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2009.08.21

[書評]自由はどこまで可能か―リバタリアニズム入門(森村進)

 副題に「リバタリアニズム入門」とあるが本書「自由はどこまで可能か(森村進)」(参照)は、学術レベルに対する入門という意味合いで、内容はかなり濃く、いわゆる新書にありがちな入門書ではない。

cover
自由はどこまで可能か
リバタリアニズム入門
森村進
 後半になると著者森村氏の見解がやや突出する違和感があるが、総じて現代のリバタリアニズムを俯瞰して理解するには最善の書籍と言える。その分、簡単には読めない。不必要に難解な書き方も悪しき学術的な書き方もされてなく読みやすい文体なのだが、一見簡素な思想に見えるリバタリアニズムが投げかける本質的な課題を考えつつ読むことが難しい。
 何度も繰り返し読むに耐える書籍でもある。出版は2001年と古く、やや現代の古典といった風格もあり、この間のリバタリアニズム思想の展開も気になるところだが、とにかく本書を出発点にしないことには話にもならないだろう。
 リバタリアンとは何か。本書は、類似または対比される思想的立場との違いを次のようにチャート的にまず示している。ごく基本的な事項なので著者森村氏の分類で、確認の意味でまとめておきたい。

リベラル
精神的自由や政治的自由のようないわゆる「個人的自由」の尊重を説く一方、経済的活動の自由を重視せず経済活動への介入や規制や財の再配分を擁護する。
保守派(コンサバティブ)
個人的自由への介入を認めるが経済的自由は尊重する
リバタリアン
個人的自由も経済的自由も尊重する
権威主義者(オーソリテリアン)・人民主義者(ポピュリスト)
個人的自由も経済的自由も尊重しない
全体主義者
権威主義者(オーソリテリアン)・人民主義者(ポピュリスト)の極端な形態。ファシズムや共産主義。

 著者森村氏は日本の保守主義者について、伝統尊重を唱えグローバリズムや規制緩和の動きに反対する傾向があるとし、思想的には保守主義ではなく、権威主義者に近いとしている。
 さらに日本では、いわゆる左派も同様にグローバリズムや規制緩和の動きに反対する傾向が強く、同質の権威主義に見える。特に日本における、いわゆる左派の表層的には反ナショナリズム的な言動は、実際にはナショナリズムと等価になっている点について森村氏は、次のように明確に指摘している。

 政治思想におけるリバタリアニズムの大きな特徴の一つは、国家への人々の心情的・規範的同一化に徹底して反対するという個人主義的要素にある。リバタリアニズムの観点からすれば、国家や政府は諸個人の基本的権利を保護するといった道具的役割しか持たない。それ以上の価値を認めることは個人の自由だが、それを他人にまで強いるのは不当な介入である。国民的あるいは民族的なアイデンティティなるものが各個人にとってどのくらい大切か、社会にとってどのくらい有益かは一つの問題だが、ともかくその確立は政府の任務ではない。
 ところが今の日本では、ナショナリズムに一見反対している論者たちが戦争世代が戦争責任の引き受けることを主張するというねじれが見られる。しかしそれは日本人すべてに、戦前戦中後を通じた「日本人」という国民集団への人格的帰属を強いることになる。これこそ否定されるべきナショナリズムの一類型である。国が何らかの責任を負うからといって、国民が人格的な責任を負うということにはならない。

 日本の思想状況では、右派左派ともに独自の価値を社会に強いる権威主義ないしパターナリズム(paternalism)しかないようにも見える。特に「リベラル」が左派を意味しつつ、ねじれた形でのナショナリズムに転化した、思想的な倒錯とも言える状況において、リバタリアニズムは明確な補助線を引くことになる。森村氏もこの状況に原理的に配慮している。

(前略)伝統的な(とはいえ、フランス革命以降の)「左翼-右翼」という政治思想の分類自体が不十分なものだということがわかる。リバタリアニズムは経済的なものも精神的なものも含めて個人の自由をすべて尊重するという点で、左翼とも右翼とも違って、首尾一貫した立場であり、「左翼-右翼」の線上のどこにも位置しないのである。

 さらに隣接した曖昧な思想がある。「自由放任主義(レッセ・フェール)」と「新自由主義(ネオリベラリズム)」だ。リバタリアンが「レッセフェール」と異なる点については次のように解説されている。

