづらい。普通に考えれば、ここは算数の仕方が間違っているのであって、税収37兆円足す44兆円の国債を全収入として、81兆円でなんとか切り盛りしましょうということだろう。
 当然その意味は、97兆円まで積み上げたマニフェストのバラの夢を16兆円分刈り込むということだし、民主党の掲げたマニフェストで予算のかかるものは消えてしまうということだ。この点ではなんとなく民主党内で合意が取れつつあるようだ。
 藤井裕久財務相はマニフェストの目玉とも見られてきた子供手当について、「誤解があるが、マニフェストには国が全額払うとはいっさい書いてない」として、地方財政への責任転嫁を計ろうととしている。野田佳彦財務副大臣はマニフェストに掲げた農家の戸別所得補償制度について、「公約には負担の詳細を書いておらず、解釈はいろいろある」(参照)として解釈に逃げ込んだ。これらはようするにマニフェスト撤回の言い訳であり、その点を小沢一郎幹事長は、「国民に約束したことを完全にできることが最も望ましいが、人間だから、結果に出せないこともあるかもしれない。しかし、その目標に向かって全力でがんばる姿が尊い」(参照)と明確にしている。マニフェストというものは実現することが大切なのではなく、達成しようと努力する姿の尊さが大切なものなのだ。
 もちろん外国人参政権や夫婦別姓などの改革にはそれほどの予算はかからないから、そうしたことに今後民主党は注力していくことでマニフェスト達成ということになるのかもしれない。が、実質的には民主党のマニフェストは終了した。これで普天間飛行場の沖縄県外移設が達成できなければ、政権交代の意味もなかったということに終わるだろう。
 民主党鳩山政権は自民党麻生政権のゾンビと化したのである。鳩山首相はそれでも「ない袖は振るものだ」(参照)と考えているようでもあり、このゾンビが暴れるようなら額にお札を貼るしかない。それができるのは、恐らく国民でもマスコミでもなく、長期金利上昇の数字だろう。

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2009.12.06

黒色炭素(Black Carbon:ブラックカーボン)の地球温暖化効果

 人為的影響による地球温暖化(AGW:Anthropogenic Global Warming)の原因とされる温室効果ガスの代表は二酸化炭素(CO2)だが、米航空宇宙局(NASA)によると、全体の影響で占める割合は43%。半分以下である。その他の温室効果ガスで影響力の高い順に見ていくと、メタンガスが27%、黒色炭素(Black Carbon:ブラックカーボン)が12%、ハロカーボン(Halocarbons:ハロゲンを含む炭素化合物)が8%、一酸化炭素と揮発性有機物は7%となる(参照)。
 一位のCO2と二位のメタンガスについてはよく知られているが、三位の黒色炭素はいわゆる煤のことである。ろうそくの炎の上にガラスを軽く当てると、きめの細かい煤が採取できる。落ち葉焚きといった通常のバイオマス燃料の燃焼でも発生する。この黒い色の特性が熱吸収をもたらすことで温暖化を促進している。氷や雪に付着して溶解をを促進する働きもある。
 黒色炭素の地球温暖化への影響の度合いは比較的近年になってきてわかってきたものだ。昨年3月24日付のサイエンスデイリーもその影響推定の研究をニュースとして扱っていたほどだった(参照)。
 ニュースの元になった研究は、カリフォルニア大学サンディエゴ校スクリップス海洋研究所の気候学者ラマナタン(V.Ramanathan)氏と、アイオワ大学の気候技術学者カーミケル(Greg Carmichael)氏によるもので、「Nature Geoscience」4月号に「Global and regional climate changes due to black carbon(黒色炭素によるグローバルおよび地域気候変動)」(参照)として発表された。
 結果はある意味で衝撃的でもあった。彼らの研究では、1立方メートル当たりの黒色炭素の温室効果は0.9ワットで、従来従来のIPCC(気候変動に関する政府間パネル:he Intergovernmental Panel on Climate Change)による黒色炭素の温室効果推定の0.2~0.4ワットに比べると、二倍から四倍に及んだ。推定値に大きな差が出たのは従来の推定では、他微粒子との混合による温室効果増幅と、高度の推定が十分ではなかったことによる。
 ラマナタン氏によると、地球温暖化防止の面において、黒色炭素1トンの削減は200~3000トンのCO2削減の同等の効果を持つらしい。また、現状、黒色炭素の排出の25~35%は中国とインドよってなされている。当然、これらの地域からの黒色炭素削減が進めば、地球温暖化遅延に大きく貢献するだろう。
 黒色炭素削減はさまざまな点でメリットがある。その筆頭は日本のような先進国では黒色炭素低減の技術確立していることだ。石原都政の先進的な取り組みでディーゼル車が排出する黒色炭素の低減もすでに実施されている。
 二酸化炭素の削減は途上国のエネルギー政策とも関係し複雑な問題を起こすが、黒色炭素の低減は直接的にはエネルギー問題とは抵触しないこともメリットの一つだ。各国間の協調も容易である。地域住民への健康上のメリットは、東京都のディーゼル車破棄ガス規制でもわかる。
 黒色炭素低減は今後日本でも注目されるだろう。日本が今後CO2を25%削減するという鳩山イニシアティブは、国民生活への経済負担が大きい割に、実際に達成できるのかすら疑問視されているが、現実の地球温暖化を遅延させるということを第一の目標とするなら、黒色炭素低減が打開策になる。一案に過ぎないが、日本が率先して黒色炭素による温室効果と二酸化炭素のそれと交換レートを策定し、中国やインドなど途上国の黒色炭素排出低減技術・装置の提供で相殺してはどうだろうか。それが可能なら、鳩山イニシアティブはおそらく比較的容易に達成できるだろう。

