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2009.03.18

「国策捜査」とか言われるが権力中枢のないシステムである日本に国策なんてないと思う

 小沢疑惑関連の素朴な感想。どうも私もよくわからないばっちりを受けるのだけど、私は「国策捜査」なんてものはないと思っている。理由は簡単で、国策なんてものが日本に存在しないと考えるからだ。
 もし日本に国策なんてものがあるなら、まず国防の要である日米同盟をどうあるべきかきちんと論じて、国家間の契約でもある普天間飛行場の返還を進めるだろう。もともと沖縄の米軍基地は、本土だけ占領下から抜け駆け的に「独立」したツケを沖縄に回したものだから、ここまで沖縄県民に負担を強いたツケを終え、本筋に戻って、米海兵隊駐留なんてものが必要だというなら本土に持ってくるものがスジでしょ。でも、国はそう考えてなくてなんとなくなんとか沖縄に押しつけたいと思っているし、左派もきちんと本土に戻して下さいとはいえずに薔薇色な平和に酔っているのが現状で、そのうち国難が起きた時点でどうにかするくらいでしょ。国家の意志なんてこの国にはなくて、むしろそれが国際政治のなかで利益をもたらした過去の惰性にいるだけでしょ。私が、この国を見ていて、もしこの国に国策っていうのがあるとすればすれば、原子力くらいしか感受できない。

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日本 権力構造の謎〈上〉
 小沢疑惑で起きているのは、だから、国策ではなく、ただの検察の暴走だし、この暴走は今に始まったことではない。ああ、またやってらくらいなものだし、率直にいえば、またやってらを止めたほうがいいと思う。なんとかこの暴走を止めさせる仕組みというのを考えたほうがよい時期にあると思う。しかし、それができないだろう理由はあとで触れる。
 逆にいうと、国策がないから検察が勝手に暴走できるのだろうし、この暴走の仕組みは別段検察に限らない。日銀とかも暴走しているし、厚労省もそう見える。まあ、仔細に見ればいろいろ違うとか利権のスジとかからのご意見もあるだろうけど、いずれにせよ、民意みたいなものとは独立して、これらのシステムがご勝手に動く。というか、これこそまさに日本がシステムだということにすぎない。
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アジア三国志
 私は自身を反省して、いやもうオレも相当に焼きが回っているなとも思わないではないけど、昨今の日本を見ていても、ビル・エモットが「アジア三国志」(参照)で評価しているような静かな革命が日本で進行しているのも理解はするけど、大筋では、1989年にカレル・ヴァン ウォルフレンが「日本 権力構造の謎」(参照上巻参照下巻)で指摘した状況と変わっているふうには見えない。基本は、ようするに、日本にはシステムだけがあって、権力の中枢がない。というか、意志としての国家が存在しているようにはまったく思えない。というときの、国家(ステート)というのをどう考えるか。ウォルフレンの同書の示唆は原理的だ。

 みんながみんな、なんらかの形で権力行使過程(パワープロセス)に参加しているという政治体(ボディー・ポリティックス)(=統治体、つまり政治的に組織された国民の総体)を一応”国家(ステート)”と呼ぶことはできる。

 ”国家(ステート)”とはそういうものだという、ごく普通の解釈でもあるとは思う。が、それでは、日本を含めて現存の国家を捉えづらい。そこでこう続く。

しかし、まぎらわしいこの定義では、国家の概念があまりにも漠然としたものになってしまう。しかもこの場合でもなお、そこには政治中心の存在を前提とする、責任の所在がなければならない。

 ウォルフレンは日本を論じる難しさの前提に、対象としてのモデルとしての”国家(ステート)”に、政治中心と、またその同義である責任の所在をまず明確にする。
 しかし、日本にはそれがない。じゃあ、これはいったいなんなのかということで、彼は”システム”と呼ぶ。

では、国家の定義を適用できないが、しかし一国の政治的営みをすべて包括するものを、何と呼べばよいのであろう。筆者は”システム”ということばを当てれば混乱がいちばん少なくて済むと思う。

