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2009.07.31

崖の上のポニョ(宮崎駿)

 DVDになって初めて見た。面白かった。公開時よく言われていたように不可解な映画でもあり、なるほどこれは一部の人々に謎解きを迫るような仕掛けが随所にあるとは思った。そして率直に言って、私にはこの謎解きができるだけの文学知識はないと早々に観念もしたし、さらに率直に言えば、謎解き用に見える各種の鍵はポエジーとしての手法の部品であって、いわゆる謎解き風に謎を解くことはこの映画理解の本質ではないのではないか、そうも思った。

cover
崖の上のポニョ
宮崎駿
 この手法は私には、吉本隆明の、おそらく詩人としての最上の仕事である「記号の森の伝説歌」(参照)や、西脇順三郎の、これも最上の仕事である「旅人かへらず」(参照)を想起させる。個人の人生に出現する具体的な体験の情感を、その具体個物から共有的な無意識に移し、瞑想的に深遠なるものを暗喩する手法である。なぜこの手法が存在するかといえば、個人の人生の体験とは、おそらく個人の人生を場として顕現せざるを得なかった、この世ならざるものの啓示の意味合いを帯びているからだろう。
 この暗喩の手法はまた、具体的な個物と瞑想的な直感で解読者を迷路に誘うことで共感を成立させる。重要なのは、共通する無意識の層の、その共通性をどこまで掘り下げるかということになる。
 そこには、時代的な無意識、国民的な無意識、近代世界という無意識、人類という無意識の各層があり、それらへどのように達成しているかは、結果的に世界の人々に受容されたときに見えてくる。創造とは、人々の内面において、共同的に表出されようとする新しき無意識の実体であり、歴史存在とはそのようなものの生成から成るものだ。
 その意味で、私の見た印象では「崖の上のポニョ」は人々の無意識の各層に渡りながら、かなり普遍的な部分まで、つまり、人類からさらに生命という古層(カンブリア爆発に代表される生命の跳躍)に到達しようとしているように思えた。そこが多分に、この作品において無数の死の累積の超越を意味しても、やはり死というものを臭わせるところでもある。
 無意識の深層性とは、そのままにして神話でもあり、子どもにそのままに伝えるものとして立ち現れる。だから、と言えるだろう、謎解きは、この映画に熱中する子どもたちの無意識の躍動を捉え損なうという点で、先験的に失敗しまう。子どもたちの理解に批評が及ばないとき、批評の意味は逆になる。子どもたちは、この不可解な、古いような新しい神話をきちんと無意識に掴み、いつの日はそれがその人生のなかで開花する。
 どう開花するのか。野暮ったくいえば、魚でもあり半魚人でもあり人でもある存在としての人を愛せよとする決意だ。洗脳的とも言えるかもしれないこの仕掛にぞっとしながら、たぶん、それこそ宮崎駿氏がこの作品をおそらく彼の息子のために、育て損なった親としての贖罪というモチーフを持って作成した理由なのだろう。
 「となりのトトロ」のように、多くに人に開かれた作品というより、「崖の上のポニョ」は、人々が、自身が赤ん坊から親となり老人となり死んでいくプロセスで、再び子をなし愛を見いだしていく存在として措定され、無意識ではあるが、先の「愛する決意」としての倫理的な訴求性から個的なトーンを強くもつ。
 私の個人的な無意識に情感的に強く呼びかけた部分は、時代的な無意識・国民的な無意識が大きい。宮崎氏の年代に特有の、日本の戦時の戦後の生活の質感である。彼は1941年、まさに戦中に生まれ、物心付く時代は戦後ではあった。戦中から戦後の、科学に夢見る少年の心は無線、モールス信号、ポンポン蒸気船などに強く表出されている。私はそれらの歴史の質感を死んだ父から受け取ったものだった。水没した村のゆく村人たちの姿も、どことなく戦中・戦後の日本の庶民の連帯の情景を喚起させる。あの時代の無意識の連携としての証人として、この作品では老女たちが描かれているのだろう。
 公開時に不可思議な映画と言われたものだが、私が前半を見ている限りは、よくあるファンタジーの形式であり、それはそれとして見れば特段の奇怪さの印象を与えない。観世音菩薩・アフロディテ(泡から生まれた)の登場も、出て来いシャザーンのようなアニメ的な表現手法でしかない。奇っ怪さが現れるのは、水没した町で宗介とポニョが残され、母であるリサを探す展開からだ。ここから先、リサは水中に現れて、もはや日常の生存者ではなくなる。
 ポニョの嫌がる、毎度のトンネルの向こうから世界の成り立ちが大きく変わる。死後の世界であると言ってもよいのだろうが、そう呼ぶことでなにかを解き明かすことにはならない。この特異な世界で、宗介の母であるリサと、ポニョの母であるグランマンマーレの対話を遠く見ることになる。
 あのシーンは、おそらく誰の心でも自身の存在を生み出した母なるものたちの無意識的な表出だろう。この前段に、宗介とポニョは水上の母子にきちんと遭遇して、彼らは母なるものと子なるものを受け取っているが、この配列は無意識的、瞑想的に導かれたものだろう。
 夢の中のような場で遠く見える母たちの会話は、作者宮崎氏の亡き母への思いであり、また息子にとっての母の意味の問い返しでもあったのだろう。そのために、父フジモトは多くの魔法を使い、人間を捨てた。つまり、フジモトは、宮崎駿氏、その人であろう。

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2009.07.30

日米FTAについて民主党の七転八倒

 民主党を批判したいがために批判しているように思われても困るが、民主党マニフェストに記載された日米FTAについての七転八倒劇には困惑した。さらに、この問題を日米FTA推進派がどう見ているのかも気になるが、まだ議論を見かけない。今後出てくるのかもしれないが、出て来ないような重たい空気も感じる。「小泉改革」とやらの是非についてもそうだが、なんとなく、日米FTA推進も「小泉改革」も、バズワードのような「新自由主義」とかの弊害ということで自民党支持層も同意しているような曖昧な空気のうっとうしさを覚える。
 今回のどたばた劇は民主党のマニフェストから始まる。「民主党政策INDEX2009」の「外務・防衛」(参照)の「新時代の日米同盟の確立」には次のように、日米FTAを推進すると明記されている。


 日米両国の対等な相互信頼関係を築き、新時代の日米同盟を確立します。そのために、主体的な外交戦略を構築し、日本の主張を明確にします。率直に対話を行い、対等なパートナーシップを築いていきます。同時に国際社会において、米国と役割を分担しながら、その責任を積極的に果たしていきます。
 米国との間で自由貿易協定(FTA)を推進し、貿易・投資の自由化を進めます。
 日米地位協定の改訂を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方等についても引き続き見直しを進めます。

 私はそれほどラディカルではないがWTOの基礎理念を理解するくらいには自由貿易主義であり、WTOが瀕死の状態にある現状、FTAは重要だと考えている。また、かつてABCD包囲網で発狂した国家の国民として、公海の自由と自由貿易に依存しないかぎり日本の存立は危ういとも考えている。なので、民主党のこのマニフェストはよい方向なのではないかと考えていた。
 しかし、FTAに大きな問題があることを知らないわけではないし、隣国では国を挙げての大騒ぎをしてまでその国内的利害の状況を示してくれた経緯もある。また、現在宙ぶらりんの日豪FTAの経緯もある。結論を先にいうと、民主党マニフェストはアジアや世界のFTAの議論はあるのだが、日豪FTAや環太平洋諸国との連携の発想はないので、そのあたりからもよく練られた政策集ではないというのは、最初からわかっていたことと言えないこともない。
 補助線となる日豪FTA交渉が開始されたのは2007年で、すでに懐かしい歴史になってしまったかのようだが当時の安倍総理大臣とハワード首相の蜜月的な関係でようやく口火を切ることができたものだったが、その時点から反対は激しかった。理由は大別して2点あり、(1)輸入農産物である、牛肉、小麦、乳製品、砂糖の四品目で国内農業が壊滅的な打撃を受ける、(2)このFTAが割れ窓のようになって他国、特に日米FTAに及ぶ、というものだ。
 なのになぜそこまでして日豪FTAが推進されたかというと、これも大別にして2点ある。(1)対中政策で米国寄りの同盟関係を強化する、(2)WTOの弱化と、他国のFTA活性への遅れ取り戻し、である。日豪FTAが宙ぶらりんになっているのは、一点目の要請が両国ともに弱くなっていることもあるだろう。
 日豪FTAの経緯が陰画で日米FTAの必要性も示していたとも言えるし、さらに隣国韓国の背に腹は代えられない式FTA展開に追い立てられてきた面もあるが、逆にこれらの経緯から日米FTAの困難さは十分想定されたので、民主党マニフェストがこの明記を敢行するのは、あっぱれという印象があった。なにより党内での反対意見たとえば山田正彦衆議院議員の見解(参照)などもまとめたとすれば、政権与党たる結束力を示した。
 そんなわけねーよな。民主党マニフェストが公開されたあとで民主党議員から問題提起が出てきた。日本農業新聞「「日米FTA締結」~民主農林議員「寝耳に水」と困惑」(参照)より。

 民主党が衆院選マニフェストに「米国との自由貿易協定(FTA)締結」を盛り込んだことに、同党農林議員からは「寝耳に水」と困惑の声が広がっている。
 最大の疑問は、政権公約発表の4日前の23日に民主党がまとめた「2009年版政策集」との違いだ。政策集は政権公約の土台となるものだが、米国とのFTAを「推進」との表現にとどめていた。これが政権公約では、なぜか「締結」という踏み込んだ文言に置き換わった。4年前の衆院選の政権公約では、FTAについて米国の国名を挙げずに「締結を推進」とだけしていた。

 民主党内部からこうした後出し異論の声が出てくるのは、民主党マニフェストがどのように形成されたか、聖書学的な考察が必要になりそうだが、それにしても「同党農林議員」というのが、自民党と代わりばえしない政権与党の貫禄で香ばしい。
 同記事では、「世界貿易機関(WTO)農業交渉が正念場を迎えている極めて重要な時期に、なぜ日米FTA締結という言葉が政権公約に盛り込まれたのか」との民主党小平忠正WTO検討小委員会座長の声や、「次の内閣」元農相は「日米FTAなどありえない話だ。米国側も簡単に飲める話ではない。現場を大混乱させるもので、党としての正式な説明が必要だ」との篠原孝衆議院議員の声も合わせている。党の内外の差という感覚がちと麻痺しているような印象も受ける。
 先にも指摘したが、今回の民主党による日米FTA確言は、貿易や農政の範疇ではなく、「外務・防衛」の「新時代の日米同盟の確立」のくくりにあり、そのあたりから、外交関係の議員と内政の議員との摺り合わせがなかったかもしれないという雰囲気はあったが、そのとおりだったようだ。日本農業新聞「民主・細野政調副会長が釈明、「自由化前提ではない」」(参照)より。

 民主党の細野豪志・政調筆頭副会長は28日、日本農業新聞の取材に対し、政権公約(マニフェスト)に日米FTAの締結を盛り込んだことについて「日米関係を安全保障だけでなく、経済などを含めた重層的な外交をしなければいけないという観点からも盛り込んだものであり、農産物貿易自由化が前提ではない」と釈明した。

 率直にいうとこのあたりの腰砕け感が、内部でごたごたしている自民党と代わらないなあ、和もって謀となすという日本の伝統が守られているという安堵感にもつながる。
 話をFTAのありかたに戻すと、既に述べたように私は普通に自由貿易を評価するもだし、「極東ブログ:[書評]出社が楽しい経済学(吉本佳生, NHK「出社が楽しい経済学」制作班)」(参照)でもふれたが、リカルドーの比較優位説をそれなりに理解しているつもりだ。しかしでは内政についてリバタリアニズム的でよいかというとそうは考えていない。率直にいって、バラマキ大いに賛成だという立場を取る。特にWTOが頓挫しつつある現状、関税がかけられなければ、バラマキするしかないだろう。荘子曰く、「昨日、道をまかりしに、あとに呼ばふ声あり。返り見れば、人なし。ただ車の輪跡のくぼみたる所にたまりたる少水に、鮒一つふためく」の教えである。民主党が日米FTAの保証で1兆円規模の戸別所得補償をするのは大いに賛成だと考えていた。
 1兆円規模の戸別所得補償については、そうした文脈で民主党マニフェストに織り込まれているとばかり思っていた。日本農業新聞「米国とのFTA締結を明記、農業所得補償に1兆円/民主が政権公約」(参照)より。

 民主党の鳩山由紀夫代表は27日、衆院選のマニフェスト(政権公約)を発表した。官僚から政治主導への転換と、年金や子育てなど社会のセイフティーネット(安全網)の構築が柱。主要政策には、2007年の参院選に続き、年間1兆円規模の農業の戸別所得補償制度導入を盛り込み、2年後の11年度からの実施を明記した。一方で、外交方針として米国の自由貿易協定(FTA)締結を盛り込んだ。農業界で波紋を呼びそうだ。

 曖昧に書かれているが、1兆4000億円にも及ぶ戸別所得補償制度がバーターになって日米FTAに臨んだだろうと思った。正確にいうと、日豪FTAをかっ飛ばしたのはそれだけ米国側から安全保障面でせっつかれたのだろうかとも思ったが。
 ところが、民主党さん、ここからがすっかり本気な展開になってきた。先の記事だが、こう続くのだった。細野豪志・政調筆頭副会長の見解として。

 同氏は、民主党が日米FTAと表裏一体で1兆円の戸別所得補償を実施するのではとの見方が出ていることについて「戸別所得補償は農業再生のための国内政策であり、自由化をするための手段ではない」と否定し、日米FTA交渉は「日本農業への影響を回避することが条件になる」と述べた。

 バーターじゃないよというのだ。バラマキは純然たるバラマキだというのだ。昭和の香りをアゲイン!
 兵法で重要なのは機を見ることだ。相手がびっくりしてひるんだところで更に突く。いや、驚いてないで、話を聞け。日本農業新聞「農産物自由化を否定/民主党が声明、日米FTA公約を事実上修正」(参照)より。

 民主党は29日、衆院選マニフェスト(政権公約)に盛り込んだ米国との自由貿易協定(FTA)締結についての声明を発表した。米国とのFTA交渉で「日本の農林漁業・農山漁村を犠牲にする協定締結はありえないと断言する」とし、農産物貿易の自由化を前提にしたFTA締結を強く否定した。
 声明は、日米FTA交渉で「米など重要な品目の関税を引き下げ・撤廃するとの考えをとるつもりはない」とも強調。23日にまとめた2009年版政策集では、日米FTAは「推進」の表現にとどめており、政策集の内容に事実上修正した形だ

 きちんと民主党マニフェストは訂正された。ソフトウエアの改変履歴のようなものがあるとよいのだが、ないかもしれない。うだうだ書いたが、このエントリで代用にされてもいいかもしれない。「新時代の日米同盟の確立」エラータ。

 日米両国の対等な相互信頼関係を築き、新時代の日米同盟を確立します。そのために、主体的な外交戦略を構築し、日本の主張を明確にします。率直に対話を行い、対等なパートナーシップを築いていきます。同時に国際社会において、米国と役割を分担しながら、その責任を積極的に果たしていきます。
 米国との間で自由貿易協定(FTA)を推進し、貿易・投資の自由化を進めます、なーんてしないケロ。
 日米地位協定の改訂を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方等についても引き続き見直しを進めます。

 さらに菅直人代表代行は29日の会見で、「わが党として米などの主要品目の関税をこれ以上、下げる考えはない」と言明したそうだ。ありがとう。
 これからどんだけ民主党マニフェストにエラータが出てくるのか、国民は民主党理解が難儀だなと思ったら、こういうことらしい。時事「国・地方協議、公約に追加=「27日発表分は正式ではない」-民主代表」(参照)より。

鳩山氏は「この間(27日)出したのは政権政策集で、正式なマニフェストは公示日からしか配れない」と述べ、追加は可能と強調した。

 あれ、正式なマニフェストではなかったそうですよ。
 ラジャー。正式なマニフェスト、待ってます。

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2009.07.29

民主党の沖縄問題の取り組みは自民党同様の失敗に終わるだろう

 民主党のマニフェストに示された沖縄問題の取り組みを読みながら、これは自民党同様の失敗に終わるだろうと思った。失敗してくれと願っているわけではなく、むしろ自民党の沖縄政策よりよいとも思えるのだが、以前の民主党の主張からの後退や、幹部発言の混乱からして、現時点での実効性はほぼないと思えたということだ。まとめておきたい。
 だらだらと曖昧な美辞麗句が続くが民主党のマニフェストでは沖縄問題にこのように触れられている。


沖縄政策
 沖縄は先の大戦で、国内で唯一、地上戦が行われ、数多くの犠牲者を出す悲劇に見舞われました。敗戦後も米軍による占領を経験したうえ、復帰後の経済振興も期待どおりに進んでいません。この状況を重く受け止め、1999年7月に「民主党沖縄政策」、2002年8月に「民主党沖縄ビジョン」を策定し、2005年および2008年には「民主党沖縄ビジョン」を改訂しました。
 「民主党沖縄ビジョン」では、従来型の補助金や優遇措置に依存する活性化ではなく、沖縄本来の魅力や特性を最大限活用することを基本的な方向として、経済振興、雇用創出、自然環境政策、教育政策等、沖縄の真の自立と発展への道程を示しています。また地域主権のパイロットケースとして、各種制度を積極的に取り入れることを検討するとともに、ひもつき補助金の廃止・一括交付金化についても、まず沖縄県をモデルとして取り組むことを検討します。沖縄には依然として在日駐留米軍専用施設の多くが集中するなど、県民は過重な負担を強いられています。これらの負担軽減を目指すとともに、基地縮小に際して生ずる雇用問題にはセーフティネットの確保も含め十分な対策を講じます。また、当事者としての立場を明確にするため、在沖米軍の課題を話し合うテーブルに沖縄県など関係自治体も加わることができるように働きかけます。

 日米間の問題としてもっとも重要な沖縄問題である、普天間飛行場移設と、実際には沖縄には限定されないものの少女暴行事件で問題が鮮明になった地位協定改定の二点が、キーワードとしては言及されていない。
 沖縄の地域振興などは、基本的に、本土独立時に沖縄は内地側から見捨てられ米軍軍政下に置かれ本土復帰に遅れたことと、それに端を発するが、占領地だった内地からの米軍移設による在沖縄米軍基地が、沖縄本土復帰にかかわらず沖縄から本土に戻されていない状況に放置されていること、この2点に従属する問題なので、まずこの根幹を是正していくことが基本となる。
 こうした問題に、自民党では復帰直後の沖縄開発庁長官である山中貞則氏、10代の小渕恵三氏、最後の橋本龍太郎氏、さらに「沖縄は自分の死に場所だ」としていた梶山静六氏などが尽力をされ、市街地の海兵隊基地である普天間飛行場の移設が日米間で約束されたものの、すでに当初の予定時期から大幅に遅れ、現状でも移設のめどは立っていない。理由は移設先が、明確に決まらないためである。
 自民党政権では移転先を沖縄本島内北部としていたが、民主党は県外移設を提示していた。
 また地位協定についても自民党は運用の見直しで押し通していたが、民主党は6月時点のマニフェスト原案では「日米地位協定の抜本的改訂に着手、思いやり予算など米軍関連予算の執行を検証」として、既存の改訂プランに着手することを公約に盛り込む方向だった。が、実際の公約では、「日米協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方も引き続き見直す」と変更され、地位協定改定の着手が実質破棄された(参照)。
 現在の沖縄問題の重要点である、普天間飛行場移設地位協定改定が民主党のマニフェストから消えた時点で、沖縄問題について自民党と大差のない政党であるとも言えるが、再度マニフェストを読むと、これらの問題は詳細として、2008年改訂「民主党沖縄ビジョン」に従うと理解できないこともない。
 そこで2008年改訂「民主党沖縄ビジョン」なのだが、2005年8月と放置されたように見える「民主党沖縄ビジョン【改訂】」(参照)がそれに該当するものか、私が勘違いしているのかもしれないが、ここでは普天間飛行場移設についてこう言及されている。

