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2009.02.04

[書評]精神分析を受けに来た神の話―幸福のための10のセッション(マイケル・アダムス)

 書店で見かけ、標題「精神分析を受けに来た神の話―幸福のための10のセッション(マイケル・アダムス)」(参照)が気になって手にした。ぱらっとめくったものの、未読の「神との対話」(参照)とか、ありがちなスピリチュアル系の話かなと思って書架に戻した。が、その後、巻末の問い掛けが心に残り、なんとなく気になってアマゾンでポチっと買った。昨晩、寝るかなと思って退屈げな本のつもりで読み出したら止まらず、睡眠時間を削ることになった。

cover
精神分析を受けに来た
神の話
 面白いといえば面白かった。二時間か三時間くらいで読める本だが、たぶん、この業界というのもなんだが精神分析というかカウンセリングの内側を知っている人にはいろいろ業界的な発想が伺える面白さもある。
 書店の紹介にはこうあるが。

「私」 と 「世界」 をつなぐ幸福のヒント。ある日、「神」 を名のる男が精神科医のもとを訪れた。対峙する両者。思いがけぬ事態の展開に導かれ、徐々に変貌する心の風景。善と悪、信念と寛容、真の救いとは、生きることの意味、そして究極の幸福とは・・・・・・気鋭の精神病理学者が描くスリルと機知に富むサイコドラマ。ベテラン精神科医と 「神」 を名のる患者が辿り着いた結末とは?

 いやそれほどという話でもない。「神」を名乗るというのはそのぉ、つまりありがちなリアル気違いなので主人公の医師も普通にそう対応しているが、この話「 [書評]あなたがあたえる 大富豪ピンダーの夢をかなえる5つの秘密(ボブ・バーグ、ジョン・デイビッド・マン」(参照)と同じように、ファンタジー仕立てになっているので、ありがちな超自然的な能力を「神」と称する男に付与している。まあ、そのあたりは笑って読め、なのだが、ちょっと深入りすると、精神科医を長くやっている人はウンザリするようなテンプレの狂気のなかに、まれに超自然的な現象に出くわしているのではないかと思う。というか、そういうこともあるさくらいで過ごしているのではないか。
 副題には「幸福のための10のセッション」とあり、オリジナルも「Gods Shrink: 10 Sessions and Life's Greatest Lessons from an Unexpected Patient」(参照)となっているのだが、「あなたがあたえる」のようなありがちな自己啓発系の本とは違って、10個のリストがあるわけではない。むしろ多少サイコドラマ的な展開になっている。が、スポイラーにする意図はないが、本書を読み終えても大きな感動というのはないし、別段、神がどうたらという感慨を持つこともないと思う。つまり、この本は、よく抑制して書かれている。
 それほど神学的には書かれていない。バルトやティリヒといった神学者が洩らすぞっとするような深淵はない。また「極東ブログ: [書評]カラマーゾフの兄弟(亀山郁夫訳)」(参照)のような文学性もない。その意味では、内容的にも薄っぺらな書籍とも言えるのだが、本書の価値はそこではない。
 たぶん、この本は、主人公に模せられているように50歳近い人が読むと、かなり味わいが違うと思う。神が存在するのか、神が存在するならこの世界はなんなのかみたいな熱いというか暑苦しい問い掛けで挫折した40代から50代の人が読むと、後半の思い出の旅などに、静かにじんとくるものがあるだろう。人は生きていると、その心のなかに死者を抱えていくようになる。死者をどうなつかしく思うのか。死者の意味をどう考えるのか、自分もまたその参列にどう加わるのか、そういうことを自然に考えるものだ。
 話を戻して私の心にひっかかったのは巻末の次の問いかけだった。読後用に「討議のための問いかけ」が十二個ある。

一、あなた「神が存在するか、しないか」の確たる証拠が将来明らかにされると思いますか?

