« [書評]プーチンと柔道の心(V・プーチン他) | トップページ | ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番 »

2009.05.09

[書評]優生学と人間社会 ― 生命科学の世紀はどこへ向かうのか(米本昌平、橳島次郎、松原洋子、市野川容孝)

 私は優生学というものにそれほど関心を持ったことはなく、よって、浅薄な見解しか持ち合わせていない。単純に人間の選別に加担する間違った医学であり、ナチスのホロコーストにもつながる間違った思想なのだろう、というくらいの認識しかなかった。

cover
優生学と人間社会
生命科学の世紀は
どこへ向かうのか
 本書「優生学と人間社会 ― 生命科学の世紀はどこへ向かうのか(米本昌平、橳島次郎、松原洋子、市野川容孝)」(参照)はその程度の「認識」を踏まえ、それに対置した形で議論が緻密に描かれている。しかも、読みやすく、そして啓発的だった。
 とはいえ、この啓発の意味合いをどうとらえてよいかという問題は残った。率直に言うと、本書の見解はどことなく「歴史修正主義」といった思考の圏内に近い印象もあったからだ。あるいは、「ホロコースト ― ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌(芝健介)」(参照)にまとめられている機能派的な歴史研究のように、現代的な歴史水準というだけなのかもしれない。率直なところどう考えてよいのかはわからない。
 本書のあとがきによれば、「新書という限られた紙面の中に、二〇世紀の優生学史の俯瞰図を描くことは冒険であったが、これまでの優生学論とは違う、世界的にも類書のない本ができたとひそかに自負している」とある。通常ならそれだけでもトンデモ本の兆候とも言えないでもないが、著者達の自負とは異なり、参考文献を見れば、すでにこの領域の議論が西欧においてかなりの蓄積があることがわかるし、本書の記述からもその蓄積は読み取れる。気になるとすれば、本書の刊行である2000年以降、この問題はどうなったのか、またこの書籍はどういう評価になったかだ。アマゾンの素人評では高いようではあるが、思想の世界での評価などは私は知らない。
 本書はまた、ある意味盛りだくさんな内容と示唆に富んでいるので、読み取る側面によって受容もまた多様だろう。共著となったことにあわせて、あとがきによると、「この本の出発点となった当初の企画は、最先端の医療技術をわかりやすく解説し、その倫理的な問題を考える本というものであった」としているが、その原初の意図はできあがった本書全体からも伺われる。この本はその基礎となるべき優生学の史的な再考を主眼とすることになっているからだ。
 このモチーフが明瞭になるのは、次のような認識によるもののようだ。60年代の科学とイデオロギーの相剋、70年代移行の生命操作といった時代の問題を背景に、ナチス優生政策が「否定的に再発見された」として、

 しかしこの時点での批判の多くは、危機を例として、ナチスの優生政策や人種政策を列挙するにとどまらざるをえなかった。ナチス優生政策の実証研究が本格化するのは、八〇年代以降である。一九八〇年五月、ベルリンで開かれたドイツ健保学会は、それまでの重い重いタブーを打ち破って「ナチス医学、タブーの過去か不可避の伝統か」というシンポジウムを敢行し、これによって本格的な実証研究への突破口が開かれた。
 このような歴史的な事情をとりわけ力説するのは、ナチズム=優生社会=巨悪という広く流布している図式の下で優生学を語ることからいったん離脱すべきだ、と考えるからである。この解釈図式にどっぷりつかっているかぎり、優生学的言説はすべて、歴史的な流れとは無関係に、ナチス優生学を頂点とする悪の階位表のなかに配列されてしまう。そしてそのことは、現在われわれが直面する問題を正確に把握しようとするとき、かえって有害とすらなるようにもみられるからである。

 では、ナチズムと優生学とは、どのような、歴史的・実証的に見て、関係にあったのか。第一次大戦後の世界の動向に触れたのち、

 ところで、優生学に対する最大の誤解は、優生学は極右の学問であるというものである。歴史の現実はこれとは逆で、本書でもしばしばふれるように、この時代、多くの社会主義者や自由主義者が、優生学は社会改革に合理的基礎を与えてくれるものと期待した。

