[書評]武士から王へ - お上の物語(本郷和人)
「武士から王へ - お上の物語(本郷和人)」(参照)は、日本中世において武士が王に変遷していく過程と体制を新視点から議論ししている。「王」を主題に据えた、日本の王権論でもあるが、読後の印象としては、そうした特定のテーマより、コンサイスな日本史概説として優れた叙述になっていた。
![]() 武士から王へ 本郷和人 |
例を挙げよう。本書は、中世以降、皇位は誰が決めたのかと問い、武家であると答える。義務教育の範囲の歴史知識でも単純に答えられることだと単純に思う人もいるだろう。しかし、では、承久の乱の結末をどう見るか。天皇は退位させられ、上皇や皇子たちは流刑に処せられたが、天皇や上皇の罰則規定を誰が持っていたのか? やはり武家である、と答えられるだろうか。乱後の皇位を決めたのも武家であり、武家が皇統を決めているのである。そうすっぱりと答えることができただろうか。
本書はこうも問う、皇位を兄弟が争うのは珍しいことではないが、鎌倉時代後半の時代に限ってなぜ二系の皇統が併存したのか? これも義務教育の歴史で答えられるようにも思えるが、その本質を、武家が制御していたからだときっぱりと言えるだろうか。武家は皇統を分割統治していたとシンプルに日本史を理解できていたのだろうか。皇統は武家に制御され、自律性はない。武家が日本国の王だったであり、標題の「武士から王へ」につながる。その明白さを、なにかが眩ませているのではないかと、本書を読みながら気づかされる。
さらに鎌倉幕府の成立年はいつかと問うてみよう。昨今これに諸説があることが話題になる。諸説あり、折衷説としては、ある一時期に成立したのではなく段階的に成立したという、結果的に歴史観をナンセンスに帰す説明が与えられることもある。従来は1192年と言われたものだ。「イイクニ作ろう鎌倉幕府」である。この年は何を意味しているかといえば、 頼朝が天皇から征夷大将軍に任じられた年である。つまり、それは天皇を国家の最高権威とする天皇史観にすぎない。別解に1185年の文治の勅許があるが、それもまた天皇史観に過ぎない。日本史と名付けられた叙述のそこここに天皇史観が埋め込まれている。天皇史観は右派の作為のようでもあるが、同時に天皇を敵視した左派の史観でもある。天皇から考えるをやめて、現実の王権から日本史を見据えたらどうなるのか。
本書は鎌倉幕府の成立年について「一一八〇(治承四)年十月六日。それ以外にはあり得ない」と確言する。 それは王権から日本史を見た姿だ。頼朝が東国御家人を従えて鎌倉に入ったとき、彼は王になり、鎌倉幕府は成立した。
関連して福原幕府の可能性も興味深い。朝廷の知行国制度を蚕食した平清盛は武士を結集する場所として福原を想定していた。本書はそれも幕府になり得たかもしれないと指摘する。言われて見れば当たり前のようだし、そもそも源平というのは武家を指しているのだから、頼朝と大きく違うわけではない。その考えのほうが自然でありながら、鎌倉幕府という王権を確立する歴史に滑らかな推移を、私は本書が指摘するまで想定していなかった。
示唆的な指摘は随所にある。著者は「偶然であろうが」と遁辞を付しているものの、1392年の南北朝分離の終焉を経て、天皇権限を包含した室町殿こと足利義満の日本国王化と、同年の李氏朝鮮の成立の成立に共通する海民の運動を想像している。私は日本国というのは正式には日本・琉球国であり、よってその歴史は琉球史を総括する形で東アジアの歴史のなかで書き改めなくてはならないだろうと思っていることもあり、興味深く思った。
本書は概説的であるにもかかわらず、各種挿話も豊富であり、多少言葉遣いが難しい点を除けば、日本史を好む高校生にも読めるだろう。
本書の史学での位置づけは、その冒頭にもあるように、戦後の黒田俊雄による「権門体制論」に対する佐藤進一による「東国国家論」の止揚であり、著者の師匠にあたる五味文彦による「二つの王権論」の発展・継承になっている。
本書の構成だが、「第2章 中世の王権」はすでに触れたように権門体制論か東国国家論かの史学動向を扱い、「第2章 実情(ザイン)と当為(ゾルレン)」は史学方法論を整理し、「第3章 武門の覇者から為政者へ」は武家王権の二面性としての主従制と統治権を議論している。この3章で基礎的な説明が終わる。