4) 普天間米軍基地返還アクション・プログラムの策定
普天間基地の辺野古沖移転は、事実上頓挫している。トランスフォーメーションを契機として、普天間基地の移転についても、海兵隊の機能分散などにより、ひとまず県外移転の道を模索すべきである。言うまでもなく、戦略環境の変化を踏まえて、国外移転を目指す。民主党は、既に2004年9月の「普天間米軍基地の返還問題と在日米軍基地問題に対する考え」において普天間基地の即時使用停止等を掲げた「普天間米軍基地返還アクション・プログラム」の策定を提唱している。なお、いわゆる「北部振興策」については基地移設問題とは切り離して取り扱われるものであり引き続き実施する。

 これは私が理解している民主党の沖縄政策と合致し、非常に明瞭なものになっている。つまり、普天間飛行場はまず県外に移設し、その後、条件が合えば国外移転する、という二段階になっており、なにより県外移設、つまり内地への返却が明記されている。
 当然ながら県外移設となればその候補地が明記されなければ実現に乏しい。この点についてなぜか産経新聞「民主、普天間移転で九州2基地を検討」(参照)に出所のわからない情報が公開された。

 在日米軍再編に伴う米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題で、民主党が、県外移転先の候補地として宮崎県内の航空自衛隊新田原(にゅうたばる)基地と、福岡県の航空自衛隊築城(ついき)基地を検討していることが明らかになった。


 関係筋によると、鳩山由紀夫代表は周囲に移転先として新田原、築城両空自基地を挙げたという。鳩山氏は19日、沖縄県内の集会でも「最低でも県外移転の方向で積極的に行動したい」と発言している。

 出所が「関係筋によると」なのでどう評価してよいかわからないが、根も葉もない噂ではないのは以下の経緯があるからだ。

 両基地は平成18年の在日米軍基地の再編に関する日米合意で、「武力攻撃事態」や「周辺事態」の際、新設する普天間代替基地で収容し切れない部隊が展開することを認め、滑走路や隊舎の整備も進んでいる。
 ただ、普天間飛行場の主力である米海兵隊のヘリ部隊を移すには敷地が手狭だとされ、民主党内にも実現性を疑問視する声がある。

 鳩山氏自身による公言はないが、民主党の岡田克也幹事長はこの情報を否定する側にまわっている。琉球新報「民主岡田氏、普天間県外移設「変わらず」」(参照)より。

 具合的な移設先については「政権を取って米側と信頼関係を築いた上でいろいろな可能性を検討していくことになる」と述べるにとどめた。24日付の一部報道で「民主党が(普天間の)県外移設先の候補地として航空自衛隊の新田原基地(宮崎)と築城基地(福岡)を検討している」と報じられていることについて「(その事実は)ございません」と否定した。

 しかし、県外移設の方向性については岡田氏も否定していない。

民主党の岡田克也幹事長は24日の定例記者会見で、23日に公表した民主党政策集「インデックス2009」で米軍普天間飛行場の移設問題について同党が主張する「県外移設」の表現がないことについて「基本的に普天間に関する民主党の考えは変わっていない。(政策集に)書いた書かないということは関係ない」と述べ、県外移設を目指す考えに変わりがないことを強調した。

 こうした大問題を「(政策集に)書いた書かないということは関係ない」とする見識に驚くものがある。民主党マニフェストは他の部分においても同質の曖昧な仕組みを持っているように見える点に懸念があり、懸念は深まるものになった。
 移転先が検討されていない移転について。

具体的な移設先を挙げずに県外移設を主張する民主党について中曽根弘文外相が「どこに(移転する)と言わないのはずるい。選挙を意識した発言だ」などと批判していることについて岡田氏は「中曽根外相の言っていることは理解に苦しむ。橋本・モンデール合意から一体何年たっているのか。その間の責任を棚上げして民主党を批判するのは私には無責任に映る。中曽根外相はどれだけ普天間(基地)のために努力をしたのか」と批判した。

 北朝鮮と米国政府が「お前がバカだお前こそバカだ」と言い合うような芳しさがあるが、穏当に見ても、マニフェストの曖昧さや改変の経緯からして、民主党の普天間飛行場移設問題の見通しはなく、よって自民党同様の失敗に終わるだろうと予想される。
 地位協定についてはどうか。先の改訂沖縄ビジョンではこう明言されている。

1) 日米地位協定の見直し
民主党は2000年5月に「日米地位協定の見直しについて」を提示した。2004年12月には沖縄国際大学への米海兵隊ヘリコプター墜落事故を踏まえ、事故等の捜査を原則日米両当局の合同捜査とする「日米合同委員会」の議事録を原則公開とする等の内容を加筆した「日米地位協定改定案」作成に着手した。沖縄では先般の少女への事件に見られるように米兵による卑劣な犯罪等も依然発生している。沖縄県等とも連携を深めながら、航空管制権及び、基地管理権の日本への全面的返還を視野に入れつつ、大幅な地位協定の改訂を早急に実現する。

 結語は「大幅な地位協定の改訂を早急に実現する」としている。
 ここで重要になるのは2000年5月付け「日米地位協定の見直しについて」(参照)で、読むとかなり踏み込んだ内容になっていることがわかる。が、政権政党ではないとはいえ、この文案が現下の世界状況の変化と無関係であるかのように、10年近く放置されている印象もあり、マニフェストでの曖昧化も合わせると、予定調和的な失敗が滲んでいる。
 この点については早々に米側の反応があった。時事「米軍再編、修正応ぜず=民主公約で米司令官」(参照)より。重要であること記事の事実性からあえて全文引用する。

 在日米軍のライス司令官は28日午後、都内の日本記者クラブで会見した。民主党が衆院選のマニフェスト(政権公約)で在日米軍再編合意の見直しに言及したことに関し、「(日米合意は)全体として良いパッケージになっており、日米双方にメリットがある。個別の要素は変えないというのが米政府の一貫した立場だ」と表明。沖縄県の普天間飛行場の移設問題などで修正に応じる考えはないことを強調した。
 また、同党が米側に提起するとした日米地位協定の改定についても、「数十年にわたって存在してきており、見直す必要はない」と否定的な見解を示した。

 普天間飛行場移設がキーワードになったわけではないようだが、民主党の主張する県外移設を含む修正を否定し、地位協定については明確に否定が出た。
 地位協定については、先のマニフェストの曖昧化とも関係するが、思いやり予算の削減とも関連している。沖縄ビジョンではこう触れられている。

5) 思いやり予算の削減
思いやり予算については、2005年度で現在の特別協定の期限(5年)が切れる。経済、財政事情が悪化する一方で公共事業的支出が高まっており、基地の固定化を強めかねない。提供施設整備が過剰になっているとの指摘もあり、改訂を機に特別協定に基づく光熱水料、訓練移転費や地位協定を根拠とした提供施設整備費等について必要な削減を行う。

 普天間飛行場の危険性や地位協定改定の問題も早急の問題といえば早急の問題だが、米軍としてみれば、金づるの旦那の心持ちが心配になる。カネの切れ目は縁の切れ目だとガイウス・ユリウス・カエサルも言っているとおりだ(これは冗談です)。この話もライス司令官は出している。日経「在日米軍司令官、思いやり予算削減に反対」(参照)より。

 在日米軍のトップであるライス司令官は28日、日本記者クラブで記者会見し、日本政府が負担している在日米軍駐留経費(思いやり予算)の削減に反対する考えを示した。司令官は「米国は日本を守ると誓約しているが、日本は憲法によって米国を守ることが認められていない。日本が同盟関係に貢献する一つの方法が駐留経費の支援だ」と指摘した。

 ライス司令官は民主党政権となっても日米関係が損なわれることはないとの認識を示している(参照)ものの、政策の実施にはかなりの難航が予想される。
 この問題の前段に奇妙な話がある。当初駐日大使の噂のあった元国防次官補でもありハーバード大学ジョセフ・ナイ教授は昨年12月、鳩山幹事長(当時)と非公式の会談を持った際、「インド洋での給油活動に反対すれば、オバマ政権は日米同盟を維持しようとは考えないだろう」と警告したというのだ(参照)。
 毎日新聞「クローズアップ2009:民主党マニフェスト原案「09政策集」 じわり現実路線」(参照)ではこう伝えている。

 対応変化の背景には与党との対決姿勢を最も重視した小沢一郎前代表の辞任に伴い、党内の日米同盟重視派の主張が反映されやすくなったことがある。
 民主党の対米方針を懸念する米側はオバマ政権の発足前から民主党幹部と非公式に接触。昨年12月にはジョセフ・ナイ米ハーバード大教授らが鳩山由紀夫幹事長(現代表)に「米国にけんかを売っている」と苦言を呈した。岡田幹事長が6月25日、フロノイ米国防次官と会談した際も、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設計画をめぐり激論をかわした。こうした機会にたびたび伝えられた米側の懸念に配慮したとみられる。

 民主党の沖縄問題の曖昧化は時系列的にはこれを契機としていることは確かなので、その経緯の実態について、特に日米同盟についてどのように、ナイ氏と鳩山氏が意見交換をしたのか詳細を知りたいと思うし、公開された政治を掲げる民主党に期待したい。
 余談だが、そしてあまり陰謀論的な発想はしたくないのだが、極東におけるプレゼンスには米国第七艦隊(駐留米軍とは別)だけでよいとした小沢一郎前代表の発言も連想される。この発言は、それ自体では彼の持論に過ぎないが時期的に奇妙なものがあり、ジョセフ・ナイ氏の駐日大使想定が外れたことに何か米政府側での関連があったのだろうか。端的に言えば、駐日大使に指名されたジョン・ルース氏は民主党政権が潰れるまでのつなぎということはないか。

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2009.07.28

民主党マニフェストの財源論は清和政策研究会提言に似ているのではないか

 迫る総選挙を経て民主党による政権交代が期待されるなか、民主党マニフェスト(参照PDF参照HTML)が昨日公開された。全体としては、生活優先の理念に恥じない内容であるとともに、外交面ではかなりぼやけた内容になっていて諸外国に不安と期待を与えるだろう。
 すでに特定政党を決めている人、特定問題にのみで投票を決める人などもいるだろうが、対比すべき自民党のマニフェストは公開されていないものの、国民はこれらのマニフェストを検討して投票することになるだろう。
 私は率直に言って特定政党は支持していない。どちらかといえば小沢シンパで民主党を支持してきたが、それが軸になっているのではなく、私なりの政治観に軸を置いている。私は基本的に、国家を最小にすべきだとするリバタリアンに近いが、彼らとは異なり国家なくして人権も財産権もないだろうという意味で国家の存亡を重視することと、これも誤解される向きがあるが私は護憲主義者であり、この点では吉本隆明の信奉者に近い。
 当然の話題として、今朝の大手紙社説も民主党マニフェストを扱っていた。各紙ともくっきりとした論点は見いだせないものの、民主党に親和的に思われている左派的な論調の多い朝日新聞や毎日新聞でも、マニフェストの具体項目の背景にある財源論が気になっている印象を受けた。美辞麗句を積み重ねていてもそれを裏付けるカネがなくては夢物語にすぎないというのは、大人の常識でもあり、その側面から民主党を強く批判している勢力もいるようだ。これに対して、やらせてみなくてはわからないだろうといった暴論もあるが、長く続く経済政策の混迷から自暴自棄になってしまった人もいるのだろう。
 民主党マニフェストの財源論はそれ自体を読むより、昨日夕刻7時のNHKニュースのほうがわかりやすく思えたので、それを引用する(参照)。


一方、財源については、天下り先となっている独立行政法人の廃止や補助金の削減で6兆1000億円、いわゆる「埋蔵金」から4兆3000億円、所得税の配偶者控除の廃止などで2兆7000億円、むだな公共事業の中止で1兆3000億円をねん出するなどして、平成25年度までに16兆8000億円を段階的に確保するとしています。

 これに対して自民党側の反論も掲載されている。

一方、自民党は、政権公約を今週中にも麻生総理大臣が発表できるよう、作業チームが検討を急いでいます。これについて自民党の細田幹事長は記者団に対し、「民主党の政権公約は、高速道路の無料化や子ども手当の支給などばら色の項目が盛り込まれているが、財源がどこから出てくるのか精査する必要があるものばかりであり、全体として大きな問題がある。造花のばらなのか、本物のばらなのか、検討しなければならない」と批判しました。そのうえで細田幹事長は、自民党の政権公約について「今週末に発表したい」と述べ、今週31日に麻生総理大臣が記者会見して発表する方向で調整していることを明らかにしました。

 そう遠くなく、自民党としては民主党マニフェストの財源論を精査して公表するとのことなので、国民としては、民主党の美辞麗句の重みを計る上での参考になるだろう。
 私としてはこの、民主党および自民党の対応の経緯を奇妙なものに思っていた。というのは、民主党の財源論は、自民党清和政策研究会が平成20年7月4日に提出した「提言 「増税論議」の前になすべきこと ―「改革の配当」の国民への還元―」(参照)によく似ていると思えたからだ。
 つまり、民主党の財源論は自民党清和会の提言を、剽窃とまではいえないまでも、換骨奪胎したという印象があるのと、民主党を批判する自民党内にすでに財源論が提示されているのに、現麻生政権はこれを事実上隠蔽した形になっているように見えるからだ。どういうことなのだろうか?
 単純に考えれば、この間の自民党の内紛からもわかるように、清和政策研究会と関連が深い中川秀直氏の扱いが潜んでいるのだろうし、おそらく「小泉改革」を継承しているこの提言は、麻生自民党(つまり実質の与謝野首相)においては否定されているのだろう。
 民主党の財源論に戻ると、「平成25年度までに16兆8000億円を段階的に確保する」として、その主要項目は4つに分かれる。

  1. 天下り先となっている独立行政法人の廃止や補助金の削減で6兆1000億円
  2. いわゆる「埋蔵金」から4兆3000億円
  3. 所得税の配偶者控除の廃止などで2兆7000億円
  4. むだな公共事業の中止で1兆3000億円をねん出

 項目を見て自民党清和会の提言が連想されるのはなにより、元内閣参事官高橋洋一氏が掘り当てた「埋蔵金」が重視されている点だ。清和政策研究会提言より。

(1)財政健全化に反しない「大胆かつ柔軟な経済運営」の備え(最大6.8兆円)
・「骨太の方針2007」は、平成20年度予算における基本的考え方として、「経済情勢によっては、大胆かつ柔軟な経済運営を行う」としている。万一、その必要性が発生した場合には、昨年11月に清和研が指摘した財政融資特別会計の金利変動準備金9.8兆円の一部を活用すべきである。この9.8兆円は「骨太の方針2006」で想定していなかった新たな財源であり、現在は市中買い入れ分3兆円以外に6.8兆円が日銀保有国債(3.4兆円)、財政融資資金保有国債(3.4兆円)の買い入れを追加的に行うことに使われることになっている。しかし、日銀と財政融資資金はともに「広義の政府」内であり、この「広義の政府」が持つ6.8兆円分については、実質的な利払い負担はなく償還を急ぐ必要はない。よって、市中買い入れに充てていない日銀・財政融資資金保有国債償還分については、「大胆かつ柔軟な経済運営」を行う際に国民の必要を充たす財源としても、骨太の方針2006の財政健全化の道筋には反しない。ただしあくまで「大胆かつ柔軟な経済運営」が必要なときであり、バラマキに使うことは許されないのは当然である。

 清和政策研究会提言はいわゆるリーマンショック以前の世界での算盤なので現状では違う面もあり、民主党がどのように「埋蔵金」を算出しているのかはわからないが、それでも民主党による財源論の「埋蔵金」論はこれを横取りしたものと見てよいだろう。
 民主党財源論第1項の「独立行政法人の廃止や補助金の削減で6兆1000億円」についても、清和政策研究会提言の「3.「歴史的合意のための3年」に使うべき「改革の配当」」に対応しそうだ。

(1)3年以内の「改革の配当」の国民還元(9.2兆円超)
②政府資産の売却(1兆円超)
  ・東京23区外や独立行政法人の保養施設などの売却(1兆円超)


(2)3年以内に合意形成をめざすべきもの(最大31兆円)
⑤独立行政法人への「出資金」の売却(最大14.5兆円)


(6)新規の政策についての「ペイ・アズ・ユー・ゴー原則」※による財源確保(3年以内に実行)
②独立行政法人への貸付金の財投機関債への切り替え(フローベースで5兆円)

 なお、「独立行政法人への貸付金の財投機関債への切り替え」については、民主党を意識した注釈が付けられている。

民主党が主張する「12兆円の無駄」の大半はこの貸付金であり、12兆円全額を他の歳出に振り替えることは非現実的である。自民党としては財投貸付以外の契約・補助金の厳しい見直しに加えて、財投貸付の財投機関債への切り替え等を主張していくべきである。

 清和政策研究会提言では、本年にも実施できるもの、三年以内、三年後といったフェーズが含まれているが、民主党財源論も「平成25年度までに」とフェーズが想定されており、両者の時期フェーズの対照がやや難しい。が、概ね、民主党財源論も清和政策研究会提言も同質と見てよいだろう。
 第3項の「所得税の配偶者控除の廃止などで2兆7000億円」については、すでに議論されているところもあるようだが、実質増税となるだろう。
 第4項の「むだな公共事業の中止で1兆3000億円をねん出」については、国土交通省が3月に行った、着工ずみの国道18路線工事の凍結の顛末が参考になるだろう。つまり、内実が問われないと地方からの財源論としてはナンセンスな結末になるということだ。
 なお、この、着工ずみの国道18路線工事凍結だが、無駄遣いでかつ地方に不要なものを国が押し付けどんぶり勘定で請求したという批判の裏で、NHKの解説などを聞いた範囲では、地方では少ない額で国を当てにしたレバレッジのように見えた。自民党のバラマキ政策の一種のようでもあり、その凍結頓挫は民主党のこの財源論にも示唆するところがあるだろう。
 民主党の財源論から清和政策研究会提言を見るのではなく、逆に清和政策研究会提言から民主党の財源論を見たときに顕著になるのは、国家資産の売却の欠如だ。この点は民主党の財源論では一種のタブー化しているようにすら見える。リバタリアンに近い私の政治観からするとそのほうが隠された大きな問題に見える。
 以上、清和政策研究会提言基軸で見ると、民主党マニフェストの財源論はそれほどには夢物語ということではないと思える。だが、それによって実現される国家財政の未来についてはどうかという点で見ると、産経新聞記事「GDP押し上げ効果はわずか0・1% 民主党政策」(参照)による野村証券金融経済研究所の概算では、かなり効果の低いものになっている。

野村証券金融経済研究所は22日、民主党政権が誕生した場合、その経済財政政策による実質GDP(国内総生産)成長率の押し上げ効果は、平成22年度で0・1%、23年度で0・4%にとどまるとの試算をまとめた。「子ども手当」などで個人消費が押し上げられる一方、景気に“即効性”がある公共事業が削減される可能性があり、「効果は限定的」とみている。


 月額2万6000円の子ども手当のほか、高速道路無料化やガソリン税などの暫定税率廃止により、個人消費が22年度に0・3%、23年度に0・5%押し上げられると試算。一方で、公務員の人件費削減などによるマイナスを差し引くと、押し上げ効果は22年度で0・3%、23年度で0・4%にとどまる。

 私としては民主党のバラマキ政策によって個人消費が活性化し、翌年には1%近くはアップするのではないかなという印象を持っていたが、この試算を見て、やはり住宅投資が活性されるような規模がないと無理なのかもしれないとは思いなおした。
 公共事業削減によるデメリットは、金融危機下でなければそれほどでもないだろうが、現下各国が協調して財政政策をしているなかで行えば、デメリットは強化されるだろう。
 この点、対比的に清和政策研究会提言は国家資産の売約や国家事業の縮小から民活が自動的に促進される利点があるようにも思えたものだったが、そのような感想のほうがさらに夢物語となってしまった。
 私の印象では民主党案では国家経済発展の展望がなく、少子化の歯止めは事実上は不可能なうえ、移民も受け入れないともなれば、日本は、国政財源は急速にじり貧になっていくだろう。そうなれば、そのツケはきちんと日本国民、若い人が支払ってくれることを期待するしかないだろう。日本の未来を若い人に託したい。

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2009.07.27

[書評]中学生からの哲学「超」入門 ― 自分の意志を持つということ(竹田青嗣)

