« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

2009.06.30

[書評]「明日また電話するよ」、「夕方のおともだち」(山本直樹)

 昨年と今年に出版された二冊とも漫画家、山本直樹作品の短編選集。「明日また電話するよ」(参照)が2008年7月に出版され、好評だったのか続編として「夕方のおともだち」が2009年5月に出版された。レイティングはされていないようだが、漫画表現による性や暴力の描写も多い。帯に作家西加奈子の「何度も読みました。私の中の女が、犯されたような気持ち。ズルい」とあるが、そうしたエロス性を求める読者もあるだろうし、男女の差や個人的な資質の差でいろいろな受け止め方があるだろう。私にはどちらかと言えば短編らしい叙情的な作品が多いように思えた。

cover
明日また電話するよ
 選集「明日また電話するよ」収録の作品のいくつかは、十年ほど前に雑誌で既読であったことを思い出し、そのまま過ぎていった自分の十年余の歳月を思った。一読後は、懐かしいとしても、自分の青春の残滓を含め、すでに過ぎ去った叙情としてそれほどの印象は残らなかった。だが、その後何度も読み返しながら、作品の印象は変わった。自分の若い日の、性欲の狂態を鏡のように見るような気恥ずかしい気持ちの陰には別のものがあったことに気がつく。若い日に「すでに自分の人生はあらかじめ失われているのだ」と思いつつ追われるように性に追い立てられ、そして実際に時が過ぎ、本当に最初からすべて失われていたのだという饐えた幻滅感を確認する老いの入り口に自身を残された今なのに、それでもあの狂おしい日々への肯定的な愛着が残ることに気がつく。
 恥ずかしげもなくいえば、その愛着は今の若い人々の嬌態の肯定でもあるし、若さというものへの、ようやくの肯定だ。伝道の書は言う、「あたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」とは一般に解されているように、若い日から神に敬虔であれということではない。「日の下で神から賜ったあなたの空なる命の日の間、あなたはその愛する妻と楽しく暮らすがよい」という命令は、若い時に恋人とセックスの快楽に励めよということだ。ソロモンに擬された賢者が「あめんどうは花咲き、いなごはその身をひきずり歩き、その欲望は衰え」というのは、今の言葉でいえば、女のまんこはびろびろ、男のちんこはしょぼーん、ということだ。そうなる前に、やっとけ。おおっ、ではあるが、その渦中から「あなたの空なる命の日」は神のごとく存在する。いやそのむなしさという確実性の背後に神の存在の確実性があるのかもしれない。個別の作品から見ていこう。
 親戚の年上の女が離婚し帰省した夏になんとなく一度だけの性関係を持つ「みはり塔」や、一年前までは同じバイトをしていたのに今は人妻となった女との一度だけの性関係を描く「渚にて」では、一度だけしか許されず、あらかじめ失われたものとして、そして過ぎていく時間の象徴として性の行為と快楽が描かれる。だらだらとふしだらに続く他の作品の性関係の物語のなかにも、その一回性の切ない叙情は主要テーマのように響いている。人生なんてそんなものだというのではない。現実の人生には、そのような一回性に射止められることはあまりないものだ。大半の人の人生の実態は、凡庸に、本質を覆い隠しながら、愛情のような憎しみのようなどうしようもない関係性の連続のなかで、だらだらと終わりなく見えて擦り切れていく。
 短編集「明日また電話するよ」での傑作は、その両義性(一回性と凡庸性)をあえて薄く描いた表題作「明日また電話するよ」ではないか。なんどか読み返してそう思った。地方出身の高校の同級生の男が都会の大学に進学し、その間たまに会うとはいえ、女は4年ほど離れて暮らしていた。作品の時間では、彼女も就職準備に上京し、翌年就職の男の下宿で2日間やりまくる。それから二人で住む家を探そうかとして、それでも女は別の住処を見つけ、近隣であれ別れて暮らす新しい関係になれていこうとする。まさに、その瞬間を作品は捉えている。二人は互いを愛していると思ってるが、女は自分たちの結婚に至る関係もまたいつか倦怠期を迎えてしまうのではないかと少し怯える。男は、もちろん、そんなことはないと言いつつ、近隣の別居を「正しい」となんとなく思っている。
 男女には個性は付与されていない。むしろ作者はバカップルを描きたいとまで言っている作品だが、そういう形でしか「恋愛」が描けないのではないかという作意もあったようだ。そしてこの作品には作者山本直樹のリアル人生の何かも反映しているのだろう。
 二人はその後どうなったのだろうか? 作品からは読み取れない。あるいはどうとでも読み取れる。後日譚はあえて描かれないだろうが、実人生なら、生きているなら後日は付きまとう。個性なく描かれた男女はそれゆえに読み手としての男女の人生経験に重なってくるだろう。別れてしまうことになる男女も、続いた男女も、倦怠期に到達した男女もあるだろう。それらは性と恋愛の到達の結果といえばそうだが、その渦中では、到達の結果ではないある生きた瞬間の限りない切なさがあり、それは作品の受容を契機の一つして、後悔とは違った、時を経た愛着に変わる。
cover
夕方のおともだち
 「明日また電話するよ」がベスト短編集だというなら、続編の「夕方のおともだち(山本直樹)」は第一選集の残りということになる。それだけ作品の質は落ちるかと思っていたが、ふとそうではないのではないか。作品「明日また電話するよ」のような、ある叙情的なまとまりから抜け出た、堕落した教師を描いたもう一つの傑作「Cl2」のように、もう少しアクの強い作品群ではないか。そう思ってこちらも読んでみた。予想は当たった。
 性にまみれた青春の、お定まりに想定された喪失感覚よりも、さらに強烈に、生そのものに最初から喪失されたものが、この作品群では性をむしろ道具として出現し始める。最初からなかったはずの真実が喪失されたままで性の形を通して人生を痛切によぎる。作品「便利なドライブ」では、ある性の妄想が、最初から何もない風景に融合され、「これは本当になかったお話」となり、「だってここには本当になんにもないんだから」となる。「ない」ということが性の妄想を介在して「本当」に関わるなかで、妄想の喪失を超えた痛みが人の生を捉える。標題作「夕方のおともだち」ではそのままハード・マゾ男の痛みから、存在するかぎりの絶対的な喪失が、死のこちら側の空しい生として描かれる。「生き延びたければ生き延びるがいい」「生き延びてこのくだらない町に永遠に放置されるがいいさ」。そのように「宙ぶらりん」に私たちは存在しつつ、「本当」というものを垣間見せる性の狂乱をそれでも空しく渇望する。
 出口はないし、80年代に暢気に説かれたような永遠の逃避が可能になるわけでもない。そうした定めに解答などないのだから、出色の帯の文言、「少しだけ泣いてもいいですか?」と出合う人に肌を擦り寄せいくしかない。そうしたところに、個性を復権された人としての女や男が現れ始める。
 偽悪的に言おう、私は山本直樹が描く女はどれもワンパターンで、その性の肢体はどれも変わらない偽物に見える。女性器と肛門の差はつまらぬ演出というか投げやりな差異にしか見えない。だが、それはこのあらかじめ失われた性の、幻想的な具現が個性を持ち得ない仕組みそのものだったからではないか。性の幻想は人の個性を消失される装置でもあった。
 標題作「夕方のお友だち」で泣くことが許せる関係の女に、作者は奇妙な厚い生活感を持たせている。その分だけ、この女の性の肢体と相貌は歪むが、例えば、気合いをもってひっくり返すスペインオムレツのシーンはいきいきと美しい。あとがきで、この作品発表時の編集者がこのシーンが必要なのかと疑問をもったと書かれている。なんとも感性のない編集者だというのはたやすい。しかし、私が編集者でもその時代なら、そう言ったかもしれない。今なら、そういう時代の違いが作品を通して意識できる。だから、この作品集は、今もう一度読まれるべきだった。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009.06.29

[書評]「無駄な抵抗はよせ」はよせ(日垣隆)

 書名は少し挑戦的だ。「「無駄な抵抗はよせ」はよせ(日垣隆)」(参照)というのだから、「無駄とわかっていても抵抗はしてみよう」ということになる。抵抗する対象は何か? 帯に「体と心のピンチに! やっぱり痩せたい、老いたくない、安らかでいたい、ボケたくない」と続くから、老化や精神的につらい状況が対象だとわかる。では本書に抵抗できるだけのツールがあるか。帯はこう続く。「著者が自身のために集めた科学と智恵の簡単極意をお裾分け」。そうだなと読んでみて思った。率直なところ無駄な抵抗もしてみるものだとまでは思えなかったが、きちんとお裾分けはあった。

cover
「無駄な抵抗はよせ」はよせ
日垣隆
 内容は、第一線で活躍されている科学者を中心にジャーナリスト日垣隆によるインタビューを今回のコンセプトで8点まとめたものだ。
 私が一番面白かったのは、1946年生まれ、というから今年63歳になる日本航空の現役パイロット小林宏之氏の話だった。1968年にパイロット訓練生として入社。2006年に退職はしているがその後も嘱託として勤務され、パイロットとしては最高齢になるという。インタビューのポイントはパイロットという厳しい仕事を40年以上も一線で行っている秘訣になるが、他に首相特別便の経験など飛行機から見る戦後史といった趣向の話も興味深い。インタビュアーはそのあたりもうまく引き出している。書籍の構成上、一人分の話量といったバランスもあるだろうが、もう少し話を聞きたいと思った。回想録などあれば是非読みたいものだ。
 電車のホームからの転落事故がきかっけで、35歳で高次機能障害となった若狭毅氏の話は、自分にも起こるのではないかと身につまされるものがあった。事故後、彼は 1+1 もわからなくなり、娘さんが誰かすら認識できなかったという。毎日新聞社会部記者という頭脳を酷使する仕事に就きながら、以前に自分が書いた記事も理解できなくなった。リハビリの過程はその後編集に携わる「サンデー毎日」に連載されたらしいが、私は該当連載を読んだことはない。本書の話では、家族が支えになったそうだ。幼い娘さんとトランプの「神経衰弱」をすることもリハビリの一環にしたというのは、しみじみとするエピソードだ。
 このブログでも以前扱った、レコーディング・ダイエット法「いつまでもデブと思うなよ」(参照)の著者岡田斗司夫氏の話も、同書とは違った切り口で興味深かった。知らなかったのだが、私より一歳年下で、日垣氏と同年の岡田氏には高校三年生の娘さんがいて、彼が太っていたころは挨拶の愛想もなかったそうだ。ところが、痩せたら「お父さん、一緒に歩こうよ」と氏になつくようになったという。なんかうらやましいような怖いような話だ。そういえば日垣氏も20歳を超えた娘さんとデートをする話をどこかで読んだことがある。メルマガであっただろうか。
 本書のインタビューはどれもTBSラジオ日曜日夜9時放送の科学トーク番組「サイエンス・サイトーク」(参照)を元にしている。同番組はもう10年以上も継続し、著者日垣氏も「あとがき」で企画当初は30代でしたと懐かしく思っているようだ。また「あとがき」では結果ライフワークになったとも述懐している。彼のインタビューは、事前に徹底的に対象者の資料やその分野基礎知識を読み込むところに特徴がある。それだけの知的訓練を10年以上継続したというのも、すごいものだなと思う。
 「サイエンス・サイトーク」を元にした書籍は本書で九冊目になるという。年一冊のペースになるかなと、自分の備忘のためにもリストにしてみた。初期は新潮OH!文庫から、その後はWAC BUNKOの「知の旅」シリーズになり、書籍としての企画性は強くなる。個人的には、「愛は科学で解けるのか」が初回ということもあり印象深く記憶に残っている。

