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2009.07.17

[書評]アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界(堂目卓生)

 ところで今日7月17日は経済学の祖と言われるアダム・スミス(Adam Smith)の命日である。1723年の初夏、対岸にエディンバラを臨む、スコットランドの港町カコーディーに彼は生まれたが、その日のほうはわかっていない。幼児洗礼を施された6月5日を便宜上誕生日と見なすこともある。父は弁護士で税関監督官の仕事をしていたが、アダムが生まれる半年前に急死し、身重の17歳の妻を残した。アダムは極貧に育ち、母を支え、生涯妻を娶らなかった。童貞だったかどうかはあまりスミス研究において重視されないようでもある。

cover
アダム・スミス
『道徳感情論』と
『国富論』の世界
 2008年に、日経新聞掲載記事を膨らませる形で描かれ、同年サントリー学芸賞政治・経済部門を受賞し、また同年のエコノミストが選ぶ経済図書ベスト10にも入った堂目卓生著「アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界」(参照)には、そうした話、つまりアダム・スミスの私生活に類した話は、ほとんど描かれていない。描かれているのは、「国富論(An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations )」によって経済学の祖と言われるアダム・スミスの思想、日本でも流布されている従来からのアダム・スミス思想としての、経済の自由放任主義(レッセフェール)について、原典を丹念に読み解くことによって、誤解を解いていく姿だ。
 アダム・スミスの思想は、従来、市場の予定調和的機能を比喩にした「見えざる手(invisible hand)」をキーワードとし、個々人の利己心に基づく利益追求が、自由な市場を介することで社会全体の利益につながるという主張として受け止められてきた。政府による市場規制を撤廃し、健全な企業競争を促進すれば、国家は高い経済成長を遂げるという、昨今の日本では新自由主義や小泉改革とも呼ばれるものにすら、誤解されてきた。
 本書は、こうした謬見を除くために、スミスの、実際上二つしかない主要著作を有機的に見直すことで、特に前著とされる「道徳感情論(The Theory of Moral Sentiments)」に見られる人間観と社会観の哲学を基礎にして、「国富論」を解明していく。本書はわかりやい解説的な記述と読みやすい文体で描かれた、アダム・スミス思想の最善の入門書といえるだろうし、すでに固まっていると見られる本書への評価も頷けることだろう。印象としては、清水書院からシリーズで刊行されている哲学者解説書といった趣もあり、高校生でも理解できるだろう。むしろ、高校生・大学生が読むのに適切な書籍でもある。
 私が本書を読んで、一種得したような印象を持ったは、「道徳感情論」の懇切な解説によって、先日のエントリ「今こそアーレントを読み直す(仲正昌樹)」(参照)でも触れたが、アーレントの描かれざる最終的な思想の到達点における、スミスの哲学の関わりがより明確になったことからだった。端的に言えば、哲学者アーレントが彼女の最終的な関心事として収斂した先にあったものが、スミス哲学における「共感(sympathy)」と「公平な観察者(the impartial spectator)」の、近代から現代、そして未来の人類の倫理学の姿であったのだと納得できた。本書を読みながら、アーレントが、加えて言うなら同じくスミスの影響を受けたカントが、どのように人間と社会を考察していったのか、その思索の基礎の定跡といったものがスミス思想の解説によって見えてきたように思えた。
 本書著者堂目氏はそれを上手にかつわかりやすく表現しているが、私の理解としてはこうだ。アダム・スミスは、人間存在は、それぞれが利己的な要求に駆られつつも、共感(同情)という心的特性を持ち、さらにその共感の抽象的、原理的、遠隔的、理想的な直感によって「公平な観察者」の存在を確信し理解し、そこから内面の倫理基準として持つことで、同時に他者もそれを持つだろうという共感による予期と行動を持つ。そして、それらの、ある種経済学的な均衡の原理が、社会の倫理・道徳を支えていると捉えた。単純に言えば、世の中に出合う人々との経験から、みんなが持ち得る妥当で公平な善というものの観点で自己を律することができるゆえに、社会が成り立つのだという社会原理の提示である。
 この、人間の相互視点を全体として、ある種ゲーム理論のように捉える考え方にすでに、経済学的な社会観、つまり社会全体を利する富への志向を見るところに、国富論的な関連を見ることができるし、堂目氏は、「道徳感情論」に示されたスミスの人間観こそが、後に経済学の基礎となる経済人を構成しているとしている。
 そこには、現在関心の高まる行動経済学における、従来の経済学における経済人=エコノ、対、人間的な心情から過ちを冒す人間=ヒューマン、といった二元性を越えて、人間社会にとってあるべき経済学を再構築しようとするようにも見える。
 しかし、私はここで違和感も覚える。恥ずかしい話ではあるが、私は国富論を読んだことがない。それを言うなら道徳感情論もそうなのだが、それで済ませてきたのは、私の世代の知識人は青年期にこってりとマルクス経済学を叩き込まれ、その一部として、国富論とアダム・スミスは内包され、克服されたものと見なしていた。また私の時代におけるマル経の宿敵ケインズ経済学も、ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)を経由して抽象化されたスミス経済学によって、原典はすでに乗り越えたもの見られていたように思う。ゆえに、国富論は、古典派経済学(classical economics)の歴史学習を含めた、読みづらい入門としての古典といった意味合いしかなかった。
 本書に沿って、道徳感情論的な人間観を理解し、その上に構築されたと見ることで、国富論の本来の姿が明らかになるだろうか? 私は、率直に言って、ある種まとまりのなさとでも言うような印象を受けた。著者の国富論理解さらに道徳感情論理解が間違っているというのではない。
 道徳感情論の解説がそれほどにはうまく国富論の解説に接続していない印象も受けた。接合の説明がまずい、あるいは全体象が描かれていないということではない。僭越な言い方になるが、道徳感情論からスミスの人間観を取り出し、そこをベースに国富論を読み返すことで、現代人に示唆を与える、人間らしい人間観を含んだ経済学の構築という構想、それはそもそも無理なのではないだろうか。そう思えた。
 私のようにマル経から経済学を学んだ人間には、国富論において、スミスが、分業が交換の原因ではなく、逆に交換が分業の原因であり、なぜ人間は交換を行うかといえば、そのような交換を求める本性があるのだとする視点は、カール・ポランニの人類経済学を思わせる興味深い指摘でもあるが、こうした「それ以上は説明できないような本源的な原理」といった基礎による理論構築は、古典世界的な、超越的な倫理の措定であり、ここから人間らしさと社会の利益を構想しても、古典的な、緩和であれパターナリズムにしかならないのではないだろうか。
 また、国富論の経済学的な考察は、その標題「諸国民の富の性質と原因の研究」が暗示するように、スミスの時代の英国における重商主義という国策と、当時まさに独立せんとする植民地アメリカを介して英国がいかにあるべきかという国策に収斂するように見える。フランス革命の動向にも、英国の国益的な視点から所定の思索的な距離を設定していたように見える。
 それらの考察において、スミスがその後の米国の台頭を正確に見抜いていることは驚きもあるし、アーレントがフランス革命ではなく米国独立の思想を評価する差異とも呼応するし、そこには確かな先見性があった。しかし、別の言い方をすれば、スミス思想の今日的な価値は、国富論より道徳感情論の中に胚胎するのであって、国富論における従来の、レッセフェール的な理解の是正による示唆・再考は、それほど現代において重要性を持たないのではないだろうか。

