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2009.09.26

NHK朝ドラ つばさ

 今朝の156回でNHK連続テレビ小説「つばさ」が終わった。正確にいうと、総集編が12月に新カットを含めて計1時間ほどで放映されるらしい。その時間枠で統一感をもってまとめるのは難しいのではないかなと懸念するが、たぶんそれも私は見るだろう。

cover
つばさ
連続テレビ小説
ドラマ・ガイド
戸田山雅司
 テレビ嫌いの自分が2009年3月30日から同年9月26日まで毎日ドラマなんてよく見たものだと思う。朝ドラを見通したのは「ちゅらさん」以降のことではないか(ところどころ抜けもあったが)。総時間にすると39時間。全3ボックスのDVD(BOX IBOX II)も販売されるようだ。映像の作りとしても特徴的なので意外と売れ、後から再評価されるのではないか。
 「つばさ」は傑作だった。よくこれだけの作品を作り上げたものだなと呆れるほどだった。
 率直に言えば、諸手を挙げてまで絶賛ということはない。私は個人的にアンジェラ・アキが好きではないので主題歌は閉口したし(しかしそのメロディをギターで聴いたときは感動したし、歌詞もすばらしいものだった)、ストーリーのディテールに疑問を残した部分もある。テーマでも今一つ受け入れがたい部分もあった。演技にも部分的には多少の違和感もあった。しかし、そうしたことは一切作品の欠点とはいえない。
 当初この朝ドラを見ようと思ったのは川越が舞台だからだ。川越には個人的に青春の思い出がある。それと、予告編などに見える斬新な映像に心惹かれたからだ。
 物語の設定は、川越の蔵造り家屋の老舗和菓子屋「甘玉堂」である。NHKの朝ドラにありがちなご当地ものと言ってよい。店は家族と菓子職人で経営されているが、20歳の主人公玉木つばさの母(玉木加乃子:高畑淳子)は10年前に家出し、店は吉行和子が演じる祖母玉木千代が仕切り、和菓子作りは風采の上がらない婿(玉木竹雄:中村梅雀)が担っている。
 話は、実際上の主人公と言える高畑淳子演じる玉木加乃子が借金を抱えて帰宅した春から始まる(そして母の失われた青春の治癒を象徴する「二度目の春」で物語は終わる)。借金といえば店は店でも巨額を抱えていたので、蔵造り家屋を精算し、小さな家屋の「甘玉堂」に引っ越し、主人公つばさも職を求めて、コミュニティー・ラジオ放送局「ラジオぽてと」の立ち上げから運営に関わるようになる。
 登場人物は、「甘玉堂」にまつわる人々、「ラジオぽてと」の人々、また、つばさの個人的な交友の3つの圏がある。物語は、その一人一人が負った過去とそれにつながる今の苦しみを、あたかもクリスマス・カレンダーの扉を一つずつ開けるように展開していく。週ごとの挿話の背景には、全体の縦糸として、つばさの恋愛と、母と祖母の確執のストーリーが展開する。
 この物語が私の心を掴んだのは、「この物語こそ、私の世代の物語だ」という痛烈なメッセージを各所に読んだからだ。母、玉木加乃子は、設定では52歳くらいであろうか。父、玉木竹雄も同い年くらい。つまり、私の年である。ラジオを親身に聞くというカルチャーも実際には私の世代でほぼ最後であろう。私の時代の青春の不燃焼、それを引きずる30代から40代の精神的な嵐。社会の時代としてバブル前からバブルの終わり。そうした時代の暗黙の前提が、随所に自然に読み込めた。私の世代のアイドルであった手塚理美や斉藤由貴が、大人の女性として振る舞う姿は、それだけで胸にじんと来るものがあった。