 私は竹田青嗣氏の著作はデビュー作からほぼ網羅的に読んでいるので、初期の欲望論、そしてその基礎方法論としての一連のフッサール・現象学解説著作から、近年の「人間的自由の条件 ― ヘーゲルとポストモダン思想」(参照)による、フッサールからヘーゲルに至る社会思想への深化・変遷のあたりで、竹田氏は一つの頂点を迎えたのか、あるいは学生や実際上のお弟子さんたちの教育に忙しくなったか、しばらく思想的な展開は見られないものだろうと思っていた。

cover
中学生からの哲学
「超」入門
竹田青嗣
 そうした流れで、本書「中学生からの哲学「超」入門 ― 自分の意志を持つということ」(参照)も見ていたので、書店で見かけたときは、またこれも初期の副産物的な作品かと思っていた。実際、本書はかつての類書「「自分」を生きるための思想入門」(参照)とよく似ている。なお、同書については「極東ブログ: 社会システムとルール社会を越えていくもの」(参照)で触れたことがある。また竹田氏が在日朝鮮人としてあの時代の若い日を振り返る述懐もとても興味深い。コウケンテツさんをふと連想したりもした。
 本書は過去の類書と異なり、最終的に描き出した像は、意外というのではないが、自分の想定とは違ったものだった。率直に言えば、竹田氏、いや心情的には「竹田さんも60歳を越えて、ある人生の眺望を見るようになったのだな」という印象を深めた。振り返ってみたら私も、10歳年上の竹田氏の著作を20年読み続けた。こういうと悪口のようだが本書の一章にもあるように、彼も今でいうニート的であった時代がある。カルチャーセンターの講師を経て、早稲田の教授に変遷していく過程も私はずっと見ていた。哲学者に生まれた人間は最終的には哲学者になるものだという印象と、一途に思索に向かっていく清々しい姿も感じた。逆に私はアカデミズムに復帰することはできなかったなとも思う過程でもあったが。
 こうした年を経た人間の心情の表出として、本書で多少突出して見える言葉遣いがある。「人を聡明にする」という表現だ。ある考え方が若い時に得心できれば、その考え方は人を聡明にして、人生を豊かなものに変える、とまでは言えないまでも、哲学にありがちな思索や倫理の典型的な不毛な泥沼に入ることを防ぐようになる。ネットを見ていると私もその一人だが、聡明ではないがゆえにつまらない議論に拘泥している人は少なくない。
 なにが人を、特に若い人を聡明にするのか。「世の中には、はっきりとした答えを見いだせる問いと、問うても決着の出ない問いがあるいうこと、このことが「原理」として腑に落ちていることは、どれだけ人を聡明にするかわかりません」と竹田氏は語る。神は存在するのか、人間と世界の存在の意味はなにか。「この問いに決定的な答えは誰も出せない。これはじつはなかなかすごい原理です。「形而上学の不可能性の原理」。これは理屈では理解できる人も多いでしょう。しかし、このことがいったん深く腹の中におちれば、人間は本当に聡明になります。」
 この原理(カントによる原理)がわからないと、「人は、いつまでも一方で極端な「真理」を信奉したり、一方で、世の中の真実は誰にもわからないといった懐疑論を振り回すのです」ということになる。「このふたつは、いわば「形而上学」とその反動形成で、表裏一体のものです」。
 確かにネットの聡明でない人々の対話ともいえない罵倒の交換は、歴史に偽装されたり倫理に偽装された「真理」の信奉者や、真実はなにもないとする懐疑論をポストモダン的に装ったペダンティズムなどが見らるものだ。聡明になれなかった人々である。
 聡明になった人はどうするかといえば、開かれた対話、開かれた問い、問うことを禁止されない問いへの多様な解答の試みから、社会的な合意を形成していこうとする。なるほどそうかとも思う。
 加えて竹田氏は宗教と科学を分け、科学は「つぎつぎに新しい人が現れ、実験などで確かめながら「原理」(キーワード)を取り替えつつ、より普遍的で包括的な説明になるように推し進めていくわけです」と、包括性にいわば合意された社会的な知性の進展を見ている。ただ私はそこは率直に言えば、竹田氏のごく基本的な間違いだろうと思う。科学的な確実性・普遍性もまた単なる社会合意であって、おそらく宗教と科学を峻別するものではないだろうと、聡明になれない混迷に私は沈む。
 聡明についてのもう一つの言及は、本書のテーマでもある「自己ルール」について語られる箇所にある。社会のルールと、自分が独自に考えて決めた自己ルールを分け、「社会のルールと「自己ルール」の違いをうまく区別して理解することは、とても人間を聡明します」と竹田氏は語る。これだけ見ると、社会には社会のルールがあるが、私には私のルールがあるといった、国家に適応すれば北朝鮮の主体思想にも見える滑稽さの表明のようだが、ここは、たぶん中学生では理解しづらい本書の難所を形成しているだろうし、一見、超入門に見えながら本書がとんでもない深淵を隠している部分でもあるだろう。
 社会のルールといえば、「人を殺すな」「人の物を盗むな」といったものが想定されるし、本書でもそうした暗黙の了解は前提になっている。しかし、重要なのは、本書のキーワードである「一般欲望」との関係だ。
 一般欲望とは、ごく単純な例でいえば、おカネと美貌(イケ面)であるとしていいだろう。おカネの比喩はわかりやすい。誰もがそれを価値だと思う欲望を喚起する。よって一般的な欲望となる。おカネの、社会的な一般的な価値性を支えているのは、人々の一般欲望である。
 一般欲望を考える上で、竹田氏は、欲望自体の本質を到来性として見ている点が基礎になる。欲望とは、自己の外部からやってきて、「お前はこれに欲望しているのだ」と告知するものとして本質が捉えられる。もっと単純に言えるだろう。目の前に札束がある。「ああこれ欲しい」と思うのは、一般欲望がその人の欲望の所在を告知しているからだ。そしてそれをくすねないのは、社会ルールが規制しているからだ。これが人にとって大きな問題となるのは、こういう点だ。

資本主義社会は必然的にそういう一般欲望を育てるのだけど、この欲望はあくまで競争の中で生じるものなので、この一般欲望を満たすことができる人は二割ぐらいの人間だということです。七、八割の人は、自然にそういう欲望を育て、そして失敗するようになっている。


ほとんどの人々が、この、たくさん愛されたい、贅沢をしたい、評価されたい、人の上にたちたい、偉くなりたいといった「一般欲望」を、人間がめざすべきごく自然な目標として自分の中に育てる。だから、もしわれわれがどこかで自分の欲望のあり方を検証しなおす機会がないと、幸福になるどころか、この世の中のほとんど人が不幸になってしまうということになる。


それが競争の中で実現される欲望である以上、そこで「幸福」をつかむことのできる人は必然的にごくわずかで、ほとんどの人は挫折し、絶望し、自分の一生を肯定できないで終わるほかはないとも言いました。そこで、ここで大事なのが、あの「自分の意志をもつこと」ではないかと、私は思います。

 竹田氏はこの難問に対して、欲望というものは自己ルールを介して成立するのだから、自己ルールを作り直すことで、それが克服できる可能性を示している。ここは、普通の人にとってとても大きな人生の思惟の上の難所だろうと思うし、そこを竹田氏は一面ではうまく取り上げ、縷説している。特に、自己ルールを作り直す上で重要なのは、(1)自分の言葉をたくわえること、(2)フェアな友人関係を形成して批評し合うこと、としている。それは竹田氏の結果的な人生経験にもよるのだろう。
 だが私は、正直に言えば、十分にそれ(自己ルールの再編)を理解することはできなかった。人によっては本書を私よりはるかに深く読み取り、竹田氏がこの難問を本書で解いていることを見いだすかもしれない。あるいは本書を実用書のように、「使える」哲学として読む読者もいるだろう(参照)。
 しかし、私のようにその読み取りに挫折しても、本書の思惟のガイドラインのような部分は、確かに人を聡明するとは言えるだろう。
 エントリでは触れなかったが、竹田氏は本書で青春時代の失恋の意味も深く取り上げている。人が社会や恋愛にとことん挫折したとき、本当にそこにものを考える契機が生まれるという、哲学のもっとも基本的な姿を、60歳を越えた竹田氏がうまく語っている。標題の「中学生」に惑わされず、30歳過ぎた人でもそうした人生の難所にある人なら読んで得るところはあるだろう。

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2009.07.26

民主党ネクスト防衛大臣浅尾慶一郎氏、民主党除籍

 民主党ネクスト防衛大臣浅尾慶一郎氏が7月24日民主党を離党し、これで民主党のネクスト防衛大臣は不在になった。衆院後政権を取った際の防衛関連の政策を現時点で語る適任者はいない。組織上は、ネクスト防衛大臣の副大臣に山口壯氏と一川保夫氏がいるので早晩繰り上げになり空席は埋まるのではないかと思われるが、問題は、これまで民主党の防衛政策を語ってきた浅尾氏の見解と整合が取れるのかどうか、また、そもそも浅尾氏の今回の衆院選挙直前の離党がその防衛政策とどの程度関連してくるのかの2点だ。
 浅尾氏の離党理由は、表面的には民主党の防衛政策が関係していないように見える。記者会見では「地元を代表する衆院議員になってほしいという地元の声に応えたい」と支持者の声に応えたものとされている。浅尾氏は1996年の衆院選で旧新進党から出馬して次点になり、国会議員としての体面を保つのを優先したか98年に参議院に鞍替えした経緯があり、当初から衆議院議員を志向していたのだろう。
 渡辺喜美元行政改革担当相が自民党を離党したケースとは異なり、浅尾氏側としては所属政党との関係や基本政策での行き違いがあったということでもないとしているようで、衆議院議員に当選すれば「首相指名選挙で鳩山由紀夫と書く」と述べている。復党に含みを持たせているとの読みもあるようにも見えるが、社民党や国民新党と同党の少数政党への志向があるのかもしれない。離党組として立場が似ているせいか、新党への参加をすでに呼びかけた渡辺氏に「公務員制度改革は意見が一致している。政策を吟味したうえで何が日本のためにいいのか判断したい」と答えている(参照)。
 民主党側での反応だが、浅尾氏を民主党除籍処分とした。関連報道を見る限り内情は複雑なようだが、まず明瞭なのは、浅尾氏の参議院議員から衆議院議員への転身というだけなら、段取りを踏んでいたのならば、そのまま民主党の離党を意味するわけでもないことで、問題は段取りにあった。民主党は浅尾氏が立候補を表明している神奈川4区ですでに前逗子市長の長島一由氏を公認しているので、この区の選挙戦略に影響し、地域の民主党としては事実上の分裂選挙になる。
 背景はありがちに香ばしい。長島氏の公認は民主党神奈川県第4総支部の総意に反したものらしく、公認決定時に神奈川県連衆議院選挙選対本部長代行を務めていた浅尾氏はその反発から本部長代行を辞任した。つまり民主党離党は衆院選直前という時期的には唐突な感はあるにせよ、地元の人ならご納得の予定行動であり、つまりは、ネクスト防衛大臣といった国政には関係ないとも言えるはずだ。が、当事者の長島氏は「ネクスト防衛相の立場なのに反党行為を犯し、大義名分さえない」と批判していることから、全く関係もないわけでもないだろう。民主党が防衛政策を放り出した感は否めない。
 民主党岡田克也幹事長は浅尾氏の行動を「許し難い反党行為だ」とし、復党の可能性についても「除名された人が民主党に入ることはあり得ない」と否定している(参照)。岡田氏はすっかり選挙に頭がいっぱいで、政権確立時点の防衛政策については頭が回っていないことがわかる。国民優先の政治というのは、国家の存亡は第二という含みがあるかもしれない。
 民主党のお家の事情は国民にとってはどうでもいいことだとは言えないのは、まさに民主党政権確立時点の防衛政策が不明になるからだ。これには前段がある。「新テロ対策特別措置法案」を民主党がどう見ていたかが、結果的に現状は不明に帰したことになる。
 昨日のエントリ「極東ブログ:民主党は給油活動についてマニフェストに明記していただきたい」(参照)で、フィナンシャルタイムズ記事の論調にもあったが、民主党による自衛隊給油活動は、当時代表だった小沢氏による「憲法違反」として見られてもしかたがない面はあった。しかし、これに対して民主党岡田克也幹事長は、当時の党首による民主党を背負った主張でありながら、「党としての正式な議論ではない」と述べていた。それはそれで正しいとも言える背景があるにはあった。
 この点について、2007年11月1日の「テロ対策特別措置法」期限切れを控えた、10月17日日本記者クラブで、与党自民党石破防衛相と民主党「次の内閣」の浅尾防衛担当相による討論が実施されていて興味深い(参照参照PDF)。
 なぜ民主党が給油法に反対するかという点について、当時の「次の内閣」の浅尾防衛担当相は、(1)国会の事前承認がない、(2)油の使い方が不明だ、の2点を挙げていた。しかし、これは奇妙な議論で、(1)2001年に同法が成立したとき事後承認には賛成していた、(2)油の使い方については原理的に明確化しようもない、という欠陥を持つ。端的に言えば、タメの反論の馬脚というくらいなものだろう。
 むしろ興味深いのは、討論のなかで小沢ビジョンに関連したやりとりだ。石破氏は、小沢氏が自由党時代だった時点の小沢ビジョンから、給油問題をこう取り上げている。


小沢さんは当時反対された自由党党首でした。いまは民主党の党首です。これはアメリカの戦争に加担するもので、補給だろうと何だろうとそれは武力の行使なのだ、だから集団的自衛権でだめなのだと、当時主張した。だから、自分たちの法案を出すことによって、憲法の改正によらずして、集団的自衛権の行使を認めるのだ、というロジックだったんですね、当時は。このロジックでいくならばわかるんです。

 浅尾氏はこう答えている。

民主党と自由党が合併したとき、合併の覚書において、政策の一貫性が必要であるという観点から、民主党の合併した当時の政策を引き継ぎますということになっています。したがって、自由党当時に出された法案について、私がコメントをするということは、その点の限りにおいては適当ではない。

 当然石破氏はこう答えざるをえない。

わかりました。浅尾さんのおっしゃることは、民主党の政策を引き継ぐということだから、小沢さんが出されたこの法案は民主党においては全く存在をしていないということなのだ、ということがよくわかりました。

 しかし、実際にはこの小沢ビジョンは、先のエントリでも引用したように、民主党党首の名でその後も語り続けられ、そのビジョンは民主党には関係ないのだとは、その後も公式には語られていない。フィナンシャルタイムズ記事が誤解だとは言いづらいし、なにより対外的にそう見られていた。
 「次の内閣」の浅尾防衛担当相(当時)は討論のなかで、他党に所属していた政治家のビジョンについてコメントすることはできないとしているが、その浅尾氏が今民主党を離れ、しかも除籍された。浅尾氏は今、この問題を民主党から離れてどう考えているのかも当然気になる。

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2009.07.25

民主党は給油活動についてマニフェストに明記していただきたい

 民主党がめちゃくちゃなことになってきた。そう民主党。自民党ではない。自民党については、小泉元首相が暗に言ってたように、ひとまず下野して立て直すしかないだろう。が、その前に民主党のほうが予想外の速さで壊れてきた。もちろん、「そうじゃないんだ、より現実的になってきたのだ、民主党鳩山代表の祖父鳩山一郎が自民党の初代総裁であったように、看板入れ替えて、新自民党になるのだ」という歴史を踏まえた意見もあるだろう。
 どんな話か。難しい話ではない。日本の政局に疎い外国からでもはっきり見えることだ。英国フィナンシャルタイムズ記事「Prospect of power softens DPJ’s US stance」(参照)が明確に指摘していた。なお、同記事は邦訳「民主党、対米姿勢を軟化 政権獲得の可能性を前に」(参照)もあるのでそちらを参照されてもいい。私は私で試訳を添えておく。


In recent years, one of the few points of clarity in the foreign policy platform of Japan’s Democratic party has been opposition to Tokyo’s “unconstitutional” dispatch of naval fuel tankers in support of US warships operating in the Indian Ocean.
近年において、日本民主党の外交政策の枠組みで明瞭だと言えるのはわずかしかないが、その一つが、インド洋上米国軍行動船団支援に海上自衛隊の補給船を派遣するのは「憲法違反」だ、とすることだった。

But just weeks before a general election that polls say should see the DPJ win a historic victory over Japan’s long-ruling Liberal Democrats, even this small chink of certainty in the DPJ’s famously vague party platform seems to be fading.
しかし、世論調査によると、民主党が長期政権の自民党に対して歴史的な勝利を収める数週間前になって、曖昧ということで世評の定まる民主党政策のなかで、このごく僅かしかない明瞭な主張が消えてきたようだ。

“Continuity is required in diplomacy,” said Yukio Hatoyama, DPJ president, last month when asked about long-promised plans to scrap the eight-year-old refuelling mission by officially pacifist Japan’s Maritime Self-Defence Force. “Suddenly halting it would be a very reckless idea.”
「外交には継続性が求められる。給油活動を突然停止するというのはあまりに無茶な考えかただろう」と民主党代表鳩山由紀夫が言ってのけたのは、8年に渡り公式に海上自衛隊によってなされた給油活動を廃止にするのかと、長年の公約について問われた時だった。


 フィナンシャルタイムズの記事はこのあと、民主党も権力が目の前にぶら下がってくれば、安定した追米路線になって米国も多少安心するだろとしてるものの、民主党内にくすぶる異論に危機感を匂わせた話を展開している。
 私としては、由起夫坊ちゃんは初代自民党総裁のお孫さんだし、先日の、核持ち込みに日米密約を前提にした上で非核三原則の扱いを日米で再協議すると表明したのと同じように、オフレコ的に党首による地均しくらいはするだろうし、民主党内や協調するはずの社民党などとの摺り合わせの端緒になるだろう、きちんとやってくれよと思っていた。つまり、まだ民主党のオフィシャルな見解ではないだろうと思っていた。
 違った。民主党の2009年版政策集から給油法関連はごっそり削られていた。6月までは存在した「補給支援特措法を延長せず、インド洋の海上自衛隊の給油活動は終了」「アフガニスタン国内の和解と抗争停止合意形成を促し、抗争停止後、自衛隊を含む人道復興支援の実施を検討」という文言が、消えた。驚いた。そんな方針転換がいつ民主党内で進んでいたのかまったく知らないでいた。
 驚いたことはさらに続く。民主党岡田克也幹事長の発言にはたまげた。ぶったまげたというのがより正確な表現だろう。「岡田氏「何が何でも反対」でない インド洋給油で」(参照)の報道が間違っているのかもしれないのだが。

 民主党の岡田克也幹事長は24日の記者会見で、海上自衛隊のインド洋での給油活動に関し「『何が何でも反対』ではない。そもそも民主党は国会承認さえ入れば賛成するという考え方だった」と述べ、衆院選で政権を獲得した場合、活動の根拠の新テロ対策特別措置法延長に含みを残した。同法の期限切れは来年1月。
 小沢一郎代表代行が代表当時に給油活動を「憲法違反」と断じたことについては「党としての正式な議論ではない」と述べた。

 「国会承認さえ入れば賛成するという考え方」というのは、前回についてはそうかもしれないなと留保してもよいが、フィナンシャルタイムズ記事が指摘したように、わずかに明瞭な外交政策であった、給油活動を憲法違反とする、というのは、小沢一郎代表代行が代表当時に述べた私見に過ぎないと強弁するのは呆れた。
 そんな話がありますか。2007年のいわゆる「ねじれ国会」で、一時的ではあったが給油動中断にまで追い込んだ民主党は野党だったからなのか。政局のためならなんでもするというだけのことだったのか。給油法の問題で、衆院の三分の二という強権を使うことを恐れた安倍元首相と福田元首相を追い詰めて消したのは民主党のこの「給油法は違憲である」政策ではなかったか。あるいは、今度はその主張を堅持した小沢元代表を追い詰めて消すということなんだろうか。
 小沢元代表がまさに代表であったときの「今こそ国際安全保障の原則確立を」(参照)を顧みてみよう。彼は給油活動つまり後方支援を兵站線と見ている。