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コメント

エントリーありがとう。
私はてっきり「国富論」を原書などで読んでいるのかと思っていました。

スミスを辿るためにスコットランドへヒッチハイクしたことがあって、命日の印象もくっきりあったので書評が楽しみでした。

経済学云々よりも、ここで刺激を受けてやっと興味ができた様な段階なので、紹介されている書籍などから読んでみます。

投稿: godmother | 2009.07.17 18:27

 経済理論の本は読んだこと無いから何も知りませんが、アダム・スミス以外にも各種多様な経済書が出ていて、またそれぞれにそれなりの信奉者が居るということは、どの経済理論における経済もそれなりに発展してそれなりの地歩を築いて、結局多神教的な世界観の中の「ひとつ」に収まるだけなんじゃないの? とも言いますね。

 海の民の経済・道徳観念と山の民の経済・道徳観念が微妙に(殊に依ったら、随分)違うのは地元経済を見ている程度でもそれなりに分かりますけど、各種高度経済書における差異ってのは、結局そういうレベルの差なんじゃないでしょうかね?

 大きく分けるなら博打型と蓄財型で、他の差は、地域差レベルなのかもしれませんね。

投稿: 野ぐそ | 2009.07.18 00:26

「経済人」、「分業」の概念の提出者ですか。アダム・スミスについて有名な点としたら。

アダム・スミスが「国富論」を出版した年(1776年)に、ジェームズ・ワットが改良型蒸気機関の特許をとったのだそうです。その時点では、まだ、ワットの蒸気機関は、ピストンの往復運動を回転運動に変えることができなくて、繊維産業に用いることができない段階だったそうだけれど、炭鉱の排水目的には十分使えて、それで、ずいぶん普及は早かったみたいです。もちろん、ワットはさらに蒸気機関を改良して、往復運動を回転運動にできるようにしたために、産業革命を社会的現実にすることができたわけです。

イリヤ・プリゴジーン(1977年ノーベル化学賞受賞者)先生の本を読んだら、アダム・スミスが「国富論」で石炭の用途は、労働者の暖房しかないと著述したその年に石炭熱エネルギー動力機関がこの世にお目見えしたわけです。ヘーゲルが土星の外には惑星がないと宣言した博士論文を発表した年にハーシェルが天王星を発見したような話が先取りされています。

アダム・スミスのアングロサクソン世界における最大の功績は何かといえば、イギリスとアメリカのブルジョワたちに、ケネーらフランスのフィジオクラットたちの偏見からの解放の機会を与えたことなんじゃないでしょうか。社会の富の源泉を農産物ではなく労働力としたことです。最大の罪悪は、資本主義の発展が社会に自由と平等を与えるという誤解を撒き散らし、それが、マルクスやレーニンの出現を準備してしまったことだろうと思います。

投稿: enneagram | 2009.07.18 15:10

どれも見事な書評で紹介されている何冊かはチェックしました。
 本欄の書籍はちょうど購入したところで、これから読もうとしていたところでした。 
 アーレント、カントついては知識がないのでよく分かりませんが、良きものへ向かおうとする、人間にそなわった志向に関連するものだろうかと思ったりしています。
 私がスミスに関心を抱いたのは、フリードマンを典型とする市場原理主義者への批判からもたらされた「神の見えざる手」「レセ・フェール」への曲解−神の見えざる手は機能せず、レセ・フェールとは弱肉強食と同意ととらえる風潮がつよいことへの違和感のためでした。
 規制改革や規正緩和の弊害とされるものの原因を市場に求めることは間違いではないか、政策的なサポートの欠如のほうに求めるべきではないか、と考えています。

「国富論における従来の、レッセフェール的な理解の是正による示唆・再考は、それほど現代において重要性を持たないのではないだろうか。」

 スミスの著作はいずれも読んでいないのでここも即断はできませんが、不当におとしめられた「市場」の意義を再認識するという点で国富論にも意味があるのではないかと思います。

投稿: takamm | 2010.02.10 07:51

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