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2009.05.13

ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番

 30代の終わりだったか40代に入ったころだったか、なぜか毎日、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番とピアノ協奏曲第3番を聞かずにはいられない日々があった。脳がそれを欲しているという奇妙な状態だった。鬱だったのかもしれない。あるいは、激鬱だったのかもしれない。そういう精神状態に陥っているときは自分でもよくわからない。不思議な日々だった。
 なぜラフマニノフのピアノ協奏曲だったのだろうか。なぜ脳がそれを欲していたのだろうか。神経内のある種のシナプスたちがピアノの離散的な音に反応するみたいだったが、ピアノの演奏ならなんでもよいわけではなかった。複雑な演奏でないといけなかった。
 昔からそういう傾向はあった。離散的な音を聞いていると脳がデバッグされるような感じがした。ピアノ曲が好きだったのは、そういう脳の性向の結果に過ぎなかったのかもしれないが、30代まではメロディアスで情感的な曲は好きではなかった。ショパンは、イヴォ・ポゴレリチのショパンを除けば、好きではなかった。リストのピアノ曲は私には単純な音楽に聞こえた。脳はある程度の複雑性を要求するので、ラヴェルのピアノ曲をよく聞いていた。
 その後、生ピアノでオイリュトミーとかやっているうちに普通にロマン派のピアノ曲もええなあ、と思うようにはなった。それらが30代後半、ラフマニノフのピアノ協奏曲に、がしょっと凝固したような状態になった。

cover
ラフマニノフ
ピアノ協奏曲第2番
キーシン(エフゲニー)
 ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番と第3番のどっちが好きかというと第3番かな。それほどどっちという差はない。問題は、というか、問題があるとすればだが、誰の演奏か、ということだろう。ここがちょっと微妙なところだ。このエントリの、テーマみたいなものになるかちょっと戸惑っている。
 ラフマニノフのピアノ協奏曲を聞いていた日々、ラフマニノフについてはあまり知らなかった。伝記みたいものを読む気もなかった。最近映画があったようだが、それもいまいち関心はない。それでも一通りラフマニノフという人がなんとなくわかったのは、以前NHKでラフマニノフの生涯を描いたドキュメンタリー「ラフマニノフ・メモリーズ~悲しみの収穫~」という番組を見たからだ。
 NHK制作の作品ではない。ぐぐると「NVC ARTS/NDR/ARTE, 1998、Tony Palmar監督」らしい。娘エリーナとタチアーナに語るというモノローグ風な語りに、ドキュメンタリータッチにラフマニノフの子孫とかも出てくるというしろものだった。おかげでロシアのラフマニノフの邸宅(別荘)も見ることができた。作品として感銘を受けたかというと、そこがなんとも微妙にB級なところがあった。総じて、よい作品ではあった。
 一番印象深かったのは、ラフマニノフが米国に移民してからロシアなるものを愛してやまなかったことだった。これは正教への愛といってもよいかと思う。このあたりの深い心情は「徹夜祷」などにもうかがえる、というか、自分でもどうも矛盾しているのだが、ラフマニノフの音楽はピアノ的な離散性とまさにヴォカリーズのような肉声の響きの双方がある。その微妙な、正教的とでもいうのだろうか、調和に、なにか魂を揺すぶられる。
 ラフマニノフのロシア的なもの、正教的なものへの愛の、その裏面には、彼が米国でピアニストとして成功することのアイロニーがあったらしい。番組ではピアニストとして成功する反面、ハリウッド映画のBGMくらいにしか批評家に理解されないことの嘆きがあった。
 そういえば以前、米アマゾンからラフマニノフのCDをごそっと買ったとき、BGM風のアレンジがけっこうあり、最初何気なく聞いていたのだが、自然に落ち込んでしまった。ラフマニノフの音楽というのは、俗っぽいロマンという趣向になることが、どうにも否定しがたい。愛の調べってか。
cover
ラフマニノフ
ピアノ協奏曲第3番
アルゲリッチ(マルタ)
 CDにはアルゲリッチとキーシンのがあった。比べて聞くと、アルゲリッチって、これ正しく演奏してんのか?と思えた。その情熱はわからないではないし、彼女の若いころのピアノ演奏は好きなのだが、どうにも受けつけなくなった。
 結果的にキーシンを聞いていた。最近でもキーシンのばかり聞いている。第3番の指揮は小澤征爾。それだけでどんびく人もいるかもしれないし、どうも微妙は微妙なのだが、悪いものではない。いや、いいんじゃないかな。言ってて矛盾しているが。
 私はキーシンの演奏がよいとそれほど思っているわけではない。キーシンというという人がよくわからないなと思う。若い頃の演奏を納めたCDもいくつか米アマゾンから買ったことがある。悪くはないのだが、よくわからない。技術は間違いないのだが、いま一つ、心がうまく伝わってこない感じがする。冷たいというのではなく、なんか人間離れしてんなというか。どさくさに言うと、この人はいったんポゴレリチのように地獄を見たらいいんじゃないかというか。
 なにか喉に詰まったような感じもあって、ときおりNHK BSとかでラフマニノフのピアノ協奏曲の演奏があると、特に誰がどうということなく、聞く。へぇと思うことや、それなりに感動はすることはある。ラン・ランの演奏(参照)とか見ると、さすが中国雑伎団、とか思う。悪い演奏ではないのだけど。
 そして、キーシン・小澤の演奏との違いに戻って、また困惑する。で、ラフマニノフのピアノ協奏曲って、どれが本物の演奏なのか? あるいは正しい演奏というのはあるのか。
 そういう問いかけがナンセンスのはわかっている。だが以前、ラヴェルの「夜のガスパール」で、どれがよいのか悩んでいたとき、野島稔の演奏を聴いて、「ああ、これが正しい演奏なのか」と得心したことがあった。ラフマニノフについても、どこかに、そういう定点の演奏のようなものがあるような気がしている。アシュケナージ(参照)がそうなのかもしれない。よくわからない。好きではないからかもしれない。
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ラフマニノフ自作自演
ピアノ協奏曲第2番&第3番
 ラフマニノフについては、自身によるピアノ協奏曲の演奏が録音されている。もちろん、聞いてみた。今でもよく聞いている。録音の質についてはとやかく言うまい。なるほど本人としてはそういうふうに演奏するのかというのはわかる。だがどうも、正しいという感じはしない。ピアノ協奏曲第3番は手の都合から、ラフマニノフ本人しか弾けないという話もあり、そういえばアルゲリッチもけっこう音をこぼしていたような印象があった。ラフマニノフ生存時には彼以外にはホロヴィッツしか弾けなかったとも聞く。ラフマニノフはホロヴィッツの演奏をどう思ったのだろう。自分よりいいなと思ったのだろうか。私は個人的にはホロヴィッツの演奏(参照)は受けつけない。ある種の調和が感じられないせいだ。
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Rachmaninov
Concerto No. 3
Jorge Bolet
 最近のことだが、たまたま「ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第3番」収集記」(参照)という、ずばりそれの専用ブログを見かけた。参考になったかというと、それがまた微妙なのだが、とにかくその一番のお勧めのホルヘ・ボレットのは買って聞いてみた。こういうことらしいから。