 私はこの問いに最初失笑した。ナンセンスだと思ったからだ。

四、セッション2でゲープとリチャードは完全無欠な存在としての神を議論しています。あなたは、神が完全無欠でなければならないと思いますか。

 神が完全無欠かについては、ある意味神学的には稚拙な問い掛けとも思うが、いわゆる無神論者の神概念はここに稚拙に集結しがちだし、普通の人も、いや聖書学者ですら「極東ブログ: [書評]破綻した神キリスト(バート・D・アーマン)」(参照)のように悩むし、私も含めて、心のどこかでこの問題は考えている。そしてアーマンが暫定的に評価したように、ユダヤ教のラビであるクシュナーによる「なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)」(参照)のように、神の万能性については留保することになる。というか、神というものをより人間的な倫理的なものに捉え直す。
 というか、欧米風の無神論の課題は伝統的な倫理性なくどのように人が倫理を打ち立てられるかという倫理の問題であって、神は存在しないのだとバカ騒ぎする問題ではない。本書でも、その意味で、神とはつまり倫理の根拠性として妥当な受け入れをしようということで、どうやらそのことで、結果的に神に苦しむ人に対するカウンセリング的な意味合いを持っている。ざっくり言えば、本書は宗教を薄めて実用的にしたいという目的もあるだろう。
 問いを進める。

八、あなたは、我々はある程度の「自由意志」を持っていると考えますか?

 これもまた稚拙な問いようだし、自由意志の有無というのはモデル的に思考されがちだが、本書ではもっとプラクティカルに問うている。つまり、社会や世界を変えるという文脈で自由意志とはなにか?
 ガザ空爆では、報道カメラが入ってから日本のメディアも騒ぎ出したが、この間、ずっとダルフールではスーダン政府による空爆が続いていた。そのことは日本ではあまり報道されない。どちらも政府による戦争犯罪でありながら、重視されかたは異なる。なぜか。いろいろな理由はあるだろうが、報道には背景があり、陰謀論というほどではないが、権力の力学が存在する。
 この社会や世界にとって、実際的な意味での自由意志とは権力の度合いを示している。であれば、ジンバブエでコレラによって自我を確立する年齢に至らぬ内に死ぬ人間存在にどのような自由意志の意味があるだろうか。つまり、そういう問題だ。
 本書ではそれを正面から取り上げている。そこで、能力のある人間、力のある人間は、善を実行して世界を変える責務を負うというテーマになってくる。ただ、そこはそう強くは主張されてはいない。
 私はこの問題は、本書でしばしば考え込んだところだ。たとえば、この私にはなにか社会に役立つ能力があるのか。それを使っているのか。ブロガー? いや自分でも失笑していますよ。
 そして一番心に引っかかったのは、次の荒唐無稽な問いだ。

十二、あなたが神と対話する機会に恵まれた場合訊きたい質問は何ですか? 三つあげてください。

 たぶん、普通の日本人の常識人なら「神と対話」するというのは意味をもたないだろうと思う。日本人はたぶん神は、天皇のように、形だけ敬っておけ終了、みたいな存在で、天皇はそうでもないが神については御利益あるべしと、賽銭箱に五円玉くらい投げ入れ、五円相当のラッキネスを期待する。
 私は自分を特殊だとは思わないが、正直にいえば、私は神に対話したいと思っている。私の人生の意味はなんですか、世界はなぜこんな悲惨なのですか、すべての存在はどうせ消滅するものではないですか、おっと、あっという間に三つあがってしまう。
 このあたりで率直にいって、自分のそういう稚拙な正直さを恥ずかしいとも思うし、しかしそれがまた自分の愚かな正直さでしかないことに困惑する。そしてそれはいくばくか狂気を孕んでいる。本書の主人公もそうした狂気に似たものに揺れ動いている。
 まあ、結論はない。ただ、本書を読んでそう空しいものでもない。
 神学的に見るなら、本書の考えは、神もまた進化論的な創造のプロセスに組み込まれているという意味で、テイヤール・ド・シャルダン(参照)に近い。著者に宗教的な背景でもあるかと英語の情報を探ってみたが、特にない。おそらく普通にカトリック的な信仰をもつ医師というだけだろう。
 類似の神学観には、私が好むベルクソンのそれもある。ベルクソンはテイヤールほど暢気ではない。神を宇宙全体の創造のプロセスとしてものっぴきならぬ危機を含んだものだと見ていたのだろう。

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コメント

かなり身も蓋もないことを言いますが、
ドストエフスキーなどを「深い」と思っている人は
世界中にいて、その数は非常に多いと思いますが、
そういう人たちの中でこういう人は何人ぐらいいるでしょうか。

