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2009.06.21

[書評]イスラムの怒り(内藤正典)

 もう15年ほど前になるが私がトルコ旅行をした後、内藤正典のトルコ滞在記「トルコのものさし日本のものさし」(参照)を読み、自分と同世代で、普通のムスリムの生活をやさしく見つめるこの論者に関心を持ち続けてきた。近著「イスラムの怒り(内藤正典)」(参照)も、普通のイスラム教信者の視点から、西洋が彼らに浴びせる非難について、イスラムの心がどう受け止めているのかをわかりやすく解き明かしている。

cover
イスラムの怒り
内藤正典
 特に書名が暗示するように、普通のイスラム教信者が、異教徒の言動の、どこに怒りを覚えるのかという問題に重点が置かれている。日本が今後、対外労働者をどの程度まで入れていくのか現状では不明だが、世界最大のイスラム教国インドネシアとの人的交流が活発化するなか、同書で述べられているイスラムの「常識」は普通の日本人も理解したほうがよいだろう。できることならイスラム教と限らず、異文化における生活人の思考様式のごく常識的な部分は小冊子にして、中学生くらいから学んでおくとよいだろうが、そうした簡便な書籍はないのではないか。
 本書序章は、2006年サッカー・ワールドカップ、ドイツ大会の決勝戦で、フランス代表のジェネディーヌ・ジダン選手が、試合終了直前、イタリアチームのマルコ・マテラッツィ選手に暴力的な頭突きをした事件から切り出される。なぜジダンは自制できずに暴力に訴えたのか。当時は「なぜ」が話題になった。マテラッツィの映像から読唇術でメッセージを読み出そうとまでされたものだった。現在ではこの事件はかなりの部分解明されているのだが、著者内藤はその真相解明の報道以前に、事件の時点で、イスラム教徒なら誰でもジダンの怒りを理解した、理解できるのだ、と言う。ジダンを怒らせたのは、人種差別発言でも、テロリスト呼ばわりでもないと断言する。しかもあの怒りは十分に抑制され、そしてムスリムなら怒らなくてはならないものでもあったと続く。そのあたりの解説から、ムスリムの生活をつなぎ止める心情や、さらに西欧でムスリムが置かれている状況へと解説が進む。
 イスラム教をある程度理解する人間ならジダンの事件でもそれなりの想像は付くのだが、私が本書を読んで自身を無知だったなと思ったのは、ジダンの問題はその余波のほうが大きかったということだった。ジダンはこの事件の後、自分から真相は語らないまでもテレビ・インタビューに応じ、こう答えたという。「このような事件が起きると、いつでも自分のように(暴力的に)反応した者が罰せられる。だが、悪意の挑発をした者は罰せられない。それは不公正だ。挑発した側も罰せられるべきではないか」。それは当時のフランスにおける、ムスリム、さらには世界のムスリムの普通の心情を吐露したものであった。内藤は、ジダンのインタビュー後、フランスのジャーナリズムがこの問題に急に沈黙したと語っている。そこにこそ現在世界の、イスラムと西欧社会の断絶の象徴がある。
 本書中盤のドイツやデンマークの、移民のムスリムの事例も興味深い。ドイツの事例では、戦後ドイツに向かったイスラム教徒のトルコ人労働者は、西欧的なリベラルな風土を受け入れていた。飲酒も女遊びも自由であり、社会は表向き異文化・異宗教に「寛容」の建前をとっていた。移民の彼らは、そうした風土にしだいに自堕落になり自分を見失い、その反動として心の拠り所としてイスラム教を求めるようになったようだ。そして、2001年のテロ事件がきっかけになり、イスラム教徒排斥の機運が西洋で高まり、「寛容」が一気に反転し、追い詰められた移民のムスリムはいっそうイスラム教に生活の指針を求めるようになったという。
 寛容は宥和とは異なる。寛容は、「自分たちに干渉しなければ、(他者は好きではないが)我慢できる」というに過ぎない。そして「寛容」は、どうやら反転しうる欺瞞性を本質に秘めているようでもある。こうした大衆心情は、日本人にとっても他人事ではないよう思える。
 本書の終章のコラム「ムスリムはなぜオバマを支持したのか」にも興味深い指摘がある。すでに知られているように、米国オバマ大統領の父はイスラム教徒であり、イスラム教の考えかたからでは、父がイスラム教徒なら息子も自動的にイスラム教徒になる。イスラムの常識からすれば、オバマ大統領はイスラム教徒になる。オバマのフルネーム「バラク・フセイン・オバマ」の、フセインはムハンマドの後継者の名に由来し、バラクはイスラム教の「神の恩寵」を意味する。この名を負った男の現実の信教はキリスト教である。ということは、普通のイスラム教徒からすれば彼は棄教者である。イスラム法では死罪にも当たる。この話はすでに広く知られているところであり、知られていても西欧社会や東アジア諸国などではさして問題にもならないのだが、内藤はやはり潜在的な問題を秘めていると見ている。内藤はオバマ大統領に対するムスリムの心情をこう見ている。

