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2009.02.03

節分の謎

 節分である。私は節分行事にはほとんど関心がない。豆をまくのにはなんか由来があるのでしょ、くらいな認識。恵方巻に至っては、そんなもんほんとにあるんかいな知らんなくらい。しかしなぜ関心がないかというと、うまく直感に結びついてこないからだ。背景がわからないというのもある。背景というのは中華圏とのつながりのことだ。そこがわからない。そこがわからないとバレンタイン・デーのチョコレートのような偽物感がある。
 中国とのつながりは道教とのつながりといってもいい。私は日本の文化風土はざっくり言えば道教だと思っている。なにより葬式そのものが道教(儒教)だ。しかもこれは近世になって入りこんだ。靖国神社も道教でしょと思う。だから韓国や中国は気にするのだろうけど。
 日本の古代も道教の世界だし中世でもそう。そして近世でも、と、時代時代に道教が入り込んで日本の民俗が形成されている。つまり日本というのはやや特殊ではあるけど中国からすれば辺境の少数民族の世界なのだろう。で、どこが特殊かというと少数じゃないということだ。中国は13億人と言われているが、実態は地域で民俗や言語はかなりばらけているし、基本的に軍閥と商社元締め的皇帝制度でしかない。歴史的にもいわゆる中国4000年とかはなく、ようするに遊牧民による被支配の累積と言っていいだろう。清朝を打ち立てた満人ヌルハチは扶桑ヒデヨシの後継者とも言える。東海にはろくでもないでかい異民族がいるということではないか。
 で、節分。なぜ豆をまくのか。ぐぐると、暮らしの歳時記 All About「節分3:押さえておきたい「豆まき」のツボ」(参照)ではこう書いてある。


どうして豆まきをするの?
本来、節分とは季節の変わり目である「立春、立夏、立秋、立冬の前日」のことをいいますが、春を迎えるということは新年を迎えるにも等しいぐらい大切な節目だったため、室町時代あたりから節分といえば立春の前日だけをさすようになりました。

また、季節の変わり目には邪気が入りやすいと考えられており、新しい年を迎える前に邪気を払って福を呼び込むために、宮中行事として追儺(ついな)という行事が行われるようになり(俗に鬼やらいや厄払いとも呼ばれます)、その行事のひとつ 豆打ちの名残りが 豆まきというわけです。


 ツッコミどころ満載というか野暮な話はするなよなのか。後者だろう。いずれにせよ追儺だろうというのはよく言われる。が、追儺というのは、旧暦の大晦日であって陰暦の行事だが、それが立春・二十四節気という太陽暦に移動するのは農暦的なシフト、つまり農村行事だからと言えないこともないが、が、というのは農村でも正月といえば日本でも旧暦・陰暦で行ってきた。うまく説明がつかない。とはいえ鬼が出てくるのは追儺が由来だろうとは思う。問題はマントだ。違う、豆だ。
 節分の行事は立春・二十四節気という太陽暦に基づくと考えると、どうもそれに相当する中華圏の行事はない。というか私は知らない。なさそう。問題はマントだ。違う、豆だ。

どうして大豆なの?
大豆には霊的な力が宿ると信じられており、昔から神様への供え物として使われていますが、昔々、京都鞍馬山に鬼が出たとき、毘沙門天のお告げによって大豆を鬼の目に投げつけて退治したという話があり、魔の目(魔目=まめ)に豆を投げつけて魔を滅する(魔滅=まめ)にも通じるそうです。

ただし、豆まきに用いられる豆は炒り豆でなくてはいけません。これは、生の豆を使って拾い忘れたものから芽が出てしまうと縁起が悪いとされているから。「炒る」が「射る」にも通じます。大概、節分用に市販されている大豆は炒ってありますが、一応ご注意ください。


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カミナリさまは
なぜヘソをねらうのか
吉野裕子
 そんな話も聞いたことがあるがこれも典拠というか、伝承の経緯がわからない。古事記ではないがどうせぶつけるなら桃だろうし、たしか追儺では桃の弓を使う。桃と言えばようするにアレだからいっそアレとかとかも思うが、アレの話は割愛。
 こんなときは吉野裕子先生に頼るしかないのだが、「カミナリさまはなぜヘソをねらうのか」(参照)ではこう。

豆は丸くて堅いというところから、先人たちはこれを「金気」の象徴だと考えたのです。
 ですから、ニワトリの羽根を突くように、この豆を痛めつけることで「金気払い」をしようとしたのが、豆まきのいわれです。言葉をかえていえば、「豆まき」は、「豆いじめ」でもあるわけです。

