[書評]実践 行動経済学 --- 健康、富、幸福への聡明な選択(リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン)
台湾では昔から似たような仕組みがあったように思うが、日本で横断歩道の信号表示に残量タイマー表示が追加されたのは二年くらい前からだろうか。例えば、横断可能な青の状態の時間はあとどのくらいでなくなるか。青の縦バーが刻々と短くなっていくことで表示する。赤の状態でも同じなので青に変わるまでの時間がわかる。
横断歩道の信号に残量表示が付加されることで何かメリットがあるのか。普通に想像してもあると言える。横断中に青の残量が減ってきたら少し小走りで横断したり、横断歩道に着く手前で残量が僅かなら次の青を待つ。以前人々がよくしたように直交する側の道路の信号が黄色になると横断歩道に飛び出すという行為が抑制される。こうした人々の行動を変化させ、交通事故が減らすメリットがある。信号の仕組みに手を加えることで、社会全体、また各人に利益がある方向で人々の行動を変えることになる。
![]() 実践 行動経済学 健康、富、幸福への 聡明な選択 |
本書のオリジナルタイトルが「Nudge: Improving Decisions About Health, Wealth and Happiness」(参照)とナッジを強調しているのはそのためだ。なお、ナッジ(nudge)の原義は、二人の人が並び立つとき、言葉なく肘でちょんちょんと合図を送る動作を意味している。ちょんちょんと肘でついて「ほら、そこで笑っちゃだめでしょ」「背筋を伸ばしなさい」といったその場に適合した空気を伝える。欧米ではたぶんモンティ・パイソンの「Nudge Nudge」のギャグ(参照)もユーモラスに想起されているだろう。
ナッジを人々に与えることで、人々は強制されることもなく、うるさい啓蒙を受け入れることなく、本人が結果的に利益となる選択が楽に可能になる。そうしたナッジの仕組みをどのように考えたよいか、というのが本書のテーマであり、「第2部 個人における貯蓄、投資、借金」および「第3部 社会における医療、環境、婚姻制度」では、年金、投資、健康、環境問題、結婚といった社会問題にどうナッジを設計するかを具体的に議論している。具体例は米国の制度に依拠しているので、日本の制度・慣例にはそぐわない点もあるが、原則的な部分では参考になる示唆に富んでおり、よりよい日本社会を構想したい人々や、政治家のように社会政策をプランニングを志向する人に、本書は必読書と言っていいだろう。
米国での本書の受け止め方を見ていると、民主党の新しい政策原理という印象もある。この政策原理を本書では、通常相反する政治思想と見られる、リバタリアニズム(個々人の自由を最大限尊重する自由至上主義)とパターナリズム(強者が弱者の利益を図るため弱者の意志を抑制して行動に介入・干渉する父権主義)を結合した「リバタリアン・パターナリズム」として提唱している。個々人の選択の自由を棄損することなく、可能な最大限の利益を誘導するような制度設計を政治思想課題とするという含みがある。
にもかかわらず、邦訳書のタイトルがあえて「実践 行動経済学」となっているのは、「第1部 ヒューマンの世界とエコノの世界」を読めば理解できるだろう。人間的な錯誤を冒しやすい「ヒューマン」と、経済学的な合理性に基づいて行動する「エコノ」といった「行動経済学」の用語が利用されていることもだが、そもそもナッジを必要とし、「リバタリアン・パターナリズム」の社会が構想されるのは、社会がエコノによるのではなく、感情を元に経済活動をしてしまうヒューマンの行動経済学的な問題が基底にあるからだ。
邦訳書が「実践」編とされているのは、日本でも話題になったマッテオ・モッテルリーニ著「経済は感情で動く --- はじめての行動経済学」(参照)及び「世界は感情で動く (行動経済学からみる脳のトラップ)」(参照)、さらに、本書の著者の一人セイラー氏による「セイラー教授の行動経済学入門」(参照)といった、行動経済学の一般的入門書の次の段階の社会的「実践」編とした位置づもあるからだろう。これらの著作の読者であれば、「実践 行動経済学」の「第1部 ヒューマンの世界とエコノの世界」は復習編といった印象を持つだろう。
本書は一般向けの書籍でありながら、IT化が進む現代の新しい社会思想として米国ではすでに刺激的な議論を巻き起こしているようだ。人々を強制しない「リバタリアン・パターナリズム」といっても、結局は特定の価値判断を誘導するパターナリズムではないかといった批判もすぐに思いつく。想定される異論への反論は「第1部 ヒューマンの世界とエコノの世界」にも織り込まれているが、「第4部 ナッジの拡張と想定される異論」でまとめられていて興味深い。
