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2009.01.30

[書評]ハチはなぜ大量死したのか(ローワン・ジェイコブセン)

 邦訳書のタイトル「ハチはなぜ大量死したのか(ローワン・ジェイコブセン)」(参照)からもテーマはわかりやすいだろう。2007年、米国や欧州の膨大な数の養蜂のミツバチが消失した。

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ハチはなぜ大量死したのか
 養蜂の箱のなかに死骸があふれ出したわけではない。ミツバチたちはある日箱を飛び立ち、戻らなくなった。それが比較的短期間に起きた。あたかもミツバチが蒸発でもしたかのように忽然と消えたに等しい印象を与える。
 が、死骸がまったく見当たらないというのでもない。箱のなかで死ぬ個体もある。この現象は蜂群崩壊症候群(CCD:Colony Collapse Disorder)と呼ばれている。
 CCDは実に奇っ怪な現象で、シャマラン監督「ハプニング」(参照)の冒頭でもエピソードとして使われている。

ミツバチが全米各地で姿を消している。
こんなことが起きる原因は?
誰も?
ハチの異変に興味ない?
見えない力が働いている。
何らかの攻撃のようだ

 もちろん、それはフィクションに過ぎない。そしてこの露悪的なフィクションは人間を比喩にしてこう続くのだが、案外その比喩はCCDの本質に関係するかもしれないのでもう少し引用しよう。

第一段階は言葉の喪失
第二段階では---
方向感覚の喪失
第三段階は---


 ミツバチたちもその言葉を失い、方向感覚を失い、そして死んだ。
 なぜ、多数のミツバチにそのようなことが起こったのか。その原因はなにか。
 科学に関心が薄い人でもこの奇っ怪な現象には関心を持つだろうし、その期待を本書に寄せるだろう。本書もそのことは前提としている。

 CCDは典型的な探偵小説そのもので、興味をそそる要素をすべて備えている。つまり、不可解な死、消えた死体、世界の破滅を招きかねない結果。その上、容疑者は山ほどいる。犯人の可能性を指し示す指はあらゆる方向に向けられ、なかには驚くようなことまでほじくりだされた。

 ではなにがその原因なのか。
 率直にいうと、私は本書を読んで、その答えを本書から得ることはかなり難しいと思った。そのこと自体がスポイラーになってしまってはいけないが、この難しさがこの問題の本質の一端に関係しているのだろう。間違いはなにかというリスト作って正解を見て頷くだけの知性ではわかりえないものがあるし、そこにこそ本書の面白さもある。
 どちらかというと難しい読書なので誤読もされるだろう。たまたま今週の週刊文春を見ると「業界騒然 ミツバチが大量死している」という記事があり、少し考えさせられた。

 ではこの原因は何か。ミツバチの体液を吸うダニ、携帯電話の電磁波から地球温暖化、ウイルスや伝染病など「容疑者」は様々に挙げられているがどれも決め手にかけるなか、同書が指摘するのは人間に無害で大気や地下水を汚染することもない「夢の農薬」、ネオニコチノイド系農薬。成分が作物内に染み込むため、これを食べた昆虫の神経中枢に作用。ミツバチの場合は作物の花粉を食べたことで麻痺し、CCDを引き起こす可能性が高いという。

 ネオニコチノイド系農薬がもっとも疑わしいのか。そう同書は指摘しているのか。記事は同書の出版元の文藝春秋なので週刊文春としても記事というよりは広告に近いのだろうが、この記事は必ずしも正確ではない。同書ではこう指摘されている。

フランスでは今でもイミダクプロリドとフィプロニルの使用を禁止している唯一の国だが、フランスのミツバチが、イミダクプロリドが現在もっとも広範囲に使用されているヨーロッパの他の国々より良い状態にあるとはとてもいえない。

