« とある酔漢のこと | トップページ | 1976年のギラン・バレー症候群 »

2009.04.25

[書評]コークの味は国ごとに違うべきか(パンカジ・ゲマワット)

 グローバル化する世界、あるいはフラット化する世界と言われるなか、実際の世界で現実に進行しているのは”セミ・グローバリゼーション”、つまり部分的なグローバル化である。”セミ”(部分的)という部分に着目するなら、グローバリゼーションとしての世界理解や経営戦略は端的に失敗しているし、今後も失敗するだろう。”セミ・グローバリゼーション”という現実の動向を理解しなければ国際企業も、また実際には”セミ”の部分で対応が迫られるローカルな企業も、未来において生存できない。

cover
コークの味は
国ごとに違うべきか
パンカジ・ゲマワット
 世界動向を見据えようとする思索はしばしば大局的なビジョンをシンプルに掲げることが多いし、そのようにシンプルに書かれた書籍は通俗啓発書のように理解しやすいものだが、現実からは乖離してしまう。経済活動に限らない。文化面でも「日本語が亡びるとき(水村美苗)」(参照)も同じような陥穽にあるように見える。世界の現実は、非常に込み入った”セミ・グローバリゼーション”と呼べる状況と展望にあり、その複雑性こを知力と理解を必要とするものだ。その意味で、「コークの味は国ごとに違うべきか(パンカジ・ゲマワット)」(参照)は非常に示唆深く、そして丹念な考察を提供している。大言壮語になってはいけないが、本書の内容が一般の書籍として出版されず、個別の企業に特化した形の追記が含まれるなら、おそらく数百万円という価格がついても不思議ではないだろう。
 オリジナルは「Redefining Global Strategy: Crossing Borders in A World Where Differences Still Matter(Pankaj Ghemawat)」(参照)で、直訳すれば「国際戦略の再定義:地域差が依然重要な世界における国際化」とでもなるだろう。邦題とは変わったお堅い表現だし、実際、本書はゲマワット博士による講義録をまとめたものであり、内容的にも大学から大学院レベルだろう。経済学を学んだ人、あるいは「極東ブログ: [書評]出社が楽しい経済学(吉本佳生, NHK「出社が楽しい経済学」制作班)」(参照)でも扱われている基本概念「裁定(Arbitrage)」なども知っていると読みが深くなる。
 とはいえ、経済学の「裁定」の知識がない人でも読めるように本書は丹念な解説として書かれているし、通常のビジネス書を超える内容を持つとはいえ、一般的な読者でも読めるように最善の配慮がされている。大胆ともいえる邦題の「コークの味は国ごとに違うべきか」だが、その配慮の延長としてみるなら適切でもあるといえる。各章題も変更されているが、むしろ本書を読み進める補助となっている成功例だろう。
 本書への切り口だが、この邦題の問い掛けから読み始めてもよいだろう。「コークの味は国ごとに違うべきか?」 どうだろうか? 資料と経緯を知らなければ様々な議論が成り立つ。逆に資料と経緯を知っているなら、ここからゲマワットが導いた以外の結論は難しいだろう。あたかもモーフィーの棋譜を読むような明快さがある。
 具体的に近年のコカコーラの国際展開だが、当初は単純なグローバリズム志向があり、その失敗から「グローバルに考え、ローカルに行動」というローカル重視の志向に変化していた。私は恥ずかしいことだが、そこがこの問題の事実上の解答であると思い込んでいたので、ゲマワットがそれを否定してく議論は非常に啓発的なものとなった。なかでも「グローバルに考え、ローカルに行動」というのは、場合によっては最悪の戦略になりうる。種明かしのような説明を読めば明白だが、これこそ”セミ・グローバリゼーション”とはまったく異なるものだった。
 では”セミ・グローバリゼーション”のソリューションとはなにかだが、これは一言でまとめられるものではなく詳細な分析を要するもので、その詳細説明について、本書では各種有益なフレームワークが提供されている。このあたり、レポートなら数百万円といった印象を与えるところだ。
 もっとも普通の読書として、本書に紹介されているエピソードだけ取り上げても興味深いものがある。コカコーラについては、なぜあの缶コーヒーが「ジョージア」なのか、という噂や、アトランタで開催される「コカ・コーラ世界の味」展示会で日本やその他の現地製品を試飲した米国人がその場で吐き出すという話も興味深い。
 後半にあるトヨタの例については、日本の読者なら違和感があるかもしれない。”セミ・グローバリゼーション”の成功例として解説されているが、解説の水準としては正しいとしても(集約Aggregationの例となっている)、トヨタが苦戦する現下の状況から見るといろいろ別の視点も必要だろう。
 総じて、本書のオリジナルは今となっては世界不況前の2007年9月に出版されたこともあり、その後に激変した世界の動向は明白には織り込まれていない。そのあたりで、私も読み始める前にいまさらこんな考察を読んでもしかたがないのではないかという懸念があった。が、読後の私の印象では逆で、現在の世界経済の状況はむしろ、”セミ・グローバリゼーション”の”セミ”の部分を強化していくだろうし、その詳細な議論は複雑化するように見える世界経済の動向理解の鍵を多く与えてくれるだろう。
 ゲマワットの考察は事実ベースという点で非常な強みがあり、かつ緻密な考察なので、漠とした異論を寄せ付けない印象があるが、私というローカルな状況に置かれた地点から見ると、グローバル化における文化というのは、差異の要因というより、それ自体に錯綜した複数のグローバル化の動向があるようにも思えた。これはサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」(参照)というような対立の多元性というより、やや妄想的になるが日本文明のグローバリズムというものの予感だ。
 グローバリズムと呼ばれる運動は暗黙に西欧近代化の動向が示唆されているのだが、この対抗的に新興国では日本文明型グローバリズムとでもいうような別の普遍化はないだろうか。卑近な例では、ポケモンのようなアニメ文化や寿司といった食の文化などもその一端だろうし、中国の統制経済は巨大な日本昭和時代の模倣ではないかといったものだ。あまり深刻に考えるというものではないが、日本文明、しかもその近代化に含まれるグローバルな側面と、西欧近代化的なグローバル性とのある棲み分けのようなものが”セミ・グローバリゼーション”の”セミ”を構成しているのではないだろうかとも思えた。

