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2009.07.22

[書評]真説 アダム・スミス その生涯と思想をたどる(ジェイムズ・バカン)

 結局、「真説 アダム・スミス その生涯と思想をたどる(ジェイムズ・バカン)」(参照)を三回読んだ。読みづらい本ではけしてない。量も厚めの新書くらいだろうか。しかし、何度も読まざるを得ないような、久しぶりに出合った怖い本だった。

cover
真説 アダム・スミス
その生涯と思想をたどる
ジェイムズ・バカン
山岡洋一
 繰り返し読むことでじわじわと筆者の知の力量が伝わってくる。この筆者なら、このネタでこの五倍の分量は書けるだろうと、実際にその五倍の量の「アダム・スミス伝(イアン・シンプソン・ロス)」(参照)と比較したい気持ちがしたが、幸いにして同書邦訳書は絶版のようだ。近年の評伝としてはロス氏のほうが定番なのか、気になって米国アマゾンの読者評を見るとぱっとしないが、反してバカンの原書「The Authentic Adam Smith: His Life and Ideas」(参照)はより多くの好評で迎えられている。ああ、そうなのだろうと思う。
 邦訳書「真説 アダム・スミス」では、日本の現下の読書界を反映してか、堂目卓生氏の詳しそうな解説が付されている、と、妙な言い回しになるのは、堂目氏の解説は、「[書評]アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界(堂目卓生)」(参照)で触れた該当書の要約が実際上大半を占め、バカン氏の書籍の解説にはなっていない。代わりに曰く「本書は、評伝という性質上、スミスが構想したと思われる人間学と経済学の論理関係を詳細に検討しているわけではない」としているのだが、もちろん、そう評して誤りというものではないが、バカン氏の書籍が副題を「His Life and Ideas(その生涯と思想をたどる)」とあるように、同書ではアダム・スミスの思想はコンサイスにまとめられている。
 一回目の読後、やや皮肉な印象だが、堂目氏はバカンの書籍を実際には読んでいないか、理解していないか、あえてオミットしているのかと疑問に思えた。一回目の読後の印象でも、堂目氏のアダム・スミス理解はバカン氏のそれと違うようにも思えた。しかし、明確な差異が見えたわけでもなく、堂目氏の「アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界」を再読し、さらにバカン氏の著作を再読、さらに再々読することになった。
 個別の論点、例えば、「見えざる手」についての理解、あるいはアダム・スミス思想の総体理解についてと論点を絞れば、両者のスミス理解の比較は可能だが、堂目氏の著作がそれによって損じるというものでもない。それでも堂目氏の理解のように、「道徳感情論」の人間学によって「国富論」の経済学が基礎付けられるといった解釈は、違うのではないかと思うようにはなった。
 バカン氏が明瞭に意識していることだが、アダム・スミスは、「道徳感情論」を基礎に、社会を包括する法学的な著作と、さらに心理学的なフレームを持つ人文学の二著の構想を持っており、国富論はどちらかというと、書かれるはずだった法学的な書籍の一部をなすもののようだ。そうした意識もあって、「道徳感情論」と「国富論」も、スミスは生涯をかけて改訂を繰り返しており、しかも生涯の最後に彼ができる次善の仕事として「道徳感情論」に注力している。
 本書が小編でありながら、背筋がぞっとしてくるのは、この二著の改訂作業を事細かに読み取りつつ、スミスの思想の変遷を明らかにしていることだ。恐ろしいほどの手間をかけてこの小編を執筆したことがわかる。
 普通、アダム・スミスの生涯と思想というとき、いわゆる評伝的な外的なエピソード(それがどのように内的な思想形成に影響したか)が注目されるものだが、バカン氏は、改訂のプロセスの背景を丹念に探ることで、スミスの思想が生涯とどう関わり形成されていたを示している。別の言い方をすれば、「道徳感情論」と「国富論」も、スミスの生涯のなかで常に生成のプロセスにあり、しかもそれは書かれざる大著の基礎をなすものだった。勇み足で言うなら、アーレントの、これも結局は書かれざる思想もその延長を引き継いだものだったかもしれない。
 バカン氏の文献の読み込みの徹底性は、その注を見てもわかるが、ただごとではない。マックス・ヴェーバーのように、こいつはもしかして衒学趣味かと思われるような神経症的な注釈のような印象もあるし、普通論文はこのくらい注釈を付けるでしょというのもあるかもしれないが、どうもバカン氏のそれは、単に本書がそうであるべき必然性を吟味して付されているようだ。三回目の読書では、単にスミスの著作ページを指すだけであっても、小まめに毎回参照してみて思ったのだが、オリジナルに大仰とも思える"Authentic"が付されているのは、後の研究者にこの参照を引かせる思いがあるからなのだろう。
 バカン氏がどれだけスミスや同時代文献を読み込んでいるのかについて、コテンパンに打ちのめされる思いがするのは「見えざる手」という有名な言葉の解釈だ。既存のスミス学の研究成果を踏襲しているのだろうと思われるが、それでも「見えざる手」が何を意味しているかについて、本書は決定的に暴露していく。結論から言えば、この用語にスミスの強い思い入れがあったわけでもないことがわかる。
 本書の構成は一見するとその生涯を年代風に描いたように見える。ブログなどによく見られる手抜き書評風に目次を紹介するとこのようになっている。