 このあたりの史実の詳細が本書において非常に興味深い。

「優生学」という言葉を聞いて、すぐにヒトラーとかナチスのことを思い浮かべる人は、読者の中にもきっと多いだろう。確かに、ナチス政府が一九三〇年代に開始した優生政策は、その規模、その暴力性において、歴史上、例を見ないものだった。しかしながら、優生学をヒトラーとナチスにだけ閉じ込めて理解するならば、歴史的事実の多くを逆に見落とすことになる。ドイツでは、ナチス以前のワイマール共和国の時代に、優生政策の素地が徐々に形成されていった。北欧のデンマークでは、ナチス・ドイツよりも早く断種法が制定され、またスウェーデンでも、最近の問題となったように、実質的には強制と言える、優生学的な不妊手術が一九三〇年代以降、五〇年代に至るまで実施されていた。ワイマール期のドイツと三〇年代の北欧諸国に共通するものは、福祉国家の形成ということである。

 科学的な合理主義、社会主義、福祉国家という近代化の滑らかな運動が国家を超えて優生学として浸透していったというのが実態だった。特に福祉国家の名のもとに人の生命を国家に帰属させることが何をもたらしていくのか、さらに、反戦平和主義ですら優生学に寄り添ってプロセスなど、具体的な史実の解明は本書においてスリリングなところだ。皮肉にもと言ってよいのかわからないが、この動向に当時対抗しえたのは、フランスの個人主義的な傾向と、カトリックの古風な倫理でしかなかったことは、奇妙な反省のようなものを現代人に強いるだろう。
 優生学はナチスで発生したものでなく、ナチスがその大きな動向の浸潤の中にあったとして、では、ナチズムと優生学はどのような関係にあるのか? ここでまた本書の提起は驚くべきものがある。

 ナチズムには、相互にはっきり分かれる二つの地層がある。一つは、ユダヤ人その他に対する人種差別と政治的迫害の層であり、もう一つは強制不妊手術や安楽死をもたらした優生政策の層である。

 本書ではこの二層を史実から分離していく。まず、「確かに、この二つの地層はヒトラーという人物の下で緊密に重なり合っていた」とするのは、意図派的な言明ともいえるかもしれないが、こう続く。

障害者の安楽死で生み出された大量殺害の方法が、アウシュビッツその他の強制収容所で応用されたという事実もある。また、強制不妊手術や安楽死計画の被害者に対する戦後補償を求めて活動した人びとも、それを何とか実現させる一つの政治的な工夫として、ナチスの断種法と安楽死計画が、人種差別その他の犯罪行為と同じく、ナチス固有の不正であると主張してきた。

 本書ではそれを分化していく。

本書全体が明らかにするように、人種差別にもとづくユダヤ人の大量虐殺や、残忍な政治的迫害がないような国でも、ナチスと類似した優生政策は実施されていた。そうした歴史的事実をきちんと認識するためにも、二つの地層の違いに留意することは重要である。


 往々にして、優生学、安楽死計画、そしてホロコーストは、ナチスという悪のメルティング・ポットの中で十把一絡げに論じられる。しかし、優生学の論理は安楽死計画のそれから、また安楽死計画の論理はホロコーストのそれから、それぞれ微妙に異なっている。

 安楽死計画はフランスにおいても検討されていたし、民族への優劣も議論されていた。しかし、民族主義と優生学にも亀裂がある。フランスの極右とされる国民戦線を取り上げ、

 だがその国民戦線の最も過激な主張の中にも、三〇年代の古典的優生政策と同等視できるような政策プログラムは見当たらない。民族には優劣があると公言はするが(それだけでも、フランス共和国の普遍的人権の価値に反するから、まともな市民はしてはいけないことだとされている)、実際に求めるのは、若干の移民制限と、雇用・福祉・文化などの社会政策をフランス人優先にせよという程度である。これは、人道に対する罪と優生政策禁止の立法の効力とは考えられない。国民戦線の活動はこれらの立法のはるか前からあったからだ。やはり民族主義と優生学は本来別のものなのだろう。

 ここで言う民族主義は国家主義と結びつく、いわゆるナショナリズムと見てもよいだろうが、それはやはり優生学の運動とは異なるものだ。
 こうして優生学の歴史を振り返ることで、本書は現代的な生命医学の倫理問題の基礎を構築していくのだが、同時に、優生学的な部分と分離した上で、ではナチズムとはなんであったか、ホロコーストとはなんであったか、ということが陰画的にも問われるようになっている。
 本書で示される歴史のディテールは、一般的な医学史に関心をもつ人も興味深い。私は次の箇所ではっとした。

 ドイツで優生学(人種衛生学)が学問として形を整えはじめるのは、一九世紀後半である。それは近代医学を大きく前進させた細菌学の交流と、時期的にほぼ重なっている。いや正確には、優生学は細菌学を真後ろから追いかけるかたちで登場してくるのである。