 この他にもネオニコチノイド系農薬を原因とする説への反証例は同書で指摘されている。
 週刊文春の記事でもこれに続いて日本の識者の説明の後、原因は不明としている。

 結局のところ詳しい原因は不明。だが、行政がこのまま手をこまねいていれば、空っぽの食卓が待っている。

 そう結んでいるが、おそらく記者は事態をよく理解していないだろう。行政の問題とは言い難いことは同書を読むとわかるはずだ。むしろこの問題は、現代農業のあり方そのものが問われているので、行政的にそれを規制して解決するほど事態は解明されていない。また、食卓が空っぽになるのではなく、養蜂に依存する農業の壊滅をどう捉えるかという問題でもある。
 週刊文春の記事をあげつらうわけではないが、CCDは、我々が現在知りうる問題と解決のひな型(テンプレート)からは答えは見つかりそうにもない。
 むしろそうした状況のなかで、携帯電話の電磁波、地球温暖化、未知のウイルス、遺伝子組み換えといった一種の疑似問題につられてしまう現代の知性の頽廃の戯画にもなっている。その意味で、本書は、危機に面してテンプレート的な思考に陥ることの結果的な批判にもなっている。
 秋葉原で通り魔事件が起きると、それを現代日本の社会問題という意味付けを求めずにはいられないといった短絡的な思考のテンプレートにも似ている。気の利いた洒落のようにいうなら、未知の問題に精神の異常を来しているのは、我々のほうかもしれない。
 CCDについては、レイチェル・カーソンの「沈黙の春(Silent Spring)」(参照)を洒落たタイトルの本書オリジナル「Fruitless Fall: The Collapse of the Honey Bee and the Coming Agricultural Crisis(Rowan Jacobsen)」(参照)が出版される前だが、クローズアップ現代が取り上げたことがある。「アメリカ発ミツバチ“大量失踪”の謎」(参照)より。

いま、アメリカ全土で、養蜂家の所有するミツバチが大量に姿を消し、農業大国に衝撃が広がっている。アメリカでは農作物の3分の1をミツバチの受粉に頼っているだけに、食糧高騰に拍車をかけかねないと危機感が高まっている。科学者たちはこの異変を「蜂群崩壊症候群(CCD)」と命名。米農務省は緊急に研究チームを立ち上げて原因究明に乗り出した。明らかになりつつあるのは、グローバル化に伴う食糧増産のなかで、人間が自然に逆らった農業を営んでいるという実態だった。ミツバチの"大量失踪"は何を警告しているのか。研究チームの調査と各地で始まった対策を通して検証する。
(NO.2597)

スタジオゲスト : 中村 純さん (玉川大学ミツバチ科学研究センター教授)


 この番組は私も見たのだが私の印象では要領を得なかった。しいて言えば、大規模農業の受粉のために養蜂が利用され、ミツバチが単一の花粉しか食料として得られないために免疫が低下し、農薬やウイルス、カビなどに冒されたということだったが、ゲストの中村さんは、もっと単純にミツバチを酷使しているからでしょうし、管理の問題もあるでしょうといった感じで説明していた。
 先の週刊文春記事ではCCDが日本にも迫っているみたいな書き出しがあったが、同番組でも同書の補足でも日本の養蜂でのそうした状況は顕著にはなっていないようだ。また、北米でも一時期のCCDは最悪を脱したようでもある。
 結局、ミツバチの酷使が問題なのか? 
 本書では、CCDの謎に迫るにあたり、養蜂というものの歴史にも比較的詳しく触れているのだが、そもそも養蜂自体が、北米や欧州では基本的にセイヨウミツバチ、つまりアピス・メリフェラ(Apis mellifera)に限定されており、そのありかたもそれほど自然的な営みとは言い難いようだ。つまり、CCDが自然の異常という以前に、養蜂自体が自然に即しているとも言いいがたい。
 そうした点から、CCDについて同書で引用されているバリー・ロペスの次の言葉は奇妙な説得力をもつ。

 たいしたことじゃないだろう。生態学の見地から見れば、マメコバチのような地元の受粉昆虫が戻ってくる可能性を切り拓いてくれる現象ではないか。

 つまり、もともと北米の地に合わないからアピス・メリフェラが自滅しているのだということだろう。そしてその合わなさというのは、現代農業そのもの不自然さでもあり、さらにいえば、農業そのものが自然に合ってないのではないかということにもなるだろう。
 同書ではややこしい謎解きが三分の二ほど続き、残りの三分の一で、新しい養蜂の可能性や、農業と生態系はどうあるべきかについても模索が語られる。そのなかで、当たり前といえば当たり前だが、私がはっとした指摘の一つは、生態系の弱点として昆虫の受粉を見ていることだった。食料が結果的に植物に依存するかぎり、そのウィークポイントは確かに昆虫の受粉にあるだろう(すべての植物がそのように受粉するわけではないとしても)。
 著者は明確には述べていないが、CCDの現象をミツバチ個体に帰せられる問題ではなく、その集団的な知のレベルの発狂というか、集団的知のシステム的な崩壊ではないかと考察しているように思えたことも考えさせられた。
 集合的な知が、なんらかの理由でシステム的に崩壊していくということは、Web2.0と言われるインターネットの知のあり方にも関係しているのではないかと私は少し思ったからだ。我々はインターネットで知性を向上させているのではなく、CCDが暗示するような自滅に向かった狂気を育成している危険性ないのだろうか。

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2009.01.26

グアンタナモ収容所のウイグル人

 オバマ政権になったのでそれがチェインジ(取っ替え)ということだが、実際に何かを変えないといけないわけで、公約でもあったグアンタナモ収容所が閉鎖される。今朝の毎日新聞社説”オバマ外交 「公平さ」が不信解消のカギだ”(参照)が取り上げていた。