こういう人↓
ドストエフスキーが世界的な作家だということを知らず、多くの哲学者や頭のいい人たちがドストエフスキーは「深い」とか云々言っていることを知らず、そもそも
ドストエフスキーという人間の存在すら知らず、何気なく拾った本がたまたまドストエフスキーの本で、しかし
そうとは知らずに読んで、その後もずっと「ドストエフスキー」という人間の存在を知らないまま、「俺があの日拾って読んだ本に書いてあった物語は非常に深遠だった」と思い続けることができる人間。

多分いないでしょう。知識人全般も、結局世界的な評判のシステムなんですよ、これ。有名にならないとどんなに「深い」ことを言っていても無視される。逆に一旦有名になればいくらでも過大評価されて色んな人に言及される。~の思想は云々という感じで。でも本心なんてわからない。言ったもん勝ち状態。

要は知識人やそのふりをしたがる人たちは、「正しさ」よりも「知識人ゲーム」を楽しむことが目的なのです。
本当に正しくものを理解したいという情熱を持つ人間ならば「分からないことは分からない」とはっきりいいますよ。

そもそも何らかの「考え」を常に「世界的有名人」に帰属させなければ語れないという時点で、人文学というもが際立って権威主義的かつ無内容だということが分かる。

思想や哲学が「人物名の羅列」にしかなっていない。

投稿: 任意 | 2009.02.04 13:55

ヴィルコミルスキー事件をご存知ですか?
ここに詳しいですが、
http://revisionist.jp/wilkomirski_01.htm
「断片」のAmazonのレビューが非常に滑稽です。

ここも面白いです。
http://cruel.org/cut/cut199106.html
ソーカル事件も含め、「文系」とか「文学」って何なのかいまだにわかりません。その存在意義が。

投稿: 任意 | 2009.02.04 14:51

 じゃあ「理系」や「理化学」の存在意義ってあるんですか? そんなもん必要あるんですか? と言われたら、存在意義も必要もあると答えられるんですかね?

 答えられるとするなら、その伝にて「文系」「文学」にも存在意義くらいは、あるんじゃないですかね?

 と、思いました。

投稿: 野ぐそ | 2009.02.05 02:29

>enneagramさん

 言及するのはご自由ですから(少なくとも私に限れば)良かれ悪しかれ何でもいいですけど、

>「野ぐそ」さんに言及するのは申し訳ないけれど、彼だって、知性のきわめて優れた人です。

 それは無いし、そうやって持ち上げた?後で

>別の生涯を選び取れたと思うのだけれど、それでも、ハケン労働の激務のために肺炎を持病にしてしまい、家族以外には心の通う相手はほとんどねこたちみたいな生き方を若いころから通り抜けねばならない生涯になっても、彼も、弁当爺さんや切込隊長と同時代に生まれることを選び取った人なのではないかと思います。

 こう決め付けるのは、どうですかね?

 一応言うなら、肺炎は持病では無いです。「心の通う相手はほとんどねこ」も随分ですな。ねこ文章が多いからそうした判断でしょうが、友人文章もそれなり書いていてそちらをスッポリ無視する理由が分かりません。
 テレビ局ブログで要らんこと言ったから嫌がらせですか?

 あと、元々自分自身に金銭的な欲求や社会的な欲求は殆ど無く、今の自分の在り方は15歳くらいの頃から「そういう人生良いですね」で、常に追求し続けていることなんでね。学生の頃に学校が嫌で行かなくなったことも、バイトして銭貯めて東京出たことも、出版社で小間使いやって駄文書きしたことも、辞めて放浪生活をしたことも、地元に戻って工場勤めで小銭貯めたことも、その後今こうしてプラプラしていることも、田畑や山や犬や猫に囲まれて暢気にすることも、基本的には全部想定内で、ほぼ思い描いた人生設計通りか(一部)予想以上で、周囲の状況の変化などで自分の想定より諸事5年程度前倒しになっているだけのことですよ。
 前倒しになった分だけ「やり残した感」はありますけど、逆に、完全に自分の思い通りに事を進めていたら今みたいな自分の状況は作れなかったし、大不況大恐慌を乗り切れる自信なんて無かったわけで。

 今では普通に「嗚呼私って運がいいな」と思っていますから、
>心の通う相手はほとんどねこたちみたいな生き方を若いころから通り抜けねばならない生涯になっても、
 「ならない」では、無いんですよ。初めからそうする心算でしたから。アゲアゲで高位を目指して高転びに転びあおのけに倒れるような人生は、嫌なんです。