 ウォルフレンは”システム”という言葉の曖昧さを、それなりに踏まえたうえで日本の文脈でこう捉える。

さらに、それは民主的な政治の調整力の範囲を超える権力をほのめかすものである。これはたまたまそうなっているということなのだが、日本人は、個々人のいかなる力よりはるかに強い力をもつ社会・政治的な仕組みの存在をいつも念頭におかなければならない状況下に置かれている。したがって、その仕組みを変えるには、民主主義的な過程に訴えるのが理想的なのだということについては、はっきりと認識していないのである。

 私の敷衍になるが、だから、システムに正義を期待して、その権力をその前提に是認してしまう。
 このシステムが作為の産物で、市民の正当な権力プロセスによって解体・再構成できるとは考えない、というか、だから、システムがそれを自認して暴走してしまう。
 あまり蛇足的な解説はすべきではないと思っていたが、ここで村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチ(参照)をリマインドすべきだろう。

The wall has a name: It is The System. The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others - coldly, efficiently, systematically.

壁には「大いなる制度(ザ・システム)」という名前がついています。「ザ・システム」は私たちを守ろうと期待されている反面、時に独走して、私たちを殺害しはじめ、他国民を殺害するように仕向けます。それは冷血に、効率よく、制度的に進行するものです。



Take a moment to think about this. Each of us possesses a tangible, living soul. The System has no such thing. We must not allow The System to exploit us. We must not allow The System to take on a life of its own. The System did not make us: We made The System.

もう少し考えてみてください。誰だって自分の存在は疑えませんし、生きていると確信しています。「ザ・システム」はそれとはまったく違う存在です。私たちは「ザ・システム」とやらに搾取されてはなりませんし、独走させるわけにはいきません。「ザ・システム」が私たちを作ったのではなく、私たちが「ザ・システム」を作為したのです。


 もちろん、村上春樹のスピーチではシステムを日本に見た立てものではなく、より普遍的な事例としてイスラエルの状況下で問うたものだが、なぜそうした仮託された権力の機構がシステムと呼ばれるかという点では、ウォルフレンの認識とまったく変わらない。
 村上春樹は文学者なので、このシステムを国家(ステート)と対比して論じはしないし、ステートがこの問題にどのような光を当てるかという問題は提起しない。彼は、生きている個々の人間を見るとしている。
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日本 権力構造の謎〈下〉
 しかし、日本が国家(ステート)であれば、「なんらかの形で権力行使過程(パワープロセス)に参加しているという政治体(ボディー・ポリティックス)(=統治体、つまり政治的に組織された国民の総体)」が存在しなければならないし、あえていえば、そのように正当な国家の権力ができ、国策ができれば、システムの暴走を抑えることができる。あえていえば、正当な権力こそが必要であり、本当の国策が必要であり、国家が必要なのだ。
 では、なぜ日本に、国家(ステート)がないのだろうか。
 理由は簡単で、この国家の骨組み=憲法が、その国家の権力中枢をきちんと、あえて規定してないからだ。そうなっている理由は、ざっくばらんに言えば、日本など敗戦後には二度と国際政治に顔を向けることができない三流国になると想定されていたからだ。が、歴史はそうは動かなかったし、日本国憲法の根幹にはそれなりに、国家を規定する原則も矛盾するが埋め込まれていた。ある意味、ミッシングピースだったのだろうが、まったく存在しなかったわけでもないと思う。別段憲法が欠陥品だということではない。むしろ、問題は、その解釈や事件などその後の歴史の累積にある。
 それはどういうことなのか?
 ステートであれば、その意志があり、その意志を受肉(インカーネート)した政府があり、その政府の首(ヘッド)が存在するはずである。元首だ。
 では、日本の元首とは誰か。答えは簡単で、天皇である。が、そこには政治的な権限がない。政治的な権限のない元首というのは、実体的なステートの議論には向かない。
 ウィキペディアの解説が正しいというわけではないが、”Head of state”(参照)では日本について、こう普通に書かれている。

The Emperor of Japan is defined as a symbol, not head, of state by the post-war constitution (contrasting with the former divine status) but is treated as an imperial head of state under diplomatic protocol (even ranking above kings) and retains Shinto mystique.

