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2009.02.24

[書評]足もとの自然から始めよう(デイヴィド・ソベル)

 勧められて読んだ本だが、勧めた人の気持ちがわかった気がした。同時に私というブロガーを理解してくれたようにも思え嬉しい感じもした。これほど共感できる主張の本というのも珍しく思えたほどだった。

cover
足もとの自然から始めよう
デイヴィド・ソベル
岸由二(訳)
 「足もとの自然から始めよう(デイヴィド・ソベル)」(参照)の趣旨は、サブタイトル「子どもを自然嫌いにしたくない親と教師のために」によく表現されている。子どもの成長に合わせて自然に自然環境を愛するようにするにはどうしたらよいか。環境教育の独自の提言がなされている。
 どちらかといえば小冊子なので二時間くらいで読める本だが、人によっては深い印象を残すだろう。私はいろいろ物思いや、子どものころの回想をした。本書のオリジナルは、「Beyond Ecophobia: Reclaiming the Heart in Nature Education (David Sobel)」(参照)で、1996年が初版の作品だ。意外と古い本とも言えるので訳書もそれなりに古いのか再出版かとも思ったが新刊であり、出版の経緯は邦訳書の訳者解説に詳しく書かれていた。

野の花のように優しい小冊子だが、今環境危機の只中にあるアメリカで台頭する、「子ども期」をターゲットとした環境教育の見直しの大きなうねりの中心に位置し、いずれは記念的著作と呼ばれることになってもよいはずの書籍であると、私は考えている。

 訳者岸由二氏は同じくソベル氏の著作「Children's Special Places」(参照)に共感したという。

その本でソベルは、秘密基地活動に代表される特別な場所づくりの活動が、世界各地の子どもたちにおいて同年齢で発現するヒトに普遍的な活動であり、これに配慮した教育の必要を主張していた。まことに衝撃的な内容で、ぜひ翻訳をと、出版社を通して努力もしたのだが、実現せず、その翌年に出版されていた本書「Beyond Ecophobia」を手にできたのは、なぜかそれから10年近くもたった2005年のことだった。インターネットで本書の存在を知った私は、急きょ20部ほど取り寄せ、NPO活動に参加する学生、スタッフと勉強会を開始した。

 「Children's Special Places」の意味は「子どもの秘密基地」である。翻訳者岸氏は1947年の生まれで、私より10歳年長であるが、その私も子どものころに秘密基地を作ったことがある。まだ戦争の跡がありそれを利用したこともある(危険といえば危険だったが)。そうした秘密基地活動は、藤子不二夫の漫画にもよく出てきたものだが、どのくらいの年代まであるだろうか。もちろん地域の差というものもあるだろう。
 先日「極東ブログ: 赤塚不二夫のこと」(参照)で紹介した赤塚不二夫も満州から引き揚げてからは似たように子どもたちで自然のなかで遊んでいたものだし、昔の子どもは総じて似たようなものだろう。
 話を戻すと、本書ではそうした秘密基地とかを作りたがる子どもの心の成長を環境への認識に段階的に関連付けることで環境教育を実践しようと提言している。ある意味、子どもの心のファンタジックなありかたから、自然や環境への愛情を導く教育方法論だとも言える。
 ソベルはピアジェ学派らしく、私もわけあってピアジェに傾倒したものだが、同書を読んだ印象では必ずしもピアジェの思想というものでもないようには思えた。訳者はこうソベルをこう評している。

 なお、ソベルには、上記に紹介した著書のほか、最新刊「Childhood and Nature」(2008)がある。子どもと自然をつなぐ原理として、冒険、ファンタジーと空想、動物の友だち、地図と道、特別な場所、小さな世界、狩猟採集の七つの視点を挙げ、これをいかに組み合わせて有効な環境教育をデザインするか、事例をもって指導する力作である。本書「Beyond Ecophobia」における事例選びの上品さやいささかの躊躇は見事に吹き飛んでおり、大地と子ども、大地と地域コミュニティーをつなぐ遊びそのものの深い意義にも自在に論及して、すばらしいできだ。

 批判というのではないが、自然環境とファンタジーや空想との組み合わせというと、あくまで例えばということだが、シュタイナー教育や「水からの伝言」といったものはどういう位置づけになるか考えさせられる部分があるにはある。つまり、環境教育に内包されたファンタジー性を科学・非科学といった基準で切り捨てることなく、上質なファンタジーの情感を活かしつつ、にも関わらず、科学的な心にまで教育するにはどうしたらよいのか。おそらく一つの答は、ソベルが導入しているような段階性だろう。しいて言えば、上位の段階で科学観を強化するということかもしれない。
cover
Beyond Ecophobia:
Reclaiming the Heart
in Nature Education
David Sobel
 本書の標題に含まれるEcophobiaという独特の言葉は、Ecology(エコロジー)へのfobia(恐怖症)という意味合いを持つだろう。この用語がどのくらい広まっているかざっとグーグルを検索した印象ではそれほどの定着はなさそうだった。もともとEcologyのEcoは、Economiy(エコノミー)でも共有するが、ギリシア語のοἶκος(家)に由来するもので、そのまま家への恐怖症とする用例もあるようだった。
 本書では、子どもが自然環境への恐怖症にならないようにするにはどうしたらよいかという視点で書かれているのだが、なぜそのような問題提起があるのだろうか。
 その提起にこそ私は深く共感したのだが、こういう次第だ。