議論が活発化する背後には、「[書評]サブリミナル・インパクト 情動と潜在認知の現代(下條信輔)」(参照)で扱った、社会における人々の潜在意識の操作はどうあるべきかという深刻な課題がある。同エントリ対象書の著者下條氏は対応の可能性として「賢いマクドの客」を提示していた。ナッジ的なものが悪しきパターナリズムに転換する懸念に、再び人間の選択をどう回復するかを問い掛けたわけである。だが本書「実践 行動経済学」では逆に、人間の自由意志による選択という本質的な問題より、専門知識を要する社会に対して、より実践的に有益な選択を多数の人々に容易にすることを優先している。
邦訳書ではオリジナルのサブタイトル「Improving Decisions About Health, Wealth and Happiness(健康、富、幸福への決断が向上)」を活かして「健康、富、幸福への聡明な選択」としたが、実際本書を読む読者は、その聡明な選択を可能にするナッジの知識を多く得ることになる。老婆心的な言い方をすれば、「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」とばかりの日本社会という門をくぐろうとしている若い人、また、くぐったものの門の前に戸惑う30代の人にとって知恵の導き手となるだろう。
本書を読みながら、私はもやは集合愚(衆愚)となってしまったかに見えるブログの世界やその提供システムの設計についても嘆息しつつ思いを巡らした。著者が提起する電子メールのナッジ構想が、冗談というには悲しいほど示唆的だ。
現代世界は礼節に欠ける。毎日、毎時間、人々は怒りの電子メールを送りつけ、ほとんど知らない人(さらに悪いことには、友人や愛する人)をののしっては、すぐに後悔する。「かっとなって怒りの電子メールを送らない」。こんな単純なルールを学んでいる人もいないわけではない。
われわれは「シビリティ・チェック」を提案する。シビリティ・チェックは、いままさに送ろうとしている電子メールが怒りに満ちたものであるかどうか的確に判断して、こう警告する。「警告 --- これは礼節に欠ける電子メールのようです。このメールをどうしても送りたいですか?」
悲しい示唆ではなくやはり冗談だと受け止めたいが、そこで思い迷う。
著者は、ナッジを基本的に現存制度の選択を抑制しない付加的なものだと見なしているが、同時にいかなる制度で結果的なナッジが含まれているとも考えている。ナッジを免れないシステムも制度もない。システムや制度の運用が社会的な害をもたらしているなら、まずいナッジがすでに組み込まれていると言ってもよいかもしれない。
私が思いつく、卑近な、まずいナッジを持つITシステムの例としてはオンラインショッピングの「楽天」がある。購入を決めた最後のページで、ショップからの電子メールが不要なら4つほどチェックを外さなくてはならない。チェックを忘れたり、マウスクリックのコントロールがぶれてチェック外しに失敗したりしたら最後、翌日から迷惑メールのような広告メールが山のように届く。このITシステムのあるべき正しいナッジは、広告メールが欲しい人はチェックするが、デフォルトはチェックなし、である。逆に言えば、楽天は、利益誘導のために間違ったナッジを組み込んでしまった。
著者たちは、感情に駆られ怒りをぶちまける電子メールを例にしているが、同じ状況はブログやそのコメントなどについても言えるだろう。ナッジの設計を考慮しなければ、自然にそれは悪しきナッジとなり、衆愚のITコミュニティを形成してしまう。Web2.0と呼ばれるITシステムに期待されていた集合知は、以前なら、人々の愚かな行動による失敗経験が累積されることにも援助され、自然によりよい知識形成に至ると曖昧に思われていた。しかし、そうはならなかったように見える現在、すでに組み込まれている、まずいナッジの設計をやり直さなくてはならないかもしれない。
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コメント
> 台湾では昔から似たような仕組みがあったように思うが、日本で横断歩道の信号表示に残量タイマー表示が追加されたのは二年くらい前からだろうか。
関西では、かなり前からあったようです。
和歌山県情報館
http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000600/model/anzen.html
> 残秒表示装置 歩行者信号灯器の補助装置として、平成2年に全国に先駆けて、赤信号の待ち時間及び青信号の残り時間を「デジタル」表示でカウントダウンする装置を整備しました。
投稿: うぐいすパン | 2009.07.10 21:23
痛いなぁ!