|

« とある酔漢のこと | トップページ | 1976年のギラン・バレー症候群 »

「書評」カテゴリの記事

コメント

エントリーは弁当氏の読後の感想であって、未だ未読本のちょっとしたレジュメを期待する、ここに目を通すであろう多くの人にとっては悔しいテキストだけどw読みますよ面白そうじゃないですか。できれば本屋でパラパラ目を通してからにしたいですけど。
馬にニンジンぶら下げたようなエントリー。悔しいけどニンジンを掲示していただいただけで感謝すべきなので筋違いの恨み節は無し。
その癖、そういう心情の吐露だけは忘れないけどねw

投稿: ト | 2009.04.25 12:11

表題にだけかかわっておけば、中華料理だって、カレーライスだって、ハンバーガーだって、寿司だって、世界的に普及すれば地域化してしまうもの。コカ・コーラも例外でありえないと思います。

中国人が華厳仏教や朱子学を精密に構築したときには、きっと、「これぞ世界標準!」と手を打ったと思います。でも、21世紀の日本のキリスト教の神学者からみれば、「朱子学は道教である。」となり、かつてはこれぞ普遍と思われたものも後にはひどくエスニックになってしまうものです。

その、道教の最も抽象的な部分の普遍性だって、中国の北京と朝鮮と日本とベトナムでは地域的差異が明確に現れていってしまうもので、そういう風に地域的に変質してしまうのが、ある意味で「進化」とでもいうべきなのだろうと思います。

私なんか、生物学を勉強したから、動物や植物や菌類が、同じ属の生物でも、住んでいる場所が違うと別の種に分化することを少しは知っています。

政治学者や経済学者にも、少しくらいは生物学の分布生態学という分野の学問を勉強してもらうとよいのかもしれません。ロシアと中国とブラジルとインドには、経済水準が「同一」になっても、同一の経済構造と政治構造を持ち込めない理由が直感的に理解できるようになると思います。

