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2009.10.05

科学と信仰は脳のなかでは同じ、あるいは極めて同じ

 科学と信仰は脳のなかでは同じらしいという研究の話が一日のニューズウィークに載っていた。「Fact Impact」(参照)である。リードは「New study of the brain shows that facts and beliefs are processed in exactly the same way(最新研究によれば、脳は事実と信仰をまったく同様に処理している)」というものだ。トマス・クーンの科学論以降の知識人にしてみれば、科学と非科学の差というものはなく、どちらも信仰の差であり、ようするにその知識集団の政治的差異に過ぎないというのはごく当たり前ことのようだが、かといって、現実社会にあって非科学と科学を一緒にするわけにもいかないので、社会的な便宜で線引きはしている。それでも、「極東ブログ:[書評]正しく知る地球温暖化(赤祖父俊一)」(参照)で扱った、微妙だけど決定的な問題というのは発生する。
 ニューズウィークのコラムのネタ元は、Plos Oneに掲載された脳機能研究「The Neural Correlates of Religious and Nonreligious Belief」(参照)である。全文が読めるので関心がある人は詳しく追ってみてもよいだろう。要は、カチコチの米国キリスト教徒に宗教的信念の命題を与えて判断させたときの脳の状況をfMRI(functional magnetic resonance imaging)を使って観察したものだ。この手の研究は盛んで、近年五万と出てくる印象がある。ああ、またかよという感じもある。
 該当研究の結論はシンプルといえばシンプルだが、口はばったいものがある。


Conclusions/Significance
While religious and nonreligious thinking differentially engage broad regions of the frontal, parietal, and medial temporal lobes, the difference between belief and disbelief appears to be content-independent. Our study compares religious thinking with ordinary cognition and, as such, constitutes a step toward developing a neuropsychology of religion. However, these findings may also further our understanding of how the brain accepts statements of all kinds to be valid descriptions of the world.

結論/重要性
信仰的思考と非信仰的思考は、前頭葉・頭頂葉・側頭葉中部の広域に異なる仕方で関連づけられているものの、信仰命題と非信仰命題は命題内容に依存していない。私たちは、宗教の神経心理学を形成すべく、信仰的思考と通常認識を比較している。しかしながら、世界についての各種確実記述を脳がどのように受容するかについてさらなる研究を要しているようだ。


 つまり、脳を見ても、「あー、こいついかれた宗教信者だろ」みたいなことはわからないというわけだ。
 ニューズウィークのコラムだとこう表現していた。

Our believing brains make no qualitative distinctions between the kinds of things you learn in a math textbook and the kinds of things you learn in Sunday school.

何かを信じ込む私たちの脳には、数学の教科書で学ぶことと、教会の日曜学校で学ぶ信仰との間に質的な違いはない。


 もっとも今回の研究も仔細に見ていくと、想起に関する部分が違っているともいえるが、これもまた解釈によるのではないか。いずれにせよ、現段階では、人間の脳の機能は、宗教と数学において、差はないだろうとはいえそうだし、科学哲学的にも似たような結論になっている。ある命題が非科学であるか科学であるかは、脳の機能として違いがあるかもしれないという研究は、たいした結論にはなりそうにもない。
 まあ、この話はその程度で、考えようによっては、くだらねー研究しているよな、で終わりでもよいのだが、ちょっと変なヒネリがある。ニューズウィークのコラムのほうで強調されているのだが、この研究の筆頭がサム・ハリス(Sam Harris)というところだ。
cover
The End of Faith:
Religion, Terror,
and the Future
of Reason
Sam Harris
 サム・ハリスは米国では話題になった「The End of Faith: Religion, Terror, and the Future of Reason」(参照)の著者で、攻撃的な無神論者としても知られている。同書の内容については、アマゾンの読者評が微妙に参考になるかもしれない。

宗教紛争の先にあるもの, 2006/8/13
By risei "Risei Goto" - レビューをすべて見る
このレビューの引用元: End of Faith: Religion, Terror, And the Future of Reason (ペーパーバック)