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2009.12.04

ミナレットを巡る問題

 写真はトルコ、イスタンブルの「アヤソフィア」である。1985年に世界文化遺産に登録された。ところで、これは何であるか? いや、のっけから変な問いかけをしてしまうのだが。「アヤソフィア」とは何か?

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アヤソフィア

 答えは、博物館である。
 ローマ帝国が現在のトルコに移転した時代、532~537年にキリスト教の聖堂として建造された。私が現地で聞いた話では、当時最大の聖堂であったとのこと。ただし、写真と違い、聖堂を囲む4本の尖塔は設置されていなかった。
 聖堂はハギア・ソフィアと呼ばれた。意味は「聖なる知」である。ウィキペディアの説明では「聖なる叡智」としてそのリンク先に珍妙な話がついているが、ソフィアとはロゴスのことである。そしてロゴスとはキリストのことである。が、まあ、私のそうした説明も珍妙に思われるのかもしれない。
 1453年、イスラム教を信じるオスマン帝国皇帝メフメト2世がローマ帝国の首都を占領し、大聖堂をイスラム教のモスクとして使うこととした。内部にメッカの方角を示す窪み状の設置物ミフラーブを加えるなど改変を加え、アヤソフィア・ジャミィとした。この改変の一部としての追加が、4つの尖塔、つまりミナレットであった。
 1923年、現在のギリシアのサロニカ(テサロニキ)で産まれたオスマントルコ軍人ムスタファ・ケマルが革命によって世俗国家トルコ共和国を建国し、1935年にモスク、アヤソフィア・ジャミィは博物館となった。この過程で、モスクの壁を剥いで、ローマ時代の聖画なども露わにされた。アヤソフィアの内部に入ると、イスラム教らしく天使の名前をカリグラフィにした円盤も掲げられており、キリスト教とイスラム教の混合物のような印象も受ける(追記 預言者らの名前とのことコメントをいただいた)。
 トルコは世俗国家化によってすべてのモスクを廃棄したわけではない。アヤソフィアの向いにある巨大なモスク、通称ブルーモスクことスルタンアフメト・モスクはそのままイスラム教のモスクとして残っている。

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スルタンアフメト・モスク

 この二つの建造物の雰囲気は似ているでしょ。
 さて話は、ミナレットである。モスクを囲むように付いている尖塔である。アヤソフィアには4本あり、スルタンアフメト・モスクには6本ある。本数にはあまり意味はないようだ。当然、立派なモスクにはたくさんあるといいよねというのはあるだろう。
 普通はというのは変な言い方だが、1本である。私はトルコの内陸とギリシアの内陸をバス旅行したのだが、建築中のモスク(イスラム教)と教会(キリスト教)は、異教徒の私にはほとんど見分けがつかない。メフメト2世がソフィア聖堂をモスクに転用した気持ちもわからないではない。建造物にミナレットが立っていると、ああ、モスクかと思う。
 ミナレットとは何か。それがよくわからないらしい。もちろん、イスラム教徒にしてみれば、自明すぎるだろうし、「アッラーフ・アクバル・アッラーフ・アクバルアザーン」で始まるアザーン声を伝える塔だ。日本人だと防災無線塔みたいに思うかもしれない。
 モスクにミナレットは必須のものかというと、イスラム神学上はそうではないらしい。ミナレットのないモスクもあるし、アヤソフィアやスルタンアフメト・モスクのような形状ではないミナレットもある。
 以上が前振り話なのだが、先月29日、永世中立国家と誤解されやすいスイスで、モスク附帯のミナレット建造を禁止する憲法改正案の是非を問う国民投票が実施され、可決された(参照)。衆愚である。露骨な偏見と差別でしかない。国連も欧州連合(EU)もスイス国民の民意を明らかな差別だと非難した。直接民主主義の愚かさを表す恥ずかしい結果になってしまった。スイス政府自身もこの国民の衆愚の結果を恐れていた。

