江畑謙介さんの死に湾岸戦争を思い出す
先日10日、軍事評論家の江畑謙介さんが亡くなった。60歳だった。彼が有名になったのは湾岸戦争におけるシャープな解説がテレビで印象的だったことだった(髪型も)。あのころ彼は40歳を越えたばかりの年代だったのだなと思う。そんなことなどを含め、昨日はぼんやり湾岸戦争時代のことを思い出していた。
故フセイン大統領がクウェートに侵攻したのは1990年、平成2年。夏だった。私は30代に入り、仕事や私事が混乱していた時期だった。翌年に入ると多国籍軍はイラク空爆を開始した。パパ・ブッシュの戦争である。江畑さんのテレビでの解説が際立ったように、いかにもテレビ的な戦争でもあった。私は後になってその映像をまとめたマッキントッシュ用のCD-ROM"Desert Storm"というのを購入した。
なぜあの戦争を行ったのか。微妙な問題がある。ウィキペディアに記載されているかなと覗くと、あるにはある。誤解されやすい筆致で「7月25日にフセインと会談を行ったアメリカのエイプリル・グラスピー駐イラク特命全権大使が、この問題に対しての不介入を表明したこともあり、ついにイラク軍が動いた」と書いてある。私は現在、ディヴィッド・ハルバースタム氏の最後の著作の邦訳「ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争」(参照上・参照下)をぼそぼそと読んでいるのだが、大国の不介入メッセージは局所的には戦闘開始の認可となる。
世界には「戦後」などというものはないが、日本人は「戦後」という言葉をさらりと使う。そのまま半世紀が過ぎていくのかという矢先に、戦争という現実に直面したきっかけが湾岸戦争だった。知識人・文化人が泡を吹て形ばかりの反戦の声を上げて見せた。いとうせいこう氏がさも市民的な口ぶりでテレビでごたくをならべていたのが印象的だった。声明に高橋源一郎氏が名前を連ねるのは予想が付いた。田中康夫氏も島田雅彦氏も当然くっついた。彼らは一種のタレントなのだし。柄谷行人氏の連名には苦笑したが、中上健次氏や川村湊氏も友愛で寄り添った。彼らはその10年前の、吉本隆明氏の「『反核』異論」(参照)を読んでいないのか、あるいは読んだからぬるくなってしまったのか。柄谷、高橋、田中の三氏起草による声明は「私は、日本国家が戦争に加担することに反対します」で始まり、暗に米国主導の戦争に反対したものの、フセインの戦争には反対できなかった。およそ戦争というもの自体を根底から否定する吉本隆明氏の思想の射程からは苦笑以外はない、欺瞞な平和幻想がそれでも続いた。
日本知識人たちの欺瞞は、スーザン・ソンタグがコソボ空爆の支持したときにまた少し泡を吹いた。それでも侵略を正当化する人道的介入は許せないというあたりで落ち着き、ルワンダ・ジェノサイドを二度と起こしてはならないと言いつつ、ダルフール虐殺には沈黙するに至った。もし日本に思想というものがあったなら、湾岸戦争のときの、日本の知識人と大衆の欺瞞をえぐり出すほかはなかったはずが、ただ吉本隆明氏を残して20年は空しく過ぎていった。
日本大衆も欺瞞だった。それを結果的に掬い上げ、礫を受けたのは小沢一郎氏だった。石原都知事は今も空しく礫を投げることがある。平成18(2006)年11月10日「石原知事定例記者会見録」(参照)より。
僕は本当に前原君(前原誠司 前民主党代表)なんか非常に期待したけどね。あんなつまらんことでこけてしまったけども。小沢一郎党首は私を大嫌いだそうだけど、私も好きじゃないんですがね。あの人を私、嫌うゆえんはね、あの人が日米関係でやったことで覚えている政治家って、今いないんだ。みんなやめちゃって。
例えば湾岸戦争の時ね、ブレディ(ニコラス・ブレディ 米国財務長官(当時))の一喝でね、幾ら金払った。130億ドルだよ。2回に分けて。それからその後ね、やっちゃいけない構造協議をバイラテラルに(2国間で)やったのは小沢じゃないか、金丸(金丸信 元衆議院議員、元自由民主党副総裁)の下で。それでその後、さらにだね、8年間で400兆、実は430兆無駄遣い約束してやったじゃないですか。訳の分からない公共事業で、国力、使い果たしたんだ(※)。