 それだけのことですよ。

 その旨申し上げて、その上でどう言おうと思われようと、それは構いません。私は今の自分の人生に何の不満もありませんから。

投稿: 野ぐそ | 2009.02.06 00:18

この上のコメントにも「孔子」という単語が7個も出てくる。
孔子がどういう人間かなんてどうでもいいんですよ。正直。僕が物凄く興味を魅かれるのは、人文学というものが、何かを語ろうとすると、なぜこんなにも特定の有名人を引き合いに出さなければいけないのか、ということです。その答えはとても残念なものであるような予感もします。上のコメントも、どうとでもとれるもので、非常に無内容です。というか、「空気」を読むように強制しているんですよね、人文学って。こういうタイプの(自分には不毛かつ権威主義的に見える)コミュニケーションを連鎖することが人文学なんだという慣習を受け入れなければいけないんだなあと。なぜこんなものが学問といわれているのか理解することはこれから先もないような気がします。つまり「威張るな!」みたいなことを言いたいわけです。ただの人生論や世間話に権威をつけるためか、あとは過去の有名人の文章を整理するだけの役割しかないように見えます。まあ出版というビジネスと相性がいいということが「非常に」大きい背景をなしているんでしょうが。もしかすると現代において「哲学者」や「思想家」という存在は、出版社によって生み出されているのではないかなんてことも思います。出版社と人々の共犯によって「文壇」とか「文学」とか「哲学」とかいう世界と、それぞれの世界における「アイドル」が誕生しているのではないかなんてことも思います。そして勝手に盛り上がっているという感じがします。自分の人格や世界観自体が「出版戦略」によって作られたものかもしれないなんて怖くて考えたくはないでしょうけど。「科学の限界」なんて言葉は笑わせますよ。科学や理系に存在意義なんてないですよ。存在意義がなくとも存在を求められているわけですから、そんなものは必要ないんです。男と女みたいなものです。水洗トイレや暖房やお風呂や乗り物を全部捨てて生きますか?強がっても便利には勝てません。世捨て人ぶっても。みんな「お坊ちゃま」なんです。数億人の「お坊ちゃま」。だから悟ったようなことを言えば言うほど「サブい」わけですよ。それと物理的な問題として、自然科学、特に数学の論文を読む(書く)のは人文学の論文を読む(書く)より「体力」を使います。かなり。人文学は小説かポエムにしか見えません。実は数学はスタミナがモノを言う肉体労働なんですよ。「戦争の世紀を越えて」みたいなことを論文に書くのはどうかと思います。だから「高次の自由」というような言葉が通じるような集団内で永久に「クールな哲学者」ごっこをしていればいいわけです。ミケンに皺を寄せて「アインシュタインの名言100」みたいな本でも読んでいればいいわけです。それで幸せなら。ノーベル賞とかラッセルアインシュタイン宣言とか、「フェルマー予想」とか「ポアンカレ予想」とか「リーマン予想」とかのいわゆる「未解決問題本」とかをありがたがって読んでいればいいわけです。「クオリア!クオリア!」と連呼しながら文系はミ-ハーを押し通していればいいんです。科学者のおこぼれ的な文明論ほど出版戦略にマッチしたものはありません。「ご冗談でしょう~」とか「~宇宙を語る」とか「ガモフ全集」とか「岡潔」とか「国家の品格」とか「生命とは何か」とか「精神と物質」とか「生物と非生物~」とかを読んで、無力感を優越感に変えればいいんです。「量子力学は仏教と同じ」とか言ってればいいんです。

投稿: 任意 | 2009.02.06 08:20

>>任意さん

 言いたいことの幾許かが言えて良かったですね。

>人文学というものが、何かを語ろうとすると、なぜこんなにも特定の有名人を引き合いに出さなければいけないのか、ということです。

 そういうのは、引き合いに出す人の性質にもよるんじゃないですかね? 私は〇〇だ、こんな経験した、こんなことを考えた、それと同じ(ような)ことを昔の人でやってる人が居た、そういう人は行く末どうなったか…というのを予めある程度知っておくと、我が身の肥やしにも戒めにもなるでしょ。私は、そんな感じでご利用してますけど。他の人がどうなんだか、そこは知りません。