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ミナレット禁止を
呼びかけたビラ
 すでにアザーンは禁止されていたが、中道右派・保守政党と見られた議会第1党スイス国民党が10万人を越える署名集めて国民投票に持ち込み、57.5%の賛成多数を得てしまった(投票率は53%)。スイスでもこの結果に困惑する人々は多く、裁判所が今回の可決を排するよう期待されている。
 イスラム教徒の多い国の反応はどうか。トルコ、エゲメン・バウシュ国務相兼EU加盟交渉担当官は、世界中のイスラム教徒がスイスの銀行から金を引き揚げるだろうと発言し(参照)怒りを表明しているが、エジプトのムフティー(宗教指導者)アリ・ゴマー師は、今回の事態をイスラム教徒への侮辱と怒りを表すものの、対話での解決を公にし(参照)、騒ぎが広がる懸念を示している。
 スイス内のイスラム教徒の存在は、労働者としての流入やコソボ紛争による流民の結果で、現状40万人ほどと見られ、全国民の5%のマイノリティを形成している。日本では日頃マイノリティ差別に関心を持つ人々もジャーナリズムもこの問題にはそれほど関心を示していないように見受けられるが、欧米ではフィナンシャルタイムズ(参照)やニューヨークタイムズ(参照)などが社説で取り上げていた。イスラム教徒の移民を抱える国家でこのような動向が広がることを懸念してのことだろう。

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2009.12.02

[書評]傍観者の時代(P・F・ドラッカー)

 私はちょっと勘違いをしていたのだが、本書「傍観者の時代(P・F・ドラッカー)」(参照)は、その表題から、また「ドラッカー名著集」の12巻目に位置していることから、1979年に風間禎三郎訳で出た「傍観者の時代 わが20世紀の光と影(P・F・ドラッカー)」(参照)と同じ本だとばかり思っていた。

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ドラッカー名著集12
傍観者の時代
P・F・ドラッカー
 この本のオリジナルは、2006年に「ドラッカー わが軌跡」(参照)として新訳が出たものの、その後絶版になっていた(古書は流通している)。新訳のほうが絶版になって、30年も前の訳が復刻になっているのはどんなもんだろうと思っていた。それが私の勘違いで、「ドラッカー名著集」のこれが新訳の改題だった。まあ、素直に、「ドラッカー名著集」を読めばいいということでもあった。
 というわけばかりでもないが、先日「[書評]ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争(ディヴィッド・ハルバースタム): 極東ブログ」(参照)を書いた後、読み返してみると、やはりこれは面白いな、ちょっと感想でも書いておくかなという気になった。
 翻訳の標題には変遷があったが、オリジナルは「Adventures of a Bystander(Peter Ferdinand Drucker)」(参照)で、いわば「目撃者の冒険」とでも訳せそうなタイトルである。今回読みながら、"bystander"という語感と本書のbystanderとしてのドラッカーとはなんだろうかといろいろ思いを巡らした。自分なりの答えはまだ出ていないが、「傍観者」ではない。また、この本はしばしばドラッカーの自伝として読まれるが、自伝というには微妙に違う。
 構成は、彼の欧州時代とアメリカ時代に分かれており、そうした点からも、20世紀という時代の「証言者」というのが近いように思えた。つまり、本書は20世紀という時代がなんであったのか。欧州とはなんだったのか。米国とはなんだったのか。それらへの証言集であり、いわゆる歴史書からはわからない微妙な機微が描かれている。
 ドラッカーについてはいろいろなことが言われている。崇める人もおりけなす人もいる。私はこっそり言うのだが、そんなことはすっかり忘れてこの本を読んでごらんなさい。ドラッカーの経営学とかの知識はまるで要らない。しいていえば、晩年の禿爺さん写真も忘れて、30歳くらいの前世紀のオーストリア人青年を想定して読んだほうがよいと思う。
 青年はウィーンを出るのだと堅く心に決めていた。産まれた街を捨てるのだと決めていた。それが青春ということのすべてだった。まだ当時の人々がナチスをあざ笑っているときに、青年はナチスが何をしでかすかを感じ取っていた。そういう風景が本書になんども繰り返される。私はそれを読みながら、もし私が若かったら、日本を出ると心に決めただろうなと思った。
 本書はある種ミニマリズムの短編小説集と言ってもよいかと思う。時代は流れるし、ドラッカー青年という視点は存在する。しかし、欧州人という不思議な人々を描いた短編集である。なんというかジョイスの「ダブリナーズ」(参照)にも近いものがあると言いつつ、この柳瀬尚紀訳はまだ読んでなかったなとかちょっと思う。
 ウィーンを捨てるんだ、街を出るんだという、青年特有の思いの詩情にあいまって、ところどころ、胸にぐさぐさとくるシーンがある。私は失念していたのだが、こういう話もある。懇意にしていた年長者から父がフリーメーソンであることを聞く。