おもにキリスト教、イスラム教、ユダヤ教について、信仰(宗教的信念)と紛争等の社会問題との関わりを斬新な切り口で分析。多くの宗教(特にイスラム教)が排他的で本質的に危険であり、妄信的信仰が人々を残虐な行為に導く力と大量殺人兵器の存在により文明は存亡の危機に瀕している、と指摘。信仰について非合理性が黙認され、宗教について合理的な批判、議論を行うことさえタブーとされる現状打破の必要性を訴える。更に既存の宗教を超えた、理性、精神、倫理の探求による世界観確立の可能性を仮説として提示、その必要性を主張する。具体策はないものの、自由な議論を基礎とした全世界規模での文明社会構築の理想を提示、脳や精神に関する科学の進歩がそれを後押しすることを示唆し、人の幸せ、苦悩を基点とした普遍的倫理観の確立、東洋の無我の概念の普及による排他的価値観からの独立の可能性を議論。著者が様々な領域の考え方をうまく纏めた枠組みは斬新で明快。各論(捕虜にたいする拷問の正当化、Gandhiら平和主義者への倫理批判など)については賛否両論あるかと思われる。また残念なのは文章は難解で構成も纏まりがなく完成度が低いこと。ベストセラーになったので結果オーライなのであろうが編集者は何をしていたのか。。。中東での宗教紛争の理解の足しになればと思い読んだ本だが、米国人の28%しか進化論を信じておらず、72%もが天使の存在を信じている現状、宗教による社会断絶の深刻さに危機感を抱かずにはいられない。米国の一部知識人の先進的視点として参考になった一冊である。2004年初版のベストセラーであるが、まだ(2006年8月)日本語に翻訳されていないのは内容の過激さゆえか。。。


 その後も同書が翻訳されたかどうか私も知らないが、サム・ハリスについては、日本では、リチャード・ドーキンスの「神は妄想である―宗教との決別」(参照)に称賛の言及があり、その文脈で若干知られてる。
 ただこのヒネリが微妙でもあるは、サム・ハリスは無神論者というよりは、仏教徒に近いからだ。ウィキペディアを鵜呑みにするのは危険だが、同項目(参照)は概ね端的に参考になるだろう。

Spirituality
Harris wishes to recapture spirituality for the domain of human reason. He draws inspiration from the practices of Eastern religion, in particular that of meditation, as described principally by Hindu and Buddhist practitioners. By paying close attention to moment-to-moment conscious experience, Harris suggests, it is possible to make our sense of "self" vanish and thereby uncover a new state of personal well-being. Moreover, Harris argues that such states of mind should be subjected to formal scientific investigation, without incorporating the myth and superstition that often accompanies meditation in the religious context. "There is clearly no greater obstacle to a truly empirical approach to spiritual experience than our current beliefs about God," he writes.[7]p. 214

霊性
ハリスは、霊性を人間理性の領域に回復したいと願っている。彼は東洋宗教の実践、特に瞑想の修行から啓発され、ヒンズー教・仏教の実践者と自認している。刻々たる意識経験への注視により、ハリスは、無我の境地に至り、新たに健全な個我が現れると言う。さらに、ハリスは、意識状態は厳格な科学調査の対象となるものであり、しばしば特定宗教の瞑想に付きまとう神話や迷信なしで達成できると主張している。彼によれば「現在の人類の神への信仰が、霊性研究を真に科学的なものする最大の障害になっている」とのこと。


 仏教は科学だ、幸福は科学になるといった香ばしい香りが、サム・ハリスから漂っているようでもあるが、どうだろうか。そういえば先のアマゾン評も、この文脈に接近しているようにも読める。
 どうやら、今回のハリスの研究もこの確信の一端のようだ。ニューズウィークのコラムのほうが理性的にヒネリすぎた。科学から非科学をバッシングする人の霊性っていうのは、なんだか普通に常識を逸脱しているようにも思える。そもそも非科学への過激な非寛容さ自体、あまり常識的ではないのかもしれない。

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コメント

 2秒前。それ、私が以前に言うたやん。科学と宗教は一緒て。細かいところまで調査?して精査に仕立てる労力は凄いと思うけど、そういうのをパッと鷲掴みにしてサクッと書いちゃう意味での知の発露が無いと、意味無いですよ。遅くて匠なら牛でも馬でもやるんだよ。野ぐそでも出来るわ。

 だから残飯爺さんて言われるんだよ。

投稿: 野ぐそ | 2009.10.05 23:54

科学、特に自然科学というのは、自然を、ローマ法の法廷で審理する作業のようなものでしょう?それ考えるだけで、(自然)科学は制定法(大陸法)法学の分枝であり、鬼っ子みたいなものだと思います。

