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2009.05.05

こどもの日でそういえば「ねーねー」がいないなと思った

 ブログも長くやっているので毎年巡ってくる旗日とかの話はさすがに書かなくなったが、今朝の新聞社説を読むと世間の話題がないせいか「こどもの日」の話が多い。読みながら、沖縄から本土に戻ってというもの「ねーねー」という声を聞かなくなったなと思った。さみしいものだ。あの声がないから本土は少子化なんじゃないかとも思った。いや、なんとなく思っただけの話なんだけど。
 「ねーねー」というのは、「姉(あね)」の「ね」を繰り返したもので、星飛雄馬の口癖ではないが「ねーちゃん、ねーちゃん」の意味だ。パンダの名前のようだが、兄なら「にーにー」である。
 「ねーねー」は実の姉を指すとは限らない。年上の女性はみんな「ねーねー」である。就学前児童が、ティーンエージの少女に「ねーねー」と呼びかけているのを聞くことが多かった。沖縄の少女たちは概ね、小さい子どものへの面倒見がよく、呼びかける子どももそれを知っているから「ねーねー」が繰り返される。
 ねーねーたちの面倒見の良さは自然だ。たとえば、私なんぞナイチャーが小さい子どもを連れてコンビニに行く。子どもはさっと駄菓子を掴む。騒ぐ前に買ってやるかなと子どもに視線を投げる。子どもは起動する。レジにはねーねーがいる。にこっと笑って子どもが差し出す駄菓子に、封用のテープを小さくちぎって貼る。これはもう買ってくれるものだから手に持っていていいよということである。これがさらっと自然に流れて、ねーねーの笑顔は支払いの私のほうに残される。ほぉ、沖縄というのはそういうところかと思ったものだ。
 が、本土に戻ってコンビニにいる子どもの仕草と店員の対応を見ていてもテープを貼るというのはやっていた。別段、沖縄だけの風習でもなかったようだ。もちろん店員の少女も人によってはにっこりしている。ただ、沖縄のほうがなんか普通に自然に流れていたなとは思うし、ねーねーの笑顔に合うチャンスは本土だと少ない。ああいうもんが生活環境にないと、子どもっていうのはうまく育たないのではないかと少し思った。
 沖縄は本土の諸県に比べると出生率が高いが、ずばぬけてということもなくフランスにも及ばない。沖縄も少子化といえば少子化なのだが、「ねーねー」の声はよく聞く。私が転々としたのが沖縄の田舎だったせいもあるかもしれないが、地域の子どもたちは地域の子ども集団に所属していた。その他、沖縄ではなにかと親族が集まる行事が多く、そうなると子どもがわいわいと駆け巡ることになり、ねーねーたちはそのベビーシッティング担当に、自然になる。数年後、ねーねーはお母さんになる(そして離婚することも多いのだけど)。
 「ねーねー」は少女を指すだけではない。おばさんとおばさんが二人いるとする。すると、片方のおばさんはもう一方に「ねーねー」と呼びかけている。おばあさんが二人いても同じだ。ほぉと思った。子どものころからの関係がずっと続いているだけかもしれない。
 聖書とか読んでいると「兄弟姉妹」が一つの連帯のキーワードになっている。外国の小説を読んでいると、「おお、姉妹」と親密に呼びかけるシーンもある。そういえば物見の塔の集会後の電車に間違って乗ってしまったときも、「兄弟」や「姉妹」という言葉が飛び交っていた。違和感。

cover
美ら歌よ
沖縄ネーネー・コレクション

しゃかり, 仲田まさえ
内里美香, 桑江知子
首里フジコ, ふぁーな
夏川りみ, おおたか静流
普天間かおり, 神谷千尋
 ブラザーフッドとかいうのは、あの「にーにー」「ねーねー」の世界なんだろうし、少子化ではない世界というのはそうものなんだろう。日本の出生率をいかに上げるとか熱心な論者もいるが、「ねーねー」の声が飛び交う世界をどこまで想像できているのかなとは思う。