  1. 「サイエンス・サイトーク 愛は科学で解けるのか (新潮OH!文庫)」
  2. 「サイエンス・サイトーク ウソの科学騙しの技術(新潮OH!文庫)」
  3. 「サイエンス・サイトーク いのちを守る安全学 (新潮OH!文庫)」
  4. 「天才のヒラメキを見つけた! (WAC BUNKO)」
  5. 「頭は必ず良くなる (WAC BUNKO)」
  6. 「方向音痴の研究 (WAC BUNKO)」
  7. 「常識はウソだらけ (WAC BUNKO)」
  8. 「定説だってウソだらけ (WAC BUNKO)」
  9. 「「無駄な抵抗はよせ」はよせ (WAC BUNKO)」

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009.06.26

[書評]サブリミナル・インパクト 情動と潜在認知の現代(下條信輔)

 人間は自分で意識し、自由な意志をもって行動していると思い込んでいる。だが脳の機能を実験的に解明していくと、実は本人が自覚していない脳の認識プロセスの結果として、その意識や意志が出力されていることが明らかになってきた。

cover
サブリミナル・インパクト
情動と潜在認知の現代
下條信輔
 本人が気がつかない何かが、その人の意識を決定しているというのだ。では、その何かとは何か。現代に溢れる各種メディアの情報である。意識的に気がつかないがゆえに、本人の意識の及ばないところにあってその意識に注入され、意識を決定する。それが現在の人間の置かれた状況であり、そもそも人間とはそのような存在として進化してきたのではないか。本書「サブリミナル・インパクト 情動と潜在認知の現代(下條信輔)」(参照)が問い掛ける、ある意味で奇っ怪なメッセージはそれだ。
 人の脳の意識構造にありながら本人は意識していない領域を、著者下條は潜在認知と呼び、潜在認知を突き動かしているのは情動であると考えている。人が自覚的に思っている意識をするりと抜け、潜在認知に意識や意志の種を撒く仕組みとして情動が捉えられている。そんなことがあるのだろうかと疑うなら、本書で提示された実験や考察の累積を追ってみるとよい。それは科学的な事実であると見て妥当なものだろう。
 情動を加味して与えられる情報によって人間の自由意志が奪われるならば、自由であるべき人間はどのようにこの状況に対抗すべきか……。違うのだ。この現状は安易に克服はできない。状況を加速しているのは、世界の背後にあって人間の意識を操ろうとしている悪の実体ではない。人間の進化のありかたが、まさにこの状況を求めて作り出したのだ。自縄自縛の世界を欲したのは人間でもある。
 問われれば、そんなことがあるのかと疑問に思いながら、現代人の欲望を内省してみても、それが外部の情報によって枠取られていることがわかるはずだ。例えば、アマゾンのサイトで書籍を買おうと説明を読めば、「本書を購入した読者はこの本も購入しています」と勧められる。そんな他者の購買活動などどうでもよいのではないかと思う以前に、人の欲望の動向に意識はすでに動いて、潜在的に欲望が枠取られている。そしてそのことが心地よいのだ。欲しい書籍の類書が読みたい。もっと面白い書籍が読みたい。他者の欲望をなぞりたい。そうした要求に、この情報システムは応えている。確かにそうだ。
 そもそも欲望によって彩られた情報が提示されなければ、欲望の形すら自分で描くことができないほど、私たちは自由になり、自由の磔刑でうめく乾きは「それがお前の欲望なのだ」と示してくれる情報を求めている。
 人間の選択意志が弱いからこうなったのではない。多くの選択肢のなかからもっとも快感をもたらすものを選び出すための効率的な仕組みとしてできた達成であり、脳はその効率の速度に見合うように進化している。そのエンジンたる快感は、外界から「飴と鞭」の飴として与えられたものではなく、脳それ自体の内部に報酬の快感を放出する自己完結的な仕組みをもっているようだ。人を走らせるニンジンは脳内に吊されているのだ。
 情報を提供する側も、情動と潜在認知によって突き動かされる人間に最適化しなければならない。広告情報も政治メッセージも、基本的に、情報選択肢を減らし、欲望を誘導し、そのプロセスを潜在意識に効果的に経済的に送り込むことが求められいる。
 具体的なレベルで人の潜在を支配する情報がどのように形成されるかについて、本書では、繰り返しや、非言語的な映像メッセージなどの提示に加え、選び出された主人公による物語を挙げているのが興味深い。人にある消費行動や政治行動を取らせるためには、人々の意識を、ある主人公の物語に向けさせ、その主人公への共感から情動を惹起する。かくして、情動を経由して物語りの背後のメッセージが潜在意識に刷り込まれる。
 そんなことは取り立てて言うまでもないことのように思えるし、今に始まったことでもないようにも見える。しかし本書の読後私が思ったのは、その過剰の再認識だった。現在の情報の状況、特に消費情報や政治情報を見ていくと、諸問題は命題の形ではなく、どれも「ある主人公の情感的な物語」になっていることに唖然とする。日本の福祉はどうあるべきか、外交はどうあるべきか、労働者はどうあるべきか、年金はどうあるべきか、裁判制度はどうあるべきか、ブログの可能性はどうあるべきか。それら諸問題は、もはや命題としては問われていない。代わりに、それぞれに「ある主人公の情感的な物語」が立てられ、私たちはその物語に情動的に反応しているだけだ。しかも人は、情動への反応をそれが正しいとして脳内の快感の報酬を得ている。「正しい」とは、その消費情報や政治情報を自身の意志としたということだ。
 ぞっとする状況だとも言える。だが著者下條は、人間のこうした状況を良いとも悪いとも見ていない。両義的なものだとしている。むしろ、人間の進化の潜在性の開花としてそれがどこに辿り着くのかに科学者としての関心を向けている。
 それでも「マクドの賢い客」になりたいものだと最後に控え目に提言していることは重要だろう。マクドナルドに置かれた椅子は、環境管理型権力として現れているが、それがそのような現れを人は「マクドの賢い客」として否定できるのではないかと下條は疑念を投げている。本書の考察はその提言でぶっきらぼうに終わるようにも見える。だからこそ。その先の思索と研究を著者下條に求めたい気持ちにさせる。
 以上は「序章 心が先か身体が先か―情動と潜在認知」「第1章 「快」はどこから来るのか」「第2章 刺激の過剰」「第3章 消費者は自由か」「第4章 情動の政治」を私なりに受け取ったものだが、「第5章 創造性と「暗黙知の海」」ではテーマの方向性を変わり、創造性の問題に取り組んでいる。マイケル・ボランニの暗黙知の理論を継承し、新しい視点から俯瞰した内容になっている。この章は、前章までを前提としているものの、別の問題系列として別冊にしてもよかったのではないかとも思えるほどだ。
 なお、本書は現在カリフォルニア工科大学生物学部教授の下條信輔による9年ぶりの著作で、本書標題から連想されるように中公新書の前作「サブリミナル・マインド 潜在的人間観のゆくえ」(参照)の続編といった印象を受ける著作でもある。本書あとがきで本人も続編として捉えてよいとし、また本書は応用編であり前著は基礎編であるとも述べている。別の前著で双子の作品としている講談社現代新書の「「意識」とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤」(参照)も、その意味で基礎編になる。
 私の印象としては前二著は10年前の神経情報処理の最前線をプレーンにまとめたサイエンス解説書だが、本書はかなり大胆に哲学・思想的な考察に踏み出してスリリングだった。新書の形態を取りながら、なかなかの大著といった印象も読後に残こす。だが文体が前二著に比べ、軽快に読み進めることができるので、難しい読書ではないだろう。心理学の心得のある人ならそこここに心理学用語や知見を見いだすこともできるだろうが、巧妙な語りゆえにそこでひっかかることはないだろうし、前二著を読まなくても本書は読めるだろう。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2009.06.21

[書評]イスラムの怒り(内藤正典)

 もう15年ほど前になるが私がトルコ旅行をした後、内藤正典のトルコ滞在記「トルコのものさし日本のものさし」(参照)を読み、自分と同世代で、普通のムスリムの生活をやさしく見つめるこの論者に関心を持ち続けてきた。近著「イスラムの怒り(内藤正典)」(参照)も、普通のイスラム教信者の視点から、西洋が彼らに浴びせる非難について、イスラムの心がどう受け止めているのかをわかりやすく解き明かしている。

cover
イスラムの怒り
内藤正典
 特に書名が暗示するように、普通のイスラム教信者が、異教徒の言動の、どこに怒りを覚えるのかという問題に重点が置かれている。日本が今後、対外労働者をどの程度まで入れていくのか現状では不明だが、世界最大のイスラム教国インドネシアとの人的交流が活発化するなか、同書で述べられているイスラムの「常識」は普通の日本人も理解したほうがよいだろう。できることならイスラム教と限らず、異文化における生活人の思考様式のごく常識的な部分は小冊子にして、中学生くらいから学んでおくとよいだろうが、そうした簡便な書籍はないのではないか。
 本書序章は、2006年サッカー・ワールドカップ、ドイツ大会の決勝戦で、フランス代表のジェネディーヌ・ジダン選手が、試合終了直前、イタリアチームのマルコ・マテラッツィ選手に暴力的な頭突きをした事件から切り出される。なぜジダンは自制できずに暴力に訴えたのか。当時は「なぜ」が話題になった。マテラッツィの映像から読唇術でメッセージを読み出そうとまでされたものだった。現在ではこの事件はかなりの部分解明されているのだが、著者内藤はその真相解明の報道以前に、事件の時点で、イスラム教徒なら誰でもジダンの怒りを理解した、理解できるのだ、と言う。ジダンを怒らせたのは、人種差別発言でも、テロリスト呼ばわりでもないと断言する。しかもあの怒りは十分に抑制され、そしてムスリムなら怒らなくてはならないものでもあったと続く。そのあたりの解説から、ムスリムの生活をつなぎ止める心情や、さらに西欧でムスリムが置かれている状況へと解説が進む。
 イスラム教をある程度理解する人間ならジダンの事件でもそれなりの想像は付くのだが、私が本書を読んで自身を無知だったなと思ったのは、ジダンの問題はその余波のほうが大きかったということだった。ジダンはこの事件の後、自分から真相は語らないまでもテレビ・インタビューに応じ、こう答えたという。「このような事件が起きると、いつでも自分のように(暴力的に)反応した者が罰せられる。だが、悪意の挑発をした者は罰せられない。それは不公正だ。挑発した側も罰せられるべきではないか」。それは当時のフランスにおける、ムスリム、さらには世界のムスリムの普通の心情を吐露したものであった。内藤は、ジダンのインタビュー後、フランスのジャーナリズムがこの問題に急に沈黙したと語っている。そこにこそ現在世界の、イスラムと西欧社会の断絶の象徴がある。
 本書中盤のドイツやデンマークの、移民のムスリムの事例も興味深い。ドイツの事例では、戦後ドイツに向かったイスラム教徒のトルコ人労働者は、西欧的なリベラルな風土を受け入れていた。飲酒も女遊びも自由であり、社会は表向き異文化・異宗教に「寛容」の建前をとっていた。移民の彼らは、そうした風土にしだいに自堕落になり自分を見失い、その反動として心の拠り所としてイスラム教を求めるようになったようだ。そして、2001年のテロ事件がきっかけになり、イスラム教徒排斥の機運が西洋で高まり、「寛容」が一気に反転し、追い詰められた移民のムスリムはいっそうイスラム教に生活の指針を求めるようになったという。
 寛容は宥和とは異なる。寛容は、「自分たちに干渉しなければ、(他者は好きではないが)我慢できる」というに過ぎない。そして「寛容」は、どうやら反転しうる欺瞞性を本質に秘めているようでもある。こうした大衆心情は、日本人にとっても他人事ではないよう思える。
 本書の終章のコラム「ムスリムはなぜオバマを支持したのか」にも興味深い指摘がある。すでに知られているように、米国オバマ大統領の父はイスラム教徒であり、イスラム教の考えかたからでは、父がイスラム教徒なら息子も自動的にイスラム教徒になる。イスラムの常識からすれば、オバマ大統領はイスラム教徒になる。オバマのフルネーム「バラク・フセイン・オバマ」の、フセインはムハンマドの後継者の名に由来し、バラクはイスラム教の「神の恩寵」を意味する。この名を負った男の現実の信教はキリスト教である。ということは、普通のイスラム教徒からすれば彼は棄教者である。イスラム法では死罪にも当たる。この話はすでに広く知られているところであり、知られていても西欧社会や東アジア諸国などではさして問題にもならないのだが、内藤はやはり潜在的な問題を秘めていると見ている。内藤はオバマ大統領に対するムスリムの心情をこう見ている。