 ほぉ、「豆いじめ」か。お下劣な連想なしとしてにわかには信じがたい。

 「鬼」の話はまた後にするとして、とにかく、節分の豆まきは、邪気祓いだけが目的のように伝えられていますが、実は「金気」の代表としての豆を退治するための行事でもあるわけです。
 つまり、陰気の鬼を退散させると同時に、「木気」の春に敵対する「金気」の豆も、鬼もろともに屋外に投げ出すという、二重構造の迎春呪術なのです。

 ほかにも「陰陽五行と日本の民俗」(参照)では、柊と鰯については、「柊」は冬を追い出す、鰯は弱い冬を追い出すとしている(魚の水気も論じているが)。
 吉野裕子先生のご説はこれだけ聞くと、All Aboutにあるような流布説より信頼性がないかのようだが、が、というのは先生はこれで民俗を統一的に明かしているのでその総体を見ていくと、そ、そ、そうかもしれへん、みたいな気になってくる。というか民俗学というのはそもそも近代の擬制による派生なのだろう。きっちり道教で考えてよさそうに思うが。
 いずれにしても、これは陰陽五行という点では道教的だが日本で発生した民俗のようだし、発生時期は近世のようでもある。
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太陽と稲の神殿
 さて、問題はマントだ。違う、豆だ、とおちゃらして来たが、問題は実は豆ではない。問題は太陽暦にある。節分は太陽暦だからだ。単純に考えれば農歴だからと言えるのだが、どうも血なまぐさい問題がある。十分に調べてないので直感的な話になるが、祈年祭との関連だ。
 祈年祭は節分というより正月(春節)としてよいのだろうが、どうもそうも確定してないのではないか。太陽暦からの連想だが、太陽神について考察した小島瓔礼「太陽と稲の神殿―伊勢神宮の稲作儀礼」(参照)を読むと、祈年祭にこう触れている。

 田作り祭りのような種まきに先立つ初種儀礼に、獲ったばかりの獣を供えるというと、いかにも特殊な神事に聞こえるが、朝廷の初種儀礼であった二月の祈年の祭りでも、すでに『延喜式』巻八「祝詞」でみたように、もともとは、やはり動物を供えていた。祈年の祭りの祝詞では、御年の皇神に白い馬、白い猪、白い鶏を供えるという。

 ここなのだが、供えるということは要するに食うわけで、それには殺すことで、血がドバーなスプラッタなお祭りである。『古語拾遺』に触れてこう続く。

 ここまでが前段で、『令集解』に引く『古記』が伝える、葛木の鴨の御年の神の祭りの起源談にあたるが、猪と馬と鶏を供えるほかに、他の記録にはない牛の肉が見えているのが特異である。大地主の神は、御歳の神をまつるために田に牛の肉を供えたが、自分の田で働いている農夫にも、牛の肉を食べさせた。


 神饌だけにしろ一般に食べる習慣があったにしろ、牛の肉を祭りの日に食物にしていたことは重要である。

 というわけで、日本人も二月の節日には牛の肉を食っていたのである。近代以前にもうもう牛の肉。もしかすると鬼というのは牛の変形だろうか。まあそれはないか。
 節分の話はそれだけなのだが、この話を書こうかと思っていたのは昨日のエントリ「極東ブログ: あまがしの謎」(参照)を書き、さらに追記したあと、どうもさらに心にひっかかることがあり書架の本を捲っていてあっと気が付くことがあった。「あまがし」が「飴粕」であるのところだが、これは昨日のエントリの考察では粕なわけないだろうとしていたが、どうも粕でよさそうなのだ。重要なのは、あまがしを捧げるのは竈の神という点だ。

「琉球国由来記」では「飴粕と菖蒲酒を祖先竈神に供え食する」として、「あまがし」に「飴粕」を充てている。

 竈神といえば当然竈の神だし、祖先竈神とあると祖神ともとれるが、これは普通に竈神であろう。であればこれだな。「中国人は富家になるために食べ続ける(槇浩史)」(参照)より。

 中国では元旦を「大過年」といい、「カマド祭り」の日を「小過年」と称しているが、これは小さなお正月という意味である。
 カマドの神様の名前は「灶君」といい、その家の一番えらい神様として、一家の「吉凶禍福」をにぎっているとされている。常にその家の人たちの善行と悪行の行動を監視し、毎年旧暦十二月二十三日の夜中に、その家の一年にわたるできごとをメモしたブラックリストをもって天に昇り、もろもろの神様の大ボスである「玉皇上帝」に報告するのである。

