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2009.05.19

[書評]渚にて 人類最後の日(ネヴィル・シュート作・佐藤龍雄訳)

 先日ぼんやりと人類が滅亡する日のことを考えていた。具体的な脅威が刻々と迫って滅亡するという情景ではなく、遙か遠い未来のこととして想像してみた。うまくいかなかった。自分の死と同じように、その日が確実に来るとわかっていながら、うまく想像できないものだと痛感した。そして、この問題はまさに「自分の死と同じように」という部分に重要性があるのではないかと思い直し、ネヴィル・シュートの「渚にて」(参照)を思い出した。

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渚にて【新版】
人類最後の日
ネヴィル・シュート
佐藤龍雄訳
 「渚にて」は、私の世代から上の世代は誰もが話を知っている作品でもあり、それゆえに私は実際に読む機会を逸していた。アマゾンで探すと、創元SF文庫で4月に新訳が出ていたことを知り、これを機に読んでみた。なるほどこれは名作だった。魂を揺さぶられる思いがした。
 以前の版も創元SF文庫だと記憶していたので、どういう経緯の新訳なのか気になった。東京創元社文庫創刊50周年の記念らしい。それだけ旧訳の言葉使いが古いのだろうか。光文社古典新訳文庫のように読みやすさに工夫されているのだろうか。読後の感触からすると優れた訳文だろうと思うが、「かぶりを振った」式の訳文にはそれほどの現代性はなく、読みやすい訳ではあるものの漢語の格調も高い分、若い世代にはなじみづらいかもしれないとは少し思った。
 「渚にて(On the Beach)」の原作は、私が生まれた1957年に出版された。米ソ冷戦のただ中であり、この年、人類最初の人工衛星スプートニクは当時の米国に、現代日本が感得するテポドンの脅威以上の危機(Sputnik crisis)を与えた。「イワンが知っていることがジョニーにはできない("What Ivan Knows that Johnny Doesn't." )」として米国に教育改革が起こり、日本にも波及して私の世代から初等数学が集合論によって基礎付けされるようになった。私は冷戦によって育てられた。
 初訳は1958年、文藝春秋新社による木下秀夫訳「人類の歴史を閉じる日」である。翌年の映画「渚にて」(参照)とともにそれなりに話題になった。1962年にキューバ危機が起こり、人類は全面核戦争に直面し、1965年、創元推理文庫前訳版にあたる井上勇訳が出版されると、この直面した危機の余波で広く読まれるようになった。あたかもネヴィル・シュートの予言が当たるかのようにも思えたからだろう。「渚にて」の物語の時間は、1964年に想定されていた。
 物語は、中ソ間の暴発がきっかけとなった第三次世界大戦で、地球北半球が全面核戦争によって死滅した状態から始まり、さらにその放射能が南下し全面的な地球滅亡を待つ南半球のオーストラリアを舞台にしている。物語では、一つの国家がじわじわと死滅に至る過程が描かれている。
 現代の常識からすれば、人類が全面核戦争を起こしても、ネヴィル・シュートが想定したような人類滅亡にはならないだろう。それゆえに私もこの小説は名作であっても科学的にはナンセンスなお話ではないかと思っていた。本書新訳の帯に小松左京の言葉、「未だ終わらない核の恐怖。21世紀を生きる若者たちに、ぜひ読んでほしい作品だ」が引かれているように、本書は従来、核戦争の恐怖と愚かさを伝える作品として理解されてきた。あるいは、冷戦的な世界を描き出した予言の書として読まれてきた。私はその側面に関心を持つことがなかったが、読後、まったく異なる感想を持った。その前に、物語にもう少し言及しよう。
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エンド・オブ・ザ・ワールド
レイチェル・ウォードほか
 物語の舞台は、北半球で全面核戦争が終わって1年後の1964年の1月から半年の、メルボルンとその近郊である。米国はすでに国民と国家が死滅したと見られていたが、米国原潜スコーピオンは生き延び、オーストラリア、メルボルンに寄港した。