 今後彼が、ムスリムに対して行うことになる「行為」をみてから判断しようというのである。それが良ければ改宗(棄教)問題は不問に付し、それが悪ければ棄教者として断罪することになるだろう。
 好きになった相手が敵だと知ったら、その反動としての怒りは大きくなってしまう。イスラムが、無用な争いを避けようとする平和的な性格をもっていることは間違いない。しかし、それが一瞬にして暴力もいとわない怒りへと激変するのも、イスラムの特徴である。

 残念ながらこの問題は、オバマ大統領の個人の努力だけでどうなるものではない。
 本書で内藤は、フランス流のライシテ(参照)について、かなりイスラムに同情的に見ているし、個々の事例では内藤の説明が説得的であり、さらに日本人としても表面的には宗教に寛容なことから、むしろフランス流のライシテのありかたに疑念を持つ人も多いだろう。またこの問題は西欧の思想として諸国に一貫しているものでもない。それでもライシテのような近代合理化・脱宗教化のイデオロギーというものは、それ独自の力と運動を持つ。なにより移民・黒人の大統領を生み出した米国的なリベラルなイデオロギーもライシテと類似の背景の力によるだろう。そう見れば、本質的な衝突は避けがたいこともあるだろう。

| | コメント (6) | トラックバック (1)

2009.06.20

中国に否定された朝日新聞の北朝鮮報道から見えてくること

 最初にお断りしたいのだが、このエントリは朝日新聞の批判を意図したものではけしてない。重要な問題が隠されているのではないかと思うので書いておきたい。

photo
 朝日新聞の北朝鮮報道に何か異常なことが起きているようだ。16日の朝日新聞だが1面トップで、金正日総書記の三男正雲氏が訪中し中国胡錦濤主席と隠密で会談したと報じた(参照)。しかし中国外務省の秦剛報道局副局長は同日の会見で「そのような状況は承知していない」と婉曲に朝日新聞の報道を否定した。
 ここまでなら、誤報なのか、中国政府側での事態の政治的な扱いについての表明であったのか、簡単には判断がつかない。ところがさらに朝日新聞は18日1面で、秦副局長の発言を踏まえたうえで、訪中詳細と金総書記の長男正男氏も同会談に同席していたと続報した(参照参照)。朝日新聞は中国の公式見解を否定して自社報道を真実だと強く訴えた。中国側が沈黙すれば、朝日新聞の報道を事実上中国が肯定することになる。
 ところが中国側は同日に素早く、さらに強く朝日新聞の報道を否定した。秦副局長は「日本の方々は東洋の含みのある言い方が理解できるに違いないと思っていた。まだ理解できないようなら今日はもう一歩進めて事をはっきりさせる」「私も関係メディアの報道を読んでみたが、まるで『007』の小説のようだと思った。彼らが次のシリーズで何を書くのか、私には知る由もない」と述べた(参照)。「朝日新聞」という固有名を出してはいないものの、該当報道は朝日新聞からしか出されていないので、これはかなり強烈な朝日新聞への否定であり、痛罵と言ってもよい。
 朝日新聞の報道に疑念を持った毎日新聞は朝日新聞の広報部に問いただしているが、「ご指摘いただいた北朝鮮についての一連の報道は、確かな取材に基づき記事にしたものです」とのコメント受けた。朝日新聞は今回の報道に確信的であり、その後の動きはない。
 ここまでで明確なことがある。中国の公式発表が正しければ、朝日新聞の報道はガセである。あるいは、朝日新聞の報道が正しければ、中国は公式に嘘をついている。どちらであろうか? 二律背反であって、一方が真で、他方が偽である。この状態が続けば、朝日新聞は中国の公式見解を否定しつづけることになる。
 朝日新聞の報道が正しいとしても、そのことは中国にとっては公式には不利益であることは確かだ。いったい背後で何が起きているのだろうか。
 報道の構図からすると、朝日新聞側が仕掛けていることは明らかであり、暗黙にこの報道による利益を得ている側になる。また朝日新聞は独自の情報源からこの情報を得ている。
 誰がこの情報を朝日新聞に流したのだろうか。記者の所在地は北京と明記されており、北京で得た情報であると見てよい。素直に考えれば、中国側に情報源があるが、その後の経緯からその情報源は公式見解と対立しているので、中国内での権力対立を反映した情報源だろう。なお、推論としては中国が最初から朝日新聞に泥を被せる手はずですべて仕組んだという可能性もゼロではないが、おそらくないだろう。
 情報の出所が北京という場所であり、また中国側の筋であったとしても、さらにその根に北朝鮮がいると仮定して、それほど陰謀論的な推測ではないだろう。というのも、今回の朝日新聞の報道以前から正雲氏を巡る怪情報は連発されており、それが北朝鮮に端を発していると見られるからだ。この読みは有力ではないだろうか。中国が公式に否定したのも対北朝鮮の関係から考えると妥当に思える。
 今回の朝日新聞の報道の根が北朝鮮発であるとすると、それはどのような意味を持つのだろうか。報道のメッセージの含みは「金正日総書記の三男正雲氏が正統後継者であることを中国が認可した」であると言ってよく、報道から結果的に明らかになったことは、中国は正雲氏を認可していないということだ。
 この構図からすると、北朝鮮の正雲氏支持勢力が事実無根でありながら、朝日新聞を使って中国側に打診してみたという筋が成り立つ。さらにこの報道が二段構えで中国側に太いチャネルを持つと見られる正男氏も是認したということも、北朝鮮の正雲氏勢力が背景にあるとの推測を支援するだろう。
 朝日新聞もなんらかのメリットでその側にいるとも見られるが、私の率直な印象に過ぎないが、朝日新聞は中国政府側から敵視されるほどの立場に立つとは思えないので、朝日新聞内部でも今回の報道には賛否があったのではないか。
 もう一つの読み筋として当然加えておかなければならないのは、朝日新聞が正しく、中国側が嘘をついている場合だ。この場合、「金正日総書記の三男正雲氏が正統後継者であることを中国が認可した」ということになんらかの真実が含まれるが、外交上公式にはされないということになる。この読みの妥当性はどのくらいだろうか。
 中国的な外交のあり方からすれば、他国の政治権力への加担は常にバランスを取る。例を日本に取るなら、中国政府は小沢一郎がどのようなポジションにあってもチャネルは維持しつづけたようなものだ。同様に考えるなら、中国は、正雲氏が北朝鮮王朝の正統後継者であるという線も、正男氏がそうであるという線もただバランスを取っているだけであり、むしろだからこそそこを北朝鮮の正雲氏支持勢力が焦って読み違えたか、読みを朝日新聞を使って押したのではないだろうか。私は今回の事態の背景はこれなのではないかという印象を持っている。
 今回の怪奇な報道の根には、当然ながら北朝鮮王朝の正統後継者問題がある。これには二面がある。正統後継者は誰かということと、正統後継者と目される人物が北朝鮮の権力を掌握しているかということだ。
 マスメディアからは前者の側面が話題になるが、より重要なのは後者であろう。金正日総書記の三男正雲氏が北朝鮮の権力を掌握しているのか、ということであり、それがそもそも問題だというのが北朝鮮の現状なのだろう。
 世襲制度に慣れきった日本人からすると、最高権力者である金正日総書記が独断で正統後継者を選定すれば問題はすべて解決するかのようなイメージを持つかもしれない。だが、現権力者の金正日総書記自身が王朝創立の金日成氏の正統後継者となる経緯もすでに明らかになっているように、その権力掌握の階梯は複雑であった。北朝鮮も国家であり、その国家幻想と機構に由来した独自の権力の力学があり、独裁者といえどもそこに調停的な機能と十分な権威の獲得が必要になる。金正日総書記もその階梯を慎重に辿ったことを考慮すると、階梯にも昇らないと見られる長男正男氏はプロセス上論外といってよく、次男正哲氏(27)と三男正雲氏(26)が残るが、両者ともに若過ぎて、その点では論外に近い。
 つまり、現状の北朝鮮の権力構造がすでに集団体制であり、集団間の権力は割れていて、正雲氏の支持者とそれ以外が存在するのだろう。
 この問題を北朝鮮の権力機構に即して考察するには、国防委員会と朝鮮労働党組織指導部の二つの機構が重要になる。両者は現実的には対立に近い位置にあるとしか見えない。北朝鮮の憲法規定からすれば、国防委員会が関わるべき軍は朝鮮労働党統制下に置かれるが、金正日総書記が先導した「先軍政治」への転換によって、国防委員会が北朝鮮の国家主権の最高軍事指導機関となっている。
 不確かな情報ではあるが、三男正雲氏は国防委員会の行政局に所属し、二男正哲氏は朝鮮労働党組織指導部の第一副部長に就任したとみられる(参照)。この情報が正しいとすれば、三男正雲氏が後継者として話題になるのは、国防委員会の権力の立ち位置に付随した事象にすぎない。
 推論に推論を重ねるようだが、金正日総書記の正統後継者が実際には不在であることが、国防委員会の突出を招き、朝鮮労働党などの他の権力機関を従属させなくてはならない事情を生んでいるのではないだろうか。
 今回の異常とも見える朝日新聞の報道は、結果的にその事情を日本人に知らせてくれているのではないか。

| | コメント (5) | トラックバック (1)