私はやっぱり許せないね、日米関係の中であの人のとったスタンスというのは。そういうことをやっぱり今の民主党って覚えてないでしょうね。しっかりした人が出てきたなと思ったら、まあ、議会の中の変なタクティクス(戦術)でつぶされる。僕はやっぱり民主党の、本当に民主党プロパーで出てきた若手の政治家って気の毒だと思うね、やっぱり。今やっぱり政党としての過渡期でしょう。
いいですか、はい。
130億ドルの前に90億ドルがあった。1兆1900億円。小沢氏が背負った自民党は本気になった。「海部首相、湾岸90億ドル使途は国会に報告 社公、浜田発言で硬化/衆院予算委」(読売新聞1991.2.05)より。
衆院予算委員会は総括質疑初日の四日午後、社会党の武藤山治・両院議員総会長が午前に引き続き質問したほか、自民党の増岡博之・元厚相と浜田幸一・党広報委員長が湾岸戦争を中心に質問した。首相は、多国籍軍への追加財政支援九十億ドル(一兆一千九百億円)が実現しなかった場合の政治責任について「一内閣、一党の幹事長の辞職という次元で話ができるものではない」との認識を示したうえで「(関連法案は)ぜひ通していただきたい。その時まで全力を挙げて努力し、その段階で方策を決断する」と述べ、最終段階では何らかの政治決断も必要、との考えを明らかにした。
一方、浜田氏が社会党の国会対策委員長が自民党から多額のカネをもらっているなどと発言したため、社会党が態度を硬化。審議拒否の構えを見せ、公明党も同調しているため、五日の同委を予定通り開会するのは難しい情勢になった。
質疑で、中山太郎外相は「日米間に信頼関係がなくなれば、米軍が血を流して(日本を)守ってくれるか、と絶えず考えている」と述べ、貢献策が国会で否決された場合、日本の安全保障も含め日米関係に重大な悪影響を及ぼしかねないとの強い懸念を表明した。
浜田靖一氏とそっくりな相貌の浜田幸一氏ことハマコーが元気に暴れていた時代でもあった。お茶の水博士、もとい、中山太郎氏は、「日米間に信頼関係がなくなれば、米軍が血を流して日本を守ってくれるか」と苦悶した。日本を守るということは、つい20年前までそういうことでもあった。
最終的に1兆4928億円に膨れた使途はなんのためだったのか?
また、首相は、追加財政支援の使途について「湾岸協力会議(GCC)に拠出する際、輸送、食料などに使われるよう伝える。GCCとはその都度、交換公文を交わしており、その内容については国会などに示し明らかにする」と述べるにとどまり、戦費に使われるかどうかは明言を避けた。
実際にはどうなったか。「湾岸平和基金使途は輸送に9割/外務省報告書」(読売新聞1993.12.15)によればこうだった。
外務省は十四日、先の湾岸危機・戦争に伴い、日本が拠出した「湾岸平和基金」への資金一兆四千九百二十八億円の使途報告書を衆参両院の決算委員会などに提出した。使途の分野別では、航空などを含めた輸送関係が一兆三千三百五十七億円と八九%を占めた。このほかは食糧・生活関連、医療などに使われ、外務省では、「武器・弾薬の購入には充てられていない」と説明している。
この報告の信憑性は薄い。当時の読売新聞社説「会計検査が問う行政のあり方」(1993.12.19)もそこを指摘していた。
湾岸戦争への支援拠出金一兆五千億円に関する検査結果については、湾岸平和基金運営委員会から提出された財務報告の「資料及び外務省からの説明により確認した限りにおいては」問題はなかったと、微妙な表現で記されている。
財務報告の内容を検査したいという申し入れに対し、外務省は当初、「見せる必要はない」との態度だったという。さらに、見せることに応じてからも、コピーを取ることを拒否し、外務省内で“閲覧”させるだけだった。会計検査院の、無念の思いがにじんでいるような表現だ。
そうした外務省の感覚では、外交活動に対する国民の信頼度を、不必要に低下させることにしかなるまい。