 今後彼が、ムスリムに対して行うことになる「行為」をみてから判断しようというのである。それが良ければ改宗(棄教)問題は不問に付し、それが悪ければ棄教者として断罪することになるだろう。
 好きになった相手が敵だと知ったら、その反動としての怒りは大きくなってしまう。イスラムが、無用な争いを避けようとする平和的な性格をもっていることは間違いない。しかし、それが一瞬にして暴力もいとわない怒りへと激変するのも、イスラムの特徴である。

 残念ながらこの問題は、オバマ大統領の個人の努力だけでどうなるものではない。
 本書で内藤は、フランス流のライシテ(参照)について、かなりイスラムに同情的に見ているし、個々の事例では内藤の説明が説得的であり、さらに日本人としても表面的には宗教に寛容なことから、むしろフランス流のライシテのありかたに疑念を持つ人も多いだろう。またこの問題は西欧の思想として諸国に一貫しているものでもない。それでもライシテのような近代合理化・脱宗教化のイデオロギーというものは、それ独自の力と運動を持つ。なにより移民・黒人の大統領を生み出した米国的なリベラルなイデオロギーもライシテと類似の背景の力によるだろう。そう見れば、本質的な衝突は避けがたいこともあるだろう。

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コメント

街を歩けば、不安ゆえの憎悪を感じます。寛容が欺瞞を含むという言葉、これほど確かな真実はないと感じます。
しかし、よくわからないのですが、無宗教そのものがイデオロギーになるのでしょうか。無宗教とはゼロ、空の状態なのではないでしょうか。もし無宗教ならどうして僕や貴方が殺人者にならないと言い切れるのでしょうか。何を根拠に道徳を考えればいいのでしょうか。無宗教ほど怖いものはないように思います。雨水を流れるままにしていてはいけないのだと思います。

投稿: ぷるきんえ | 2009.06.21 20:10

>マテラッツィの映像から読心術でメッセージを読み出そうとまでされたものだった。

 読唇術、ですよ。


「悪意ある挑発行為は信仰上の信念から許せない」のであるなら、悪意ある挑発行為を引きずり出さざるを得ない自ら(本稿で言うならジダン?)の行為は、どうすればいいの? とも言いますね。

 私の場合だと先日から某出版社さんや某テレビ局さんのやり口に対してそれなりに痛いコメントを言ってますけど、それは、彼らのやり口が「悪意ある挑発行為は信仰上の信念から許せない」からなんでしょうか? 自分では信仰感覚は無いですけど、長年培われた歴史観や死生観が信仰と言われればそうなので、そうなんですかね?

 私は私で「たけくまメモ」さんにて実質名無しさんに痛罵されてますけど、そういうことなんでしょうかね?

 どっちでもいいですけどね。


 あと。

 ぷるきんえさんの「無宗教とはゼロ、空の状態なのではないでしょうか。」は、神学論争だと思いますよ。水面と大気の境目は有るのか無いのか、と同じでしょ。あると思って顔を近付けている間は「無は有り」ますけど、水面に顔が付いたら、それを肌で感じたら、「無は無い」のでは?