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「雑記」カテゴリの記事

コメント

沖縄というのは、finalvent先生がいらした当時は、まだ、共同体らしさが残っていたみたいですね。

本土は、共同体が機能集団に取って代わられてしまいました。

企業が、疑似協働共同体をつとめて、ゲゼルシャフトがゲマインシャフトの役割を担っていた時代もありました。だから、新卒生え抜きに比べて転職者が不利だったのだけれど、結局、東京の本社の官僚的エリート役員管理職集団が地方の現場を収奪する仕組みが長く固定してしまって、企業も巨大化したら共同体ではなくなってしまった。同族会社の中小企業が共同体か、といえば、創業者一族にとっては共同体でも、それ以外の人たちの多くが疎外されていた機能集団に過ぎないことがこのところいくつも露呈しています。

「ねーねー」がいないというのは、共同体が失われたということでしょうか?機能集団の年長者の女性のことを、まさか、機能集団の年少者が「ねーねー」とは呼べないわけですから。

投稿: enneagram | 2009.05.05 14:45

ほのぼのとしたものが漂ってきます。このお話し。

「ああいうもんが生活環境にないと、子どもっていうのはうまく育たないのではないか」と思われている中味をもう少し話してほしいなぁと思います。また、何か機会がありましたら折に触れてお話の続きなど聞かせてくださいね。

私も子どもは子ども社会で育つという考えですから、縦割り大賛成です。

女の子はその昔は、「おままごと」や「お人形さんごっこ」などの遊びを通して、少し上のおねえさん達に目指すものを感じながら遊びましたし、自分が誰かの世話が出来るようになるのが嬉しかったのを覚えています。そうやってお母さんの練習をした上で、自分が母親になった時、誰が教えてくれなくても赤ちゃんをたっこしたり、オムツを替えたりしたものです。大人の手が入っていない分、自分で何とかしてゆく知恵も少し大きなおねえちゃんを見て学んだのかもしれません。それが、精神的に安定した大人に育つのだと思います。男の子もきっと同じような事が言えるのではないかと思います。

また、可愛がられるという部分だけでなく、もまれて人間になるのだと思います。自分の育ちを基準にしたものの言い方になるのですが、最近の親子関係や社会問題になっているようなことが何故そうなるのか、何かが欠落していると感じます。

エントリーに書かれていることも、何の話か通じなくなるのも近いうちなのかなと思ったりします。

投稿: godmother | 2009.05.05 15:30

そうすると、沖縄では、安室奈美恵さんも「ねーねー」なんだ。

なんか、少し感じが違うかな、とは思います。

投稿: enneagram | 2009.05.05 16:46

 折角の御高説有り難いんですけど、godmotherさんの言い分にあるところの「縦割り大賛成」がある程度昂じて今に至ってるんですよ? って言われたら、どんな塩梅ですかね?

 以下「女の子はその昔は、(中略)男の子もきっと同じような事が言えるのではないかと思います。」~迄の流れってのは、その前提となる社会基盤が脆弱か貧困かで「自活しなければ生きていけない」「暇はあるけど金は無い」がベースにあるから成り立つ発想で、「自活しなくてもどうにかなる」「暇は無いけど金はある」な現代社会で(あくまで昔に比して、なので。今は今なりに別の意味で成立しているとは思いますけど)その発想では、多分駄目のような気がしますね。

 なぜ子供たちが携帯電話やゲームに異常にハマるのか、車に見向きもしない若い衆が増えているのか、多分、理解出来ないんじゃないですかね? その式の発想だと。

 そこが分からない状態で年寄りが笛を吹いても、若い衆は知らん顔して勝手にやりますよ。んだから現代社会では人と人との繋がりが希薄って言われる訳です。

 まぁ、縦割り大賛成主義は最終的には「私の良き考え良きやり方が理解出来ないならお前ら勝手に脱落しろ」としか言えなくなるわけですから、それはそれで、そう言ってればいいんだろうな、とは思います。

 どうでもいいけど、昨年くらいまで弁当翁さんもgodmotherさんもやたらと民主党寄り(中道左派?)なご意見だったのが今年あたりから急に反動保守的な言説増えてますけど、それは昨今の経済情勢が微妙に影響してるんですかね? それとも私がアッチ向いたら(お前嫌いだからコッチ向く)式の発想でそうなってるんですかね?

 その辺よく分からないしどうでもいいんですけど、なんか節操が無い感じがしますね。そうでなければ、ただ単に「昔が好き」「自分の生きてた時代が好き」なだけちゃうんかい? って感じです。それならそれで一貫してますけど、単なる時代遅れと言えば、言えなくもありません。それって縦割り大賛成主義の弊害だと思います。

投稿: 野ぐそ | 2009.05.05 21:22

「じーじー」とか「ばーばー」とかもありますか?