 オーストラリア政府は、スコーピオンに期待した。北半球の状況、および南下する放射能の状況によってオーストラリア大陸もまた死滅する運命にあるのか、米国軍人である、スコーピオン号艦長ドワイト・ライオネル・タワーズ大佐に調査を依頼し、オーストラリア海軍ピーター・ホームズ少佐が補佐することになった。
 物語は、ホームズ少佐家族の和やかな日常から始まる。ホームズ少佐は、大任を共に遂行することになるタワーズ大佐と親交を深めるためにホームパーティに誘う。ホームズ少佐には若い妻メアリ・ホームズと幼い娘がいる。パーティでは、雰囲気を盛り上げようとホームズ家の知人として20代の女性モイラ・ディッドソンが参加する。これをきっかけに彼女は、米国に妻子を持つ30代のタワーズ大佐を慕うようになる。タワーズもモイラを慕うが、米国の妻子はすでに死んでいると理性的に考えつつも、その現実を受け入れることができず、その恋の一線を越えることができない。物語の主軸は、タワーズとモイラの恋、それとホームズ夫妻の家族愛である。それらを不可避の死滅がじわじわと覆っていく。
 原潜スコーピオンは、タワーズ大佐にとっては恋人モイラを、ホームズ少佐にとっては妻と娘を残し、死滅したはずの米国から送られる謎の通信や、北半球の放射能状況を探るべく出航する。放射能分析のためにオーストラリア科学工業研究所の研究員ジョン・S・オスボーンも同乗するが、彼がこの物語のもう一人の重要な登場人物になる。
 無事任務を終え原潜スコーピオンはメルボルンに戻るが、もはやオーストラリアおよび南半球の人類の死滅も逃れることができない状態が明確になった。そのなかで、人々はどのように生きて、死を迎えるのか。この作品が名作であると疑いえない確信を読者に迫るのは、終末に至る人々の淡々とした生のありさまであり、ホームズ夫妻の家族愛とタワーズとモイラの恋の終わりの描出にある。
 読後私には、ネヴィル・シュートが英国人だからというのではないが、まさにシェークスピア悲劇のような重たい印象を得た。その思いに沈みながら、しだいに、不思議と、描き出された核戦争の脅威でも、人類の死滅でも、人に不可避の死という残酷さでもなく、逆に生の時間というかけがえのないもののあり方が心に深く生き返ることに気がつことになった。この物語は悲劇であるが、単なる悲劇ではない。時代や戦争の装いをしながら、シェークスピア文学のように人が生きることの意味を問い、それに答えている物語だった。
 ホーム夫妻の最後、タワーズとモイラの最後には涙を誘うが、その悲劇を単に悲劇としないためにオスボーンの生のありさまが対置して描かれ、最終に至る筆致のなかで、自然は美しく、人々の日常は輝き出す。人はそのように生きることができるからこそ、いかなる死も受け入れる存在であることが深く示されている。希望とは未来への企図ではなく、人としてあるべき日常のこの瞬間の全機現にあるのだろう。

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コメント

原作もかなり昔に読んでいて、グレゴリー・ペック主演の映画も2~3回見ていて、これは良く知っていると思っていたのですけど、弁ちゃんの新訳本の書評を読んでみて、アレ?な感じです。スポットの当て方の違いでもしや、人の生きることへのメッセージが別の意味で潜んでいたのかもと、改めて新鮮な思いがこみ上げてきました。迫力のある読み応えのある内容なので、その辺のインパクトで昔は納得して読んでいたような嫌いもあります。新訳で読んでみたくなりました。
ありがとう。

投稿: godmother | 2009.05.19 19:48

原潜「スコーピオン」は同じ名前の原潜が実在し、1965年大西洋で沈没、全員死亡という事故を起こしているんですね。滅亡したのはスコーピオンだったという痛ましいオチでありました。

投稿: 佐藤秀 | 2009.06.02 21:41

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