 言うまでもなく、日本国憲法第9条は国権の発動たる武力の行使を禁じています。国際紛争を解決する手段として、自衛権の発動、つまり武力の行使は許されないということです。したがって我々は、自衛権の行使(武力の行使)は我が国が直接攻撃を受けた場合、あるいは我が国周辺の事態で放置すれば日本が攻撃を受ける恐れがあるという場合に限定される、と解釈しています。
 しかし、一方において日本国憲法は、世界の平和を希求し、国際社会で名誉ある地位を占めたいと、平和原則を高らかに謳っています。そのためには、国連を中心とした平和活動に積極的に参加しなければなりません。それが憲法の理念に適うものだ、と私は考えています。
 ところが、自民党政府(内閣法制局)は今も、国連の活動も日本の集団的自衛権の行使に当たると解釈し、したがって国連憲章第7章第42条に基づく武力の行使(PKO、国連の認める多国籍軍等を含む)に参加することは憲法第9条に違反する、という解釈を続けています。では、それならなぜ、アフガンで「不朽の自由作戦」を主導する米軍を自衛隊が支援できるのでしょうか?集団的自衛権の行使を、ほぼ無制限に認めない限り、日本が支援できるはずがないのです。
 湾岸戦争時の内閣法制局の憲法解釈は、国連活動の後方支援であっても、武力の行使と一体のものだ、だから、それに参加することは憲法第9条に抵触する、という論理でした。
 後方支援すなわち兵站線こそ、戦争の行方を決する最大の要素であり、その意味で後方支援は武力の行使と一体だというのは、正しい認識です。しかしそれなら、いま、国連活動でもない米軍等の活動に対して補給すなわち後方支援をやっていることについて、内閣法制局はどんな詭弁を弄しているのか。アフガンについても、イラクについても同様です。後方支援は武力の行使ではない、戦争するわけではないから問題はない、と自民党政府は言う。正に、子どもにも通用しない詭弁を弄して、現実に海外派兵を行っているのです。こんないい加減な国が他にあるでしょうか。

 小沢を代表から引きずり下ろして、「こんないい加減な」民主党に成り下がったということなのだろう。
 私は民主党が変わっていってもよいと思う。小沢が長年保持してきた憲法理念を放り出して、自民党のような政党のようになってもかまわないと思う。そういうものなら、そういうものだと判断できるからよい。子供だましのような変節だけはやめて、この問題について、どのような見解でもいいから、きちんとマニフェストに記載していただきたい。

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2009.07.22

[書評]真説 アダム・スミス その生涯と思想をたどる(ジェイムズ・バカン)

 結局、「真説 アダム・スミス その生涯と思想をたどる(ジェイムズ・バカン)」(参照)を三回読んだ。読みづらい本ではけしてない。量も厚めの新書くらいだろうか。しかし、何度も読まざるを得ないような、久しぶりに出合った怖い本だった。

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真説 アダム・スミス
その生涯と思想をたどる
ジェイムズ・バカン
山岡洋一
 繰り返し読むことでじわじわと筆者の知の力量が伝わってくる。この筆者なら、このネタでこの五倍の分量は書けるだろうと、実際にその五倍の量の「アダム・スミス伝(イアン・シンプソン・ロス)」(参照)と比較したい気持ちがしたが、幸いにして同書邦訳書は絶版のようだ。近年の評伝としてはロス氏のほうが定番なのか、気になって米国アマゾンの読者評を見るとぱっとしないが、反してバカンの原書「The Authentic Adam Smith: His Life and Ideas」(参照)はより多くの好評で迎えられている。ああ、そうなのだろうと思う。
 邦訳書「真説 アダム・スミス」では、日本の現下の読書界を反映してか、堂目卓生氏の詳しそうな解説が付されている、と、妙な言い回しになるのは、堂目氏の解説は、「[書評]アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界(堂目卓生)」(参照)で触れた該当書の要約が実際上大半を占め、バカン氏の書籍の解説にはなっていない。代わりに曰く「本書は、評伝という性質上、スミスが構想したと思われる人間学と経済学の論理関係を詳細に検討しているわけではない」としているのだが、もちろん、そう評して誤りというものではないが、バカン氏の書籍が副題を「His Life and Ideas(その生涯と思想をたどる)」とあるように、同書ではアダム・スミスの思想はコンサイスにまとめられている。
 一回目の読後、やや皮肉な印象だが、堂目氏はバカンの書籍を実際には読んでいないか、理解していないか、あえてオミットしているのかと疑問に思えた。一回目の読後の印象でも、堂目氏のアダム・スミス理解はバカン氏のそれと違うようにも思えた。しかし、明確な差異が見えたわけでもなく、堂目氏の「アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界」を再読し、さらにバカン氏の著作を再読、さらに再々読することになった。
 個別の論点、例えば、「見えざる手」についての理解、あるいはアダム・スミス思想の総体理解についてと論点を絞れば、両者のスミス理解の比較は可能だが、堂目氏の著作がそれによって損じるというものでもない。それでも堂目氏の理解のように、「道徳感情論」の人間学によって「国富論」の経済学が基礎付けられるといった解釈は、違うのではないかと思うようにはなった。
 バカン氏が明瞭に意識していることだが、アダム・スミスは、「道徳感情論」を基礎に、社会を包括する法学的な著作と、さらに心理学的なフレームを持つ人文学の二著の構想を持っており、国富論はどちらかというと、書かれるはずだった法学的な書籍の一部をなすもののようだ。そうした意識もあって、「道徳感情論」と「国富論」も、スミスは生涯をかけて改訂を繰り返しており、しかも生涯の最後に彼ができる次善の仕事として「道徳感情論」に注力している。
 本書が小編でありながら、背筋がぞっとしてくるのは、この二著の改訂作業を事細かに読み取りつつ、スミスの思想の変遷を明らかにしていることだ。恐ろしいほどの手間をかけてこの小編を執筆したことがわかる。
 普通、アダム・スミスの生涯と思想というとき、いわゆる評伝的な外的なエピソード(それがどのように内的な思想形成に影響したか)が注目されるものだが、バカン氏は、改訂のプロセスの背景を丹念に探ることで、スミスの思想が生涯とどう関わり形成されていたを示している。別の言い方をすれば、「道徳感情論」と「国富論」も、スミスの生涯のなかで常に生成のプロセスにあり、しかもそれは書かれざる大著の基礎をなすものだった。勇み足で言うなら、アーレントの、これも結局は書かれざる思想もその延長を引き継いだものだったかもしれない。
 バカン氏の文献の読み込みの徹底性は、その注を見てもわかるが、ただごとではない。マックス・ヴェーバーのように、こいつはもしかして衒学趣味かと思われるような神経症的な注釈のような印象もあるし、普通論文はこのくらい注釈を付けるでしょというのもあるかもしれないが、どうもバカン氏のそれは、単に本書がそうであるべき必然性を吟味して付されているようだ。三回目の読書では、単にスミスの著作ページを指すだけであっても、小まめに毎回参照してみて思ったのだが、オリジナルに大仰とも思える"Authentic"が付されているのは、後の研究者にこの参照を引かせる思いがあるからなのだろう。
 バカン氏がどれだけスミスや同時代文献を読み込んでいるのかについて、コテンパンに打ちのめされる思いがするのは「見えざる手」という有名な言葉の解釈だ。既存のスミス学の研究成果を踏襲しているのだろうと思われるが、それでも「見えざる手」が何を意味しているかについて、本書は決定的に暴露していく。結論から言えば、この用語にスミスの強い思い入れがあったわけでもないことがわかる。
 本書の構成は一見するとその生涯を年代風に描いたように見える。ブログなどによく見られる手抜き書評風に目次を紹介するとこのようになっている。

第一章 父なき世界(一七二三~一七四六年)
第二章 洞窟、樹木、泉(一七四六~一七五九年)
第三章 ペン・ナイフと嗅ぎタバコ入れ(一七五九年)
第四章 袋かつらの不信心者(一七五九~一七七六年)
第五章 果樹園の手長猿(一七七六年)
第六章 決死の任務(一七七六~一七九〇年)

 章題が村上春樹の小説のように奇妙なものになっていることに気づかれるだろう。これは率直にいえばバカン氏の文学的な趣味が露出しているとも言えるが、再読してみるとこの章題の効果に気がつくだろう。詩的なイメージから章の要点が想起されやすい。
 もう一点、年代風に並んでいるように見えるのだが、三章と五章が単独年になっていることに気がつくはずだ。簡単に言えば、三章が「道徳感情論」、五章が「国富論」をそれぞれ解説しているためでもある。で、あるならなぜそうわかりやすく標題にしないのかだが、この二著については他の章でも改訂史とともに語られているという理由もあるだろう。これらの章だけで二著の解説として取り出すことはできない。
 評伝として見れば、時代背景の描写もだが、デーヴィッド・ヒュームとの交流なども絶妙な機微で描かれている。同様にスミスとケネーの関係、さらにスミスのパトロンなどの関係の解説も興味深い。こうした記述にはバカン氏の圧倒的な教養がにじみ出ていて、そこもぞっとする怖さがある。
 反面、ありがちな評伝記者が対象に過剰な思い入れをするような傾向は極力抑制され、アダム・スミス自身の描写としては、一見つまらないようにも見える。だが、再読していくと、じんわりと、ああ、スミスというのは、現代でいう理系オタ的な性質にラテン語学者を乗せたような人であったから、こうなったのではないかという確信的な印象と、同時代からは放心した出っ歯で議論はKYという人物に見られたが内面からの世界や人々への視線は、手の込んだオタアニメのような分析力を持っていたことが、これも得心できる。本書は、その抑制の解除の手前の、バカン氏の詩情的な思いで終わる。
 堂目氏の著作がスミス思想をスキーマティックに整理したのとは対比的に、バカン氏の著作は一見理性を精巧に駆使したようでいながら、詩情的な直感を駆使していく箇所が多い。次のような説明は、さらっと読むとごく普通のスミス思想理解のように見えるかもしれない。

 スミスは心理という観点から道徳に関する判断の原理を示した後、この原理がどのように機能しているかを示していく。どの場合にも、人は行動の結果よりも動機を重視し、行動の利点よりも適切さに関心をもつとスミスは語る。感情の適切さや行動の利点に関しては、良心がどのように判断するかを考えるのではなく(日曜学校ではそう教えられるだろうが)、社会がどう判断するかを考える。社会の見方に鋭敏になることで、人は自分自身の外見や行動を観察し、判断を下すようになる。

 私の関心が過剰な思いを招いているのかもしれないが、この段落のなかにカントやヘーゲル、アーレントいった思想家の思想の類似性を見るし、なにより行動経済学の前提のような視点を読む。おそらくバカン氏にもその企図があり、「感情の適切さや行動の利点に関しては、良心がどのように判断するかを考えるのではなく、社会がどう判断するか」という点に、「道徳感情論」の経済学的な卓見をスミスに見ている。くどいが、「道徳感情論」がスミスの人間観を構成し、その上に経済学が成立しているという視点ではない。そうではなく、人の感情に起因する行動それ自体に、経済学として捨象できる原理性が潜んでいることをスミスは直感している。

ヒュームは、二枚の鏡を向かい合わせたように、同感が人と人の間で反射すると書いている。スミスによれば、社会とは「鏡であり、これがあるからこそ、人はある程度まで、他人の目を通して、人間の行動の適切さを吟味できるのである」。

 衒って言うのではないが、行動経済学が神経系経済学に進展していく基礎的なミラーの概念はスミスの思想のなかにすでに直感的に摂取されていることがわかる。
 バカン氏は本書が適切に読まれるかについて、多少の懸念もあったのだろう。本書の意図を明瞭にListicle的にまとめている部分があり、邦訳出版側でもこれを帯の裏に採用している。

本書の強調点は三つ。一、『道徳感情論』は現代経済学の観点からも優れた著作である。二、スミスの探求において、「感情」が「理性」よりも重要な意味をもっていた。三、彼を我々の安易な思想の始祖だと主張してはならない。

 本書を一読すれば、三の意味は徹底的にわかるだろう。私は再読して、二の意味がわかり、再々読して、一の意味がおぼろげながらに理解できた。

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2009.07.17

[書評]アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界(堂目卓生)

 ところで今日7月17日は経済学の祖と言われるアダム・スミス(Adam Smith)の命日である。1723年の初夏、対岸にエディンバラを臨む、スコットランドの港町カコーディーに彼は生まれたが、その日のほうはわかっていない。幼児洗礼を施された6月5日を便宜上誕生日と見なすこともある。父は弁護士で税関監督官の仕事をしていたが、アダムが生まれる半年前に急死し、身重の17歳の妻を残した。アダムは極貧に育ち、母を支え、生涯妻を娶らなかった。童貞だったかどうかはあまりスミス研究において重視されないようでもある。

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アダム・スミス
『道徳感情論』と
『国富論』の世界
 2008年に、日経新聞掲載記事を膨らませる形で描かれ、同年サントリー学芸賞政治・経済部門を受賞し、また同年のエコノミストが選ぶ経済図書ベスト10にも入った堂目卓生著「アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界」(参照)には、そうした話、つまりアダム・スミスの私生活に類した話は、ほとんど描かれていない。描かれているのは、「国富論(An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations )」によって経済学の祖と言われるアダム・スミスの思想、日本でも流布されている従来からのアダム・スミス思想としての、経済の自由放任主義(レッセフェール)について、原典を丹念に読み解くことによって、誤解を解いていく姿だ。
 アダム・スミスの思想は、従来、市場の予定調和的機能を比喩にした「見えざる手(invisible hand)」をキーワードとし、個々人の利己心に基づく利益追求が、自由な市場を介することで社会全体の利益につながるという主張として受け止められてきた。政府による市場規制を撤廃し、健全な企業競争を促進すれば、国家は高い経済成長を遂げるという、昨今の日本では新自由主義や小泉改革とも呼ばれるものにすら、誤解されてきた。
 本書は、こうした謬見を除くために、スミスの、実際上二つしかない主要著作を有機的に見直すことで、特に前著とされる「道徳感情論(The Theory of Moral Sentiments)」に見られる人間観と社会観の哲学を基礎にして、「国富論」を解明していく。本書はわかりやい解説的な記述と読みやすい文体で描かれた、アダム・スミス思想の最善の入門書といえるだろうし、すでに固まっていると見られる本書への評価も頷けることだろう。印象としては、清水書院からシリーズで刊行されている哲学者解説書といった趣もあり、高校生でも理解できるだろう。むしろ、高校生・大学生が読むのに適切な書籍でもある。
 私が本書を読んで、一種得したような印象を持ったは、「道徳感情論」の懇切な解説によって、先日のエントリ「今こそアーレントを読み直す(仲正昌樹)」(参照)でも触れたが、アーレントの描かれざる最終的な思想の到達点における、スミスの哲学の関わりがより明確になったことからだった。端的に言えば、哲学者アーレントが彼女の最終的な関心事として収斂した先にあったものが、スミス哲学における「共感(sympathy)」と「公平な観察者(the impartial spectator)」の、近代から現代、そして未来の人類の倫理学の姿であったのだと納得できた。本書を読みながら、アーレントが、加えて言うなら同じくスミスの影響を受けたカントが、どのように人間と社会を考察していったのか、その思索の基礎の定跡といったものがスミス思想の解説によって見えてきたように思えた。
 本書著者堂目氏はそれを上手にかつわかりやすく表現しているが、私の理解としてはこうだ。アダム・スミスは、人間存在は、それぞれが利己的な要求に駆られつつも、共感(同情)という心的特性を持ち、さらにその共感の抽象的、原理的、遠隔的、理想的な直感によって「公平な観察者」の存在を確信し理解し、そこから内面の倫理基準として持つことで、同時に他者もそれを持つだろうという共感による予期と行動を持つ。そして、それらの、ある種経済学的な均衡の原理が、社会の倫理・道徳を支えていると捉えた。単純に言えば、世の中に出合う人々との経験から、みんなが持ち得る妥当で公平な善というものの観点で自己を律することができるゆえに、社会が成り立つのだという社会原理の提示である。
 この、人間の相互視点を全体として、ある種ゲーム理論のように捉える考え方にすでに、経済学的な社会観、つまり社会全体を利する富への志向を見るところに、国富論的な関連を見ることができるし、堂目氏は、「道徳感情論」に示されたスミスの人間観こそが、後に経済学の基礎となる経済人を構成しているとしている。
 そこには、現在関心の高まる行動経済学における、従来の経済学における経済人=エコノ、対、人間的な心情から過ちを冒す人間=ヒューマン、といった二元性を越えて、人間社会にとってあるべき経済学を再構築しようとするようにも見える。
 しかし、私はここで違和感も覚える。恥ずかしい話ではあるが、私は国富論を読んだことがない。それを言うなら道徳感情論もそうなのだが、それで済ませてきたのは、私の世代の知識人は青年期にこってりとマルクス経済学を叩き込まれ、その一部として、国富論とアダム・スミスは内包され、克服されたものと見なしていた。また私の時代におけるマル経の宿敵ケインズ経済学も、ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)を経由して抽象化されたスミス経済学によって、原典はすでに乗り越えたもの見られていたように思う。ゆえに、国富論は、古典派経済学(classical economics)の歴史学習を含めた、読みづらい入門としての古典といった意味合いしかなかった。
 本書に沿って、道徳感情論的な人間観を理解し、その上に構築されたと見ることで、国富論の本来の姿が明らかになるだろうか? 私は、率直に言って、ある種まとまりのなさとでも言うような印象を受けた。著者の国富論理解さらに道徳感情論理解が間違っているというのではない。
 道徳感情論の解説がそれほどにはうまく国富論の解説に接続していない印象も受けた。接合の説明がまずい、あるいは全体象が描かれていないということではない。僭越な言い方になるが、道徳感情論からスミスの人間観を取り出し、そこをベースに国富論を読み返すことで、現代人に示唆を与える、人間らしい人間観を含んだ経済学の構築という構想、それはそもそも無理なのではないだろうか。そう思えた。
 私のようにマル経から経済学を学んだ人間には、国富論において、スミスが、分業が交換の原因ではなく、逆に交換が分業の原因であり、なぜ人間は交換を行うかといえば、そのような交換を求める本性があるのだとする視点は、カール・ポランニの人類経済学を思わせる興味深い指摘でもあるが、こうした「それ以上は説明できないような本源的な原理」といった基礎による理論構築は、古典世界的な、超越的な倫理の措定であり、ここから人間らしさと社会の利益を構想しても、古典的な、緩和であれパターナリズムにしかならないのではないだろうか。
 また、国富論の経済学的な考察は、その標題「諸国民の富の性質と原因の研究」が暗示するように、スミスの時代の英国における重商主義という国策と、当時まさに独立せんとする植民地アメリカを介して英国がいかにあるべきかという国策に収斂するように見える。フランス革命の動向にも、英国の国益的な視点から所定の思索的な距離を設定していたように見える。
 それらの考察において、スミスがその後の米国の台頭を正確に見抜いていることは驚きもあるし、アーレントがフランス革命ではなく米国独立の思想を評価する差異とも呼応するし、そこには確かな先見性があった。しかし、別の言い方をすれば、スミス思想の今日的な価値は、国富論より道徳感情論の中に胚胎するのであって、国富論における従来の、レッセフェール的な理解の是正による示唆・再考は、それほど現代において重要性を持たないのではないだろうか。