そうなると、マハン、マッキンダーのような軍事目的の粗雑な地政学とは異質な、装いを変えた文化地政学が生まれる契機があるということなのでしょうか。私もそこまではなんともわかりません。

投稿: enneagram | 2009.04.25 13:09

> 新興国では日本文明型グローバリズムとでもいうような別の普遍化

もちろんありますよ。8月に出る本に書きましたので、ぜひご笑覧ください。

投稿: R30 | 2009.04.25 16:20

本も読んでないし、単語の意味も判然としないんでコメントしづらいエントリだな
セミの成虫は短命だよね

投稿: | 2009.04.25 22:36

アメリカ発のグローバリズムというのは、ローマ帝国の文化の近現代的増幅形態の世界への押し付けみたいなものだろう、と思えば、日本文明のグローバリズムというのは、中国の唐の文化の現代版の世界への宣伝布教みたいなものかとも思えます。

中国では、五代十国時代の戦乱のために、もう宋代にはずいぶん失われていた中国の唐の時代の文化が、日本では遣唐使廃止の影響で、しぶとく力強く生き延びていて、かなりの程度まで現代にも健全に継承されているみたいです。

日本のグローバリズムは、自前のグローバリズムというより、中国文化が最も他の世界を威圧していた時代の文化のタイムカプセルの役割を日本が果たせているがために、強力な発進力を有しているのだろうと思われます。

それで、唐の時代の文化を強く保存できているある程度自前の文化圏というと、タイもそういう文化圏なんです。タイも、かろうじて共産化と欧米諸国の植民地化を免れた国です。

私なんて、タイ文化から部派仏教色を薄めてそれをグローバルに発信すれば、タイ文化はもしかしたらアフリカやラテンアメリカに訴えるものがあるかもしれないと思っているんです。

私なんかは、心ある日本人は、タイ文化のグローバルな発信をタイの人に協力して手伝うとよいのではないかと思うんです。

投稿: 洛書 | 2009.04.26 11:13

本屋で手をとったときは、あまり期待していなかったんですけどね。
つかみの「サッカー選手の国外への移籍は何をもたらしたか」の話で、(すごいかも)と思いはじめ、第一章のコーラの話の半分を読んだ後にレジへ持っていきました。
内容はぶっちゃければ「フラット化する世界」の出版後、長い月日がたつのに、目の前に「フラット化した世界」が未だに出現しないのはなぜなのかという話ですが、そんじょそこらの三流ライターが山ほど類書を書いている中で(P23)、この本が一番面白くて、話がわかりやすく、何よりも誰もが(「フラット化」を商売の種にしてきたコンサルタントの方々を除けば、)納得できる結論を導きだしています。ひとりよがりな「弾言」が大多数を占める、昨今のビジネス書籍の中にあって、この納得感を得られるということだけでも読む価値はある、と私は思います。

投稿: F.Nakajima | 2009.04.26 21:34

本筋とは全然関係ないと思うけど
”Semi”の使い方に違和感があります

私はマルドメ人間なので的外れかも知れませんが
Globalizationにつけるとすると
”半端なグローバル化”みたいな語感に感じたので・・・
”Sub”なら良いかとも思ったのですが
結局は同じようなものかな

コークの味を市場毎に換えていくのは”Cutomized”ですが
その場合は後に続くのがGlobalizationじゃなくて
Offeringですよね
また話題がMarketingに限定され過ぎますしね

結局本を買って読めということなんでしょうか?

それともSemi-globalizationの出典は別ですか?