2009.06.19

イラン大統領選後混乱、雑感

 12日実施されたイラン大統領選挙だが、当初から西側の予想(参照)としては大差で現職アフマディネジャド大統領(52)の再選と見られていたので、私には選挙の不正を巡る現下進行中の騒動のほうが予想外であった。選挙の不正については、おそらく前回の選挙のほうが問題が多かっただろうが、あの時にはその後に大きな騒動はなかった。なぜ今回は騒動になったのか。
 アフマディネジャドに対立する、改革派と言われるムサビ元首相(67)が実際には優勢であったのだろうか。選挙前の報道に戻って調べ直すと、米国流のテレビ討論などの影響もあり、選挙が近くなるにつれムサビ支持が増えていったという経緯はありそうだ。その慣性的な力は今回の騒動の背景になってはいるのだろう。また、今回は前回の投票率62.8%を大きく上回る84.7%であったことからもわかるように熱い選挙でもあった。
 12日の投票は即日開票となり、翌朝開票率約90%の段階で、アフマディネジャドが66%、ムサビが33%の得票率と内務省が発表した。当選に必要な過半数の票を獲得したため、決選投票は否定された。印象としてだが、ムサビ支持が多いと予想された都市部でも不自然にアフマディネジャドの得票が多いといったことから不正はあったのではないかと思われるが、不正があったとしても、イラン国家全体として見れば、選挙の構図にはそれほど大きな変化はないのではないか。ムサビ側の反論も、開票の不正というより選挙そのものの仕切り直しを求めているようなので、今回の選挙の枠組みとしては敗北は織り込まれているように見える。
 騒動の原因は何なのだろうか。多くは失敗に終わった旧ソ連内国家での選挙を巡る騒乱のように西側諸国と関連する構図があるのだろうか。つまり、反米のアフマディネジャドに対して、親米的なムサビといった構図である。自由・開放政策を求めてのムサビ支持といったものはありそうだが、ホメイニ革命後、ホメイニ師の元で首相でもあったムサビということから考えても、ムサビ側に米国あるいは西側の影響といった構図はないだろう。西側からのムサビ支援も否定的に見られている(参照参照)。
 タイの選挙を巡る騒動に近いだろうか。自由経済化による新興勢力の台頭と旧支配階層の対立といったものである。イランの場合、よほど雑駁に見ればそうした構図がないわけでもないだろうが、その構図を採るならどちらが旧支配階層に近いのかと問うてみると明確ではないことがわかる。ムサビ側が改革派と言われるが、自身が富有階層の出身ではないアフマディネジャドのほうが、旧支配階層への対立・改革派に近いようにも見える。
 米国の選挙が中絶・銃規制・税制・同性愛といったお定まりの項目を持つ文化戦争であるように、項目のセットは異なるがイランにおいても単なる文化戦争なのだろうか。たしかに、テレビ討論では大きな対立があったかのようだが、文化戦争的な固定した価値観の対立ではなかった。対外的には、特に米国を中心に西側が関心を持つ核開発の可否についてなど、大きな争点になりえなかった。
 だとすれば、なにが対立なのだろうか。私は二点しか思いつかない。一点は、その国独自の歴史に根ざす対立する権力構造である。日本では自民党内ですら対立し、民主党内は野合化している。日本人ならそうしたお国のご事情といったものは察するに余りあるが、イランも日本同様に錯綜しているのではないか。また日本が米国の傀儡国家のような存在で、隣国韓国くらいしか類似国がない極東にあって孤立しているように、イランもスンニ派が多数占めるをアラブ世界にあっては孤立しているといった歴史・対外的な事情が独自の国内権力構造を色づけてている面もあるだろう。実際、本音のところでアラブ諸国は今回のイランの国内騒動で対外的な活動が沈静化されてよかったと安堵している(参照)。いずれにせよ、このお国のご事情といった局面は簡単には理解できない。
 そもそも、なぜ今回ムサビが出てきたのかというあたりで、対外的には予想されていなかった。予想という点ではハタミと見られていたはずだ。ではなぜハタミは出なかったのか。推測でしかないが、最高指導者ハメネイ師が出馬断念を迫ったという話がある。では、ハメネイとムサビの関係はどうかというと、対立しているという見方が多いだろうし、ハメネイはアフマディネジャドを支持している見方も多いだろう。しかし、そのあたりからはよくわからなくなる。ハメネイはアフマディネジャドが失脚した場合の保険をかけてムサビを容認しているとも考えられる。
 もう一点は、今回の騒動の支持者に目立つ若者は、ホメイニ革命後の世界に育った世代だということがある。イランは国民の四分の三が三十歳以下という若い人々の国である。アフマディネジャドと同じ年の私などからすればそう昔のことでもなく思い出すホメイニ革命は1979年の出来事だった。あの光景を見たこともない世代がイランには多いということが、実感としてこの国がどうなっているのかわからなくさせている。
 騒動の行方だが、ハメネイ師の存在が問題化されるとも思えないことと、適度な不安定要素が多方面で利点がある以上、しばらくイラン内政不安定な状態が安定的に続くのではないかと思う。騒動からムサビ政権といったものが実現したら驚きはするが、それでも対外的な変化というものはないだろう。

| | コメント (6) | トラックバック (1)

2009.06.15

郵便不正事件、厚労省局長逮捕、雑感

 障害者団体向け割引制度を悪用した郵便不正事件で、昨日、厚生労働省雇用均等・児童家庭局長、村木厚子容疑者(53)が逮捕された。逮捕は虚偽有印公文書作成・同行使容疑であり、具体的には、詐称障害者団体「凜の会」を障害者団体と認める偽の証明書および関連の偽の稟議書を作成した容疑である。
 事件は厚労省が組織的に関与した疑いもあり、「巨悪が潜んでいるにおいがする」と事実上更迭された鳩山邦夫前総務相は指摘したが、同様の印象を持つ人もいるだろう。
 大阪地検特捜部によると、村木容疑者は2004年6月、厚労省障害保健福祉部企画課課長だったとき、すでに逮捕されている同部企画課係長だった上村勉容疑者(39)と共謀し、偽の証明書を作成し、「凜の会」代表倉沢邦夫容疑者(73)に渡したとのことだ。
 これまでの推移から見る事件の構図では、当時の厚生労働省障害保健福祉部部長(退職後現福祉医療機構理事、名前はまだ公式には報道されていない)が、「凜の会」証明書発行について面識ある国会議員から要望を受け、「議員案件」として、当時の企画課長である村木容疑者らに対応を指示したものとされている。当然、事件の関心の一端は、該当国会議員にも及ぶはずだがまだ検察側の動きはない。
 報道ではすでに、倉沢容疑者が石井一参院議員・民主党副代表の私設秘書だったことから、石井議員の名を借りて厚生労働省に圧力をかけたのではないかとの疑いが出ている。だが、石井議員は否定している。
 疑惑の議員ということでは、民主党の牧義夫衆院議員もすでに報道で話題になっている。牧議員は「凛の会」改名後の「白山会」会長の守田義国容疑者(69)と懇意にしており、2007年1月白山会のダイレクトメールの返送先不信の問題で守田容疑者の陳情を受けたり、白山会のライバル団体の活動を牽制する依頼も受けたりしている。牧議員は、鳩山邦夫元総務相の秘書を経て、2000年の衆議院議員総選挙で初当選しているが、そのあたりから鳩山元総務相は巨悪の臭いを察したのかもしれない。
 国会議員の関与では、村木容疑者側にも検察は疑念を向けている。村木容疑者は障害者支援費制度の予算不足を補う障害者自立支援法案(2005年成立)作成の中心的存在であり国会議員の根回しが必要で、そのために国会議員の便宜を図ったのではないかという疑念だ。
 郵政側も組織的に犯罪に関与していた疑いがある。偽文書による「低料第3種郵便物制度」を承認・決裁した当時の日本郵政公社東京支社長は村木容疑者の親族の「知人」でもあったようだ(参照)。このルートでも国会議員の関与は疑われている(参照)。
 事件に国会議員が関与している疑いは濃いが、それが石井議員と牧議員の二人であったかは現時点ではわからない。しかし二人が民主党の議員であることから、当然政局がらみの思惑が出てくることは避けがたい。
 事件の構図からすれば不正の要点は、立場上村木容疑者になるが、5月時点で行われた取材「厚労省局長と一問一答 郵便制度悪用事件」(参照)からは、不正の意図があったとは私には感じ取れないし、逆に否認に合理性が感じられる


-この件で課長公印を使ったことは。
「ない。管理は別の職員がしている。報道で公印と知り、『えー』という感じだった。本物が使われたとは考えづらい」
-国会議員から口添えなどがあったことは。
「議員から何かあれば記憶に残るが、記憶にない。あれば異様な感じがするはずだ」

 今回の容疑は公文書の偽造だが、そもそも村木容疑者の立場にあれば、自身で証明書発行を決裁できたようだ。
 事件の根幹部分は依然杳としてわからない、中心的な役割をしている国会議員は別にいるのかもしれないし、厚労省側の過剰な忖度から生まれた幻影であるかもしれない。あるいは結果的に億単位の不正とはなったが、事務処理としてはごく日常的に行われていたか、当時の障害者団体への早急の保護から形式的に行われた不正であったかもしれない。
 福祉医療機構理事の捜査結果が見えない現時点での私の印象では、巨悪が潜んでいる臭いはしない。入り組んだ伝言ゲームの混乱からできるだけ面白いプロットを引きだそうとして、混迷を深めているのではないか。

| | コメント (8) | トラックバック (1)

2009.06.14

[書評]武士から王へ - お上の物語(本郷和人)

 「武士から王へ - お上の物語(本郷和人)」(参照)は、日本中世において武士が王に変遷していく過程と体制を新視点から議論ししている。「王」を主題に据えた、日本の王権論でもあるが、読後の印象としては、そうした特定のテーマより、コンサイスな日本史概説として優れた叙述になっていた。

cover
武士から王へ
本郷和人
 通常の意味で日本史概説なら通史的であるべきだが、本書は古代史と近代史・現代史は除外され、時代区分では中世史のみを扱っている。テーマも時代も限定されるがゆえに、現代人の知的な関心としても限定されるだろうが、その核心を背理的に言うなら、日本史の理解にしばしば必然的に仕組まれる右派及び左派の天皇幻想を解体する点で極めて現代的な知的課題でもある。
 例を挙げよう。本書は、中世以降、皇位は誰が決めたのかと問い、武家であると答える。義務教育の範囲の歴史知識でも単純に答えられることだと単純に思う人もいるだろう。しかし、では、承久の乱の結末をどう見るか。天皇は退位させられ、上皇や皇子たちは流刑に処せられたが、天皇や上皇の罰則規定を誰が持っていたのか? やはり武家である、と答えられるだろうか。乱後の皇位を決めたのも武家であり、武家が皇統を決めているのである。そうすっぱりと答えることができただろうか。
 本書はこうも問う、皇位を兄弟が争うのは珍しいことではないが、鎌倉時代後半の時代に限ってなぜ二系の皇統が併存したのか? これも義務教育の歴史で答えられるようにも思えるが、その本質を、武家が制御していたからだときっぱりと言えるだろうか。武家は皇統を分割統治していたとシンプルに日本史を理解できていたのだろうか。皇統は武家に制御され、自律性はない。武家が日本国の王だったであり、標題の「武士から王へ」につながる。その明白さを、なにかが眩ませているのではないかと、本書を読みながら気づかされる。
 さらに鎌倉幕府の成立年はいつかと問うてみよう。昨今これに諸説があることが話題になる。諸説あり、折衷説としては、ある一時期に成立したのではなく段階的に成立したという、結果的に歴史観をナンセンスに帰す説明が与えられることもある。従来は1192年と言われたものだ。「イイクニ作ろう鎌倉幕府」である。この年は何を意味しているかといえば、 頼朝が天皇から征夷大将軍に任じられた年である。つまり、それは天皇を国家の最高権威とする天皇史観にすぎない。別解に1185年の文治の勅許があるが、それもまた天皇史観に過ぎない。日本史と名付けられた叙述のそこここに天皇史観が埋め込まれている。天皇史観は右派の作為のようでもあるが、同時に天皇を敵視した左派の史観でもある。天皇から考えるをやめて、現実の王権から日本史を見据えたらどうなるのか。
 本書は鎌倉幕府の成立年について「一一八〇(治承四)年十月六日。それ以外にはあり得ない」と確言する。 それは王権から日本史を見た姿だ。頼朝が東国御家人を従えて鎌倉に入ったとき、彼は王になり、鎌倉幕府は成立した。
 関連して福原幕府の可能性も興味深い。朝廷の知行国制度を蚕食した平清盛は武士を結集する場所として福原を想定していた。本書はそれも幕府になり得たかもしれないと指摘する。言われて見れば当たり前のようだし、そもそも源平というのは武家を指しているのだから、頼朝と大きく違うわけではない。その考えのほうが自然でありながら、鎌倉幕府という王権を確立する歴史に滑らかな推移を、私は本書が指摘するまで想定していなかった。
 示唆的な指摘は随所にある。著者は「偶然であろうが」と遁辞を付しているものの、1392年の南北朝分離の終焉を経て、天皇権限を包含した室町殿こと足利義満の日本国王化と、同年の李氏朝鮮の成立の成立に共通する海民の運動を想像している。私は日本国というのは正式には日本・琉球国であり、よってその歴史は琉球史を総括する形で東アジアの歴史のなかで書き改めなくてはならないだろうと思っていることもあり、興味深く思った。
 本書は概説的であるにもかかわらず、各種挿話も豊富であり、多少言葉遣いが難しい点を除けば、日本史を好む高校生にも読めるだろう。
 本書の史学での位置づけは、その冒頭にもあるように、戦後の黒田俊雄による「権門体制論」に対する佐藤進一による「東国国家論」の止揚であり、著者の師匠にあたる五味文彦による「二つの王権論」の発展・継承になっている。
 本書の構成だが、「第2章 中世の王権」はすでに触れたように権門体制論か東国国家論かの史学動向を扱い、「第2章 実情(ザイン)と当為(ゾルレン)」は史学方法論を整理し、「第3章 武門の覇者から為政者へ」は武家王権の二面性としての主従制と統治権を議論している。この3章で基礎的な説明が終わる。
 「第4章 土地と貨幣」以降は個別の話題の展開になり、啓発的な着想がちりばめられているものの、やや散漫な叙述になる印象は否めない。「第5章 東と西」を経た、「第6章 顕密仏教と新しい仏教」「第7章 一向宗、一神教、あるいは唯一の王」では、いわゆる個人救済の近代宗教の観点から見られがちな仏教を、実際の史実に即し、王権との関連で捉えている。当然ながら神仏分離以前の歴史であり、八幡神についての言及も多い。
 仏教の関連で本書は「神国日本」(参照)を引き、神皇正統記冒頭「大日本者神國也(大日本ハ神國ナリ)」を本地垂迹説、つまり「日本は仏が神として現れる国」として説明し読者の注意を引いている。この文言は近代神道的な解釈からよく誤解される点であり、実歴史の文脈から日本史の常識として広めたいという意図もあるのだろう。

| | コメント (7)

