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2009.09.29

大恐慌の時、米国民はけっこう健康だったらしい

 「世界大恐慌(The Great Depression)」と呼ばれる大規模な不況の時代。1929年に始まり1940年代初頭までほぼ10年も続いた時代。株価は暴落し、銀行はばたばたと潰れた。企業も数多く潰れた。米国では失業率が25パーセントに及び、街中に失業者が溢れた。自殺者も目立った。不幸のどん底のような時代であった……かに思われていた。だが、実際にこの時代の人々の寿命を調べてみたら、あれれ、寿命は延びていた。健康でもあったようだ。ほんとなのか。元ネタは科学的な調査である「大恐慌時代の生死: Life and death during the Great Depression (pnas.0904491106)」(参照)だ。
 このネタを食ったデイリー・メール紙は、「元気を出せよ! 世界大恐慌時代を研究したら、困難な時代のほうが健康によいんだってさ(Cheer up! Study of Great Depression shows hard times are good for your health)」(参照)という標題で報道していた。サイエンス・デイリーは「世界大恐慌に希望の兆しはあったのか。寿命は6.2年伸びていた。(Did The Great Depression Have A Silver Lining? Life Expectancy Increased By 6.2 Years)」(参照)と、もう少し冷静に伝えていた。サイエンス・マガジンでも「恐慌の裏面(The Upside of Recessions)」(参照)として扱っていた。
 世界大恐慌と呼ばれる時代にも景気の波があるが、低迷した1930年から1933年の4年間は、米国民は、男女、人種、年齢を問わず、健康が概ね向上していた。同じく低迷した1921年と1938年にも同じ傾向が見られた。逆に、経済が部分的に拡張した、1923年、1926年、1929年、1936年、1937年では死亡率が上がり、平均寿命も落ちた。
 しかし、自殺はどうか。確かに自殺は例外ともいえるが、死亡者全体に占める割合で見ると2パーセント未満と少ない。
 結果、全体として見ると、経済が不況になると人々は健康になり、好調になると不健康になるという傾向ははっきりとしている。
 理由は……わからない。
 科学的には、現状では何とも言えないようだ。
 しかし、想定としては、好景気になると暴飲暴食やその場しのぎの快楽に身を委ねるようになることがいけない、というのもあるだろう。経済が活況を呈すれば、大気汚染など公害の問題も増加したわけで、それも理由に挙げられる。
 貧しくなった時代には、ナイトライフは減って、早寝早起き元気な人、なのかもしれない。いずれにしても、国内総生産(GDP)が上がれば、人は健康になり、幸せになるというものではなさそうだ。
 デイリー・メールの記事では、でも、それって昔のことであって、現在の世界の不況には当てはまらないんじゃないのという疑問も投げかけている。それもそうかとも思うが、世界大恐慌は現下の世界不況なんてものじゃなくても、それだけやってこれたとういのは、やっぱりあるんじゃないか。
 というか、世の中が不況だからって、人が健康に生きられないというものでもないだろうし、幸せになれないというものでも、なさそうだ、という視点もアリ、くらいには考えていいだろう。
 これで、ネタの話は終わりだが。
 ネタとしては薄過ぎるので、昨日発表された今年の自殺の傾向を見てみよう。共同記事「自殺2万2千人、最悪のペース 8月も昨年上回る」(参照)によると、今年の1月から8月までに自殺した人は2万2362人で、昨年同期より971人多かったとのことだ。このペースでいくと、近年最悪だった2003年の3万4427人に迫るらしい。理由については、記事では「昨秋以降の景気悪化が背景にあるとみられている」と記しているし、庶民的な印象としても、景気が悪いと悲観して自殺するよなと思う。
 それに反論というわけでもないが、こうした自殺統計を警察が出すようになったのは、1978年以降のことで、それ以前にはなかった。社会学的にそれ以前の自殺統計が推定できないわけでもないので、どうだったかと調べると、東京都立衛生研究所による1999年の「日本における自殺の精密分析」(参照)と2008年の「自殺の発生病理と人口構造」(参照)が参考になる。そう読みにくい研究でもないが、これらから、自殺者は景気悪化によるとは、言えそうにはないようだ。むしろ1999年の研究では、その影響の限定を述べている。


自殺者数の極小を示す1967年と1990年において,自殺した男子の数は,直前の自殺ブームの約65%~75%程度となっている.自殺者の景気依存性は確かに観測されるが,その寄与は多く見積もっても約30%であり,1990年の男子死亡数12,316名から推測すると1998年頃のピークにおいても,16,000名程度と予測される.しかし,1998年の男子の自殺は22,388名とそれをはるかに超え,この自殺数の増加を景気変動だけで説明するのは困難である.

 2008年の研究では、人口構造に着目したせいか、経済状況との関わりについてあまり触れていない。代わりに結語はそれなりに興味深い。

 疾病動向予測システムを用いて,人口構造が自殺に与える影響について分析した.日本においては,近傍世代と比較して出生数が多い1880年代世代,昭和一桁世代,団塊世代及び団塊ジュニア世代で自殺死亡率が高いことが明らかとなった.この出生数の多い世代で自殺死亡率が高くなるという傾向は,程度の差はあれフィンランドやアメリカなどの先進各国でも観測された.相対的に出生数の多い世代の自殺死亡率が近傍世代よりも高くなることから,その世代が当該国の自殺好発年齢に達した時は,自殺者数はより大幅に増加するものと予想される.したがって,今後は,人口構造を十分考慮して自殺対策を構築していくことが重要である.

 この数年の自殺者の推移は、だとすると、基本的に人口構成の自然的な変化によるのではないかとも思えてくる。

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2009.09.26

NHK朝ドラ つばさ

 今朝の156回でNHK連続テレビ小説「つばさ」が終わった。正確にいうと、総集編が12月に新カットを含めて計1時間ほどで放映されるらしい。その時間枠で統一感をもってまとめるのは難しいのではないかなと懸念するが、たぶんそれも私は見るだろう。

cover
つばさ
連続テレビ小説
ドラマ・ガイド
戸田山雅司
 テレビ嫌いの自分が2009年3月30日から同年9月26日まで毎日ドラマなんてよく見たものだと思う。朝ドラを見通したのは「ちゅらさん」以降のことではないか(ところどころ抜けもあったが)。総時間にすると39時間。全3ボックスのDVD(BOX IBOX II)も販売されるようだ。映像の作りとしても特徴的なので意外と売れ、後から再評価されるのではないか。
 「つばさ」は傑作だった。よくこれだけの作品を作り上げたものだなと呆れるほどだった。
 率直に言えば、諸手を挙げてまで絶賛ということはない。私は個人的にアンジェラ・アキが好きではないので主題歌は閉口したし(しかしそのメロディをギターで聴いたときは感動したし、歌詞もすばらしいものだった)、ストーリーのディテールに疑問を残した部分もある。テーマでも今一つ受け入れがたい部分もあった。演技にも部分的には多少の違和感もあった。しかし、そうしたことは一切作品の欠点とはいえない。
 当初この朝ドラを見ようと思ったのは川越が舞台だからだ。川越には個人的に青春の思い出がある。それと、予告編などに見える斬新な映像に心惹かれたからだ。
 物語の設定は、川越の蔵造り家屋の老舗和菓子屋「甘玉堂」である。NHKの朝ドラにありがちなご当地ものと言ってよい。店は家族と菓子職人で経営されているが、20歳の主人公玉木つばさの母(玉木加乃子:高畑淳子)は10年前に家出し、店は吉行和子が演じる祖母玉木千代が仕切り、和菓子作りは風采の上がらない婿(玉木竹雄:中村梅雀)が担っている。
 話は、実際上の主人公と言える高畑淳子演じる玉木加乃子が借金を抱えて帰宅した春から始まる(そして母の失われた青春の治癒を象徴する「二度目の春」で物語は終わる)。借金といえば店は店でも巨額を抱えていたので、蔵造り家屋を精算し、小さな家屋の「甘玉堂」に引っ越し、主人公つばさも職を求めて、コミュニティー・ラジオ放送局「ラジオぽてと」の立ち上げから運営に関わるようになる。
 登場人物は、「甘玉堂」にまつわる人々、「ラジオぽてと」の人々、また、つばさの個人的な交友の3つの圏がある。物語は、その一人一人が負った過去とそれにつながる今の苦しみを、あたかもクリスマス・カレンダーの扉を一つずつ開けるように展開していく。週ごとの挿話の背景には、全体の縦糸として、つばさの恋愛と、母と祖母の確執のストーリーが展開する。
 この物語が私の心を掴んだのは、「この物語こそ、私の世代の物語だ」という痛烈なメッセージを各所に読んだからだ。母、玉木加乃子は、設定では52歳くらいであろうか。父、玉木竹雄も同い年くらい。つまり、私の年である。ラジオを親身に聞くというカルチャーも実際には私の世代でほぼ最後であろう。私の時代の青春の不燃焼、それを引きずる30代から40代の精神的な嵐。社会の時代としてバブル前からバブルの終わり。そうした時代の暗黙の前提が、随所に自然に読み込めた。私の世代のアイドルであった手塚理美や斉藤由貴が、大人の女性として振る舞う姿は、それだけで胸にじんと来るものがあった。
 逆に言えば、私の上の世代、つまり団塊世代やさらにその上の戦後世代、また、私の下の新人類世代の人々には、この物語のもつ、特殊な時代的なメッセージは薄められるのかもしれない。作成側もそれを補うべく意図しているだろうが、むしろ、その時代的メッセージを最後まで曖昧にしていなかったことに、賛辞を送りたい。ありがとう、私の世代の物語を。
 演出は斬新であることから、お茶の間での反発も大きかったようだ。視聴率も今一つ伸びなかったとも聞く。たしかに、おっさん姿のラジオの精霊(イッセー尾形)が登場したり、ちゃぶ台でビキニ姿の女性がサンバを踊ったりという非日常性への表層的な違和感はやむを得ない。洒落や演劇がわからない人がいるなあとも思わない。これは演出的な効果ではなく、作品にとっての必然だったのだから。
 朝ドラという枠で作られていることから、特段に難しい話があるわけでもないので、小難しい評論めいた話をしたいわけではないが、私にはこの作品のテーマはかなり明瞭だった。「つばさ」が暗示するように、「天使」の物語だった。
 古代の人々にとって天には層をなす天界があり、地と天は、天使たちによってつなぎ止められていた。地の人々の関係も、アブラムに寄り添うように天使が導くものだった。「人と人とを結ぶ」天使の愛は、昨今のキーワードでもあるがfraternity(友愛)そのものであり、友愛が元来結社の連帯であるように、「ラジオぽてと」という友愛の結社が描かれた。ラジオの電波は、友愛の革命軍がまず占拠すべき対象だった。
 この物語には悪も悪人も存在しない。誰もが仮託できるような浅薄な正義もない。しかし、悲劇と、結果的には人を深淵に陥れる「悪の力」は、描かれていた。「悪の力」なくして人は個性化できず、個性化なくしては友愛もない。ユングが説いたとおりともいえるが、それが日本のお茶の間に、日本人の普通の生き方として描かれるのは感動的だった。
 「悪の力」はそれ自体では悪ではない。それは死者が我々と隔絶したにも関わらず生存者は死者を内包しながら、どうしようもなく失われたものとしてしか存在できないところに(また死者たちも生者から隔絶して存在せざるをえない懊悩に)、「悪の力」は働く。いや、「悪の力」というより、それ自体がただ「生の力」として歓喜を呼ばなくてはならないなにかだ。
 作者がそうした、小難しいスキームを想定したとは到底思えないが、その歓喜の直感は正鵠で、ところどころにサンバとして、また暴走するトロッコとして描かれた。映像的にもうまく川越という古都の風景の力と調和させていた。死者たちが天使の力によってこの世で踊る姿は、生というものの歓喜をうまく捉えていた(死者真瀬千波のダンスはその最たるものだった)。
 平成生まれの多部未華子はよく演じていたと思う。一回だけ「ラジオぽてと」のある川越キネマの屋上でバレエのように踊るシーンがあり、その動きは美しかった。半年たらずのドラマだったが、彼女は、最初のころと終わりのころで面立ちが変わった。ドラマを演じることで、少女の顔が女優の顔になった。それだけでも、すごいものを見ちゃったなと思った。

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2009.09.25

オバマ大統領の言う、核兵器なき世界の実現にともなう困難に幻想を抱かないということ

 米国時間の24日、国連安全保障理事会議長国である米国のオバマ大統領が提案した首脳級特別会合で、核兵器のない世界を目指す決議案が全会一致で採択された。演説冒頭、オバマ大統領は「核兵器なき世界の実現にともなう困難については、なんら幻想を抱いていない(We harbor no illusions about the difficulty of bringing about a world without nuclear weapons.)」と述べた(参照)。核兵器なき世界に幻想を持つべきでもないし、それは非常な困難を伴うらしい。さて、どんだけ?
 ニューズウィーク国際版副編集長ジョナサン・テッパーマン(Jonathan Tepperman)氏の記事「Why Obama Should Learn to Love the Bomb(オバマはなぜ爆弾を愛するべきなのか)」(参照)が参考になる。同記事は日本版9・30日「核兵器廃絶は世界の平和を崩壊させる」にも微妙に掲載された。微妙な話はあとで。
 今回の安保理会合の採択のように核兵器廃絶は世界の人々の願いであり、その廃絶までは無理であるとしてもせめて核の拡散防止は重要ではないか、と普通考えるものだ。しかし、同記事では、その前提は違うかもしれないとしている。突飛な疑念ではない。


 核兵器が世界を危険なものにしているとは限らない---今ではそう示唆する研究が増えている。むしろ核兵器は世界をより安全な場所にしている可能性がある。
 (中略)
 オバマの理想主義的な訴えが実現する可能性は低い。本気で世界をもっと安全にしたいのなら、米政府にはもっと重要で実行可能な(あるいは実行すべき)措置がある。「核なき世界」という理想論は非現実的であり、ことによると望ましい目標でもない。

 核兵器の存在が世界の平和に役立つという研究は、2つの経験則に基づいている。(1)1945年以降一度も使用されていない、(2)核兵器保有国間では通常の戦争すらなかった。
 この経験則、あるいは歴史はどのように説明付けられるのか。核兵器が世界和平和に貢献しているとみなす学者にそれほど難しい理屈があるわけではない。核兵器を持つ双方の国はそれによって勝利する見込みもないし、そのわりに被害や失うものが大きすぎる、という、よく言われてきた程度のお話にすぎない。しかしそうはいっても、インドとパキスタンが核を保有するようになってから両国がそれなりに平和的な関係になったという事実は、多分にそのお話に真実味を与えてしまう。
 狂気の独裁者に支配された核保有国はどうか。同記事では、それでも最終的に理性が働くだろうとしている。そこまでくるとホントかねとは思うし、オバマ大統領の理想論と同程度の非現実性が感じられなくもない。
 核拡散やテロリストに核兵器が渡る危険性はどうか。同記事はあっさりとそれも少ないとしている。保有国にしてみれば、核兵器は国の宝であり、しかも核兵器というものは扱いづらいからだというのだ。その話も、私などは疑問符が付くが、まったく不合理な説明というものでもないだろう。
 結局、核兵器と世界の現実というのはどうなのか。
 同記事の議論は楽観的に過ぎるとしても、「オバマは世界に核廃絶を訴えているが、この試みが挫折するのは目に見えている(Still, it's worth keeping in mind as Obama coaxes the world toward nuclear disarmament—especially because he's destined to fail.)」という同記事の指摘は、残念ながら、ただの現実だろう。というのも、米国の口舌はさておくとしても、ロシアも中国も核放棄の意思なんかない。むしろ非核兵器によって軍事的優位が保てるという米国の戦略上の演出者であるオバマ大統領に対して、「それなら旧兵器の核兵器でがんばるしかないよ」という態度だ。近く天安門広場でもその手の核兵器を全世界の人が品評することになる。それに加えて北朝鮮を初め、疑惑のミャンマーを含め、途上国も核兵器による武装を望んでいる。
 現実問題として途上国に核兵器保有の意思をもたせないようにしないなら、「核の傘」を提示するしかない。オバマ政権の外交を担うクリントン米国務長官は7月、タイ、プーケットで開催された東南アジア諸国連合(ASEAN)地域フォーラム(ARF)で、イランが核保有するなら、米国は中東地域に「核の傘」を提供し、湾岸域の軍事力を増強すると言明している(参照)。核兵器廃絶をうたいあげるオバマ大統領と、核の傘を提供してもよとするクリントン米国務長官に矛盾はないはずで、一体全体、どう矛盾がないのかを理解することが米国を理解するということだし、現実の世界を認識することだ。
 ところで。
 米国による「核の傘」の話は、ニューズウィークの記事でも言及されている。日本版の翻訳はこう。

しかし、急激な核拡散は考えにくい。ヒラリー・クリントン米国務長官は最近、イランが核保有国になれば、アメリカの「核の傘」を中東に広げると示唆したばかりだ。

 該当するオリジナル記事は、たぶん、ここなんだろう。

But the risks of a rapid spread are low, especially given Secretary of State Hillary Clinton's recent suggestion that the United States would extend a nuclear umbrella over the region, as Washington has over South Korea and Japan, if Iran does complete a bomb.

米国政府が韓国と日本を「核の傘」で覆っているように、米国がこの地域に「核の傘」を延長するとヒラリー・クリントン米国務長官が示唆していることを特段に考慮するなら、イランが核爆弾を完成させたとしても、急速な核拡散のリスクは低い。


 日本版ニューズウィークの記事では、日本と韓国を覆う米国による「核の傘」の部分の訳が抜けている。ちょっとした訳抜けをしてしまうという点で人を責められたものではないが、日本版で日本の話がうまい具合に微妙に抜けているのは、どうなんだろうか。Newsweek本誌編集部も日本版の記事については、もう少しモニターしたほうがいいかもと思えるような記事が増えた印象もあるし。

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2009.09.24

八ッ場ダム問題、雑感

 八ッ場ダムは必要か。都民としてそう問われるなら、私は不要だと思う。そう思う理由は、小河内ダム(参照)がほぼ不要になっていると言ってもよい現状を知っているからだ。
 もちろん水源の問題は都民に限定されない。とりあえず都民ということで言うにすぎないが、都民の水の八割以上は利根川水系に拠っている。ここに至るまで「東京サバク」時代などを挟みいろいろ難しい経緯があったが、現在はよい解決を得ている。
 小河内ダムは、水道専用として竣工時世界最大規模の貯水池をなす、東京市から東京都へ戦争を挟んで推進された国家プロジェクトだった。だが、よって、比較的に短期間に重要性を失った。さらに経済成長の低迷と少子化、農業の衰退が水需要の低下に追い打ちをかけた。
 小河内ダムの意味がそれでまったくなくなったわけではない。東京渇水時の水瓶としての意味はある。ただ、そうしたバックアップ体勢を更に必要とするかといえば、現状を見て、そうだとは言い難い。
 同水系の水需要の想定が低いことは、小泉政権下の国土交通省が2015年度までの長期的な水需給計画の見直し試算で明らかにし、2003年には戸倉ダムが中止された。ただし、この決定は、それに一か月先だつ、八ッ場ダムと湯西川ダムの総事業費見通し倍増とバーターになっていた。むしろ、八ッ場ダムのために戸倉ダムが中止されたと見ることもできる。が、その必要性はこの経緯から見ても水需要とは言い難い。
 治水としてはどうか。八ッ場ダムはもともと1947年キャサリン(カスリーン)台風による利根川決壊で多くの水害者を出したことに端を発している。しかし、2007年の台風9号は利根川治水計画が想定する100年に1度の雨量だったが、現体制で問題がなかった。おそらく利根川水系の治水面でも問題はないだろうし、それを越える想定が八ッ場ダムに含まれているというものでもないだろう。あるいはそうではないのなら、その想定がアピールされてもよいだろう。ブラックスワンこそ歴史を変えるものだ。
 八ッ場ダムはやはり不要なのだろうし、現在ならそうした策定をしても意味はないだろう。八ッ場ダムの問題は、それが必要か不要かという問題ではない。現状まで進んできた八ッ場ダム建設をどう扱うのかということだ。単純に考えれば、不要なものは無くせということになるだろう。そして不要なものに費やす税金は無駄だということになる。
 しかし、中止のために必要となるコストも発生する。コスト面でいうなら、「出社が楽しい経済学(吉本佳生, NHK「出社が楽しい経済学」制作班)」(参照)でも解説していたが、サンクコスト(参照)は無視して、今後のコストが問題になる。昨日の毎日新聞社説「鳩山政権の課題 八ッ場ダム中止 時代錯誤正す「象徴」に」(参照)では、関連コストについてこう述べていた。


すでに約3200億円を投じており、計画通りならあと約1400億円で完成する。中止の場合は、自治体の負担金約2000億円の返還を迫られ、770億円の生活再建関連事業も必要になるだろう。ダム完成後の維持費(年間10億円弱)を差し引いても数百億円高くつく。単純に考えれば、このまま工事を進めた方が得である。

 読み方は二通りある。一つは単純にコスト面で考えるなら中止しないという決断が経済的に合理的だということ。それでも中止するなら、経済面を越えた合理性を政府は提示する必要があるだろう。
 二つ目は、1400億円で完成という計画が疑わしく、経済面でも中止のほうが安上がりになるという主張だ。ネットなのでそうした主張も散見しないわけでもないのだが、その理由は過去の予算のでたらめを述べるだけのものが多く、サンクコストと同じく未来に向けての合理な説明にはなっていない。つまり、シーリングを設定しても1400億円では完成しないというなら、その合理的な試算をやはり明示する必要があるだろう。
 まとめると、経済面を越えた合理性も、またコスト面で妥当な再試算もない現状、コスト面のみから判断からすれば、八ッ場ダム中止の経済合理的な説明はないといえる。
 また実際の地域住民側からもまとまった中止の要望は現時点では出ていない。経済的にも得だし、関連地域住民の合意の歴史があるのに、ここであえて八ッ場ダム建設を覆す合理性は見いだしがたい。
 該当毎日新聞社説はしかし、この先にこういう反論を加えていた。

 だが、八ッ場だけの損得を論じても意味はない。全国で計画・建設中の約140のダムをはじめ、多くの公共事業を洗い直し、そこに組み込まれた利権構造の解体に不可欠な社会的コストと考えるべきなのだ。「ダム完成を前提にしてきた生活を脅かす」という住民の不安に最大限応えるべく多額の補償も必要になるが、それも時代錯誤のツケと言える。高くつけばつくほど、二度と過ちは犯さないものである。

 「八ッ場だけの損得を論じても意味はない」というなら、損得が明瞭な無駄なダムの中止から着手すべきだろう。また、「そこに組み込まれた利権構造の解体に不可欠な社会的コスト」が問題だというなら、利権構造を巧妙に迂回して献金を得ていた民主党代議士のお膝元から、身を切るかたちでダムを停止するほうがより、国民が納得しやすい象徴としての意味合いが強まるだろう。
 八ッ場ダムの問題が混迷しているかに見えるのは、その賛成・反対を、単純に、右派左派のイデオロギーに還元する短絡した枠組みもあるからだ。しかし、もともと八ッ場ダム闘争は成田闘争など安保反対闘争という懐かしの昭和時代の歴史の文脈にあったもので、イデオロギー的な枠組みこそ最古の枠組みかもしれない。とはいえ、その成田闘争では熱田派には柔軟な視点もあった。「「成田の将来」模索の動き 熱田派が地域振興にも視点」(読売新聞1992.9.27)より。

 激しい対立を繰り返してきた空港反対派農民と国との公開討論で生まれた話し合いの機運は「成田」を取り巻く状況を大きく変えた。特に、ここにきて、熱田派を含めた地域住民らに、「成田」の将来について主体的に考える動きが出始めたことが注目される。
 この夏、熱田派の主要メンバー十数人は群馬県長野原町の八ッ場ダムの建設予定地を訪ねた。予定地にある川原湯温泉はダム完成時に湖底に沈む運命で、住民による約四十年にわたる反対運動を乗り越え、今年ようやく用地補償調査協定にたどり着いた歴史を持つ。現在、地域の人たちが温泉街の移転再建計画作りに取り組んでいる。同メンバーらの訪問は、川原湯温泉の人たちの活動を学び、熱田派が練る地域再建構想に役立たせることができないものかと、行われた。
 メンバーたちは、リゾートタウンとして温泉街を再生させることを夢見る旅館経営者の話に熱心に聞き入り、現地を視察した。あるメンバーは、「空港とダムという違いはあるが、長期にわたる地域再建事業に取り組む点では共通している」と共感を示した。

 17年前のことである。現在ではその前提が変わっている。問題は、イデオロギー対立よりも、ダム建設の賛否の行方よりも、この間の歴史に犠牲された住民の視点が根幹に置くかだ。
 八ッ場ダムの問題が、経済合理性を越えての政治判断であるなら、住民視点が最初に考慮されるべきであり、住民側を敵視したり、中止反対派を揶揄・罵倒していく「闘争」はなんらよい解決を産まないだろう。幸い、前原誠司国交相は「地元住民や関係都県、利水者などの理解を得るまでは特定多目的ダム法の基本計画の廃止に関する法律上の手続きを始めることはしない」(参照)と強行姿勢回避を明示しており、慌てず住民との対話を深めていく過程を見守りたい。

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2009.09.22

フィナンシャルタイムズが政権ギャンブルの後で語ったこと

 日本に一か八かのギャンブルを勧めた英国高級紙フィナンシャルタイムズは予想通りの結果が出てどんな感想を洩らすか。民主党政権が成立しての同紙17日付け社説「A steady start for Tokyo’s new rulers(日本新政権の着実なスタート)」(参照)は、ねじくれて曖昧ながらも、考えさせられる意見を述べていた。
 冒頭、いわゆる米国的な鳩山政権イメージを覆し、米国要人を沸騰させた鳩山NYT論文も軽くいなした。


Yukio Hatoyama’s Democrats have barely been in office 24 hours. Yet already they have been painted by some as madcap socialists and by others as merely more of the same. Neither is true.