投稿: 健冒症 | 2009.04.27 14:42

 先ず弁当翁さんの評、次いで

>ひとりよがりな「弾言」が大多数を占める、昨今のビジネス書籍の中にあって、この納得感を得られるということだけでも読む価値はある、と私は思います。
>投稿: F.Nakajima | 2009.04.26 21:34

 …さんの評を読み、おふた方の(ネット上での)名義・人格の一貫性、見識や知性に対する評価が(私の中で)安定して高いので、今の自分の心境は「あとひとり好評があるなら、他が悪口でも私(野ぐそ)も買う」に傾いています。あとひと方の出現を心待ちにしています。

 F.Nakajimaさんの名前を騙る人が出ないか、もうひと方がいい加減でないかどうか、そこは私の中で重要な注意事項ですけど、そこさえクリアするなら、久しぶりに弁当翁さんオススメ書籍を購入する運びになりますね。よかったよかった。

 読後の感想はあくまで別ですからそこは何とも言えませんけど、過去の実績…『ローマ人の物語』(塩野七生・著)について言えば十分に満足しているので、今回も期待は高いです。
 ひとりあたりの信頼性を30%と見做してふたりで60%まで溜まって90%になったら買うのスタンスです。私の感想は、残り10%で十分。

 あと、買ったかどうかよりも信頼可能な人格の持ち主による読後の感想を重視しているので、立ち読み書評でも私は一向に構わないんですけど、昨今は雑誌を中心に立ち読みできない体制が主流ですから、その分若干警戒しています。時代の流れですかね?

投稿: 野ぐそ | 2009.04.27 19:58

日本に唐文化が残っているというのは、司馬遼太郎の主張の曲解です。

中華王朝における、文化面の絶頂は唐と宋が二大山頂といえるでしょう。(経済や軍事面では又の話です。)其のうち、詩の美意識においては、唐詩を規範とし、また、奈良の仏像彫刻および寺院建築において、唐の美意識が反映されるものとなりました。中国本国に残っていないこれらの文物が残っているから日本に唐文化の影響下にあるという曲解がままみられるのです。
しかしながら、実際には宋時代の文化はいってしまえば北山→東山→安土桃山時代の全ての源流であり、現在の日本文化における直系の先祖は唐ではなく、宋文化というべきです。

あとタイにおける仏教の影響というのは少々我々の想像を絶するものがありまして、いってしまえばイスラム抜きのアラブが想像できないのと同じようなものです。

投稿: F.Nakajima | 2009.04.28 00:01

F.Nakajima様、私のつたないコメントを拾い上げ、ご意見を提起してくださってありがとうございます。

現在の日本文化の中心要素が禅と浄土とする限り、日本の文化は宋文化を継承している、とするのは間違いありません。

しかし、現実に、奈良に現在も南都仏教が保存され、天台宗、真言宗のような、中国の唐の時代に日本に移入された仏教の宗派が活力を持って日本に存在する以上、日本には唐文化が健全に保存されているとしてよいと思われます。武家の時代に移入された宋文化が前面に出ていても、公家はちゃんと唐文化の保存継承に成功した、としてよいと思われます。

なお、私の主たる論題は、タイにおける仏教の影響ということよりも、むしろ、タイ人が、インドと中国の高度の普遍文化に触れながら、タイ人の特有性を失わずに優れたタイ文化を構築できた、ということが、西欧や東アジアの普遍性の高い文化に触れながら、今後、アフリカやラテンアメリカの人々が高度の独自文化を創出していく上で、何か示唆するものを与えることはできないか、という話をしたいということです。タイ人が、タイ人流の「ポケモン」を生み出してくれて、それが、ラテンアメリカ流、アフリカ流の「ポケモン」を生み出して世界に発信する契機を作り出せればよいな、という程度の話です。

投稿: enneagram | 2009.04.28 09:47

「中国の統制経済は巨大な日本の昭和時代の模倣」

もし、そうなのだとしたら、まるっきり、模倣以上のことはできないと思います。

日本の昭和時代は、アメリカにパン食や牛乳の摂取を学校給食で強制されたとはいえ、国民の主食はどう考えても、全国民一律、ジャポニカ米の水稲米食。ある意味では、日本中、食文化が基本的に統一されていたから、足並みそろえて、大蔵省主導の半計画経済の経済政策に従うことができたようなものです。

