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2009.07.27

[書評]中学生からの哲学「超」入門 ― 自分の意志を持つということ(竹田青嗣)

 私は竹田青嗣氏の著作はデビュー作からほぼ網羅的に読んでいるので、初期の欲望論、そしてその基礎方法論としての一連のフッサール・現象学解説著作から、近年の「人間的自由の条件 ― ヘーゲルとポストモダン思想」(参照)による、フッサールからヘーゲルに至る社会思想への深化・変遷のあたりで、竹田氏は一つの頂点を迎えたのか、あるいは学生や実際上のお弟子さんたちの教育に忙しくなったか、しばらく思想的な展開は見られないものだろうと思っていた。

cover
中学生からの哲学
「超」入門
竹田青嗣
 そうした流れで、本書「中学生からの哲学「超」入門 ― 自分の意志を持つということ」(参照)も見ていたので、書店で見かけたときは、またこれも初期の副産物的な作品かと思っていた。実際、本書はかつての類書「「自分」を生きるための思想入門」(参照)とよく似ている。なお、同書については「極東ブログ: 社会システムとルール社会を越えていくもの」(参照)で触れたことがある。また竹田氏が在日朝鮮人としてあの時代の若い日を振り返る述懐もとても興味深い。コウケンテツさんをふと連想したりもした。
 本書は過去の類書と異なり、最終的に描き出した像は、意外というのではないが、自分の想定とは違ったものだった。率直に言えば、竹田氏、いや心情的には「竹田さんも60歳を越えて、ある人生の眺望を見るようになったのだな」という印象を深めた。振り返ってみたら私も、10歳年上の竹田氏の著作を20年読み続けた。こういうと悪口のようだが本書の一章にもあるように、彼も今でいうニート的であった時代がある。カルチャーセンターの講師を経て、早稲田の教授に変遷していく過程も私はずっと見ていた。哲学者に生まれた人間は最終的には哲学者になるものだという印象と、一途に思索に向かっていく清々しい姿も感じた。逆に私はアカデミズムに復帰することはできなかったなとも思う過程でもあったが。
 こうした年を経た人間の心情の表出として、本書で多少突出して見える言葉遣いがある。「人を聡明にする」という表現だ。ある考え方が若い時に得心できれば、その考え方は人を聡明にして、人生を豊かなものに変える、とまでは言えないまでも、哲学にありがちな思索や倫理の典型的な不毛な泥沼に入ることを防ぐようになる。ネットを見ていると私もその一人だが、聡明ではないがゆえにつまらない議論に拘泥している人は少なくない。
 なにが人を、特に若い人を聡明にするのか。「世の中には、はっきりとした答えを見いだせる問いと、問うても決着の出ない問いがあるいうこと、このことが「原理」として腑に落ちていることは、どれだけ人を聡明にするかわかりません」と竹田氏は語る。神は存在するのか、人間と世界の存在の意味はなにか。「この問いに決定的な答えは誰も出せない。これはじつはなかなかすごい原理です。「形而上学の不可能性の原理」。これは理屈では理解できる人も多いでしょう。しかし、このことがいったん深く腹の中におちれば、人間は本当に聡明になります。」
 この原理(カントによる原理)がわからないと、「人は、いつまでも一方で極端な「真理」を信奉したり、一方で、世の中の真実は誰にもわからないといった懐疑論を振り回すのです」ということになる。「このふたつは、いわば「形而上学」とその反動形成で、表裏一体のものです」。
 確かにネットの聡明でない人々の対話ともいえない罵倒の交換は、歴史に偽装されたり倫理に偽装された「真理」の信奉者や、真実はなにもないとする懐疑論をポストモダン的に装ったペダンティズムなどが見らるものだ。聡明になれなかった人々である。
 聡明になった人はどうするかといえば、開かれた対話、開かれた問い、問うことを禁止されない問いへの多様な解答の試みから、社会的な合意を形成していこうとする。なるほどそうかとも思う。
 加えて竹田氏は宗教と科学を分け、科学は「つぎつぎに新しい人が現れ、実験などで確かめながら「原理」(キーワード)を取り替えつつ、より普遍的で包括的な説明になるように推し進めていくわけです」と、包括性にいわば合意された社会的な知性の進展を見ている。ただ私はそこは率直に言えば、竹田氏のごく基本的な間違いだろうと思う。科学的な確実性・普遍性もまた単なる社会合意であって、おそらく宗教と科学を峻別するものではないだろうと、聡明になれない混迷に私は沈む。
 聡明についてのもう一つの言及は、本書のテーマでもある「自己ルール」について語られる箇所にある。社会のルールと、自分が独自に考えて決めた自己ルールを分け、「社会のルールと「自己ルール」の違いをうまく区別して理解することは、とても人間を聡明します」と竹田氏は語る。これだけ見ると、社会には社会のルールがあるが、私には私のルールがあるといった、国家に適応すれば北朝鮮の主体思想にも見える滑稽さの表明のようだが、ここは、たぶん中学生では理解しづらい本書の難所を形成しているだろうし、一見、超入門に見えながら本書がとんでもない深淵を隠している部分でもあるだろう。
 社会のルールといえば、「人を殺すな」「人の物を盗むな」といったものが想定されるし、本書でもそうした暗黙の了解は前提になっている。しかし、重要なのは、本書のキーワードである「一般欲望」との関係だ。
 一般欲望とは、ごく単純な例でいえば、おカネと美貌(イケ面)であるとしていいだろう。おカネの比喩はわかりやすい。誰もがそれを価値だと思う欲望を喚起する。よって一般的な欲望となる。おカネの、社会的な一般的な価値性を支えているのは、人々の一般欲望である。
 一般欲望を考える上で、竹田氏は、欲望自体の本質を到来性として見ている点が基礎になる。欲望とは、自己の外部からやってきて、「お前はこれに欲望しているのだ」と告知するものとして本質が捉えられる。もっと単純に言えるだろう。目の前に札束がある。「ああこれ欲しい」と思うのは、一般欲望がその人の欲望の所在を告知しているからだ。そしてそれをくすねないのは、社会ルールが規制しているからだ。これが人にとって大きな問題となるのは、こういう点だ。