第一章 父なき世界(一七二三~一七四六年)
第二章 洞窟、樹木、泉(一七四六~一七五九年)
第三章 ペン・ナイフと嗅ぎタバコ入れ(一七五九年)
第四章 袋かつらの不信心者(一七五九~一七七六年)
第五章 果樹園の手長猿(一七七六年)
第六章 決死の任務(一七七六~一七九〇年)

 章題が村上春樹の小説のように奇妙なものになっていることに気づかれるだろう。これは率直にいえばバカン氏の文学的な趣味が露出しているとも言えるが、再読してみるとこの章題の効果に気がつくだろう。詩的なイメージから章の要点が想起されやすい。
 もう一点、年代風に並んでいるように見えるのだが、三章と五章が単独年になっていることに気がつくはずだ。簡単に言えば、三章が「道徳感情論」、五章が「国富論」をそれぞれ解説しているためでもある。で、あるならなぜそうわかりやすく標題にしないのかだが、この二著については他の章でも改訂史とともに語られているという理由もあるだろう。これらの章だけで二著の解説として取り出すことはできない。
 評伝として見れば、時代背景の描写もだが、デーヴィッド・ヒュームとの交流なども絶妙な機微で描かれている。同様にスミスとケネーの関係、さらにスミスのパトロンなどの関係の解説も興味深い。こうした記述にはバカン氏の圧倒的な教養がにじみ出ていて、そこもぞっとする怖さがある。
 反面、ありがちな評伝記者が対象に過剰な思い入れをするような傾向は極力抑制され、アダム・スミス自身の描写としては、一見つまらないようにも見える。だが、再読していくと、じんわりと、ああ、スミスというのは、現代でいう理系オタ的な性質にラテン語学者を乗せたような人であったから、こうなったのではないかという確信的な印象と、同時代からは放心した出っ歯で議論はKYという人物に見られたが内面からの世界や人々への視線は、手の込んだオタアニメのような分析力を持っていたことが、これも得心できる。本書は、その抑制の解除の手前の、バカン氏の詩情的な思いで終わる。
 堂目氏の著作がスミス思想をスキーマティックに整理したのとは対比的に、バカン氏の著作は一見理性を精巧に駆使したようでいながら、詩情的な直感を駆使していく箇所が多い。次のような説明は、さらっと読むとごく普通のスミス思想理解のように見えるかもしれない。