また、17世紀の自然科学発祥の当時の自然科学者(自然哲学者と自然史学者)たちが持ち合わせていた知識と道具は、ほとんどが、ピエール・アベラール、トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥス、ウィリアム・オッカムなどがそろえて用意してくれてあったもののはずです。

竹村牧男先生が、著書の中で、唯識は、宗教であり、哲学であり、科学である、とおっしゃっていたけれど(たしか「唯識の構造」の中で)、今の時代は、さらに、技術・技法・技能のカリキュラムとプログラムもそろえて、現実に対処できる能力、成果を出す能力も持ち合わせないとその学問は社会的意味を認めてもらえない。時代の要請が、奈良時代の純粋教学の時代を過ぎて、弘法大師の時代の要請に似てきているのかもしれません。

技術・技法・技能の問題は、竹村先生は禅の実践に求めていらっしゃるみたいで、これは、横山紘一先生も十牛図の解釈家だから同じかもしれません。

私は、すぐれた学匠ではない、アマチュアのぼんくらだから、高度に体系的で抽象的な瞑想法は遠慮して、消災呪とか大悲呪とか仏頂呪とか光明真言とか随求陀羅尼とか主として禅宗のマントラダラニを唱えています。まあ、念仏や題目を少し複雑に難しくしたようなものです。

投稿: enneagram | 2009.10.06 08:01

この問題については「脳はいかにして〈神〉を見るか」(アンドリュー・ニューバーグほか、PHP研究所、2003)をあわせて論じるのがいいと思う。そこで瞑想などでの神秘体験の脳科学が考察されていて、方向定位野への刺激が遮断されることが宗教的神秘体験と関連しているとされている。この遮断により、自己と外界との区別が曖昧になるという。

本研究では「宗教的信念の命題を与えて判断させたときの脳の状況」を調べているが、それは科学であれ、ほかの何であれ、思考し、判断するということは脳として同じ操作なのだろう。当然といえる。

投稿: アク | 2009.10.06 15:56

>>野ぐそさん
相変わらずのアルファコメンテーター(笑)っぷり感服いたします。またWeb撃墜勲章が増えましたね。上位承認装置であるブログコメント万歳ですな。

投稿: 奥平剛士 | 2009.10.06 19:42

文系のひとがこういう議論をしているのを見かけると、どうしても「ソーカル事件」を思い出してしまう。

事実脳内で「科学」と「信仰」が同じように処理されていても、自然の法則とは関係が無い。人類とは全く別の認識の仕方をする宇宙人でも、普遍性を備えた物理現象は同じように認識されるでしょう。

例えば相対性理論が、ニュートン力学を内包する形での拡張理論であったのと同様、宇宙人はもっと進んだ理論を知っているのかも知れませんが。

「科学と非科学の差」などという曖昧かつ非科学的な(笑)いいかたではなく、「実験事実と想像の差」と言って欲しい。

投稿: ピンちゃん | 2009.10.06 20:03

>科学、特に自然科学というのは、自然を、ローマ法の法廷で審理する作業のようなものでしょう?

おいおい、エンジニアがそういう予断を持つのは禁物だぜ。

>技術・技法・技能のカリキュラムとプログラムもそろえて、現実に対処できる能力、成果を出す能力も持ち合わせないとその学問は社会的意味を認めてもらえない。時代の要請が、奈良時代の純粋教学の時代を過ぎて、弘法大師の時代の要請に似てきているのかもしれません。

ふーん。じゃ、小柴昌俊氏や南部陽一郎氏や小林誠氏や
益川敏英氏はどうなるんです。彼らの理論の社会的意味はどうやったら社会に認められるんでしょうか?