 ”環境保護的に正しい”とされるカリキュラムは、現在進行している悲惨な事態を目の当たりにすれば、子どもたちのなかに現状を変えていこうという意思が育つにちがいないという思い込みの下に進められている。しかし、実際にはそうした悲惨なイメージというものは、自己、そして時間と場所の感覚を形成する途上にある幼い子どもに対して、始末におえない、悪夢のような影響力を与えている。

 環境を守らなければならないという切迫感を恐怖のイメージで描くことで、子どもは自然に対して恐怖のイメージを持ってしまい、逆効果になるというのだ。私もそう思う。さらに言えば分野は違うが、平和教育というものにも幼児に対しては恐怖のイメージを含ませないようにすべきではないかとも思う。

 もし教室が地球環境破壊の話題で埋め尽くされていたら、子どもたちはそうした問題から距離をとろうとするだろう。肉体的・性的な幼児虐待に対する反応と同様で、苦痛から逃れるため、そこから距離をとる技術や手段を身につけてしまうのだ。深刻な場合は多重人格となり、苦痛に満ちた経験に気づいていない新たな人格を形成してしまう。


私が恐れるのは、現在の我々の、それとしては正しいかもしれない環境教育カリキュラムは、子どもたちと自然をつなげるのではなく、引きはがすことになっているのではないか、ということなのだ。自然界が虐待される様を目の当たりにさせられ、子どもたちはかかわりをもちたくないと思うようになっている。

 ソベルは無意識の概念を導入していないが、こうした忌避の心理機構は無意識的に、しかも子どもの心の基底に定着する恐れはあるだろう。
 であれば、環境教育は別の方向性を取らなくてはならない。

 子どもたちにもっと元気に、力強い大人となってほしいと願うなら、地球を守れと言い聞かすまえに、まずは、子どもたちがこの大地を愛せるように彼らを支えることから始めよう。

 そしてその、自然への愛をはぐくむ教育には、ヒトの心性の発達過程とそのファンタジー性を上手に教育に繰り込む必要があり、そこからソベルの思想が展開される。
 本書を読みながら、私は自分が若い日に傾倒した哲人の言葉を思い出していた。正確な言葉ではないが、子どもの教育にも打ち込んだその哲人は、子どもから、「わたしはリスが好きなのに、わたしが近づくとリスは逃げてしまいます。どうしらたいいのですか」と問われた。彼の答えは意外なものだった。そしてその答えは、私の心にずっと残った。彼の正確な言葉は忘れたが、こんなふうに答えた。「リスがきみに安心感が持てるように、毎日リスのいる木の下でじっとしていなさい。何日も何日も。」 その奇妙な答えは彼自身が自然のなかの暮らしで実践していたものだった。大樹の下で禅定ともなく静かに日々座って、リスや山の動物たちが彼を恐れなくなるまで慣れさせ、そしてやがて彼の体にリスが乗り駆け回るようまでなった。猿がやってきて握手を求めたともあった。
 猿の握手。私はそんなバカなと思ったが、別途動物学の本で、仕込んだわけでもなく自然の猿にそういう習性があるのを知った。

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コメント

丁度今日、「リス」の話を読んだところだったので驚きました。人と接する時に恐怖や不安を道具として使ってしまうのは、性急に答えを求めているからなのだろうと反省しきりです。

本のご紹介、ありがとうございます。読んでみたいと思います。

(ちなみに鳥、でした)

投稿: zajuji | 2009.02.24 22:08

>猿の握手。

 いい文章だと思いました。んで、こういう文章を読んだとき、せっかちな人やプライドの高い人は、自分が木になろうとするし、しすぎるんですな。
 そんな立派なもんにわざわざなろうとせんでも、猿で十分と割り切ればいい。木にもなるし、猿にもなるし、石でも草でも道端でも、何でもいいしどうでもいいと思えばいい。
 したらば、木になるし猿になるし、石でも草でも道端でも、何にでもなる。

 私は人間であるって思わない方が、いっそ気楽かも。

投稿: 野ぐそ | 2009.02.25 08:18

私なんぞは、植物園は好きです。

それから、神社のつつじ園とか公園の菖蒲園などもすきです。

こういうのは、自然ではなく、人工庭園なのは承知しています。

でも、山林だって、植林したり、間伐したりしなかったら健全な育成はできないのです。

生のままの自然より、人間様の手の加わった生態系のほうが人間にとっても、動植物たちにとっても住み心地がよいはずなのです。

このあたりは、大儒学者の熊沢蕃山先生が水土論として考察されているはずです。

エコロジーが「家の学問」なら、エコロジーも家政学的側面を持ちうるはずです。熊沢蕃山先生の日本的エコロジーは、まさに、自然の家政学であり、おそらく真の生態学なのだろうと思われます。

投稿: enneagram | 2009.02.25 08:41

現在の恐怖による対応はなんにしても幼児期はよくないと思いますね。よい本の紹介ありがとう。

読んでみます。

投稿: charlestonblue | 2009.02.25 10:11

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