リバタリアンの中でこの言葉を嫌う人は「リバタリアニズム」という言葉を好まない人以上に多い。たとえばハイエクがそうである。彼らがそれを嫌うのは、自由市場は何らかのルールを前提にしているのに、「レッセ・フェール」は市場がルール無用の状態であるかのように誤解させる、という理由による。(中略)
自由市場は私的所有権や契約の自由、暴力や詐欺や脅迫の禁止といった一般的で中立的な私的自治のルールから構成されていて、リバタリアンはそのルールの規制には反対しない。むしろその規制こそが、政治のなすべき(数少ない)任務のなかで最も重要なものであると考える。

 さらに「新自由主義(ネオリベラリズム)」はほぼノイズであると見なしているようだ。

 二つ目の言葉「新自由主義」あるいは「ネオリベラリズム」である。この言葉は学問的文献よりもジャーナリズムでよく見かけるが、リバタリアニズムに近い立場を指すこともある一方、サッチャリズムのようにナショナリズムへの傾きを持つ保守主義や、さらに権威主義に近い立場を指すこともあって、大変多義的である。それゆえ私自身はこの言葉を使わない。この使う場合は、それが何を意味しているのかはっきりとさせた方がよいのではないか。

 森村氏から啓発された私見だが、おそらく、日本における右派左派の同質的なパターナリズムから陰になる部分を、言わばごみ箱用語として「新自由主義」・「ネオリベラリズム」が批判として出来たのではないだろうか。つまり、「新自由主義」・「ネオリベラリズム」が批判の文脈で出てきたときは、それはただ空疎な藁人形なのではないか。
 以上のような状況的な問題、さらに欧米での状況的な問題は「第1章 リバタリアニズムとは何か?」でクローズしていて、本書においてはごく露払い的な意味か与えられていない。リバタリアニズムが提起する、ある意味でグロテスクな問題は「第2章 リバタリアンな権利」以降に展開される。
 私は今、「ある意味でグロテスクな問題」としたが、例えば、こうした思想課題が提起される。リバタリアニズムという思想の文脈ではごく基本的なテーマなのだろうが、慣れない人にとっては気味の悪い思考実験である。

 ハリスは臓器移植の技術が大変発達したと仮定して、次のような強制的な臓器提供のくじの制度を提案する。---社会のメンバーのうち健康な人々はすべてくじを引く。彼らの中から無作為に選ばれた当選者から、健康な臓器を病人に移植する。そうすれば、一人の健康な人の犠牲によって二人以上の病人が助かるから、現在よりもはるかにたくさんの人々が長生きできるようになる。ただし不養生で病気になった人は自業自得だから、臓器移植の受益者にはなれない---。

 当然ながら、森村氏も「この提案は極めて反直感的であって、それを支持する論者はほとんどいない」と続き、しかし、この思考実験に含まれる問題や駁論の思想を点検していく。
 この他にも、裁判や警察の民営化といった問題も提起される。私たちがどこかしら自明と見なしている問題や価値を、リバタリアニズムは切り崩していく。それは思想的に多くの課題を与えることになるし、まさに教条主義的な日本の閉塞した思想状況に刺激を与えるものだ。
 2章以降、「第3章 権利の救済と裁判」「第4章 政府と社会と経済」と、奇異な問題を提起しつつ、ごく順当な思想解説が展開されるが、「第5章 家族と親子」「第6章 財政政策、あるいはその不存在」「第7章 自生的秩序と計画」は、順当なリバタリアニズムの解説では問題点が散逸することもあるのか、著者森村氏のリバタリアンとしての主張が色濃くなってくる。この傾向は2章から4章にも部分的に見られる。ただし、それがいわゆる「べきだ」という主張ではなく、各種のリバタリアニズム思想の整理という方法論的な意識は保持されており、「第8章 批判と疑問」ではまたごく公平なリバタリアニズム思想の解説に帰結する。
 本書を何度も読みつつ、私はいろいろ考えさせられた。閉塞した日本の政治思想の状況にあっては、リバタリアニズムそのものが存在することが意味を持つのではないかということと、私自身はリバタリアンなのかという点だ。
 私は、自身をリバタリアンだと考えたことがなかった。私は、自身をどちらかといえばリベラリストであると考えるし、市民主義者ないし公民的共和主義者(シヴィック・リパブリカニズム)の考えに近いと思っていた。反面、私は社会に蹉跌した20代後半以降、吉本隆明の思想に傾倒し、自嘲で吉本主義者としている。自分の思想において、欧米的共和主義と吉本主義は、その基層の欧米原理以外では矛盾している。が、吉本隆明の思想は結果的には、一つのリバタリアニズムと見てよいのではないか、自分の個別の思想の帰結はまさにそれを意味しているのではないかと思うようにもなった。
 吉本主義者の私は、民族国家は強力な共同幻想でありそれ自身が、民族の子孫を通して永世を偽装した宗教であると考える。むしろ、その強固さを認識するがゆえにそこから無前提に超越した立場を取ることを拒否する。私にしてみるとリバタリアニズムもまた、無根拠な自由信仰に根ざしているとしか思えない。だが、現実面において、私はかなりリバタリアンに接近しているし、現実的な課題に対する提起を多く受け止めている。

