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2009.07.31

崖の上のポニョ(宮崎駿)

 DVDになって初めて見た。面白かった。公開時よく言われていたように不可解な映画でもあり、なるほどこれは一部の人々に謎解きを迫るような仕掛けが随所にあるとは思った。そして率直に言って、私にはこの謎解きができるだけの文学知識はないと早々に観念もしたし、さらに率直に言えば、謎解き用に見える各種の鍵はポエジーとしての手法の部品であって、いわゆる謎解き風に謎を解くことはこの映画理解の本質ではないのではないか、そうも思った。

cover
崖の上のポニョ
宮崎駿
 この手法は私には、吉本隆明の、おそらく詩人としての最上の仕事である「記号の森の伝説歌」(参照)や、西脇順三郎の、これも最上の仕事である「旅人かへらず」(参照)を想起させる。個人の人生に出現する具体的な体験の情感を、その具体個物から共有的な無意識に移し、瞑想的に深遠なるものを暗喩する手法である。なぜこの手法が存在するかといえば、個人の人生の体験とは、おそらく個人の人生を場として顕現せざるを得なかった、この世ならざるものの啓示の意味合いを帯びているからだろう。
 この暗喩の手法はまた、具体的な個物と瞑想的な直感で解読者を迷路に誘うことで共感を成立させる。重要なのは、共通する無意識の層の、その共通性をどこまで掘り下げるかということになる。
 そこには、時代的な無意識、国民的な無意識、近代世界という無意識、人類という無意識の各層があり、それらへどのように達成しているかは、結果的に世界の人々に受容されたときに見えてくる。創造とは、人々の内面において、共同的に表出されようとする新しき無意識の実体であり、歴史存在とはそのようなものの生成から成るものだ。
 その意味で、私の見た印象では「崖の上のポニョ」は人々の無意識の各層に渡りながら、かなり普遍的な部分まで、つまり、人類からさらに生命という古層(カンブリア爆発に代表される生命の跳躍)に到達しようとしているように思えた。そこが多分に、この作品において無数の死の累積の超越を意味しても、やはり死というものを臭わせるところでもある。
 無意識の深層性とは、そのままにして神話でもあり、子どもにそのままに伝えるものとして立ち現れる。だから、と言えるだろう、謎解きは、この映画に熱中する子どもたちの無意識の躍動を捉え損なうという点で、先験的に失敗しまう。子どもたちの理解に批評が及ばないとき、批評の意味は逆になる。子どもたちは、この不可解な、古いような新しい神話をきちんと無意識に掴み、いつの日はそれがその人生のなかで開花する。
 どう開花するのか。野暮ったくいえば、魚でもあり半魚人でもあり人でもある存在としての人を愛せよとする決意だ。洗脳的とも言えるかもしれないこの仕掛にぞっとしながら、たぶん、それこそ宮崎駿氏がこの作品をおそらく彼の息子のために、育て損なった親としての贖罪というモチーフを持って作成した理由なのだろう。
 「となりのトトロ」のように、多くに人に開かれた作品というより、「崖の上のポニョ」は、人々が、自身が赤ん坊から親となり老人となり死んでいくプロセスで、再び子をなし愛を見いだしていく存在として措定され、無意識ではあるが、先の「愛する決意」としての倫理的な訴求性から個的なトーンを強くもつ。
 私の個人的な無意識に情感的に強く呼びかけた部分は、時代的な無意識・国民的な無意識が大きい。宮崎氏の年代に特有の、日本の戦時の戦後の生活の質感である。彼は1941年、まさに戦中に生まれ、物心付く時代は戦後ではあった。戦中から戦後の、科学に夢見る少年の心は無線、モールス信号、ポンポン蒸気船などに強く表出されている。私はそれらの歴史の質感を死んだ父から受け取ったものだった。水没した村のゆく村人たちの姿も、どことなく戦中・戦後の日本の庶民の連帯の情景を喚起させる。あの時代の無意識の連携としての証人として、この作品では老女たちが描かれているのだろう。
 公開時に不可思議な映画と言われたものだが、私が前半を見ている限りは、よくあるファンタジーの形式であり、それはそれとして見れば特段の奇怪さの印象を与えない。観世音菩薩・アフロディテ(泡から生まれた)の登場も、出て来いシャザーンのようなアニメ的な表現手法でしかない。奇っ怪さが現れるのは、水没した町で宗介とポニョが残され、母であるリサを探す展開からだ。ここから先、リサは水中に現れて、もはや日常の生存者ではなくなる。
 ポニョの嫌がる、毎度のトンネルの向こうから世界の成り立ちが大きく変わる。死後の世界であると言ってもよいのだろうが、そう呼ぶことでなにかを解き明かすことにはならない。この特異な世界で、宗介の母であるリサと、ポニョの母であるグランマンマーレの対話を遠く見ることになる。
 あのシーンは、おそらく誰の心でも自身の存在を生み出した母なるものたちの無意識的な表出だろう。この前段に、宗介とポニョは水上の母子にきちんと遭遇して、彼らは母なるものと子なるものを受け取っているが、この配列は無意識的、瞑想的に導かれたものだろう。
 夢の中のような場で遠く見える母たちの会話は、作者宮崎氏の亡き母への思いであり、また息子にとっての母の意味の問い返しでもあったのだろう。そのために、父フジモトは多くの魔法を使い、人間を捨てた。つまり、フジモトは、宮崎駿氏、その人であろう。