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2009.07.16

ナッジの視点から見た改正臓器移植法

 改正臓器移植法が13日に成立し、これで日本人にとって死は脳死ということになったと言ってよいだろう。もちろん、死のとらえ方は個人の領域の問題でもあり、改正法によってもその人の生前意思として脳死は死ではないのだと言うに等しい余地は残されている。それでも私は違和感が残った。「脳死は人の死か」というこの難問の根幹についてではない。その問題についてなら、いささか奇妙な視点ともいえるが、「[書評]昏睡状態の人と対話する(アーノルド・ミンデル)」(参照)、「極東ブログ: [書評]記憶する心臓―ある心臓移植患者の手記(クレア・シルヴィア他)」(参照)、「極東ブログ: [書評]内臓が生みだす心(西原克成)」(参照)などともあわせて、自分なりの考察してきたし、今後も機会があれば進めたいと思っている。
 違和感は、衆院選挙に向けて拙速に決めてしまった政治屋や、本来こうした問題こそ政党に問われるべきことが党議拘束を外して政治の外に放り出した無責任な政治屋についてでもない。政治屋とはそんなものだ。そうではなく、社会的ナッジの視点から見た場合、改正臓器移植法はどうなのだろうかということだ。
 ナッジについては「[書評]実践 行動経済学 --- 健康、富、幸福への聡明な選択(リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン)」(参照)で触れた。同書では、臓器移植について社会はどのようにナッジを設計すべきかということについて丸一章分を当てている。「第11章 臓器提供者を増やす方法」という章題からも、臓器提供者を増やすための社会的ナッジの設計を論じているのがわかる。それを読みながら、むしろ日本の改正臓器移植法に私は違和感を覚えた。
 同書に触れられている米国での事実(ファクツ)からまず紹介したい。というのも、こうした点についての日本のファクツについて私は知らないでいるからだ。
 米国で臓器移植が成功したのは1954年、死者からの移植が実施されたのはその8年後。1988年以降、36万件以上の臓器が移植され、死者からの提供はその80%に及ぶ。臓器に対する需要は供給を大きく上回っており、2006年の待機者リストは米国で9万人。年率12%の増加を示している。臓器提供を受けないがゆえに死ぬ人も多い。
 同書ではこうした状況から臓器提供をさらに増やすための社会的ナッジを考察していくのだが、では日本に比べれば遙かに臓器移植の先進国に見える米国は、どのような問題を抱えているのだろうか。ファクツに戻る。
 米国では潜在的なドナー(提供者)の脳死患者は年1万2000人から1万5000人。ドナーはその半分(なお、ドナー1人から3つの臓器が摘出できる)。残り半分の臓器提供を米国において阻んでいるのは、「遺族からの同意を得る必要があること」とされている。米国では遺族の同意が得られにくいようだ。
 同書を読みながら私が疑問に思ったのは、では遺族の同意をはばんでいるのは何かということだ。宗教観だろうか。同書を読み進めると、ナッジ設計において議論されているのは、いかに多くの人に臓器提供の意思を明示化させるかということだった。どうやら米国では、脳死になった本人が臓器提供の意思を持っていたか不明の場合、デフォルトでは、本人意思がわからないゆえに他者はその意思を代行できないということのようだ。
 今回の日本の改正臓器移植法でも、米国と同様に脳死者の家族の承諾で臓器移植が提供できることになるので、米国と同じようになったとも見える。脳死となった本人が生前、臓器提供の意思を持たなければそれが尊重されれるという点でも米国と同じだ。なのに、米国で「本人意思がわからないゆえに他者はその意思を代行できない」ということが通例となっているのはなぜだろうか。
 同書のナッジ設計の議論を読むと、まず米国では脳死について連邦ではなく州法で扱うのだが、大半の州が「明示的同意ルール」を持つという。これは、「臓器提供者になるには、規定の手順に従って臓器を提供する意思を表明しなければならない」ということだ。日本の、以前のドナーカードの機能にも似ている。米国の場合、本人の「明示的同意ルール」がまず尊重され、それが不明の場合は、家族もその意思に介入しないことが多いということのようだ。くどいが、でなければ、「明示的同意ルール」が、悪しきナッジとして本書で議論されるわけはない。
 「明示的同意ルール」の次に、同書では「ルーチン的摘出ルール」を説明する。これは脳死の臓器移植について州が権利を持つというもので、実際にこれを採用している州はなく、端的に言えば論外としていいだろう。ただし、死者の網膜摘出についてはこの規定を持つ州があるそうだ。
 私が一番疑問に思ったのは、その次の「推定同意ルール」である。「推定同意方式ではすべての市民は臓器提供に同意しているものと見なされるが、臓器提供に対する不同意の意思表示をする機会が与えられ、その意思表示を簡単に行うことができる」というものだ。ナッジ的な言い方をすれば、臓器提供がデフォルトに設定されている。
 この「推定同意ルール」なのだが、それって日本で今回成立した改正臓器移植法とほぼ同じなのではないだろうか。同書によれば、米国ではほとんどの州が「明示的同意ルール」を持ち、「推定同意ルール」ではない。だから同書のナッジ設計が議論にもなるのだろう。
 「推定同意ルール」は珍しいのだろうか。そうではないようだ、欧州の場合は「推定同意ルール」が多いらしい。日本は欧州型のようだ。


アメリカでは、本人の明示的な同意を表明したドナーカードがない場合には、約半数の家族が臓器提供の要請を断っている。推定同意ルールを採用している国はドナーの希望を示した記録文書がないのがふつうだが、拒否率はずっと低い。

 日本の改正臓器移植法には、欧米諸国のようにデフォルトでドナーの希望文書なしで拒否率を減らすということがもくろまれているのだろう。というか、それが日本における脳死による臓器移植の社会的ナッジとして組み込まれたことになる。
 なぜ米国では「推定同意ルール」ではく「明示的同意ルール」なのか。あるいは、同書は欧州や日本のような「推定同意ルール」を社会的ナッジとして推奨しているのだろうか。それが違うのである。
 米国におけるこの問題の立法についてだが、「推定同意方式は移植に利用できる臓器の供給を増やすにはきわめて効果的な方法だが、政治的的には受け入れやすいとはいいがたい」として、社会的に忌避されているようだ。さらにこう指摘している。

推定同意方式の場合は、ドナーの「暗黙」の同意を家族が覆してしまうおそれがあるが、問題はそれだけではない。前述したように、この考え方は政治的に受け入れられにくい。このような微妙な問題となると、何かを「推定」するという考え方に大勢の人が異議を唱えるようになる。

 ここで私はさらに困惑する。私たち日本の市民は、そのような問題を提出されたことがあっただろうか? A案、B案、C案、D案として提出されたバリエーションはそのような問題を十分内包していただろうか(参照)。
 同書ではこうして欧州や日本型の「推定同意ルール」も臓器移植の社会的ナッジとしては採用せず、もう一つの方法として「命令的選択ルール」を推奨している。具体的には、自動車免許取得の際に、臓器提供の意思を強制的に明示化させるというものだ。「命令的選択ルール」は興味深い社会制度設計の議論だが、今となっては日本とは関係ないことになってしまった。

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2009.07.15

オバマ外交の手旗信号:青上げて赤上げないで青下げる

 「アホでマヌケ」と言われた米国ブッシュ元大統領の外交に比べて、オバマ大統領の外交は「賢い」と言われる。そのやり方はこうだ。人立たせ、「進め」の青い旗を右手に持たせ、「止まれ」の赤い旗を左手に持たせて、こう呼びかける、「はい、青上げて、赤上げぇ……ないで、青下げる」 ちゃんとわかったかな。
 とりあえず話の発端は、5日米国オバマ大統領を支えるバイデン副大統領によるABCニュースでの発言に世界がぶったまげた(参照)。話題はイスラエルによるイランの空爆だ。


BIDEN: Look, Israel can determine for itself -- it's a sovereign nation -- what's in their interest and what they decide to do relative to Iran and anyone else.
バイデン:いいですか、イスラエルというのは主権国家ゆえに自国で何事でも国益に沿って事を決することができるのです。それが対イランであろうがどこの国であってもですね。

STEPHANOPOULOS: Whether we agree or not?
ステファンプーロス:米国は合意しているのですか?

BIDEN: Whether we agree or not. They're entitled to do that. Any sovereign nation is entitled to do that. But there is no pressure from any nation that's going to alter our behavior as to how to proceed.
バイデン:米国が合意するしないの問題ではないのです。イスラエルはできるということです。主権国家というのはそういうものです。しかも米国の対処行動を変更するよう他国から圧力はありません。

What we believe is in the national interest of the United States, which we, coincidentally, believe is also in the interest of Israel and the whole world. And so there are separate issues.
米国には自国の国益があるように、イスラエルやその他の国にも国益があると確信しています。そして国益の内容は別の問題です。

If the Netanyahu government decides to take a course of action different than the one being pursued now, that is their sovereign right to do that. That is not our choice.
もしネタニヤフ首相率いるイスラエル政府が、現状求められている政策とは異なる手段に訴えるとしても、主権国家なのだからそれができます。それは米国の選択の問題ではありません。

STEPHANOPOULOS: You say we can't dictate, but we can, if we choose to, deny over-flight rights here in Iraq. We can stand in the way of a military strike.
ステファンプーロス:つまり、指図はできないとしても、米国が選択するなら、イスラエルによるイラク空域通過は認めないということですね。空爆経路に米国は関われる。


 微妙な会話なのだが、反響が話を明瞭にした。バイデン副大統領はイスラエルによるイラン空爆に「進め」の青旗を揚げたがオバマは否定したということだ。時事「「イラン攻撃容認」説を否定=イスラエルの自制求める-米大統領」(参照)などからわかる。

ロシア訪問中のオバマ米大統領は7日、CNNテレビのインタビューで、イラン核問題に絡んで米国がイスラエルによるイラン攻撃を容認したとの説について、「絶対にそんなことはない」と明確に否定した。
 米国では、バイデン副大統領が5日のテレビ番組で「イスラエルは主権国家であり、イランやその他の国への対処を自ら決定できる」と発言したため、イラン攻撃に「青信号」を出したとの解釈が一部で広がっていた。

 当のCNN報道はニュアンスが違う。CNN「イスラエルによるイラン攻撃の容認ないと、オバマ大統領」(参照)より。

大統領の今回の発言は、バイデン米副大統領が5日、米ABCテレビとの会見で、「イスラエルは主権国家であり、イラン問題を含め自ら決定したことを遂行出来る」とイスラエルのイラン核施設への空爆も許されると受け止められる言動を受けたもの。オバマ氏は副大統領の発言について「あくまでも事実に言及したものであり、シグナルを送ったわけではない」と擁護した。

 つまり、バイデン副大統領が上げた青旗について、ボスのオバマ大統領はイスラエルによる空爆はダメだとの「止まれ」の赤旗は上げていない。下げろとも言ってないようにも見える。結局どうなの?
 報道の流れを見ていると、バイデン副大統領がフライングして、尻ぬぐいをオバマ大統領がしているようにも見えるが、ABCニュースのインタビューにもあるが、イスラエルのネタニヤフ首相は米国からの認可を得ている公言しているわけで、外交的には、オバマはイスラエルよるイラン空爆を認可していると見てもよさそうだ。
 そのあたりの苛立ちはニューヨークタイムズ「10 Weeks」(参照)からも感じられる。

President Obama told CNN that Washington has not given Israel a “green light” to attack. He needs to make sure the Israelis believe him

オバマ大統領はCNNで米国政府がイスラエルに空爆許可の青信号を与えていないと述べた。彼は、イスラエルの人々の信頼を勝ち得ているか確認する必要がある。


 つまり、オバマがその確認作業を対イスラエル政府で行うかどうかが、オバマの実質的な外交の内容を示すだろうということで、その後の流れからすると、その確認作業はないようなので、とすれば9月下旬にはイスラエルによるイラン空爆はオンスケジュールと国際的に見られる余地は残る。
 他方言い出しっぺのサルコジ大統領は真っ青になって、米国を牽制している。時事「イスラエルがイランを攻撃すれば大惨事に=仏大統領」(参照

フランスのサルコジ大統領(写真)は9日、訪問先のイタリア中部ラクイラで、イランの核開発の野心をくじくために、イスラエルが同国を攻撃すれば、大惨事となるのは確実だと警告した。

 ところで9月下旬というスケジュールでことが進むとすると日本はどうなるか。現状の趨勢からすると、民主党鳩山内閣の最初の外交の大仕事になる可能性がある。
 先のニューヨークタイムズでは、「10週後は遠い先のことではない。その間も、イランの核開発は進展する(Ten weeks is not a lot of time. And Iran’s program is moving ahead.)」としているが、国際原子力機関(IAEA)の、期待の天野之弥次期事務局長は、実績あるエルバラダイ現事務局長とは正反対に、イランが核兵器開発能力の取得を目指していることを示す確固たる証拠はみられないとの見解を示している(参照)。鳩山内閣としては、IAEAの見解に沿ってイスラエルや米国に軍事行動は慎むよう、友愛の兜を掲げての奮迅が期待される。

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2009.07.14

2009年8月30日衆院選挙に向けて

 政治の歯車がそれなりに一コマ進んだと言えるのだろうか。とりあえずブログに記しておこう。麻生首相は昨日、衆院を解散することに決め、連立自公幹部の同意を得た。解散は今月21日の週になり、選挙は8月18日公示、8月30日投票の日程で行われることになる。
 麻生総理としては都議選直後の解散を意図していたようでもあったが、自民党内には、都議選惨敗の趨勢の、現状ままで衆院選挙に突入すれば必敗し自民党瓦解も免れないとの思惑もあり、解散阻止包囲網が敷かれる懸念もあったようだ。しかし解散時期はすでに誤差の範囲である。どう転んでも自民党は歴史だ(LDP is history)。ダメもとじゃんの明るい認識と首相としての最後の意志を示すために、この機に解散をしたいということだろう。
 時期設定のためにいろいろと爆笑コントを仕組んでくれた自民党古賀誠選挙対策委員長も笑劇の幕引きとともに辞任するらしい。そういえば都議選開票時に自民都連元会長石原伸晃はお笑いを理解せずに怒りまくっていたが、高度なお笑いはなかなか通じないことがある。
 麻生首相の決断だが、与党の他、野党も応援として、衆院にツンデレ風内閣不信任決議案、参院にこれで国に帰れますの首相問責決議案を提出した。仲良きことは美しきかな。大連立でもよろしく。
 麻生首相に残す期待は、最終日にお家の伝統芸バカヤローの一喝による国民の覚醒だが、国民は「もうどうにでもな~れ」の壮大なガラポンをやる気でいる。官僚は「知らんがな」を決め込んだ(だって民主党政権は続かないでしょのココロ)。

 独自のユーモアをベースとする日本文化としての政局は、海外には理解しづらい。せっかく民主党がどさくさまぎれに不審船舶検査の貨物検査特別措置法案をうやむやに闇に葬ってくれた空気も読まずに、東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれてどーんと祝砲とかやってくれるかもしれない……いやさすがにそれはないか。英国紙フィナンシャルタイムズ「Japan is dared to defeat the LDP」(参照)は、英国流の他文化理解とユーモアセンスで事態を見守っていた。


Yet rather like an ageing overweight sumo wrestler, it is hard to see how the party can avoid being tripped up when the country goes to the polls on August 30.

年を食って太りすぎの力士よろしく、8月30日の衆院選挙で自民党が土俵に転げるさまを見ないですむわけにはいかない。


 自民党は不様に転ぶだろう。日本人の現下の、シェークスピア悲劇のような絶望的な状況もよく理解している。

Yet Japanese voters do not have a scintillating choice of alternatives. The DPJ has just been through its own leadership crisis, with the resignation of the veteran political heavyweight Ichiro Ozawa after a fund-raising scandal. His successor, Yukio Hatoyama, is worthy and uncharismatic. Like Mr Aso, he comes from a long political dynasty, so he does not offer much change for those fed up with the political establishment.

日本の有権者にはまともな選択肢がない。民主党は、老獪な政治家である小沢一郎が資金問題で失脚するという指導者危機を経たばかりだ。その後継の鳩山由紀夫は、取り澄ましていてカリスマ的な魅力がない。麻生氏と同じく、政治家一族の出自である。政治の既得権体制にうんざりしている人々に変化を示すことはない。

Nor has the DPJ spelt out a clear economic platform to deal with the consequences of the global crisis. It is ideologically to the left of the LDP, stressing welfare and social justice. But its real attraction is just in being an alternative. That may be good enough this time.

しかも民主党には国際的な金融危機にどう対処するか明確な経済政策を示していない。同党のイデオロギーは左派なので、福祉や正義を強調するが、国民の人気を得ているのは単に、自民党の代用品というだけのことだ。今回は、そんなところやろ、ぼちぼちでんな。


 かつての同盟国であるジョンブルらしい提言もある。

But Mr Hatoyama has yet to spell out a clear agenda: not just on the economy, but on future relations with the US and, just as important, with China. He needs to show he is serious about power.

鳩山氏が政策として明確にしなくてはならないのは、経済政策だけではない、日米関係と、同じく重要な日中関係の未来をどうするのかということだ。鳩山氏には、国家間の力学に本気で取り組んでいる姿勢を示す必要がある。


 鳩山氏に仮託されているが、文脈からすれば、民主党がもう一度ガラポンした後に立つ指導者が見据えるべき現実を示していると言えるだろう。
 というか、それを見据える東洋の鉄の女の記事をフィナンシャルタイムズは来年の夏頃書くだろうか。

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2009.07.13

2009年東京都都議選、雑感

 後出しじゃんけんのようになるが今回の都議選の結果は概ね想定の範囲だった。率直に言うと、実質的な争点もなく、それほど重要な選挙でもないようには思えて、あまり関心はなかった。が、都民の一人として一票の意味が重い選挙でもあり、昨日は早々に投票した。
 事前の関心事は、しいて言えば、自公で過半数が取れないという事態になるか、だった。微妙に僅差で取れないというあたりか、と見ていた。蓋を開けたところ、自公が61、野党が66なので、自分が思ったよりやや野党の伸びが目立った。
 概ね想定の範囲と言いながら、ここの読みは違ったかなというのは二点あった。一つは公明党の全勝だった。この手の選挙に強いというのは知っているが今回はガチな強さを見せつけられた形になって唸った。逆に言えば、自民はそれだけガチにはなれない弱さもあったということだが、では民主党がガチに進めていたかというとそれほどでもないだろう。自民が10席減らし、民主が20席増やしたのは、時代の空気の影響も大きいだろう。実際一都民としてみると、自公と民主の候補に政策的な差はほとんど感じられなかった。
 自民減10席が民主に移ったのかというと、民主はこれに上乗せの10席があり、共産など小勢力から奪った形になっている。共産党の言う「たしかな野党」は議論の外に出された感もあるが、この勢力が東京オリンピック反対など、むしろ争点を担っていた。自民党大敗と言われているが、民主の勝利分の半分の要因にすぎないので、それほどでもないという印象が強い。
 争点は明確ではなかった。少なくとも投票者の立場からすると、自公と民主の差は見つけづらい。しいて言えば、新銀行東京存続、築地移転見直し、オリンピック開催という三点になるのだろう。新銀行への追加融資400億円について民主は反対していたので、ここは石原都政としては方向転換が求められるだろう。が、この問題、方向を変えれば好転するということもない。実際のところ、どの選択でもあまりよい未来はなく、その意味では都民生活の展望に関わることとは言い難い。
 新銀行東京存続で自公がごり押しのように見えたのは、「融資先企業をつぶせない」というご事情があったからで、つまりその融資先が自公の利益地盤になっている。今回の選挙で自民が「大敗」したかに見えるが、この利益地盤の必死さの最低ラインは防衛されているようにも見えるし、民主党もその利益地盤に無関係ともいえず、ごりっと押すこともできないだろう。その意味でも、それなりに緩和な顛末になるだろう。
 築地移転見直しも民主は推進しているが、有害化学物質対策がイコール移転という強い政策を推すわけにもいかないだろう。オリンピック開催については、OICからダメが出てほっとするのではないだろうか。そう考えると都政の変化は乏しいし、自公都政への否定と捉える向きもあるが、石原都政にあまり変化はないのではないか。
 今回の都議会の勢力配置変化が政策決定の際にどう現れるか。あまり変化が想定できない。野党が優勢とはいえ、民主に対抗しているのも野党内の勢力なので野党協調ということは難しいだろう。国政の場合は社民・国民新が民主に取り込まれた形になっているが都政にはこれらは存在しない。とすると、実質都政は、自公に民主の大連立という形にならざるを得ない。そのあたりでいろいろ個別の利害で落とし所が決まるという、やはり緩和な行政となるだろう。
 投票率がアップしたとのことだが、個人的には若い人の層がどのくらいアップしたかが気になる。どこかに統計が出ているだろうか。私の印象では、普通の国家に相当する行政体である東京都の市民における本質的な利害の対立は、自営業的な自公支持、対、老後安定を願う郊外市民的な民主支持、ではないかと思う。世代間闘争のようなものが表面化し投票に反映したなら、若い人はどっちも嫌だということになり、ここまで民主党は伸びなかったのではないか。つまり、小党の票を奪った民主の伸びからは、若者の政治離れというか、じんわりまったりした挫折感が広がっているように感じられた。
 大手紙を含めマスメディアは、今回の結果で衆院選を占い、また総選挙時期の前倒しが叫ばれているようだ。都議選と国政選挙は関係ないかというと、県知事選のように一人を選ぶのではなく、多数を選ぶという点で党の指導性が問われるという点から、それなりの影響はあるだろう。党の指導性という点からしても、端的に言って、衆院選挙では自民党は大敗するだろう。
 衆院選挙のほうでは都議選より小選挙区制の部分があり、まさにこの時期に読まれるべき「バカヤロー経済学」(参照)の先生が指摘しているデュヴェルジェの法則が強く働き、二大政党化が進む。それゆえに小政党にキャスティング・ヴォートが握られることを予見して社民・国民新がすでに民主に巻き込まれているが、実際に政権を担えば、個別案件で民主党政権では合意は出せない。朝日新聞社説は「都議選終えて - 混沌の出口はただ一つ」(参照)と主張しているが、「出口」ではなく「入口」となるだろう。