鳩山由紀夫の民主党は政権を掌握してまだ一日。政権は無鉄砲な社会主義者と見られたり、以前の自民党と変わらぬ勢力とによる見られている。どちらも、間違いだ。

Mr Hatoyama’s essay on “market fundamentalism” has caused consternation in some Washington circles, where it has been received as evidence of Japan’s sharp turn to the left. But that essay was primarily for a domestic audience. It articulated many of the concerns about globalisation’s side effects that helped sweep the DPJ into power. José Manuel Barroso, European Commission president, found nothing in it that did not tally with European views on properly regulated markets.

鳩山氏による市場原理主義とやらの論文は、米国政府要人を恐怖に陥れた。日本が左翼政権に急激に転換した証拠と受け止められたからだ。しかし、あれは国内ポーズにすぎない。グローバリズムの問題点に関心を向けさせ、民主党を政権に就けさせるためのものだ。ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ欧州委員会委員長ですら鳩山氏の見解から、適切な市場規制のEU見解に反するものを見いだすことはできなかった。


 懸案の沖縄問題もだが、そんなの日米間でなんとかしろよと突き放す。

Mr Hatoyama’s remarks on US-Japan ties have more potential to cause tension. His new foreign minister has declared that revising plans for relocating a US base in Okinawa is a high priority. Still, this is an issue that the two countries should be able to manage.

鳩山発言は日米関係により潜在的な緊張をもたらす。この内閣の外務大臣は普天間基地移設見直しを優先課題にうたいあげている。とはいえ、こうした問題は二国間で対処可能である。


 かくしてフィナンシャルタイムズは民主党政権成立を冷ややかに擁護していくのだが、ここは間違いだろう。

Nor is the DPJ merely the Liberal Democratic party in disguise. Many of the party’s heavyweights are LDP defectors, but behind them at least two-thirds of MPs are fresh-faced, some elected for the first time, with a more modern social agenda. True, the DPJ has not coalesced around a coherent ideology. Yet, as Mr Hatoyama says, taking over after half a century of one-party rule is bound to involve trial and error.

民主党は偽装された自民党ではない。たしかに同党の重鎮は自民党出身者だが、新顔は少なくとも党の三分の二はいるし、新人もいる。彼らは時代に適した社会政策を持っている。民主党に一貫したイデオロギーなど存在していない。鳩山氏が言うように、半世紀も自民党という一党支配が続いてきたのだから、なにかと試行錯誤はあるものだ。


 自民党出の重鎮たちには新顔の試行錯誤は困りものだ。この時点でフィナンシャルタイムズは予想できなかっただろうが、民主党新顔たちが勝手に国会議員活動をしないように、すでに小沢大明神名義の通達で、党内規制としてだが、議員立法すら原則禁止にしている。これ、当初、偽文書かと思ったがそうでもなさそうだ。

2009年9月18日
 民主党・会派所属国会議員各位 関係 各位
 政府・与党一元化における政策の決定について
 幹事長 小沢一郎

 日々の党務ご精励に敬意を表し、感謝申し上げます。
 鳩山政権発足にあたり、政府・与党一元化における政策の決定について、別紙の通りとすることといたしましたのでご報告申し上げます。
 議員各位におかれましては、必ずお目通しをいただきますようお願いいたします。
 (別紙)
 1.民主党「次の内閣」を中心とする政策調査会の機能は、全て政府(=内閣)に移行する。
  ①一般行政に関する議論と決定は、政府で行う。従って、それに係る法律案の提出は内閣の責任で政府提案として行う。
(後略)


 民主党議員は「たまに立ったり座ったりする簡単なお仕事です」。
 しかも内閣というか首相がさらなるヘマをしないように、民主党的には内閣より上位に「党首脳会議」(仮称)を設置する。9日付け読売新聞「民主「党首脳会議」新設へ、課題を一元判断」(参照)より。

 民主党は8日、新政権発足後の党の最高意思決定機関として、鳩山代表や小沢幹事長ら主要幹部で構成する「党首脳会議」(仮称)を設ける方針を固めた。
 党首脳会議では、国会対策や選挙対策など党運営に関するあらゆる課題について一元化して判断する。
 民主党では現在、鳩山代表、岡田幹事長、小沢、菅両代表代行、輿石東参院議員会長の5人による「三役懇談会」が事実上の最高意思決定機関となっている。これに対し、党首脳会議は代表、幹事長、政調会長(副総理兼国家戦略相)、参院議員会長、国会対策委員長の5人で発足する予定だ。鳩山代表が内定した人事に当てはめると、鳩山、小沢、菅、輿石の4氏に新たな国対委員長が加わる形となる。

 これで岡田グループを外して新人を一元化し、多数の支持を得た前衛党が国家を運営するという、東アジアに即した政治体制ができあがる。正式設置後の名称はこの分野の先進国にちなんで「常務委員会」だろう。
 フィナンシャルタイムズ社説は冒頭、民主党はベタな社会主義者でも自民党もどきでもないとした。では何だったか。ここが非常に示唆深い。

There is a third hypothesis about the new government: that it will sweep away the postwar consensus and unleash faster growth. That is probably the most deluded of all given Japan’s structural problems.

新政権についての第三の仮説:同政権は戦後合意(the postwar consensus)をぬぐい去り、迅速な経済成長(faster growth)を促進させること。
それは、現存の日本の社会問題全般からすると、ついそう思いたくなることの筆頭だ。

If the DPJ has a coherent philosophy it is to better reconcile market forces with social cohesiveness in the context of China’s rise and Japan’s gradual decline. If it pursues that agenda, many foreign commentators will consider it a failure. But many Japanese would count it a success.

もし民主党が一貫した政治哲学を持っているなら、成長する中国と徐々に衰退していく日本という国際環境を背景に、市場圧力(market forces)と社会的結束(social cohesiveness)を調停しようとするのが賢明だ。その政策を追求するなら、海外の評価としては失敗と見なすだろうが、日本人の多くはそれを成功と見なすだろう。


 単純な英語の読み違えもあるかもしれないが、原文そのもののロジックがわかりづらい。私が大きく読み外しているかもしれないが、自分なりに受け止めたところを書いておこう。
 フィナンシャルタイムズは、民主党について、「戦後合意(the postwar consensus)をぬぐい去り、迅速な経済成長(faster growth)を促進させる」べきだと見なしている。しかし、そうならないだろうという含みもある。
 「迅速な経済成長(faster growth)」はわかりやすいが、「戦後合意(the postwar consensus)」はわかりづらい。冷戦構造における日本の役割を指しているのだろう。第二次世界大戦後、共産主義国化を食い止める橋頭堡にして世界の工場であった日本に、もうその役割を終えたらどうかねと。自民党はもともとは冷戦構造で米国が作り上げた政党でもあった。
 民主党に一貫した政治思想があれば、とフィナンシャルタイムズはいうのだが、実際のところ民主党にはそれは存在していない。しかし、あるとするなら、「市場圧力(market forces)」と「社会的結束(social cohesiveness)」を調停しようとするだろうというのだが、これらは何か。
 前者はグローバル経済を志向した規制緩和だろうし、後者は、いわゆる日本らしさということだろう。日本らしさには、国旗だの国歌などで萌える右派バージョンと、友愛だの格差解消などで萌える左派バージョンがある。どちらも同じ復古的なナショナリズムにすぎない。少子化解消も国家を盛り立てる国家主義だが右派左派も諸手で賛同している。
 グローバリズムに対する右派左派のナショナリズムと成長路線という対立二項を、対中国という文脈でどう調停するのか。中国に日本の政治・経済を開きつつ、かつどうやって日本らしさを失わないようにするか。
 それがうまく行けばそれを日本人は成功と見なすだろうとフィナンシャルタイムズは指摘しているようだが、その時、対外的には批判を浴びるだろうとも予言している。
 対外的に非難を浴びても、日本が親中国政策を取ることが賢明だろうとフィナンシャルタイムズはいいたいのだろうか。それを本当に日本社会が成功とみなすかと問われるなら、ご冗談でしょという気もするのだが。

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2009.09.21

国家戦略局の迷走の先にあるもの

 事態の推移が激しいので、拙速感は否めないが現状でメモしておかないと後に出現する懸念のあるモンスターに戸惑うことにもなりそうだ。話は、民主党の国家戦略局を巡る、迷走とも言える現状とその背後の構図から、その先にあるものを少しだけだが想像してみたい。
 国家戦略局とは何か。それは何をするためのものなのか。表向きの、しかし曖昧な説明はいろいろとある。明確なのは、タメの議論をあげつらうわけではないが、ご当人達がよくわかっていないということだ。国家戦略局と財務省のどちらが、予算に対する決定権を持つか、まるでわからない。
 そのことを18日の産経記事「【新・民主党解剖】第1部(4) 海図なき船出 「すべてこれから」の戦略局」(参照)では、必ずしも正確な報道ではないだろうが、こうコミカルに伝えている。


 首相直属で予算の骨格を決める国家戦略局の前身「国家戦略室」と、行政の無駄遣いを洗い出す「行政刷新会議」。両組織が入居する内閣府本庁2階ではこの日午後、それぞれのトップの菅直人副総理・国家戦略担当相と仙谷由人行政刷新担当相が、鳩山由紀夫首相とともに感慨深げな表情で看板の除幕式に臨んだ。
 「国家戦略局は財務省より強いんだろ?」。今月上旬、担当相に内定していた菅氏に、与党幹部からこんな問い合わせがあった。菅氏はこう率直に答えた。
 「よく分からないんだ。あれもやりたいし、これもやりたい。手探りでやっていくしかない」
 鳩山首相が戦略局構想を打ち出したのは今年5月の党代表選時だった。だが、その後具体像をまとめないまま衆院選に突入し、組織づくりはこれからなのだ。

 管氏を批判したいという意図ではないが、どうもご当人である管氏自身が「国家戦略室」の「予算の骨格を決める」業務を理解していない。
 しかも、ただの夢想家である。20日のNHK日曜討論の発言からも見えてくる。20日産経記事「菅副総理 複数年度予算を表明 “政治主導”後退の可能性」(参照)より。

 「英国は3年ぐらいのめどをたてて、最終的には単年度に落としていく複数年度の予算をやっている。こういう基本的な枠組みをまず考えたい」
 菅氏は20日、英国方式の本格的な複数年度予算に意欲を示した。

 同席していた藤井財務相も苦笑を浮かべていたようだ。話としては面白いし、とある国家の予算論としてなら興味深いとも言える。だが、日本は憲法第86条で「内閣は、毎会計年度の予算を作成し、国会に提出して、その審議を受け議決を経なければならない。」とされているため、管氏の主張である複数年度予算編成には憲法改正が必要になる。単純に言えば、管氏が憲法改正論をぶち上げたとは思えないので、国家戦略局の長にあるまじき失言か、「国家戦略局」という自身の長としての職務を理解できていなかったかのどちらかだろう。失言のほうがましなのだが、後者ではないか。
 こんな状況でよいのだろうかというなら、まったく問題はない。現状、法改正による権能規定を待つ「国家戦略局」ではなく、政令で設置した「国家戦略室」という準備段階の組織ということもあるが、当面のところ、国家戦略局は、実質なんら機能しないことも明らかになっているからだ。財務相との関係が影響している。19日時事記事「予算編成、財務省ペースに=国家戦略局、準備整わず」(参照)より。

 予算編成の主導権をめぐり、財務省と国家戦略局との間で綱引きが始まっている。民主党は当初、首相直属の国家戦略局が予算の大枠や重要施策を決定、財務省は査定などの実務を担う姿を想定していた。しかし、2009年度補正予算の一部執行停止では、財務省が具体化を進め、準備の整わない国家戦略局はほとんど関与していない。藤井裕久財務相は、10年度予算の基本方針も財務省が策定する意向を示しており、「政治主導」は早くも看板倒れの懸念が出ている。

 スケジュール的に見ても、09年度補正予算の執行停止に、組織の片鱗もない国家戦略局が関与することは不可能だと言ってもよい。問題はその後である。エントリの初めに提起したが、次年度において、「国家戦略局と財務省のどちらが、予算に対する決定権を持つか」ということだ。どうも財務省が持ちそうだ。

「予算の編成権はあくまで財務省にある。その大原則は何ら変わらない」。補正執行停止を決めた18日の閣議後会見で、藤井財務相は戦略局をけん制。戦略局は長期的な視点から助言する機関と強調した。

 「国家戦略局」というのは勇ましい名前ながら、財務省が意見を聞く国営シンクタンクということになる。財務省側ではすでに自民党政権から変わることなき円滑な運営を想定している。

 補正執行停止では、民主党の政策調査会の意向も踏まえ、財務省が具体案を練った。戦略局は閣議決定直前の「閣僚委員会」に菅直人副総理・国家戦略相が出席しただけ。財務省首脳は「今回の決定過程は非常に良かった。今後のモデルケースにしたい」と話し、10月初旬にも決定する10年度予算の基本方針も財務省が策定、閣僚委員会を経て閣議決定する「財務省主導」のプロセスを描く。

 当然ながら想定上は、10年度予算については、財務相と国家戦略局がガチンコでぶつかる可能性もある。ぶつかり具合は、同局の法的な権限と組織人員の背景で決まる。実際には、しかし、ガチンコというシーンはないだろう。では、国家戦略局と管氏はどういう位置づけになるのだろうか? 彼らは何をする書き割りなのか?
 その疑問はひとまず中断。
 見通しの背景として財務省と民主党政府の関係を見ておきたい。
 民主党政権が発足してみると、亀井金融・郵政問題担当大臣の大立ち回りで「いきなりクライマックスだぜ」の印象もあるが、ここでも藤井財務相を巡る軋轢がある。面白く描いた20日スポニチ記事「亀井金融相「藤井財務相の意見は聞くが協議ではない」」(参照)より。

 亀井静香金融・郵政改革担当相は20日のNHK番組で、中小企業向け融資の返済猶予制度をめぐり、藤井裕久財務相から慎重論が出たことに対し、新政権で財政と金融の担当大臣が分離したことを指摘した上で「私が財務大臣の知恵を借りながら責任を持ってやっていく」と述べ、制度導入を主体的に実施していく方針を強調した。
 亀井金融相は番組終了後、記者団に「(財務相らの)意見は聞くが、協議ではない。協議をして決めていく話ではない」と述べた。
 一方で、藤井財務相は同日、記者団に「経済が本当に悪くなれば、考える場合もありうるが、日銀はそういう状況と言っていない」として、実施に疑問を投げかけた。

 藤井財務相は18日時点でも警笛を鳴らしてもいた。19日の日経記事「債務返済猶予、藤井財務相は慎重」(参照)より。

 藤井裕久財務相は18日、閣議後の記者会見で、亀井静香郵政・金融担当相が中小・零細企業などの債務返済を3年間猶予する制度の導入を打ち出したことについて「昭和の金融恐慌のときにやったことがあるが、(今が)そういう状況なのか」と述べ、慎重な見方を示した。
 亀井金融相は就任後の記者会見などで、資金繰りに困った中小・零細企業や個人が借金の返済を3年程度、先送りできる制度をつくり、秋の臨時国会へ法案を提出する考えを表明した。財務相は「正式に聞いていない。そんな話になったら政府全体の問題だ」と指摘。政府として検討する段階にまだ入っていないとの認識を示した。

 重要なのは、亀井大臣の大立ち回りを藤井財務相が政府の問題と見なしていない点にある。別の言い方をすれば、経済に関する政府のグリップは藤井財務相が握ってますよ、ということだ。この騒ぎがどういう結末を見せるのか、実は亀井大臣はリフレ政策のためのダース・ヴェイダーで、よって、日本経済はマイルドインフレによって成長軌道に乗っためでたしとなるのか(なるわけねーよね)。常識的に考えれば、亀井大臣を抑えることになるのだが、さてそれは誰? 一見すると鳩山総理のようにも思えるが、そうでもないのかもしれない。
 予算をどうグリップするかについて、財務省と民主党の関係にアングルを絞ると、気になるのは、平成22年度予算編成を巡る、政権樹立前、7日に行われた、直嶋正行氏(当時民主党政調会長)と財務省・丹呉泰健事務次官による国会内会談だ。19日産経新聞「【新・民主党解剖(5)】したたか財務省 さっそく小沢シフト」(参照)より。

 丹呉氏「できるだけ早く新政権としての考え方を示していただかないと(年内編成は)日程的に苦しくなります」
 直嶋氏「かなり考え方が違うよね」
 タイムスケジュールを掲げ、予算編成基準を早く出すように促す丹呉氏。牽制する直嶋氏。予算に関する主導権をめぐる心理戦はこの時点から始まっていた。
 「君は小泉純一郎元首相の秘書官だったね。職務命令で務めただけならいい。だが、小泉構造改革を支持してやったのならば次官を辞めてくれ」
 組閣前、藤井氏はあいさつに訪れた丹呉氏にこう迫った。丹呉氏は「職責を務めただけで(小泉構造改革の是非は)関係ありません」とかわした。

 一見すると、財務省と民主党間には、なあなあではない緊張感が演出されている。産経の記事としてもそこをどう描くかは微妙なところだ。記事は、ここで細川連立政権時代のエピソードを語りだす。

 政権与党の経験がない民主党にあって、小沢氏は財務省を熟知する数少ない議員の一人だ。自民党を飛び出して樹立した細川連立政権で、小沢氏は大蔵省の斎藤次郎事務次官(当時)と組み、武村正義官房長官(同)の頭越しに税率7%の「国民福祉税」構想を推進した。小沢氏は当時、連立8党派の一つにすぎない新生党の代表幹事だったが、大蔵省は「真の権力者」を的確に見抜いていたのだ。

 産経記事の読みはこう続く。

 こんなエピソードもある。7月初旬、民主党の幹部会合。「子ども手当」の実施時期をめぐり、当初案通り平成24年度実施を主張する岡田克也幹事長(当時)と、来夏の参院選を考慮し、一年前倒しを求める鳩山代表らの間で議論は平行線をたどった。
 だが、最後は小沢氏の一言でケリが付いた。「財源は、政権を取ったら出てくるもんだ」。この言葉の裏側には、財務省を手兵にできるという自信があるとみるべきだろう。

 小沢氏が現在でも財務省をグリップできるという読みだ。たぶん、そうなのだろう。
 記事自体のオチはそれほど面白くはない。

 鳩山政権は、新設する首相直属の「国家戦略局」で予算の骨格を決める方針だが、予算編成権を手放したくない財務省は「骨抜き」に動く公算が大きい。財務省をどう手なずけ、政治主導を実現するのか。間合いを間違えば、「脱官僚」が看板倒れに終わりかねない。

 オチがいまひとつさえないは、産経が脱官僚の御旗で、民主党がどう財務省を手なづけるかという枠組みにしているからだ。おそらく事態は逆なのだろう。
 ストーリーのヒントは直嶋氏があからさまにした財務省・丹呉泰健事務次官の位置づけという伏線にある。つまり、「財務省は小泉政権とも協調していたが、今度は民主党と協調してくれるはずだよね」、ということを直嶋氏が言質を取ったに等しい。つまり、直嶋氏の裏にいる小沢氏と財務省側で明文化はされていなくても、ある合意が存在しているということだ。
 合意は両者のメリットにおいて成立する。それは何か?
 民主党が財務省に求めているのは、至極単純。「カネ出せ」 それだけ。
 財務省が求めているものが、単純には見えない。
 財務省が握っているカネや、あるいはカネにつながる権限ならば財務省は拒むだろう。巧妙なトラップや珍妙なトラップを仕掛けてくるだろう。
 しかし、カネの出所が財務省でなければ、財務省の焼け太りメリットが存在することになる。
 なんだろうか、そのカネ? 「極東ブログ:民主党マニフェストの財源論は清和政策研究会提言に似ているのではないか」(参照)で指摘しておいたが、言うまでもない、「離れですき焼き」である。
 では、どうやって「すき焼き代」を巻き上げるか。取り立て人は誰か……。もう明白な構図しか浮かんでこない。
 ということなのではないかと思ったが、またぞろ陰謀論と言われてもな、とためらっていたら、フォーサイト10月号白石均氏「財務省と手を握った民主党『脱官僚』の行方」にあっさり書かれていた。大蔵省を見ていたら普通に考えることですよね。

 財務省は民主党政権に協力する代わりに、政権のお墨付きをもらい、国家戦略局を隠れ蓑に、特別会計に鉈を振るう権限を手に入れる。一方民主党は、財務省の助けを借りて、厚生労働省などの特別会計の無駄を暴きたて、国民にアピールするポイントを稼ぎながら、同時に子ども手当などに必要な財源を捻出できる。ここで両者の利益は一致したのだ。

 正確に言うと、私の読みは少し違う。「すき焼き代」の召し上げ立ち回りは、財務省はやらないだろう。国家戦略局がオモテに出てきて、テレビのゴールデンタイムを使って正義を裁く。あっぱれ、今風大岡越前こと管直人大臣っ、となるのだろう。財務省の焼け太りは、むしろ財務省の抵抗を演出しながら進むのではないか。
 そんなにうまく行くものか? うまく行って、国民にとって悪いストーリーでもない。「政治主導」は偽装表示のようになるが、結果が良ければ、いいんじゃないか、なんてなるんだろうか。

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2009.09.20

[書評]アメリカ人が作った『Shall we dance?』(周防正行)

 『Shall we dance?』を巡る3本目のエントリ。最初は日米の映画とノベライズを扱った「極東ブログ:[書評]Shall we ダンス?(周防正行)」(参照)、2本目は昨日の「極東ブログ:[書評]『Shall we ダンス?』アメリカを行く(周防正行)」(参照)。本書は、『Shall we dance?』の米国版を巡る話。2005年、大田出版からの出版。文庫版はないもよう。

cover
アメリカ人が作った
『Shall we dance?』
周防正行
 前作に比べると、とにかく読んでおいていいんじゃないのという迫力は乏しく、文庫化されないかもしれない。また、前作時点では米国版リメークってあるの?という話があったのでこの本が出てきた。本書では次はブロードウェイのミュージカルかなとあるが、その話はあったのだろうか。なかったんじゃないかな。
 だとすると、これで日本映画『Shall we dance?』に端を発した周防正行監督の物語はここで終わることになる。その間、10年。そしてその時間はこの映画をきっかけとした周防監督とヒロイン草刈民代の結婚生活の歴史でもある。本書からもそのあたりの陰影が伺える。米国版の試写会後、草刈さんが涙するところ。

 ウソ……。なんで? 愕然とした。オリジナル観たときだって泣かなかったじゃないか。そんなによくできていたのか、このリメイク版は。ちょっとショックだった。思わずとがめるように口走っていた。
「泣くかよ、これで」
「違うの。まさちゃん、凄いって」
すみません。家では「まさちゃん」と呼ばれています。

 リチャード・ギアに草刈さんが声をかけられて。

草刈が、落ち着いて答える。
「どうもありがとうございます」
こういうとき民ちゃんは、相手が誰であろうと決して動じることがない。
すみません。家では「たみちゃん」と呼んでいます。

 今の時点からするとさらに4年が経過し、その現在に近いお二人のようすは、NHK「ワンダー×ワンダー」という枠だったと思うが、「シャル・ウィ・“ラスト” ダンス?」という番組で見た。NHKのドキュメンタリーでは、しかし、結婚から二、三年後は草刈さんが本当にバレエを止めてしまうのではないかと周防さんが思っていたと語っていたのが印象深かった。
 本書の「あとがきにかえて」がそうした10年の、重さのようなものを語っている。

 ようやくこの本の原稿を書き終えた深夜、僕はねぎらいの言葉が欲しくて草刈の部屋のドアをノックした。
「やっと終わったよ」
 そう言ってドアを開けると、草刈もまたパソコンに向かって原稿を書いていた。
 キーボードに手を置いたまま、眼鏡をかけた顔をモニターから上げると、草刈は僕を見て言った。
「オリジナルの監督がリメイク版について何か言うのって、カッコ悪くない?」
 僕は、その場に崩れ落ちるしかなかった。
(中略)
 それにしても、この人は直感的に本質的なことを看破するから恐ろしい。


 それでも僕は書いたのだ。
 なぜだ?
 僕は、映画『Shall we dance?』の旅をもうそろそろ終わらせるためにこの本を書いたのだ、と思う。

 周防監督は、「世界デビュー」を果たし、次作の最初の作品を米国の配給会社に見せるというファースト・ルック契約を結んだもの、その契約を果たすことはなかった。なぜか?