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コメント

>リバタリアン

個人的自由も経済的自由も尊重する

権威主義者(オーソリテリアン)・人民主義者(ポピュリスト)

個人的自由も経済的自由も尊重しない

とのことですが、わたしは自分を「権威主義者」だと思っていますが、わたしは個人的自由も経済的自由も尊重します。わたしが「権威主義者」なのは、権威が、あるいは権力の正統性が人々をポピュリストや全体主義者から守ってくれると思うからです。

まあ、金や権力や地位や名誉というのは、持ちなれない人間が行使すべきものではないと思っています。金も権力も地位も名誉も正しく社会のために機能させられるから意味があるので、所有していることそのものには余り意味がありません。金や権力や地位や名誉を持ちなれて使い慣れている人間たちが上手に機能させるべき。これが、わたしの「自由」の観念。自分が死んだ後、何かの間違いで自分が名声を得てしまうようなことがあったら、自分の名声については、金も地位も名誉も権力も持ちなれて使い慣れた人たちに正しく社会的に機能するように利用してもらいたい。そうでなければ、つまらぬ無名の民草として骨が土に戻れば十分。それが今の心境。

投稿: enneagram | 2009.08.21 13:56

自分自身がそもそも何主義なのかを問うという発想は新鮮に感じます。このところの政権争奪戦のような流れの中で、どの政党をどう支持するかという選択肢を前に、それを選ぶ自分自身がいったいどういった方向で、何を求め「あんたはいったい何者よ?」と問うてみるということが御座なりになっていたようです。
このエントリーに触れてはっとしました。

調べたら、森村さんはかなり前から「リバタリアニズム」に関しての本を世に出されているのですね。勉強不足でまたしても追っかけのようにいろいろ身につけていかねばと思いました。

投稿: godmother | 2009.08.21 17:46

リバタリアニズムを今持ち出すのは、私に言わせれば、1929年当時のフーバーと同じくらいの馬鹿だとしか思えません。

>自由市場は私的所有権や契約の自由、暴力や詐欺や脅迫の禁止といった一般的で中立的な私的自治のルールから構成されていて、リバタリアンはそのルールの規制には反対しない。むしろその規制こそが、政治のなすべき(数少ない)任務のなかで最も重要なものであると考える。
私もこの本を途中まで読んだことがありますが、この部分で投げ出しました。規制するのは結構ですが、その規制をどの程度行うかで、それこそ国家主義に限りなく近いものから、レッセフェールと見分けがつかない代物までグレーゾーンが無限に広がっています。

私に言わせれば、リバタリアニズムが一世を風靡するのは、バブル経済の後期のみです。そのときに調子に乗ったおバカさん(例えば堀江貴文氏だとか)が吹いているに過ぎません。で、その後高転びに転んで素寒貧になると、大抵のリバタリアンは自分の主義をほとんど国家主義と見分けがつかないほど近づけた上で、未だに私はリバタリアンだと主張したがるものなのです。

投稿: F.Nakajima | 2009.08.21 22:49

先が見えない世界的不況の中で政治の混乱が極点に達したかのような酷い状況では、リバタリアン的なシビアな思想を希求するのは当然のことかも知れませんね。
リバタリアニズムをテーマに、衆院選候補の方々に論文でも書いて貰いたいですね。
マニフェストとかいうハッタリのかましあいよりよほど、その候補が政治家として何をやりたいかとか、どういう社会観、国家観を持っているかという判断材料になりそうだし。