 本書では細菌学の限界から、病原としての遺伝的な関心に移ることで、優生学的な動向を見ていこうとしている。だが、私がはっとしたのは、同時にこの時期に栄養学が発生してくることだ。
 粗っぽい言い方をすれば、栄養学とは皆兵としての国民の健康の学であり、優生学と似たなにかの精神的な軸上にある。と同時に、細菌学から優生学または栄養学に変化していく動向のなかで、陰画的に真菌学があたかも意図的に忘れ去られた。

|

« [書評]プーチンと柔道の心(V・プーチン他) | トップページ | ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番 »

「書評」カテゴリの記事

コメント

この忘却は何なんでしょう。気づけない何か偏向のようなものがあるんでしょうか。人類史上の発明発見、とか20世紀最大の発明発見とかのランキングから、いつの間にかペニシリンが消えてしまってるのも何とも不思議です(というかみんな忘れてしまってる?)。

投稿: Sundaland | 2009.05.10 11:21

細菌学の後に、栄養学と優生学が現れた、というのは、医学的関心のあとに、家政学的関心があらわれたということだと思います。

人間の内面の支配の第一歩として、科学は、医学から家政学的問題に取り組んだ?そういえば、フロイトの精神分析も19世紀後半の産物ですね。

投稿: enneagram | 2009.05.11 12:21

乱暴な思索をしてみると、遺伝子治療というものが無いという前提で考えれば、統計的に環境や血族に一定の著しく人間として育てていくのが生きていくのが難しい出産というものが出てくる訳で、その内の控え目な数値を目標として効率的な優性保護法の適応を試みることは、為政者としては正しいような気がします。又それは同時にそれでもそこから漏れた或いは後天的な障害を持たざる得なかった人達については行政やコミュニティーが彼らの社会生活のために結構な生活補助や役回りを用意するという約束とバーターでなければ全体として倫理的に格好が付かないような気がします。
大衆社会での控え目な優性保護制度は自然淘汰が既に働きにくいだけじゃなく個人で行えば犯罪にさえなる以上必然ではないでしょうか?

投稿: ト | 2009.05.12 10:12

生物兵器としての恐ろしい可能性が、純正な学問として貴族的且つ牧歌的な趣味性を逸脱してしまったんじゃないですかね?真菌学。
戦争となると予算が湯水のように使えますし、平凡な学術研究費で太刀打ちできないと。
ただ酵母・イーストなどの食品に用いる菌についての農学的研究、また博物学的採集対象としては、そういう危うさと隣接しながらも地道に続けられてる様に見えますけど。実際顕微鏡で覗く世界としてはとても面白いですし。
あとパッキンや潤滑油を犯す菌など機械文明の高度化を危うくするかも知れないという意味での研究もここ20年ぐらい進んで、産廃の分解や海中資源の採取への応用になったんじゃないかなぁ。

優生学と細菌学を同時に語る場合は、もう少し範囲を限定しないと拡散し過ぎなんじゃね?

投稿: ト | 2009.05.13 23:25

このコメントを表示するかしないかは、ブログの管理人様のご判断にお任せします。

昨日、真菌学者の徳増征二筑波大学教授の退職記念祝賀慰労会に参加してまいりました。参加者54名、盛況で、日本の真菌学は健全に維持されております。

徳増先生のご専攻は、真菌類の陸上生態学ですが、細菌類の水圏生態学がカナダのゾベル先生以来学問的権威を確立できているのに対して、徳増先生の真菌類の陸上生態学は、筑波大学の学外では現在までのところ、それほどは大きな反響を得られていないようです。

ただ、時代を振り返れば、ブリュッセル学派の事実上の祖テオフィル・ド・ドンデ教授が強く主張した非平衡熱力学の重要性がブリュッセル学派の外ではほぼ黙殺されていたのに対して、弟子のイリヤ・プリゴジーン博士がそれを生物学研究に応用したらノーベル化学賞の単独受賞に結びついたように、ド・ドンデ教授の問題意識が時代を先取りしすぎていたということもあります。

徳増先生の問題意識がド・ドンデ教授のように時代を先取りしすぎていただけなら、後継者の出川洋介博士が真菌類の陸上生態学の研究を継承してくれて、なんらか、画期的応用分野をみつければ、出川博士の業績が空前の科学的業績になるということもなくはないと思いますので、この先、真菌学からなにかとんでもないものが飛び出してくるかもしれません。

投稿: | 2009.10.18 13:34

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: [書評]優生学と人間社会 ― 生命科学の世紀はどこへ向かうのか(米本昌平、橳島次郎、松原洋子、市野川容孝):

« [書評]プーチンと柔道の心(V・プーチン他) | トップページ | ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番 »