本屋が変わったなぁと思った
先日九段下あたりを歩いていたら歩道に警官が集まっていて通れませんと言われた。困惑した。なんだろと思っているのは私ばかりではなく、なんとなく、なんだなんだの小さな人集りができている。私も気になって、そこいらにいる人の立ち話をそれとなく聞いていたのだが、爆弾だとか靖国神社とかそんなキーワードがあり、要するに私には関係ないな、桑原桑原と思って回り道したのだが、そういえばと神田の古本屋街に回ってみた。自分がいままでまるで関心をもったことのない領域のある種の本をちょっと調べてみたいと思っていたのだった。
神田の古本屋街を歩くのは別段久しぶりでもないのだが、意外と神田で本屋の中に入るということはなくなったなと思った。もちろん、私も本好きにありがちな行動だが歩道に並んでいる古書店の店頭の本のツラなどはよく見るし、のらくろの昔の本とかめっけて買うかなとか立ち止まって考えることもある。学生時代も沖縄出奔前も終日この町をしらみつぶしに見て歩いたものだったが、あのころの自分はどうしたのだろう。そういえば知人が構えていた事務所とかどうなかったかなとか、町並みを歩きながら懐かしく思った。
今回は書泉と三省堂に入ってみたのだが、お目当ての本がまるで無かった。それ以前に、うぁ売り場が狭いなと驚いた。実際に狭いのか記憶と照合してみるとそうでもない。三省堂のほうもそういう印象があった。もちろん建て替え後の三省堂なのだけどね。
しばしそういう思いの自分に呆然としたものの、これじゃ埒があかないと神保町から都営で新宿に出てジュンク堂に回ったのだが、その過程でようやく気が付いた。狭いというのはジュンク堂と無意識に比較していたわけか。東京に戻ってから見る本屋といえば、池袋のジュンク堂と新宿のジュンク堂、それと紀伊国屋くらいなものだな。しかも、ジュンク堂についてはあらかた出かける前にネットで蔵書の状態を下調べしたりする。
どうして自分はこうなっちゃったんだろとジュンク堂に着いてから考えた。もちろん、ジュンク堂にはお目当ての本はあったし、その関連書もわかって、一通り欲しかった情報のメンタルマップみたいのもわかったのだが、それでも10年以上前の本とかはないし、アマゾンで古書の状況を照合したくもなった。というあたりで、いつからそんなふうに書籍を考えるようになったのだろうかと、我に返った。
そういえば、昔は紀伊国屋など毎日に近く寄って舐めるように書架を見ていたので、店員くらい書籍の状態を知っていたものだ。つまり本屋に自分がアクセスするという行動それ自体に意味があったし、その行動でしか知り得ない、ある体系的な知識のようなものがあったものだった。いつからか、それが、なんというのだろう、フラットな、電子テキスト化された情報になったような気がする。本という物じゃなくて。
そういえばの続きで、私はオープン書架の図書館で学部生時代短期だったがアルバイトをしていたこともあった。もともと図書館が好きでうろうろしているのと書棚の整理をしているのとたいして変わらないなということでもあったが、バイトのおかげで若干の図書館学の勉強にもなったし、なんというのか人がどういうふうに書籍を手に取るのか感覚的にわかったように思えた。ああいう感覚って、現代の若い人は持てるのだろうか。持てないわけもないと思うし、それが重要だと言いたいわけでもないのだが、もどかしい感じがする。
物思いだけで疲れた感じがしてジュンク堂で休んで、そういえば、古書というのも大きな存在になったと思った。アマゾンでも古書が充実しているようになったが、ようするにネットのおかげで探してカネだせばたいていの古書は見つかるようになった。学生時代に読みたかったけどなんとなく機会を逸したような本でも、思い出せば入手できる。そして購入して読む。不思議なものだ。選んだ古書は面白く、読めば新鮮に感じられもする。
ブログでは、ここでもそうだが、書籍にアフィリエイトコードを貼ったりするし、なんというのか書評ブログみたいのもあるが、たぶん儲けというかビジネス的には、エントリでは新刊書を回したほうがいいのだろう。そういえば年末、2008年に読んだベスト本リストというエントリもよく見かけたものだった。それが悪いわけでもないし、出版業界や本屋は新刊書を回していかなくてはならないのだろうが、人が読むべきというか人が書籍に出会うというのとはなにか違うように思う。本屋でないと本に出会えないとまでは言わないが。