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2009.07.10

[書評]実践 行動経済学 --- 健康、富、幸福への聡明な選択(リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン)

 台湾では昔から似たような仕組みがあったように思うが、日本で横断歩道の信号表示に残量タイマー表示が追加されたのは二年くらい前からだろうか。例えば、横断可能な青の状態の時間はあとどのくらいでなくなるか。青の縦バーが刻々と短くなっていくことで表示する。赤の状態でも同じなので青に変わるまでの時間がわかる。
 横断歩道の信号に残量表示が付加されることで何かメリットがあるのか。普通に想像してもあると言える。横断中に青の残量が減ってきたら少し小走りで横断したり、横断歩道に着く手前で残量が僅かなら次の青を待つ。以前人々がよくしたように直交する側の道路の信号が黄色になると横断歩道に飛び出すという行為が抑制される。こうした人々の行動を変化させ、交通事故が減らすメリットがある。信号の仕組みに手を加えることで、社会全体、また各人に利益がある方向で人々の行動を変えることになる。

cover
実践 行動経済学
健康、富、幸福への
聡明な選択
 このような、人々を強制させることなく望ましい行動に誘導するようなシグナル、または仕組みのことを、本書「実践 行動経済学 健康、富、幸福への聡明な選択(リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン)」(参照)ではナッジ(nudge)と呼んでいる。
 本書のオリジナルタイトルが「Nudge: Improving Decisions About Health, Wealth and Happiness」(参照)とナッジを強調しているのはそのためだ。なお、ナッジ(nudge)の原義は、二人の人が並び立つとき、言葉なく肘でちょんちょんと合図を送る動作を意味している。ちょんちょんと肘でついて「ほら、そこで笑っちゃだめでしょ」「背筋を伸ばしなさい」といったその場に適合した空気を伝える。欧米ではたぶんモンティ・パイソンの「Nudge Nudge」のギャグ(参照)もユーモラスに想起されているだろう。
 ナッジを人々に与えることで、人々は強制されることもなく、うるさい啓蒙を受け入れることなく、本人が結果的に利益となる選択が楽に可能になる。そうしたナッジの仕組みをどのように考えたよいか、というのが本書のテーマであり、「第2部 個人における貯蓄、投資、借金」および「第3部 社会における医療、環境、婚姻制度」では、年金、投資、健康、環境問題、結婚といった社会問題にどうナッジを設計するかを具体的に議論している。具体例は米国の制度に依拠しているので、日本の制度・慣例にはそぐわない点もあるが、原則的な部分では参考になる示唆に富んでおり、よりよい日本社会を構想したい人々や、政治家のように社会政策をプランニングを志向する人に、本書は必読書と言っていいだろう。
 米国での本書の受け止め方を見ていると、民主党の新しい政策原理という印象もある。この政策原理を本書では、通常相反する政治思想と見られる、リバタリアニズム(個々人の自由を最大限尊重する自由至上主義)とパターナリズム(強者が弱者の利益を図るため弱者の意志を抑制して行動に介入・干渉する父権主義)を結合した「リバタリアン・パターナリズム」として提唱している。個々人の選択の自由を棄損することなく、可能な最大限の利益を誘導するような制度設計を政治思想課題とするという含みがある。
 にもかかわらず、邦訳書のタイトルがあえて「実践 行動経済学」となっているのは、「第1部 ヒューマンの世界とエコノの世界」を読めば理解できるだろう。人間的な錯誤を冒しやすい「ヒューマン」と、経済学的な合理性に基づいて行動する「エコノ」といった「行動経済学」の用語が利用されていることもだが、そもそもナッジを必要とし、「リバタリアン・パターナリズム」の社会が構想されるのは、社会がエコノによるのではなく、感情を元に経済活動をしてしまうヒューマンの行動経済学的な問題が基底にあるからだ。
 邦訳書が「実践」編とされているのは、日本でも話題になったマッテオ・モッテルリーニ著「経済は感情で動く --- はじめての行動経済学」(参照)及び「世界は感情で動く (行動経済学からみる脳のトラップ)」(参照)、さらに、本書の著者の一人セイラー氏による「セイラー教授の行動経済学入門」(参照)といった、行動経済学の一般的入門書の次の段階の社会的「実践」編とした位置づもあるからだろう。これらの著作の読者であれば、「実践 行動経済学」の「第1部 ヒューマンの世界とエコノの世界」は復習編といった印象を持つだろう。
 本書は一般向けの書籍でありながら、IT化が進む現代の新しい社会思想として米国ではすでに刺激的な議論を巻き起こしているようだ。人々を強制しない「リバタリアン・パターナリズム」といっても、結局は特定の価値判断を誘導するパターナリズムではないかといった批判もすぐに思いつく。想定される異論への反論は「第1部 ヒューマンの世界とエコノの世界」にも織り込まれているが、「第4部 ナッジの拡張と想定される異論」でまとめられていて興味深い。
 議論が活発化する背後には、「[書評]サブリミナル・インパクト 情動と潜在認知の現代(下條信輔)」(参照)で扱った、社会における人々の潜在意識の操作はどうあるべきかという深刻な課題がある。同エントリ対象書の著者下條氏は対応の可能性として「賢いマクドの客」を提示していた。ナッジ的なものが悪しきパターナリズムに転換する懸念に、再び人間の選択をどう回復するかを問い掛けたわけである。だが本書「実践 行動経済学」では逆に、人間の自由意志による選択という本質的な問題より、専門知識を要する社会に対して、より実践的に有益な選択を多数の人々に容易にすることを優先している。
 邦訳書ではオリジナルのサブタイトル「Improving Decisions About Health, Wealth and Happiness(健康、富、幸福への決断が向上)」を活かして「健康、富、幸福への聡明な選択」としたが、実際本書を読む読者は、その聡明な選択を可能にするナッジの知識を多く得ることになる。老婆心的な言い方をすれば、「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」とばかりの日本社会という門をくぐろうとしている若い人、また、くぐったものの門の前に戸惑う30代の人にとって知恵の導き手となるだろう。
 本書を読みながら、私はもやは集合愚(衆愚)となってしまったかに見えるブログの世界やその提供システムの設計についても嘆息しつつ思いを巡らした。著者が提起する電子メールのナッジ構想が、冗談というには悲しいほど示唆的だ。

現代世界は礼節に欠ける。毎日、毎時間、人々は怒りの電子メールを送りつけ、ほとんど知らない人(さらに悪いことには、友人や愛する人)をののしっては、すぐに後悔する。「かっとなって怒りの電子メールを送らない」。こんな単純なルールを学んでいる人もいないわけではない。


 われわれは「シビリティ・チェック」を提案する。シビリティ・チェックは、いままさに送ろうとしている電子メールが怒りに満ちたものであるかどうか的確に判断して、こう警告する。「警告 --- これは礼節に欠ける電子メールのようです。このメールをどうしても送りたいですか?」

 悲しい示唆ではなくやはり冗談だと受け止めたいが、そこで思い迷う。
 著者は、ナッジを基本的に現存制度の選択を抑制しない付加的なものだと見なしているが、同時にいかなる制度で結果的なナッジが含まれているとも考えている。ナッジを免れないシステムも制度もない。システムや制度の運用が社会的な害をもたらしているなら、まずいナッジがすでに組み込まれていると言ってもよいかもしれない。
 私が思いつく、卑近な、まずいナッジを持つITシステムの例としてはオンラインショッピングの「楽天」がある。購入を決めた最後のページで、ショップからの電子メールが不要なら4つほどチェックを外さなくてはならない。チェックを忘れたり、マウスクリックのコントロールがぶれてチェック外しに失敗したりしたら最後、翌日から迷惑メールのような広告メールが山のように届く。このITシステムのあるべき正しいナッジは、広告メールが欲しい人はチェックするが、デフォルトはチェックなし、である。逆に言えば、楽天は、利益誘導のために間違ったナッジを組み込んでしまった。
 著者たちは、感情に駆られ怒りをぶちまける電子メールを例にしているが、同じ状況はブログやそのコメントなどについても言えるだろう。ナッジの設計を考慮しなければ、自然にそれは悪しきナッジとなり、衆愚のITコミュニティを形成してしまう。Web2.0と呼ばれるITシステムに期待されていた集合知は、以前なら、人々の愚かな行動による失敗経験が累積されることにも援助され、自然によりよい知識形成に至ると曖昧に思われていた。しかし、そうはならなかったように見える現在、すでに組み込まれている、まずいナッジの設計をやり直さなくてはならないかもしれない。

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2009.07.09

その後のグアンタナモ収容所

 その後のグアンタナモ収容所について、自分のわかる範囲だが、気になるところだけまとめておきたい。
 まずウイグル暴動に多少関連しているのだが、1月のエントリ「極東ブログ: グアンタナモ収容所のウイグル人」(参照)の後日譚。6月11日、グアンタナモ収容所に収容されていたウイグル人17人は、太平洋戦争で日本とも関わりの深い西太平洋の島国、パラオに身柄移送されることになった。
 先のエントリでも触れたが、彼らは新疆ウイグル自治区を逃れアフガニスタンに潜行中、米軍の対テロ作戦で拘束され、米国防総省は敵対的戦闘人員ではないと認定したものの、2002年にグアンタナモ収容所に送られた。アフガニスタンのテロリストと呼ばれる人々には、地理上の理由もあってかウイグル人も含まれているという意味合いもある。同種のウイグル人はパキスタンにもおり、パキスタン政府に捕獲された彼らは、友好国でもある中国に送還された。
 米国連邦地裁は2008年10月に、この17人は米国内に釈放するように当時のブッシュ政権に命じ、また中国側も自国民だとして送還を求めていたが、ブッシュ政権としては米国内に釈放もできずまた、拷問が予想される中国送還もできないでいた。
 オバマ政権下で、彼らは、台湾とは国交があるものの中国とは断交しているパラオに送られ、この際、事実上の押し付け代償金として米国は2億ドルの援助供与を行った(参照)。こうした措置にはカネがかかるというのが、この問題を理解する上で重要になるので留意されたい。
 さてグアンタナモ収容所の話題だが、オバマ大統領はブッシュ政権の汚点として閉鎖を決定し、アムネスティも「オバマ大統領の就任100日間をチェックしよう!」(参照)で「アムネスティをはじめとする人権団体、被収容者の弁護士、ジャーナリスト、そして世界中の市民による圧力の勝利です」と高らかに勝利宣言をしていた。
 が、実際の閉鎖、さらに軍事委員会での裁判の停止、CIA拘禁施設の全面閉鎖、尋問中の拷問の禁止は、署名をした2009年1月22日から1年以内ということで、まだその「勝利」の日が来ているわけではない。ブッシュ政権を「チェンジ」すると公約したオバマ大統領は、どう具体的にチェンジしたかというと、現状ではよくわからない。展望も見えない状態のようだ。同収容所には現在250人ほどが収容され、米国防総省はパラオ移送されたウイグル人17人のように、うち60人ほどは同種の対応が可能と見ているが、いずれ200人近い収容者はどうなるのだろうか?
 米国内か同盟国に移送するというのが論理的な帰結のようであるし、オバマ大統領もそう想定したのではないかと思われるが、受け入れ側にもご都合というものがあり、他国からの無償の申し出はなく、米国の各州も受け入れに反対をしはじめ、まずは実施に伴う予算が上院で封じられた。5日のワシントンポスト「Hypocrisy on the Hill」(参照)では、ビートルズの歌を連想させる暢気な標題のなかで厳しい現実を示している。


As a result of the vote, the president is prohibited from using taxpayer funds to order the release of any detainee into the United States, including those cleared by the Bush administration and the federal courts; he is likewise forbidden to bring any Guantanamo prisoners to the United States for preventive detention.

上院投票の結果、オバマ大統領は、納税者からのカネを使って、グアンタナモ収容所拘留者を自国に釈放することが禁じられた。これには、前ブッシュ政権と連邦裁判所が釈放してよいとした人も含まれる。また、予防拘禁のためにグアンタナモ収容所拘留者を自国に連れてくることも禁じられた。

The president must give lawmakers a 45-day heads up before ordering any detainee prosecuted in a U.S. court proceeding and he must give Congress 15 days' notice of his decision to send a detainee to another country.

また大統領は、国会議員に対して、グアンタナモ収容所拘留者が米国法廷で起訴される45日前の事前通知と、他国移送の場合は15煮前の事前通知が必要になる。


 上院の投票ですべて決したことになるというものでないだろうが、ここまでの達成を見ると、事実上、グアンタナモ収容所の実態にはなんら「チェンジ」はできそうにもない。実際、ワシントンポストもそう見なしている。

Now lawmakers are making it nearly impossible for President Obama to close the notorious prison by year's end, as he promised to do.

かくして国会議員は、オバマ大統領が悪名高いグアンタナモ収容所を公約どおり年内中に閉鎖させることをほぼ不可能にした。


 オバマ大統領はグアンタナモ収容所閉鎖を公約にしたが、議会がダメにしたんだ、オバマ大統領は悪くないんだと、言えるかどうか、私にはよくわからない。ちなみに、議会はオバマ大統領の民主党が多数を占めており、ゆえにワシントンポストは「偽善者」と呼んだようだ。
 クセのあることで定評のある同紙のコラムニスト、チャールズ・クロートハマーは「Obama Adopts the Bush Approach to the War on Terrorism」(参照)で今回の顛末をメソッド化した。

Of course, Obama will never admit in word what he's doing in deed. As in his rhetorically brilliant national-security speech yesterday claiming to have undone Bush's moral travesties, the military commissions flip-flop is accompanied by the usual Obama three-step: (a) excoriate the Bush policy, (b) ostentatiously unveil cosmetic changes, (c) adopt the Bush policy.

もちろんオバマ氏は自分がやっていることを決してクチでは認めない。昨日の弁舌冴え渡る国家安全論でも、ブッシュの道義的な茶番を解消したと主張しつつ、軍事委員会の方針転換は毎度のオバマ式3段階でなされた、(1)ブッシュ政権の政策を罵倒し、(2)仰々しくお化粧をチェンジし、(3)ブッシュ政権の政策を採用する。


 たしかに結果からはそう見えてもしかたがない事態になったと言えるかもしれないし、この3段階メソッドはグアンタナモ収容所問題だけではないという指摘も聞かれるようになった。米国大統領のお仕事が始まるのである。
 具体的にグアンタナモ収容所問題にオバマ大統領はどう対応するのだろうか。ニューズウィーク「Friendly Fire at the White House」(参照)では対策に追われた会議の内幕をこう伝えている。

It was at that point, toward the end of the meeting, that one attendee raised the idea of criminal prosecution of at least one Bush-era official, if only as a symbolic gesture. Obama dismissed the idea, several of those in attendance said, making it clear that he had no interest in such an investigation. Holder - whose department is supposed to make the call on criminal prosecutions - reportedly said nothing.

会議の終わりに出席者が、見せしめのポーズとして、ブッシュ時代の高官の一人を追訴したらどうかと提案した。オバマ大統領は、そんな追求には関心ないことを明示するために、提案を却下したと出席者は伝えている。追訴を行うなら担当することになるホルダー司法長官も沈黙していたそうだ。


 日本なら見せしめでも尻尾切りでもなんでやってしまいそうな行政のトップがいるが、さすがは高潔なオバマ大統領だいうところなのだろう。ただ、先のワシントンポスト社説では、この事態を出し抜くために、大統領令で収容所の看板を差し替えるといった奇手を繰り出してくる懸念も表明していた。
 グアンタナモ収容所問題は日本に関係ないと見なされているのか、あるいはオバマ大統領の公約について日本で報道された後は、その通り閉鎖されてしまったと思われているのか、その後の経緯はなかなか日本では報道されないが、アムネスティの勝利が確実になるように、今後の動向を見続けていたい。

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2009.07.08

ウイグル暴動、雑感

 5日午後、中国北西部、新疆ウイグル自治区区都ウルムチで数千人規模の暴動が発生し、報道によれば、156人が死亡し、1080人が負傷した。車両も多く炎上され、破壊建築の面積は5万6000平方メートルに及んだ(参照)。中国当局による逮捕者は1434人(参照)だが、大半はウイグル人であろう。
 事件の背景はウイグル族といわゆる漢族の対立がある。元来新疆ウイグル自治区は隣接旧ソ連CIS(独立国家共同体)のように独立志向が高い。歴史的な経緯については、以前「極東ブログ: [書評]「多民族国家 中国」(王柯)」(参照)で少し触れた。関心のあるかたは同書などを参考にされるとよいだろう。
 「新疆ウイグル自治区」が策定された共産党中国設立時には、同地域にいわゆる漢族は7%だったが現在は40%に及び、植民地支配に近い印象を与える。アムネスティなどからも、この地ではウイグル族に対して就職や教育の差別があると指摘されている。
 今回の暴動の直接的な引き金となったのは、自治区ヌル・ベクリ主席も指摘しているが、先月26日中国広東省韶関市の香港系玩具工場、旭日玩具廠における従業員のウイグル族と漢族の衝突だろう。同工場のウイグル族従業員2名が殺害され、118人(内ウイグル族79人)が負傷した(参照参照)。衝突の背景には、5月からウイグル族を多数従業員とした後、女性従業員の強姦事件が発生し、これをウイグル族の仕業と見なした噂から漢族の襲撃があったようだ(参照)。
 暴動のようすはユーチューブなどで公開された。「Uyghur Workers」をキーワードに検索するとヒットする(参照)。今回のウイグル暴動の重要点の一つは、この種の映像の伝搬がどれだけ暴動に影響を与えたかだ。大きな影響を与えたのではないかと見る指摘もある(参照)。
 中国政府は当初ウイグル暴動を「世界ウイグル会議」が扇動したと見ていた(参照)。毎日新聞記事「クローズアップ2009:7・5 血塗られたウルムチ--その時何が」(参照)では中国政府説をこうまとめている。


 中国国営新華社通信によると、5日午前1時6分、ある人物がネット上で同日午後7時にウルムチの人民広場での集会を呼びかける情報を流したと、中国当局の指揮センターが通報を受けた。公安当局は午前3時過ぎ、二道橋に警察を配置し、不測の事態への対応を開始した。自治区政府や新華社通信によると、5日午後5時ごろ、人民広場に200人余りの民衆が集まった。同6時40分ごろには、人民広場に若い男性を中心に大人数が集まっていた。警察が約70人を強制排除した。
 世界ウイグル会議は広場に集まったのはウイグル族の大学生ら数千人だったと説明。中国広東省韶関市にある玩具工場で6月26日に起きた漢族とウイグル族の労働者衝突事件に対する真相究明を求め、ウイグル族に対する偏見に抗議する平和的な集会で、暴徒ではないと主張している。
 だが、新華社通信によると、人民広場から二道橋に向かう道には大勢の人が流れ込み、興奮した民衆が路線バスの窓ガラスを割り、公安車両をひっくり返し破壊した。午後8時ごろには、人民広場のほか、解放路、バザールなどでも暴動に発展。民衆は車の窓ガラスを割り、警察車両を放火し通行人に暴行を加えた。殺害行為も起きた。このため公安当局と武装警察は民衆を拘束する一方、消火活動も行った。中国軍や武装警察など計2万人が出動。車両の放火や商店の破壊は続き、6日未明になって暴動は収束したという。