 つまり、天皇が国家元首であるのはシンボルであって、" not head"、つまり元首ではないのだ。ごくあたりまえなことだ。
 しかし、日本には元首はいないのかという修辞的な疑問もある。日本語版ウィキペディアの元首の項目の混乱が暗示するように、概ね、いないということになっている。
 まさか。日本が国家(ステート)なら元首がいないわけはない、あるいはいないというなら、ステートではない。だから、日本国の元首は誰かが疑問にならなくてはならない。
 普通に考えれば、日本国の実際上の元首は総理大臣であろう。そして総理大臣を元首と考えるなら三権分立の一角として、司法の影響は受けるがその下には置かれるはずもなく、司法に超越していなければならない。
 が、戦後史は、この実質の元首を検察暴走によって屠ることに成功した。しかも、大衆の正義の賛辞の声の中で屠ってしまった。そうすることで、国民もまたこの首のない鵺のシステムのなかに埋没してしまった。

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コメント

多神教徒には法治というのは本来筋違いで、でも最先進国になった今更人治独裁もあり得ない。集合知という名の空気が選び取った流動性が現行、という理解でもいいんでは、とか思います。

投稿: Sundaland | 2009.03.18 12:12

 首を付けると刎ねられるから、首無しか挿げ替え可能なシステム・体質で頑張ろうってことでしょう。首が無いから、理性的な対応なんか無理。脊髄反射程度が精一杯で、決断をしないし責任も取らない。

 親しげに近寄ってくる顔や文句垂れる顔や脅す顔はその都度使い分けで、最終的にそれら「顔」を使い分けてるのは「誰なんだ?」というのは尻尾出てるから分かるんだけど、そこ突っ込まれたら「じゃあ法の場でお会いしましょう」になるから、面倒くさくて関わる気もしない。放っておく。そしたら、自由獲得ってことで以後好きなようにする。既成事実をじゃんじゃん作って、既得権化する。ヤクザが縄張り広げるのと同じ手口ですよ。

 平安貴族が私利私権の拡大に血道を上げて、手先のヤクザが威を振るう…そのうち実力者のヤクザが「武士」になるけど、武士の下働きだった町人奴がヤクザ化して取って代わるって構図。今は町人奴が労働貴族化しているから、手先の「誰か」が現場で実力付けて、ハイ交替。そういう「流れ」自体がシステムで、小さく言うなら50~150年、大きく見るなら1000年1500年単位で延々続いて、何にも変わっていないだけのこと。

 システムそのものを変える気が無いか変わらないかで諦めてるから、個々人が出来る限りの才覚で美や技能を競うんだけど、飛び抜けそうなのが出てきたら乗るだけ乗ってしゃぶり尽くして、要らなくなったら「空気」で潰す。

 古代ローマ史的に言うなら、(当時の)ゲルマン民族的な割拠性が(未だに)強いんでしょ。日本は。部族長が現場を仕切って若い衆は戦闘要員で、女子供と老人は後方支援要員。部族長のことを「ヤクザ」「社長」と呼び習わすだけ。

投稿: 野ぐそ | 2009.03.18 13:35

問一.
著者の言う「大衆」とは誰を意味しているか答えよ。

投稿: 愚民を嗤い、考える猿 | 2009.03.18 13:47

上の方が言われるように、山本七平的な意味での「空気」は重要なファクターではありますが、
しかしその「空気」もまた「システム」を稼働させるファクターの一つにすぎないと
考えた方がいいかもと思います。
あと、「空気」ということに関連して、原理的には権力のチェック機関であるべきマスコミの力
(権力の広報機関的役割を担ってしまうという現実、さらには時に物事をフレームアップしてしまう力)が
やはり見逃せないことなのかなと。

投稿: A | 2009.03.18 13:58

国策という明確なものはなかったけれど、ある路線とか傾向は明確にありました。

吉田内閣の、結果としての、軽武装経済重点路線。その後、満鉄総裁だった岸内閣で、ばっちり満州国の経済発展モデルが戦後日本の経済運営に組み込まれたはずです。

池田内閣、田中内閣は戦後日本経済復興の、より正しくは戦前のスターリンの計画経済の修正版の満州国モデルの大成功物語。これが、中曽根内閣まで継続しました。日本の戦後路線、政治の傾向とはこんなものだと思います。