2009.06.13

鳩山邦夫総務相更迭、雑感

 日本郵政西川善文社長の再任を認めないとする鳩山邦夫総務相を麻生首相が事実上、更迭し、昨日は話題になった。
 形式的に見れば鳩山前総務相に問題はなかった。日本郵政株式会社法第九条に「会社の取締役の選任及び解任並びに監査役の選任及び解任の決議は、総務大臣の認可を受けなければ、その効力を生じない」とあり、社長選任の非認可は総務相の権限行使の正当な範囲である。問題があるとすれば、総務相の判断が政府を代表していない場合であり、今回はそれに相当した。首相は不適切な閣僚を任命したことになる。だが今回の騒動はそれだけで済むことではない。世論の一部は由々しき問題のように見ていたし、与党も野党も麻生内閣への不信といった構図で批判していた。鳩山前総務相の主張の是非が問われたかのようにも見えた。
 鳩山前総務相は更迭されるにあたり、征韓論で敗れた西郷隆盛の「岩倉公、過てり」の故事を引き、麻生首相を岩倉具視に模し、自身を西郷に重ねて正義を語った。「どんなに不透明で悪事をはたらいていても、私がそのことをはっきり説明を、世の中に対しても、してきましたが、今の政治は正しいことを言っても認められないことがある」と今西郷にとって悪は日本郵政である。日本共産党のようにそれを支持する世論もある(参照)。
 確かに「かんぽの宿」入札については、日本郵政財務アドバイザーだったメリルリンチ日本証券は、譲渡後収益を見込んでいたのに日本郵政は「赤字の不採算事業」と変な主張をしていたし、譲渡価格の低さから譲渡中止の提案もしたが日本郵政はなぜか無視した。鳩山前総務相によって不透明性の所在は明かになった。だが、違法性があったわけではない。不透明ではあるが、鳩山預言者が糾弾する「悪事」はそこにはない。あると想定されていたのは、おそらく譲渡先に想定された宮内義彦会長率いるオリックス・グループの関連なのだろう。
 隠された「悪事」があるかもしれないが明らかになったわけではなく、その解明は司直の仕事であり、総務相の職務ではない。日本郵政株式会社法第九条は通常の会社と同様「会社の取締役」の職能を問うものである。西川善文社長の経営能力は無能なのか。
 日本郵政の取締役人事を決める指名委員会は西川氏を社長に推したことから、有能であると判断している。同委員会は有力財界人、委員長の牛尾治朗・ウシオ電機会長、奥田碩・トヨタ自動車相談役、丹羽宇一郎・伊藤忠商事会長が社外取締役として名を連ねており、この文脈で見れば鳩山前総務相が対立したのは同委員会であり、自民党の企業献金の実質的な水源でもある財界であった。
 実績については先月22日に発表された日本郵政民営化後初の通期業績が判断材料になる。平成21年3月期連結決算は最終利益が4227億円で、昨年11月時点の予想より8.1%減少だったが、NTTに次ぐ国内最高益を叩き出し、傘下4会社とも黒字を確保した。経済危機にあっても、国債中心の堅実な資金運用で損を最小限度に留めた。
 西川社長は経営に有能である。とすれば、鳩山前総務相のほうがその職能において無能だったのではないか。今回の事態は無能な閣僚が排除されたことになる。
 過程から今回の事態を見れば、そう単純ではない。もつれ込んでいたのは、鳩山前総務相の意図が、西川社長の経営能力や個別の経営過程の判断ではなく、小泉元首相による郵政民営化の路線転換であったからだろう。中川秀直らの反発もそれを物語っている。
 麻生首相による更迭判断が遅れたのも、鳩山前総務相が当然視していたように、麻生首相も彼と同じ意見を秘めていた。両者は小泉元首相による郵政民営化に賛同しておらず、西川氏排除をとば口に郵政民営化路線転換を推進しようとしていた。鳩山前総務相は、麻生首相の真意を察し気概をもって鉄砲玉を買って出たつもりだった。
 結果から見ると鉄砲玉の忖度は少しずれていた。麻生首相がここまで問題をぐずつかせたのは、馬謖を斬るに涙もなかったと見る向きもあるが、私は彼なりの損得計算をしていたからだろうと想像する。得は、単純に総選挙へ向けて麻生政権支持の空気を醸すことだが、変節漢にも見えるほどのリアリストに純朴な正義感はないし、世間の空気があっぱれ悪代官退治で喝采するとまで期待はしてないだろう。であれば、この仕掛け、本人はどこに利を見ていたか。
 反小泉の爆竹で踊る勢力への仕掛けはあった。前提となるのは、総選挙後の小泉チルドレンの総崩れだ。全滅とまではいかなくても大半は消える。早々に自民党から差っ引いて党内を見ておくべきだ。むしろこの機に小泉勢力一掃に着手し、小泉元首相が壊した自民党を復元するための結束力を育成するか、あるいは白黒付ける踏み絵でも出しておいたほうがよい。
 仕掛けには総選挙後の自民党敗退も読み込まれただろう。麻生コアの自民党はかなり縮退した存在になり、もはや政権は維持できなくなるだろうが、そのまま野党に落ちるのではなく、麻生太郎は大連立政権において首相を獲得しようとする野心があるのではないか。というのも、この仕掛けには国民新党や民主党の一部の取り込みのメッセージがあり、結果的に民主党を筆頭に野党は応答していた。麻生政権の指導力を批判しても、鳩山前総務相の理不尽さへの批判はなく、郵政民営化路線転換への共感があった。

 ***  ***  ***

 今回のドタバタにまつわる奇っ怪な噂を少し整理しておきたい。重要なのは、小沢・福田大連立構想のフィクサー読売新聞渡辺恒雄のまたかよの登場である。毎日新聞記事「鳩山総務相更迭:西川氏謝罪で続投案 最後の妥協策決裂」(参照)によれば、渡辺氏の動きが鳩山前総務相のボルテージを上げたとのこと。


 鳩山氏が公の場で西川氏の進退に初めて言及したのは、5月8日の衆院予算委員会での答弁だった。
 その後、西川氏の後任探しにも動き、鳩山氏は5月27日には、鳩山氏と懇意な渡辺恒雄読売新聞グループ本社会長兼主筆から西室泰三東京証券取引所会長でめどがついたとの連絡を受け、西川氏の交代に自信を示した。
 鳩山氏のボルテージは6月に入って急激に上がっていく。
 6月3日夕。鳩山氏は渡辺氏と東京都内で極秘に会談した。関係者によると渡辺氏は「鳩山さん、あなたは英雄だ。西川は悪者だ」と激励。さらに「あなたを切って西川を残す。これがどういうことか。簡単に分かる話なのに、麻生(首相)も与謝野(馨財務・金融・経済財政担当相)も分かっていない」と語った。渡辺氏の一言一言が鳩山氏を鼓舞したのは間違いない。

 ただのフカシの可能性はあるが、この渡辺氏が、(1)西川社長の後任の用意、(2)西川は悪者だ、(3)麻生も与謝野もだめだ、としている3点は興味深い。後任の話は後回しにして、この渡辺氏がなぜ西川を悪者だと見ていたかだが、今後オリックス・グループと読売新聞の関連は注視が必要になるだろう。
 それ以前に、読売新聞ソースは報道というより、これからの政局のプレーヤーという可能性がかなり高くなる。今日の読売新聞社説「鳩山総務相更迭 日本郵政は体制を一新せよ」(参照)もその線からすでに読み応えがある。

 今回の問題の核心は、「かんぽの宿」の不明朗な売却手続きなど不祥事が続発しているのに、西川社長が経営者としての責任を果たさなかったことにある。
 ところが、鳩山氏の発言が「罷免されても再任に反対する」とエスカレートするにつれ、「社長を辞めさせれば郵政民営化が後退する」といった、別次元の議論にすり替わってしまった。

 「経営者としての責任」はまさに経営の健全性にあるが、そこがすでに頭から抜けており、しかも「別次元の議論にすり替わって」として読売新聞が別の議論へのすり替えを始めている修辞が心地よい。

 首相は、西川社長の責任問題について、自ら明確な判断を示す必要がある。

 なお執念を見せるあたりも面白いが、悔し紛れ以上はないだろう。
 渡辺氏が持ち出した後任の話には関連がある。まさに読売新聞記事「強気の西川社長、後ろ盾は「小泉人脈」有力財界人」(参照)だが、それってプレヤーの独白で報道じゃないだろの雰囲気がある。

 指名委員会は5月18日に西川社長の続投を決めた。実はそれ以前、西川氏の進退問題が浮上した今春に、財界の中枢で後任候補の人選が極秘裏に進んだことがある。
 しかし、リストに挙げられた候補者が相次いで固辞。さらに小泉元首相の人脈が「火消し」に動く一方、西川氏に対しては「自分から辞めると言わないことが、一番大事だ」と支え、後任探しはさたやみになった。
 その後、麻生首相や鳩山氏が後任探しに乗り出す場面もあったが、民間人が財界の後押しもなく「火中の栗を拾う」のは厳しい。「指名委員会が西川氏続投を決めた時点で、勝負はついていたのかもしれない」(財界関係者)。有力な後任を見つけられなかったことも、西川社長の続投やむなしとの判断につながった。

 財界側でも西川後任を画策したが決まらず、小泉元首相の人脈が西川氏を推したという。これに対して、「麻生首相や鳩山氏が後任探しに乗り出す場面」というのは実質渡辺氏側の動きだったのだろう。
 読売新聞が出してきた面白構図はそう単純でもないだろう。産経新聞記事「更迭劇の舞台裏 「けんか両成敗」か「鳩山切り」か」(参照)も事実とは思えない別の面白さがある。