神田の古本屋街を迂回しているとき、ふと、あのあたりにはエロ本屋があったっけとか思い返したりもした。当時はビニ本と呼ばれていた。気取るわけではないがあまりご厄介になったことはないが(高かったし)、なんというのかこの手のアングラ・エロ本というのはそれなりに戦後の歴史そのものという部分もあったに違いない。エロ本はあまり見て無いというのに続けていうのもなんだが、ヌード写真に盲腸手術の跡なんていうのも、見かけなくなったな。縦に切らなくなったからか手術が少なくなったのか、画像処理で消してしまうのか……いや、それ以前にヌード写真とか見なくなったな、俺。ああいう世界もずーんとデジタル化されちゃったということなんだろうか。
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コメント
>>弁当翁さん
なぜ本屋の話題? ニヤニヤ。
どうでもいいですけど、新年早々緑運動公園さんが初笑い献上しまくりでコメンツ欄も実名出すなよ攻撃が炸裂しまくって大変面白い華原朋美状態なんですけど、景気の先行きが不透明になったら、世の中こーなっちゃうのかなぁ? なんて思いながら野良仕事に精出してねこ抱っこしておりますよ。
人間万事塞翁が馬、人参好きなヤツは細胞が馬、の精神で、コツコツ頑張るのがいいんじゃないですかねえ?
投稿: 野ぐそ | 2009.01.14 11:53
昔は本は、木や竹の短冊に漆で字を書いてその短冊を紐で縛って書物にしていました。
その後紙ができたから版木印刷が可能になりました。
活字印刷が一般化する前のヨーロッパやイスラム圏の書物は羊皮紙の書写本でした。
書店が変わる、というより、メディアが変化してしまうのだと思います。
ビデオからDVDへ、ブルーレイへ、そしてよほどでない限りインターネットの動画無料配信のお世話に、という推移みたいなものです。
いずれは、紙の書物は図書館の専門分野となり、読者は必要な部分だけコピーをとり、雑誌も、ある程度の数の図書館にバックナンバーを蔵書してもらえる雑誌だけが公的な補助金をもらいながら生き残れる、というようになってしまうのかもしれません。
そんな時代になると、極東ブログのエントリーとコメントとトラックバックをすべて収録したCD-ROMの海賊版にいろいろな識者(たぶんブロガーたち)の解説が付いて、それがそこそこ商売になるのかもしれません。
味気ないけれど、なんか、書物も紙媒体ではなくて、有機ELのパネルに太陽電池と薄型半導体がいくつかくっついて、検索機能や表示の文字サイズ変更機能や高性能の脚注索引機能やメモ機能が付加された高性能IT知性媒体になってしまうのかもしれません。
そしてそういう時代になると、かえって書道がもてはやされるようになるのかもしれません。
投稿: まだまだ変化 | 2009.01.14 12:41
ノスタルジーって、教科書に載る歴史みたいな、オフィシャルな「過去に対する解釈」に対する抵抗というか、「この私にとっての過去」というものを打ち出すものだと思っていましたが、そのわりにはノスタルジーというのも驚くほど金太郎飴なんだなあと思ったりします。ノスタルジー自体が、ブランドのバッグに負けず劣らずバリバリの「商品」じゃん!みたいな。まあ便利なコミュニケーションツールでもあると思いますが。
投稿: コメント | 2009.01.14 12:51
神田の古本屋さんは懐かしい話です。それらの本屋さんが変わったというお話しでもなさそうですね。ちょっと安心します。昔話ですけど、掘り出し物が時々出てくるような、ワクワクしながら覗きに行くという感じでがありました。あの辺りに、小さな小さな包丁のお店もありましたよね。とてもいい包丁を昔買ったことがあります。それと以前どこかで話した、餃子のお店とか、天麩羅屋さんとか、九段下のインドカレーの店とか。
今年は時間を作って出かけてみたいと思いました。
投稿: godmother | 2009.01.14 17:09
新年早々どうでもいいですけど、