>というか、「空気」を読むように強制しているんですよね、人文学って。こういうタイプの(自分には不毛かつ権威主義的に見える)コミュニケーションを連鎖することが人文学なんだという慣習を受け入れなければいけないんだなあと。

 それは用いる人の心掛け次第なんじゃないですかね? 権威主義だったり支配欲の強い人が用いれば、↑のようになるでしょ。そりゃ。

>つまり「威張るな!」みたいなことを言いたいわけです。

 つ鏡。はい、どうぞ。

>ただの人生論や世間話に権威をつけるためか、あとは過去の有名人の文章を整理するだけの役割しかないように見えます。

 それ言ったら化学記号だって同じようなもんですよ。

>そして勝手に盛り上がっているという感じがします。

 そらそうでしょうね。私もそう思います。

>科学や理系に存在意義なんてないですよ。存在意義がなくとも存在を求められているわけですから、そんなものは必要ないんです。

 求められるから意義があるんで、必要ないんだったら辞めるか死ぬかで、どーぞ。

>水洗トイレや暖房やお風呂や乗り物を全部捨てて生きますか? 強がっても便利には勝てません。

 強がってるわけじゃないですけど、水洗トイレと暖房は、無くていいですよ。ポッチャン便所か野ぐそで間に合いますから。お風呂は昔ながらの薪と灯油の併用型なんで、風呂という概念は多分消せませんけど古風で十分満足なんで、別に最新式は無くていいです。
 車が無いとたちまち困りますけど、今は自宅農業なんで、基本的には無くても大丈夫です。手動でゴーです。

 便利に「勝てない」という発想自体、どうかって感じ。無いよりマシであった方が便利だったり面白いから用いてるだけのことで、無いなら無いで、いいんですよ。なので、そういう発想で居ると、
>つまり「威張るな!」みたいなことを言いたいわけです。
 つ鏡。はい、どーぞ、って感じ。

>だから悟ったようなことを言えば言うほど「サブい」わけですよ。

 つ鏡。はい、どーぞ。

>実は数学はスタミナがモノを言う肉体労働なんですよ。

>つまり「威張るな!」みたいなことを言いたいわけです。
 つ鏡。はい、どーぞ。

>無力感を優越感に変えればいいんです。「量子力学は仏教と同じ」とか言ってればいいんです。

 つ鏡。はい、どーぞ。


 人文学が変に権威主義化することに不快の念があるのはよく分かりますけど、そういうの抜きで「自分の主張に対して」なんでもかんでも「つ鏡。はい、どーぞ」で返されたら、腹立つでしょ? 多分。立たなきゃそれでいいですけど。

 そうでなく、小説かポエムか世間話かただの人生論か…みたいな感じで戯画化すれば、ある程度大まかに「なんだ、こんなもんか」って、高が括れる。そうすることで、ある程度物に動じなくなる効果ってのもあるんじゃないかと。人文学なんて、元々はそんなもんでしょ。
 高の括り過ぎは良くないですけど、ある程度の「括り」が無いと何事にもビビりまくるねこさんのようになってしまう。

 ただの石ころを貴重な宝石のように崇めたがる風潮に用いられ易いのは、単にマスコミ関係者に人文あがりの人が多いからで、だから人文が胡散臭いだけのことで。そうでなければ…理科学者が主導であるなら、それは
そういう連中が胡散臭がられるだけでしょうね。
 魔法とか狂人って言われるだけだと思います。欧州には、そういう歴史もありませんでしたっけ?

投稿: 野ぐそ | 2009.02.06 19:25

>この私にはなにか社会に役立つ能力があるのか。それを使っているのか。

クリスマスのお話、結構好きですよ。おととしと去年のだけしか、リアルタイムでは読んで無いけど。生きていればあと何十話か書けますよ。
世界を良くする方法なんて、考えれば考えるほど自分の無力さを自覚するばっかりで。良い人が長生きするよう祈る他ありません。
祈る神が違っていても、祈りを受け入れられる人が増えればいいのにね。