投稿: 野ぐそ | 2009.06.21 21:43

近日、大川周明の「回教概論」を図書館で借りて読んでは見ました。以前、井筒俊彦先生の「マホメット」も読んだことがあります。アラビア語の入門書も持っています。

でも、イスラームについては、正直なところ、ほとんどわかっていません。

そんなわけで、イスラームについては、突っ込んだ知ったかぶりをすることは、できる限り控えたいと思います。

でも、西ヨーロッパの中世の時代にもっとも適合した宗教・思想のはずですから、いままでのイスラーム神学とイスラーム法学を固持し続けようとしても、もはや、制度疲労を起こしているのでは?と言う疑問は持っています。

投稿: enneagram | 2009.06.22 08:36

野ぐそさん、ご指摘ありがとう。誤字は恥ずかしいものですが、そのなかでもこれは特にそうです。修正しました。

投稿: finalvent | 2009.06.22 09:37

 野ぐその怒り

 不況の最中仕事激減で1ヵ月中4日しか出勤しなくて残りは全部アパートに籠ってゲーム三昧だった友人ムーミンさん(危険物トラックの運ちゃん)が意を決して退職後再就職したのはいいけど、ひと月もしないうちに携帯電話の向こうで「野ぐさん…金貸して…10万…」などとのたまうのはなぜですか?

「10万など無い。私のポケットマネーから出せるのは3,4万が限界」

 と申したところ即音信不通になったのはなぜですか?

 そして先日再び「4万でいいから…」と頼んでくるので即座に現金書留で4万送ったのはなぜですか?

 そんなところへ友人ムーミンさん大ファンのガチだけはノアな三沢光晴さんがお亡くなりになったのはなぜですか?

 貧窮と悲しみのズンドコへ急行直下な友人ムーミンさんに呼び掛け、7月4日(土)備後運動公園にて開催されるガチだけはノアじゃないプロレスを観戦して気分晴らししようと誘う私はアホですか?

 そして友人ムーミンさんには内緒?でガチだけはノアさんに寄付金を送ろうと目論む私は腐れ外道ですか?

 そしてトヨタの新社長さんがマジもんのクソバカっぽいので男気に免じて超株買って倒産するまで永久ホールドの刑に処して配当金の3分の1を俺のポケットマネー(友人への義捐金目的)にして3分の1を地元に寄付して3分の1を誰でもいいから(例えば某たけくまさんとか)頑張る人への支援金に回そうと考えるのは駄目ですか?

 誤字が恥ずかしいとかそんなんどうでもよくて人生そのものが間違ってる感じのする私は死ねですか?

 …そんなことをつらつら考えつつ帰宅したら玄関が軽く開いてて中からねこさんが出てきて「なー」言うたんで、

「お前のぉ!! ねこは家に入るな言うたじゃろうがぁ!! 何で勝手に入りよるんじゃあ!!」

 と、ひそひそ声で叱って餌をやったら絶対懐かない腹白黒猫が横から出てきて早速飛び付いて餌をモリモリ食い始めて私とねこさんは黙ってじーっと見てるので愚図ですか?

 そして納屋に入っても母屋に戻ってもねこさんが私の足元にまとわりついて離れないので蹴りたいけど蹴れないので「お前なんか俺の亜光速チョップ時速2秒!!」とか言いつつポスっと叩いたところその場で腕にしがみつかれたので死ねですか?

 時速2秒って何ですか?

 野ぐその怒り

投稿: 野ぐそ | 2009.06.25 22:55

むしろ無宗教という意味は、既存の(既に存在している)教義には従わない、という意味でしょう。何を信じるのか、信じないのか、自分の知性と意志と感情が刻々と判断していくわけです。拠り所は自分しかない。しかも、本来の思考はそこでしか始まらない。この重責を担うのが嫌だから、人は安易に仲間を求めてしまうんじゃないですかね? そういうのは寂しいこととぼくには思えます。

投稿: eiji | 2009.09.24 03:24

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受信: 2011.02.05 06:49

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