 それは、一本の企画も思いつかなかったからだ。
 これは、本当のことである。思いついていたら、この一〇年映画を作らないということはなかった。

 普通に考えれば、30代半ばから40代半ばへの、もっとも仕事の充実の時期に、本質が映画監督の人が映画を作らないということがあるのだろうか。
 あるだと思う。それが必要なこともあるのだろうと思う。ということを、本書で私は私なりにずっしりと感じた。そこに本書の独自の価値もあると思った。
 本書は、米国版『Shall we dance?』作成までのどたばた的紀行文、実際の撮影現場の興味深いエピソード、日本で映画を作る側から実際に米国での映画作成の現場を見たときに感じた思いなど、映画好きにはたまらないテクニカルな話もある。
 また、ここまで書くかなというくらい日米作品の比較を行っている。そしてその比較、あるいは批評は詳細にわたって面白いのだが、どこかしら違和感を残す部分がある。私はどちらかというと米国版のほうが好きなせいもあるだろう。
 ごく小さな挿話だが、ジェニファー・ロペスのスタンドイン(撮影前の代役)の女性の話は、周防さんが注目しているように興味深かった。米国版『Shall we dance?』はシカゴを想定して作成されているが、実際のロケはカナダのウィニペグで行われた。ジェニファー・ロペスのスタンドインの女性は現地で募集された。周防さんの付き添い役のケネディさんは彼女がチリ出身と聞いてたずねた。

 チリから若いときに来たというので、ケネディは、もしかしたら一九七三年にアジェンデが殺されたクーデターの関係で来たのかと思い、そう訊ねたら、彼女は「チリのこと知っているんですか」と驚き、事情を話してくれたそうだ。
 実は彼女の父親はクーデターのときに誘拐され二ヶ月後に殺されたという。父親は、アジェンデの親友で政府の要職に就いていたらしい。

 「ブラック・スワン」のタレブも似たような過去を語っていた。そういえば私はサマンサ・スミスの友だちだという人と対話したことがある。
 米国版『Shall we dance?』はカナダで、そしてスタッフの大半はイギリス人で作成された。それをもってグローバル化というものでもないと思うが、世界というのは、一見スクリーンの向こうにあるように見えながら、人が背負った世界の歴史として、不思議なネットワークをつなげているのかもしれない。

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2009.09.19

[書評]『Shall we ダンス?』アメリカを行く(周防正行)

 先日『Shall we ダンス?』の日米版の映画を見て、ノベライズも読んだ話は「極東ブログ:[書評]Shall we ダンス?(周防正行)」(参照)に書いた。その後、本書、「『Shall we ダンス?』アメリカを行く(周防正行)」(参照)を文庫本のほうで読んだ。

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『Shall we ダンス?』
アメリカを行く
周防正行
 『Shall we ダンス?』日本版の映画が公開されたのは1995年。その後、この映画に目をつけたアメリカの映画配給会社とのやりとりを周防監督自身が紀行文風にまとめたもの。随所の写真も独自の味わいを添えている。文庫化の前は1998年に同題で大田出版から出版されていたものだ(参照)。本書の経緯についてはそれ以上私は知らないが、一部は文藝春秋にも掲載されたようだ。
 話は時間順に展開され、途中同じような話がぐるぐると循環しているような印象もあるが、映画産業論としても、また映画を基軸にした日米欧の体当たり文化論としても非常に興味深い。随所で「ああ、そうなんだよ」と頷くことしきり。
 1995年からの数年といえばインターネットが興隆し、ヤフーやグーグルが現れた時期で日本からするとシリコンバレー的なITビジネスとして新しいトレンドのようにも受け止められたが、本書に描かれる映画配給ビジネスにも同質の熱気が感じられた。映画を見ている人でなくても、そのあたりからの興味で読み通せるだろうし、なんとなく気になったら、騙されたと思って読んでご覧、と言いたくなるようなタイプの書籍であった。
 話の発端は『Shall we ダンス?』を北米で公開したいというオファーを持った若いユダヤ人女性が映画監督である周防正行氏を訪れるところから始まる。そこから、驚くような独白が監督から漏れる。「僕自身には映画を売る権利がない」。

 多分ここで説明しておかなければならないことがある。僕は映画『Shall we ダンス?』の原作者であり、脚本家であり、監督であるにもかかわらず、一切の商業的な権利を持っていないである。なぜなら僕は原作者であり、脚本家であり、監督ではあるけれども、一銭の金も出資していないからだ。この金を出した者だけが一切の権利を持つという、奇妙な原則こそ、日本映画が後生大事にしているルールなのだ。

 映画界の現状は知らないが、そうした実情を聞くと私などは驚く。その意味では周防さんにしてみると、映画を作るというのは仕事でもあるけど、趣味みたいなものとも言える。だから、北米上映についてのオファーを受けてもどう対応してよいのか困惑するというとこから、この物語は始まり、その後も類似の困惑に次ぐ困惑という、一種の謎の世界の冒険譚といったおもむきがある。
 北米での上映が決まると聞けば、あとは字幕を付けるくらいなものだろう。プロモーションは多少大変かもしれないと、そのくらいは推測が付くのだが、これがとんでもないほどの仕事になっていく。まず監督を悩ませたのは、北米上映の映画は2時間以内という暗黙の決まりがあり、2時間を超えている『Shall we ダンス?』がずたずたにされる。さすがにそれはないだろうということで、結局周防監督自身が乗り出す。このカットの話が、逆に映画というものの内面を分解する独自の映画論になっていて面白い。
 プロモーションのためには、北米各地でなんどもインタビューを受けることになり、本書の大半はその各地での紀行文になっているが、うんざりするほど典型的な対応や、理不尽な対応を受ける。ここまでやるかというのが延々と続く。そこが楽しめると本書の価値は高い。結局のところ、周防監督が日本文化を伝える巧まざるミッショナリーになってしまう。
 個人的には、カナダとイギリスでの対応がアメリカとかなり違っているところが興味深いものだった。逆にアメリカにおける映画というもののが独自の文化現象なのだと言えないこともないが、同じ英語を話す国民とはいえ、国民を形成する文化的な情感の形成というのは大きな違いがあるものだ。トロントでは。

 マークの話を聞いているとカナダと日本はとてもよく似ているような気がした。つまりアメリカ文化の大きな影響下にあり、若者は皆アメリカの方を向き、経済的にもアメリカの大きな影響を受けざるを得ない。アメリカとの関係がなければ成立しないような国家体制の中で、国としての独自性は一体どこに求めればいいのだ、という悩み。

 ロンドンでは。

 もちろん探偵はアメリカ以上に大受けだった。そしてこれには驚いたが、ブラックプールが映るだけで大爆笑。どうやら、なんでこんなダサイ街がいきなり出てくるのだという笑いらしいのだが、本当にイギリス人でさえあの街で全英選手権が行われていることを知る人は少なく、もっぱらブラックプールは時代に取り残された労働者階級のダサイ保養地としてのみ認知されているらしいのだった。
 考えてみれば、イギリス人と日本人のジョークの質は近いのかもしれない。お互い、自分のことを皮肉るのが好きな国民だしね。つまり自分を客観的に見て笑い飛ばすのが好きでしょ。わざと自分を貶めたりして。

 1995年は現在の若い人からすると、私が70年代を懐かしむような感覚かもしれない。本書に描かれている文化摩擦のような感覚もすでに終わった時代かもしれない。ただ、今ふうの三行でまとめられない微妙な、人が文化の中で生きているということを伝える不思議な紀行文に今でもなっている珍しい書籍であった。

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2009.09.18

[書評]データで斬る世界不況 エコノミストが挑む30問(小峰隆夫, 岡田恵子, 桑原進, 澤井景子, 鈴木晋, 村田啓子)

 米証券大手リーマン・ブラザーズの経営破綻が日本に伝えられたのが昨年の9月16日。世界金融危機が本格化した契機として、リーマンショックと呼ばれることもある。あれから1年が経ち、振り返る。なぜあの金融危機が起きたのか、今後は防ぐことができるのか、今後の世界経済、また日本経済はどうなるのか。日本では政治経済の話題は新政権の発足に押されていたが、このブログも6年も書いてきたことあり、私なりの総括も考えていた。その際、書籍として一番拠り所となったのが、本書「データで斬る世界不況 エコノミストが挑む30問(小峰隆夫, 岡田恵子, 桑原進, 澤井景子, 鈴木晋, 村田啓子)」(参照)であった。

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データで斬る
世界不況
小峰隆夫他
 本書が出版されたのは4月下旬。しかも内容の原型はオンラインで刻々と公開されたものをその時点でまとめたものだった。私もその時点で読んでいたのだが、むしろ今の時点で書籍として見直すほうがいろいろと得心することが多い。この一年を歴史として振り返るなら、本書は歴史書としても十分な価値があるだろう。むしろ今こそ読み直されてもよい。本書の4月時点での予測は、失業率の予想も含めて、その後も多く的中している。
 内容は標題どおり、経済統計データから今に続く現下の世界不況を考察したもので、議論は事実に依拠している分だけ強固になっている。反面、いわゆる一般者向けの解説書ほど簡単には書かれていない。ある程度の経済知識を持つ人を前提にしている。むしろそれゆえにこそ、浅薄な常識を越えた、意外なほどスリリングな論考が随所に見られる。執筆者を代表した小峰隆夫氏も前書きでそれを本書の特徴として述べている。

 データに基づいて考えると、通常何気なく言われていることとは違った側面が現れてくることがあります。私は、こうして世間に流布している常識を覆すことが、データに基づく経済論議の醍醐味だと思っています。本書でも「ヨーロッパではアメリカに上回る住宅バブルが生じていた」、「金融危機の経済的影響はこれからも持続する」、「日本は必ずしも貿易立国だとは言えない」などの常識破壊型の議論が登場しますので、ぜひ堪能していただきたいと思います。

 実際にデータで裏付けられた現下の不況を見ていくと、浅薄な政治的議論の問題点も同時に明瞭に見えてくる。同じく小峰氏によって書かれた、ある意味での総括は、現下の日本の政治・経済が直面する問題の大枠の歪みを適切に指摘している。

 別の例を挙げましょう。ある論者は「働く人の暮らしよりも、お金を生み出す効率を優先するという新自由主義の考え方が行き着くところまで行っての大破局だ」と指摘しています。しかし筆者は、「働く人の暮らしよりも効率が優先だ」という議論を聞いたことがありませんし、そのように主張する人に会ったこともありません。
 そもそも、働く人の暮らしを豊かにするためには、働く人1人当たりの平均付加価値生産性を高めなければなりません。そのためには効率化が必要で、最も有効な効率化の手段は、市場原理に基づくインセンティブを働かせることです。つまり市場原理をできるだけ生かすことによって経済活動を効率的にしようとするのは、人々の暮らしを豊かにするためなのです。どちらがどちらかに優先するという話ではありません。
 要するに、今回の危機を契機として市場原理的な考え方を批判する人たちは、もともと存在しなかった主張を対象に批判を展開しているように思われます。こうした批判が行き過ぎて、市場原理が本来持っている利点を発揮できないような社会になっていくと、それによって国民の福祉水準は低下してしまうだろうと思います。

 世界金融危機の課題は、「新自由主義」というようななんでも放り込めるごみ箱概念で安易に処分することではなく、世界と各国がさらなる生産性の向上に向けて、より危機を発生しづらい制度設計を論じることだ。この問いかけは世界第二の経済を抱えた日本にとって重要な課題である、あるいは、あったはずだ。
 本書が歴史的な意味を持つのは、危機が深刻さを増した渦中の2月での小峰氏の指摘の的確さもある。経済のL字型の回復が避けられないとしてこう述べていた。

 では、こうした事態に経済政策はどのように対応すべきでしょうか。この点については、筆者は2009年2月に、2つの「モラトリアム(機能停止)」を提案したことがあります。
 1つは、政治抗争のモラトリアムです。危機的な経済状況の中で、与野党が手柄競争や足の引っ張り合いをしていたのでは、結局国民全体が大きな被害を受けることになります。経済危機を乗り切るためには、超党派での経済対策の立案と実施が必要です。

 具体的に2月の日本の政治状況において、経済的には政争のモラトリアムがもっとも求められていたとして、実際にはどうであったか。逆ではなかっただろうか。マスメディアは、私の印象ではヒステリックなほどに「ねじれ解消」と称して内閣の解散と衆院選挙を求めていた。特に2月17日の中川昭一財務・金融相の辞任には解散の声が高まっていた。民主党管代表(当時)は2月19日の衆院予算委員会で「国民の信頼を得られていると思うなら衆院解散すればいいし、そうでないなら即座に辞めてください」と麻生首相(当時)にきびしく迫った。
 しかし、あの時点で選挙を実施すれば自民党はその時点で崩壊し、危機の対応は確実に遅れた。実際、ぎりぎりになった衆院選挙後の政権交代で予想通り出現した民主党新政権は、二兆円規模の予算について今年度中の執行を停止しており、次年度の実施にはかなりの財政ラグが発生する。それだけでもすでに失政といえる。実質的な政治的なモラトリアムを担った麻生前総理の決断は正しかったと私は思う。
 もう1つの指摘も痛烈だ。

 もう1つは、長期プランのモラトリアムです。短期的な危機と同時に、日本経済が長期的な課題を抱えていることは事実です。財政の健全化、年金の立て直しなどがそれです。しかし長期的課題に取り組むには、ある程度の確からしさを持った経済展望が必要です。財政の健全化目標を設定するためには税収の見通しが不可欠ですし、そのためには成長率の想定が必要です。

 2月の提言とはいえ、そして現在世界不況はどん底からは立ち直ってきたとはいえ、本質的にはまだ小峰氏が主張する長期プランのモラトリアムであるべき時期だろう。よって、現在も長期プランのモラトリアムを取るべきだろう。しかし、国民の選択はその全くの逆であった。鳩山総理が麻生元総理に「首相経験者として指導、助言を賜りたい」と要請したとき、「ぜひ頑張ってほしい。日本の針路を間違わないようにしてほしい」と応じたのは、その懸念を覚えたからだろうと察する。
 本書の構成だが、副題に「エコノミストが挑む30問」とあるように、問題を立ててそれに答えるという形式になっている。

Q1 住宅バブルはなぜ起きたか?
Q2 経済理論はサブプライム問題をどう説明するか?
Q3 証券化が急激に進んだのはなぜか?
Q4 住宅バブルはどのように崩壊したか?
Q5 日本のバブルと比較すると何がわかるか?
Q6 世界経済が急降下したのはなぜか?
Q7 アメリカよりヨーロッパのほうが深刻か?
Q8 金融危機のインパクトはどれほど大きいか?
Q9 住宅バブルがどのように消費を刺激したか?
Q10 アメリカの金融対策は効果があるか?
Q11 大恐慌と何が同じで何が違うか?
Q12 ケインズ主義が復活したのか?
Q13 国際協調はうまくいったか?
Q14 ビッグスリー救済の問題は何か?
Q15 日本の政策の方向感覚はおかしいか?
Q16 日本の景気はどこまで悪化するか?
Q17 日本の金融機関への影響は本当に軽いか?
Q18 雇用削減はどこまで進むか?
Q19 産業界への影響はどれほど深刻か?
Q20 家計はどれくらい打撃を受けたか?
Q21 日本でデフレは進行するか?
Q22 アメリカ経済はいつ反転するか?
Q23 デカップリング論は幻だったのか?
Q24 ドルは基軸通貨でなくなるか?
Q25 金融監督は厳しくすべきか?
Q26 グローバル化は反転するか?
Q27 金融立国論は幻だったのか?
Q28 アメリカの過剰消費体質は改善されるか?
Q29 パラダイム転換は起きるか?
Q30 日本経済はどこへいくのか?

 考察はどれもデータに裏付けられており、議論はデータと照合しやすい。もっとも、どのデータを選び、どのように切り出し、どこに重点をおいてどのよう議論するかについては異論もあるだろう。だが、データを抜きにした「新自由主義」批判といった幻想は避けられる。
 コラムの他に以下のような付録的なまとめもあり、これらも今という時代が歴史に変わっていくなかで歴史書的な価値を高めている。

補論1 IS-LMモデルによる危機の拡大の説明
補論2 テイラー・ルールによる“FRB犯人説”の検証
付表1 各国の金融対策一覧
付表2 年表

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2009.09.16

鳩山内閣組閣、雑感

 鳩山内閣の閣僚名簿が発表され、今日から民主党政権が発足する。閣僚名簿を見てのごく簡単な感想をブログとして書き留めておきたい。名簿は次のようになった。


首  相         鳩山由紀夫(民 主)62
副総理・国家戦略     菅  直人(民 主)62
総  務・地域主権    原口 一博(民 主)50
法  務         千葉 景子(民 主)61
外  務         岡田 克也(民 主)56
財  務         藤井 裕久(民 主)77
文部科学         川端 達夫(民 主)64
厚生労働・年金改革    長妻  昭(民 主)49
農林水産         赤松 広隆(民 主)61
経済産業         直嶋 正行(民 主)63
国土交通・防災      前原 誠司(民 主)47
環  境         小沢 鋭仁(民 主)55
防  衛         北沢 俊美(民 主)71
官  房         平野 博文(民 主)60
国家公安・拉致問題    中井  洽(民 主)67
行政刷新・公務員制度改革 仙谷 由人(民 主)63
少子化・消費者      福島 瑞穂(社 民)53
郵政・金融        亀井 静香(国民新)72

 一番の感想は、年寄りが多いなあというものだ。顔ぶれだけ見てると、政権交代、新政権、刷新といった印象は受けない。年寄りの顔が変わったかなくらいだ。逆にそのあたりがそれなりに落ち着きのある政府ということでもあるのだろう。中でも、ほぼ決まっているはずなのになかなか正式な蓋が開かなかった財務相の藤井裕久さんは77歳。前政権の麻生元首相が、今後の日本は高齢者も元気なら働いてほしいといった趣旨のことを言っていたが、それを民主党も実践しそうだ。
 しかも今回の閣僚名簿で、一番の注目は最長老の藤井財務相だろう。というのも、民主党政権の命運は端的に言えば景気の動向によって決まる。これから年末から来年に向けて、日本の景気が低迷すれば、いくらバラマキをやったところで政権は支持されない。どうなるのか。その一番のキーマンになるのがこのご老体である。
 藤井財務相はすでに任に当たる前から、円高に好意的、かつ為替介入に否定的な発言を繰り返してきたこともあり、今日は円高が1ドル=90円22銭前後まで進み、その後少し戻した。おそらく90円台を切って80円台という数値を見ることになるのではないか。反面、株価は上昇した。新政権の産業面からの不安は顕在化していないし、このまま推移すればよいだろう。
 藤井財務相への懸念は、以前鳩山総理が述べた、これ以上赤字は増やさないという発言(参照)をどの程度受け止めているかだが、すでに赤字国債もありうると取れる発言もあった。13日読売新聞「景気次第で新対策、赤字国債も…民主・藤井氏」(参照)より。

 民主党の藤井裕久最高顧問は13日、テレビ朝日の番組で、新政権誕生後の経済政策に関し、「景気が『二番底』になってきたら、景気対策をやる」と述べ、景気が悪化した場合、新政権は新たな対策を講じるとの考えを示した。
 財源確保のための国債発行についても「あり得る」と述べ、赤字国債発行の可能性もあるとの見方を示した。

 読売だけの思い入れ了解ではないことは、同日日経新聞「国債発行「ありうる」 民主・藤井氏」(参照)からもわかる。率直なところ、各国が財政出動しているときでなければ財政出動の効果は薄いのだから、麻生政権のように景気に柔軟に対応する可能性が出てきたという点では好ましい。
 それでも、7月8日読売新聞記事「民主バラ色公約、イバラの財源」では、民主党政策の財源について気がかりな報道があった。

「空想と幻想の世界で遊ぶのは楽しいが、国民生活がそれによって保障されるという錯覚を与えることはほとんど犯罪に近い」
 与謝野財務・金融相は6日の記者会見で、実現に疑問を呈した。
 民主党でも、「想定通り歳出をカットするには、相当の抵抗がある」という声が少なくない。
 1.3兆円を捻出するとしている「公共事業の半減」には、地元自治体の強い反対が予想される。目玉政策の子ども手当を実現するため、これまで子育て支援の役割を担っていた所得控除を見直すことにしているが、子どものいない世帯には増税となるため、批判を懸念する向きもある。衆院定数の80削減による歳費カットを行うには、比例選の議席減に反対する社民党を説得しなければならない。
 財源を重視する岡田幹事長は「税収などはもっと厳しく見積もった方がいい」と指示し、新規政策の総額も小沢前代表当時の20.5兆円から16.8兆円に下方修正した。それでも、「政権を獲得しないと財政の内実は分からないし、財源を作れと言えば出てくるはずだ」という楽観論が根強い。
 7日の常任幹事会。大蔵省OBで蔵相を務めた藤井裕久最高顧問は、財源を論じる若手議員にこう語りかけたという。
 「財源にはそこまで触れなくていいんだ。どうにかなるし、どうにもならなかったら、ごめんなさいと言えばいいじゃないか」