「第4章 土地と貨幣」以降は個別の話題の展開になり、啓発的な着想がちりばめられているものの、やや散漫な叙述になる印象は否めない。「第5章 東と西」を経た、「第6章 顕密仏教と新しい仏教」「第7章 一向宗、一神教、あるいは唯一の王」では、いわゆる個人救済の近代宗教の観点から見られがちな仏教を、実際の史実に即し、王権との関連で捉えている。当然ながら神仏分離以前の歴史であり、八幡神についての言及も多い。
仏教の関連で本書は「神国日本」(参照)を引き、神皇正統記冒頭「大日本者神國也(大日本ハ神國ナリ)」を本地垂迹説、つまり「日本は仏が神として現れる国」として説明し読者の注意を引いている。この文言は近代神道的な解釈からよく誤解される点であり、実歴史の文脈から日本史の常識として広めたいという意図もあるのだろう。
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コメント
>よく誤解される点であり
んじゃ、世間一般?の理解はどうあるのか、正しくはどうあるのか(若しくは、自分は何を正しい・どうあるべき?と思っているのか)、言わないと意味無いよね。それ言って初めて「次」なんですけどね。
そこ言わなきゃ意味無いですよ。3点。クソゲーですな。ゲームの体を成してない。紹介される本が可哀相ですわ。
投稿: 野ぐそ | 2009.06.15 09:48
「鎌倉幕府」がいつ出来たかというと、これは西暦1192年で正解。
でも「鎌倉政権」がいつ出来たかとなると、これだと断定は出来ないが、少なくとも西暦1192年よりは前の時代であることは確か。
鎌倉幕府は、後の徳川幕府に比べたら、まだまだ京都朝廷の守護職的な意味合いが強いよ。
たしかに、承久の乱とか、皇統の両統体制も、鎌倉幕府が関わっていたことは事実だが、一方で、鎌倉幕府の長は、源実朝の暗殺後は、京都朝廷から、九条家や皇族の人を征夷大将軍として、その場しのぎで選んでいたし。
また、鎌倉幕府で実質的に王朝を形成していた北条家も、後の足利家や徳川家に比べたら、京都朝廷から認められた地位は、非常に低かったと思われ。
それと、古代の皇室については、最近の箸墓古墳の研究に注目が行く。もし、箸墓=卑弥呼の墓なら、倭王・卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命(孝霊天皇の皇女)となり、倭王をサポートしていた男弟が、イニエ命(崇神天皇)ということになる。このへんが、古代の天皇、特に神武天皇~崇神天皇のあたりの歴史を解明するのに、大きなヒントになる。
投稿: | 2009.06.15 11:56
<ご参考までに>
wikiでは、
http://ja.wikipedia.org/wiki/鎌倉幕府
> かつての通説によると、鎌倉幕府は、1192年(建久3年)に源頼朝が征夷大将軍(以下、将軍)に任官されて始まったとされていたが、頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しており、現在ではこの説は支持されていない。
中学の教科書では、
「中学校の歴史 1192は違うの?鎌倉幕府成立」
http://www.asahi.com/edu/student/kyoukashow/TKY200802270241.html
> 現在の中学歴史教科書の多くは、鎌倉幕府の成立が、1192年ではなく1185年に変わっている。
> 東京書籍などによると、92年は源頼朝が征夷大将軍に就いた年。頼朝は85年、軍事・行政官「守護」や、税金集めなどをする「地頭」を任命する権利を得、幕府の制度を整えたのだという。
> 1955年版:1192年、頼朝は朝廷から征夷大将軍に任じられ、鎌倉に幕府という政府をおいた
> 1966年版:1192年、頼朝は朝廷から征夷大将軍に任じられ、ここに鎌倉幕府による武家政治がかたちのうえでも整った
> 2006年版:頼朝は朝廷に強くせまり、国ごとに守護、荘園や公領ごとに地頭を置くことを認めさせ、鎌倉幕府を開いて武家政治を開始しました。……1192年に征夷大将軍に任じられた頼朝は……
投稿: うぐいすパン | 2009.06.15 15:02
まあ、教科書に書かれているから、その歴史が正しいとはいえない。そもそも、出版社によって、記述が違うわけだから。だから、こういうのは、歴史の試験では出さないほうが良いね、見解が分かれるから。
