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2009.06.30

[書評]「明日また電話するよ」、「夕方のおともだち」(山本直樹)

 昨年と今年に出版された二冊とも漫画家、山本直樹作品の短編選集。「明日また電話するよ」(参照)が2008年7月に出版され、好評だったのか続編として「夕方のおともだち」が2009年5月に出版された。レイティングはされていないようだが、漫画表現による性や暴力の描写も多い。帯に作家西加奈子の「何度も読みました。私の中の女が、犯されたような気持ち。ズルい」とあるが、そうしたエロス性を求める読者もあるだろうし、男女の差や個人的な資質の差でいろいろな受け止め方があるだろう。私にはどちらかと言えば短編らしい叙情的な作品が多いように思えた。

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明日また電話するよ
 選集「明日また電話するよ」収録の作品のいくつかは、十年ほど前に雑誌で既読であったことを思い出し、そのまま過ぎていった自分の十年余の歳月を思った。一読後は、懐かしいとしても、自分の青春の残滓を含め、すでに過ぎ去った叙情としてそれほどの印象は残らなかった。だが、その後何度も読み返しながら、作品の印象は変わった。自分の若い日の、性欲の狂態を鏡のように見るような気恥ずかしい気持ちの陰には別のものがあったことに気がつく。若い日に「すでに自分の人生はあらかじめ失われているのだ」と思いつつ追われるように性に追い立てられ、そして実際に時が過ぎ、本当に最初からすべて失われていたのだという饐えた幻滅感を確認する老いの入り口に自身を残された今なのに、それでもあの狂おしい日々への肯定的な愛着が残ることに気がつく。
 恥ずかしげもなくいえば、その愛着は今の若い人々の嬌態の肯定でもあるし、若さというものへの、ようやくの肯定だ。伝道の書は言う、「あたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」とは一般に解されているように、若い日から神に敬虔であれということではない。「日の下で神から賜ったあなたの空なる命の日の間、あなたはその愛する妻と楽しく暮らすがよい」という命令は、若い時に恋人とセックスの快楽に励めよということだ。ソロモンに擬された賢者が「あめんどうは花咲き、いなごはその身をひきずり歩き、その欲望は衰え」というのは、今の言葉でいえば、女のまんこはびろびろ、男のちんこはしょぼーん、ということだ。そうなる前に、やっとけ。おおっ、ではあるが、その渦中から「あなたの空なる命の日」は神のごとく存在する。いやそのむなしさという確実性の背後に神の存在の確実性があるのかもしれない。個別の作品から見ていこう。
 親戚の年上の女が離婚し帰省した夏になんとなく一度だけの性関係を持つ「みはり塔」や、一年前までは同じバイトをしていたのに今は人妻となった女との一度だけの性関係を描く「渚にて」では、一度だけしか許されず、あらかじめ失われたものとして、そして過ぎていく時間の象徴として性の行為と快楽が描かれる。だらだらとふしだらに続く他の作品の性関係の物語のなかにも、その一回性の切ない叙情は主要テーマのように響いている。人生なんてそんなものだというのではない。現実の人生には、そのような一回性に射止められることはあまりないものだ。大半の人の人生の実態は、凡庸に、本質を覆い隠しながら、愛情のような憎しみのようなどうしようもない関係性の連続のなかで、だらだらと終わりなく見えて擦り切れていく。
 短編集「明日また電話するよ」での傑作は、その両義性(一回性と凡庸性)をあえて薄く描いた表題作「明日また電話するよ」ではないか。なんどか読み返してそう思った。地方出身の高校の同級生の男が都会の大学に進学し、その間たまに会うとはいえ、女は4年ほど離れて暮らしていた。作品の時間では、彼女も就職準備に上京し、翌年就職の男の下宿で2日間やりまくる。それから二人で住む家を探そうかとして、それでも女は別の住処を見つけ、近隣であれ別れて暮らす新しい関係になれていこうとする。まさに、その瞬間を作品は捉えている。二人は互いを愛していると思ってるが、女は自分たちの結婚に至る関係もまたいつか倦怠期を迎えてしまうのではないかと少し怯える。男は、もちろん、そんなことはないと言いつつ、近隣の別居を「正しい」となんとなく思っている。
 男女には個性は付与されていない。むしろ作者はバカップルを描きたいとまで言っている作品だが、そういう形でしか「恋愛」が描けないのではないかという作意もあったようだ。そしてこの作品には作者山本直樹のリアル人生の何かも反映しているのだろう。
 二人はその後どうなったのだろうか? 作品からは読み取れない。あるいはどうとでも読み取れる。後日譚はあえて描かれないだろうが、実人生なら、生きているなら後日は付きまとう。個性なく描かれた男女はそれゆえに読み手としての男女の人生経験に重なってくるだろう。別れてしまうことになる男女も、続いた男女も、倦怠期に到達した男女もあるだろう。それらは性と恋愛の到達の結果といえばそうだが、その渦中では、到達の結果ではないある生きた瞬間の限りない切なさがあり、それは作品の受容を契機の一つして、後悔とは違った、時を経た愛着に変わる。
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夕方のおともだち
 「明日また電話するよ」がベスト短編集だというなら、続編の「夕方のおともだち(山本直樹)」は第一選集の残りということになる。それだけ作品の質は落ちるかと思っていたが、ふとそうではないのではないか。作品「明日また電話するよ」のような、ある叙情的なまとまりから抜け出た、堕落した教師を描いたもう一つの傑作「Cl2」のように、もう少しアクの強い作品群ではないか。そう思ってこちらも読んでみた。予想は当たった。
 性にまみれた青春の、お定まりに想定された喪失感覚よりも、さらに強烈に、生そのものに最初から喪失されたものが、この作品群では性をむしろ道具として出現し始める。最初からなかったはずの真実が喪失されたままで性の形を通して人生を痛切によぎる。作品「便利なドライブ」では、ある性の妄想が、最初から何もない風景に融合され、「これは本当になかったお話」となり、「だってここには本当になんにもないんだから」となる。「ない」ということが性の妄想を介在して「本当」に関わるなかで、妄想の喪失を超えた痛みが人の生を捉える。標題作「夕方のおともだち」ではそのままハード・マゾ男の痛みから、存在するかぎりの絶対的な喪失が、死のこちら側の空しい生として描かれる。「生き延びたければ生き延びるがいい」「生き延びてこのくだらない町に永遠に放置されるがいいさ」。そのように「宙ぶらりん」に私たちは存在しつつ、「本当」というものを垣間見せる性の狂乱をそれでも空しく渇望する。
 出口はないし、80年代に暢気に説かれたような永遠の逃避が可能になるわけでもない。そうした定めに解答などないのだから、出色の帯の文言、「少しだけ泣いてもいいですか?」と出合う人に肌を擦り寄せいくしかない。そうしたところに、個性を復権された人としての女や男が現れ始める。
 偽悪的に言おう、私は山本直樹が描く女はどれもワンパターンで、その性の肢体はどれも変わらない偽物に見える。女性器と肛門の差はつまらぬ演出というか投げやりな差異にしか見えない。だが、それはこのあらかじめ失われた性の、幻想的な具現が個性を持ち得ない仕組みそのものだったからではないか。性の幻想は人の個性を消失される装置でもあった。
 標題作「夕方のお友だち」で泣くことが許せる関係の女に、作者は奇妙な厚い生活感を持たせている。その分だけ、この女の性の肢体と相貌は歪むが、例えば、気合いをもってひっくり返すスペインオムレツのシーンはいきいきと美しい。あとがきで、この作品発表時の編集者がこのシーンが必要なのかと疑問をもったと書かれている。なんとも感性のない編集者だというのはたやすい。しかし、私が編集者でもその時代なら、そう言ったかもしれない。今なら、そういう時代の違いが作品を通して意識できる。だから、この作品集は、今もう一度読まれるべきだった。