聴いて、もうとにかくビックリ。こんな激しい演奏は初体験。いままでの中でも文句なしナンバーワンの「熱さ」。かつ、圧倒的なテクニックでミスタッチもほとんどない。これまで、ギーゼキングの「迫力」が一番と思ってましたが、それをはるかに上回る力強さ&スピード。かつ、テクニックが完璧。まさに、わたしの考えるこの曲の理想。こんなスゴイ録音があったなんて、今までどうして出会わなかったんだろう、と。とにかく、その他の録音とは「格」が1段も2段もちがう。よって、点数も最高点。コレを聴かずして、ラフ3ははじまりません。この曲の最高峰の演奏であり、これ以上は望めない究極の録音です。

 録音状態についてはこれも不問として、演奏はたしかに驚きはした。なるほどという部分がけっこうある。手抜きがないなというのか、音の一つ一つが丁寧に奏でられているし、迫力もある。このボレットを聞いてからアルゲリッチを聞くと、なるほどなと思うところはあった。YouTubeにあるボレットの、日本での演奏(参照)とはかなり違う。
 率直にいうと、でも、この「激しい演奏は」は自分にはなじまない。私は迫力というより、なんというのか、沈黙が黒ずんで生温かく自分を誘惑したあと、緩やかに水に飲まれるように燦めきながら失墜するような感覚が好きなので、ダダダダみたいのはどうも受けつけない。
 そして私の定番キーシン・小澤の演奏を、彼、そのブロガーさんはどう見ているか。

こういう異色の演奏もあるということで、わたしの理想演奏とは真逆ですが、この曲に「美しさ」を求める人には、これ以上の盤は無いと思います。おすすめです。

 異色の演奏という評価になっている。
 たしかにあの遅さは異色と言えるかもしれない。これはキーシンの思いなのか小澤なのか。全体としては小澤なのだろうと思うが、自分の印象ではよくピアノを引き立てているし、キーシンの思いに身を引いている感じがする。キーシンなんだろうな、この異色さはと思う。
 もうちょっと引用する。前の部分になるけど。

ピアノの「つぶつぶ・きらきら」した美しい音色。終止「美しさ」あふれる演奏。なんてきれいなんでしょう。個人的には、この曲に求める演奏は「豪快・雄大」さ。とにかく弾きまくる演奏が好みなんですが、こういう美しい音色もたまにはアリかと。

 このブロガーさんは、ピアノ協奏曲第3番に「豪快・雄大」を求めているのがわかる。別のお勧めリストを見てもそういう感じがわかる。良い悪いではないけど、求めるところが私とは随分と違う。
cover
ラフマニノフ
ピアノ協奏曲第3番
キーシン(エフゲニー)、小澤征爾
 結局私はキーシンの演奏が、これは違うんだろうなと思いつつ、好きだし、どうもこの系列の演奏は他には出そうにはないように思う。たぶん、私は「豪快・雄大」ではなく、悪魔的な力を求めているのだろう。そしてその悪魔性みたいなところでキーシンにまだ物足りなさを感じているのだろう。
 話がずれるが、このところスクリャービンを聞いていて、ああ、なるほどと思うことがあり、その感性からラフマニノフを見直す感じがある。ロマン派という情熱ではなく、正教的ななにかなのかもしれない。

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コメント

キーシンのラフマニノフピアノ協奏曲第3番べた褒めのページがあります。

キーシン - 詠里庵ぶろぐ http://blog.goo.ne.jp/qubits/e/228e99f2fbf13afe01016e7bf4a984f9#comment-list

これを見て、CDを手に入れようと思っていたのですが、そのまま月日は経ってしまっていました。今回のfinalventさんの記事で、再び買おうかと思いました。当方この曲はまだ未聴です。

投稿: | 2009.05.13 23:25

ベタですが、リヒテルなどはどう聞かれますか?

投稿: | 2009.05.13 23:52

もう10年以上前になりますが、オーストラリア映画『シャイン』を見て
ラフマニノフの3番に興味を持つようになり以来いろんな演奏を聴きましたが、
映画の影響で第三楽章のラストが激しければ激しい程良い、
みたいな価値観が形成されているため、ホロヴィッツをよく聴いています。
>ある種の調和が感じられないせいだ。
なるほど。そういうことは考えたことも無かったです。
ラフマニノフっていろんな聴き方が出来るもんだなぁ。ちょっと考えさせられました。

投稿: Y | 2009.05.13 23:58

高校生の頃だと思うのですが、上記のRachmaninoff plays Rachmaninoffを聴いて、これが私の中で第2番のベストになりました。録音の古さも手伝ってか、なんというか、ちょっと違う世界に連れて行かれます。そして録音は聴いた事は無いのですが、野島稔のピアノはかなり好きです。数多く聴いたリサイタルの中でも特別な印象が残りました。。

投稿: makorin | 2009.05.14 00:31

初めまして。即席程度に書き込ませて頂きます。

この頃、私もラフマニノフピアノ協奏曲第二番とピアノ協奏曲第三番をよく聴いています。特に後者なのですが、まさに欲しているという状態です。それ故にブログ主様の、聴かずにはいられない、脳がそれを欲している、という状態は、求めているものは異なるであろうけれど共感するところがあります。

演奏は、私もいろいろと聴き比べましたが、ホロヴィッツとボレットは巧いのですが合いませんでしたね。私はピアノ協奏曲第三番に関してはデイビット・ヘルフゴットの演奏に惹かれています。何が正しい解釈なのか判りませんが、彼の弾く第一楽章には、これはいま即席で考えた言葉ですが、ロシア的恍惚のようなものがあると感じています。

キーシンの第三番も聴いてみようかと思います。

乱文悪しからず。
失礼致します。

投稿: 夜空の星 | 2009.05.14 00:46

第2番はリヒテル、第3番はホロヴィッツというのが、よく挙げられるディスクではないでしょうか。自分も、リヒテルの第2番はほとんど理想的に聴こえます。若い人では、ルガンスキーなど。

投稿: 通行人 | 2009.05.14 00:51

ラフマニノフ自身がそういう症状を持ってましたよね、確か。スランプも長く、音楽はそれをなぞるような出来栄えであったり、交響曲も色んな人が改訂版を出してますが快癒はしないという感を受けます。。。

投稿: baz.gap | 2009.05.14 13:14

政治や世間のネタには反応出来ないのですが、音楽なので書き込みさせていただきます。

キーシンはもう40歳目前なんですね。
カラヤンとチャイコフスキー演奏した記憶のままの私がダメなんでしょう。

キーシンのベートーヴェンの演奏など、やや味気ない(テクはバッチリ)と思っていたのですが、地獄を見たほうがいいという意見に笑ってしまいました。
そうなのかも・・・と。

ですが、そばに居る人達がキーシンに地獄は見せないでしょうし、我々が地獄に感じてしまう環境も、キーシンは普通に乗り越える力を持ってしまっている可能性もあります。
音楽家というのは、何か超越してますね。

finalvent様は、後期ロマン派のモリモリ肉感を欲していらっしゃるようですが、そろそろバッハ等の古楽のラビリンスに迷い込まれるとスッキリなさるのでは?

また音楽ネタ楽しみにしております。

投稿: いつも拝見しております | 2009.05.14 22:37

キーシンは間違いなく現代ロシアの代表的なピアニストで、とてもアポロ的な人格ですがナチと音楽の接近に理解を示す教養もある。そんな誠実さがこの演奏に現れているように思います。とても安定していて、陥りがちな自己陶酔とは距離をおいている。
神童とかつて言われた彼に対してはステレオタイプな批判も多いのですが、批判する人たちは経験に依らず書かれたブロンテの「嵐が丘」を読んだことがないのでしょうか?

投稿: | 2009.05.14 22:51

このエントリー読んで、ラフマニノフのP協聴きたくなったので、とりあえず家にあったアシュケナージ盤(プレビン/'70-'71)で1~4番全部聴いてみました。やっぱり3番はいいっすね。別に講釈たれる気はないので、思い出させてくれてありがとう!と一言感謝だけ。

投稿: SHU | 2009.05.15 18:10

自分もラフマニノフの第3はキーシン盤が一番好きですね。
というよりピアノより小澤とボストンシンフォニーが圧倒的に素晴らしいです。
小澤はツィメルマンとも1&2番を録音してますが、そっちはピアノもオケも文句なしの最高です。是非あのコンビで3&4番も録音して欲しかったですね。
日本では小澤っていうと叩けば通みたいな雰囲気がありますが、彼はチャイコやラフマニノフみたいなメロなロシア物ではロシア人指揮者より上手いと思いますね。
彼みたいに過度にセンチメンタルにならずにメランコリックな雰囲気を濃厚に出せる指揮者は少ないですね。
ゲルギエフなんて巨匠扱いで人気ですが(オペラ以外では)いいと思った事はないですね。

投稿: AZ | 2009.05.16 22:14

実は2番よりも3番のほうが熱狂的ファンが多いのではないかと思うことがあります。
ttp://www.cc.rim.or.jp/~hironov/index.html

個人的には3番はHorowitzですね。

投稿: Horowitzを | 2009.07.11 22:55

こんばんは。

通りすがりの物ですが、僕も最近ラフマニノフのP協奏曲第3番にはまってます。
僕が聴いてるのは、ワイセンベルク(p)、バーンスタイン指揮のものです。

テンポ超遅いです(笑)

それまでは、アシュケナージを聴いていましたが、同曲には感動しませんでした。

しかし、ワイセンベルクには感動できましたね。
音がクリアで、テンポ揺れますが気持ち良いくらいです。
悪魔的なものがあるかは分りませんが、お勧めは出来ますよ。
でも、ココで揚げてるブロガーさんのとこでは、ワイセンベルク盤は、褒められてはいませんでした

失礼します。

投稿: せばすてぃあん | 2009.08.16 20:13

こんばんは。私も鬱の時にラフ3を何十枚と集めて聞いていました。
当方の一番のお気に入りもキーシン盤です。フィナーレの感動はどの盤にも勝ると思います。

悪魔的なものをお探しならばプレトニョフが良いかと思います。
まったく難曲を弾いているように聞こえません。鼻歌まじりで弾いているかのようです。しかも完璧。
悪魔かなんかが乗り移っているんじゃないかとすら思えます。笑

昔の記事にコメントしてしまってすみません。たまたまたどり着いたもので。

投稿: | 2011.08.20 22:06

世の中こういう方(ラフマのコンチェルト2番と3番を毎日脳が欲する)が他にもいらっしゃると知って安心しました。
今はだいぶおさまりましたが、私も一時期レイフ・オヴェ・アンスネスの2番にはまり、1日5回以上聴かないとおさまらない時がありました。
最近来日して3番を聴いてからは3番です。

投稿: | 2011.10.13 00:01

謹言

鍵盤をたたく指先かろうじて協奏曲の妙を覚える

投稿: 春日 | 2015.03.03 19:09

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