 小沢幹事長も同種の意見を述べていたものだが、実際に、「ごめんなさい」と言われる局面にならないことを祈りたい。
 新閣僚の顔ぶれに戻ると、年寄りに交じって、40代50代を見渡すと、厚生労働・年金改革担当の長妻昭氏など、該当分野の専門家を当てており、困難な実務での活躍が期待できる。岡田克也氏が外務相であるのはしかたがないだろう。ただ、防衛相には北沢俊美氏が適任ではないとは思えないが、前原誠司氏を当てるべきだったのではないかとは思った。
 連立として社民・国民から閣僚が入ることは不自然ではなく、どこに嵌めるのかというパズルは興味を引くもので、事実婚でありながら母親として子育ての経験を持ち、また未婚者から子供を持たないという選択をした女性にまで配慮できる福島瑞穂氏を少子化・消費者担当に当てたのは良い人選だっただろう。
 亀井静香氏が郵政・金融担当になったのは、率直に言って驚いた。金融相は英語では"bank minister"とされるように銀行行政に関わることから、内外の銀行関係者も驚いたようだ。亡き新井将敬議員が自決したとき妻以外に遺言を託したただ一人の人、亀井静香氏にはほかにもいろいろ華麗ともいえる経歴があり、今後マスコミなどの話題になるかもしれない。銀行関係者にしてみると、業績悪化の中小企業に対して銀行からの借金の元本返済を猶予する「支払猶予制度」(モラトリアム)を導入するの意向を示していることが当面の不安材料だろう。今日の銀行株は下がった。銀行収益の悪化が予想されたためだが、おそらくモラトリアムは法的に実現は困難なので、明日以降はもち返すのではないだろうか。
 亀井氏のサプライズには郵政担当もあり、もとより小泉政権の郵政民営化に反対して結党した国民新党であることから、郵政民営化見直しに活躍されるのだろうと期待される。まず、連立合意でもある日本郵政などの株式売却が凍結されるだろう。また、日本郵政の西川善文社長には「自発的な辞任」を求めていくと明言している。
 というところで、なぜ「自発的な辞任」を求めるのかと考えてみるわかるが、日本郵政の監督権限は総務相にあり、郵政担当相といってもその権限はない。そしてもう一方の郵政会社への権限として株主権を考えるとこれも財務相にあって、やはり郵政担当相にはない。そう考えてみると、「郵政担当相」という看板は誰が考えたものか、絶妙な仕掛けになっている。小沢さんの創案であろうか。
 郵政民営化から国営化への逆戻しはすでに財投改革の逆転もできないことから、郵貯・簡保については見直しは難しいだろうし、不便が問われているのは津々浦々の窓口業務なので、郵政担当相の実質的な仕事は郵便のユニバーサルサービスに限定されるのではないだろうか。
 他に閣僚人事については、菅直人氏が副総理と兼任する国家戦略担当が重要だが、どのような機能をするのかはまるで予想が付かない。実際には指揮系の混乱に帰着するような懸念もある。
 閣僚人事以外では、ネットでは話題になっているが、以前約束された記者クラブの廃止の公約については、反故になりそうな雲行きだ。民主党しては今後の漸進的に開放する予定があるのかもしれないが、政権へのリスクとして閉鎖性は維持されそうな印象がある。

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2009.09.14

[書評]農協の大罪 「農政トライアングル」が招く日本の食糧不安(山下一仁)

 農政アナリストの山下一仁さんは、昨年までだったか、私が毎朝聴くNHKラジオで決まった枠をもって農政関連の話をしていた。その切れ味の鋭さから氏の意見をその後もおりを触れて傾聴してきたが、今年の年頭、本書「農協の大罪」(参照)が出て少し驚いた。著作は専門的な内容に限定されるとなんとなく思っていたのに、一般向けの書籍でわかりやすうえ、過激であったことだ。

cover
農協の大罪
山下一仁
(宝島社新書)
 「過激」という表現は正確ではない。高校生でもわかることが普通に理路整然と書かれているに過ぎない。農協がいかに日本の農業を滅ぼしたか、すっきりわかる。つまり、それが「過激」であると言うことになる。フォーサイト9月号記事「どこへ言った民主党『農政の理念』」で知ったのだが、本書は全国農業協同組合中央会(全中:JA)の「禁書」に指定されたらしい。妙に納得した。
 日本という国の空気を多少なり知った大人なら、農協批判が逆鱗に触れる話題であることはわかる。以前の山下さんのラジオの話でも概要はわかったが、ここまではずばりと踏み込んでいなかった。本書を読みながら「山下さん、農水省を辞められてからずいぶん腹を括ったものだな」というのと、いわゆる愛国者を標榜する人とはまったく異なり、「こういう人こそ本当の国士なんだろう」と感慨深かった。
 テーマは標題どおり、日本国の農業を滅ぼした「農協の大罪」である。主張はそれほど込み入ってはいないが、仔細に読むと、農政学者でもあった柳田国男の論考など戦前の農政史の課題から、戦後直後のGHQ改革などもきちんと踏まえており、かなり骨太な著作になっている。こういうと逆に失礼かもしれないが、「極東ブログ:[書評]新しい労働社会―雇用システムの再構築へ(濱口桂一郎)」(参照)で触れた同書のように、岩波新書のほうがラインナップ上は適合しているという印象は否めない。宝島新書の気概の一冊でもあるだろう。
 本書が出てから半年以上経つ。深い感銘を与える書籍でもあり、多くの日本人が読まれるべき著作だと確信しながらも私は、今回の政権交代の状況で本書がどういう意味をもつのかは考えあぐねていた。
 本書で指摘されるように、農政の問題をこじらせたのは、農協のみならず、本書の副題に「農政トライアングル」とあるように、農協・自民党・農水省という権力のトライアングルである。自民党が農協下の農民票を期待して農水省にその便宜のための政策を提言する。農水省は提言を受けて農協に補助金を回す。わかりやすい仕組みだ(こうした仕組み自体が悪いわけではない)。しかし、政権交代によって自民党の農林族は事実上消えることになる。では、民主党がこのトライアングルを崩し、山下氏の指摘する農政問題が解決に向かうのか。そこが私にはずっとわからないままでいた。劣勢に立たされることになる農協はどうなるのだろう。この間の変化を本書を念頭に見ていた。
 農協の苛立ちは、すでに「極東ブログ:日米FTAについて民主党の七転八倒」(参照)で触れたが、民主党マニフェストの日米FTAの変更および個別補償の純粋バラマキに結実している。率直のところ、民主党の見事な腰抜け具合だ。自民党がブレる政党と揶揄していたが、ぶれない自民党のほうがはるかに問題でもあった。
 「だめだ、民主党」と思ったが、小沢大明神は「農協がわいわい言っているケースもあるそうだが、全くためにする議論だ」(参照)とつっぱね、民主党の真の屋台骨が小沢さんであることを示した。これがどう維持されるのかは、インド洋給油停止後の氏の国際治安支援部隊(ISAF)論と同様、不明だ。
 個別補償のバラマキだが、先の農政トライアングルでいえば、農協の下にある農家への補償を農協をスルーして行うという意味もあり、農協潰しの含みがある。とはいえ、この問題はそう単純ではない。山下氏も個別補償に賛成しているが、それどころかこの政策自身山下氏に帰するもののようでもあるが、重要性は専業農家への選抜にある。だが、民主党にはそのビジョンはなさそうだ。ちなみに、民主党も同意見かは知らないが、私は山下氏と異なり、「兼業農家も含めてただばらまけばよい」と考えている。兼業農家は実質高齢者問題であり、バラマキは一種の年金だと割り切ってよいだろうと。なんだかんだいっても国土を守ってこられたお年寄りに国は見返りをすべきだろうと。そう思っている。
 民主党によって農政の根幹問題は変化するだろうか? 難しいだろう。農政トライアングルの問題は、農協を日干しにすれば解消するものではなく、農水省の実質的な解体を含む。そこまでのビジョンも民主党にはなさそうだ。それに参院選を前に農協側からの最後の抵抗が予想され、大きな改革はそもそも打ち出せないだろう。
 話を本書の基本の枠組みに戻し、農協の何が問題なのか? 簡単に言えば、農協が日本の農業という点では農家を代表していないことだ。では農協とは何か。ごく簡単にいえば、金融機関である。大雑把に言えばと、留保はするが、GHQの農地解放によって小作から自立した農民は、ある意味で無償で土地を得た。これが日本の経済成長によって実質資本化され、農協という金融機関が吸い込んだ。こうした農民は小規模経営でもあり、国際市場に晒される農産物の生産者としてみれば、大半は兼業であり、勝負にならない。そこで農協は、いわば半農の層を農業専門に自立しないように片手間の稲作に保証金を付けるように農政トライアングルを形成した。これが米価の仕組みでもあり、当然ながら、兼業農家は潰れないが日本の農業は衰退することになった。
 もっとも日本の農業がすべて兼業の稲作ではない。むしろ専業的に自立している農家は、こうした農家に言い方は悪いが、農協に飼い慣らされているわけではない。それでも、農協下の兼業農家は異様なほど大きく、奇妙なパラドックスが発生する。

 日本における06年の農業総産出額は8.5兆円である。これはパナソニック1社の売上額約9.1兆円にも及ばない。パナソニックの従業員は30万人弱なのに、農業では、農家戸数は285万戸、農協職員だけで31万人、農協の組合員は約500万人、准組合員は約440万人もいる。GDPに占める農業の割合は1%にすぎなのに、日本の成人人口の1割が農協の職員、組合員、准組合員ということになる。

 ひどい言い方になるが、パナソニックにやや劣る規模と社員数を持つノーキョーという企業を想定するなら、この企業は会員の政治力で政府を介した配分によって成立していると見ていいだろう。では日本の農業は?

 06年の農業のGDP(国内総生産)は4.7兆円だ。しかしこの数字は、関税や価格支持(高い価格で農家所得を保証する政策)の農業保護によって実現されたところが大きく、OECD(経済協力開発機構)が計測した農業保護額(PSE)は、農家のGDPとほぼ同じである。つまり、保護がなければ、日本の農業のGDPはゼロとなってしまうのだ。

 こうした日本の農業をどうするのか。食の安全保障はどうなるのか。本書ではその具体的な打開策を展開しており、理論的にはそれしか解答はないだろう。また、今後のWTOやFTAの動向についてもきちんとした枠組みを説明している。
 悲観的な私はというと、そうした解決の道に日本が進むとは思えない。おそらく10年、20年のスパンをかけて、金融機関としての農協がじり貧に崩壊し、農家も高齢化でじわじわと解体していくのだろうと思う。

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2009.09.13

米国オバマ大統領の核兵器廃絶論が行き着く平和

 「サイボーグ009」を衛星放送で見た。昨年だっただろうか。白黒番組で、かつてリアルタイムで見た記憶がよみがえり、不思議な思いに駆られた。私は知らなかったのだが、後、カラー・アニメになってからコスチュームが赤で襟巻きがやたらと長くなっていた。ビッグエックスとか食パンマンのような白コスチュームだとずっと思っていた。カラー化作品ではキャラも少し変わっていた。元のサイボーグ009の各キャラは現代からすると考えようによってはとんでもないのだが、それが時代というものだろう。あのころのキャラはそれぞれに思い入れがあるが、赤ん坊の001も強烈だった。TVで見たのか雑誌で見たのか忘れたが、001の超能力で世界の核兵器が無効化されるという話があった。核廃絶の祈りはこうして世界に広まるのかと子供ながらに感動したものだが、後になって考えてみると、そんなの赤ん坊の夢という意味だよな、バブー。
 赤ん坊の夢を未だに追っている人たちもいて、その夢には001のようなバブーなヒーローが必要になる。米国オバマ大統領が4月5日チェコの首都プラハで行った演説を「核廃絶へ具体的な目標示す」と報道しちゃう朝日新聞(参照)とかもある。バブーな夢だろ? それが具体的かよ?


 その目標に向けた道筋として、核軍縮や核不拡散の国際的な制度強化を主導する考えを打ち出した。具体的には、(1)核軍縮(2)核不拡散体制の強化(3)核テロ防止を柱として挙げた。
 (1)核軍縮 ロシアとの間で第1次戦略兵器削減条約(START1)の後継条約を12月までに結ぶ目標を確認した。議会の一部に反対が根強いCTBTの批准実現には「早急かつ意欲的に取り組む」と表明。核兵器の原料となる兵器級核物質の生産を停止する新条約(カットオフ条約)交渉の妥結を目指す考えを示した。
 (2)核不拡散 国際的な核査察体制を強化するのに加えて、北朝鮮やイランのようなルール違反の国への対応として、国連安保理に自動的に付託する措置など、罰則強化に取り組む考えを示した。一方、原子力の民生利用促進のため、核燃料供給を肩代わりする国際的枠組みも提案した。
 (3)核テロ防止 4年以内に世界中の核物質防護体制を確立することをめざすと表明。核の闇市場の撲滅に向けて、核管理に関する首脳級の国際会議を1年以内に主催する方針を明らかにした。

 具体的といえば具体的かもしれない。が、それって普通に「核廃絶へ具体的な目標」ではなく、「冷戦後の米国イデオロギー秩序維持のための軍事優位の目標」でしょ、と思う。意外とそう思っていない人もいるのを最近になって知って驚いた。我ながらどうも浮世離れしている。今更だが、オバマのプラハ演説を振り返って見よう。オリジナルはホワイトハウスに(参照)、公式翻訳は米国の日本大使館に(参照)ある。
 これがチェコの首都プラハで行われたのにはベタな理由がある、というかそんなの誰でもわかるでしょと思っていたが、そうでもない人がいるかもしれない。簡単に触れておく。まずオバマ大統領、曰く、

 私が生まれたころ、世界は分裂しており、私たちの国は今とは大きく異なる状況に直面していました。当時、私のような人間がいつの日か米国大統領になると予想する人は、ほとんどいませんでした。米国大統領がいつの日かこのようにプラハの聴衆を前に話をすることができるようになると予想する人は、ほとんどいませんでした。そして、チェコ共和国が自由な国となり、北大西洋条約機構(NATO)の一員となり、統一されたヨーロッパを指導する立場になると予想する人はほとんどいませんでした。そのような考えは、夢のような話として片付けられたでしょう。
 私たちが今日ここにいるのは、世界は変わることができないという声を意に介さなかった大勢の人々のおかげです。
 私たちが今日ここにいるのは、壁のどちら側に住んでいようとも、またどのような外見であろうとも、すべての人間に自由という権利があると主張し、そのために危険を冒した人々の勇気のおかげです。
 私たちが今日ここにいるのは、プラハの春のおかげです。信念に基づき、ひたすら自由と機会を追求する行動が、戦車と武器の力で国民の意思を弾圧しようとする人々を恥じ入らせてくれたおかげです。

 重要なのは「プラハの春」だ。ウィキペディアを見ると(参照)と「プラハの春(プラハのはる、チェコ語:Pražské jaro〔プラジュスケー・ヤロ〕、スロヴァキア語:Pražská jar〔プラジュスカー・ヤル〕)は、1968年に起こったチェコスロヴァキアの変革運動」とあり、その先いろいろ書かれていて大間違いもないのだが、どうも要領を得ない。
 大辞泉を借りると「チェコスロバキアで1968年の春から夏にかけて、新任のドプチェク党第一書記の下に一連の自由化政策がとられた状況をいう」と簡素だ。つまり、冷戦下、社会主義ソ連の弾圧の下、チェコの市民が自由を求めて立ち上がろうとした春のことだが、その夏には「ソ連・東欧軍の介入により弾圧された」ということ。
 社会主義国は、天安門事件でもそうだったが、戦車がだだだと市民の前に進み出て弾圧に入るものだった。
 冷戦が本格化する前に日本は偶然、沖縄以外の内地は冷戦構造で引き裂かれずに済んだ(なのですっかり内地は沖縄の戦後ことを忘れた)。もっとも内地はイデオロギー的には引き裂かれ、今の民主党政権にまで至るのだが、逆にその橋頭堡たるべき西側の資金もつぎ込まれ自民党ができたりしていた。それでもカネで済めばいいほうだ。チェコ市民は自由を求めれば他国から軍の介入があった。そのソ連を継いだロシアの脅威をいまだチェコの人々は感じている。実際、現在でも生活に必要な天然ガスはロシアの意のまま、ミサイルも射程距離内、別の国を圧力のための傀儡に使うかもしれない。「だから、オバマさん、いざとなったら助けてね」ということで大歓迎したのであって、核廃絶に共感というだけのものではない。で、オバマ大統領はそれに答えられるか。ちと照れていた。

 私たちが今日ここにいるのは、今から20年前に、約束された新しい日の到来と、あまりに長い間与えられないままだった基本的人権を求めて、街頭デモを行ったプラハの市民のおかげです。「Sametová revoluce」、すなわち「ビロード革命」は、私たちに多くのことを教えてくれました。平和的な抗議が帝国の基礎を揺るがし、イデオロギーの空虚さを明るみに出すことができること、小国が世界の出来事に極めて重要な役割を果たせること、若者が先頭に立って旧来の対立を克服することができること、そして精神的なリーダーシップはいかなる武器よりも強力であるということを教えてくれたのです

 このあたり、ぶっちゃけ「いや米国にそんなに期待されてもね、ウクライナやグルジアみたいな期待はだめよん、平和にやってちょーだい」という弁解。笑いを取るところだろ、なのだが、当事者となるとなかなか笑えない。オバマの演説ってこういうところが、実はすごく難しい含みがあったりする、いや皮肉じゃなくて(先日の医療保険改革の議会演説とかも)。
 先の「プラハの春」の引用に戻る。重要なのは「プラハの春」の含みもだが、もう一つ重要なのは、NATO(北大西洋条約機構)だ。「そして、チェコ共和国が自由な国となり、北大西洋条約機構(NATO)の一員となり、統一されたヨーロッパを指導する立場になると予想する人はほとんどいませんでした」と。これ何を言っているかわからん人がいるかもしれない。
 この先に関連があるのを読んでみよう。

 今年は、チェコ共和国はNATO加盟10周年を迎えます。20世紀には、チェコ共和国が参加することなく決断が下されたことが何度もありました。大国が皆さんを失望させ、あるいは皆さんの意見を聞かずに皆さんの運命を決めることもありました。私はここで約束します。米国は決してチェコ国民に背を向けることはない、と。

 これがまた微妙な話。ようするに「プラハの春」で米国がチェコ市民を見捨てたのは許してくれ、と、それを理由に米国を見捨てるのも止めてくれというのだが、あれ? 大国米国を見捨てるというのは、いかなる意味だろうか? こういうこと。

 米国が攻撃を受けたとき、チェコ共和国の国民はこの約束を守りました。何千もの人々が米国の国土で殺害されたとき、NATOはそれに呼応しました。アフガニスタンにおけるNATOの任務は、大西洋の両側の人々の安全にとって不可欠なものです。私たちは、ニューヨークからロンドンまで各地を攻撃してきた、まさにそのアルカイダ・テロリストを標的とし、アフガニスタン国民が自らの将来に責任を負えるよう支援しています。私たちは、自由主義諸国が、共通の安全保障のために提携できることを実証しています。そして私は、米国民が、この努力に際してチェコ国民が払った犠牲に敬意を表し、犠牲となった方々を追悼していることをお伝えしたいと思います。

 セプテンバー・イレブンで米国が「アルカイダ」という敵の攻撃にあったとき(と米国民は理解している)、その敵と目される勢力が潜む拠点としてアフガニスタンの戦争で「NATOとしてチェコの人が戦ってくれてありがとう」というのが、米国を見捨てないでくれという意味だが、もうちょっとぶっちゃけて言わないとわからん人もいるかもしれないので、繰り返すと、「アフガニスタン戦争にチェコが参加するならロシアから守ってあげるよ」ということだ。さらにぶっちゃけてチェコを日本に置き換えると……いやまあ、そのくらいわかれよと思うのだけど。
 こうした前段があって、いわばチェコ市民との双務的な軍事同盟の確認ができて、それから、核問題の話に入るというのがプラハ演説の仕組みだ。つまり、基本的にこの軍事同盟のフレームワークが核問題の意味を決めているということだなのだ。だから、その前段を済ませてこう始まる。

 今日私が重点を置いてお話しする課題のひとつは、この両国の安全保障にとって、また世界の平和にとって根本的な課題、すなわち21世紀における核兵器の未来、という問題です。

 冷戦時代は、冷戦核が巨大化しているため米ソを互いに刺激するのはとんでもない危険であり、ちょっとやそっとでは軍は動けなかった(代理戦争をするくらい)。そのリスクを考えて擬似的な平和があり、日本みたいに一歩引いたところだとたまたまマジな平和だったが、チェコみたいな地域では米国が一歩引くから痛い目にあった。
 冷戦時代は終わり、今更大国が冷戦核を使うわけにはいかないし、ソ連をついだロシアだってそんなことはわかっているから、冷戦核の廃絶については、米ロは日本を巻き込んでとても順調にやっている。
 その点では米ロの合意はできているのだが、問題は、ミャンマーのように国内貧困をどうにかしたらの途上国とか、途上国的な市民社会しかないのにやたらとでっかい国土を背景に軍事独裁をやっている国とか、同じイスラム教国でも宗派が違って核武装で君臨したい国とかが、冷戦のパロディのような冷戦核を保持しようとしている現在、そいつら相手に冷戦核のゲームをやるわけにはいかない。じゃあ、どうしましょうかという話が、オバマさんの話の流れだった。だからこういう話が続く。

 今日、冷戦はなくなりましたが、何千発もの核兵器はまだ存在しています。歴史の奇妙な展開により、世界規模の核戦争の脅威が少なくなる一方で、核攻撃の危険性は高まっています。核兵器を保有する国家が増えています。核実験が続けられています。闇市場では核の機密と核物質が大量に取引されています。核爆弾の製造技術が拡散しています。テロリストは、核爆弾を購入、製造、あるいは盗む決意を固めています。こうした危険を封じ込めるための私たちの努力は、全世界的な不拡散体制を軸としていますが、規則を破る人々や国家が増えるに従い、この軸が持ちこたえられなくなる時期が来る可能性があります。
 これは、世界中のあらゆる人々に影響を及ぼします。ひとつの都市で1発の核兵器が爆発すれば、それがニューヨークであろうとモスクワであろうと、「イスラマバードあるいはムンバイであろうと、東京、テルアビブ、パリ、プラハのどの都市であろうと、何十万もの人々が犠牲となる可能性があります。そして、それがどこで発生しようとも、世界の安全、安全保障、社会、経済、そして究極的には私たちの生存など、その影響には際限がありません。

 冷戦核後のいわば途上国核武装時代をどうするかというが問題であって、「テロリスト」はむしろ比喩的なものだ。「全世界的な不拡散体制」も冷戦時代のように、途上国と先進国が技術的に隔絶したような時代では機能しない。
 核兵器廃絶の夢を語りながらも「おそらく私の生きているうちには達成されないでしょう」と夢から現実に引き戻して、ではどうするか。

 では、私たちが取らなければならない道筋を説明しましょう。まず、米国は、核兵器のない世界に向けて、具体的な措置を取ります。冷戦時代の考え方に終止符を打つために、米国は国家安全保障戦略における核兵器の役割を縮小し、他国にも同様の措置を取ることを求めます。もちろん、核兵器が存在する限り、わが国は、いかなる敵であろうとこれを抑止し、チェコ共和国を含む同盟諸国に対する防衛を保証するために、安全かつ効果的な兵器を維持します。しかし、私たちは、兵器の保有量を削減する努力を始めます。

 ここがとても重要で、「米国は国家安全保障戦略における核兵器の役割を縮小し」であって、米国から廃絶することはない。
 それと、米国は「いかなる敵であろうとこれ(核兵器)を抑止し、チェコ共和国を含む同盟諸国に対する防衛を保証するために、安全かつ効果的な兵器を維持」するということだ。冷戦核時代の核競争はしないし、また途上国にそうさせないような軍事的圧力をかけるが、しかも核オプションは捨てない、ということだ。ただ、そのオプションは事実上使わない。
 かくして「安全かつ効果的な兵器(a safe, secure and effective arsenal)」というオチに向かっていく。というか、オバマ演説の意味はこの、新しい軍事体制の宣言というところが新ネタであって、核廃絶はむしろ冷戦核という時代認識的な背景描写でしかない。
 「安全かつ効果的な兵器(a safe, secure and effective arsenal)」とは何か?
 オバマの演説のリライト前の資料を条件から推測すれば容易にわかる。条件は、非核(Conventional)である、効果的(Prompt)である、イスラマバードあるいはムンバイであろうと、東京、テルアビブ、パリ、プラハのどの都市であろうと」(Global)を覆う、核施設を空爆(Strike)だろう。Conventional Prompt Global Strike(非核迅速広域空爆)(参照)だ。

 全米研究会議(NRC)はこのほど、国防総省(DOD)が検討中の新たな攻撃用ミサイルシステム「Conventional Prompt Global Strike: CPGS」に関する調査報告書を公表した。
 同書でNRCは、「戦略爆撃機と巡航ミサイルを主体とした現行のCPGSが”1時間以内に目標到達”という要求条件を満たす射程距離は500海里(約950km)程度となってしまい、比較的短距離の目標に限定される。テロ発生などの有事に際し世界中のどの目標でも迅速に攻撃するためには、トライデントやミノタウルなどの長距離弾道ミサイルによる新システムを構築することにより、緊急時に核兵器を使用すべきか否かを選択するジレンマを解決できる」として、短期(1~2年)、中期(3~5年)、長期(5年以降)を見据えたCPGS開発計画への投資の必要性を提言している。

 核廃絶の期待に盛り上がる祭の御輿が奉納されるのは、こういう世界なのである。これが核廃絶後の平和の世界なのか。チェコの市民にしてみれば、プラハの春を思えば、それが歓迎されるべき平和なのである。

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2009.09.12

蛮勇なる鳩山氏の一手とフィナンシャルタイムズは称賛する

 政権交代という希代のギャンブルを勧めていた英国高級紙フィナンシャルタイムズだが、ご指導どおりの鉄火場となった日本にご満足してか、鳩山次期総理による温室効果ガス排出削減政策(2020年までに30%削減)も絶賛していた。いわく、蛮勇なる鳩山氏の一手(the Bravery of Mr Hatoyama's Move)を打ったというのだ。9日付けの社説「Japan’s green gift to Copenhagen(コペンハーゲンへ日本からの緑の贈答品」(参照)より。


But the toughness of such cuts serves to emphasise the bravery of Mr Hatoyama’s move. To criticise the DPJ for lacking a detailed roadmap is unfair when their man is not yet premier. That Japan is raising its game ahead of Copenhagen is to be applauded; other countries must now follow suit.