鎌倉「幕府」は1192年だよ、征夷大将軍に任命されたのが。でも、鎌倉「政府」というものが誕生したのは、1180年くらいには誕生している。
あと、徳川時代までそうだが、武家最高の官職というのは、近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)なんだわな。一方、征夷大将軍というのは令外の官で、非常時における地方軍政府の最高責任者。
で、近衛大将というのは武家最高の官職なんだけど、これは京都朝廷の側で仕えないといけない。一方、征夷大将軍だと、京都朝廷から遠い地方に臨時の軍政府が置ける。
源頼朝(というか、その取り巻き)は、あくまでも、京都朝廷から離れた関東に自分たちの政府を作りたかった。でも、それをやると、平将門みたいに朝敵にされるので、この征夷大将軍という官職を上手く利用したということになる。
投稿: | 2009.06.15 19:37
武家(源氏)がなぜ、日本の支配者になれたか、ということを考えると、平清盛が、宋銭を大量に日本に流入させて、それ以前の平安時代の経済が想定していた事態を破壊してしまい、朝廷による、「中央集権律令政治」を完全に不可能にしてしまったから、というのもひとつの理由だろうと思います。
朝廷は、農本主義的な政治をしていたのに、流通の現実が朝廷の政治理念の基礎を成り立たせることを不可能にしてしまったのだと考えます。まあ、いま自民党が苦しんでいて、民主党がそれほど信用してもらえないのも、どちらも、東西冷戦時代に最適化されていた政治システムを土台にした政党だからだと思います。次の安定政権を担うのは、きっと、体制を改めた自民党でも、現在の延長上の民主党でもないでしょう。国政そのものが今よりも力を失うだろうと思います。
正式な日本国は、日本・琉球国。きっとそうなんだろうけれど、より正確には、日本・琉球・蝦夷国なのだろうと思います。もし、徳川吉宗公の時代に、いくつかの玉蜀黍(とうもろこし)の品種の種子の導入に成功し、田沼時代に北東北と北海道でとうもろこしの大規模栽培に成功し、樺太での燕麦(ライ麦)栽培に着手できていて、江戸時代の日本が、中国や朝鮮に対して俵物だけでなく主食でも食料輸出国になれていたら、きっと日本史はまったく違ったものとなったでしょう。でも、農本主義的な江戸幕府が強すぎて、西洋文明の導入に遅れを取って、かえって後に悲惨なことになったのか、それとも、第二次世界大戦で、ドイツの同盟国にならずにすんで、もっと現在がましなものでありえたか?そこのところはわかりません。
投稿: enneagram | 2009.06.16 09:52
征夷大将軍は、かつては、坂上田村麻呂。
頼朝の時代の関東での坂上田村麻呂や源義家の名声は大変大きなものだったと思われます。
熱田神宮以北の東国武士たちが頼朝に素直に信服したのは、この征夷大将軍という官職が非常に適切だったから、ということもあるのではないでしょうか。
征夷大将軍という官職の採用については、朝廷と幕府は、win-winだったのではないかと思います。
投稿: enneagram | 2009.06.16 12:45
検非違使の頭目が征夷大将軍となって、日本で王権を獲得する、というのは、山本七平氏(イザヤ・ベンダサン)の「日本人と中国人」の表現を借りれば、「内なる日本」(幕府)が「内なる中国」(朝廷)から政治の実権を奪取した、ということなのだと思われます。
中央集権指向の朝廷が中国なら、地方豪族の自治権を重視するのが日本の幕府。
おそらく、明治以降の東京一極集中した日本は、江戸時代の朱子学の影響で中国化した、本来の日本ではない日本なのでしょう。地方分権して、各地方がそれぞれの風土を生かして、政治的にも経済的にも軍事的にも自立していながら、分裂しないで、祭祀と神話によって「日本」を共有しているのが、たぶん本来の日本。
ただ、現代社会では、日本がひとつの天下であることは不可能で、グローバライゼーションされた中で、東アジア地域の一員としての存在形態をとるほかない。日本が東アジアで、例外的な時期(秀吉の時代と大東亜戦争の時代)を除いて、非常に優等生でいられたのは、なんといっても、国内の鉱山から大量に産出された銀と銅のおかげ。
この国は、常に高付加価値の輸出産業を育てていないと、きっと哀れなくらい国際的地位は低下すると思います。
投稿: enneagram | 2009.06.17 13:39