 スミスは心理という観点から道徳に関する判断の原理を示した後、この原理がどのように機能しているかを示していく。どの場合にも、人は行動の結果よりも動機を重視し、行動の利点よりも適切さに関心をもつとスミスは語る。感情の適切さや行動の利点に関しては、良心がどのように判断するかを考えるのではなく(日曜学校ではそう教えられるだろうが)、社会がどう判断するかを考える。社会の見方に鋭敏になることで、人は自分自身の外見や行動を観察し、判断を下すようになる。

 私の関心が過剰な思いを招いているのかもしれないが、この段落のなかにカントやヘーゲル、アーレントいった思想家の思想の類似性を見るし、なにより行動経済学の前提のような視点を読む。おそらくバカン氏にもその企図があり、「感情の適切さや行動の利点に関しては、良心がどのように判断するかを考えるのではなく、社会がどう判断するか」という点に、「道徳感情論」の経済学的な卓見をスミスに見ている。くどいが、「道徳感情論」がスミスの人間観を構成し、その上に経済学が成立しているという視点ではない。そうではなく、人の感情に起因する行動それ自体に、経済学として捨象できる原理性が潜んでいることをスミスは直感している。

ヒュームは、二枚の鏡を向かい合わせたように、同感が人と人の間で反射すると書いている。スミスによれば、社会とは「鏡であり、これがあるからこそ、人はある程度まで、他人の目を通して、人間の行動の適切さを吟味できるのである」。

 衒って言うのではないが、行動経済学が神経系経済学に進展していく基礎的なミラーの概念はスミスの思想のなかにすでに直感的に摂取されていることがわかる。
 バカン氏は本書が適切に読まれるかについて、多少の懸念もあったのだろう。本書の意図を明瞭にListicle的にまとめている部分があり、邦訳出版側でもこれを帯の裏に採用している。

本書の強調点は三つ。一、『道徳感情論』は現代経済学の観点からも優れた著作である。二、スミスの探求において、「感情」が「理性」よりも重要な意味をもっていた。三、彼を我々の安易な思想の始祖だと主張してはならない。

 本書を一読すれば、三の意味は徹底的にわかるだろう。私は再読して、二の意味がわかり、再々読して、一の意味がおぼろげながらに理解できた。

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コメント

本文の一部について質問があります。

>そうではなく、人の感情に起因する行動それ自体に、経済学として捨象できる原理性を持つことをスミスは直感している。

ここのところの文意ですが、「経済学には、『人の感情に起因する行動それ自体を捨象してしまうような原理性がある』とスミスは直感している」と解釈してしてもいいでしょうか。素のままの文章からだと意味がうまく汲めなかったもので。
つたない質問ですが、失礼しました。

投稿: castle | 2009.07.22 16:14

castleさん、こんにちは。拙い文章でした。「人の感情に起因する行動それ自体を経済学で扱うことができるし、そのように扱うことができる原理を人の感情は持っている」という意味でした。

投稿: finalvent | 2009.07.22 18:36

 いい文章ですね。

 このくらい真剣味がある書評なら、手に取ってみようという気もしますよ。

投稿: 野ぐそ | 2009.07.23 00:03

うーん、せっかくここまで書き込んでくださったのだから、では、あまりスミスの同時代人たちに関心を持たなかったマルクスやケインズがスミスをどう誤読していて、その誤読の原因は何だったのか(もちろん、リカードがスミスから捨象してしまった部分でしょうけれど)を多少追究して欲しかったと思います。

まあ、わたしは、そのうち、マルサスやバジョットについて、多少勉強してからアダム・スミスの著作を勉強したいと思います。そんなことをしてみると、ハイエクがスミスをどう誤読(意図的な誤読かもしれません)していたかに光が当たるような気がします。

なんにせよ、現代の経済学研究・学習は、起業家精神を喚起しないのなら、そうたいして意味があるとも思えません。セイ-シュンペーターがおそらく現代経済学の主潮流(?)。

投稿: enneagram | 2009.07.24 08:11

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