 同記事ではこの説への間接的な批判も掲載している。

 在外ウイグル人の現状に詳しい水谷尚子・中央大非常勤講師(現代中国史)も「世界ウイグル会議は経済的・組織的基盤が強くなく、大規模なデモを組織するのは不可能」と強調。「在外ウイグル組織の力を誇張することで弾圧の口実にしている」と中国政府の姿勢を批判している。

 CRIが伝える「新疆日報」の論説要旨では新華社の発想と異なり、直接な扇動を事実上否定しているように見える(参照)。

 この文章は、「5日に発生したウルムチ暴動の本質が民族と宗教との矛盾ではなかった。民族分裂分子・ラビア・カーディル率いる海外反政府勢力「世界ウイグル会議」が広東省韶関市内の玩具工場で発生した暴力事件を利用して、民族的恨みをあおり、ウルムチ暴動を起こした。

 ここでも要点は「広東省韶関市内の玩具工場で発生した暴力事件を利用して」の実態になる。ユーチューブなどが閲覧できる状態であったのだろうか。
 私の印象としては、今回の暴動にはそれほどの組織性はなく、どちらかといえば積年の反目が発火したように思える。また、ユーチューブの影響はそれほど大きくないのではないか(簡易に閲覧できないのではないか)。
 今回の暴動を中国側の対応という視点で見ると気になることは二点ある。一つは、ウルムチ市当局は外国メディアの取材を歓迎していた点だ。6日午後にはウルムチ市内ホテルにインターネットが利用できる「臨時プレスセンター」が設置され、外国メディア向けに当局撮影の映像提供や、封鎖地域への取材ツアーも実施された(参照参照)。昨年のチベット騒乱とはかなり異なる対応である。中国当局側の思惑はなんだろうか?
 少なくとも、現地の暴動の映像が当局側の不利益にはならないとの確信があったことは確かだろう。単純に想定するなら、ウイグル族の行動は非難されるべき暴動であり、当局は正当に鎮圧できるという自信はあっただろう。また、チベット騒乱時の国内外の中国人の反応のように、その映像を流してもウイグル族の行動を支援する活動はないという自信もあったに違いない。
 反面、情報統制自体の自信もあるだろう。中国に流れ混むインターネット情報、国際電話、海外報道は規制されている。暴動を報じたNHKの海外テレビ放送ニュース番組でも米国在住ウイグル人の映像で打ち切られた。また、現地報道が自由に行われているかに見えるのは、体のいい統制かもしれない。「世界ウイグル会議」は今回の暴動の死者を840人と見ている(参照)が、それを隠蔽する仕掛けかもしれない。
 気になったことのもう一点は、イタリア・ラクイラの主要国首脳会議およびポルトガル公式訪問を急遽キャンセルして帰国した胡錦濤中国国家主席の行動をどう捉えるかだ。暴動の初動が沈静化してからの帰国ということを考えると、当初胡氏は事態をそれほど重大なものだと見ていなかったか、あるいは中国側から胡氏に重大ではないと伝えられていたか、いずれにせよ、北京政府側では大きな問題だと認識していなかったことは想定される。このことは、先のプレス優遇にも整合的だ。
 しかしその後、胡氏は失態ともいえる帰国を断行した。想定されていなかった、胡氏による決断があったことは確かだろう。別の言い方をすれば北京政府に胡氏が欠かせない状況が発生していると見てよい。むしろ中国政権にありがちな悪化した事態を謀略に利用する事例であるかもしれない。このあたりは多分に陰謀論的な読みに踏み込まざるをえない。
 気になるのは同種のチベット騒乱である。すでに「極東ブログ: チベット暴動で気になること」(参照)で同種の謀略を私は想定したが、今回もポスト胡錦濤に一番近い存在として習近平氏がなんらかの関与をしているのではないだろうか。
 先ほどNHKの7時のニュースを見たのだが、中国政府は当初の「世界ウイグル会議」扇動説を事実上ひっこめ、ウイグル族といわゆる漢族の宥和の演出に乗り出している。暴動が沈静化したのでその事後処理に見えないこともないが、方針の変化であると見るなら、この変化は胡氏の帰国と関係しているはずであり、であれば、これまでの弾圧路線のグリップは習氏に拠るものであったかもしれない。もちろん、習近平対胡錦濤という対立ではなく、習氏に惨事の責務を負わせて失脚することで胡氏を失墜させるという、天安門事件のような構図があるのかもしれない。
 ウイグル暴動自体はそれほど組織性もないように見えるので、今後の手ひどい悪化もないだろうし、それはウイグル族の苦難の継続を意味する(類似の暴動は各所で発生するだろう)。しかし、北京政府側の波及は意外に大きいかもしれない。

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2009.07.07

カレーの難民

 英仏間ドーバー海峡に面した、「カレーの市民」像でも知られるフランスの港町カレーに、7月から国連難民高等弁務官(UNHCR)が、亡命希望の難民向けに英仏出入国管理交渉を援助するための常設施設を設置し(参照参照)、イギリスを中心として欧州で話題になっていた。難民問題に関心の薄い日本では報道を見かけないので、自分なりの視点から情報をまとめておきたい。


Aがカレー市の位置

 カレーの難民と言えば、2002年の同地のサンガット難民収容センターが思い出される。1999年以降、まずコソボ紛争によるコソボ難民が集まり、イラク、フセイン政権下の弾圧によるクルド人難民、さらにアフガニスタン、タリバン政権崩壊後のアフガニスタン人の難民が押し寄せた。アフリカや中国からの難民も集まり、当時は累計6万8千人に及んだとされる。サンガット難民収容センターは900人収容が限界と言われたが、カレー市民の二倍に相当する収容者2千人に及び、難民間の衝突やカレー市民との軋轢もあり、当時内相だった現サルコジ大統領が強行に及び、閉鎖された。が、以降、カレーの難民問題が解決したわけではなかった。
 現状カレーの野外に約1,600人の難民と移住者希望者がいる。問題を深刻化するのはその五分の一が子どもだということだ。難民の多くは通称ジャングルと呼ばれる海峡トンネルで劣悪な環境で暮らしていて、衛生状態が極度に悪化している。洗濯でカレー運河で溺死したエリトリア人の若者も現地で話題となった。食糧も十分ではなく、慈善に依存する他、カレー市へのゴミ漁りもある。
 懸念されるカレー市民の軋轢だが、暴動などの傾向はないものの、観光業への悪影響を懸念し、嫌悪感は広がっている。UNHCRの今回の措置はその事前の対応とも見られている。
 先月フランスは100人の難民をブルトーザーで追い払った。フランス当局が今回も強攻策に出る可能性を懸念する向きもある。しかし現状、組織的な強攻策には出ず、その場その場の警戒を強化すると見られている。2002年のサンガッテ難民収容所閉鎖が実質効果を上げていなかった教訓が生きているとも言える(参照)。
 カレーの難民の現状構成だが、「国境無き医師団」によれば、戦争、暴力、飢餓を逃れたアフガニスタン人、ソマリア人、パレスチナ人が多く、パキスタンとイランの政情不安も影響しているらしい。彼らがドーバー海峡を越えイギリス亡命を希望するのは、イギリスなら他国より容易に保護権が得やすいからだ。別の言い方をすれば、現在のフランスは難民からもその定住を嫌がられるほどの排他性を発揮していることがあるだろう。ムスリムからはライシテを名目に文化的な弾圧していると思われてる。
 その他の理由として、イギリスに先行移住した親戚を当てにしている人々も多いことがある。カレー難民の多くは元大英帝国下の文化の影響から英語に堪能な人が多く、そのこともイギリス希望に拍車をかけている。また、イラク人やアフガニスタン人難民には、英語が堪能な上に教養もある人がいて、そのことから自国ではイギリス軍に協力したと見なされ、イギリス協力者として受ける拷問や強姦を逃れている。
 難民の多くはイギリス渡航のために違法密航斡旋業者に多額のカネを払っていて、業者から脅迫され、不確かな情報も撒かれている。UNHCRの今回の措置の重要な側面として、公正な情報提供が掲げられているのは、その対応のためである。
 今後の見通しだが、問題の根本的な解決策はなく、恐らく現状が維持され、かつてのサンガット難民収容センターのような収容所が建設されそうだ。
 イギリスとフランス間での国家的な思惑や世論の動向も気になる。笑話のイギリス病・フランス病のように双方で問題をなすりつけている側面と、EUと国連で問題をなすり合っている側面がある。イギリス国内でも世論は割れている。
 そもそもなぜ難民がこの地に押し寄せるかというと、東欧や中近東が欧州と地続きだということがある。これにEU内での国境撤廃が支援し、列車やバスを乗り継げば、比較的安価にイギリスに面する海にまで到達する。であれば、欧州の境界を強固なものにしたり、難民はEU条約では最初の地で対応するのがスジだから、境界付近で難民対策せよという議論もある(参照)。
 こうした議論の混迷は、結局のところEUにおける難民問題の対策に根幹的な問題があるか、あるいは時代が難民排斥に変化したかためだ。後者の要因は大きいだろう。

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2009.07.05

NHKコメ食う人々、感想

 NHKプレミアム8で放送された5回シリーズ「コメ食う人々」を見た。コメがテーマではあるが、学術的な話はなく、番組の分類も「紀行」ということで、世界各地のコメ生産の現場から、中国、インド、フィリピン、イタリア、アメリカを選び、その文化・風土や、現地に暮らす人々を描いていた。コメは、当然世界のコメということになり、大半はインディカ種というか長米が多い。日本ではあまり知られていない長米の文化を知るという視点も番組の魅力だった。
 レポーターは毎回異なるものの、映像慣れした芸能人・タレントに、農業を学ぶ素人の若者を組み合わせ、若者は芸能人より先に一週間ほど現地滞在させて、農業の実習をさせた(アメリカ編は例外)。ややぎこちなくも若者らしい熱心さと純情でコメ農業に携わる姿を通して、微妙な現地の内情のようなものも明かされていた。
 「第1回 稲作 それはどこから」(参照)は、ごはんが大好きだと自称する俳優の山本太郎と、東京農大農学科3年田島直子さんが、いわゆるコメのルーツを求め探し、雲南絶景の棚田と少数民族を紹介した後、コメの祖先といわれる野生イネに会うために長江下流へと数千キロの自動車旅行をした。山本太郎は民放風の明るいノリとテンションを仕事上のウリしているせいか、私などにはうるさい印象があったが、現地での一週間ほどの旅で過程で、自然に稲作というものへの真摯さに影響されていくようすは好ましく思えた。田島さんは現地にさらに一週間ほど先行して農家にステイし、その家族によくなじんでいた。その交流のようすは心打たれるものがあった。テレビ的な狙いはうるるん滞在記に似ていた。コメのツールについては、科学的に間違っているというものでもないだろうが、話は単純に中国が提示するままの説を流していた。他、個別には共産党支配前後の雲南省棚田の歴史も興味深いものがあった。
 「第2回 渇きの大地に聖なる実りを」(参照)は、コメ作りという点でそれほど興味深い映像はなかったが、タミル人が暮らす南インドの内陸での牛を使う伝統的な農業に加え、現地のヒンドゥー教の祭祀や儀式、食文化、日本語のルーツという説もあるその言語の一端を興味深く伝えていた。レポーターは俳優の林隆三と東京農大の生沼晶子さんで、私は久しぶりに林隆三を見た。彼は子どもころ農村の環境に育ったとぼそぼそと語っていた。林の演出的な姿にリアリティがないとも思わないのだが、老いてなお若作りの色男特有の浮いた感じはあった。反対に生沼さんは、将来途上国支援をしたいという希望から若者らしい純真さで現地の文化に格闘し、現地の人に言われるままに牛糞をこね回していた。私もコルカタで牛糞少女をよく見かけたが、あれを手でこね回さないとわからない生活というものはあるだろう。番組後半は直径20メートルもの大きな井戸掘りが見せ場で、まるで古代の文化を見ているような面白さもあった。
 「第3回 絶景の棚田 絶品のコメ」(参照)は、ルソン島中央高地の壮大さで世界一とも言われ、フィリピンの紙幣にも描かれている世界遺産の「コルディエラの棚田群」が舞台。その地でコメ作りをする子だくさんの家庭を描いていた。雲南の棚田もそうであったが、絶景という感じが映像からでもよくわかる。私は以前バリ島で現地の人と低山を登ったことがあり、その過程で多くの棚田の絶景を見たことを思い出した。コルディエラのコメはインディカではないそうだ。フィリピンというのは、よくフィリピン通の人が語る話と、実際のレポートとは、どうも違っているというか、不思議なほどの多様性がある。フィリピンに限らずアジアというのはそういうものかもしれないが特にそういう印象を持つことが多い。
 レポーターは料理研究家のコウケンテツと東京農大農学科3年岩澤志生さんで、この回も出だし、コウの大阪コリアン風のハイテンションなノリで押して、ちょっとうるさいかなと思ったが、次第に現地の人との交流から、その世界に引き込まれていくようすが描かれ、アジア人的な人情の交流を感じさせるのが面白かった。また、岩澤さんが現地家族のお姉さんのように慕われている姿は微笑ましかった。ところで、私自身はこの番組を見るまでコウケンテツという人を知らないでいて、人に聞いてみたところ、ええ?知らないの?と唖然とされてしまった。書店に行ってみると、なるほど、ケンタロウと並んでたくさん料理本があった。ついでなので、別途コウケンテツの母が語るという番組もあったので見た。母子ともに苦労人だね。好感を持った。
 「第4回 リゾットの美味を極める」(参照)は、場所を欧州一のコメ生産国イタリアに移し、アルデンテの食感で人気の高いリゾット米「カルナローリ」の農園と、収穫後の製品製造から出荷を描いていた。レポーターは高見恭子で、私は久しぶりに彼女を見た。私より一学年下でもあり、予想通り老け込んでいたが、悪い印象はない。ついでに過去のことや彼女の父、高見順のことなども思った。高見は色川武大のように60歳前に死んだなと思い出し、調べてみると58歳であった。高見恭子が女性ということで、同行のレポーターは今回は山形県稲作農家4代目の皆川直之さんという男性になった。少し太めの若いお百姓さんという印象もあった。
 話の焦点は、有機栽培の「カルナローリ」栽培の独自性なのだが、世界各国から視察が集まるだけのことはあり、興味深い指摘が多かった。類似品の4倍価格というブランド化の工夫の裏方の作業というのは並大抵のことではない。驚いたことはいくつもあった。例えば、缶入り「カルナローリ」は、精米した後、胚芽部分を粉にして精米に付着させているとのことだ。なるほどこれでは研いだら味は抜けてしまう。番組の最後で、若い経営者が昨年の生産は例年の三分の一とかかなり低く、これが今年も続くと有機農法での経営ができなくなるとつぶやいていたのが印象的だった。
 「第5回 巨大農場のアメリカンドリーム」(参照)は、現地の大学研究と一体化し、最先端技術を駆使して、世界最高水準の効率でコメを生産するアメリカ巨大農場を訪ねる旅ということで、そんな工場みたいな稲作は面白くもないだろう、この回は見るまでもないかと思っていた。が、見て一番印象に残り、感動もした。場面は二つある。一つはアメリカ最大の穀物輸出港として描かれるニューオーリンズの街だ。マダカスカルに由来を持つコメ作りの話や、フランス領時代なども面白かった。一昨年の洪水の話はまったく触れてなく、映像にもそうした爪痕はなかった。もう一つはアメリカ最大の米作地帯アーカンソー州だった。アーカンソー州といえばクリントン元大統領の故郷でもあるが、その話も直接的にはなかった。具体的なコメ作りについては、アーカンソー州のインデカ米と、コシヒカリの二つがテーマになっていた。前者では、飛行機を使った肥料の空中散布や列車のような巨大な農機具といったいかにも大規模農業という光景に加え、度肝を抜かれたのは、ハイテクとレーザー制御による地形の高精度探査であった。一種のロボットともいえる高度計が、6センチほどの高さで区切る等高線をうねうねと地面に描いていく。なんだろうと思ったら、次にその曲線に沿って別の機械で土手のようなものを作り出す。結果、高度6センチ差とはいえ、棚田ができていくのである。そしてその棚田に水を流し、回収してまた流すということをやっていた。
 また農業は農業なのだが、経営面からは、製品管理から輸出まで行い、先物取引も巧妙に使いこなすしていくという点で、いわゆる農業のイメージとはかなり異なっていた。農園オーナーはかなりの名士のようであり、アフリカへ農業指導もするという志の高い方であった。奥さんが随分と若いのが気になったが。
 レポーターは俳優の照英というのだが、例によって私は知らない。番組で若い頃やり投の選手をしていたという写真が映り、また選手当時は夕食に飯を三合食ったという話もしていた。同行者は東京大学2年の杉本芽久実さんで、彼女は農業を学んではいない。そのためこの回ではホームステイで農業をするという話もなかった。彼女の専攻は農業経営らしく、その側面は現地の経営理解によく生かされていた。我ながら無知を恥じるのだが、穀物の先物取引というのは、農業経営において投機的な側面ではなく安定経営に必須ものなのだと言葉では理解していても、実際の理解は伴っていなかった。農業経営の内側から見て、先物取引の重要性に納得した。
 後半のコシヒカリ農家も興味深いものだった。なぜ日本に輸出しないのかと問われ、「価格を下げたら日本の農家がつらいでしょう。農民の思いは同じですよ」という話を語っていた。嘘がない人柄が感じられた。
 以上、シリーズとしては散漫な印象もあるが、コメ作りを通して見る世界各国の内側の農業という姿は大変に興味深いものだった。そこここで対照的に日本の稲作はどうなんだろうかと思うことも多かった。日本の農業には、「宝田豊 新マネー砲談」の「フォアグラ農業」(参照)で指摘される側面もあるだろう。いやそればかりじゃないという声も聞く。どうあれと言うのは難しいが、世界のコメ作りの現場で何が起きているのかというのを知るのは、大切なことだなと思わせる好番組ではあった。

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2009.07.04

「グリーンダム」搭載義務延期を巡って

 中国では今月から実施される予定だった、新規発売のパソコンにインターネット検閲ソフト「绿坝·花季护航(Green Dam Youth Escort)」、通称「グリーンダム」搭載を義務付ける措置を無期限延期した。中国および欧米ではけっこうな話題になっていたが、日本ではまったく無視というほどでもないが、日本風な萌え絵キャラクターと各種改変が注目されたくらいで、それほどの話題にはなっていなかったようだ。私としても、この検閲ソフト自体の性能はそれほど高度なものではなく、一時的な解除・回避もそれほど困難ではないだろうと高を括っていたが、問題は技術側面より、中国政府の情報検閲の政治的な動向にあり、この機に中国とインターネット情報を取り巻く困難な状況について少しまとめておきたい。


BBC報道では萌え絵が掲載された。

 グリーンダムはその名称に"Youth Escort"(若者の護衛)とあるように、表向きは先日米国で成立したタバコ管理法「家族喫煙予防およびたばこ管理法(Family Smoking Prevention and Tobacco Control Act)」に似て、家族や若者といった看板を掲げて道義的な指導を権力の正当化としている。グリーンダムは、わいせつ情報など有害サイトへのアクセスを遮断するのが名目だが、論点は「有害サイト」が何を意味するかということであり、結論から言えば、現中国の政治体制に問題となる情報の遮断である。
 具体的には、「法輪功」(Falun Gong)や「天安門事件」(六四事件)を検索しようとすると、有害情報扱いとなるようだ。大した技術ではないとは言いながら私も驚いたのだが、ユーチューブに掲載された実演「YouTube - 綠壩 - 花季護航 Green Dam」(参照)を見ると、香港サイトの検閲などの実例の後、最後のほうで、テキストエディターでも検閲機能が働いているようにも見える。ブラウザーからコピーバッファの検閲なのかもしれないが、もしかするとキーロガーというタイプの一種のスパイウェアのような機能を持っているのかもしれない。
 規制延期が決定されたのは施行予定前日であったことから、先日の日本の薬事法省令の例外のように直前まで政府内でもたついたとも言える。だが、そもそもの規制の発表自体が5月の工業和信息化部によるもので、夜襲的な規制を狙ったのかもしれないが、おそらくは単に拙速な話でもあったのだろう。
 というのも、工業和信息化部は3月の「全国人民代表大会」(全人代)を機に、従来の情報通信分野の主管庁信息産業部を、国防科学技術工業委員会、国務院情報化工作弁公室、国家煙草専売局、国家発展改革委員会を統合して設立されたものだが(参照)、経緯からみても軍関与が強まるとは予想されたものの、組織成立には中国でありがちな内部の権力闘争があったような印象を受ける。今回のどたばたもそうした、組織のご事情を反映したものではないだろうか。
 グリーンダム導入については、中国内の世論としてはそう否定的なものでもなかったようだが、パソコンを扱う業界からはコストや販売面でも否定的な声があがっていた。また、中国のネットユーザーの反発と実動の影響も相当にあったようだ。フィナンシャルタイムズ社説「Chinese bloggers hail Green Dam ‘victory’」(参照)はこうした声を好意的に伝えている。
 中国民主化には関心の薄い日本は例外として、米国や欧州連合(EU)では反対の声は強かった。ニューヨークタイムズ社説「China’s Computer Folly」(参照)では、中国政府への圧力を呼びかけていた。


International manufacturers probably could force the government to reverse the new rules by threatening not to sell their products. But they have no history of standing up to Beijing. We hope they are making a stronger case in private for a rollback than was apparent in the anemic public statement issued by a coalition of American trade associations.