中国は、北方の小麦やコウリャンの文化圏と南方の水稲文化圏にくっきり分かれます。しかも、その小麦も春小麦栽培地域と冬小麦栽培地域にわかれ、水稲も、インディカ品種もジャポニカ品種も地域を隔ててどちらも栽培されているはずです。そもそもの食文化が足並みそろえられない。

以上の、食文化の異質性、多様性だけ考えても、中国の統制経済は、初期はともかく、成功すれば成功するほど日本の昭和時代とは異質な独創性を発揮しないと持ちこたえられなくなる。

そんなわけで、中国の経済政策は、どこまでも、「模倣」どまり。大成功するにはどこかで独自性の発揮に切り替えないといけないけれど、そんなに優れた妙案など簡単に思いつかぬもの。それに、ある程度、実験的検証も必要とされるけれど、そのための時間的余裕もそれほどは確保できないと思います。

前出の司馬遼太郎氏は、日本の東北地方でも水稲栽培をさせたのが間違いだったみたいな話をします。東北は冷害がひどかったから。でも、水稲ほど人口扶養力のある作物は少なく、いや、皆無かもしれない、東北地方の人々が必死に水稲栽培に努力したのは、それ以外、それ以上に経済力を向上させる方法がほかになかったためだと思われます。また、暖流が国土の近くを流れ、モンスーン気候で降水量に恵まれた日本では、北緯40度近くでも、水稲栽培の努力を重ねるほうが考え方としては自然だったと思われます。

戦後の日本の経済の成功は、明治以前の東北、北陸地方の優れた篤農家、農政家の必死の努力の恩恵が小さくないはずです。もし、東北地方がオートミールの小麦の食文化だったら、日本の昭和時代は、異質な歩みをしていたことでしょう。きっとあれほどの成功はなかったと思われます。また、北海道と沖縄を除く国土のほぼ全土が南方中国型の文化形態にほぼ統一できた気候区分に位置することができたことは、日本にとって大きな僥倖であったというべきでしょう。

ただ、こういってしまうと、F.Nakajima様のおっしゃるとおり、日本文化の祖形は、概ね宋文化の系譜にあるという意見が正しいと認めることになってしまうのよね。

投稿: enneagram | 2009.05.05 09:35

すみません。水稲栽培をするよりも、トウモロコシを栽培するほうが、通常、農地単位面積あたりの収量は大きくできます。

ただ、日本人が主食を、トウモロコシの粉で作ったせんべいなりお好み焼きなりにすることはほとんど不可能であると思われます。

そんなわけで、日本では、水稲を中心にして、飢饉むけ、副食むけに甘藷も栽培するというのが、最も人口扶養力の大きな農業生産のあり方であると思われます。燕麦(ライ麦)については、北海道の道央でさえ、小麦農業が全く不可能で燕麦しか栽培できない農地を見つけるのは困難だと思うので、日本の農業では、燕麦農業を主食の目的にすることはまず考えないでよいと思われます。

この点を修正しても、私は、過去、日本の東北地方で、農家が努力して水稲栽培をしてきたことは、農業生産力の問題から考えても、熊沢蕃山いうところの水土論(生態学的環境論)の視点からも適切であったと考える者です。

投稿: enneagram | 2009.05.05 14:32

>健冒症さん
著者(パンカジ・ゲマワット氏)がこの本の中で、『わたしは「セミ・グローバリゼーション」と呼んでいる』と書いています。

投稿: うぐいすパン | 2009.06.06 20:56

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: [書評]コークの味は国ごとに違うべきか(パンカジ・ゲマワット):

» 中国の屋台料理から「餡餅(シャンピン)」ウー・ウェンの北京小麦粉料理より:雨の日は読書と粉遊び [godmotherの料理レシピ日記]
 昨日は、明け方から降り続いて久々のまとまった雨という感じでした。先週蒔いた長葱と人参の種の様子を見に行こうと思っていた矢先でしたが、この大量の雨でまさかに種が流れ出るなどということはないでしょうね。... [続きを読む]

受信: 2009.04.27 18:03

« とある酔漢のこと | トップページ | 1976年のギラン・バレー症候群 »