しかしこのような削減が困難であること自体、蛮勇なる鳩山氏の一手を強調するなによりもの証拠なのだ。鳩山氏が首相に就任していない時点で、具体案の欠落をあげつらうのは公正ではない。デンマークのコペンハーゲンで開催される第15回気候変動枠組条約締約国会議に先立ち、ゲームの醍醐味というものをトランプゲームのように釣り上げたことは称賛されるべきだ。今や他国も鳩山が出したトランプの絵柄に合わせなくてはならない。


 国際政治というのがトランプゲームのブリッジみたいなものだという感覚は、政権交代をギャンブルと見なすように英国流の感覚なのかもしれない。日本としては、二階俊博経済産業相による「極めて難しい」というコメントに賛同する人も少なくないだろう。また温室効果ガス排出削減を2020年までに30%削減することは1世帯につき年間最低でも36万円程度の経済負担になると、その意味を知ってから驚く人が大半だろう。NHKのニュースでは太陽光発電を現在の55倍に普及させ、次世代車は新車販売の90%、保有台数の40%にする必要があると報道していた。そう聞くと普通は無理なんじゃないのと思うのではないか。グリーンニューディールのような新産業が起きるとしても、実質国内総生産(GDP)を3.2%、失業率を1.3%押し下げるという試算もきついなと感じる。
 しかし、そうした困難こそが鳩山氏の蛮勇を輝かせるのである、というわけだ。フィナンシャルタイムズとしても困難がわかってないわけでもない。

Given Japan’s existing energy efficiency – far greater than the US – further cuts could be painful. Some business leaders, but not all, warn that growth could be crushed, with political consequences for the DPJ.

日本が現状すでに、米国とは比較にならないほどの高エネルギー効率を達成していることを考えると、これ以上の削減は社会的な痛みを伴ことになる。産業界の指導者は、全員がそうだというわけではないが、経済成長は破壊され、民主党にとっても政権維持は終わるだろう警告している。


 そこまでして日本の沈没を英国が望む、とかいうわけではない。よくわからないとも言えるが、フィナンシャルタイムズはコペンハーゲンで開催される第15回気候変動枠組条約締約国会議の成否に必死になっているようだ。しかし、なぜそこまでして地球を救いたいのか。地球を救うのは24時間分の愛だけでは足りないのか。

More importantly, Japan’s move will boost faltering momentum for a meaningful outcome to the Copenhagen climate summit in December, and remove an excuse for other nations, including developing ones, still dragging their feet on emissions’ targets.

より重要なのは、コペンハーゲン環境サミットの結果を有意義にする上で、現状のずるずるとしたダメダメ感を日本のこの一手がシャッキーンと立ち直させることだ。この一手を打てば、開発途上国を含め排出量基準について曖昧な態度を引きずっている諸国の弁解を封じることができる。

Two weeks ago, Jairem Ramesh, India’s environment minister dared the developed world to call his country’s bluff by offering more substantial emissions’ cuts. Mr Hatoyama’s pledge, while less than the 40 per cent demanded by China and India, and the conditional 30 per cent offered by Europe, is a welcome riposte.

二週間前のことだが、インドのジャイラム・ラメシュ環境相は、先進諸国の世界に向けて、インドならより多くの実質的な削減をするいうブラフ(はったり)をかましてきた。鳩山氏の宣誓は、中国やインドが求める40%削減や、欧州連合による条件付き30%削減より少ないとはいえ、好ましいしっぺ返しになっている。


 なるほどね。そういうことか。MD(ミサイル防衛)と同じだ。昔はスターウォーズ計画というばかばかしい冷戦戦略があったが、あれを真に受けてソ連が失墜したように、現下、資源国有化や資源囲い込みに武器をばらまいている開発途上国対、自由貿易によって立国しようとする先進諸国との冷戦における、ファンタジックなグリーン作戦というわけか。それならわからないではないな。さすが鳩山氏、視点がグローバルだ。
 しかし、だというなら、「極東ブログ:民主党公約、高速道路の無料化案について」(参照)でも触れたが、二酸化炭素を増やす民主党の高速道路の無料化案はどうよ、と思うが、いやあれはまずいよいねと、フィナンシャルタイムズも3日付け「Road to nowhere(何処へも通じない道)」(参照)で一応述べている。

“And the future is certain, give us time to work it out,” sang the Talking Heads in Road to Nowhere, a lyric that fits the Democratic Party of Japan well. After its crushing victory at the polls last Sunday, the DPJ deserves some time to work out how to turn a populist manifesto into a coherent plan for government, but in doing so it should modify at least one ill-conceived policy: the elimination of Japan’s highway tolls.

「未来は確かにある、僕らに実現させる時間をくれ」と「何処へも通じない道」で歌ったのはトーキング・ヘッズだが、この歌詞は日本民主党にふさわしい。先週日曜日の破壊的な勝利の後だから、ウケ狙いの政権公約を施策として一貫性もたせるべくねじ曲げるのには民主党とて時間がかかる。その過程で、最低でも、間違った政策は変更すべきだろう。つまり、日本の高速道路の無料化がそれだ。


 フィナンシャルタイムズは、高速道路無料化を断念すべき理由を4つも上げている。(1)現状より多くの人が利用するにはコストがともなう(先進国ではむしろ有料化の流れなんだぞKY)、(2)どうせ国債化するつもりんだろうが赤字をちゃんと見ておけ、(3)鉄道など他の輸送機関に悪影響が出る。そして4番目は。

Finally, there is the environmental cost. The DPJ’s manifesto promises to “strongly promote measures to prevent global warming”; unrestrained road use achieves the precise opposite.

最後は環境コストだ。民主党のマニフェストでは「世界の温暖化防止を強く推進する」と公約している。無制限の高速道路利用は公約とは真逆だ。


 フィナンシャルタイムズはどちらかというと英国視点なのでこの程度だが、米国的なフォーブスとなるともうちょっときびしい。11日付け「Japan's Carbon Conundrum(日本の二酸化炭素難問」(参照)では、前半でごく普通に、民主党の高速道路無料化案が温室効果ガス排出削減政策にそぐわないと説明した後、後半は下品な内容になっていく。

And then there’s a potential public relations time bomb ticking under Hatoyama. Rubber has financially underpinned the new prime minister’s political career, or more precisely tires. He owns perhaps as much as $70 million of shares in Bridgestone, the world’s leading tire maker and owner of Firestone in the U.S. His mother, Yasuko Hatoyama, daughter of the company’s founder, owns more.

鳩山氏はマスコミがばか騒ぎしそうな時限爆弾を抱えている。ゴム産業のカネが新首相の経歴を支えてきた。ゴムというのは、つまり自動車のタイヤだ。鳩山氏は推定では60億円相当のブリジストン社の株を保有している。ブリジストン社は世界の主要タイヤメーカーであり、米国ファイアストンのオーナーでもある。鳩山氏の母、鳩山安子は同社の創業者の娘であり、さらに多くの株を保有している。

The math is simple: more cars driving more miles burns more rubber. That Bridgestone stands to benefit would seem an obvious conclusion. There is no suggestion that the DPJ or Hatoyama is motivated by a need to help out the tire maker, but the Bridgestone connection has already become a murmur among the nation’s bloggers.

単純な算数がここにある。多くの自動車が長距離走ればタイヤは擦り切れる。儲かるのがブリジストン社だというのは明白な結論だろう。もちろん、民主党や鳩山氏がタイヤ産業への支援という動機を持っていると言いたいわけではない。しかし、ブリジストン社と鳩山氏のコネクションは日本のブロガーで間で噂になっている。


 あー、そうか? 鳩山氏の背景とブリジストンの関係は知っているが、日本のブロガーである私はそれが話題になっているなんて知らないな。この手の政界ゴシップ好きのどっかのブログかなんかで噂されているのだろうか。
 問題はしかし、その手のありがちな噂より、この手の話がフォーブスなんかに、ファイアストンの文脈で掲載されていることなんだが。

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2009.09.11

[書評]脳の中にいる天才(茂木健一郎編・竹内薫訳)

 「脳の中にいる天才」(参照)は、脳科学、心理学、人類学などの第一人者らによって学際的な視点から人間の創造性ついて語った講演録を翻訳・編集した書籍である。

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脳の中にいる天才
 元になる講演会は、2004年4月イタリア、ボローニャ近くのベルチノロ村の古城でソニーコンピュータサイエンス研究所主催で開催され、後、2007年3月、同研究所の所眞理雄氏と脳学者茂木健一郎氏の編集によって英書「Creativity and the Brain」(参照)として出版された。本書はこれを科学ライターの竹内薫氏が翻訳した形になっているが、竹内氏自身も2004年の講演会に参加しており、訳者あとがきを読むと氏も実質編集に参加したように受け取れる。
 講演では「創造性と脳」というテーマの下、7つの講演があり、本書に収録されている。以下専門分野については同書には言及がない場合は私の判断で補った。

アラン・スナイダー(Allan Snyder:神経生理学)
1章 脳の中にいる天才
エルンスト・ペッペル(Ernst Pöppel:心理学)
2章 脳の不思議な3秒ルール」
北野宏明(システムバイオロジー)
3章 アキレス腱と創造性
フィリップ・ロシャ(Philippe Rochat:心理学)
4章 赤ちゃんは創造的か?
正高信男(比較行動学)
5章 ベイビー・トーク
茂木健一郎(脳科学)
6章 ジキル博士とハイド氏とクオリア
ルック・スティールス(Luc Steels:コンピューター科学)
7章 天才は孤独ではない

 講演の個別テーマは、講演者のポジションによって扱う角度によって当然ながら異なるが、講演者が後になるほど、全体のテーマに配慮し、議論に重層性が出てくる。特に茂木氏の講演にそれが顕著になる。
 講演内容のレベルだが、学会報告とは異なり、一般向けを対象にしているのでそれほど難しいことはない。竹内氏の目の入った翻訳も読みやすい。また講演録にはそれぞれ、竹内氏の起草しただろうコンサイスな解説も付加されていて理解の補助になる。講演の時間は1時間くらいだったのではないだろうか。あまり深い問題にまでは触れていない。2004年の講演ということもあり、内容的には若干最先端研究からずれている印象もあるが、ミラーニューロンなどの話は一般的には昨年あたりから話題となっているとも言えるし、原書も2007年出版でもあるように、現時点で読んでもそう古いといった印象は与えない。
 個別には誰が読んでも、アラン・スナイダー氏による「かぶるだけで天才になる帽子」や北野氏による独自の癌治療研究などは面白いだろう。研究の方向性は意外ともいえる。
 私個人としては、ペッペル氏が指摘する、「今」という時間意識の問題が、大森荘蔵哲学の「今」と重なる部分があり、哲学的な時間論から見ても示唆深かった。
 意外といっては失礼だが、茂木氏の話は一番エキサイティングだった。私は氏のクオリア論を分析哲学的にはナンセンスではないかと思っていたが、脳機能の構造における非局在と反応の時間調整の統一の機能の視点からクオリアを再考すると、なるほど十分に脳機能の問題として重要性があるかもしれないと、ようやく理解できた。
 また「極東ブログ:[書評]サブリミナル・インパクト 情動と潜在認知の現代(下條信輔)」(参照)で扱った問題も茂木氏の指摘に重なる部分があり、面白かった。特に、脳内の快楽が報酬となる経済学の基礎に、確率を持ち込む発想が刺激的だった。通常、「神経経済学」として語られることが多いが、茂木氏は次のように的確に指摘していた。

 ところで、「神経経済学」は名称としてはおそらく誤っていると思います。というのも、人々が脳科学によってお金を儲けるチャンスがあるかのように聞こえてしまうからです。そうではなく、この分野では、どうすれば脳が確固たる方法で不確定性に対処できるかに関心があるのです。これこそが非常に基本的な問題なのです。

 この問題は、既読だがまだ書評を書いていない、ナシーム・ニコラス・タレブ氏による「まぐれ 投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか」(参照)や、「ブラック・スワン 不確実性とリスクの本質」(上巻参照下巻参照)とも関係する。タレブ氏は行動心理学や神経心理学に目配せをしつつも、確率論側の持つ、本質的な不確定性に人間がそもそも対処しえないか、あるいは対処しようとする傲慢を問題にするが、茂木氏の射程では、こうした不確定性は、現象の側から発生するのではなく、脳機能の対応の相互作用として現れることを示唆している。おそらく、そこに隠された重要性があるように私も考えている。
 以下書評の文脈から逸れるが、私個人としてはこの問題、つまり、この不確実性への対処としての脳機能のありかたは、バラス・フレデリック・スキナー(Burrhus Frederic Skinner)氏による古典的な行動分析学の中に、脳やマインドを除去した形ですでに包括されているのではないかと思えてならなかった。スキナー氏は、これを古典的な科学として定式化していったが、しばしば因果論的に理解される「随伴性(contingency)」には、現象としての不確実性と脳機能のマインド・セットの先行性を総括する含みがあるだろう。
 本書の講演では、ミラー・ニューロンの研究の影響もあるのだろうが、人間の認知や創造性といったものを、コミュニケーション的な文脈のなかで捉えようとする傾向が見られる。おそらく創造性も、従来個からの創発のように思えたものだが、むしろ人間を含めた環境要因に随伴する現象だとしてよいのではないか。すると、旧来「操作」としてチョムスキー氏などから単純に否定された部分には別の視座が広がるだろう。あえて言えば、下條信輔氏の文脈を借りた表現になるが、コミュニケーションを含む対人的なインタラクションの環境が人の創発のサブリミナルな操作条件を作り出すと言えるだろう。
 そこまで延長できるなら、脳というものは我々の意識や創造性をその内部から生み出す箱のようなものではなく、むしろコミュニケーションを含む対人的な環境を、外的要因に見せる随伴性の条件を含めて、世界としてプロジェクト(投射)する仕組みなのだと言えないだろうか。創造性はそこでは、むしろその世界の自己運動の随伴的な現象として扱えるのではないか。

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2009.09.10

[書評]僕は人生を巻き戻す(テリー・マーフィー)

 なんど手を洗ってもまた手を洗わずにはいられない。ベッドのシーツにシワやヨレがあるとそれだけで眠ることができない。家を出て五分後に鍵を本当にかけたのかどうしても確認に戻る。普通の人でもそういう理不尽な行動をとることがある。それが過度になり、本人も非常な苦痛に感じ、日常生活に支障を来すようになると、精神疾患として強迫性障害が疑われる。

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僕は人生を巻き戻す
 診断については「DSM-IV-TR 精神疾患の分類と診断の手引」に基準があるが、強迫性障害は、本人の意志と無関係に不快感や不安感を伴って脳裏に浮かぶ強迫観念と、強迫観念を打ち消すために行われる強迫行為から構成される。強迫行為は、家に戻って毎回する鍵の確認のように、それなりに誰でも了解できるものから、他人にはまったく理解できない行為もある。指と指が触れてはならないといった強迫行為の理由は、他人には理解できないが、強迫性障害者本人は了解している。理不尽ということを理性的に了解していても、恐怖や不安からその行動をとらざるをえなくなっている。
 本書「僕は人生を巻き戻す(テリー・マーフィー)」(参照)は、強度な強迫性障害患者であるエド・ザイン青年と、彼に献身的に取り組んだマイケル・A・ジェイナク医師、エド君の家族、心豊かな隣人たちを描いたノン・フィクションだが、実際に読んでみると、いわゆるライターが思いを込めて書いたノン・フィクションとは微妙におもむきが違う。著者テリー・マーフィーも強迫性障害の子供を育てた母でもあり、筆致の背後にこの問題への深い洞察が潜んでいるからだろう。
 読み進めるにつれ、強迫性障害の克明な描写や、人の心をむしばむ恐ろしい迫力に圧倒され、なにか人間の想像を絶する、壮絶なものに向き合っていくような気分になる。私は途中いくどか嗚咽した。スリラーではないが、人間本質の恐ろしさ、その底の果てしない深さのようなものに失墜していくような無力感に襲われる。実際のところ、なんども読むのを中断したし、食欲すら失せた。そこまでして読む本なのかと自問すらしたが、山を登るように読み終えた。そしてそこには山頂のような眺望もあった。年を取ると生涯、心に残る本は少なくなるし、感動というのも二時間ほどの映像で埋めることができるメディアの対価のようにも思えてくるものだが、そうではないものがこの書籍の中にはある。よくこんな本を書いたものだし、出版したものだと思う。
 エド・ザイン青年は1970年代後半の生まれであろうか。たたき上げの厳格な父親と優しい母親のもと、兄弟姉妹の末子として生まれた。彼の強迫性障害の由来としては、幼い彼を残して死んだ母のエピソードが中心になり、きびしい父や問題もあった両親の夫婦関係もあったことが描かれている。だが、母の死から即座に強迫性障害を起こしたわけではなく、内面に母の死の恐怖に抱えながら、それでも高校から大学まで過ごしてきた。強迫性障害がひどくなったのは大学在学中だ。
 母のように父や親族に死が訪れるという強迫観念から、すべての自分がなした行為を想念のなかで巻き戻し打ち消さなければならないという強迫行為として、「時を巻き戻す儀式」に捕らわれる。日常の歩行後には、その逆に後ろ向きに歩かなくてならなくなり、さらには、地下室に閉じこもり、糞便まで貯蔵するようになる。
 本書は腐臭漂う地下室にこもったエド青年にマイケル・A・ジェイナク医師が真摯に向き合うところから始まり、その献身的なジェイナク医師の人生の物語も語られる。だからジェイナク医師の情熱によって青年は救出されるという物語として展開するのではないかと読みながら思ったものだが、そうではなく、不思議な、奇跡的な展開になっていく。
 エド青年の話には、医師の鏡のようなジェイナク医師のほかに、米国には善意のかたまりのような人がいるのだと思わせる人たちも登場してくる。そのディテールも面白い。と同時に、オバマ大統領が推進している医療保険改革の必要性を痛感させるような医療の問題も克明に描かれ、社会勉強にもなる。
 読後、私は強迫神経症的なところが皆無といえる人間ではないが、強迫性障害を内面から共感的に理解できるほどの洞察力はもってはいないと思ったものだが、それでも、内面を見つめると、ところどころ魂の奥底にちくりちくりと触れてくるものがあった。広義で言うなら、エド青年は死を防ぐために孤独に戦ってきたのだが、同様に、私も心のなかの悔恨や死の恐怖を巻き戻そうとするかのように思念していることがある。その意味で、本書のエド青年から、人が人生の未来のページをどうめくるものなのか、私は深い示唆を受けた。

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2009.09.08

自民党の未来は霧深き「森」のなか

 私は政局にはほとんど関心はないが、政権交代があり、日本も二大政党化するというなら、代替政党として野党となった自民党にも関心が向けられることだろう。現状、自民党の総裁指名選挙はどうなっただろうかとニュースを見たら、未だにもめているようだった。情けないことだなという思いと、すでに小泉内閣で離党した党員を安倍内閣で復党させた時点で、自民党は終わっているのだから現状は終わりの確認という程度かという思いと相半ば。民主党も自民党も大きな政府を志向している点で、もはや時代にそぐわなくなっているのだが、それがはっきりと可視になった時点で、深い傷を負った日本に新しい政治の枠組みができるかどうか心配といえば心配だが、それこそ国民の総意の問題だろう。ブロガーとしては時代を記録し、そして自分の意見をわずかに孤独に書くばかり。
 先日の選挙で自民党が大敗し、敗軍の将として麻生さんが語っているなかに、正確な言葉は忘れたが、敗北の責任を取って引退するとさらりと述べた後、党内のこともあるから自分の身の振り方は自分勝手に決められるものではないかと、留保していたのが心にひっかかった。私としては麻生さんらしい粗忽と配慮だなと微笑ましく思ったが、まさかその後、ここまで自民党がぐだぐだするとも想定していなかった。
 渦中「麻生降ろし」がうでうでと画策されていたのだから、その玉がぞろぞろと上がってくるのではないかと思っていたが、そうでもない。今朝未明時刻の読売記事「麻生首相、16日に総裁辞任へ…混乱収拾図る」(参照)を見ると、自民党内の混乱を収拾すべく、麻生さん自身が自民党総裁指名選挙前に自ら身を引く決意をしたようだ。どんだけ麻生さんに頼っているだよ、というのと、この体たらく自民党を知って敗軍の将を勤めることが人生最後の仕事になる運命というのもあるのだと、歴史というものの感触を学ぶ。個人的には麻生さんは引退後、しかし、もう一つ大きな仕事をされるのではないかなと期待している。
 「麻生降ろし」とはなんだったのだろう。冒頭書いたように私は政局には関心ないし、前二首相がころころと政権を放り投げる状態で、またぞろ首相に政権を投げ出せるわけいかないだろうに、なんなんだろうこの動きはと思っていた。反面、その「麻生降ろし」の本丸が中川秀直自民党元幹事長だというのも知って微妙な思いはあった。
 私は大雑把に言えば、小さい政府を志向する点では小泉改革は間違っていないし、「新自由主義」というのは無内容なレッテルに過ぎない、また靖国神社参拝問題など右翼・左翼が騒ぎ立てるような問題は日本の存亡における疑似問題というか雑音に過ぎない、と考えている。そうした立場にもっとも近い政治家というと、自分がその政治家を好きか嫌いかというのを別にすれば、上げ潮派の中川さんということになるし、御神輿に載せるなら、これも自分の好悪とは別に小池百合子元防衛相というのもありだろうと思っていた。
 で、あれば、「麻生降ろし」など姑息なことをやらずに、どうせ衆院選で自民党は敗北するのだから、小泉チルドレンをつれて約束の地へエクソダスしてもよいのではないかと思ったが、その気配もなかった。「おい、小泉チルドレン、君たち、存在しなくなるんだよ、逃げろよ」と思ったが、政治観において、ええ塩梅の力の抜け加減にして熱量足りずの私としては、その気概がない政治家なら最初からだめでしょと見ていた。
 渡辺喜美元行革担当相はそれとは別に離党し、誰のものでもない「みんなの党」という面白政党を作ったが、恐らく平沼赳夫元経済産業相と同じく、キャスティングヴォート狙いだったのだろうが、後が続かなかったし、読みを大きく損じた。渡辺さんに中川さんが続くなら本物だろうになとは思ったが、なかった。そのあたりで、政局ってわからんものだな、中川さんが自民党にへばりついて、小泉チルドレンを全滅させるだけのメリットがあるのか、わからんなと思っていた。
 政局というのは多様に語られ、むしろ語りの面白さが売りのつまらぬ物語なのだが、この背景はいったいなんなのだろうとは、いぶかしく思っていたし、それなりに筋の通った物語でもないものかとは見つくろっていたが、私が目にしたものでは、「フォーサイト」9月号「深層レポート 日本の政治 198 『現実路線』へのシフト図る民主党の敵は『楽勝ムード』(参照)がそれに一番近い。政局に疎い私のことだから、この話は誰もが知っているということかもしれない。話題のシーンは、今となれば、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」みたいな自民党両院総決起集会のことだ。