投稿: jiangmin | 2009.05.05 23:17

野ぐそさんは、広島在住で、広島の左翼環境の内部の方だから、沖縄のことも複眼的に考えられるのですよ。きっと。野ぐそさんは、広島の方だから無理なく高次の視点の目線を取れるのだろうと思います。

これは、どこまでもナイチャーの身勝手な見方、旅人の無責任な見方の表出なんです。

沖縄の左翼環境の内部にいるウチナーの方なら、こういう文章は書けないはずです。

ナイチャーは、きっと、沖縄に行くと、表層意識を剥ぎ取られて、自分の先祖がまだ狩猟採集民だったころの記憶を呼び覚まされるのだろうと思うんです。でも、現実の「狩猟採集生活者」のウチナーの経済生活に参入することにはきっと耐えられない人がほとんどだろうと思います。

「ねーねー」って、いうのも、氏族社会、部族社会時代の深層意識を呼び覚ます、一種の符牒で、この話は、生活について話をしているのではなく、記号について論じているのです。

生活実感に基づく話ならば、正しい意見を提示されているのは、どう考えても野ぐそさんです。

投稿: enneagram | 2009.05.06 09:17

finalventさん

野ぐそさんがコメント欄の私の発言に言及されたコメントをされていますのと、返答を求められているように感じるので無視もできず、その件にだけちょっと発言させていただきます。不要と判断された場合は、削除願います。

基本的に通称「横レス」といった類の事は、エントリーの文脈から外れてしまいますし(触発の元になった私のコメントを削除すれば、野ぐそさんのコメントが本エントリーに寄せたもので無くなるということは歴然ですし)、何よりも、Web上で公開されているfinalventさんの姿勢に対して失礼申し上げる事だと、僭越ながらそう思う次第ですので、こちらでの対話をお断りさせて頂きます。

また、これは私に限った考えですので他意はありません。悪しからず。

投稿: godmother | 2009.05.06 10:02

 jiangminさん、こんにちは。「おじー」「おばー」を使いますよ。あと、enneagramさんのコメントにありましたが、安室奈美恵は普通に「ねーねー」ですよ。
 ついでで申し訳ない。godmotherさん、こんにちは。コメント欄で議論バトルになって、これはもうやめてというときには出てきます。

投稿: finalvent | 2009.05.06 11:06

野ぐそさん、こんにちは。

finalventさんが気分を害されないとのことですから、少し聞かれていることに反応しますね。

「「縦割り大賛成」がある程度昂じて今に至っている」と言われている部分の「今」の実態をもう少し詳しく話して頂かないと、私に何を質問されているのか漠然として答えようがないと思っています。

この後に続けて引用されている私のコメントですが、確かに仰るような時代が現代社会のそのものズバリでしたら方法論を以っても形式で終わると思います。昔をどれ程懐かしく思ったにせよ、それはそれで終了しますね。今は、子どもの社会に大人が介入し過ぎている時代(私がその親世代ですから)だと思うので、複雑な模様を呈していると感じるが為、私の育った頃の子ども社会云々は伝え難くく、私の文章力では大変難しいと痛感しています(そうは言っても折に触れて、時々書いておきたくなる時があって、ブログに書き留めて置くのですが)。

このような事の何が懐かしいかと下ろしてくると、結局異年齢でもこうやって話をするチャンスに恵まれたりすると、それが希薄になってきた現在からは昔が懐かしくも思えるというものです。主導権を持ちたいとか、若い人に意見するなどといった老婆心なことはしたくないとさえ思っています。この歳になって言える事でもありますが。

私への反応よりも、直接エントリーについて野ぐそさんのご意見を伺うとテーマが絞りやすいのですが、野ぐそさんの後に続けて enneagramさんが解説されているように「生活実感に基づく話」として野ぐそさんのお話しを受け止めてよろしいのでしょうか。だとすると、ここでも申し上げているように、私が思う「昔の縦割りの良さ」だけ持ってきてもそうは成り得ません。そこらへんは承知しているつもりです。