それから、唯識はむずいからやめておきなさい。あれはヨガを極めないと使いこなせない代物だから。今となっては、実際に使いこなせる人ってのはチベット仏教で何人か残っているくらいでしょ。凡夫は易行道を行くべきであって高僧の真似事をするのはディズニーの「魔法使いの弟子」を地でいくようなものですよ。

投稿: F.Nakajima | 2009.10.06 23:25

>そこで瞑想などでの神秘体験の脳科学が考察されていて、方向定位野への刺激が遮断されることが宗教的神秘体験と関連しているとされている。この遮断により、自己と外界との区別が曖昧になるという。

たしかに、自己と他者、善悪是非、精神と物質みたいな、二元論が成立していたら、神秘主義にはなりませんね。神秘思想の脳科学も確かに可能なのでしょう。

>それは科学であれ、ほかの何であれ、思考し、判断するということは脳として同じ操作なのだろう。当然といえる。

たしかに、素粒子研究の科学も可能ならば、マンガやアニメを記号論を使って分析する人文科学的研究も可能なのだから、そういうことなのだろうと思います。

投稿: enneagram | 2009.10.07 10:23

つまり、その、脳味噌の操作が同じだから科学と信仰が同じだというのは、よき事を考えるときも、悪しきことも考えるときも脳は同じ操作しているから善悪は区別すべきじゃないというのと同じくらいトンデモですな。元の科学研究はそんなこと主張してなくても読む人の早合点でまた変な言説が生まれそう。

投稿: 佐藤秀 | 2009.10.07 23:30

>>投稿: F.Nakajima | 2009.10.06 23:25さま

>それから、唯識はむずいからやめておきなさい。あれはヨガを極めないと使いこなせない代物だから。今となっては、実際に使いこなせる人ってのはチベット仏教で何人か残っているくらいでしょ。凡夫は易行道を行くべきであって高僧の真似事をするのはディズニーの「魔法使いの弟子」を地でいくようなものですよ。

いや、私も、実際には、玄奘訳般若心経を朝夕三回ずつ唱えている程度ですよ。ちゃんと、易行道路線を歩んでいます。国学者の塙保己一は、毎日玄奘訳般若心経を百回唱えて群書類従を完成させたそうだけれど、私はそれにはとても及びません。ちゃんと、「資糧位」の出発点にしかいないのは自覚しています。まあ、それでも、最初の「ナムアミダブツ」で極楽往生は決定していて、あとの念仏は全部報恩行だ、なんていう易行道は、たちの悪い確信犯の詐欺だとしか思っていないですけれどね。

それに、題目は、あれは、日蓮大聖人の曼荼羅本尊とセットでないと意味を成さないものだろうと思っています。

投稿: enneagram | 2009.10.08 08:12

 弁当翁さんは、結構、なんだかんだで最初の見込み通り書いても精読精査後書いても、あんま変わらんのよ。言うことが。新情報が出た!! 何!? で考えを180度切り換えられるほどに柔軟な思考回路じゃないでしょ。

 だから、わざわざ「思いがまとまらない話題でもあり、なんとなく書くのを避け」(次エントリー本文)って書くんだ。思いが定まらない…曖昧模糊で自分の直感に頼るしかない?状態で、スッと書けばいいじゃん。そういうのを先ず書いて、然る後に精読精査して、そこで考えが変わるか変わらないか、自分にきちんとお問い合わせすればいいのよ。

 そうしない?ってことは、結局、自分の過ち?なりなんなり、そういうのを認めるのが好きじゃないってこと。そういう姿勢でいるから、行き詰って後誰ぞの後追いをするんだ。誰ぞがアホで間違った?からって、それを後から突ついて「私の方が正しいんだゼ~?」って言いたいだけ。

 それじゃあ先詰まりですよ。

投稿: 野ぐそ | 2009.10.09 21:23

脳の中の宗教と科学の区別はつかないというのは、そう思う。
宗教との関わりでは、神道が最も良いのではないでしょうか?形式化されたアニミズムで生活にはあまり口出しをしない。清く正しく美しくだけ。
仏教は日本人に無を教えてくれたし、キリスト教の侵略から守る免疫系になってくれた。
韓国のキリスト教を見ると、スペインの南米侵略を思い出す。ほんとに中身の無い国だ。

投稿: PK | 2009.10.11 08:39

日本人の思考様式に付いての講演をまとめた物で
これと似たような論調の物を大分前に見ていたので驚きです。
編集工房『樹が陣営』33号、東京大学大学院教授、菅野覚明氏『日本人にとって宗教心とは何か』。
読んだ時はもの凄い乱暴な議論だと思い、その箇所だけ納得出来ない思いをしたものですが。
そう言う議論自体は前からあったのですね。

投稿: | 2009.10.28 13:30

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