投稿: ぽぽん | 2009.02.06 19:30

 文章の書き方には個人個人の癖があって、私の場合は「上げて下げてまた上げる」なんですけど、enneagramさんのは「上げて下げたら落としっぱなし」なんでね。

 遊んだ後のお片付けをするかしないか、遊びながら片付けるか、遊ぶ=散らかすの違いか、みたいなもんなんでしょうけどね。そういう性格って凄く出るから、名前変えても意味無いんですよ。

投稿: 野ぐそ | 2009.02.07 09:24

「野ぐそ」さん、回答ありがとうございます。いろいろ誤解していてすみません。でも、私は、あなたが非常に知的にも優れているし、信じがたいほど主体性のある生き方をされているので、あなたには好感を持っています。あなたの出してくださる反論はいつもためになります。自分がいかに思い上がっているかをよく教えてくれますからね。


「任意」さんのご意見の中で、

「自分の人格や世界観自体が「出版戦略」によって作られたものかもしれない」

とありますが、そこまで自分を見下す必要ありますかね。確かに、大手の放送、出版、興行業者による商業性の高い情報操作、意識操作は多分にあるけれど、だれでも、好き嫌いは明白で、自発性を持っているのではないでしょうか。それに、偶然のもたらす作用も現実にはずいぶん大きいと思われます。出版戦略がどうであれ、痛いものは痛いし、腹が減れば何か食べたいし、可処分所得は大きくしたいし、寒ければおしっこが近くなるだろうし、そんなに情報の巨大発信者が世の中を思い通り支配できるものなのかしら。

むしろ、情報がすくなかった昔のほうが反省することやドグマの支配から抜け出すのが難しかったと思うのだけれど。

共産主義者たちがかつて、「だれでも、その所属する階級が何であるかに従って、考えることは階級意識にまるっきり社会的規定される」みたいなことをいって、世界を席巻したのだけれど、なにか、同様な陳腐な議論のような気がします。

自分より賢いと思われる人たちに素直に学んだほうが今よりましな生き方がそのうちできるようになるのではないかしら。そういう意味では、あまり、人文科学、社会科学、自然科学の区別にこだわる必要はないと思うなあ。人文科学を虫垂炎扱いするほうが偏狭に思われるのですが。

投稿: enneagram | 2009.02.07 10:13

「任意」さま、あともうひとつ。

きっと、どんな時代のどんな環境に生きた人も、その時代にその環境が提供してくれる知識と道具を使って、その時代が提起する問題の解決に努力したのだと思います。そういう風にして、人文学的知識も蓄積されたのだと思います。だから、偏狭に考えなければ、使えるものが紛れ込んでいるなら、人文学的知識を道具に使って、自分の運命を、生きるのが容易なものにすればよいだけだとおもいます。

ああ、あと「野ぐそ」さん、私、隠し立てすることなく精神科医のお世話になって生きている奴ですから。おかしな話ばかりするのはそういうものだと思ってください。これでも、あまり迷惑かけないように気を使ってはいるつもりですけど。

それと、どうも、「野ぐそ」さんは、昨年私が警察に拘束されたのをご存知のようですけど、「野ぐそ」さんがどうしてそれを知ることができたのかわからないし、私も、手錠こそつけられなかったけれど、なんで、本署に連れて行かれて、立像坐像の写真撮られて、両手の指紋掌紋全部とられたのか、正直わけがわからんのです。そこまでされても、留置場にも入れられず、送検もされず、帰宅するときは、警察官の方がお二人で車で送ってくれました。

インターネットで暴れるといっても、殺人予告や爆破予告など何もしないし、極左やオウムとも無縁だし。

平沢衆院議員のことは、本当は話題にしたくないんですよ。平沢先生も大変な思いされているだろうし、だれでも、あの立場になったら同じことをしたと思っているんです。
わたしは、偽ることなく保坂さんぞうさんの支持者ですけれど、それだからといって、正直、平沢衆院議員のことを悪く思っていないし、丸川参院議員のことだって、さかもと未明さんのまねして下品な悪口言うのはいやだし、石原都知事父子に対しても、悪意などありません。

でも警察が出てくるとなると、冨田ラボのブログのエントリージャックの件で冨田さんとみゆきさんとソニーさんとヤマハさんにひどいご迷惑をおかけした件なら警察ではなく、むしろ、ハリウッド系のマフィアさんたちにご縁を結ばされるほうが流れが自然だよなーみたいに思うんです。それで、よいことではないけれど、あえて平沢先生のことも考えに入れるわけです。

まあ、やっと、警察に拘束された話も正直にできたし、保坂さんの落選の件では、私が平沢議員にも、丸川議員にも、石原都知事父子にも悪意がないことも弁明できたし、これも、「野ぐそ」さんのおかげといえば、「野ぐそ」さんのおかげです。

投稿: enneagram | 2009.02.07 13:50

 そんなん知らんと言うのに。

 基地外ぶって私に近づいて「お前も基地外の仲間だ」って言いたいだけじゃないんですか?