この報告書だが、自民党政権下では実質封印されていただろうから、政権交代後の民主党がディスクローズしてもよいのではないかと思われるが、もしかするとしないかもしれない。基金設立の経緯でもわかるように、実際には基金をバイパスして米国にカネが流れていたのは間違いない。ではその米国から先のカネ、およそ一兆円ははどう流れていったのだろうか。
石原都知事は「そういうことをやっぱり今の民主党って覚えてないでしょうね」と嘆いたが、52歳の私でも覚えているのだから、現民主党の高齢者内閣が覚えてないわけでもないだろう。このネタは、2年前までは与太話だが、週刊現代の2007年11月24日号の記事「小沢一郎と消えた湾岸戦費1兆円」というふうに流布もされていた。がその後は消えてしまった。カネの行方に小沢一郎氏が関わっているなら、それは氏の政治生命につながるだろうが、その後、そうした問題に火がついたことはいまだない。第二のコーチャン証言で世間があっと驚くこともなく、消えていく与太話なのだろう。
話を湾岸戦争時の反対に運動に戻すと、当時の文化人・知識人のぬるさに対して、民主党大石正光参議院議員の父大石武一実質初代環境庁長官の看板で「ペルシャ湾の命を守る地球市民行動ネットワーク(PAN)」という市民団体が結成され、若者が「民間救済派遣団」としてイラクに入り、ミルクや医薬品などの救援物資を届ける活動を行った。これに参加した当時の21歳の若者の声が読売新聞の「気流」欄に「イラクの救済 真剣に考えて 学生・湯浅誠21=東京都杉並区」(1991.04.18)として掲載されている。
私たちの中には「フセイン=イラク=悪玉」という図式ができあがっています。たしかにイラクはクウェートに侵攻したし、その事実は決して正当化できないことだと思います。しかし、だからといって現在及び今後のイラクの窮状が「フセインを懲らしめる必要があるから」といった言葉で簡単に肯定されていいのでしょうか。
イラクでもヨルダンでも、人々は「日本の政府と日本の市民は違う」と言って、非常に温かく私たちを迎えてくれました。私たちもフセイン一人のイメージですべてを割り切ることをやめ、そこに住む人々の生活にも目を向けるべきだと思います。
この当時の若者が言うように、国家をその独裁者に代表させて断罪することは正しくない。だが、その後もこの青年がイラクに住む人々の生活にも目を向けけてきたのかというと、これもまた、本質は変わらないとも言えるが、変わるものはあっただろう。月日は流れた。若者もまた、私が初めてテレビで見たころの江畑謙介氏の年代に近くなっている。
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コメント
エントリーの内容とは関係がありませんが、そのイラクについて語っている若者、湯浅誠さんと言うのは、あの反貧困ネットワークの湯浅誠さんなのでしょうか? 年齢的には同じだと思われますし、彼の父が新聞記者ということで、いろいろと妄想してしまいそうです。
投稿: kazu | 2009.10.17 20:53
>>学生・湯浅誠21=東京都杉並区
が、のちの「自立生活サポートセンター・もやい事務局長・反貧困ネットワーク事務局長」何ですか?
投稿: リュート | 2009.10.17 21:25
個人的な話題を出すとまずいかもしれないので、表示するかしないかは、ブログの管理人様にご判断をお任せしますが、湾岸戦争については、あの戦争でのアメリカ軍の軍事力のすさまじさについて、当時筑波大学教授、現在筑波大学名誉教授の関文威鹿島神流師範家が大変感心されておられました。
超一流の武人である関師範家がとても驚くほどの軍事力なわけですから、日本の腰抜け政治家たちなどは、アメリカ軍の軍事力が、アメリカの言うことを聞かないがために、日本にわずかでも向けられることに、生理的恐怖を感じただろうと思います。
大東亜戦争敗北の恐怖は、日本の与党政治家たちにたぶん取り付いています。中国や韓国が靖国神社を参拝する日本の首相を怖がるよりもっと、日本の責任ある立場にいる人たちは、アメリカの軍事力が日本に向けられることを怖がっていることと思われます。
投稿: | 2009.10.18 13:11