資本主義社会は必然的にそういう一般欲望を育てるのだけど、この欲望はあくまで競争の中で生じるものなので、この一般欲望を満たすことができる人は二割ぐらいの人間だということです。七、八割の人は、自然にそういう欲望を育て、そして失敗するようになっている。


ほとんどの人々が、この、たくさん愛されたい、贅沢をしたい、評価されたい、人の上にたちたい、偉くなりたいといった「一般欲望」を、人間がめざすべきごく自然な目標として自分の中に育てる。だから、もしわれわれがどこかで自分の欲望のあり方を検証しなおす機会がないと、幸福になるどころか、この世の中のほとんど人が不幸になってしまうということになる。


それが競争の中で実現される欲望である以上、そこで「幸福」をつかむことのできる人は必然的にごくわずかで、ほとんどの人は挫折し、絶望し、自分の一生を肯定できないで終わるほかはないとも言いました。そこで、ここで大事なのが、あの「自分の意志をもつこと」ではないかと、私は思います。

 竹田氏はこの難問に対して、欲望というものは自己ルールを介して成立するのだから、自己ルールを作り直すことで、それが克服できる可能性を示している。ここは、普通の人にとってとても大きな人生の思惟の上の難所だろうと思うし、そこを竹田氏は一面ではうまく取り上げ、縷説している。特に、自己ルールを作り直す上で重要なのは、(1)自分の言葉をたくわえること、(2)フェアな友人関係を形成して批評し合うこと、としている。それは竹田氏の結果的な人生経験にもよるのだろう。
 だが私は、正直に言えば、十分にそれ(自己ルールの再編)を理解することはできなかった。人によっては本書を私よりはるかに深く読み取り、竹田氏がこの難問を本書で解いていることを見いだすかもしれない。あるいは本書を実用書のように、「使える」哲学として読む読者もいるだろう(参照)。
 しかし、私のようにその読み取りに挫折しても、本書の思惟のガイドラインのような部分は、確かに人を聡明するとは言えるだろう。
 エントリでは触れなかったが、竹田氏は本書で青春時代の失恋の意味も深く取り上げている。人が社会や恋愛にとことん挫折したとき、本当にそこにものを考える契機が生まれるという、哲学のもっとも基本的な姿を、60歳を越えた竹田氏がうまく語っている。標題の「中学生」に惑わされず、30歳過ぎた人でもそうした人生の難所にある人なら読んで得るところはあるだろう。

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コメント

>世の中には、はっきりとした答えを見いだせる問いと、問うても決着の出ない問いがあるいうこと、このことが「原理」として腑に落ちていることは、どれだけ人を聡明にするかわかりません。

神よ。願わくば、変えられないことを従容として受け入れるゆとりと、変えられることを変える勇気と、その違いを知る知恵をお与えくださいますように。(従容の祈り)

>科学的な確実性・普遍性もまた単なる社会合意であって、おそらく宗教と科学を峻別するものではないだろうと、聡明になれない混迷に私は沈む。
最近、大三郎先生wがウィトゲンシュタインの本をひさびさに出したので「探究」とか「確実性の問題」とかの解説書を読み直しているんですけど、科学の全てを社会的合意だと言い切ってしまうのは、ちょっと無理があるかもしれない。特に数学と論理学を社会的合意だとすることもできるでしょうけど、ではそれらが我々と違う世界とはどういう世界なのか?という問いには解がでないんですよね。

投稿: F.Nakajima | 2009.07.27 21:33

はい、今年で35のわたしも買って読んでます。
高校くらいから、「自分を知るための哲学入門」や「現代思想の冒険」あたりから読んでます。
この数年は、無難な結論になりがちで(「現象学は思考の原理である」あたり)すこし読まなくなりかけていたのですが。
まだ、前半部分ですが、この後の展開を楽しみにしたいと思います。

投稿: マープル | 2009.07.27 22:06

そういう問題なのかな・・・よく、分からない。私的に言うと、戦後、日本はアメリカの事実上の占領下にはいりましたよね。・・・「建て前」としての「アメリカナイズ」と、本音としての「日本性」、これを、最も上手く使い分ける奴が勝つ!と。・・・つまり、「俺アメリカ人、強くてアサーティブ」って言いながら、巧みに裏で、「本音は優しくて思いやりがある日本人なの」って2重人格を、操作出来る奴。・・・こういう奴は勝つね。ただ、後で何故か必ず、鬱やニートや引きこもりの子供が出来て「困った」って事になるけれど。

投稿: ジュリア | 2009.12.06 17:58

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受信: 2010.05.03 15:01

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