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2009.05.20

[書評]奇跡の脳(ジル・ボルト・テイラー)

 子供のころ私は「頭の体操」というクイズ集が好きだった。シリーズには科学版があり、正確な問いは覚えていないが、こういう問いがあった。A氏の身体にB氏の脳を移植したら、この人は誰か? 答えは、B氏である。脳が身体を支配するのだから、脳であるB氏がその人だ、と。今に至るまで記憶しているのは、子供のころ解答を知ってなるほどと思った反面、違和感もあったからだ。大人になった私としては、脳の移植は不可能だからくだらない問いかけにすぎないという感想と、それでも脳がその人を意味するという現代人の憶見を示しているだけなのではないかと皮肉な思いが交差する。

cover
奇跡の脳
ジル・ボルト・テイラー
 「私の脳」と「私」は同じものだろうか。脳はその器官のイメージから、あたかも認識の客体として想像されやすいが、認識し思念する「私」がその脳という器官と同じかどうかは、ハードプロブレムと呼ばれるような哲学上の難問でもある。もちろん「私」の認識や思念が脳機能の過程に深く関わっていることは間違いなく、「私の脳」に異変があれば「私」は変わる。「私」が脳学者であるならその変化の過程を刻々と構造に関連付けて意識することもできるはずだ。
 想像上はそうでも、解体していく「私」という意識過程を言語表出で他者が受け取ることはない。壊れゆく脳変化の過程を何らかの手法で他者に伝えることができる水準にまで、一度壊れた脳が回復することはほとんどないからだ。そう思われていた。脳学者ジル・ボルト・テイラー博士は違った。奇跡だったと言いたくなる。彼女は、脳学者として自分の脳の損傷過程を内的に体験し、正常に近い脳の状態まで帰還してから、私たちに壊れゆく脳の中の「私」というものの意味を本書「奇跡の脳(ジル・ボルト・テイラー)」(参照)で解き明かし、伝えた。それは驚くべきメッセージだった。
 1996年12月10日、朝、37歳で独身、一人暮らしの脳学者ジル・ボルト・テイラー博士は頭痛で目覚めた。血行を良くしようと日課のエキササイズを始めたが身体感覚は異常だった。しだいに視覚も異常になり、日常の思考にも困難を生じた。テイラー博士は自分の脳に異変が起きたことを知り、助けを求めようと電話を手にしたが、ダイヤルも困難であり、言葉もままならなかった。左脳の言語中枢がやられていた。ようやく電話を受けた同僚がうめき声で事態を察し、博士を救出したのは偶然に近い幸運だった。
 脳卒中に襲われ、外部から見ると言語も意識も乏しい状態にしか見えないテイラー博士だが、彼女のある意識は突然の脳損傷にもかかわらず存在し、世界と、彼女に接してくる人々を認識していた。左脳損傷から考えれば、その意識は右脳にあったのだろうと推測される。右脳の意識によって、痛覚の中にも宇宙と渾然と一体化する至福感も味わっていたという。
 卒中の開始から病院での数日間の、神秘的とも言える内的な描写は、本書の圧巻だ。読みながら、私の父は卒中で死に、私もいずれ卒中で死ぬではないかと怯えていたが、その刹那に浄土のような至福感があるかもしれないと、希望のようなものすら夢想した。
 本書のオリジナルタイトル"My Stroke of Insight"(参照)にはその神秘的な脳活動への含意がある。Strokeの両義である「卒中」に加え「一撃」の意味には、「洞察が一撃のように現れた」というメッセージが込められている。彼女を襲った至福感が、その洞察を意味していた。彼女はこれを右脳特有の機能ではないかと後に考察していく。
 本書のもう一つの山場は、回復の過程にある。GG(ジジ)と愛称される彼女の母親(数学者)による献身的な介護と回復に至る長い日々の描写は読み応えがある。本書は米国でベストセラーになり、さらに著者テイラー博士は2008年のタイム誌「世界で最も影響力のある100人」に選ばれたが、その評価を支えたのは、彼女が脳卒中や脳損傷患者への介護について多くの洞察を与えたからだ。言語も思考も不自由にしか見えない患者にも豊かな内面があるということを、彼女の証言から多くの人が察するようになった。このことはもっと簡単に言える。患者は、右脳の意識のなかで、接する人々の愛情とエネルギーを正確に察知しているということだ。そのことを多くの人々が理解し、患者への接し方を改めるようになった。
 日本にもテイラー博士の思いが伝わっていることは、NHKの関連番組の影響もあるが、本書がすでにベストセラーに上がっていることからでもわかる。だが本書が現代日本の精神風土で読まれる場合に、私には二つの誤解が立ち塞がりはしないかとも懸念した。
 一つは、左右脳機能への無理解だ。本書はいわゆる俗流の右脳礼賛本と読まれる危険性がある。左脳の分析的な思考が人間を孤独にし、右脳の情感が連帯をもたらすといった単純な読み方だ。確かにそう読める部分はあるが、テイラー博士は右脳の可能性についての文脈で述べているのであり、通常の脳機能が左右脳の統合によることは明記されている。テイラー博士は卒中を経験したとはいえ、脳学者の見識もあり同僚たちに支えられている。内容は確固たる科学性に裏付けられていると信頼してよい。
 もう一つは、俗流のオカルト志向を正当化するように誤解されることだ。残念ながら、部分的に取り上げるならそう誤解されてしかたないだろう。だがこれもそうした断片をあげつらうのではなく、本書の全体から読み解くべきだ。
 人が他者の愛情を感得する仕組みには、別段オカルト的な神秘性はないが、にも関わらず科学でも哲学でも解き明かされたものでもない。ヴィトゲンシュタインは他者の痛みを知ることの不可能性を説いたが、その前提には、我々が日常において他者の痛みを察知している現実というものの奇跡的な了解がある。私たち人間は、他者の愛情や痛みを感得する能力があり、その能力の仕組みをまだ十分に知っているわけでもない。なにより、愛情の交流を知るためには、各人がそのような愛情の場に組み込まれることを要請するような倫理が問われる。人とはそのような存在なのだ。
 誤解を招いてはいけないが、本書は瞑想など精神の内奥に関心をもつ人なら、著者が意図せずした書いた部分に各種の符丁を見いだし、そこに驚嘆することだろうと思う。