投稿: 野ぐそ | 2009.02.07 17:45

数学は肉体労働ということで、それはわかります。

私も以前特許明細書の翻訳やっていて、外国語の技術文書の読解でいつも体力消耗していましたから。もちろんいつも稚拙な成果しかあげられなかったのだけれど。それゆえ、いま、職場から追い出されて、失業者をしているわけですけれど。

「追い出されて」、というと聞こえが悪いか?、「土間で寝ろ」といわれたので追ん出たといっておけば、後に民主党の菅直人代表代行(菅代表代行は弁理士さんです)の縁故の方の誰かにこの件で厳しく問い詰められるようなことがあれば、そのときは、言い訳にもならない言い訳ができる表現になっているかと思います。

菅代表代行、無体な派遣切りの問題、どうかぜひこれからもがんばってください。

でも、人文学も体力勝負の作業にできます。
ためしに、般若心経を漢文真読、訓読、サンスクリット原典、英訳でそれぞれ3回ずつ、
観音経を真読、訓読、英訳で1回ずつ、
法華経の方便品と如来寿量品を真読と訓読で1回ずつ、
大悲心陀羅尼と仏頂呪と法華経の6種の陀羅尼を漢字音写とサンスクリット原典で1回ずつ、
消災呪についてはそれぞれ3回ずつ、
十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経を真読と訓読で1回ずつ読誦すると、
慣れている人でも、どうしてもだいたい1時間半くらい時間がかかります。夏や冬に正座してこれだけお経を読誦するのは、体力をすごく消耗します。人文学もりっぱに肉体労働にできるのです。

なんでそうまでしてそんなことするのか、といえば、たとえば、加山又造画伯の展覧会がいま六本木の国立新美術館で開催されていますが、こういう作業を重ねることで、もしかしたら、加山画伯が伝えようとしたことだけでなく、加山画伯が意図せず伝えているようなことまで美術のトウシロウが読み取れるようになる心意的能力の訓練をしている可能性があるのです。

そして、加山画伯や岡鹿之助画伯の優れた作品について、新たな展望が得られれば、それは、自然科学や社会科学にも新たな展望を開く可能性があるのです。まるっきり無根拠な話ではありません。すぐれた美術収集家の一言が優れた半導体物理学者に今まで考えてもいなかった自然現象に対する関心をもたらす可能性は皆無ではないのです。

偶有性の期待ばかりして生きているわけにも行きませんから、リアルな日常の要求にこたえていかなくてはなりませんが、日常的な陳腐なものの見方でないものの見方に触れることで、これまで見慣れていたもの、扱いなれていたものにまで新たな関心が生まれる可能性まで否定はできないと思います。

優れた自然科学者で、優れた人文科学者であり、かつ社会科学者であるひとはそれほど珍しくはないと思います。

投稿: enneagram | 2009.02.08 10:08

封建社会の中世の西ヨーロッパの騎士たちにとっては、ユークリッド幾何学の知識より、
「賢く尊いオデュッセウスは、・・・」
って、ラテン語で、ギリシャのホメーロスの叙事詩の「オデュッセイア」を1行でも長く暗誦できることのほうが大切だったのではないかしら。
物質や経済についての知識より、英雄オデュッセウスの放浪の忍耐と復讐の暴力の賛歌の方が、大切な時代がはるかに長かったのではないかしら。

高等教育を受けた人たちにとって、数学や物理学の知識のほうがギリシャ古典の知識よりはるかに大切になったのは、ブルジョアが社会の主役になってからだから、せいぜい18世紀を過ぎてからのこと。
18世紀になってから当たり前になったことがこれからもずっと普遍的であり続けると思うほうがむしろ不自然で思い上がった態度ともいえなくはないのでは?

投稿: enneagram | 2009.02.12 16:33

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