ブログの運営者はエントリーの筆頭の責任者ですから、「私」が問われているわけですね。ナッジよりもさらに強めの「肘鉄」くらいの印象で啓発的な、お叱りをいただいたように受け止めています。
ブログの運営には気をつけます。
私の高校くらいの年齢まで、このナッジをしてくれる大人が存在していたように思います。そのことには「愛」を感じましたね。私にとって何が恥かと言ったら、注意された時の一瞬の恥ずかしさよりも、知らずに終わることでした。
投稿: godmother | 2009.07.11 14:59
>まずいナッジを持つITシステムの例
>ショップからの電子メールが不要なら4つほどチェックを外さなくてはならない。
>チェックを忘れたり、マウスクリックのコントロールがぶれてチェック外しに失敗したりしたら最後、翌日から迷惑メールのような広告メールが山のように届く。
弁当翁さんが思い付く「特定」なら、楽天がそうなんでしょうけど、チェックボックスが「noと言え」になっているシステムなら、殆ど全てが、そうじゃないですかね?
極東ブログのコメント欄は、管理人さんの自己責任で反映・非反映が決定されますから、その点では非常に良心的ですね。
私は、管理人さんの自己責任が発揮できないシステムになっているところ(2ちゃんねる形式になっているところなど)では「noならnoと言ってくださいね。管理人さんの判断を是としますよ」と常々言っていますけど。
そういう形式だと運営側の自己負担が大きく成り過ぎますから、管理側が運営コストを下げるなら「noと言え」式にチェックボックスを設定するしか無いんでしょうね。
そのへんの按配は難しいところなのでしょうけど、文中・楽天さんの例にあるような、不必要なスパムメールがやたら届くような格好になるなら、それは、規制の必要があるのかもしれません。
商売繁盛し過ぎは、結局我が身の毒なんですよね。
投稿: 野ぐそ | 2009.07.12 09:52
ナッジについての良心的な議論がなされている本エントリーに変なコメントを入れて申し訳ないのですが、私は、現代社会を解明するためには、「経済学」ではなく、「不経済学」のほうが有効のように思われるのです。
風俗産業を例にとって申し訳ないのですが。吉原のソープランドなら、昼間に指名なしでなら2万5千円も出せば、まあまあ満足して遊べるお店を見つけるのはそんなに困難ではありません。誰でも、2ヶ月に1度くらいなら、正規雇用者でも有給休暇を取得するのは困難とは思えません。普通の人は傷口を広げることなくそういう場所にいけるはずなのです。
しかし、そういうきちっとしたお店で身分相応の遊びをするより、高利貸から、10万円も20万円も借りて、キャバクラの若いきれいな女の子にお店に同伴してやって、ボトルキープしてやって、その代償として、さらに高額の報酬を払って、一緒にホテルに行って、相手をしてもらうのが半ば習慣化しているような愚かしい連中も世の中にはたくさんいます。そういう連中は間違いなく自己破産者になるはずだと思いますが。
そんな現実が珍しくない現今、社会を考える上で重要な学問は、「経済学」ではなく、「不経済学」なのではないかと私などは考えるのです。出会い系サイトなどは、「経済学」ではなく、「不経済学」の問題領域だと思われます。
投稿: enneagram | 2009.07.13 15:15
>enneagramさん
結局「不経済学」って何ですか?
投稿: ashborn188 | 2009.07.15 22:11