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コメント

> 脳が身体を支配するのだから

「中枢は末梢の奴隷」という人もいますよね。

投稿: 774 | 2009.05.20 23:59

この手の話題を出すのなら、ベルクソンの「物質と記憶」および「創造的進化」を話の枕にするとよいと思います。

脳は、思考を生み出す機械か装置というより、生への専念の機関、知覚の遮断(フィルタリング)機構と考えるベルクソンの仮説に従ったほうが、物事がすんなり話を運べるように思うのです。

私なんか、精神錯乱を起こして、ユング心理学で言う「自我肥大」が起きた者で、潜在意識が顕在意識に強く侵入した経験を強く持っているので、脳が意識を作るのではなく、意識(と無意識)が脳を道具として使っていると考えたいと思います。また、言語が思考を作るのではなく、思考が言語を道具にしていると思っています。そして、思考の道具である言語を思考そのものと取り違えることで、私たちは言語由来の多くの誤解と錯覚にさらされながら、現実を誤認しながらかろうじて生きている。この、言語のもたらす現実や事実の誤認のある種のパターンについても、ベルクソンは少しだけれど分析してくれています。

投稿: enneagram | 2009.05.21 11:15

配慮の行き届いた無駄のない文章に感服しました。自分のブログに追記しました。

【『奇跡の脳』についての書評が、この記事の最後に記録したやりとりをしていただいたfinalvent氏のブログに出された。・・・・ まだ本の届いていない私がいうのも何だが(^_^;)、さすがのまとめ方だと思った。】

トラックバックさせていただきました。

投稿: SeaMount | 2009.05.21 12:35

finalventさん、
この本に関するいくつかの書評を読んで「また右脳本かよ」と思っていた自分を恥じました。誤解が解けました。機会があれば読んでみたいと思います。亡父も脳卒中だったし。

投稿: tom-kuri | 2009.05.22 14:55

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【追記】私が、右脳に関心をもつきっかけとなった本は、1981年に出版されたものなのでもう絶版だろうと思って、そのことは書かなかった。しかし、その本は、1993年に文庫化されただけでなく、2003年に、改題・再編集されて出版されていたので、そのことを書いた。     ... [続きを読む]

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