[書評]アメリカ人が作った『Shall we dance?』(周防正行)
『Shall we dance?』を巡る3本目のエントリ。最初は日米の映画とノベライズを扱った「極東ブログ:[書評]Shall we ダンス?(周防正行)」(参照)、2本目は昨日の「極東ブログ:[書評]『Shall we ダンス?』アメリカを行く(周防正行)」(参照)。本書は、『Shall we dance?』の米国版を巡る話。2005年、大田出版からの出版。文庫版はないもよう。
アメリカ人が作った 『Shall we dance?』 周防正行 |
だとすると、これで日本映画『Shall we dance?』に端を発した周防正行監督の物語はここで終わることになる。その間、10年。そしてその時間はこの映画をきっかけとした周防監督とヒロイン草刈民代の結婚生活の歴史でもある。本書からもそのあたりの陰影が伺える。米国版の試写会後、草刈さんが涙するところ。
ウソ……。なんで? 愕然とした。オリジナル観たときだって泣かなかったじゃないか。そんなによくできていたのか、このリメイク版は。ちょっとショックだった。思わずとがめるように口走っていた。
「泣くかよ、これで」
「違うの。まさちゃん、凄いって」
すみません。家では「まさちゃん」と呼ばれています。
リチャード・ギアに草刈さんが声をかけられて。
草刈が、落ち着いて答える。
「どうもありがとうございます」
こういうとき民ちゃんは、相手が誰であろうと決して動じることがない。
すみません。家では「たみちゃん」と呼んでいます。
今の時点からするとさらに4年が経過し、その現在に近いお二人のようすは、NHK「ワンダー×ワンダー」という枠だったと思うが、「シャル・ウィ・“ラスト” ダンス?」という番組で見た。NHKのドキュメンタリーでは、しかし、結婚から二、三年後は草刈さんが本当にバレエを止めてしまうのではないかと周防さんが思っていたと語っていたのが印象深かった。
本書の「あとがきにかえて」がそうした10年の、重さのようなものを語っている。
ようやくこの本の原稿を書き終えた深夜、僕はねぎらいの言葉が欲しくて草刈の部屋のドアをノックした。
「やっと終わったよ」
そう言ってドアを開けると、草刈もまたパソコンに向かって原稿を書いていた。
キーボードに手を置いたまま、眼鏡をかけた顔をモニターから上げると、草刈は僕を見て言った。
「オリジナルの監督がリメイク版について何か言うのって、カッコ悪くない?」
僕は、その場に崩れ落ちるしかなかった。
(中略)
それにしても、この人は直感的に本質的なことを看破するから恐ろしい。
それでも僕は書いたのだ。
なぜだ?
僕は、映画『Shall we dance?』の旅をもうそろそろ終わらせるためにこの本を書いたのだ、と思う。
周防監督は、「世界デビュー」を果たし、次作の最初の作品を米国の配給会社に見せるというファースト・ルック契約を結んだもの、その契約を果たすことはなかった。なぜか?
それは、一本の企画も思いつかなかったからだ。
これは、本当のことである。思いついていたら、この一〇年映画を作らないということはなかった。
普通に考えれば、30代半ばから40代半ばへの、もっとも仕事の充実の時期に、本質が映画監督の人が映画を作らないということがあるのだろうか。
あるだと思う。それが必要なこともあるのだろうと思う。ということを、本書で私は私なりにずっしりと感じた。そこに本書の独自の価値もあると思った。
本書は、米国版『Shall we dance?』作成までのどたばた的紀行文、実際の撮影現場の興味深いエピソード、日本で映画を作る側から実際に米国での映画作成の現場を見たときに感じた思いなど、映画好きにはたまらないテクニカルな話もある。
また、ここまで書くかなというくらい日米作品の比較を行っている。そしてその比較、あるいは批評は詳細にわたって面白いのだが、どこかしら違和感を残す部分がある。私はどちらかというと米国版のほうが好きなせいもあるだろう。
ごく小さな挿話だが、ジェニファー・ロペスのスタンドイン(撮影前の代役)の女性の話は、周防さんが注目しているように興味深かった。米国版『Shall we dance?』はシカゴを想定して作成されているが、実際のロケはカナダのウィニペグで行われた。ジェニファー・ロペスのスタンドインの女性は現地で募集された。周防さんの付き添い役のケネディさんは彼女がチリ出身と聞いてたずねた。
チリから若いときに来たというので、ケネディは、もしかしたら一九七三年にアジェンデが殺されたクーデターの関係で来たのかと思い、そう訊ねたら、彼女は「チリのこと知っているんですか」と驚き、事情を話してくれたそうだ。
実は彼女の父親はクーデターのときに誘拐され二ヶ月後に殺されたという。父親は、アジェンデの親友で政府の要職に就いていたらしい。
「ブラック・スワン」のタレブも似たような過去を語っていた。そういえば私はサマンサ・スミスの友だちだという人と対話したことがある。
米国版『Shall we dance?』はカナダで、そしてスタッフの大半はイギリス人で作成された。それをもってグローバル化というものでもないと思うが、世界というのは、一見スクリーンの向こうにあるように見えながら、人が背負った世界の歴史として、不思議なネットワークをつなげているのかもしれない。
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コメント
草刈さん、容姿も踊りも美しいと思います。
オリジナルの『Shall we ダンス?』にリアリティを感じなかったのは、普通のサラリーマンのダンス受講という設定では、あまりに草刈さんが優れすぎていたから。
バレエも映画も芸術なんだろうけれど、ホメーロスの叙事詩と池波正太郎の小説の比較みたいな気がして、芸術としての質は違うように思います。もちろん、エイゼンシュタインの映画は、カギカッコ抜きの正真正銘の芸術作品なのだろうけれど。
娯楽映画の芸術性は、直木賞作品の「芸術性」と同質なのではないかと、そんな風に思います。
投稿: enneagram | 2009.09.21 09:00