国際展開の製造業者なら、製品販売停止で中国を脅すことで、中国政府の今回の規制を回避させることができるだろう。しかし、彼らは中国政府に歯向かう経験を持っていない。米国貿易協会による気弱な声明より、非公式であれ強い提訴に持ち込むことをニューヨークタイムズは望みたい。


 さらにワシントンポストは中国の検閲阻止にヤフーやグーグルも参戦しなければならないと、中国政府による撤回の前日の社説「China's Information Dam」(参照)で主張していた。

This time, the State Department and industry groups are pushing back against China's Green Dam censorship software. They must stand firm, and search engines should join them.

今回は国務省と産業グループは、中国のグリーンダム検閲ソフトに抵抗している。かれらは堅固に主張ししなければならないし、検索サービス会社もこの抵抗に加わるべきだ。


 意地の悪い見方をすれば、グリーンダムの問題は元来、工業和信息化部を超えた中国内部の権力闘争に関係していたのではないだろうか。北京側にひいき目な私としては、欧米を騒がせることで、中国内部の問題を国際常識の範囲に収束させたようにも見える。
 今回の問題の核心だが、欧米側から事あるごとに話題とされる法輪講や天安門事件より、インターネットによって中国内部に撒かれ、大きな賛同を得るに至った「零八憲章」(参照)のほうがより深刻だろう。
 零八憲章は、昨年12月10日付けで公開された、中国共産党独裁の終結、三権分立、民主化推進、人権状況改善などを求めた宣言文であり、中国知識人の多くが実名で賛同を示した歴史的な文書だ。ワシントンポスト社説「Virtual Groundswell」(参照)は「零八憲章」の広がりの基盤をインターネットに見ている。

CHINA'S CHARTER 08 models itself on the Charter 77 group in the former Czechoslovakia, an alliance of dissidents whose powerful advocacy for human rights triumphed in the former Soviet bloc. But China's Charter 08 has a tool that Vaclav Havel and his colleagues never imagined: the Internet. While Soviet-era dissidents had to depend on smudgy mimeographs and Western radio stations to get their message out, Charter 08 has been able to use Web sites, e-mails and text messages -- despite the massive firewall operation of Chinese authorities.

中国の「零八憲章」は旧チェコスロバキアの「77憲章」グループの宣言を手本にしている。チェコスロバキアの当時のグループは、人権提唱に力を持ち旧ソビエトブロックで勝利を得た反体制派の同盟であった。中国の「零八憲章」には、バツラフ・ハベル氏とその同僚が想像だにもできなかった道具がある。インターネットだ。ソビエト時代は、反対派はかすれたガリ版と西側ラジオ曲でメッセージ発したものだが、「零八憲章」はウェブや電子メール、メッセンジャーツールを使うことができる。中国当局による巨大なファイアウオールがあるにも関わらず、それは届くのだ。

Thanks to that technology, the new democracy movement has been able to amass a virtual crowd of supporters.

技術のおかげで、民主主義の新しい運動は仮想の支持群衆を集めることができる。



What that history shows is that the best response to a peaceful movement such as Charter 08 is dialogue. Rather than prosecuting Mr. Liu, the regime should free him and invite him to a discussion about the charter's 19 proposed steps for reform. A commitment to gradually implement political liberalization in partnership with a free citizens movement would make it far easier for the Chinese leadership to manage what is likely to be a year of crisis. Step One is easy: Stop trying to block Charter 08's dissemination on the Internet.

歴史は、「零八憲章」のような平和な運動への応答は、対話であることを教えている。劉暁波を起訴するよりも、体制は彼を自由にし、「零八憲章」が提唱する19段階の改革への議論に彼を招くことだ。自由な市民運動と協調し、政治的自由を段階的に実施するという関与は、この危機の一年に起こりそうな事態を管理するための中国政府のリーダーシップをより緩和なものにするだろう。最初の一歩は簡単なのだ。インターネットによる「零八憲章」の普及をブロックするのを止めることだ。


 グリーンダムの背景にある動きは、ワシントンポストが示すように、対外有害情報の遮断というより、中国内部で沸き起こる市民による「零八憲章」の普及に対する妨げだろう。その試みの達成は今回の事例から見ても、そうたやすいことではないようだ。
 なお、読売新聞記事「民主化求める08憲章の起草者逮捕…北京市公安局」(参照)などで報道されているが、劉暁波氏は6月23日国家政権転覆扇動容疑で逮捕された。

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2009.07.03

オバマの戦争

 疑問符は付くものの「オバマの戦争」(参照)とワシントンポストが呼ぶ戦争が始まった。

 米国オバマ大統領は、アフガニスタン南部ヘルマンド州に現地時間で2日、海兵隊4千人を投入し、アフガン治安部隊と数百人の英国軍とともに、旧支配勢力タリバン大規模掃討作戦「剣の一撃(Strike Of The Sword)」の火蓋を切った。米軍増派規模は2万1000人。米国海兵隊投入の作戦としては、日本人にも記憶に残る2004年のイラク、ファルージャ掃討作戦以来の戦闘規模となる。
 今回のオバマの戦争がブッシュの戦争に似ているのは、経緯から見るとわかりやすい。ブッシュ政権下ではアフガン投入米軍を9万人から13万人余に増派する計画があったが、オバマ政権は増派の点でブッシュの戦争をオバマの戦争として引き継いだ。拡大規模としてオバマ政権は今後、ブッシュの戦争におけるイラク投入軍と同規模の26万にまで増派したい意向だ。ただし、米国防総省はアフガン統治軍の創設に十分な期間と予算を求めているため、具体的な計画見通しは立っていない(参照)。戦費については「ブッシュの戦争」(参照)を著したボブ・ウッドワードも懸念を表明している(参照)。
 先行きの見通しなく戦争に突入したと言えるなら、この点でもオバマの戦争はブッシュの戦争によく似ていることになる。特に懸念されるのは、ブッシュの戦争と同様、撤退戦が考慮されていないことだ。ドナ・F・エドワーズ下院議員がオバマ大統領と同じく民主党に所属しながらも、戦費予算案に反対票を投じたのは象徴的だった(参照)。
 しかし反面、先の「オバマの戦争」と疑問符をつけたワシントンポストの論調は現実を踏まえてのものだろう。

President Obama's clashes with the liberal base of his party are the kind of sporting event that Washington loves. But what Mr. Obama is confronting is less his party and more a stubborn reality that many in his party are unwilling to accept: There are forces in the world that continue to wage war against the United States and its allies, whether or not the United States wants to acknowledge that war.

オバマ米国大統領が彼の政党である民主党のリベラルな基調とぶつかり会うことは、政府が好むスポーツ大会のようなものだ。しかし、オバマ氏は民主党と対立しているというより、より強固な現実と対立しているのであり、その現実は民主党が受け入れたいものではないかもしれない。つまり、世界には米国とその同盟国に戦争をけしかける続ける勢力があり、それは米国が戦争と認めるか認めないかということには関わりない。


 作戦開始がこの時期が選ばれたのは、8月に想定される大統領選を前にタリバン攻勢を弱体化したいこともあるが、今朝の朝日新聞社説「イラク米軍撤退―独り立ちへの試金石だ」(参照)がアフガニスタン戦を避けて言及したように、イラク都市部の駐留米軍が全面撤退に向けて郊外に移動し、イラク戦への米兵負担の軽減が予想されたからだ。
 「剣の一撃」作戦がヘルマンド州に狙いを定めたのは、同地がタリバン支配下のケシ栽培地でもあることもだが、膠着状態にあった英国軍の支援もある。作戦開始から間もないが、すでにヘルマンド川下流地域はほぼ制圧されたらしい(参照)。
 空爆や砲弾など間接攻撃でないにもかかわらず、タリバン側の攻撃が小規模であるせいか、米海兵隊員の戦死者1名、負傷者数名というニュースがある(参照)。また、すでに米兵が1名だがタリバン側に拘束されたというニュースもある(参照)。
 イラク戦争のように順調に開始された戦闘ともいえるが、タリバンはいったん後退した後、ゲリラ戦に出てくるだろう。しかし、ワシントンポスト社説「On the Offensive」(参照)のように、現状では対ゲリラ戦には米軍戦力が不足しているのではないとの指摘もすでに出ている。
 さらにフィナンシャルタイムズ社説「The fightback in Afghanistan begins」(参照)が懸念するように、掃討戦が進めば米軍の死者は急増するだろうし、その時点でオバマの戦争の意味が再び欧米メディアで問われるようになるだろう。
 タリバンを同地から掃討しても、路肩爆弾や自爆テロから地域社会を保護することは困難が予想される。同紙はオバマが今回の掃討戦を1年と見ていることの甘さに憂慮も表明している。

Mr Obama says he wants to see visible progress in Afghanistan one year from now. But in all truth, it will take more than a year to turn Afghanistan round.

オバマ氏は、現時点から一年以内にアフガニスタンで目に見える成果を上げたいと述べた。しかし嘘偽りなく、アフガニスタンの状況が好転するには一年以上かかるだろう。


 アフガニスタンの治安回復には、従来はNATO(北大西洋条約機構)の負担が大きく、NATOをどのように今後維持するかという欧州諸国の問題もあり、西側諸国の一員としての日本の関与も問われていた。こうした問題の見通しなく、同盟国を巻き込む形で戦闘が進行し、さらに懸念される事態になればブッシュの戦争とは多少異なる帰結になるかもしれない。そうならないことを祈りたい。

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2009.07.02

与謝野・鳩山資金源問題、雑感

 衆院選挙時期の問題が誤差の範囲に収束し、いずれ選挙が差し迫る状況になった。世論調査を見る限りぎりぎりで政権交代も予想されることから、その賛否を巡って前哨戦のように政局や政治報道が混迷している。各所に様々な利権が絡み合って、どう乱戦しているのかわかりづらい。一番大きな対立は民主党政権成立でメリットを得る派と損になる派だろう。
 民主党とその尻に鼻突っ込んだ社民党・国民新党が一方にあり、他方に自民党・公明党の腐れ縁がある。民主党側の実態はといえば、昭和時代の自民党一派と社会党残党の野合が核になっており、実動としては加藤紘一が喝破したように「民主党というのは、新しい候補者とか、若い力とか、強い倫理観とか、正義感というものを中心にすえてますが、現実にビラをはったりする集まりは自治労なんですよ」(参照)ということだ。
 さらに続けて加藤は「ガバメントオフィシャル(政府職員)的な政治になる」とも言っているが、そのあたり実際には、高橋洋一が言うところの、現在の官僚内閣制と親和的に接合していくだろう。ということで、官僚側としても労組的民主党政権成立へのリスクヘッジが必要になっている。もっとも民主党には反面、民主党内から嫌われて撃たれた小沢のように官僚内閣制打倒の有志もいるにはいる。もともと現民主党は小選挙区制で生き残りを賭けた野合なのでしかたがないとも言えるが、民主党主導型政権ができ、官僚内閣制打倒的な機運が十分に強ければ、自身から瓦解せざるを得なくなるだろうし、そうなれば、そして対外的な安全保障の余裕があれば、少しは日本の未来も見えてくるかもしれない。
 野合という点では自公政権も似たようなもので、内部でどんぱちと政争が行われている。どういう配置で乱闘しているのか私のように政治に疎いものにはわからないが、これも基本は官僚内閣制にあり、それを「ぶっ壊そう」とする勢力の対立だろう。象徴として小泉元総理やそのチルドレンが挙げられるが、実際にはその勢力だけではなく安倍元政権を辛うじて支えた有志も含まれており、その部分は今でも一部では麻生政権を支えているようだ。
 しかし麻生政権自体は特定派の権力基盤に載っているのではなく、その力の均衡を見ながら、多少は打たれつつ巧妙に存続しているのが現状だろう。そのなかで、官僚内閣制的な最大の力は、与謝野財務金融経済財政経済産業大臣兼総理大臣予定が担っていたかに見えたものだったが、その辺りにも奇妙な着弾があった。昨日の閣僚人事の事実上の失敗は、着弾の効果か、あるいはやむを得ぬ防戦だったのか、いずれにせよ事実上の内閣変化はなかった。
 端的に考えれば、与謝野降ろしの勢力があるのだろう。あるいは単純に麻生政権への打撃を狙っての与謝野攻撃なのかよくわからない。この話が奇っ怪なのは、弾の出所が、財務省御用達的に見える毎日新聞から出てきたこともある。初発は先月24日の「迂回献金:先物会社が与謝野氏、渡辺喜氏に ダミー通じ」(参照)のようだ。


 与謝野馨財務・金融・経済財政担当相と渡辺喜美元行政改革担当相が総務省に後援団体として届け出ていた政治団体が、商品先物取引会社「オリエント貿易」(東京都新宿区)などグループ5社が企業献金をするためのダミー団体だったことが分かった。5社は団体を通じ92~05年、与謝野氏側に計5530万円、95~05年、渡辺氏側に計3540万円を迂回(うかい)献金していた。後援団体への寄付者には所得税の一部が控除される優遇制度があり、5社は毎年幹部社員ら約250人の給与から計約4000万円を天引きして団体に寄付させ、控除を受けさせていた。

 当初は与謝野と渡辺喜美がセットになっており、後者に視点を置けば、「バカヤロー経済学」(参照)の先生の予言のようにも見えるが、この話、その後与謝野に焦点が当てられていく。
 単純に事件の型だけ見れば小沢スローター・メソッドが適用できそうなものだが、二階炎上もなく春も終わって野焼きの季節とも思えず、なんでこんな話が今頃出てくるのか、いや繰り出してくるのか奇怪至極だ。さらに同日毎日新聞記事「迂回献金:与謝野氏、社史に祝辞 オリエント貿易が要請」(参照)ではその裏の歴史を物語るかに見えるのだが、うそ寒い。

 「貴社は業界におけるリーディングカンパニーの一つとして業界の結束の要」。与謝野馨財務・金融・経済財政担当相は多額献金の中心となった商品先物取引会社「オリエント貿易」(東京都新宿区)が00年に発刊した40年史に祝辞を寄せていた。与謝野氏は商品先物業界を指導・監督する旧通産相を務め、後に金融担当相として金融商品取引法案の国会審議でも答弁した。与謝野氏の秘書は毎日新聞の取材に応じ、オ社社主は若いころから応援してくれる「あしながおじさんだった」と述べ、答弁などと献金との関係を否定した。

 そんな経緯があったのかと興味深い話のようにも見えるが、政界筋では特段新味のある話ではなかった(参照)。毎日新聞の報道のあと、世間の受けがよいので、産経新聞がそれじゃということでパク付いて見せ、日経新聞もべた記事的に報道したようだが、朝日新聞と読売新聞の食いつきが悪い。ネタはおそらく業界衆知であり、朝日・読売から漂う雰囲気としては「そのネタは出すんじゃなねーよKY」だったのではないか。
 読売新聞の思惑はわからないではない。すでに鳩山前総務相更迭(参照)の背後で燃料投下をしており、その背後には鳩山兄弟を糊代に、自民福田・民主小沢大連立構想(参照)の二幕目を狙っており、そこに与謝野ピースを嵌める場所も想定されているだろう。朝日新聞のだんまりはというと、よくわからない。単に日和っているだけなのか、何かと与謝野支持があるのだろうか。
 与謝野降ろし、といっても、ネタの鮮度の悪さからして本気で降ろすのではなくただの腐しでしかないだろうが、この着弾の相方に鳩山民主党代表の故人資金問題がある。初発は先月16日の朝日新聞記事「鳩山代表に「故人」献金? 少なくとも5人、120万円」(参照)のようだ。

 民主党の鳩山由紀夫代表の政治資金管理団体「友愛政経懇話会」の政治資金収支報告書に、すでに亡くなった人が個人献金者として記載されていることが分かった。朝日新聞が03~07年分の報告書を調べたところ、少なくとも5人の故人が延べ10回、120万円分を献金したことになっていた。遺族のうち、1人は「よく分からない」と答えたが、4人は「死亡後に献金した事実はない」としている。

 暢気に記事だけ読むと、6月ごろに朝日新聞がなんとなく、民主党の頭が小沢から据え替えわったからこの機に鳩山代表の政治資金収支報告書を調べていたら、おやまあ5人もお化けがいましたよ、夏は近いなといった怪談に見える。この時点では、宇宙人と幽霊はジャンル的にも近いかぐらいのネタだったが、読売新聞が先月末に深掘りをかけた。6月30日読売新聞記事「鳩山代表の団体へ「寄付否定」新たに13人」(参照)では朝日の初掘りを受けて問題を騒動化した。

 民主党の鳩山由紀夫代表の資金管理団体「友愛政経懇話会」が故人5人から寄付を受けたことが明らかになった問題で、実際に寄付をしていないのに「寄付者」として政治資金収支報告書に記載された疑いがあるケースが、新たに13人いることが読売新聞の調査でわかった。
 2003~07年分の収支報告書の記載内容を検証したもので、問題ある寄付の総額はすでに判明した分も含め、18人で計659万円に上った。

 その後、今朝の読売新聞記事「鳩山代表の収支報告書訂正、寄付者の8割・70人分削除」(参照)のように話は広がり愉快な展開になり、他紙もフォローせざるを得ないが、初掘りの朝日を含めてそれほどの熱の入れようはない。
 問題が深刻化して鳩山も応答に出たが、対応は後手に回っているとはいえ、小沢騒ぎほどの大騒ぎには発展しないし、経緯からは鳩山民主党代表側も自身が言うほどにはそれほど未知かつ暗部といった問題ではなかったのではないか。もともと民主党自体鳩山のポケットマネー的な成立であったはずだ。
 朝日の初掘りがまったく暢気な発見だとは思えないにせよ、その時点で読売の深掘りが想定されていた印象はない。逆に読売が狙っていたなら初掘りを朝日に譲っただろうか。朝日の初掘りから読売の深掘りへは連係プレーというか、新聞淘汰時代に仲良く「あにさきす」の雰囲気があるが、読売の深掘りの背景がよくわからない。
 陰謀論にしたいわけではないが、どうもどっかからいいお話が振ってきた印象があるのは、今朝の読売新聞社説「鳩山氏架空献金 調査も説明も極めて不十分だ」(参照)のノリのよさだ。

 資金管理団体には最近3年間だけで、小口の匿名の個人献金が総額1億円以上ある。この中にも架空献金が含まれているのではないか。04年以前はどうなのか。
 鳩山代表は、西松建設の違法献金事件で小沢前代表に説明責任を果たすよう促していた。自らの問題に関する一連の疑問について明確に答えねばなるまい。

 小沢騒ぎが実際には04年以前の古い話ばかりだったのに呼応させてみると、鳩山幽霊騒ぎも、その時代の資金管理を調べていたスジからちょろちょろと出てきた話のような印象がある。
 いずれにしても、与謝野がこれで打撃を受けるわけでもなく、鳩山が打撃を受けるわけもない。渡辺喜美も大した話にもならない。気にくわない相手に泥を投げつけてみて、その日その日のネタにするという因果な商売がジャーナリズムといったところだ。が、考えてみれば、泥の投げ合いくらいの話で大したことはないなという安定した状況を作ってくれたのは、すべての泥を背負って磔刑となった小沢大明神の功績と言えるかもしれない。

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