 灶君はつまり竈君である。
 この祭りで酒粕と飴を供える。

 この祭りの祭壇に供え酒粕と飴は「灶君」を酒で酔っぱらわせ、飴で口を粘らして上帝に悪い報告ができないようにするためのものである。

 ということで、竈神に捧げるもっとも象徴的な品目が酒粕と飴なら、まさに飴粕というわけだ。つまり飴粕が「あまがし」の名称の起源なのだろう。
 ところで小過年の後はどうか。

 こうして祈りが済むと、古い神像や供えものなどを庭にもち出して焼き払ってしまう。
 カマドの神様はその煙とともに昇天されるわけで、この瞬間、待っていましたとばかりに用意の爆竹に火をつけて、ドラを叩き、ドンチャカ、パチパチの大騒音の伴奏で「灶君」の壮行を祝し、悪鬼を払うのである。

 ということで、ここにも悪鬼払いの発想が出てくる。
 やまとでは竈神は荒神様になっていくようだ。ウィキペディアを借りる(参照)。

屋内の神は、中世の神仏習合に際して修験者や陰陽師などの関与により、火の神や竈の神の荒神信仰に、仏教、修験道の三宝荒神信仰が結びついたものである。

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中国人は富家になるために
食べ続ける
 ただ中国の民俗と日本の民俗とはここでも乖離していくようだ。
 なんとなくだが、節分の豆は灶君壮行の爆音の代用なのではないか。

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コメント

意外な展開ですね。飴粕が「あまがし」だったとは。ところで、あまがしって美味しいのですか。あまりその辺は問題にされていない感じですけど。先日のエントリーに「大麦と青豆による甘い汁」ともありますが、混乱してよく分からなくなってしまって。

旧暦の春節で、中国では爆竹を投げて邪気払いをするというのは周知の事のようですが、日本の節分の豆撒きとは関係ねェーんでしょうかね。

面白かったー。

投稿: ゴッドマー | 2009.02.03 17:04

他の豆とは違って、大豆は炒るとパンパンという音がするそうです。もしかすると、関係あるかも。

投稿: tok | 2009.02.03 21:04

 弁当おじちゃん、もしかして、見てる?
 …とだけ、言っておこうかな。人生ですから。

投稿: 野ぐそ | 2009.02.03 22:07

 ウチじゃあ古風な豆まきやらなくなって久しいけど、
>大豆は炒るとパンパンという音がする
 …のは、爆竹文化と繋がりある太郎と見做してますよ。

 あと。
>「豆いじめ」か。お下劣な連想なしとして
 って感じでネタ振りするから言うけど、あっち方面にて「パンパン」って音が(ある意味)ポピュラー化してるのは、そういう文化とも繋がりある太郎でしょ。

 爆竹が無いから豆で代用、豆が無ければ祇園…じゃなくて擬音で代用…みたいに、手近なもので古風に近づくような努力をしてるもんです。有る所に有るものを使って、無いものを擬製表現。文化って、そんなもんでしょ。

 そういう意味で、日本は良くも悪くも猿真似文化だと思うし、何事も自分で済ませる根性があるから、今があるんだと思いますよ。

 そうした風潮は、道教とも儒教とも、また違うんでね。弁当おじちゃんは学があるから何でも学に填め込んだ上で考えを進めたがるところがあるけど、それがまた「ある一定期の本来」から遠ざかる因になるですよ。

 文化って既にある何物かを解析するところから始まる面もあるけど、そういった知識や歴史や伝統から遠ざかって「尚残る物」から発生してこそ文化だねって言える面もあるんでさ。

 温故知新、言うは易く行うは難しだと思いましたよ。

投稿: 野ぐそ | 2009.02.04 00:45

まあ、日本の宗教も中国の宗教も道教ですよ。密教の「リン・ピョウ・トウ・シャ・カイ・チン・レツ・ザイ・ゼン」という九字の印は、あれは道教由来です。中国仏教は、天台も華厳も禅も浄土も縦軸は老荘思想ですから、日本と中国の宗教は全部基本的に道教。妙心寺にはしかられるだろうけれど、わたしは臨済宗妙心寺派も道教の一派だと思っています。