私の読み方では、これもちょっと繋がらないのですが、野ぐそさんの最後に言われている「これって縦割り大賛成主義の弊害だと思います。」は、前段の
「どうでもいいけど、昨年くらいまで弁当翁さんもgodmotherさんもやたらと民主党寄り(中道左派?)なご意見だったのが今年あたりから急に反動保守的な言説増えてますけど、それは昨今の経済情勢が微妙に影響してるんですかね? それとも私がアッチ向いたら(お前嫌いだからコッチ向く)式の発想でそうなってるんですかね?」を受けて、個人的な思いを言われいますか?「主義」と後についているので、個人に向けての発言と解釈してですが、極個人的なことをここで話しますが、私は政治的には右でも左でもありません。政治家が政治家たるには、結果を持って判断することでしか私には出来ませんから、テーマによっては右寄りだったり左かと思わせるようなコメントもあったかもとは思います。根本は変わっていませんから節操の無さとは違うと思います。

「縦割り」についてですが、縦割りの実態とは人がこの世に生まれてくれば必ず、先に生まれた者、後に生まれた者としての存在があるのが自然で、極当たり前な事です。これは「主義」(私は言っているつもりはありませんが)というほどのことではないレベルの話です。違った形でそれが存在していると仰るなら、それは是非にお話しして頂きたいです。最初の質問は、このようなところから出ています。

そして、私の最初のコメントにありますように、このエントリーを読んだ時「ほのぼのとしたもの」を感じたのです。主義主張からは遠い部分の「感」のところです。

finalventさん
つい箍が緩んで長文になってしまいました。

投稿: godmother | 2009.05.06 14:43

なんか難しげな話になっちょるようですけど要は逆にも言えて、少子化スパイラル環境じゃその「ねーねー」さんとやらは生じないんじゃね?
子供はウジャラっと居らんと互助とか年長養育とか成立せんよね弁当さん。で、既に自然にはウジャラっと集まらんほど希薄化してるのな。
人工的に自然学校とか部活とかなあるけど、自由意志による選択させると選ばない子はそういう世界を知らずに大きくなるでしょ、そんでもってそれもアリってのが現代日本社会な訳だし。
取り敢えず生まれてから全部調整済みの人工世界もオーケーな時代なのよ。
モノである工場製品は販売ルートや販売先の心配はしないんですよ。
「スターウォーズ」でいうと、人民自らが政治形態として民主的に帝政を求めた場合、それは不可避だちゅ事でしょ。
だけど人民がそういう選択をしないように個人的に「抵抗」することは可能だとw
ありゃ何の話だっけ?

投稿: ト | 2009.05.07 23:27

誰用に調整されてるかと考えりゃ、まさにこのコメント欄にある通り。わかもん文化だろうが老人文化だろうが、別になんでもいいんだけどお互い想像力皆無の状態ですな。日本人は同質性が高いなんて幻想もいつまで持ってくれるのやら。

投稿: コーン | 2009.05.08 22:52

娘3人もこさえたウチナーンチュの意見です。皆さん沖縄に幻想抱くのは結構ですし、「沖縄=原日本の風景」と勘違いして捉えられるのも、観光立県沖縄県民の立場からすると全然オッケーでありますよ。

ただ、沖縄といってもいろいろございまして、那覇のように本土の一地方都市のように都市化されたところもあれば、嘉手納町やコザ市(今は沖縄市ですが)のように、米軍基地のおかげで都市と田舎がハイブリッド化された町もございます。もちろん、finalventさんがおられたような純朴な田舎も残っております。
僕は那覇に住んでいるので、あまりに沖縄へ幻想を抱いている本土の方の言説に触れると「申し訳ないなあ」と萎縮してしまうのですが(笑)。
ただ、都市の中にも御獄(ウタキ)信仰や、密接な血縁関係、ブログにも書かれているような年長の子どもが下の子たちの面倒をみる、というような仕組みは今も綿々と続いているのは事実です。
僕もその中で育まれてきたので、今振り返ると幸せだったのかなあと感じますし、今を生きる娘たちも、finalventさんの仰るような「ねーねー」と年長者を慕い、年長者も下の子たちを当たり前に慈しむ場面に遭遇した時、「この島で良かったな」と頷く事も多々あります。

ていうか、僕が感じるような事は沖縄に限らず、本土の他の田舎ではあり得る話ではないのかなと思うのですが。

みなさん如何でしょうか?

投稿: ウチナーンチュ | 2009.05.25 23:44

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受信: 2009.05.06 22:54

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