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コメント

どうも、山本直樹ファンです。私は山本直樹が描く女(外面も内面も)も好きですがオナニーの手が止まり最後まで読み終えしまう空疎というか叙情性のある読後感も好きです。まずはエロありきですが。

山本直樹の考えはこのインタビューによくでていると思います。キチガイの魅力というところとか。
http://shinjukuloft.com/galaxy/archive/e/2008/post_72.php

未完ですがレッドも読まれましたら是非感想を書いてくださいな。

投稿: depois | 2009.06.30 23:41

GyaOで山本直樹原作の「BLUE」シリーズ(2007年製作)がやっていますね。
女優さんの演技もなかなか良くてなんども見てしまいます。
東浩樹は村上春樹にエロゲの原型を見てるようですが、山本直樹じゃなかったかと。

投稿: cyberbob:-) | 2009.07.01 07:44

マンガにおける性の叙情というのは、正直、なんかわからんですね。

竹宮恵子先生の「風と木の詩」は、見る人が見れば芸術的なんでしょうが、あたしなんかは、ダーティ松本先生や丸尾末広先生のほうが人間性の本質を深く洞察されていたように思っています。竹宮先生の描写する人間性は、飾られた人間性で、松本先生や丸尾先生の描写する人間性は、透かされた人間性とでも言うんでしょうか。

今になってみれば、呉智英先生は、諸星大二郎先生をほとんど理解できていなかったことはみんなに周知だと思われます。確認までに、わたしが、「じゅーしーめーとかぼちゃ」のエントリーに入れたコメントをご覧になってください。わたしは、自分なりに、諸星孔子像をなぞったつもりです。まあ、「孔子暗黒伝」ではなく、「恒星の光に包まれた孔子」が描き出されてはいますが。

投稿: enneagram | 2009.07.01 08:07

「『ありがとう』が日本で一番売れてます」って言われるのもどうか的な世界観が普通?かと思いますけど、普通に疲れて堕ちていく?感覚がある時は、山本直樹さんの作品読むと吉なんじゃないですかね?

 70'テイストですよ。日活ポルノのダラダラ感が近い。

 アレ読んで浸るか逃げるかで、普通適性を見極めるのも良いかと。耽溺してしまう気質の人は、その時点で幾許か自分の中に普通じゃない要素があると思っておいた方がいい。そう思えるだけでも、いわゆる「優しさ」ってもんは、多少身につくんじゃないですかね?
 どんな優しさなんだか知りませんけど。

 あと。本文中の「すでに自分の人生はあらかじめ失われているのだ」は、私と某編集者さんで10年くらい前に「予め失われし過去」っていう言葉で語ってましたね。別にそれが最初とか走りとか言うつもりは無く、昔からある種の感性の人たちの間で言い習われていた言葉(センス)を「今さら発掘した」くらいの感覚でしたけど。

 考古学重要な気がしました。

投稿: 野ぐそ | 2009.07.01 09:54

まあ、旬の作家の書評をしないと、ブログというメディアの特色を出せないのだろうけれど、どうせマンガの書評をするなら、芸術的なマンガを創作する人を紹介してほしいものだなあと思います。

すごく古いのだけれど、内田善美先生(細密画家)とか、吉田秋生先生(少女マンガを突出した芸術家)とか。

もっとも、ブログでとりあげるなら、いがらしみきお先生とか相原コージ先生のほうがとりあげやすいのだろうけれど。

投稿: enneagram | 2009.07.15 07:12

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