 逆に言えば、私の上の世代、つまり団塊世代やさらにその上の戦後世代、また、私の下の新人類世代の人々には、この物語のもつ、特殊な時代的なメッセージは薄められるのかもしれない。作成側もそれを補うべく意図しているだろうが、むしろ、その時代的メッセージを最後まで曖昧にしていなかったことに、賛辞を送りたい。ありがとう、私の世代の物語を。
 演出は斬新であることから、お茶の間での反発も大きかったようだ。視聴率も今一つ伸びなかったとも聞く。たしかに、おっさん姿のラジオの精霊(イッセー尾形)が登場したり、ちゃぶ台でビキニ姿の女性がサンバを踊ったりという非日常性への表層的な違和感はやむを得ない。洒落や演劇がわからない人がいるなあとも思わない。これは演出的な効果ではなく、作品にとっての必然だったのだから。
 朝ドラという枠で作られていることから、特段に難しい話があるわけでもないので、小難しい評論めいた話をしたいわけではないが、私にはこの作品のテーマはかなり明瞭だった。「つばさ」が暗示するように、「天使」の物語だった。
 古代の人々にとって天には層をなす天界があり、地と天は、天使たちによってつなぎ止められていた。地の人々の関係も、アブラムに寄り添うように天使が導くものだった。「人と人とを結ぶ」天使の愛は、昨今のキーワードでもあるがfraternity(友愛)そのものであり、友愛が元来結社の連帯であるように、「ラジオぽてと」という友愛の結社が描かれた。ラジオの電波は、友愛の革命軍がまず占拠すべき対象だった。
 この物語には悪も悪人も存在しない。誰もが仮託できるような浅薄な正義もない。しかし、悲劇と、結果的には人を深淵に陥れる「悪の力」は、描かれていた。「悪の力」なくして人は個性化できず、個性化なくしては友愛もない。ユングが説いたとおりともいえるが、それが日本のお茶の間に、日本人の普通の生き方として描かれるのは感動的だった。
 「悪の力」はそれ自体では悪ではない。それは死者が我々と隔絶したにも関わらず生存者は死者を内包しながら、どうしようもなく失われたものとしてしか存在できないところに(また死者たちも生者から隔絶して存在せざるをえない懊悩に)、「悪の力」は働く。いや、「悪の力」というより、それ自体がただ「生の力」として歓喜を呼ばなくてはならないなにかだ。
 作者がそうした、小難しいスキームを想定したとは到底思えないが、その歓喜の直感は正鵠で、ところどころにサンバとして、また暴走するトロッコとして描かれた。映像的にもうまく川越という古都の風景の力と調和させていた。死者たちが天使の力によってこの世で踊る姿は、生というものの歓喜をうまく捉えていた(死者真瀬千波のダンスはその最たるものだった)。
 平成生まれの多部未華子はよく演じていたと思う。一回だけ「ラジオぽてと」のある川越キネマの屋上でバレエのように踊るシーンがあり、その動きは美しかった。半年たらずのドラマだったが、彼女は、最初のころと終わりのころで面立ちが変わった。ドラマを演じることで、少女の顔が女優の顔になった。それだけでも、すごいものを見ちゃったなと思った。