検察暴走とおっしゃるけれど、検察官出身の大政治家、総理大臣って一人でもいましたか?大臣まで務めた後藤田正晴氏、秦野章氏、亀井静香氏、今のところまだ張出大政治家の感はあるけれど自民党の重要論客平沢勝栄氏、政治家ではないけれど、石原都政の最重要アドバイザーの一人である佐々淳行氏、警察官僚出身の大政治家はすぐに何人も名前が出てくるけれど、検察官出身の大政治家の名前はすぐに出てこない、というよりいないはず。日本の裁判所は、どう考えても、いままでのところ、検察の言いなりに判決を出してはいません。どう考えても、日本の検察は政財界ほどの巨大権力ではありません。

でも、たしかに、東京地検の大事件のたびのマスコミへの情報リークは、了見違いだと思っています。東京地検、大阪地検、名古屋地検の検事正に対しては、定例記者会見を開くよう、法務大臣なり、国会の法務委員会なりが指導すべきだとは思います。検事総長を国会に呼び出すなんていうのは論外だけれど、特別捜査部の置かれている地方検察庁の検事正は、顔が見えるほうが国民としては安心も信頼もできるのは確かです。

投稿: enneagram | 2009.03.18 15:07

まさかこの人は、自民党や民主党のHPすら見た事がないのではないだろうか。
あの膨大な資料を読めば、彼らがどういう国を目指しているのか、自ずと見えてくると思うのだけど。実現可能かどうかは別にして、日米同盟の今後についても、それなりに論じている。

そして、検察が暴走していると言うが、検察は自分の業務を粛々と実行しているだけに見える。小沢や二階が違法献金を受けていたのは紛れもない事実のようだし、その証拠も残していたのだろう。ならば、検察は動かざるを得ない。

投稿: ATM | 2009.03.19 03:38

元首だって司法に服するでしょ。権力を分けて相互に牽制させあうのが権力分立。
あと立憲君主制を無視してないですか。

投稿: | 2009.03.19 09:53

 連投ならぬ連日投にて失礼します。

>私は自身を反省して、いやもうオレも相当に焼きが回っているなとも思わないではないけど

 友人の実家が刀鍛冶なので打ってる現場を1,2回見たことがある程度ですけど、「焼き」は沢山回した方がいいんじゃないですかね? 焼きが回ることを嘆く?よりも、回り足りないことを嘆いた方がいいのかも。慣用句に因縁付けてもしょうがないですけど。

 真っ黄色になるまで焚き上げてガンガン叩いて、一気に冷やしてまた焚いて…を何度も何度もやらないと、真に強靭な刃にはならないと思います。美術刀なら適度な美しさを表現できた時点で「これでよし」の見切りが通ると思いますけど、政治・軍事・経済は実用に徹してこその美しさですから、自身の勝負勘を信じて、突き詰めるだけ突き詰めた方が良いとも感じますね。

 まぁ、どっちでもどうでもいいですけど。400字。

投稿: 野ぐそ | 2009.03.19 11:14

何を根拠に検察が暴走したと言ってます?
西松建設を捜査した結果、小沢(の秘書)の犯罪の証拠が見つかったから、逮捕になった、とシンプルに考えてもいいと思いますが。
彼らは通常の業務をしただけ。
「そこに犯罪があるから」検察が動く理由はそれで十分です。

投稿: jef | 2009.03.19 18:22

関係ない話で失礼します。
カレル・ヴァン ウォルフレン氏へ。
何でもかんでも外国人が思うようになる国なんて絶対嫌です。日本は日本です。オランダはオランダです。
日本軍がインドネシアからオランダを撃退したのが悔しいですか。

投稿: 20代の日本人 | 2009.03.30 22:46

「検察暴走」といえば、ペルーとか韓国とか、大統領だった人を当たり前のように犯罪者にする国もあります。

そういう国をまねてよいということではないですけれど、検察は権力者に対しても厳しくあるべきではないでしょうか?

司法が公正であるということは大切だと思います。わが国は恥ずかしながら、大臣の国会の答弁だけでは政府は挙証責任を果たしたことにはならないなどという旨の話を国会議員がテレビで平然と口にする国ですので、裁判所を信じられなかったら、国民は公権力を信じようがなくなってしまいます。

投稿: enneagram | 2009.04.08 08:32

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