「総理、ちょっと聞いていただけますか」
 鳩山はブランデーグラスを傾けながらこう続けた。
 「私は総理に出会えて幸せだったし、感謝しています。3年前の党総裁選で総理の選対本部長になるとき、仲間は『総理になれない人を応援したら鳩山邦夫に傷がつく』と言ったが、私はなにくそと思い、麻生を総理にしようと頑張った。だからこの2年間は本当に幸せだった…」
 情にもろい麻生は黙って聞き入り、この夜に2人は日本郵政の一件に深入りすることはなかった。
 だが、鳩山の言動はジワジワと自民党に不穏な空気を広げていった。まず動いたのは元首相の森喜朗、前自民党参院議員会長の青木幹雄の重鎮2人だった。2人は8日夜、都内のホテルで麻生とひそかに会い、こう耳打ちした。
 「鳩山も西川もどっちもどっちだ。けんか両成敗で一両日中に2人とも切れ。党内は何とかする」
 2人に背中を押されるように麻生は9日、西川、鳩山の更迭に向け、一気に動き出した。これに「待った」をかけたのが、麻生の腹心である選対副委員長・菅義偉だった。

 2年間二人は本当に幸せだったとほのぼのとした笑いはさておき、小渕元首相の突然死に湧き出たリトルピープルのような森喜朗元首相と青木幹雄前自民党参院議員会長の登場が不気味だ。鳩山も西川も切れというのは尋常ではないが、麻生首相にしてみれば、鳩山前総務相を切ることで西川氏が切れるなら、この勝負結果的には鳩山経由で麻生のけっこうな儲けになる。だが、そこで直江兼次が登場みたいな愉快な展開になる。

 菅は、構造改革路線の見直しを進める麻生に不信感を募らせる若手・中堅議員の「なだめ役」を務めてきた。反麻生勢力のリーダーである元幹事長・中川秀直らが倒閣に動かなかったのも菅の存在が大きい。菅は西川更迭により、郵政解散の「大義」を失った若手・中堅が麻生降ろしに動くことを極度に恐れていた。
 すでに兆候はあった。元首相・小泉純一郎は西川に電話をかけ、「絶対に辞めてはいけない」と激励。中川は「西川氏を更迭すれば行動を起こさなければならない」と気勢を上げた。
 元首相・安倍晋三も10日夜、麻生に電話をかけてこう諭した。
 「2人を更迭して納得する自民党議員は1人もいないじゃないですか」
 さすがの麻生も方針を転換し、官房長官・河村建夫を介して2人の和解を画策する。河村は「西川に土下座でも何でもさせるから妥協してくれ」と懇願したが、鳩山は譲らなかった。

 それが真相かと言いたくなるような「いい話だなぁ」であるし、その後の動きを見ていると、実際これに近い話はあっただろう。なにかと小泉元首相を繰り出す小話にリアリティはないが、中川秀直らの倒閣阻止や安倍元首相のくだりは多少リアリティもある。
 私としては麻生首相に方向転換などなく、利の取れるところで手仕舞いはしたし、それなりの仕込みは終えたというだけのことに見える。

| | コメント (9) | トラックバック (0)

2009.06.10

足利幼女殺害事件冤罪、雑感

 DNA再鑑定の結果から刑事訴訟法第435条「無罪を言い渡すべき明らかな新証拠」が見つかったとして足利幼女殺害事件が再審となり、すでに検察からの謝罪もあることからも、菅家利和さんは無罪になるだろう。無辜の市民を殺人罪で無期懲役刑とし、17年半も拘留・服役させたというのは、しかもそれを最高裁が決定したとなれば、この国の市民として、恐怖を覚える。また同じ市民として不当につらい思いをさせたという責務も覚える。なぜこんなことになったのか、この冤罪をどう日本の司法に結びつけていけばよいのか、いろいろな議論があるだろう。私は、ネット上にある「菅家さんを支える会・栃木」(参照)の資料と、この事件関連の過去の報道を少しめくってみた。暗澹たる思いがした。
 私がこの事件について、個人的にだが「これはどういうことなんだろうか?」と疑念に立ち返ったのは、1994年のO・J・シンプソン事件の裁判の経過だった。この裁判では、人種差別と並んでDNA鑑定が話題になった。確か、O・J邸で発見された手袋には被害者と同じDNAの血痕があった。当時のDNA鑑定でも個人特定は確率的ではあるものの、私はこの裁判はこれで決したと思ったが、そうはならなかった。陪審員に科学的な知識がないのだろうとも思ったが、それで割り切れる話でもない。ただ、DNA鑑定は法のプロセスではそう絶対的なものではないなとは思った。
 O・J・シンプソン事件については、当時米人と酒の上でけっこうざっくばらんな話も聞いたものだが、そして率直に言ってこの事件は今でもよくわからないところがあるが、それでも事件現場の捜査・証拠の採取プロセスが疑念に挙げられた経緯から、とりあえず私の理解としては、日本でよく「推定無罪」として誤解される、「無罪の推定」(presumption of innocence)との関連で、検察官が犯罪事実の立証責任を負うがゆえに、その証拠収集の過程で違法性であれば、その時点で無罪・終了になる、ということだったのではないか。と同時に、この考え方というのは、専門の方は別として、およそ普通の日本人には理解できないのではないかとも思った。「こいつが犯人だ」と証拠もあり確信しても無罪を言い渡さなければならない状況というものが司法なのだと日本人は受け入れることができるだろうか。無理だろうと思っていたが、先日NHKのドラマ「Q.E.D. 証明終了」の最終回「立証責任」(参照)がまさにこれをテーマにしていて、感動した。若い人がこの番組を見る機会があれば勧めたい。調べてみると原作は「Q.E.D. - 証明終了- 27 (加藤元浩)」(参照)ということなので、私も購入してこちらも読んでみよう。
 事件当時の新聞記事から主立った記事を不快極まる思いで読んでいくなかで、事件から随分日の経った記事ではあるが、1999年に弁護士の仕事を扱った読売新聞の連載記事「鑑定との戦い "怪物"DNAに挑む」(1999.4.25)が当時の内情を示唆しているように思えた。


個人識別「絶対ではない」
 「幼女殺し容疑者浮かぶ/DNA鑑定で一致」
 一九九一年十二月一日、新聞にこんな見出しが躍った。栃木県足利市で四歳の幼女が誘拐され、殺害された「足利事件」。最先端鑑定が“決め手”となって、容疑者が特定されたことを大々的に報じていた。
 翌日、菅家利和被告(52)が逮捕された。数日後、栃木県弁護士会所属の梅沢錦治弁護士(68)のもとに、弁護の依頼が来た。
 DNA鑑定で話題の事件とは知っていた。だが、「DNAがどんなものやら全然、知らなかった」
 三度目の接見。「やったのか?」と聞くと、菅家被告は「うん」と答えた。
 犯人であることが前提の弁護になった。だが、DNA鑑定の信用性については争うつもりだった。「訳の分からないまま受け入れられないし、世間でもこの鑑定が注目されていた」
 まずはDNA鑑定の「正体」を知ることが必要だった。市内の書店を回ったが、参考書は一冊もない。知人の大学教授に論文を送ってもらったが、すべて英語で、翻訳を読んでもチンプンカンプン。結局、検察官から参考書を借りた。

 逮捕数日後、弁護士を責める意図はないが、「犯人であることが前提の弁護」が行われたというのだ。この弁護士と限らず、まだDNA鑑定がどのようなものか理解されてはいなかったが、それ以前に立証責任のあり方もまた問われない前提だったのように見える。

 「家族に出した手紙に無実だと書いてるが、どういう意味ですか?」
 九二年十二月の公判。梅沢弁護士は、菅家被告にただした。一年も前から、家族に無実を訴える手紙を出し続けていたことを、最近になって知らされた梅沢弁護士が、真意を確かめようとしたのだ。
 「無実というのは、やってないということですね」と、菅家被告。初めての犯行否認だった。
 その次の公判で、菅家被告は再び罪を認めたが、結審後、今度は梅沢弁護士に手紙を送って直接、無実を訴えた。
 だが、判決は求刑通り無期懲役。DNA鑑定については「科学的根拠に基づくもので信用できる」と認定された。
 梅沢弁護士は「一生懸命勉強したが、結局、素人には顕微鏡の下の世界は分からなかった」と述懐し、菅家被告の主張の変転については、今も首をひねる。


 「突然リングに上げられ、DNAという怪獣と戦わされたつらさは分かる。でも、被告が無実を主張する以上、なんとかしてやらないと」
 一審の経過を知り、控訴審から主任弁護人になった佐藤博史弁護士(50)(第二東京弁護士会)はそう思った。
 検討すればするほど、被告の自白には不自然な点が目立つ。供述の変遷も、接見を重ね、被告の気の弱い性格などを知るにつれ、理解できるようになった。
 当初、被告と同じDNA型を持つ人の比率は「千人に一・二人」とされていた。二審で弁護側は、最近ではそれが「千人に五・四人」に変わって来たことなどを強調、「DNA鑑定を過大評価すべきでない」と無実を主張した。しかし、二審・東京高裁は九六年五月、控訴を棄却した。

 この事件に記憶のある人なら、当時この事件の関連で別の二件の幼女殺害も自供したことを覚えているだろう。だが、二件は嫌疑不十分になった。いくら警察の筋書きどおりに自白しても事実と辻褄が合わなかったのだ。

 弁護団会議で、「独自に被告のDNA鑑定をやり直してみては」という話が出たのは上告後のことだ。被告の髪の毛を大学の研究室で鑑定したところ、従来の鑑定結果と違っていた。
 思わぬ発見だった。だが、被害者の着衣に付着した犯人の体液を再鑑定し、髪の毛で出た結果と違うことを確認しない限り、無罪は証明できない。弁護団はいま、最高裁にこの再鑑定を求めている。

 年表を見ると、弁護団主導の鑑定が行われたのは1996年のようだ。12年ほど前のことになる。このときの科学水準は今日のDNA鑑定の水準とは異なるだろうが、それでも事件時の鑑定とは異なっていた可能性は高い。DNA鑑定が重要な意味をもつ裁判であればこそ、その疑念を扱うべきだっただろうし、おそらくその時点の鑑定があれば、その時点で菅家さんは釈放され、日本国と司法はここまで深い罪を負うことにはならなかっただろう。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2009.06.09