でも、そんなこといったら、カトリック(とプロテスタント)とギリシャ正教も骨格はほとんどケルト起源とギリシャ起源で、アラビアの宗教ではないと思います。

ヨーロッパ人もケルトの信仰に生きているのだから、日本人も道教の信者でよいのだろうと思います。

それでも、日本で、火葬が速やかに普及したのは、玄奘三蔵法師直伝の唯識論を日本に持ち帰った遣唐使僧道昭が火葬にすることを遺言したからだそうで、これは、インド仏教直接由来。ごりごりの道教の中国では、火葬せず基本的に土葬だそうです。

日本と中国の民俗の乖離の理由は意外に簡単に説明がつくと思います。最大の原因は対馬海流とシベリア寒気団であり、第二の理由は夏の太平洋高気圧です。
対馬海流とシベリア寒気団のために、日本は、ユーラシア大陸より夏と冬の寒暖の差が非常に小さい(冬が暖かい)のです。そして、冬には暖流の影響で山には豪雪が降ります。
日本海流(黒潮)のために、夏には日本には高緯度まで高湿度の太平洋高気圧が張り出します。それが夏の裏日本のフェーン現象の原因になります。
こういう風土のおおきな違いは、中国の文化をそのまま移入できない条件をいくつも作るはずです。

中国だって、かつての魏呉蜀の三国は今でも異質な文化圏です。これは、単に、曹操、劉備、孫権の統治の違いが現在まで残存しているといったことではなく、内陸の盆地である四川省の風土は、華北江南とはまったく違うことに由来するのだと思われます。

基本が道教なのに仏教がいろいろな場面で換骨奪胎して借用されたのは、それが高級でひどくかっこいいと思われたからだと思います。いまだって、カッコを気にする人たちは国産車ではなくてベンツやBMWに乗りたがるでしょう。日本の山岳信仰、民俗信仰、中国発の道教に仏教がたくさん紛れ込んでいるのは、そんな程度の理由だと思います。東北のマタギが、便利なら、ノルディックスキーも猟銃も、外国製でも急いで導入して猟のスタイルと生産性を変えるようなものです。

投稿: enneagram | 2009.02.04 08:21

道教が日本に入ってきつづけた、ということの証拠は何ですか?
私の考えでは、道教もたしかに輸入されていましたが、仏教や儒教を抜き出るほどのものか?と。

投稿: みつあき | 2009.02.04 22:32

 ねこ三態

 昨年あたりから自宅周辺でねこさんが増殖しておりまして。私の対応としては「来るもの拒まず去る者追わず」で餌と寝床だけ提供して後一切をねこの自由意思にお任せしてるんですけど、そうして生態を観察していると、ねこにはねこなりの性格や行動があって、ねこそれぞれだと思って面白く感じている次第です。

 基本的に我が家を占拠しているのは、キャットフードのイメージキャラに採用されてもおかしくない程度に可愛い顔したねこさんです。推定2歳、メス、キジトラ、元脱腸、です。基本的に我が家の俺の納屋の俺の膝の上をテリトリーにしているのですが、気が向いたら半径200M内でぷらぷらしています。茣蓙や古カーペットの上でごろごろしたり木に登ったり、畑でうんこしたりしています。もすもすと手で掘って、じっと座って、用が済んだらいそいそと片付けして帰って来ます。妙なところで礼儀正しいです。

 納屋に居る時は所定のクッションの上に転がっておりますが、私が外に出ている時は、常に傍に侍ります。一緒に散歩に行ってる感覚ですか。先日など裏山の墓所にまで付いてきましたので、母ちゃんと、私と、ねこで、父ちゃんの墓参りをしました。私が車で外出する時は玄関先でじっと見送り、徒歩で出掛ける時は付いてくる。我が家の敷地から完全に消え失せることもあるのでそういう時は何をやっているんだか皆目見当もつきませんが、餌を出していれば必ず平らげ、納屋に光が点けば必ず寄ってくるので、嗚呼今日も元気で生きているんだな、と思います。

 他には、白いボロボロのねこさんがよく来ていました。推定10歳、メス、ボロボロ、半ハゲ、喧嘩っ早い、でした。先日までよく来ていたものの最近では全く姿を見せなくなりました。死んだか、捕えられて保健所に連れていかれたか。いずれにしても、もう二度と私の前に姿を現すことはないでしょう。
 基本的にどこに居るのかよく分からないねこで、日中に顔を見せることは殆どありませんでした。その代わり、夜半になると餌を求めてやってくる。キジトラねこさんを押し退けて必死に食べておりました。反面、憶病で警戒心が強いので、半年近く地道に接触を試み2,3度触る程度には懐いたのですが、それ以上は決して懐かず、いずこへともなく消えていきました。諸行無常。