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コメント

半漁人より、半魚人って漢字だったと思います

投稿: | 2009.08.01 17:32

「たぶん、それこそが宮崎駿氏がこの作品をおそらく彼の息子のために」以下のくだりですが、主語と述語がねじれていて、やや文意を捉えにくいかなと思うのですが、如何でしょう。

投稿: uij | 2009.08.01 18:42

uijさん、また誤字ご指摘くださったかありがとうございます。修正しました。

投稿: finalvent | 2009.08.01 21:06

作者のカタルシスと観客のカタルシスは恐らくは合致しない

投稿: | 2009.08.12 23:26

8/14で全米公開になったらしいです。
ロジャー・エバートさんなにげに高得点。
http://rogerebert.suntimes.com/apps/pbcs.dll/article?AID=/20090812/REVIEWS/908129989
こういう映画は、アメさんインテリにうけるのだろーか?

投稿: みけ | 2009.08.15 16:45

哲学文学とか馬鹿みたいです。普通に魔法を捨てでも人間になりたかった女の子の話です。そこに文学も哲学も介在出来ません。所謂ゲーテです。人間って素晴らしいなぁってポニョは思うんです。だから逆説的な真摯なメッセージが僕らの心を打つのです。そこには曲がり道などなく呆れる位ストレート説得力があるんです。まるでイーストウッド並に

投稿: ポニョは単純 | 2009.09.25 01:00

いろいろな解釈が可能かと思いますが、私の解釈は以下です。リサ=出産前の女性、洪水=膣が濡れること、婆さんたち=リサの身体の器官のこと(出産前は女性は本当の能力を出し切れていない)、島が沈没=リサが受精を迎える状態になったこと、宗介=精子、船=男性の性器、結界=セックス中は他人は入れない。トンネル=膣、ポニョの父=リサの父親像さらには処女膜、ポニョの母=助産師や産婆のような存在(あるいは過去の女性たちの知恵)、月=リサの月経、崖を挟んだラブコールがリサに届いたため、リサの身体が変化し(あの島一体が変化し)宗介がポニョとキスをする(受精成功)

投稿: かわのぱ | 2010.02.06 00:50

思ったのですが、やたら哲学や宗教やご自身の体験の話をされますが、考えすぎではないでしょうか。
変に深読みせず、作品そのものを楽しめばいいのでは?

投稿: heart0909 | 2010.10.01 14:12

キューブラーロスを調べていてこちらを拝見いたしました。私の兄は35歳にて自死いたしました。2009年の5月7日です。

部屋からぽにょのDVDがたくさん出てきました。

「なんだろう?」とずっと思っていましたが、こちらを拝見してもう一度見直してみようと考えています。

ありがとうございます。

投稿: まいお | 2011.07.24 17:32

クラゲとか延々妊娠と子宮の話でしょう?
緑や青。フジモトの求める原初の汚染なき世界。
血やハムやポニョの赤。汚れてはいるが私たちの現実の世界。
進化した世界。


黄金。グランマンマーレの全ての生死も含み死者も生きる魔法の世界。

問題あるけど愛の力で魔法のない現実を選択する。
輪廻と産道かいくぐる。
黄金の魔法は強すぎて生命を滅ぼしかねないけど、それ乗り越えて、
死を生命を出産を妊娠を進化を肯定する世界。
トキさんは完全に宗介、宮崎監督の死んだ母親だし。


ただ幼児で妊娠の話やる宮崎監督は変態ですが。
まんまるおなかの女の子。

投稿: ポニョについて | 2011.10.09 23:39

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