 満場が大いに盛り上がった。だが、こんな勢いも見かけ倒しにすぎない。実際の自民党は、解散に至るまでのドタバタ劇で、深く傷ついてしまっていた。それを象徴するような場面が、この決起集会が終わるころにあった。町村信孝前官房長官が「反麻生勢力」の急先鋒である中川秀直元幹事長に近寄って、こんなふうにささやいたのだ。
「これから戦いが始まります。党や派閥の結束を乱すようなことを言うのはやめてください」

 町村さんの苦言は、あの状況なら特段の含みはないようにも思うが、同記事はそれを受けた中川さんの心中のドラマを面白く描いている。「麻生降ろし」をするなら、自民党議員総会開催を求める署名も順調に進んでいたのだから、最後のチャンスだった。状況的にもそれは面白いドラマになるが、問題はその先だ。このあたり政局話の真相がいつもわからないところではある。

 これに対して、麻生擁護派は情報戦を仕掛けてきた。十四日夜、中川氏が仲間とともに自民党を離党し新党を旗揚げするとの怪情報が政界を駆けめぐったのだった。

 この怪情報話はフォーサイト記事だけの話ではない。7月15日付け産経新聞系Zakzak「麻生降ろし不発…中川秀直“新党結成”の怪情報」(参照)にもある。

 その情報とは「中川氏が、加藤、武部両氏に加え、塩崎恭久元官房長官らとともに小泉チルドレンを引き連れて離党し、新党結成に動き始めた」「先に自民党を離党した渡辺喜美元行革担当相が目指す新党に合流するらしい」などというもので、メンバーには日本郵政の西川善文社長の続投問題で麻生太郎首相と対立する鳩山邦夫前総務相の名前も挙がっていた。

 「鳩山邦夫前総務相の名前も挙がっていた」という点で面白ろ情報だとすぐわかる仕立てではあるが、「加藤、武部両氏に加え、塩崎恭久元官房長官」というくだりのメンツの密談はあったようだ。逆に言えば、だからそこを突かれた形だったのだろう。名指しが効いた。
 私はミクシはほとんど利用しないのだが、Zakzak記事によると中川さんのミクシでは「さて、今夜は、とんでもない謀略情報がかけめぐりました。私に賛同する議員を疑心暗鬼にさせて、お前も離党するのかと切り崩すのが目的なのでしょう」とあったそうだ。また、

 中川氏は14日夜、記者団に「一切ない。話したこともないし、考えたこともない」と否定。さらに、「官邸の方から、そんな謀略情報が流れているようだ」と述べた。官邸サイドが、両院議員総会から総裁選前倒しという流れを求める勢力を分断しようとしたのだろう、という見方だ。

 ある意味、よくある怪文書による陰謀だし、私もこの時は、くだらねーなと読み過ごして、「官邸の方から」については考えていなかった。というより、自民党としては引き締めとして当然だろうくらいに考えていた。しかし現時点でから振り返ると、微妙に面白い話ではある。フォーサイト記事に戻る。密談メンバーの思いについて。

 メンバーたちは、ほっと胸をなで下ろしたが「派閥の上の方」とは誰か。その場にいた全員が暗黙のうちに、それは森元首相のことを指していると理解した。


情報戦を仕掛けたのが、本当に森氏だったのかどうかという真相は霧の中だが、いずれにしても、偽情報は効果覿面だったわけだ。

 フォーサイト記事はお茶を濁しているが、それでも森元首相だろうなとは誰もが思うだろう。安倍政権以降のドタバタの影にはいつも森さんがいる。
 もっとも、かくいう森さんも今回の選挙ではしょっぱい目に合っているのだから、そんな力があるのかわからないし、麻生政権で「ああ玉砕」となるのもわからないわけもないだろうにとも思う。
 だが、現状の自民党の総裁指名選挙の混乱を見ていると、逆に、自民党のグリップを握ったのは森元首相だろうし、そもそも小泉チルドレンを一掃することがそのグリップのメリットだったのだろうと思えてくる。かくして残る自民党ってなんなの?

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2009.09.07

米国オバマ大統領の人気低下原因としての医療保険改革

 米国オバマ大統領の人気がずるずると落ちている。識者には予想されていたことでもあり、驚きはない。いくつかの要因があるが、その一つは「極東ブログ:オバマの戦争」(参照)で触れたオバマの戦争ことアフガン戦争の行方が芳しくなく、米国民からの支持が落ちてきていることだ。オバマ政権としては同盟国から確たる支援が欲しいところだが、主要な同盟国はというと、現下微妙なことになってしまっていて心許ない。その他の要因には経済問題などもあるが、最大の下げ要因となっているのはオバマケアと呼ばれる医療保険改革問題だ。
 ごく簡単に言えば、日本のようによくできた医療皆保険を米国でも実現することだが、重税という負の側面が予想され国民から大きな反対にあっている。正確にいえば問題はもう少し複雑で、その複雑な側面に踏み込まないと、話題となっているペイリン前アラスカ州知事・共和党副大統領候補の言動も理解しづらいのだが、ここでは触れない。
 オバマ人気の低落と医療保険改革の関係について、まずメモ的に日本語で読める報道を拾っておく。まず象徴的なニュースとして、8月21日付けCNN「オバマ大統領支持率50%割れ、医療改革が不人気 フロリダ」(参照)より。


 米大学が20日に発表した世論調査によると、オバマ大統領のフロリダ州での支持率が、ついに50%を割り込んだ。
 調査は米キニピアック大学がフロリダ州の有権者を対象に実施。支持率は6月よりも10ポイント以上低い47%となり、不支持の48%に逆転された。
 支持率低下の原因は主に医療保険改革にあると見られる。オバマ大統領の医療保険改革を支持すると答えたのは38%のみ。同改革は制度の改悪になるとの見方が45%と多数を占めた。


 オバマ大統領の最近の支持率は、全国規模の世論調査でも50%台前半にまで落ち込んでいる。

 ワシントンポスト紙のネタをまとめた8月22日時事「「大統領判断正しい」5割切る=医療改革で不支持逆転-米世論調査」(参照)では、まだ支持率が多少高い。

米紙ワシントン・ポストは21日、ABCテレビとの合同世論調査の結果を報じた。それによると、オバマ大統領が「国のために正しい判断を下す」と答えた人は49%で、4月より11ポイントも下落した。
 オバマ大統領が目指す医療保険改革への反発などが影響しているとみられる。特に昨年の大統領選で勝敗を左右した無党派層の落ち込みが大きいという。
 また、「国が間違った方向に進んでいる」との回答は4月より7ポイント増え55%に達した。大統領支持率は同月のピーク時の69%から57%に下がった。
 世論を二分している医療保険改革に関しては、オバマ大統領の取り組み方を支持する人は4月より11ポイント低い46%で、不支持の50%に逆転された。

 医療保険改革で支持率を下げていることがわかる。
 現状、野党の米共和党との逆転までに落ち込んでいないことは、9月5日CNN「米政党の政策支持で民主党、共和党を依然上回る 世論調査」(参照)からもわかる。

 米国2大政党のうち、与党・民主党の政策が国を正しい方向に導いているとするのが52%、野党・共和党が43%を得たことが最新世論調査結果で4日分かった。CNNとオピニオン・リサーチ社が共同実施した。
 民主党の比率は今年5月に実施した類似調査から5ポイント減、共和党は4ポイント増となった。今年1月に就任したオバマ大統領の支持率は最近じり貧傾向を示しており、民主党の政策支持率の減少もこれと連動しているとみられる。
 ただ、共和党は大統領の支持率減少から大きな恩恵をまだ被っていない。

 口達者なオバマ大統領は事態打開のために異例の議会演説を9日に行うことになっている。これで不人気を乗り切ることになるのか見ものだが、難しいのではないか。ここで失点を重ねると来年の中間選挙にもひびく。
 医療保険改革が抱える問題は複雑で、また保険会社の仕組みも日本とは異なるのだが、大枠の問題としては明確だ。そこをワシントンポスト紙コラムニスト、ロバート・サミュエルソンが執拗に追求している。
 彼のコラムのいくつかは日本版ニューズウィークのサイトで日本語で直訳ではないが無料で読める。まず「オバマ医療「改革」の幻想」(参照)がわかりやすい。オリジナルは「Health ‘Reform’ That Isn’t」(参照)。

 バラク・オバマ大統領が描く改革プランには、みんなが満足するだろう。無保険者を減らす一方で、医療費の膨張を抑制し、未来の世代に財政赤字のツケを残さず、医療の質を高める......。こうした主張は人気取りのための誇張で、政治的な幻想にすぎない。そのばら色の約束が、真剣な国民的議論を封じ込めている。
 改革が抱える矛盾をオバマ政権は隠そうとしている。4~8年といった短期間で、無保険者を保険に入れて、なおかつ医療費の伸びを抑えることなど不可能だ。
 なんらかの抑制手段を取らない限り、保険加入者が増えれば当然、医療費は膨らむ。オバマは無駄をなくし医療費を抑える必要性をしきりに訴えているが、治療と医療費の仕組みを変えていくには何年もかかるし、痛みも伴う。
 例えば患者の負担が増えたり、医師や病院の選択肢が制限されかねない。しかし、オバマはこうした問題を軽くみている。実際には、どんな措置が有効かはっきりしないこともあり、なんら抑制策が取られないまま保険加入者の拡大が進むことになりそうだ。

 訳の対応が不明で「痛みも伴う」という変な表現もあるが、原文中"These claims are self-serving exaggerations and political fantasies. They have destroyed what should be a serious national discussion of health care."が重要だ。こと医療問題は、ばら色の理想を政治家が説きまくることで、国民が真剣に考えなくてはならない問題を破壊してしまうものだ。

 医療費の膨張がエスカレートすれば給与から天引きされる保険料が上がり、連邦政府や州・地方自治体の提供するその他の公共サービスの予算が圧迫される。税金は上がり、財政赤字は増える。
 オバマはこうした問題にも触れているが、その解決に真剣に取り組む気配はない。改革の幻想をばらまき口先でコスト抑制を唱えつつ、福祉を拡大するというお決まりのやり方を踏襲するばかりだ。メディアは改革という言葉をカギカッコ付きで使うべきだろう。この「改革」はむしろ事態を悪化させかねないからだ。

 国家支出についてのなんらかの抑制の仕組みに政治が取り組まないと、政治そのものが破壊されてしまうことへの懸念がある。
 なぜ医療費が膨れあがってしまうのか。これも米国ならではの医療費の積み上げ方式などいろいろ複雑な問題があるが、それでも大枠で見て最大要因となるのは、高齢者層の増加である。サミュエルソンの別コラム「ベビーブーマーという重荷」(参照)が扱っている。オリジナルは「Boomers Versus the Rest」(参照)。

 オバマ政権下で、世代間の緊張や対立が起きるのは避けられない。アメリカ社会は高齢化しつつあるからだ。65歳以上の高齢者は1960年には11人に1人だったが、現在は8人に1人。2030年までには5人に1人に増えると予想されている。
 だが高齢化社会では、若者より高齢者が政治的に優遇されるということは意外と認識されていない。アメリカ社会は今、未来ではなく過去に投資するというリスクを冒そうとしている。
 アメリカの自動車産業の窮状をみれば、それがいかに危険なことかがわかる。ビッグスリー(米自動車大手3社)は以前から、退職者にかなりの額の年金を支給し、その医療費の一部も負担してきた。だがこうしたコストは経営を圧迫し、若い労働者が犠牲に。退職者を守るために若い世代の賃金や福利厚生が減らされた。
 同じように、今後退職するベビーブーム世代に向けた公約をオバマが実行すれば、そのコストは社会を圧迫しかねない。増税が行われ、政府のプロジェクトの足を引っ張り、長期的な経済成長の鈍化を招く可能性もある。ここでもツケを払わされるのは若者だ。

 決めの言葉は、原文中の"What's less understood is that the political system favors the old over the young in this fateful transformation. We risk becoming a society that invests in its past."だろう。どの国家であれ、高齢者が優遇されるもので、その反動で若い人への投資がおろそかになり、国家的なリスクを招く。
 このコラムの結びはこうだ。

 高齢者は団結し、約束された権益を必死に守ろうとしている。一方で、政治に情熱はあるが焦点はばらばらの若者たち。どうやら若者の側に勝ち目はなさそうだ。

 しかし、常にそうであるとも限らないだろう。あるいは、米国のように出生率をある程度維持でき、かつ移民を受け入れて若い世代の人口を維持していく国家の場合は、それによってある均衡も維持できるだろう。
 日本のように早晩、高齢者と若い世代の均衡が大きく崩れると、国家の未来への投資の削減によるリスクより、もっと明白な社会的リスクが現れかねない。

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2009.09.06

過ぎ去った後期高齢者医療制度についての麻生失言を振り返る

 ちょっと気が重いが後出しじゃんけんみたいな話をしてみたい。気が重たいのは、麻生首相の失言弁護がしたいわけではないし、原理的にそうなる話でも全然ないのだが、背景が複雑なので、渦中取り上げていたら、政局の枠組みで「おまえは麻生支持だからだ」という毎度の的外れな罵倒を受けるくらいだろうとげんなりしていた。しかしもう選挙も終わり、国民は選択してしまったのだから、その意味を考えるうえで少し言及しておいてもいいだろう。
 話は昨年11月20日のこと。その日の経済財政諮問会議の麻生首相発言が26日に議事録として公開され、失言として話題になった。読売新聞27日記事「「何もしない人の医療費、なぜ払う」 麻生首相、諮問会議で発言」では、波紋を呼ぶだろうという読みで伝えていた。


 麻生首相が20日に開かれた政府の経済財政諮問会議で、社会保障費の抑制を巡って「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」と発言していたことが、26日に公開された議事要旨で分かった。
 与謝野経済財政相が社会保障費の抑制や効率化の重要性を指摘したのを受けて、首相は出席した同窓会の話を紹介しながら「67歳、68歳で同窓会にゆくとよぼよぼしている。医者にやたらかかっている者がいる」、「彼らは学生時代はとても元気だったが、今になるとこちら(首相)の方がはるかに医療費がかかってない。それは毎朝歩いたり何かしているから」と発言した。
 病気を予防することが社会保障費抑制につながることを強調する物言いとみられるが、病気になり医療サービスを受ける人が悪いとも受け取れる発言で波紋を呼びそうだ。
 首相は19日に行われた全国知事会議で「医師には社会的な常識がかなり欠落している人が多い」と発言し、謝罪に追い込まれたばかり。

 「波紋を呼びそうだ」の思惑どおり、即座に波紋が呼ばれた。読売新聞は同日夕刊記事「医療費不適切発言 麻生首相「おわびする」」は麻生首相の陳謝を伝えた。

 麻生首相は27日昼、社会保障費抑制に関し、20日の経済財政諮問会議で、「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」と発言したことについて、「病にある人の気分を害したなら、その点はおわびする」と陳謝した。首相官邸で記者団の質問に答えた。
 首相は「ふしだらな生活をしないで、(病気の)予防をきちんとすべきだというのが趣旨だ。予防に力を入れることで、医療費全体を抑制できる」と釈明した。
 首相発言に対しては、公明党の太田代表が27日昼、「言われている通りなら不適切だ」と批判。河村官房長官も同日午前の記者会見で、「(病気の人が)心を傷つけられたとしたら、表現が不十分だったと思う」と語った。民主党の鳩山幹事長は同日午前、「このような方が首相にふさわしいのか、首をかしげる。本質的な考え方が我々と違う」と、首相を批判した。

 翌日の読売新聞記事「麻生首相また陳謝 医療費発言に批判の嵐 与党が自重求め、野党は非難」ではさらにその広がりを伝えていた。

与党「細心の注意を」/野党「保険制度の否定」
 麻生首相は27日、社会保障費抑制に関し、20日の経済財政諮問会議で「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」と発言したことについて、記者団に対し、「病にある人の気分を害したなら、その点はおわびする」と謝罪した。27日の自民党臨時役員会でも、首相は「色々とご迷惑をおかけした」と重ねて陳謝。同日夜は記者団に、「全然健康管理をしない人と、した人の差は年を取れば取るほど付いてくる。結果的に医療費の増額を抑制することになるので、予防医学をもっときちんとしないと駄目なのではないかという話をした」と真意を説明した。
 これに対し、民主党の鳩山幹事長は同日、記者団に、「病気になりたくてなっている人はいない。恵まれた人が社会的に恵まれていない人を支え合う(保険の)仕組み、理念をまるで分かっていない」と非難した。
 共産党の志位委員長も記者会見で「公的医療保険制度の否定で、一国の首相がこういう発言をすることが恐ろしい。根本的な資質にかかわる問題だ」と語った。
 一方、与党でも「言われている通りなら不適切だ」(公明党の太田代表)などと問題視する声が上がった。自民党の津島雄二税制調査会長は記者団に、「表現に十分な配慮がないと誤解を招く恐れがある。特に指導的な立場にある方は細心の注意を払ってもらいたい」と自重を求めた。
 首相の相次ぐ問題発言の釈明に追われる河村官房長官は27日の記者会見で、「できるだけ釈明しなくて済むに越したことはないが、私はその本意を理解していただく努力をしなければならない立場だと思う」と語った。

 他の報道も拾っておこう。共同は27日付けで「首相、何もしない人の分なぜ払う 医療費で発言」(参照)で報道した。

 麻生太郎首相が20日の経済財政諮問会議で、「たらたら飲んで、食べて、何もしない人(患者)の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」と発言していたことが26日に公開された議事要旨で分かった。
 首相は19日の全国知事会議で「医師は社会的常識がかなり欠落している人が多い」と発言し、陳謝したばかり。病気になるのは本人の不摂生のためとも受け止められる発言で、波紋が広がりそうだ。
 20日の諮問会議では、社会保障制度と税財政の抜本改革などを議論した。首相は同窓会に出席した経験を引き合いに出し「(学生時代は元気だったが)よぼよぼしている、医者にやたらにかかっている者がいる」と指摘した。
 その上で「今になるとこちら(麻生首相)の方がはるかに医療費がかかってない。それは毎朝歩いたり何かしているからだ。私の方が税金は払っている」と述べ、努力して健康を維持している人が払っている税金が、努力しないで病気になった人の医療費に回っているとの見方を示した。
 さらに「努力して健康を保った人には何かしてくれるとか、そういうインセンティブ(動機づけ)がないといけない」と話した。

 朝日新聞も27日に似たような記事「「何もしない人の分を何で私が払う」医療費巡り麻生首相」を出した。懇切に失言の意味を「保険料で支え合う医療制度の理念を軽視していると受け取られかねない発言」と解釈まで加えていたので、怒りのポイントがわかりやすかった。

 「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」。麻生首相が20日の経済財政諮問会議で、こんな発言をしていたことが、26日に公開された議事要旨で明らかになった。自らの健康管理を誇ったうえで、病気予防の重要性を訴えたものだが、保険料で支え合う医療制度の理念を軽視していると受け取られかねない発言だ。
 首相は社会保障費の効率化の議論の中で「67、68歳になって同窓会に行くと、よぼよぼしている、医者にやたらかかっている者がいる。学生時代はとても元気だったが、今になるとこちら(首相)の方がはるかに医療費がかかってない」と指摘。自ら日課にしている朝の散歩が役立っているとしたうえで、「私の方が税金は払っている。努力して健康を保った人には、何かしてくれるというインセンティブがないといけない」と強調した。

 国民がどう受け止めたかという一端を伺う点で、同記事に寄せられたはてなブックマークのコメント(参照)を振り返って読むと興味深い。麻生失言を責めるコメントから少し拾ってみよう。

floi 政治, medical 「この人の精神の一端がわかる名言ですね。全く為政者にふさわしくない。」 2008/11/27
kyo_ju これはひどい, 政治, 民度 「居酒屋でクダまいてるおっさんじゃないんだからさぁ。あ、ホテルのバーだっけ。」 2008/11/27
lakehill 医療, health, それはひどい 「お前は何言っているんだ!努力しただけで健康が保たれるのなら、誰も苦労しないよ。だいたい、みんなでお金を出し合って支えあう国民皆保険の理念を否定してどうする。/ ブログに書いた」 2008/11/27
ichikojin2001 news, 失言ドミノ 「太郎を語るには、漫画と失言だけで十分だな(笑)」 2008/11/27
kowyoshi 麻生太郎 「太郎をブコメで擁護している人たちが「たらたら飲んで、食べて、何もしない人」だったら笑ってやる」 2008/11/27

 実は、はてなブックマークのコメントでは麻生失言批判はそれほどは多くはない。
 ここで少し背景を説明すると、麻生失言は問題があるが、全体の話の流れのなかでは、この話の主導は麻生首相が担っているものではなかった。後で触れたいが、実際には麻生首相はむしろ逆の懸念を持っていた。
 そこで話の流れだが、「極東ブログ:[書評]命の値段が高すぎる! - 医療の貧困(永田宏)」(参照)で触れた同書の説明がわかりやすい。話の発端は、小泉医療改革にあった。

 残りの政策はすべて次代の内閣に引き継がれることになった。(中略)
 それらは本来、小泉内閣の正当な後継者と目されていた安倍内閣において、実施に移されるはずだった。ところが就任わずか一年にして、何の前触れもなく首相自ら政権を放り出すという前代未聞の珍事が生じたため、後を継いだ福田内閣によって実施に移されることになった。
 後期高齢者医療制度、メタボ対策、レセプト並み領収書などである。
 しかし二〇〇八年九月になると、今度は福田首相が突然「辞める」と言い出した。ねじれ国会の運営の行き詰まりが理由だが、後期医療制度にもかなり足を引っ張られた観がある。
 かくしてこれらの三つの政策は麻生内閣に受け継がれることになったのである。ところが、当の麻生首相は、最前述べたように心が大きく揺れている。