 今来ているのは、黒地に口の周りと腹が白いねこさんです。推定4,5歳、性別不詳、鼻が肌色、です。基本的な行動パターンは白いねこさんと同じですが、日中でも顔を出すことが、よくあります。下水路から納屋に出てきて、物陰で、なーなー鳴いています。
 最初のうちは私と目を合わせると逃げ出していたのですが、最近では、近寄らないまでも逃げ出すことは無くなりました。いつでも逃げ出せるように納屋の物陰に潜むことが多いのですが、車の下でじっと息を潜めていることもあります。

 ねこさんが納屋の物陰でなーなー鳴いていると、納屋の中で音が響いて実際の鳴き声以上に大きく聞こえてくることが、あります。どういう位置関係や構造になっているからか知りませんが、母屋を挟んで反対側にある家の犬の鳴き声が納屋から響いてくることや、遠くから迫り来るバイクの走音が聞こえることもあるので(『トムとジェリー』っぽい)、当初はその伝で、よそで鳴いているものと思っていました。そしたら納屋の直ぐ外で鳴いていたりする。紛らわしいねこです。

 で、鳴き声がする度に外に出て様子を見て餌を補充して納屋に戻っていたので、どうやらその様を学習して、最近では自分から鳴き声を上げて餌を要求しています。一々「来たよ」とか言わなくてもいいのに、言ってくる。妙なところで律儀なねこです。白いねこさんもそうだったと言えばそうですが、黒いねこさんは若さの分だけ音量が大きいので、催促されてる感が非常に強いです。

 んで、黒いねこさんは白いねこさん以上に好奇心が強いようで、本日つい先ほどなど、納屋の戸口を(キジトラ用に)少し開けていたら、その隙間に顔を入れてこちらをじーっと見ているのです。私が気配に気づいて振り向いたら恐れて逃げていきましたが、オスっぽい精悍な顔立ちと激しいギョロ目で戸の隙間からこちらをじーっと見ている様は、端的に怖いです。ダークストーカーかもしれません。


 ねこ三態。ねこにもねこなりの性格があるようでして、ましてや人間のやることですから。地域性や環境や個人の資質や、そういうもので幾らでも態は変わってくるものでしょう。学問や定義づけによってそれらを判断する行為は、大まか、大雑把に把握することには適していても、個々の実態を掬い取るには向いていないわけで。ざるで砂や水を掬うようなものだと思います。肌理の粗い大きなものを掬い取る際に有効な手法は、そうと判断して差し支えない局面にて用いるべきかと。

 また、学や技によって成り立つ社会は「こぼれ落ちるものがあって当たり前」なのだから、落ちる側の人間が救え救えと連呼したところで拾えるわけが無いのですから、過度な期待に走らず、自分の状況をよくよく弁えて、自分に出来ることを出来るようにコツコツやるのが賢明かと思います。
 大きな相手に文句垂れたところで、そんなんでわざわざ掬いに来るわけが無いし、掬えるわけもない。たまたま運のいいヤツか適性の高いヤツが引っ掛かるとか、そのくらいのことでしょう。落ちると分かっても取り敢えず掬っておけば砂粒や水滴くらいは付くだろう、と。
 そういう類の行為を何度も何度もしたりさせたりすることの非効率さを推し量って「やらんでもいい」と判断されたら、低位が幾ら騒いでも意味の無いことです。

 人に頼る前に自ら動け、最低限以上を期待するな、最低限の「水準」を上げたいなら自助努力せよ、「水準」を上げるのは自分の勝手、要求するのは無駄なこと。

 それだけのことかと思います。ねこ三態。

投稿: 野ぐそ | 2009.02.05 23:45

いや、中国の仏教自体が、インド仏教の道教的誤読であり、儒教は宋代に道教に事実上のっとられてしまった、という、こういう議論なのではないのでしょうか。

道教そのものは、中国の王朝が唐だった時代の道教が遣唐使によってもたらされ、それが後に神道になる日本の民俗信仰と速やかに混淆し、江戸時代には主として国学者たちにアカデミックに道教が学習された、ということなのだろうけれど。