日本の牛海綿状脳症(BSE)リスク管理が国際的に評価された

 少し旧聞になるが、先月26日、パリで開催された国際獣疫事務局(OIE)総会にて、OIE加盟国としての日本が、牛海綿状脳症(BSE)発生リスクについて、ようやく米国と同水準の「管理されたリスク」の国へ格上げの決定がなされ、総会最終日に正式に採択された(参照)。
 OIEのBSEリスク管理については3段階があり、オーストラリア、ニュージーランド、アルゼンチンなどが最上位の「無視できるリスク」の国で、今回の総会でチリもそれに加わった。今回日本が格上げ評価されることになった「管理されたリスク」の国は、その下位に位置し、すでにこの位置にある米国同様、牛の年齢に関係なく牛肉を輸出できるようになる。最下位は従来日本が所属していた「不明のリスク国」であり、リスク不明ということは、リスクがあると見なされることを含意している。日本は、つまり、2009年5月まで、米国に比べBSEリスクの高い国であるというのが、国際的な評価であった。
 科学的に考えるなら、狂牛病から人間への病原体感染を恐れるのであれば、国産牛よりも米国牛を食べたほうがよいという状態であったが、日本では逆の印象を持つ人が多かったようだ。今後は、今回のOIE総会決議をお墨付きとして、日本国内の牛肉もより安心して食べられるようにもなり、他国にも和牛の肉を自信をもって輸出できるようになる。
 牛肉の輸出入の規定についても今回のOIE総会で変更があった。従来輸出入できる牛肉の条件として、「30カ未満の骨なし牛肉」という月齢条件があったが、今総会で撤廃された。今後は「全月齢の骨なし牛肉」が条件となる。規定は双務的であり、同ランクの日米では、当然ながら今後、同等の態度が求められるようになる。リスク管理最低国の日本が対米国に独自に設けていた「月齢20カ月以下の牛肉」という規制も、国際ルール上の根拠を失い、米国から強い是正を求められる可能性が高い。
 それにしてもなぜ日本はBSEについて、食の安全が国内的に話題となっていたにもかかわらず結果的に長期にわたり「不明のリスク国」に甘んじていたのか。一般的な印象としては、「安全対策として他国には見られない全頭検査も行っていたのに疑問だ」という思いもあるかもしれない。だが、全頭検査は科学的にはナンセンスとういうのが国際的な常識でもあり、OIEが求めるリスク管理の方向性とは異なっていた。簡単に言えば、全頭検査はリスク管理には役立たず、もっと重要なリスク管理が、あたかも情報操作があったかのような意図的に見えるほどに、日本では看過されていた。ピッシングである。
 ピッシングは、牛の前頭骨に開けた穴にピッシングロッドを挿入し、脳・脊髄を破壊する屠殺工程である。作業員の労働安全を図るために、牛が痙攣で跳ね上がることを防止する手法だが、同時に、BSE特定危険部位である脳・脊髄が破壊されることで、血液などを介して他の部位を汚染する可能性がある。
 BSE先進国という汚名を負った欧米諸国では、BSEのリスク管理としてピッシング廃止に注力し、日本でも2005年、食品安全委員会による「我が国における牛海綿状脳症(BSE)対策に係る食品健康影響評価」で指摘されていたが(参照)、日本ではピッシングなしで作業員の安全を確保するのは難しいとする業界を配慮してこの間、実現できずにいた。ようやく4年を経て廃止に及び、これを契機にOIE総会へのリスクのランク変更が可能になった。
 4年間を長いと見るべきか短いと見るべきかには、評価があってしかるべきようにも思われる。また、BSEのリスク管理として日本国内で実施された全頭検査は2001年からであり、その間として見るなら、8年を経たことになる。
 BSE対策における、実質的な食の安全性への遅滞は、あたかも国民の健康よりも、食肉業界を考慮したかのように見えないこともないが、あるいはこれには別の視点も成り立つかもしれない。手短に言えば、BSEのリスクは、適切な対応採るなら、そもそも高くはないという視点である。
 イギリスを除いたBSE発生の統計として、"OIE - World animal health situation - No. of reported cases of BSE worldwide"(参照)があるが、これを見ても明らかなように、BSEの発生件数は近年激減しており、その理由はOIEのリスク管理指針の正しさを結果的に示している。一部では、天然痘を人類が制圧したように、BSEも正しい科学的なリスク管理によって制圧されたと見る向きもあるが、実際の統計からは理解できる。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009.06.06

[書評]1Q84 book1, book2 (村上春樹)

 文学は社会が隠蔽すべき猥雑で危険な思想をあたかもそうではないかのように見せかけつつ、公然に晒す営みである。日本の、物語の出で来初めの祖なる「竹取物語」は天皇とその体制を愚弄する笑話であった。日本の歴史を俯瞰して最高の文学であるとされる「源氏物語」は天皇の愛人を近親相姦で孕ませ、それで足りず少女を和姦に見立てて姦通する物語である。

cover
1Q84 BOOK 1
 同様に村上春樹の「1Q84」(book1参照book2参照)の2巻までは、17歳の少女を29歳の男が和姦に見立たて姦通する、「犯罪」の物語である。また国家に収納されない暴力によって人々が強い絆で結ばれていく、極めて反社会的な物語でもある。それが、そう読めないなら、文学は成功している。あたかも、カルトの信者がその教義のなかに居て世界の真実と善に疑念を持たないように。いや、私は間違っている。「1Q84」は、私たちの社会がその真実と善に疑念を持ち得ないような閉塞なカルトに近く変性したことに疑義を植えつつある。
 物語は、「青豆」という変わった名字のスポーツ・インストラクター兼ロルフィングのようなマッサージ師兼、殺し屋の29歳の女性と、代々木の予備校で数学教師をしながら文学賞を狙うべく小説を書き続ける同年生まれの男性、川奈天吾の二人を主人公とし、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(参照)のように、青豆の物語と天吾の物語が一章ずつ交互に書かれている。一方がリアルワールドで他方がファンタジーという構成は表向き取っていないかに見えるが、読み進むにつれわかるのだが、青豆の物語が天吾の物語が生み出したフィクションであることが明かされ、さらにフィクションが相互の物語を浸蝕していく。メタフィクションが小説論と作者村上春樹の執筆心情を巻き込み、独特のハイパーリアルな世界を形成していく。春樹らしい趣向である。
cover
1Q84 BOOK 2
 Book1、Book2ともに全章はきちんと24章で構成され、1巻ごとに4月から1984年の四季の時間を追っている。正確には1984年という実際の歴史時間ではなく、タクシーに乗りヤナーチェクを聞きながら青豆が殺人に急ぎ、渋滞する高速道路を降りた時点から宇宙は異質な時間に流れ込み、天界に月は2つ浮かぶ。青豆はその世界を1984年と区別し1Q84という年代で呼ぶ。1Q84の年はパラレルワールドではない。スイッチが切り替わるように世界の進行が切り替わったことを意味する。三菱パジェロは描かれても不思議ではないが、実際の1984年の日本で人々が生活経験に刻印した些細な馬鹿騒ぎ、エリマキトカゲ・ブームのような日本的な風景は、翻訳の邪魔であるかのように払拭されている。浅間山荘事件、ヤマギシ会騒動、オウム真理教事件などを連想させつつも、具体的に戦後日本史に潜む、ある一貫した暗部が描かれようしてるわけではない。日本の1984年という時代を実際に生きた経験を持つ人には違和感があっても、その時代を知らない人には受け入れやすく、外国人がデータベースを駆使して描いた異国の物語のようなテイストがある。
 主人公の一人、青豆は「エホバの証人」を連想させる「証人会」の家庭の娘として生まれ、テレビなど娯楽情報も与えられず衣服も質素極まる生活を送り、子供ながらに日曜日には訪問宣教に駆り出され街中を引き回されていた。学校でも学友から排除され、透明人間のように過ごした。青豆と同級生の天吾は、満州引き揚げでNHKの集金人をする父の男手一人で育てられ、青豆のように日曜日も集金に街中を引き回された。天吾は子供ながらに自分の境遇を苦痛に思いながらも、学業においても体力においても学友に優越すべく努力し、一度だが理科の授業で青豆を庇うような行為をした。その後、青豆からじっと見つめられ手を握られるという経験をする。そのたった一つの経験がその後、それぞれその人生の核になるが、その思いを掛け替えのない愛として秘めていることを互いに深く知らずにいた。物語はその二つの引き合う魂の力がもたらしていくとも言える。一人っ子的な心情の展開は、「国境の南、太陽の西」(参照)を連想させる。
 物語の性質としては、村上春樹の作品系列では「羊をめぐる冒険」(参照)で残した問題の解決編になる。17歳の神秘的な美少女、深田絵里子は、特殊な耳をもったガールフレンドと羊男の融合である。1Q84では、少女の耳は少女の生殖器の暗喩であることを顕し、ヤブユム(Yab-yum)を形成する。「羊をめぐる冒険」で先生の脳にそして鼠の脳に住み着いた羊のほうは、山羊の口から出てきた、TVピープル(参照)のようなリトル・ピープルとして現れる。世界の背後にあって人間社会を支配し揺るがしうる闇の存在は、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のやみくろや、短編集「神の子どもたちはみな踊る」(参照)の「かえるくん、東京を救う」のみみずくんなど春樹ワールドのお馴染み存在ともいえるが、1Q84ではそれが王国の王権との関係に置かれ、世界の危機をもたらす影の存在というだけではない点がユニークであり、モーツアルトの魔笛のような善悪の世界のコペルニクス的転回ではないが、善悪を超えた特殊な世界の動因として描かれている。終結はBook2では見えない。
 転回の象徴は、青豆の物語に現れる。自身の倫理観から女性を虐待する男たちを、この世にもはや生存しないほうがよいとして死を言い渡す老婦人に青豆は仕え、暗殺者となる。物語では、青豆は命を賭けた最後の仕事として、つばさと呼ばれる10歳の少女の子宮を破壊するまで強姦したカルト「さきがけ」の教祖の暗殺を請け負う。しかし実際に向き合うことになる教祖は老婦人や青豆が想定したような悪の存在ではなく、ただリトル・ピープルのメディアに過ぎなかった。そのことで物語は老婦人や青豆が希求する、市民社会が超えがたい正義と悪の限界を暗示している。青豆は教祖の予言を確信し、天吾の命と引き換えに自分が死ぬことを決意し、その運命のなかで彼女は愛に生きることを知る。Book2では青豆がその死に直面したところで終わる。
 天吾はカルト教祖の娘でもあり、リトル・ピープルのこの世界への顕現が生み出した反動としての神女ふかえりこと深田絵里子が描き出した小説「空気さなぎ」のリライト仕事から、彼女と深く関わるようになる。ふかえりの父である教祖が、リトル・ピープルのこの世への通路を塞ぐこととして青豆によって断命される豪雨のなか、彼女は天吾にその通路を与える。その通路に顕現するだろう何かはリトル・ピープルとは対立するものとして想定されているようでありながら、これもBook2では見えない。
 Book3では、リトル・ピープルやカルト教団「さきがけ」による青豆の殺害、天吾とふかえりのコンビへの対決が始まると想定されるが、そこでもまた大きな倫理の転回があるのかもしれない。世界がなぜ青豆と天吾を選んだのかもまだ十分に開示されていないし、新しい王国と王権は出現していない。「天吾」は明らかに「天は吾」を意味していることがわかるが「青豆」の暗喩はまだ封じられている。1Q84は完結していない。その最後の像を評価することもできない。「ねじまき鳥クロニクル」(参照)のように咨嘆に終わらないとも言い切れないが、おそらくそれはないだろう。
 一つの長編作として1Q84を見れば、登場人物は春樹ワールドに典型的な少数の一座の使い回しとも言えるが、それぞれが引きずる掌編的なエピソードは小説を豊かにしている。「海辺のカフカ」(参照)以降の村上春樹の生活のエピソードとしてのランニングの話「走ることについて語るときに僕の語ること」(参照)は青豆の生活描写に、エルサレム賞受賞(参照)で示した彼の父の死は天吾の父の臨終描写に、それぞれ反映していることだろう。余談だが、「空気さなぎ」と高円寺の設定には、農林省蚕糸試験場跡の蚕糸の森公園が関係しているだろう。

| | コメント (15) | トラックバック (2)

2009.06.03

[書評]あなたの人生の物語(テッド・チャン)