 本来なら小泉医療改革として安倍内閣で進むはずの話だった。他でもそうだが麻生首相は前二首相の尻ぬぐいでしかなかった。しかも後期高齢者医療制度はころころ首相が変わるのととは別に、経済財政諮問会議では、なんとか方向性を持って継続していた。麻生首相としてもその方向にお墨付きを与えるように一言、失言した、ということであって、麻生首相が主導した話ではなかった。なお、民主党政権では経済財政諮問会議は解体されるし、後期高齢者医療制度自体が廃止される。
 はてなブックマークのコメントから今度は、朝日新聞記事に警戒的なコメントも眺めてみよう。

wizyuyu 政治 「メディアは、何を考えてこのような主張をするのだろうか。今週のエコノミスト誌に『森元首相以来、首相の失言を追いかけることがメーン』とあって、日本人として恥ずかしくなったのを思い出した」 2008/11/27
roadman2005 media 「言葉尻をとらえて焚き付けているのはメディア.原文では、「それほど深刻でない健康状態の人が受診することで医療費が圧迫されている」との意.http://www.keizai-shimon.go.jp/minutes/2008/1120/shimon-s.pdfの11ページ目」 2008/11/27
ringtaro 「記事の内容を鵜呑みにしている人が多くて絶望した。id:roadman2005 さんのコメントを見て発言の全文を読んでほしい。」 2008/11/27
Lunaetlinetito 朝日新聞, これはひどい 「ひどく偏った記事です。議論の中の言葉だけ抜き出し強調している。社会保障と財政の会議でまともに給料から引かれる話です。その概要すらろくな説明がない記事。麻生で釣ってる場合じゃない思う。」 2008/11/27
rajendra 医療, 政治 「予防医療に傾注すれば医療専門職の負担を今より減らすことが出来るし、見えにくくなっている健康へのインセンティブを意識させたいというのなら間違っちゃおらんな。http://www.keizai-shimon.go.jp/minutes/2008/1120/shimon-s.pdf」 2008/11/27
y-kawaz これはひどい, 医療, マスゴミ 「確かに失言ではあるが、原文では「それほど深刻でない健康状態の人が受診することで医療費が圧迫されている」との意。文脈無視した悪意ある切り貼りはどうかと思う。せめて前後の文脈くらい合わせて紹介しようよ。」 2008/11/27
p_wiz 麻生太郎, 医療, 政治, 印象操作 「麻生太郎首相が一番まともな事を言っている件について ⇒ http://d.hatena.ne.jp/p_wiz/20081127/p3」 2008/11/27
rose 受験に朝日新聞 「これ、予備校で原文を読ませて 【問】傍線『何』の例を本文から探し、簡潔にまとめよ(40字以内) とかやってみ? 大抵「近所の病院に通うのに、二週間続けて、タクシーを使わず徒歩にする事」みたいな答えになるよ。」 2008/11/28

 マスコミ報道に警戒的なコメントは、大別して、(1)この報道は公正か、(2)麻生首相の趣旨を失言としてのみ葬ってよいのか、という点にある。
 元になった失言を見てみよう(参照PDF)。

(麻生議長) 67歳、68歳になって同窓会に行くと、よぼよぼしている、医者にやたらにかかっている者がいる。彼らは、学生時代はとても元気だったが、今になるとこちらの方がはるかに医療費がかかってない。それは毎朝歩いたり何かしているからである。私の方が税金は払っている。たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金を何で私が払うんだ。だから、努力して健康を保った人には何かしてくれるとか、そういうインセンティブがないといけない。予防するとごそっと減る。 病院をやっているから言うわけではないが、よく院長が言うのは、「今日ここに来ている患者は 600人ぐらい座っていると思うが、この人たちはここに来るのにタクシーで来ている。あの人はどこどこに住んでいる」と。みんな知っているわけである。あの人は、ここまで歩いて来られるはずである。歩いてくれたら、2週間したら病院に来る必要はないというわけである。その話は、最初に医療に関して不思議に思ったことであった。 それからかれこれ 30年ぐらい経つが、同じ疑問が残ったままなので、何かまじめにやっている者は、その分だけ医療費が少なくて済んでいることは確かだが、何かやる気にさせる方法がないだろうかと思う。

 これが失言のオリジナルだ。この発言は単独ではなく、与謝野議員の話に挟まれている。

(三村議員)それは、効率化案の示し方ということもあるのではないか。具体的には、イセンシティブな内容まで立ち入るかどうか、この辺については、どういう示し方をしたら良いのか議論の余地がまだあるのではないか。
(舛添臨時議員) そうである。
(与謝野議員)ただ、社会保障は放っていたら幾らでもお金が出ていってしまう。これは相当注意深く物事をやっていかなければいけないし、効率化というのは大事な目標である。 (中略)
(麻生議長) (前略)だから、努力して健康を保った人には何かしてくれるとか、そういうインセンティブがないといけない。予防するとごそっと減る。(中略)何かまじめにやっている者は、その分だけ医療費が少なくて済んでいることは確かだが、何かやる気にさせる方法がないだろうかと思う。
(与謝野議員) 今日の議論を次のようにとりまとめたい。(中略)

 三村議員から当面のテーマとして後期医療制度の支出削減のイセンシティブが提起され、舛添臨時議員も同意し、与謝野議員も支出を抑えるための効率化を述べるという流れで、麻生失言になるが、話の流れ上は失言ではない部分が議論の文脈につながっている。
 さて原文を読んで、報道との差を感じるだろうか。
 率直に言うと微妙なところだろう。
 「たらたら飲んで、食べて、何もしない」という品のない表現も失言のうちだが、自分の税金を不摂生な人に取られるのはいやだということは明瞭に述べており、首相の言としては好ましいものではない。
 だが、要点は、「何かまじめにやっている者は、その分だけ医療費が少なくて済んでいることは確かだが、何かやる気にさせる方法がないだろうか」にあり、国民の税金を低減させる方策はないかということにある。それが諮問会議の方針でもあり、この時点の話の流れにあった。
 しかも麻生首相はさらっと「税金」と述べているが、ここは彼なりに本質を喝破していたところで、後期高齢者医療制度が保険ではない含みがあった。ここが非常に難しいところだ。
 朝日新聞記事に「保険料で支え合う医療制度の理念を軽視していると受け取られかねない発言だ」とある記者の理解をそのまま受け取ってしまったのかもしれないが、はてなブックマークのコメントでは、麻生首相の失言を皆保険の否定として捉えているものもあった。

lakehill 医療, health, それはひどい 「お前は何言っているんだ!努力しただけで健康が保たれるのなら、誰も苦労しないよ。だいたい、みんなでお金を出し合って支えあう国民皆保険の理念を否定してどうする。/ ブログに書いた」 2008/11/27
ko_chan *政治 たらたら飲んで、食べて、「何もしない人の分の金(医療費)を何で私が払う>保険の概念をわかってない。努力して健康を保った人には、何かしてくれるというインセンティブがないと>民間保険じゃあるまいし」 2008/11/27
biconcave 麻生, 社会保障, 医療・介護 「正論だと思うなら堂々と国会で皆保険制度の廃止を訴えればいいと思います!」 2008/11/27
ssuguru memo 「保険料に差をつけるとかいう話だと思ってたけど(国民皆保険で可能?)、「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の 分の金を何で私が払うんだ。」の一文がそれを突き抜けてる。まさに失言。」 2008/11/27
annoncita 麻生太郎 「全部読んでも失言です。相互扶助の健康保険制度っていうものを根本から解ってません。」 2008/11/27
kogarasumaru 政治 「これは経済財政諮問会議の議論の流れと合わせて考えると非常に怖いのだが/元を読んでも皆保険制度否定でしょう」 2008/11/27

 ここも非常に難しい。朝日新聞記者も含めて麻生失言を皆保険の否定だと理解するのは、後期高齢者医療制度が国民皆保険だという、厚労省の建前を前提にしている。ところがここに問題の難所がある。次のコメントが問題の行方を示唆していた。

zu2 「健康な人の医療費なんてたかが知れてると思うなあ。統計ないかしら?」 2008/11/27

 もちろん「健康な人の医療費」は健康だからたかが知れているというのはあまりに言葉尻を受けた話でどうでもよい。「健康な人の医療費」とは、ようするに健康な人でも病気にかかることがあり、その医療費をどうするかということだ。それは、まさに国民皆保険の原型に合致する。疾病によっては数カ月の入院ということもあるが、慢性疾患で終身発生する費用ではない。
 別の言い方をすると、国民皆保険は長期に継続する失費を想定して作られた制度ではない。しかし、この制度に長期に継続する失費が含まれてきたことで、制度自体に財政的に破綻が見えてきていた。
 経済財政諮問会議の流れをやや誇張していうなら、麻生首相が構造的な費用削減を想定したように、現時点ですら遅すぎるが、それでなんらかの手を打たなければ、問題は皆保険全体に及び、むしろ皆保険が否定される事態になることだった。
 先の「命の値段が高すぎる!」は背景の歴史をこう説明している。

 もちろん医療制度に対する国民感情の自己矛盾は、昨日今日に始まったことではない。すでに一九八〇年代初頭から専門家の間で取り上げられてきた。当時すでに少子高齢化の到来が予想されていたため、医療制度を根本から見直す必要性に迫られつつあった。
 ところが不幸なことに、当時の人口予想はかなり楽観的であった。そのため、少子高齢化の進展速度を見誤ってしまった。
 (中略)
 そしてバブル崩壊と、その後の「失われた一〇年」である。
 日本の経済も社会も完全に沈滞し、もはや医療制度の未来を論じる気力も体力も残されていなかった。医療保険財政は悪化の一途をたどったが、保険料と患者自己負担率の引き上げを繰り返すことによって、何とか辻褄を合わせるより他なかった。本格的な改革にまったく手を付けられないまま、空しく時間だけが経過していったのである。

 小泉政権に国民の支持が高く長期に続いたこと、さらに政府主導が可能であったことから、ようやくこの問題に着手できるようになった矢先というのが、麻生失言の背景だった。
 後期高齢者医療制度はこうした流れで、現役世代の負担と皆保険を維持するために、慢性疾患に継続的に支出を必要とする部分を切り離す形で形成された。
 現状でも支出の45%は公費が担っていて、麻生首相が「税金」と喝破したのとおりである。国が30%、都道府県が7.5%、市町村が7.5%になる。さらに健保・国保から支援金が36%となっている。
 これらが今後の高齢化でさらに膨れあがることにはなるが、それでも本人負担が10%、またこの制度による高齢者間の保険が9%を占める。総額で約20%を高齢者世代が負担してもらうようにして、他世代が利用する皆保険への影響を極力少なくしたいということだった。
 とはいえ高齢者に負担を分担して増やすだけではなく、できるだけ高齢者同士の保険の制度にすることで自覚を促し、健康を維持することで全体の医療負担を軽減したいというのが麻生首相の趣旨だった。
 75歳という線引きは統計的に慢性疾患となり医療の質が変わる年代として採択されたが、財政面的には、扶養率(何人で保険を支えるか)が、65歳の人口から75歳を切り離すことでかなりの軽減ができる。別の言い方をすれば、65歳から75歳までできるだけ医療負担を減らすような制度を求めなければならないということだった。
 しかし、すべて終わった。
 後期高齢者医療制度は民主党政権で廃止される。それが現役世代を含め国民が望んだ未来であった。

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2009.09.05

宇宙人は存在するか?

 宇宙人は存在するか? 私は、UFOを高校生のとき一度見たことはあるが、あれが本当に未確認なのか確認はできなかった。ましてUFOに拉致されたことはない。睡眠中に体外離脱して緑豊かな金星に行ったこともない。行った先は火星だった……いやそんなこともない。マクモニーグルさんのように地球にいて遠隔から見ていただけだ……いやそれもない。それでも私は宇宙人が存在することを知っている。なぜ? そう問われたとき、「宇宙より愛を込めて、地球という星に住むすべての人に贈る歌」を、私も歌う。このYouTube映像の8分12秒のところだ。



私もほんとは宇宙人
君もあなたも宇宙人
他の星の人から見れば
ちょっと変わった宇宙人

海があって山があって
地球はきれいな星なのに
空き缶ぽいぽい紙屑ぽい
どこもかしこもゴミだらけ
むこうにおなかがすいた人
こっちに山ほど食べ残し
自分勝手に暮らしてる

私もほんとは宇宙人
君もあなたも宇宙人
他の星の人から見れば
ちょっと変わった宇宙人 


 いい歌だなぁ。
 地球はきれいな星なのに空き缶ぽいぽい紙屑ぽいは、変わらない。いやペットボトルが増えたか。むこうにおなかがすいた人、こっちに山ほど食べ残し、自分勝手に暮らしてるも変わらない。時間が止まってしまったみたいだよ、モンキー。
 ということで、宇宙人は存在する。僕と、君と、鳩山総理と……。
 しかし夜空を見上げて、この夜空のむこうに地球以外に宇宙人はいるのかと考えると、わからない。ただ、Bible Blackという感じの孤独を覚える。
 どの本だったか書名を忘れてしまったが、ホーキング博士が、宇宙の他文明の存在を問われて答えていた。不確かだが今でも覚えている。博士も、宇宙人は存在するかもしれないと答えていた。だが、その先に悲観的な推測を加えた。高度な文明はそれ自体で自滅するから、宇宙の文明が遭遇するということはないだろう、と。
 そうだろうな。地球の文明もあと何年続くだろうか。人類が滅んだ後、進化の結果、別の種が人間のような知性として出現する可能性もあるだろうが、そこまで地球が保つかはわからない。そう考えると、そしてブラック-ショールズ方程式から考えても、その可能性はないとしてよい。プラクティカルに投資の対象として見るなら、宇宙人は存在しない、終わり。
 だったのだが、今週のニューズウィーク日本版「世界の新常識」の「地球外生命体は存在する」を読むと、へぇと思った。地球型惑星は銀河系2000億個の恒星の半数ほどにあるらしい。1000億個は地球みたいな惑星があるのか。
 実際に生命が存在する可能性のある惑星の探索といえば、ケプラー計画がある。いや、私は知らなかったのだけど、推進者のビル・ボルツキさんは、けっこうマジだったのだな。

 ケプラー計画を支えるコンセプトが生まれたのは最近のことではない。ボルツキは高校時代、学校の課題をサボってUFOにメッセージを送るための高度な送信機を自作していたという逸話の持ち主。

 日本で言ったら日向冬樹君みたいなやつだったのか。彼の場合はすでに宇宙人に遭遇しているのだが、上井草あたりで。

 探査計画に予算を付けるよう上司に働き掛けるようになったのは80年代に入ってから。上司の反応は冷たかったが、ボルツキのチームは諦めなかった。

 ケプラー計画ってけっこうマジだったわけだね。

ケプラー計画がうまくいけば「『生命体なんてどうでもいい。存在するかもしれないし驚異の文明とやらも、どうでもいい』なんて言う人はいなくなるはずだ」とボルツキは言う。

 けっこう痛いところを突いている。普通、科学が正しいとか装っている人は、「生命体なんてどうでもいい。存在するかもしれないし驚異の文明とやらも、どうでもいい」とうそぶいているものだし。

 ボルツキに言わせれば、最終的に目指すのは「光に近い速度で飛行して問題の惑星まで行き、写真を撮ってわれわれに見せたり、現地のラジオやテレビを受信したりして、その星についての理解を深めるのに役立つ探査機」の打ち上げだ。

 すげーな。
 しかし、私としては、やはり、ホーキング博士が言うように、宇宙の文明は時間的には遭遇しないだろうし、知性というのはそれ自体で自滅していくものだろうと思う。そして、あと二つ思うことがある。一つは意外と宇宙に存在する知性体は我々だけかもしれないなという、三浦俊彦著「多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス」(参照)みたいなことと、もう一つは知性と生命の関わりにおいて、いわゆる生体に知性が存在せずとも、その情報だけで存続させる別の形式があるのではないかということだ。
 後者についてはけっこう考えるのだが、最近それって無理かもしれないと思うことが多い。「私」という意識存在は、情報の集積を越えたものなんじゃないか。鬼界彰夫著「ウィトゲンシュタインはこう考えた―哲学的思考の全軌跡1912‐1951」(参照)ではないが、「私」の存在の神秘みたいなものに行き着く。困ったなと思っている。大森荘蔵は「私」は存在しないと言ったが、そうでもないのかもしれない。わからないな。
 ところで、こうした問題をもっとシンプルに考える人もいる。英国テレグラフ紙に今日付で「The fashion for UFOs」(参照)という短い社説が掲載されていた。

Aliens abducted the wife of the new Japanese prime minister. “While my body was asleep, I think my soul rode on a triangular-shaped UFO and went to Venus,” Miyuki Hatoyama wrote last year. “It was a very beautiful place and it was really green.” So one would hope.

異星人はかつて日本の新首相の妻を拉致した。「私の身体が眠りに就いた間、私の霊魂は三角形のUFOに乗り、金星に行った」と鳩山幸は昨年書いた。「美しい場所で、本当に緑だった」 かくのごとく、人は望むものだ。


 けっこう英国では話題だったようだ。テレグラフ紙社説はこの先、幸さんにサフォークへの旅を勧めている。英国人ならけっこう誰でも知っている「レンドルシャムの森の事件」というUFOの話があったそうだ。
 とはいえ、テレグラフ紙はUFOは、超常現象というより流行現象でしょとする。

Whether this is a likely explanation is neither here nor there. UFOs come in and out of fashion quite independently of the evidence in their favour. In this they have much in common with nudism, ley lines, poltergeists, vegetarianism, Tupperware, rockeries, yoga, tattoos, barbecues, beards, Jim Reeves, bull-terriers, ESP and cider.

妥当な説明についてはいずれでもない。UFOというのは、望む証拠とは関係なく、流行に沿って出たり消えたりするものだ。共通するものには、ヌーディズム、レイライン(線上の古代遺跡)、ポルダーガイスト、菜食主義、タッパウェア、岩石庭園、ヨガ、タトゥー、バーベキュー、あご髭、ジム・リーブス(歌手)、ブルテリア、ESP、シードルがある。


 UFOというのは流行り物だということ。で、オチはこう。

Perhaps one day, the wife of a British prime minister will believe in UFOs, too.

いつの日か、英国首相の妻もまたUFOを信じることだろう。


 そういえば、ブレア元首相の妻シェリー・ブレアさんが若い頃、絵のヌードモデルをしていたというのが話題になっていた。その絵の写真も現地の新聞に掲載されていたけど、まあ、リアルな描写じゃなかった。首相の妻には明るい話題があったほうがよい。
 テレグラフ紙が書いたように、UFOはまたまたブームの時代なのかもしれない。グーグルの今日のロゴもUFOを描き、"unexplained phenomenon"と謎を掛けていた。

logo

 一昨日"Japan's first lady: 'Venus is a beautiful place'"(参照)の記事を掲載したガーディアン紙は、グーグルの悪ふざけに付き合って「Why will we always be captivated by UFOs(なぜ我々はいつもUFOに拉致されるのか」(参照)を掲載していた。


The fact the Guardian's Bad Science column has now surpassed 300 articles may indicate that the public's interest in debunking myths is nearly as voracious as the appetite for the paranormal and unexplained - the subject of a special edition Google logo today.

ガーディアン紙掲載の悪しき科学コラムが300本を越えたという事実は、公衆の都市伝説を暴こうとする関心が、超常現象や不可解現象を望むと同じくらい強いということを意味しているだろう。つまり、それが今日のグーグル・ロゴのテーマだ。


 ガーディアン紙はテレグラフ紙ほどのユーモアセンスもなく、真面目にDistrict 9(参照)とかの展開になっていくので、割愛。

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2009.09.04

心配ご無用、ハトヤマはチャベスに遙かに及ばない

 著名な外交評論家の岡本行夫氏が、鳩山民主党代表のニューヨーク・タイムズ紙寄稿を読んだ米人識者の言葉を、こう伝えていた。「ハトヤマはチャベス(ベネズエラ大統領。激烈な反米主義者)と全く変わらない」参照)、と。そしてこう補足した(産経新聞「外交評論家・岡本行夫 鳩山さん、よく考えてください(2009.9.1)」より)。


 鳩山さんが傷つくこの英文を、なぜ誰もチェックしなかったのか。チャベスはともかく、この論文と同じようにアメリカ一極主義のおかげで世界が悪くなったとやったのは、プーチン・ロシア大統領(当時)、2007年2月のミュンヘン演説だ。欧米の猛反発をかったが、そのプーチンですらグローバリズムまでは批判しなかった。鳩山論文の内容は、むしろ、グローバリズム反対を叫んでG8サミット妨害を繰り返す欧米NGOの主張に近い。

 心配ご無用、ハトヤマはチャベスに遙かに及ばない。
 チャベス大統領の反米主義は断固たるものがある。その一端を、8月30日のしんぶん赤旗「平和地域として強化 南米諸国連合首脳会議が共同宣言」(参照)が伝えている。米国とコロンビア間で麻薬取り締まりを名目に、米軍がロンビア国内の7基地を向こう10年間利用する米軍増強計画について、チャベス大統領は批判した。南米諸国連合首脳会議で、コロンビアのウリベ大統領が米軍の支援を求めたことについて。

 これに対しベネズエラのチャベス大統領は米軍の関連文書を示し、米軍増強が「戦争の種」をまくものであり、「米国によるグローバルな支配戦略の一環だ」と批判。

 チャベス大統領の反米主義は口先だけ批判ではない。行動も伴う。7月29日付けニッケイ新聞「FARC=高性能武器を入手=スウェーデン製武器がゲリラに」(参照)より。

 コロンビア政府とスウェーデン政府は二十七日、ベネズエラへ売却したはずのスウェーデン製武器がコロンビアのFARC(コロンビア解放前線)で使用されていることで、ベネズエラのチャベス大統領に説明を求めたと二十八日付けエスタード紙が報じた。
 武器は、ロケット砲AT4と対戦車砲。コロンビア政府軍が昨年七月、FARC野営地を急襲し、押収したもの。ロケット砲と対戦車砲及び弾薬は、スウェーデンがEU(欧州連合)のどこかの国へ売り、めぐり巡ってベネズエラに至ったとされる。
 ベネズエラのチャベス大統領とエクアドルのコレア大統領は、FARCの影の協力者と見られている。ベネズエラのマドゥロ外相は、コロンビア政府軍こそ米軍支援のもとに冷酷無比な掃討戦争を展開と非難した。

 チャベス大統領は、FARC(コロンビア解放前線)に武器供与を行ったのだ。
 本当? また西側報道による陰謀ではないのか? 
  8月10日FujiSankei Business i.記事「ベネズエラ・コロンビア対立深刻 第三国の介入は逆効果」(参照)によると、チャベス大統領はFARCへの武器供与を本人が公言しているとも言い難い。

 チャベス大統領は記者会見でFARCに供与したと指摘された携行型対戦車ロケット弾AT4について、1980年代にスウェーデンから購入したものの、95年にベネズエラ海軍から盗まれたと主張。

 それでも赤旗が伝えるところの「戦争の種」を撒く米軍に、きちんと真正面から軍事で対抗しようとしているのが、芯のある反米主義者というものだろう。

 チャベス大統領は、FARCへの武器供与疑惑に対するコロンビアの非難は、米軍との軍事協定から目をそらすための「煙幕」と主張している。ベネズエラは7月末、全外交官をコロンビアから召還し、2200キロメートルに及ぶコロンビア国境線への軍配備を強化した。

 しかし、武器と言っても携行型対戦車ロケット弾AT4でしょ。そんなに大した武器かよ、と、やはり西側報道によるきな臭さを感じる人もいるかもしれない。
 大丈夫、まだ先がありそうだ。8月15日ニッケイ新聞「ウナスール=亜国で28日に開催=明確な安全保障協定締結を」(参照)より。

 コロンビアは、外部機関との関係で詳細を明かさない。ベネズエラとロシアの軍事協定も内容が明白でない。チャベス大統領は、ロシア製スーホイ戦闘爆撃機など新兵器を三十億ドル購入した。
 コロンビアが米軍事同盟の改正更新を明らかにしたことで、ベネズエラはロシアからコロンビアに優るとも劣らぬ軍装備を急ぎ出した。チャベス大統領は、プーチン首相の後押しに謝すと述懐した。それがなければ、ベネズエラは米帝国主義の蹂躙に屈するしかないと考えているようだ。

 「武器がなければ米帝国主義の蹂躙に屈するしかない」それがチャベス大統領の男粋だ。口先だけで友愛を説く鳩山氏とは比較にもならない。
 反米主義の輪を広めるべく、チャベス氏はイランへも反米主義の力強い連帯を広げている。8月24日付けワシントンポスト「Advantage, Mr. Chávez」(参照)より。

N THE COURSE of the past month, Venezuelan President Hugo Chávez has been exposed as a supplier of advanced weapons to a terrorist group that seeks to overthrow Colombia's democratic government. In his own country, he has shut down 32 independent radio stations. His rubber-stamp National Assembly has passed laws to gerrymander districts in next year's parliamentary elections and eliminate the autonomy of universities. Mr. Chávez has pledged to purchase dozens of tanks from Russia, and he has scheduled a trip to Tehran next month to reinforce his support for beleaguered Iranian President Mahmoud Ahmadinejad.