>子供の潜在能力を101%引き出すモンテッソーリ教育
…って、どんだけ搾取すりゃ気が済むんだと。言いたいです。言いませんけど。
流石毛唐はやることが違いますなw
あと何気に今年はバブル馬鹿は相手にしない芳香性で祈念するんで、MSんのヘッドラインに絶望的なくらい毛嫌いされて大変満足な予感なんで、弁当翁さんも早めの毛嫌い@野ぐそなんか死んじゃえ攻撃で世の中ハッピーだぜ~、とか成っていただきたいです。差し当たってコメント不可にするとか。
翁さんの速やか且つ賢明なご判断を、宜しくお願いします。
投稿: 野ぐそ | 2009.01.14 17:12
よく整理されているのも考え物、ってことですかね。
読者論の紐を手繰っていけば、効率的に纏まった情報がくっついているけど、隣り合ってても異物がひしめく「本屋の本棚」文化も棄てがたく貴重。
古本屋のエロ本スペースにしてもそうなんですけど、グッと空気が変わるとはいえ、アソコはまだ他のスペースと地続きなんですよね。何となく連続性を感じる、他の買い物(本)と俗っぽく関連付けても良さそうな気がする。
同日に手に取られた本、ということで、その縁がズシンと印象付けられる。
本当に何と言ったらいいんでしょうね?渉猟してたら、視界の端に珍獣のシッポが動くのがちらついてフラフラと、みたいな?
バナーは何か露悪的というか(失礼)、ちょっと手間を感じる。よし、逝こうって言うのは、もう受容が出来上がってる気が。そういうんじゃなくて、アレアレ?何だこれって捉まっちゃった本が(路傍の色のキツイ、変な花にヤラれる感じ)、後の本との出会いに耐えるかどうかっていう、そんなのを…
スミマセン、まったく纏まりませんでした(汗)
投稿: 夢応の鯉魚 | 2009.01.14 18:43
郵政民営化の是非と村山談話の肯定と否定という点では、私と荒井広幸参院議員とは見解が異なりますが、私は、荒井議員が見識と志操の高い政治家であると思っておりますので、基本的な点で意見の違いがあっても、荒井先生を優れた政治家であると思い、彼を尊敬しております。
靖国神社に対する関心では、私とブロガーのfinalvent氏では態度が違いますが、finalvent氏が優れた神学者で思想家であると思っておりますので、私はfinalvent先生を尊敬しております。
この靖国神社の話で、よく見落とされることは、靖国神社が日清戦争、日露戦争の軍神を慰霊しているということだと思います。
日清戦争、日露戦争が正義の戦争、栄光の戦争とも思いませんが、出発点から侵略戦争であったとも思っていません。これは戦争の目的ではなく結果ですが、両戦役に勝利したために、わが国は治外法権の撤廃と関税自主権の確立に成功して一人前の国家になれたということです。
国家の命令で戦場に駆り出され、戦場で苦しい思いをして、日清戦争、日露戦争で戦死してくれた方々があったから、その後の独立国日本があるのであり、日清戦争、日露戦争で死んでくれた方々は誰のためでもない、その当時の国民だけでなく、今生きている国民とこれから生まれる国民のために苦しい思いをして死んでいってくれたわけです。これは第二次世界大戦の戦死者も同様ですが。
江戸時代末期の幕府の無能役人たちが諸外国と結んでしまった不平等条約の尻の始末をしてくれて、自国を真の独立国にしてくれるために戦死した戦死者の方々を粗末な扱いをしてしまったら、後の世に災いが起こることは必定であろうと思われます。
私などは、内閣総理大臣、外務大臣、官房長官には仮に外交上問題があるとしても、他の閣僚、国会議員、高級官僚、非番の裁判官は、べつに終戦記念日に限らず、自分の身分を明らかにして公人としてなり私人としてなり、本人の気が向いたときに随意に靖国神社に参拝すべきであると思っています。
天皇陛下のご親拝については、これは、天皇陛下が意思決定されるべきことであると拝察しておりますので、下民が騒ぎ立てるべきことではないし、天皇陛下のご親拝を促すような話を下民が公然とすることは不敬にあたるのではないかと思っております。下々が皇族に意見したり、皇族の優劣を論じたりすることは非礼であり、控えるべきことであると思います。
投稿: enneagram | 2009.03.06 08:49