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「書評」カテゴリの記事

コメント

小生団塊世代ですが、多部Fanでしたので、ほとんどの回を録画して見てました。
事務所の先輩の宮崎葵に次ぐ良い女優になることでしょう。

投稿: 笛吹働爺 | 2009.09.26 18:37

そんな話だったのか…。タイトルからの連想で、サッカーものかと勘違いしてました。

投稿: jiangmin | 2009.09.26 19:39

世界の孫ってマンガがありましたが、私は、多部未華子の持つ孫っぽい雰囲気が好きでした。
アイドルじゃなく孫ドルと呼んでましたが、孫の成長、女優への成長を見続けた半年でした。

投稿: 28歳ですが | 2009.09.26 20:09

一点を除いて賛成です。
多部未華子は、昨年(だったか)の鹿男あをによし以前から年齢の割にはしっかりした女優だったと思います。ガキを使ったのでは視聴率が取れないと悟ったNHKが、新味はなくても安定した視聴率を取りたいがために彼女を選んだので、この半年の間に顔つきが変わったとしたら、それは役柄に合わせて演技しただけではないのでしょうか? 篤姫の宮崎あおいのように。

投稿: roi_danton | 2009.09.27 03:14

このドラマを見てないので、何かいうのもなんですが、先生のおっしゃっていることが正直わかりませんでした。

私の年齢(1964年生まれ)というのは、生まれた年がオリンピックで、中高校生時代が高度成長の時代で、大学を卒業した年はバブルでした。おかげでバブルの時期に就職ができました。わたしは、株バブルと不動産バブルがはじけて、不動産をたくさん所有している企業が経営上のメリットを失っているのが明らかにわかった、1995年に、業界が料金を決められる、独占禁止法の適用除外の業界に転職できました。私が転職するが早いか、大企業が次々にリストラするようになりました。そして、2001年に、業界の自由化と規制緩和で料金が言い値から相場に移行して、6年後にはまた、その職場をやめています。しかも、ある程度英文特許明細書が読めるようになって、ヨーロッパ言語の語源の多くがギリシャ・ラテン語由来であり、中国語、韓国語、ベトナム語は漢字文化圏、朱子学文化圏の言語で、日本人には英語より習得しやすいという知識も摂取したというおまけつきです。

なんか、1964年生まれは恵まれすぎているほど恵まれているやつが多いのかどうか知りませんが、なんか、先生の世代というのは、少しひねくれているのかなあという印象を持ちました。

>死者たちも生者から隔絶して存在せざるをえない懊悩

ここのところは、感情を共有できないですね。私は死者と交信など出来ませんが、私は、死者と過去は現在にも未来にも働きかけているし、現在が未来を作っているわけだけれど、未来もまた現在と過去に働きかけているし、現在と未来はいつも過去を書き換え、過去の重み付けを変え続けている、過去でさえ、現在と未来と同様、いつも新しい姿に変化していると考えて生きている、シャーマニズムの世界の人間なんで、高等宗教、というより、キリスト教というのは、ひどく不幸な人たちのための宗教なのではないかと思ってしまったんです。韓国でキリスト教が普及したのが朝鮮戦争の後のひどく不幸な時期で、やはり、キリスト教というのは、もともとが奴隷たちのための宗教なので、人間が本当に不幸の極限で絶望しつくさないとキリストの奇跡の信仰に身を投じることは出来ないのだろうと思います。

私は、仏教(禅宗)の檀家の家に生まれたから、religionのレッテルは、Mahayana Buddhismということにしているけど、たぶん、神道なんて立派な代物になる前の原始宗教の素朴な信仰に生きている土民なのだと思います。

投稿: enneagram | 2009.09.27 11:03

このドラマには、女性の生々しい葛藤、どろどろとしたものがずっと貫かれていて、私は自分と母親と母方の祖母との3代の女性関係を見ているようで、個人的に入れ込んで見ていました。私はもうすぐ30、母はもうすぐ60くらいです。批判が多いのも分かるけれど、見てどこかすっきりした人もいるんじゃないかと思いました。私もその一人です。

投稿: | 2009.09.27 13:06

自分も64年生でキリスト教的環境に育ったものですから、コメントしずらいのですが、本当に素晴らしいドラマでした。
いわゆるサブカル批評も含め、いまだ際立った評価が見受けられないことが不思議に思っていただけに、ここでとりあげられたのはとても嬉しく思います。
メッセージと宗教観の話はさておき、確かに田部さんの女優への変貌は素晴らしかったし、場所の持つ力と幻想の川越を最後新宿へとトロッコで繋ぐシーンには鳥肌が立ちました。
80年代的な意匠や、寺山修司、寺内貫太郎一家など、さまざまな修辞的な側面は指摘されるでしょうが、それ以上にこのドラマが、そうした昭和的観念を現在へと繋ぐためのズレをあえて拒否しないまま、正面突破を図ったのは奇跡的とすら思えました。
邦画が興行的な面での成功とは裏腹に退行的な現象が目立つ中、ここ最近NHKのみがドラマに対し意識的なアプローチをしていることも印象的です。
『つばさ』のようなクォリティはそう多く望めないでしょうが、民放にもがんばって欲しい。少なくともタレントありきのドラマのみでは衰弱するばかりでしょう。

投稿: Tattaka | 2009.09.27 20:31

finalventさん、こんにちは。
「多部未華子って、薬師丸ひろ子に似てるかも。」
と後半、とくに感じました。
現在所沢在住の身としても親近感、家人が川越女子OGだしw
独り言でした~

投稿: tom-kuri | 2009.09.28 16:31

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 僕もこのドラマを注視していた。マナカナの次に始まったのだが、多部未華子、中村梅雀、吉行和子ら演技派を据え、話もよくできていたので、途中からずっと視ていた。多部さんは「鹿男あをによし」というドラマの再放送を見てから、ファンになってしまった。  このドラマ... [続きを読む]

受信: 2009.09.26 22:41

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