 「あなたの人生の物語」(参照)は、中国系二世の米国人SF作家テッド・チャンの短編集で、ネイチャー誌に掲載されたショートショートを含め、8編の作品が収録されている。どれも米国のSFコンテストの賞を得ている佳作ぞろいである。

cover
あなたの人生の物語
テッド・チャン
 寡作の作家らしく、実質本書以外の著作はないようだ。もしかして日本で編集された選集ではないかと疑い、英書探すと「Stories of Your Life and Others(Ted Chiang)」(参照)があり、邦訳はそれに準じたのものようだ。
 私は本書を、その評価もテッド・チャンという作家についても何も知らないで読んだ。勧められたわけでもなかった。とある書店でたまたま偶然に出合った。魅惑的な書名に惹かれたわけでもなかった。その経験はうまく言い難い。読後は、ネットでよく言われる「お前は俺か」という感慨を持った。私と似たようなへんてこな思索課題に取り憑かれ、似たように展開していくのを感じた。私とテッドの違いは、私には文才というものがないことだが、読みながら、私の脳はぎりぎりぎりと苦痛のような歓喜のようなきしみの響きをあげた。思想と創造力のタガを外されたサムソンの感覚に浸った。スエーデンボルイの「天界と地獄」(参照)をただ想像力と倫理の限界を知るために読んでいた背徳の喜びに近い。いや、それ以上のものがあった。背徳仲間のイマヌエル・カント君、テッド・チャンの「あなたの人生の物語」は面白いよ。
 個別の作品を見ていこう。
 「バビロンの塔」(Tower of Babylon)は、ある意味、旧約聖書にある「バベルの塔」の物語を描いている。「ある意味」と限定したのは、設定は酷似しているが同じ物語ではないからだ。その時代、バベルの塔はほぼ完成に近づいていた。現在のイラン地方に住む主人公のヒルラムは要請され、バベルの塔に登り、数年かけてその頂上に至り、天界の壁を採掘することになる。
 作品はファンタジーに分類してもよいかもしれないが、その世界は私たちといくぶん構成要素が異なるだけで、物語はその世界の物理法則に完全に拘束されている。人々は神を語るが神は登場しない。まったく神秘性はない。描写は単なる緻密なリアリズムであるがゆえに、天界に接近する描写には独特の恐怖感が漂う。ようやく天界の壁に辿り着きその壁を採掘するのだが、その事業がもたらす危険性にも独自の恐怖があり、作者チャンの確かな才能を感じさせる。クライマックスから終盤のオチは、それ自体としてはあっけないものだが、読後、まったく異なる世界、異なる宇宙を感覚するという、不思議な彷彿を味わうことができる。
 「理解」(Understand )は、溺死しかけた事故の治療から、たまたま超人的な知能を得た男の物語だ。「アルジャーノンに花束を」(参照)などと似た話かと読んでいくと良い意味で裏切られる。チャンは人間が持ちうる超知性のあり方のほうにテクニカルな関心を持っているのだ。
 超知性のプロセスではどのようなメタ認識が行われるのか、小説という想像力の形式を使って、人間を超える知性を記号論的に追求している。これこそがチャンの独自の作風であり、読み進めながらチャンという人自身がすでに人間知性を超えているような薄気味悪い印象も与える。
 本作はチャンの習作時代の作品に手を入れたものらしく、後半のスパイ小説的な展開や、もう一つの超知性との対決シーンは、率直に言えばありがちな展開でそれほど面白くはなく、稚拙さが残る。それでも超知性間の対決の意味が、倫理の思考実験に関わるところや、標題ともなった「理解」という言葉が暗示する部分には、他の作品にも見られるチャンらしい視点の原点が感じ取れる。
 「ゼロで割る」(Division by Zero)は、現代数学の基礎論における数学の危機と呼ばれる問題を借りて、数学史のエピソードと、一人の天才的女性数学者の内面とをコラージュのようにして展開した掌編だ。「ゼロで割る」のは四則演算では禁則であり、それを許すと演算ができなくなるという初等数学の話題に過ぎないが、本作ではそれが、数学の危機の比喩として標題になっている。
 数学の危機については、私も若い頃少し基礎論を囓ったので、その部分のコラージュはどちらかといえば退屈な話であり、よくあるゲーデルの不完全定理から着想を得たありがちな小説かと思い、むしろそれなら、ブラウワー(Luitzen Egbertus Jan Brouwer)をテーマにするとよいのにとさらっと読み終えたが、最終部に奇妙な人間の内面ドラマとしてのひっかかりがあった。気になり、女性天才数学者レネーの視点ではなく、その夫のカールの視点から読み直して得心した。倫理というものが持つ本質を、数学の危機の比喩で了解することで、まさに私たちの日常における愛というものの矛盾を言い当てている。
 本作品もそうだが、チャンは本人としては作品の意匠のつもりなのだろうが、相当に読みづらいトリックを仕掛けることがある。だが、読者のほうでもそれに合わせて、脳のギアを入れ替えることは、快感でもある。
 「あなたの人生の物語」(Story of Your Life)は、この手の作品の意匠性に慣れていない人には読みづらいかもしれないので、多少スポイラーになるかもしれないが構成の基本から触れておきたい。
 作品は、主人公の女性言語学者ルイーズ・バンクスが、その娘に「あなた」と呼びかけるところから始まる。それはあたかも、年頃になった娘を前にした、母たる中年の女性が、父たる男性との馴れ初め時代を語るように語られている。そして、それはそのように錯誤することを、作者チャンはあえて仕組んでいる。
 だがこの物語で「あなた」と娘に呼びかけているのは、娘がまだ生まれる前の、まさに男と性交しようとする寸前の時間なのだ。つまり、ルイーズはその性交の後、やがて生まれてくる娘に今、語っている。しかも語られているのは、「あなたの人生の物語」であり、その含意にあるように娘の死までを覆っている。人が生まれる前に、その人の死までが知られるという、時間を逆向きにした意識の状態があり、その意識の描出と、実際のその性交に至るまでの時系列の物語が、この作品ではコラージュのようにつなぎ合わされている。
 なぜこのような珍妙な構成になっているのか。SF的な趣向として読まれてもよいだろうが、チャンはここで、宇宙に起きる事象に対して人間の意識能力が時系列にしか意識できないことを、宇宙の必然ではなく人間の認識の限界として小説的に表現したいからだ。逆に言えば、人間の現存する知能のような時間了解をしなければ、人は生誕から死に至る「あなたの人生の物語」をフラットに知覚できるようになることを小説としてチャンは示したいのだ。
 そこで本作では、現存の人間が行うような時系列の時間意識と、時系列のない時間意識の二系列が提示される。時系列の物語ではルイーズが恋人と性交するまでが描かれ、非時系列では、娘の受精から死までの「あなたの人生の物語」が語られる。この意匠の根には、時間こそ私たち人間の意識の様式にすぎないというチャンのメタ認識がある。
 その知性のメタな視点設定に加え、さらに驚くべきことは、チャンはその時間意識の根源を言語による認識の様式に見ていることだ。現存の人類の言語が、時系列の時間意識を生み出しているのであり、別の知的言語の体系で意識できるなら、因果律を超えた非時系列の意識が可能になる、としている。「あなたの人生の物語」が語られ、「あなた」という娘の生誕前にルイーズがその全生涯を語りうるのは、彼女がその異質な言語を、宇宙人との接触を通して習得したからであり、その習得の過程が、時系列の側の物語に流し込まれている。
 この作品では、従来ありがちなSFのテーマである、エイリアンとの遭遇がそうした壮大なトリックの小道具にしか扱われていないことや、また物理学に関心を持っている人なら誰もが興味を持つ変分原理(フェルマーの原理)が比喩に使われているのが特徴的だ。私は読後、変分原理の量子力学的解釈というのはファインマンの経路積分なのだから、工学的な計算には便利でも時間と確率のパラドックスの意味は説いたことにならないな、チャンの言っていることは、入り組んだ洒落というものでもないか、としばし考え込んだ。
 「七十二文字」(Seventy-Two Letters)は、産業革命後の、19世紀後半イギリス、ヴィクトリア朝を改変した世界が舞台になる。「バビロンの塔」のような改変世界物語とも言えるのだが、この世界では、現存する私たちからするとオカルトでしかなのだが、名辞とされる呪符を泥人形に埋め込むと、泥人形は生気を得て、動作する。それゆえ、「バビロンの塔」とは異なり、呪術も生かされるファンタジー物語かというと、そうではない。この世界では、呪符の原理はサイエンスに所属していて、魔術とは区別されているし、魔術は知的な体系以外に実効としては登場しない。つまり、呪符による名辞の原理というサイエンスがある世界と見るなら、この世界もまた、リアリズムに徹している。「七十二文字」という標題は呪符のサイエンスを著している。
 こうした珍妙な前提が飲み込めないとなかなか入り込めない物語かもしれないが、しかし作者チャンがこの世界を前提としたのは、実際のヴィクトリア朝のサイエンスのあり方の知識や、数学のオートマトン理論、さらに遺伝子工学から中絶の倫理学など現代的な問題の枠組みを知っている人にとって興味深い比喩が提出できることを確信していたからだ。随所にその比喩が読み取れ、しかも比喩ではありながら、各分野のきわめてテクニカルな部分が言及されているので、読み進めながら、なにかしら知識がそれ自体の背徳に接するような、ゾクゾクとする悦楽がある。
 「人類科学の進化」(The Evolution of Human Science)は、ネイチャー誌に掲載されたショートショートで、「理解」における超知性をもっともらしい文体でまじめ腐った意匠で描いている。爆笑を誘うとも言えるのだが、洒落になってないぞと苦笑を加えざるを得ないところは、チャンに執筆を依頼したネイチャー誌編集の見識が伺える。
 「地獄とは神の不在なり」(Hell is the Absence of God)は、現代、しかも米国に設定された改変世界物だが、この世界では、いわば天使が落雷のような物理現象として登場する。天国と地獄という宇宙構成も、さらにそこに収納される死後の魂も、あたかも物理現象のように存在する世界だ。物理現象と言いたくなるのは、天使出現によって、難病や畸形の治癒など奇跡の救済がある反面、その出現事故でただの事故死を遂げる人々も多数おり、天使や天国、地獄、魂といった存在に対して、倫理的かつ神学的な意味が与えられていないからだ。神も直接的には存在しない。天使の顕現は、落雷のような自然現象であり、そこに神意といったものはまったく想定されていない。
 またもチャンは珍妙な世界を構想したものだと思う人がいるかもしれない。だが、私はこれこそ旧約聖書の世界そのものだと納得した。旧約聖書の世界を現代にきれいに写像すれば、この世界ができるのである。天使というのは、旧約聖書をきちんと読めば、西洋世界で異教のイメージにまみれて作り出した、翼のある美男子・美少女といったものではまったくないことがわかる。クリスチャンが讃美歌でよく歌う「聖なる、聖なる、聖なるかな」も、イザヤ書の原文に戻れば、まさしくチャンが描いたような、天災のような天使の顕現でしかない。
 こうした世界で人はどのように生きるのか。ある意味で神学的な問題が語られているのだが、同時に旧約聖書が描き出した世界の本当の意味とは、むしろこのフィクションを通して描かれているものなのだという、驚くべき洞察に行き当たる。
 「顔の美醜について --- ドキュメンタリー」(Liking What You See : A Documentary)は、人間に施して、人の顔の美醜が問えなくなるような仕組みである「カリー」を、テレビ・ドキュメンタリーのタッチで描いた作品だ。薬剤注入と外部からの薬剤活性化制御によって、人間脳内の、人の顔の美醜を判断する中枢機能だけが阻害されるシステム「カリー」を、教育の一環として採用する大学が物語の場だ。話は、従来任意に利用していたカリーを、義務づけるかどうかを描いている。この作品は最終部までは軽快で読みやすい。他作品より先に読むことをお勧めしたくもなるのだが、最終部に入り組んだヒネリがある。
 作品のテーマは、人間の顔の美醜という、ある意味で究極の差別問題とPC(ポリティカル・コレクトネス)を扱っており、ドキュメンタリーという形式を模したのは、そのテンプレート化した賛否議論を扱うためだ。現実の社会でも各種差別について議論されるが、議論している当人たちは真面目でも、実際にはこの作品のような、ある種絶妙な滑稽さを含んでいるものだ。また、こうした議論に関わるメディア・コントロールも道化回しにされている。いや、作者チャンはそれらを単に皮肉っているのではない。どうやらこれは、人間の倫理や哲学にとって相当な難問だということもうまく描いている。

 寡作なチャンだが、現在も凝った作品を執筆中とのことだ。何年後かには邦訳されて読むことができるのではないか。これらの作品を凌駕する長編であれば、21世紀を代表とする文学のノミネートされるのではないだろうか。そこまで期待したくなる。

| | コメント (10) | トラックバック (1)

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »