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2009.05.30

[書評]今こそアーレントを読み直す(仲正昌樹)

 本書「今こそアーレントを読み直す(仲正昌樹)」(参照)のテーマとなるハンナ・アーレント(Hannah Arendt)は、1906年ドイツ生まれのユダヤ人政治哲学者だ。名前からわかるように女性で、若いころは彼女の先生だった哲学者ハイデガーと濃い師弟関係もあった。後年ナチス政権を逃れ、フランスを経て1941年に米国に亡命した。その後米国で英語での主要著作をなし、1975年、期待される大著執筆の途中、68歳で没した。

cover
今こそアーレントを読み直す
仲正昌樹
 彼女の思索が注目されたのは、その経歴の刻印にも関係するが、ナチスという政治体制を筆頭に、20世紀の全体主義体制をどのように考えたらよいかという課題に、独自の議論を展開したことによる。その独自性の意味合いと、彼女の最終的な思想の帰結について、本書「今こそアーレントを読み直す(仲正昌樹)」は、新書として軽い文体で書かれているものの、明確に描き出していて読み応えがあった。私はアーレントの思想に詳しくないが、後に述べる理由もあって、本書はアーレント思想入門として、また現代日本を考察する上でも優れた書籍であると思った。
 類書(参照)を連想させる標題は、新書シリーズとして出版側から付けられたのだろうと推測するが、それでも、なぜ、現代日本で、今こそアーレントを読み直すのか、というテーマは明確に意識されている。著者仲正が指摘するように、現代日本で説かれる政治思想は、装いは複雑に見えても、実際には単純な倫理命題に帰するものが多く、その意味でわかりやすく説かれすぎている。「何をなすべきか」に具体的な当為を描き出してしまう。そのわかりやすさそのものに、アーレントの危惧する全体主義につながる傾向がある。もちろん、そうした観点もわかりやすすぎるという矛盾ははらんでいるし、本書もそこは配慮されている。
 仲正が取り上げている、現代日本の政治思想のわかりやすい一例には「格差社会論」がある。現実の人間には、社会的地位、学歴、技能、コミュニケーション能力など多面性があり、格差の形成も多様な形態を取っているにもかかわらず、ひとたび思想として「人間らしい平等な生活」といった枠組みが提示されると、それだけから「格差社会と戦わなければならない」という至上命題が現れる。数年おきに起きる通り魔殺人事件が、さも現代の格差社会の結果のように真顔で論じられたりもする。こうなれば政治思想といっても、もはやその主張の党派に入るか否かだけが問われているにすぎない。党派的な「善」や「説明」が希求されれば、「格差とはどのようなものか、なぜ格差が問題なのか」と多様性を志向する議論自体、排除されるべき対象とされ、対立する集団の利権の争いのような政治性に帰着してしまう。あるいは、政治性が先行して思想が類別されるようになる。
 アーレントの思想が起立するのは、こうした「政治性」こそ政治ではないのだする指摘においてだ。アーレントによれば、政治とは、人が公を存在の部分を負って公の場に現れ、多様な議論を形成することにある。複数の主張が公において息づくことが政治だとするのだ。アーレントの政治観からすれば、党派的な命題だけが宗教的に問われる現代日本の「政治」議論は倒錯的だ。さらに、「格差是正は無条件に正しい」といった「善」の倫理は、一つの世界観を提示することで、不安に駆られた大衆を理想に導く「思想」となるが、その「思想」の担い手はマックス・ウェーバーが「世界観政党」と呼んだものであり、その政党性こそ全体主義に至る階梯にある。
 ここにもう一つ、アーレントのキーワードがある。「大衆」だ。個人が大衆に埋没し、「世界観政党」に併呑されないためには、公において複数の議論が提出される、アーレントの言う「政治」が求められるし、それをなす主体が「人間」として再定義される。
 当然ながら、アーレントの思想は、現代日本の状況など、個別の状況的課題に対して、直接的な解答を与えない。しかもその議論は、既存の「善」を志向する思想家たちをあえていらだたせるものすらある。仲正はこうしたアーレントのスタイルを「ひねくれ方」とも見ているし、アーレントを「ヘンなおばさん」とも言っているが、同時にそこが魅力なのだとしている。むしろ日本の知識人に迎合されてきた、全体主義批判者アーレントといった単純な像を転倒するところにも、本書の妙味がある。
 本書はアーレント思想の入門書としても企図されており、巻末には簡素ながらも年表もある。また、軽妙な書籍に見えるわりには、アーレントの主要著作、「全体主義の起源」(参照参照参照)、「イェルサレムのアイヒマン - 悪の陳腐さについての報告」(参照)、「人間の条件」(参照)、「革命について」(参照)、「暴力について - 共和国の危機」(参照)等についても、中心課題とキーワードを縦糸にして包括的に説明している。著者の自嘲気味な修辞に惑わされなければ、これらのテーマを扱った序論以降の、第一章「『悪』はどんな顔をしているか?」、第二章「『人間本性』は、本当にすばらしいのか?」、第三章「人間はいかにして『自由』になるか?」までの叙述は非常にプレーンだ。別の言い方をすれば普通にオーソドックスな解説であり、ある程度アーレント思想になじんだ人にとっては、いつもアーレントというべき部分だろう。
 おそらく日本の知識的状況においては、そこまでが普通のアーレントなのかもしれないし、率直に言えば、そこまでのアーレントの思想なら、問題提起としては彼女の意図に反したとしても、それほどわかりづらいものではない。彼女の議論に啓発され、自分で物事を考えようとすれば、ある意味で足りる部分でもある。しかし本書を読み進めながら、スリリングな感興を得たのは、第四章「『傍観者』ではダメなのか?」で、仲正がアーレントとカント哲学の問題に踏み込むあたりだ。
 結果的にという限定が付くが、晩年のアーレントは三部構想の「精神の生活」の執筆において、「第一部 思考」(参照)、「第二部 意志」(参照)まで書き終えて亡くなり、その最終でもあり全生涯の総括ともなりうるはずの「第三部 判断」を残さなかった。おそらくこの第三部の「判断」から、彼女の後期思想、あるいは全思想の眺望が伺えるはずでもあったとすれば、未踏のアーレントを想像することこそ、アーレントを読むという知的営為となる。それがこの小冊子の一章に充てられている。
 アーレントの最後の思想については、同書の二部までに加え、仲正が完訳した「カント政治哲学講義録」(参照)、つまりニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ(New School for Social Research)での講義録から読み解かれるものとされる。つまり、カント哲学の文脈で読み解かれるものだ。
 ここでの主要なテーマは、従来の、人間が公的な存在たるべく活動を促すアーレントの議論とは異なり、政治における「観想」になる。人は時代と状況にあってどのように思索・観想するのか。思索・観想というあり方の政治的・倫理的な意味が問われるようになる。
 仲正はアーレントのカント講義において、美についての判断力の議論の援用から政治的判断力を構想していたと見ている。私たちがある対象を美として「判断」するということは、私という個人の内面において単独な判断が成立しているのではなく、共通感覚としての他者の判定の眼差しが組み込まれているということだ。アーレントは、観想的人間存在の政治性を、他者という共通感覚を基盤としつつ、個人の「拡大された心性(enlarged mentality)」によって、他者との調和を獲得する過程に意味づけていく。
 この考え方は、それ以前のアーレント思想において、公における複数の活動ということを基礎づけてもいるのだが、同時に、観想的な存在はまた他者の、観客としてのあり方も相互的に意味づけることになる。観想的な他者は公の判定として、公を注視する存在となるからだ。この開かれた公を基礎づける注視者は「非党派的注視者(impartial spectator)」ともなる。
 仲正の議論を追いながら、ここで、アーレントの潜在的な、しかし本源的な提起に遭遇する。非党派的注視者は、判断(judgement)が過去・歴史を考慮するように、いわゆる政治への関心においても過去に軸足をおくべきではないかというのだ。なお、仲正は言及していないが、おそらくこの語感は審判(judgement)に近いだろうと私は思う。
 現代日本で政治として語られている問題(issue)は、その直接的な利害関係においてアクチュアルに解き明かすことが前提となりがちだ。しかし、アーレントの潜在的な最後の思想においては、表層的な政治的問題ですら、共同体の過去のあり方・来歴の意味を説き明かすことのなかで公的な議論の枠組みが与えることになる。
 ここで本書から少し外れ、著者仲正のようにアーレントを契機とした自分の思想のようなものを、私も僅かに語ってみたい。
 アーレントも仲正もキーワードにはしていないが、私は、共同体の政治課題は、その過去像の「言語経験」の合意のなかで見いだせるものであり、さらに言えば、荻生徂徠の政治思想のように、言葉の意味を歴史了解に見いだす思惟において重要性を得るものでもあるだろう。またそれは森有正が、個人の体験と峻別した、名辞に至る「経験」にも近いものだろう。
 そこでは共同体の「言語経験」というものが重視されるはずであり、仲正も本書ではそこに気がかりな視線を投げかけてはいるが、「言語経験」、つまり言語共同体を重視する思想は、ドイツ語の神秘思想のようになってしまったハイデガーのそれであって、ドイツ語を捨て英語で思想を紡ぎ出したアーレントのそれではない。私はそこにある驚愕を覚える。後期アーレントの本質は、まさに後期ハイデガーの転倒にあったのではないか。
 英語という異国の言葉によって世界思想を解き明かそうとする、アーレントの思索道程そのものが、共同体の言語経験の歴史を、その民族的な意識において拡大する(enlarge)ことの模範となっている。もちろん、アーレントがギリシア語やラテン語の哲学を駆使したように、それでも西洋の文脈にあるとも言えるのかもしれないし、結局のところ、当初は異国の言葉だった英米の言語だが、その言語経験の歴史共同体に彼女も埋没したとも言えないこともない。だが、その延長は見える。そこでは、民族的心性から生まれた言語経験の価値性が、「拡大された民族的心性」として、民族的心性を解体しうることを示唆している。

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コメント

 まぁ要するに「要らんことせんと放っとき?」「そして放っとかれとき?」の究極版?ってことなんでしょうけど、弁当翁さんみたいに物売りやってると、放っとかれるのは死ですわな。私(野ぐそ)が放っといたくらいじゃ死なないから別にいいけど、大衆(笑)の皆さんに放っとかれたら死にますわ。普通に。それで良ければ(そういう状況にあっても20年以上生き延びる自信があるなら)アーレント、なんじゃないですかね?

 昨今、商売の現場は何かとアレなことにもなっておりますから、そういう界隈の連中にも読んで欲しいなーと思わないこともないんですけど。読んでも理解できそうにない連中から優先して腐ってるって現実もございますから、意味無いんですよね。なので、世捨て人か独居老人の精神的支柱程度の役割で、なくてもいいけどあってもいいくらいの按配で、読みたきゃ読めば? とも言いますな。そういう本でしょ。

 前エントリー佐藤秀さんのコメント的な風景が見える人こそ、購読お勧めです。そういうのが見えないか(見てても見ないふりしてるか)でenneagramのようなコメント書くヤツは、信用しない方がいいでしょう。そんな感じ。

 ああ、それと。

 昨今世相厳しそうですけど、今年のお米が要り用なら、ご連絡頂ければ秋口にお届けしますよ。クソ不味くて口に合わないから要らんでしょうけど。

 商売頑張ってね。

投稿: 野ぐそ | 2009.05.30 16:25

ようするに、マッチポンプ左翼がポンプ役ということかな?

投稿: PK | 2009.05.30 23:59

> 著者仲正が指摘するように、現代日本で説かれる政治思想は、装いは複雑に見えても、実際には単純な倫理命題に帰するものが多く、その意味でわかりやすく説かれすぎている。

ここのところ、ちょうど今山本七平の「日本教徒」を読んでいて、「ナツウラの教え」というキーワードとつながりました。日本人にとって外来思想はそういうポーズを取るだけの方法でしか消化されないのですね。

投稿: 匿名さん | 2009.05.31 09:16

全体主義については、ピーター・ドラッカー先生の「経済人の終わり」と「産業人の未来」は読みました。

ハンナ・アレントは読んでませんが、全体主義の源泉は、ドイツ観念論哲学である、と分析されたと聞いています。ピーター・ドラッカー説によれば、ヨーロッパの全体主義思想の出発点はジャン・ジャック・ルソーです。

日本の政治史には、近日にも、「まず小選挙区制導入ありき」という「正義」に国会議員がことごとく服従した歴史がありますので、「格差社会をなくす」という政治思想が至上命題になる現状も危険性が伏在しているのはわかります。

ドイツ語圏の人だったアレントが英語で政治思想をつむぎだす点ですが、私も今、お灯明1本分ですけれど漢文を呉音で音読したり、漢字音写ですけれど、真言陀羅尼を読んだりしてますし、10年以上、英文の和訳を生業にしていたので、いつも外国語で思想受容するとどうなるか?みたいな問いに答える資格は少しはあるのでしょう。

サンスクリットや古典中国語を源泉に思想形成するとどうなるか、という点にすこしは自己了解が出来たら、ギリシャ語とラテン語の教養をベースに、ドイツ語から英語に発信媒体をシフトしたハンナ・アレントの言語観も少しは関心を持って調べてみたいと思いました。

投稿: enneagram | 2009.05.31 10:46

>ここにもう一つ、アーレントのキーワードがある。「大衆」だ。個人が大衆に埋没し、「世界観政党」に併呑されないためには、公において複数の議論が提出される、アーレントの言う「政治」が求められるし、それをなす主体が「人間」として再定義される。

 わが国の実態と鑑みての実現のための課題は、①議論参加へのハードルとなっている経済的負担の引下げ(=いかに資金がなくとも政治に直接参画できるようにするか)ということと、②大衆側の成熟(=自身の意見を整理したうえで、(公と私欲を冷静に対比し)候補者を見極められる目をいかに養うか)、ということなのでは、と思います。
 実態はこの逆そのものだなぁ…と感じる中で。

投稿: 楚子 | 2009.05.31 15:34

 「併吞」されないためには…屁ぇ、どぅーん!! すればいいんですね。さっさと飯食って風呂入って屁こいて寝ろと。人生そんなもんです。

 で。

 本日久々に友人ブー様宅へ遊びに行き、『三国志2 覇王の大陸』(ファミコンソフト・1988・ナムコ製)で遊びつつ世相や経済状況や職場環境の愚痴や将来について生ぬるく語っていたんですが。ついうっかり程昱さん(てい いく、141年-220年)字は仲徳)を戦場に放置したところ、あっという間にコンピューターさんに嬲り殺し。激しく死去。猛烈に憤死。凄絶な終了。

 で。すかさず、俺。「キャア゛ーーーッ!!!! ……タカダコ~ポレ~ショ~ン(どっかの芸人さんのギャグ)!!」と切り返したところ、友人ブー様大爆笑。

 なもんで序でに両手で頭を抱えながら「ぅう~ん、ぅう~ん、頭が痛い、心が痛いよ~。俺の程昱さんが~。程昱さんが~」とノッてみたところ、友人ブー様が飲みかけのコーラを私にぶちまけるという古今未曾有の大失態。ゲームそっちのけで部屋のお掃除となりました。

 掃除中も性懲り無く「ぅう~ん、ぅう~ん」と申しておったところ、友人ブー様が笑い出してバランス崩して柱の角でおでこを強打。出血しておりました。

 いかんいかん、とティッシュで拭こうとしたのですが部屋に無かったので隣の部屋まで取りに行こうとしたところ、コーラの零れた床で滑って太ももを強打。

 別の意味で「ぅう~ん、ぅう~ん」と唸り申し上げたところ、友人ブー様が涙を溢しながら「お前もうダメ!! 帰れ!!」と仰いましたので、ゴメンね、と謝ってから夕方までゲームして、日が暮れたので帰りました。

 我が国特定地域における実態だと思いました。

投稿: 野ぐそ | 2009.05.31 22:24

わが国特定地域といえば、私の住居は、「こち亀」の聖地亀有の近くですが、亀有というのは、駅前がひどく猥雑なところです。ほかの事では負けても、猥雑さでは、新橋駅前に負けないと思われます。新橋駅前も経済的な酒の飲み方のできるところでサラリーマンの聖地ですから、亀有も、経済的な酒の飲み方のできるところのはずです。私は、最近、亀有駅前の日高屋で、もつ煮込みを食いながら生ビールを飲みました。当然そんなに金はかかりませんでした。

まあ、猥雑な亀有や新橋は、アーレントの哲学とはまず無縁だと思われます。でも、銀座や六本木のクラブで酒飲めるやつがアーレントの哲学を扱う仕事をしていたら、それは、噴飯ものな話だと思います。

投稿: enneagram | 2009.06.01 16:17

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