乱暴だけれど、漢字文化圏は基本的に道教文化圏で、中国の唐の影響を受けた地域は、道教の影響をその後も払拭できないままイスラム化したり、チベット仏教を受容したり、部派仏教を受容したのだろうし、その道教の本家の中国も、明代、清代には北京版のチベット語訳仏典の開版と編纂をするくらいチベットの文化的影響を受けていて、細かな話をすると、話をまとめられなくなってしまうのだろうけれど、中国も朝鮮も王朝交代のたびにたくさんの旧王朝側の難民たちが日本にやってきているそうなので、そういうのを、「道教が日本に入ってきつづけた」といってしまうと、きっとこじつけなのでしょう。

体裁の悪い回答案ですみません。

投稿: enneagram | 2009.02.06 14:13

あのね、文字が書けない=読めないとね、自動的にそういうものになるんですわ、ここでは。
じーさん(ばーさん)より前はぜーんぶ神代のおはなし。
何代も、おんなじことを繰り返しているのは、FORループだと気がつくのは、もちろん読めるヒト。

投稿: おひさ | 2009.02.06 23:18

ヌルハチを秀吉の後継だというのはヌルハチに失礼ですな。実力が違いますよ

投稿: カアカア | 2009.03.17 12:29

中国の民俗を考える上で、非常に欠けているのがベトナムの民俗との比較かなあと思います。

北緯30度から40度の中緯度地方で発達した中国の民俗を北回帰線より南の熱帯のベトナムに持ち込んでも、そのまま受け入れることはほとんど不可能であろうと思います。ベトナムでは、たとえば朝鮮半島で非常に発達した地理風水などはどう変容しているのか?ベトナムの禅宗の清規(しんぎ)は、中国の禅宗の清規とどう違うか?こんなことを考えると、日本の民俗の研究にも役立つことがあるのでは?などと思います。

私の好きな九星気学ですが、これも、きっと、宗家園田真次郎先生から継承された流儀では、北半球の北回帰線の北から北極圏の南で通用させるのが精一杯で、極地方や熱帯地方や南半球では、ほとんど使用できないだろうと思っています。原型が中国の中緯度地域での適用を目的としている方位学のわけだから。まあ、そんなわけで、そういうときにはより普遍性の高いエニアグラムの出番なんだろうと思っているのですけど。

中国、朝鮮、日本ばかり見ているとわからないことが、東南アジアの知識を得ることでいろいろわかってくることも少なくないと思われます。どうしても日本人が東アジアを考えるときには東南アジアがおろそかになるのだけれど、そういう姿勢を改めない限り、いつまでたっても自分自身についての無知は改まらないだろうなあと思います。もっとも、東南アジアの詳細な科学的研究というのは最近始まったばかりみたいなものなのかもしれませんが。

投稿: enneagram | 2009.04.16 09:37

いま、神道のことを少し調べたら、神道らしい神道が現れたのが、鎌倉時代末期で、宋学の移入とほぼ同時期なんです。

それで、神道が画期的な発展をしたのが江戸時代の元禄以降だから、神道の発展と朱子学の国民全体への普及は並行現象です。

室町時代の神道関係者も、基本的な素養は宋学のはずです。

宋学自体が、唐の時代にはそれほど普及できなかった北宋時代の木版印刷技術の普及という情報革命が生み出した中国文化のルネサンスみたいなもので、宋学が日本に入り込み、宋学が目覚しく日本に普及すると、どんどん神道も内容が充実していく、というのは、中国の民俗と日本の民族の乖離を考える上で、好適な例を提供してくれているのではないでしょうか。

宋学が入ると神道が発展できる、というのは、日本は、中国ほどシャーマニズムやアニミズムが根絶やしにされておらず、また、朝鮮ほどシャーマニズムが卑賤なものに没落していなかったということなのかとも思います。

また、宗教学的な背景より、文学的な背景から説明をしようとすれば、中国の詩文や詩文の研究成果が、日本の和歌の研究を動機付け、誘発して、神道を生み出したともいえるかもしれません。こっちのほうが説得力があるかもしれません。中国の朱子学が朝鮮で朝鮮の民俗信仰を高等宗教化する契機にならなかったのは、朝鮮に、独特の歌謡の文化的蓄積があまり無かったからかも知れません。ベトナムも同じ。ベトナム語の詩文学が貧弱だったから、朱子学がベトナムに入っても、ベトナムの民俗宗教を高等化させずに、ベトナムでも朝鮮同様、詩文学はほぼ漢詩のみになってしまったのでしょう。

そうすると、中国の民俗と日本の民族の乖離の最大の原因は、古今集と源氏物語なのでしょうか。ここまで踏み込めるのかどうかはどうもわかりません。

投稿: enneagram | 2009.04.29 12:56

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