 私は知っていた。父から聞いたわけではなかった。父はフリーメーソンの秘密を守っていた。「君がフリーメーソンをどう思っているかは知らない。私自身は会員ではない。しかし、お父さんの名前がすでにナチスのブラックリストに載っていることは間違いない。僕はもう何年も、お父さんにいつでも逃げられるようにしておくように言ってきた。でも聞き入れてくれないんだ。」

 この時代のウィーンのフリーメーソンには独自な意味合いもあるのだろうが、父と子の間でも語られない友愛団結社の秘密というものがあった。
 ところでこうドラッカーが書くことで彼は何を告げているのだろうか。ドラッカーもフリーメーソンだっただろうか。たぶん違うのではないか。ただ、私はそのことを考えながら、ドラッカーは敬虔なカトリック教徒ではなかったかという思いがした。どこかにそのことのウラでもないかと検索して探したがわからなかった。私は最近、人の持つ信仰というものはなんだろうと思う。宗教を信じるというのは、結局のところ、公衆でそう語るか、集団に所属するということに等しい。そして人の信仰というのはそれに従属するものだ。しかし、人には人生の経験から自然にと澱が溜まるような信仰というものがあるように思える。誰に言うまでもなく、どの集団に所属するまでもなく。自然に孤独になり、絶対者の前に立たされるような。そしてそうして立った人だけが見えるある種の友愛のようなものがあるようにも思える。
 ドラッカーは自身をライターとして捉えていた。本書を読むとわかるが、ドラッカーは単純に天才であるし、正統の学者としても一流だった。しかし、彼は自分の信じるところが切りひらく世界を誤解を恐れずに進んでしまった。つまり、一流の学者とは見られなくてもいいやと割り切っていた。その割り切り方は、フロイトやカール・ポランニに接した経験の影響もあるかもしれない。
 さりげなく恐ろしい話も書かれている。

 ナチスの大量殺人者アイヒマンについての本で、ドイツ系アメリカ人の哲学者、故ハンナ・アーレント女史は、「悪の平凡さ」について書いた。だが、これほど不適切な言葉はない。悪が平凡なことはありえないのである。往々にして平凡なのは、悪を成す者のほうである。
 アーレント女史は、悪を成す大悪人という幻想にとらわれている。しかし、現実にはマクベス夫人などほとんどいない。ほとんどの場合、悪を成すのは平凡な者である。悪がヘンシュやシェイファーを通して行われるのは、悪が巨大であって、人間が小さな存在だからにすぎない。悪を「闇の帝王」とする一般の言い方のほうが正しい。

 ヘンシュやシェイファーの物語を読まないと、この引用はわかりづらいかもしれないが、ドラッカーはやすやすとアーレントをいなしている。頭ごなしに否定しているのではない。また、しいて言うならドラッカーが正しく、アーレントが間違っているというものでもない。むしろ、ドラッカーが提示しているのは、悪の実在という奇妙な神学的なテーマである。

 主の祈りが「試みに遭わせず、悪より救い給え」というのは、人が小さく弱いからである。いかなる条件においても人が悪と取引してはならないのは、悪が平凡だからではなく、人が平凡だからである。それらの条件は、常に悪の側からの条件であり、人の側の条件ではないからである。

 抽象的なお説教として読み捨てられるかもしれないし、まして経営学の神様ドラッカー先生と見る人はこういう部分を単純なモラルとしてしか読まないかもしれない。
 アメリカ時代の話はがらりと雰囲気が変わる。そういえば「大恐慌の時、米国民はけっこう健康だったらしい: 極東ブログ」(参照)というエントリを書いたことがあるが、なんのことはない。その秘密もこの本のなかに書かれていた。

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