 過去一か月でベネズエラのウゴ・チャベス大統領は、コロンビアの民主主義政府の転覆を求めるテロリストグループへの高性能兵器供与者であることが明らかになった。チャベス大統領のベネズエラでは、32の独立ラジオ局が閉鎖されもした。チャベス大統領を追認するだけの国民会議は、来年の議会選挙のために、勝手な選挙区改定し、大学自治を排除する法案を可決した。さらにチャベス大統領は、ロシアから数十台もの戦車購入を確約し、来月には窮地に立つイランのアフマディネジャド大統領支援強化のために、テヘラン訪問をすることになっている。


 友愛を越えたチャベス氏への支援は、ロシアやイラン以外に中国からも期待されている。8月24日付け産経新聞「中国、ベネズエラ基金に40億ドル積み増し 反米政権と関係強化」(参照)より。

中国が21世紀の社会主義建設を唱える反米左翼大統領チャベス政権のベネズエラとの関係を深めている。中国共産党機関紙、人民日報(電子版)によると、中国政府は22日までにベネズエラからの原油調達を目的とした共同基金を40億ドル(約3760億円)積み増し、160億ドルに拡大することでチャベス政権と合意した。


中国は海外からのエネルギー調達ルート拡大と供給態勢の安定化を国家戦略として進めており、今回の基金積み増しもその一環。反米姿勢を強めるチャベス政権との関係強化は米国に対する牽制(けんせい)の意味もありそうだ。中国は昨年、四川省でベネズエラの人工衛星を打ち上げに協力している。

 反米主義こそ現在の世界において友愛の基本になるものなのかもしれないし、チャベス氏は鳩山氏がそこに気がつくことを注視しているかもしれない。1日付け日経新聞記事「衆院選結果に「日本の変化、興味深い」 ベネズエラ大統領」(参照)より。

中東歴訪中のベネズエラのチャベス大統領は31日、日本の衆院選結果について「日本で起きている変化は興味深い。中道左派の勝利は重要だ」と語った。ベネズエラのテレビ局の電話インタビューでの発言で、大手紙ウニベルサル(電子版)などが伝えた。チャベス大統領は「鳩山氏は米国主導の市場原理主義から距離を置き、人間の尊厳回復を政策に掲げている」と、対米政策の変化を注視する構えを示した。

 チャベス氏はしかし、鳩山氏の理念が、「人間の尊厳回復」よりも、人類を超え、さらにその愛のパートナーさんの語る金星の緑豊かな自然(参照)に到達するものかもしれないことは理解できないだろう。鳩山氏の公式ホームページ「わがリベラル友愛革命 <その1>」(参照)には、その理念が語られている。

宇宙意識にめざめつつあるこの時代に、国とは何なのか、私たちは何のために生きているのかを、いま一度考え直してみるべきではないか、政治の役割をいま見つめ直す必要があるのではないかと思う。

 むしろ、その宇宙の視点に立った国家観こそ、鳩山氏がチャベス氏に伝えるべきものかもしれない。
 鳩山氏のニューヨーク・タイムズ紙寄稿に問題があるとすれば、「宇宙意識にめざめつつある」ことをもっと直裁に、世界の人にわかりやすく伝えることができなかった点だろう。

cover
知られたくなかった2012創造説 (地球防衛軍)

『宇宙のメカニズムは
 科学的に解明できていない
 ことが大半です。
 説としては興味深い
 一冊でした。』(鳩山由紀夫)

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2009.09.03

[書評]命の値段が高すぎる! - 医療の貧困(永田宏)

 倫理的に考えれば命に値段が付くわけもないのだから当然、書名の「命の値段が高すぎる! - 医療の貧困」(参照)は比喩である。実際はというと、後期高齢者医療制度にかかる費用が莫大で日本は高齢者医療を維持できるのだろうかという問題だ。

cover
命の値段が高すぎる!
医療の貧困
 本書の趣旨にかかわらず、この問題は非常に深刻でこれからの政治に大きな影を投げかけるはずだった。

 高齢者医療費が高すぎて、もはや国民には払えない。高齢者も現役世代も、これ以上の負担には耐えられそうにない。だからいって、このままじっとしていては何も解決しない。
 ではいったいどうすればいいのか。
 いくつかの選択肢がすでに用意されている。(中略)
 しかしその前に、医療制度の「抜本的解決」はありえないことを理解しておいていただきたい。
 どの政党も医療制度の「抜本的解決」を訴えている。ところが中身はお粗末なものばかりで、具体的な解決案はほとんど示されていない。国民は待てど暮らせど具体策が出てこないため、イライラを募らせている。
 しかし最初から「抜本的解決」などありえない。政治家はそのことを熟知している。だからこそ、どの政党も具体案を提示しないのである。

 国民はイライラに耐えられず、堪え性なく、民主党が示す「抜本的な解決」を選んでしまった。
 民主党政権の成立により、後期高齢者医療制度は廃止される。民主党のマニフェストにはこうある。

後期高齢者医療制度の廃止と医療保険の一元化
 後期高齢者医療制度は廃止し、廃止に伴う国民健康保険の財政負担増は国が支援します。国民健康保険の地域間の格差を是正します。国民健康保険、被用者保険などの負担の不公平を是正します。
 被用者保険と国民健康保険を段階的に統合し、将来、地域医療保険として、医療保険制度の一元的運用を図り、国民皆保険制度を守ります。

 後期高齢者医療制度は廃止される。かくして「後期高齢者医療制度」という問題も消失する。これ以上の「抜本的な解決」はない。
 しかし、対応する現実が消えたわけではない。高齢者の医療は、若い人の医療とは異なり短期に治療して終わる種類のものではなく、特に統計的に見て75歳以上の場合、慢性型疾患で長期にわたって支出が続く。その現実はどうなるのか。
 現実への対応は本書が指摘するように、四通りしかない。(1)最低福祉・低負担、(2)低負担・中福祉、(3)中福祉・高負担、(4)高福祉・超高負担である。
 麻生総理は、中福祉・中負担と言ったがそのチョイスは存在しないと国民に見抜かれて否定された。
 民主党のマニフェストを普通に読むと、高齢者医療は「保険」として国民健康保険に組み込まれ、その財源には公費を充てるということのようだ。
 もともと高齢者医療費をどう負担するかというのは、本書も指摘しているように、三つの選択しかない。(1)公費、(2)曲がりなりにも公的保険、(3)自由診療・混合診断の拡大、である。小泉改革では2番の公的保険維持が選ばれた。民主党政権下でも、「保険」の枠組みは保たれているかのようだが、実質は1番目の公費ということになる。
 その結果到達する未来は、(4)高福祉・超高負担になるだろう。現状ですら、負担のなすり合いだったのに、それがさらに重くなる。

 増え続ける高齢者医療費を負担するのは誰だって嫌なのである。高齢者本人たちもそう思っている。負担のなすりあいは、結局のところ誰も納得できないところで決着したが、現役世代により強く負担を強いる形となった。

 その納得も破局し、さらに公費に裏付けられることで、さらに現役世代により強く負担を強いる形になる。
 民主党政権により「後期高齢者医療制度」の廃止後、高齢者医療はあくまで「保険」制度の枠組みの国民健康保険となりる。そして、それではカネは足りないからどぼどぼと公費、つまり税金をつぎ込んでいく。
 現在でも公費をつぎ込んでいるのだが、それではあまりに無理なことになる、というので小泉改革の一環として後期高齢者医療制度が検討されたものだった。
 しかしもし、民主党政権が現実にぶちあたって、この問題が国民に重税ではなく、再考という形で戻されるならどうするのだろうか。本書はそのときに大きな指針となるだろう。

 足掛け五年にわたって医療費について、とりわけその負担の配分について、あらゆる議論が徹底的に行われた。したがって誰が政権をとろうとも、小泉時代に提案された案のどれかに類似した医療政策に収束してしまうだろう。しかも選択肢がごく限られていることも、ご理解いただけたはずだ。

 問題を現実的に理解するなら、選択肢はそれほどない。

 政党の中には今でも高齢者の保険料を下げ、自己負担率も下げ、さらに介護と年金を充実させるといった夢のような政策を掲げているところもある。よほど勉強不足で状況認識ができていないか、さもなければ所詮はマニフェストと割り切っているかのどちらかであろう。その点ではむしろ小泉内閣のほうが、はるかに現実的だった。

 国民は負担の痛みから現実に直面して、小泉内閣のほうが、はるかに現実的だったなと向き合うときが来るのだろうか。

 結論としては、元に戻すよりも新しい制度を考える方が簡単だし、無駄も少ない。政党の中には世論に迎合して「後期医療制度を廃止して元に戻す」と宣言してしまったころもあるようだが、あまり意地を張らず、現実的な解決策を模索するほうがよさそうだ。

 新しい制度を考えるほうがよいことになるとしても、大筋では小泉改革の継承となるだろう。その時代に誰がきびしい政治を率いるだろうか。

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2009.09.02

[書評]不透明な時代を見抜く「統計思考力」(神永正博)

 例えば、小泉改革で格差は拡大したとよく言われる。本当だろうか。いろいろな議論はあるが、議論の大半は論者の主観であったり、論者の身の回りの生活感覚から導かれた、ごく局所的な状況報告であったりする。
 それ以前に、「小泉改革で格差は拡大した」という命題はいったい何を意味しているのだろうか。命題は真または偽として評価されるものだ。「それが本当であるか、あるいは嘘であるか」という判定は、このケースでは格差の定義とその評価法に依拠している。一番明快な説明は、数値的・数学的に格差なる社会現象を定義し、実際に統計データに当たってみて、その正否を見ればよい。それが方法論ということでもあり、統計学はその数値的な表現から方法論によく利用されている。

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不透明な時代を見抜く
「統計思考力」
 本書、「不透明な時代を見抜く「統計思考力」(神永正博)」(参照)は、統計から各種議論の正否を考えるための参考書でもあり、加えて統計を使って考える際の勘所を比較的平易に解説している。学生やビジネスマンにとっても、一読して有益な書籍であり、また書架に残し、「そういえばべき分布ってなんだっけ」と疑問に思ったときに該当部分を読み返してもよいだろう。帯にアルファブロガー「小飼弾氏絶賛!!」とエクスクラメーションマークが重ねられているが、いかにも氏が好みそうなタイプの明晰さで書かれている。
 本書では実際に「小泉改革で格差は拡大したか」が詳しく議論されているので、少し追ってみよう。まず、「ジニ係数」を使って所得のデータが検討される。ジニ係数とは国民間の所得の偏りを示した指数で、国民が同一の所得ならゼロ、特定の一人が独り占めしているなら1になる。ゼロから1の間で所得格差を数値で知ることができる。本書ではジニ係数の計算に必要なローレンツ曲線を解説し、実際に公式統計値からジニ係数の計算、およびその年ごとの変遷を見ていくことになる。
 結果はどうか。1996年から1999年の間にジニ係数の大幅上昇があることがわかる。つまり、この間に格差は広がったのだ。さて、では、小泉政権の期間はというと、2001年から2006年である。あれ? 小泉改革は格差の広がりと関係ありませんね、という結論が出る。では、1996年から1999年の間のジニ係数の大幅上昇理由はなにか? 統計値を仔細に見ていくと、社会の高齢化であることがわかる。
 いや、「小泉改革で格差は拡大した」というのはジニ係数だの所得格差のことではない、完全失業率の問題だ、という主張もあるだろう。雇用が悪化したのは小泉改革の弊害であるといった議論だ。そこで、「日本統計年鑑」による統計値のグラフ「完全失業率と有効求人倍率の推移」を見る。すると、小泉政権の初期には完全失業率が上昇しているものの、その後は徐々に低下している。むしろ、完全失業率の増加は小泉政権以前から見られるので、小泉改革が失業率を減らしていると言えそうだ。あれ? それでいいのか。では、単に働いていない若者を数えるとどうか。これも1990年代からの増加で小泉政権下での目立った増加はない。つまり、ここでも「小泉改革で格差は拡大したか」というと、どうやらそうではない。
 では、話題になっている非正規雇用者の増加はどうだろうか。これも統計を見ていくと、同様に特に小泉政権下との関連はなく、それ以前からの変化が続いていたとしか言えない。では、ワーキングプアの増加はどうだろうか。これは統計の扱いが難しいが、やはり同様の結論が出てくる。ではでは、生活保護世帯の増加はどうか。これも小泉改革との関係はわからないとしかいえない。さらに、ホームレスとネットカフェ難民もと統計値を見ていくと、むしろ減っているように考察できる。結局どうなの?

 本稿のテーマは、小泉政権が格差を拡大したのかどうかを検証することでした。
 これまで見てところでは、わたしたちの実感とは異なり、それをはっきりと裏付けるデータは、公式統計からは見当たりませんでした。

 え? そうなのか。いや、そうなのだ。それが、各種統計を見て出てくる結論であって、逆に、小泉改革で格差は拡大したという議論は、おそらく、特殊な方法論を使っているか、ごく主観的な主張に過ぎないだろう。
 しかし、その結論でいいのかためらった著者は、「とはいえ、小泉改革との関係が疑われるデータが、まったくないわけではありません」として、自己申告ではありながら「貯蓄のない世帯」の増加は顕著に見られるとし、こうも述べている。

 小泉政権下で景気は拡大していましたが、84ページの図24で見たように、平均給料は下がっています。景気拡大の恩恵は、ふつうの給与所得者にまでは及んでいない、ということになります。日本全体がお金持ちなっているにもかかわらず、平均給与が減少するというのであれば、格差が問題になるのも当然だと言えるでしょう。

 しかし、それは国家としての再配分の課題で、小泉政権が格差を拡大したという議論とは違うように私は思う。また「貯蓄のない世帯」が問題視されてもいるが、個人で住宅ローンなどが組みやすい時代でもあったと言えるのではないだろうか。
 そのあたりの、いわば、明白に統計からは議論できないところで本書の限界が見える。それが誤りというのではなく、議論と統計処理の限界がきちんと見えるというべきだろう。
 本書の魅力は、こうした実際の統計値の実技的な扱いの指針になることに加えて、統計学の背景になる分布についての基礎概念をていねいに解説していることだ。特に、正規分布と「ブラック・ショールズ評価式」の問題についての詳しい説明は、ナシーム・ニコラス・タレブ著「ブラック・スワン」(上巻参照・(下巻参照)の数学的な解説になっていて有益だ。ただ、おそらく出版年度から考えてもまた、タレブ氏の前著「まぐれ - 投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか」(参照)の言及に偏っていることからも、「ブラック・スワン」は著者が読まれていても本書には直接的な影響を与えていないようだ。
 率直にいえば、統計の扱いは素人にはむずかしく、「統計思考力」を本書によって付けることも難しいだろうと思う。それでも、統計データからものを考えるときの勘所や、専門家が統計値を使った議論のどこで躓くのかという疑わしい領域は理解できるようになる。

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2009.09.01

民主党政権への米英紙の関心は日米同盟

 フィナンシャルタイムズ、ニューヨークタイムズ、ワシントンポストの社説で民主党政権成立の話題が掲載されていた。結論から言えば、政権交代でようやく日本も民主主義の仲間入りができてよかったねという期待と、日米同盟について指針を出してほしいという懸念の二つが軸になっていた。欧米ならではの上から目線という印象もないではないが、基本には彼らの歴史意識としては、日本の自民党は冷戦のために米国が作成した政党なのだから、そういう視点もしかたがないだろう。以下、ざっくりメモ風に見ておきたい。
 フィナンシャルタイムズは「Sun rises on a new era for Japan(新時代の日が昇る)」(参照)で新政権の期待を述べたあと、日米同盟を基軸に外交について意見を出している。


Finally, on foreign policy, where the new government wants to re-calibrate relations with the US and the rest of Asia, particularly China, it must quickly graduate from opposition posturing to practical politics.

最後に外交についてだが、新政権は米国、アジア諸国、特に中国との関係を改めようとしているようだが、なんでもかんでも反対の野党を早急に卒業して現実の政治に向き合わなければならない。

It is perfectly acceptable to point out that Japan’s future is intertwined with that of Asia and that a one-dimensional foreign policy of subservience to Washington is inadequate. But there are ways of reaching out to Asia and of asserting Japan’s national interest without causing jitters in Washington.

日本の未来がアジアに織り込まれること、また米国政府にべったりの外交は適切ではないということは、まことにごもっともな話だ。しかし、アジアに手を伸ばすにしろ、米国政府を不安に陥れずに国益を主張するにしろ、物事にはやり方がある。

Japan must tell the US clearly what it can and cannot do, both in terms of military support, say in refuelling ships in the Indian Ocean, and in other areas, such as transfer of environmental technology, where it has much to offer.

日本は米国に対して、はっきりと、軍事支援とその他の分野で何ができて何ができないかを言うべきだ。つまり、インド洋上給油活動と、より提供可能な環境技術の移転についてだ。

Critics are right to point out that the DPJ is a mixed ideological bag. Now it has gained power, it must prove it can rally around a coherent and pragmatic set of principles. Japan’s voters have revealed themselves to be extremely skittish. They will not settle for anything less.

日本民主党は各種イデオロギーの詰め合わせセットだと批判するのはもっともなことだ。が、政権を獲得しちゃったんだから、一貫して現実的な原則のもとで結集できることを示す必要がある。今回の選挙で日本の有権者の尻が極めて軽いことは明白になった。党内一致すらできなければ、有権者の気は変わるだろう。


 いちいちごもっともなところだが、たぶん、こうしたご意見は通じないのではないか。
 ニューヨークタイムズ紙社説「Japan’s New Leadership(日本の新しい指導体制)」(参照)は、政権交代に概ね好意的だが、鳩山論文(参照)を掲載したこともあり、その文脈から懸念を表明していた。

One concern: Mr. Hatoyama’s suggestion that Japan not renew the mandate for its ships on a refueling mission in the Indian Ocean in support of United States military operations in Afghanistan. President Obama is implementing a new Afghan strategy. Japan should continue its risk-free mission, at least through next spring.

気がかり:鳩山氏が、アフガニスタンにおける米国軍事活動支援のためのインド洋上給油活動の指令を継続しないと示唆していること。米国オバマ大統領は新アフガニスタン戦略を遂行中だ。日本は、リスクのない活動を、少なくとも来春末まで継続すべきだ。


 日本叩きで朝日新聞と仲むつまじいリベラルなニューヨークタイムズが、親切にもインド洋上給油活動はリスクがなくてよいよと提言するの図なのだが、しかし民主党はよりリスキーな選択をすると、元小沢党首は、2007年岩波書店「世界」11月号「公開書簡 今こそ国際安全保障の原則確立を 川端清隆氏への手紙」(参照)で確言していた。

もちろん、今日のアフガンについては、私が政権を取って外交・安保政策を決定する立場になれば、ISAFへの参加を実現したいと思っています。また、スーダン(ダルフール)については、パン・ギムン国連事務総長がかつてない最大規模のPKO部隊を派遣したいと言っていますが、PKOは完全な形での国連活動ですから、当然、それにも参加すべきだと考えています。

 この見解が小沢氏個人のものではないのは、次の明言からわかる。

貴方は海外にいらっしゃるから、民主党の政策論議の結論をご存知ないのかもしれませんが、昨年末まで2ヵ月余の党内論議の末、先ほど私が述べたような方針(「政権政策の基本方針」第三章)を決定しています。このことは正しく認識しておいていただきたいと思います。

 「政権政策の基本方針」第三章(参照)を見ると、次のとおり。

8.国連平和活動への積極参加
 国連は二度に亘る大戦の反省に基づき創設された人類の大いなる財産であり、これを中心に世界の平和を築いていかなければならない。
 国連の平和活動は、国際社会における積極的な役割を求める憲法の理念に合致し、また主権国家の自衛権行使とは性格を異にしていることから、国連憲章第41条及び42条に拠るものも含めて、国連の要請に基づいて、わが国の主体的判断と民主的統制の下に、積極的に参加する。

 おそらくニューヨークタイムズはそのリスクを考えに入れたうえで、先の懸念を表明していると言えるだろう。
 ワシントンポスト紙社説「Shake-Up in Japan(日本の変革)」(参照)は、フィナンシャルタイムズやニューヨークタイムズよりも踏み込んだ意見を述べている。自民党政権の失敗から小沢一郎氏へ言及する指摘が興味深い。それは単なる批判ではなく、現実政治への期待でもあるようだ。

Can the Democratic Party of Japan, a mix of former LDP politicians, ex-socialists and civic activists, succeed where the LDP has failed? One irony of the party's reform message is that its behind-the-scenes leader is Ichiro Ozawa, a former LDP boss with a knack for power politics.

元自民党議員や元社会主義者、市民活動家のごちゃ混ぜである日本民主党に、自民党が失敗した諸問題を解決できるだろうか? 民主党の改革案の皮肉の一つは、陰のボスである小沢一郎だ。彼は力の政治の才覚をもった自民党のボスでもあった。


 日本経済についても言及している。

Japan needs further restructuring of an economy that depends heavily on exports to support less-efficient sectors such as construction and agriculture. Greater reliance on domestic demand would help both hard-pressed Japanese families and the United States, insofar as such a policy might reduce Japan's trade surplus: The DPJ has several pro-consumption proposals, from lower highway tolls to increased support for couples with children.

日本はさらなる経済の構造改革を必要としている。現状では、建築業や農業など効率の悪い分野を支援するために輸出への依存度が高い。民主党の政策は日本の貿易黒字が削減できるという意味で、国内需要への依存が増せば、逼迫した日本の家計と米国の双方を援助することになる。例えば、高速道路料金を下げることから、子育て家族の支援を増やすなど、消費を活性させる政策がそれに当たる。

Alas, the party has been less clear about how it will pay for these goodies, no small omission given that the national debt is already almost twice Japan's gross domestic product. Unfortunately, too, the DPJ bought the votes of Japan's farmers with promises of money and protection.

嘆かわしいことだが、民主党はその財源を明らかにしてこなかった。国内総生産(GDP)の二倍の財政赤字があるというのにだ。しかも、民主党は農家の票を得るためにバラマキと保護まで約束したのは、残念な話だ。


 日米同盟についても、当然言及している。

There will no doubt be room for negotiation with the Obama administration, perhaps over such issues as the basing of U.S. Marines in Okinawa. But the threat of a nuclear North Korea makes Japan's neighborhood too dangerous, we think, for the government in Tokyo to seek a rupture with Washington or for the Obama administration to let one develop.

沖縄海兵隊基地問題などでオバマ政権と交渉の余地がないわけではない。しかし、北朝鮮の核化で日本近隣は非常に危険なので、思うに、日本の政府は米国政府と決裂するわけにはいかないし、オバマ政権にとっても放置するわけにはいかない。


 英語でさらっと目を通したときは、この米人の感覚は知っておいたほうがいいかなと思ったが、改めて読み直してみると、米国様沸騰寸前という印象がある。
 引用中、"the basing of U.S. Marines in Okinawa"というのは、日本で言うところの普天間基地移設問題である。すでに選挙後、即座に米国は言及した。朝日新聞記事「「普天間移設、再交渉しない」米国務省、民主政権牽制」(参照)より。

米国務省のケリー報道官は8月31日、総選挙で大勝した民主党が沖縄県の米軍普天間飛行場の移設計画見直しに言及していることに関連し「米政府は普天間飛行場の移設計画や(在沖縄米海兵隊の)グアム移転計画について、日本政府と再交渉するつもりはない」と記者団に述べ、同飛行場の移設や海兵隊グアム移転を計画通り進める考えを示した。

 この文脈を事実上踏まえて、先のワシントンポスト紙社説は、そうはいっても交渉の余地はあるだろうとしているわけだ。その余地というか、自民党案とは異なるシグナル(参照)もまったくないわけでもない。

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