投稿: kaze | 2009.08.22 06:25

>吉本隆明の思想は結果的には、一つのリバタリアニズムと見てよいのではないか

なるほどなあ、と思いました。
きっと市井の人としての吉本さんは、そのことをリバタリアニズムとは言わない気がしますが、それでもなお、それはリバタリアニズムと近似しているし、そうだとすると、きっと吉本さんの一連の幻想論は、リバタリアニズムの人よりもより根源的な「リバタリアニズムとというものが本当に可能なのか」という問いのような気もしてきます。
それもすごく丁寧で丹念な問いで、吉本さんは「それはもしかすると不可能なのかもしれない」という答えも想定しているような気もしないではないです。

投稿: mb101bold | 2009.08.22 13:46

 僕は私は帝国主義の再来か擬似帝国主義の再興を希望します、でも自分が帝国主義の主導層に成れる自信はないし万が一にも下手になって破たんした後責任取るのも嫌だから下っ端やってます、誰でもいいから主導層に成れそうな人材がいるならサクッと後ろに付いてブースター役をやりますので是非是非宜しくお願いします…って言ってるのと余り変わりありませんよ。

 リバタリアニズムってのは、端的に親方日の丸根性と変わらんのじゃないですかね? 表裏一体とか。今でも、首長や上司上輩が気に食わなければセコイ嫌がらせをしてでも気に入る上司を据えようとする連中が居ますし、上司の成り手が居なくなったりコントロールから脱して勝手気ままに動けるような集団があるなら、そういう集団の構成員が「俺達が主導で稼いで俺達の税金で皆が飯を食っているんだ」的に夜郎自大化することがありますけど。

 そういう連中の「個々」が何考えてんの? を突き詰めていくと、何となくリバタリアニズムになったりそれに近しい言動をしたり。そんな感じじゃないのかな? と思いますね。それが真正かどうかと言われれば話は別でしょうけど。

 小泉構造改革が始まった時期あたりから、世間ではやたらと詐欺被害が頻発したでしょ。特にオレオレ詐欺が。小泉さんと詐欺師連中には直接的にも間接的にも関係なんか無いでしょうけど、そういう時代の良い方→小泉・悪い方→詐欺師みたいな感じで世の中にパーっと出て、時代の功績・弊害みたいな感じで並列的に語られたりする。

 リバタリアニズムってのもある意味それに近い感じで、真正な意味から言うとかなりかけ離れたものが同時並列的に進行して、功績・弊害、みたいな感じで後世語られるのかも。

 エロヤクザが「コリン星の小倉優子」に対抗?して「懲りん星の股倉ユル子」をデビューさせる?ような。そんな感じだったりしなくもありませんね。

投稿: 野ぐそ | 2009.08.22 19:42

>リベラル
精神的自由や政治的自由のようないわゆる「個人的自由」の尊重を説く一方、経済的活動の自由を重視せず経済活動への介入や規制や財の再配分を擁護する。
保守派(コンサバティブ)
個人的自由への介入を認めるが経済的自由は尊重する
リバタリアン
個人的自由も経済的自由も尊重する
権威主義者(オーソリテリアン)・人民主義者(ポピュリスト)
個人的自由も経済的自由も尊重しない
全体主義者
権威主義者(オーソリテリアン)・人民主義者(ポピュリスト)の極端な形態。ファシズムや共産主義。

この分類の仕方がわからんす。

投稿: ウェルダン穂積 | 2009.08.23 11:10

森村先生は、ロックをベースにする古典的リバタリアンなのですが、おもしろい話がありまして、某学会で、刑務所をすべて民営化すればいいという発言をされたところ、会場にいた刑法学者は、みなキョトンとしていたそうです。

リバタリアンだと、やはりオーストリア学派が強いんでしょうかねえ。

あと、現代の古典で言えば、ノージックとかになるんでしょうね。

投稿: forrestal | 2009.08.24 01:36

社会に蹉跌した20代後半以降、吉本隆明の思想に系統し

>>>
社会に蹉跌した20代後半以降、吉本隆明の思想に傾倒し、自嘲で

Sorry about that.

Tom Jam Kun

投稿: tomjam | 2010.06.18 19:57

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