 米国の新政権が活発に動き始めた。オバマ大統領は就任から2日後に、ブッシュ前政権の「負の遺産」ともいえるグアンタナモ収容所の1年以内の閉鎖を命じた。クリントン国務長官のもとで中東とアフガニスタンを担当する2人の特使(代表)も決まった。
 まずは素早い対応を評価したい。閉鎖される収容所はキューバ・グアンタナモ米海軍基地にあり、拷問や長期拘束などが問題になっていた。オバマ大統領の決断は、中央情報局(CIA)の秘密収容所の閉鎖や「水責め」の拷問禁止と並んで米国の暗いイメージの一掃に役立つだろう。

 ということで毎日新聞としては、グアンタナモ収容所が閉鎖の意味は、「米国の暗いイメージの一掃」ということでイメージ戦略の一環らしい。所詮他国のことだし、そうかもしれないなと思った。米国民としては、イメージ戦略以外に安全保障の問題もありそうで、CNN”イエメンのアルカイダ系組織幹部にと、グアンタナモの釈放者”(参照)などからはそんな印象も受ける。

 米国防総省は最近、同収容所を出た60人以上が戦闘の現場に戻ったとの見方も示していた。 イエメンで活動しているサウジアラビア人はアリ・シリと呼ばれる人物で、米大使館近くで昨年発生した車爆弾テロなどへの関与が指摘される。アルカイダ系組織の作戦担当の幹部級になっているという。同組織がイエメンで出版する雑誌で、指導者の会見への同席も確認されている。
 アリ・シリは釈放でサウジアラビアへ送還されたが、同国の政府筋によると、再教育プログラムから脱走、イエメンへ向かったとみられている。

 すっかり過去の人、あるいはヒール・チェイニーの過去のコメントも掲載されている。

チェイニー前副大統領は先に「収容者を釈放すれば、彼らは戦場に戻る。米本土に移送すれば、憲法上の権利請求の問題が生じる」と対テロ戦争が終結するまで基地にある拘束施設の閉鎖は避けるべきだとの考えを示していた。ブッシュ前政権も過去に施設閉鎖を検討したことがあるが、移送先の問題などが障害となり断念していた。オバマ政権が閉鎖に踏み切っても同様の課題を抱えることに変わりはない。

 ヒール・チェイニーの予言その1、「彼らは戦場に戻る」は多少は当たったのかもしれない。
 ただ、問題は、予言その2、「米本土に移送すれば、憲法上の権利請求の問題が生じる」かなと私は思う。というあたりの報道があまり見られないので気になるし、ブログだしということでことで書いてみたい。
 グアンタナモ収容所の問題は、米国のイメージ戦略というより、私は単に人権の問題だと思う。そしてそこに米国は大きな問題を抱えていたのは事実だとも思うが、閉鎖がその解決策になるかはよくわからないが米国民の決断だろうし、その決断の余波を受けるのは他国の問題だろう。
 気になるのは、この非人道的な対処は治外法権的な部分があったのだろうということで、そのあたりは、ヒール・チェイニーの予言その2の含みにあり、米国に移送すると権利が主張できるようになるという点だ。彼はそれを嫌がったのだろうが、そういう発想も可能性としてはないわけではない。ただ、それをどこまで肯定的に見るかということだ。
 難しいのは、昨年10月のAFP報道”テロ容疑者収容施設のウイグル人17人、米連邦地裁が釈放命じる”(参照)のあたりだろう。

【10月8日 AFP】(9日一部修正)米連邦地裁は7日、キューバのグアンタナモ(Guantanamo)米軍基地内のテロ容疑者収容施設で拘束されているウイグル人17人を米国で釈放するよう命じた。政府関係者が明らかにした。


中国は米国に対し、この「テロ容疑者たち」を送還するよう求めていたが、米政府は送還された場合、ウイグル人たちが拷問される可能性があるとして拒否していた。

 さらに、昨年12月、共同”中国、米に独立派の引き渡し要求”(参照)より。

 中国外務省の秦剛副報道局長は23日の定例会見で、オバマ次期米大統領がキューバにあるグアンタナモ米海軍基地のテロ容疑者収容所閉鎖を公約していることに関連し「中国政府は(収容されている新疆ウイグル自治区の独立派組織)東トルキスタン・イスラム運動のメンバー17人の速やかな引き渡しを求めている」とあらためて述べた。
 ドイツなどが収容中のテロ容疑者受け入れの意向を米側に伝えているとされるが、副局長は「われわれはどの国が受け入れることにも断固反対する」と強調した。

 オバマ大統領はどのように考えているか。この問題の日本での報道がよくわからない。ブログ真silkroad?のエントリ”オバマ政権「グアンタナモのウイグル人の中国送還は想像できない」”(参照)では、英文のAFP”White House 'can't imagine' returning Uighurs to China”(参照)の一部を訳して伝えていた。余談だが、日本版のAFPではこの記事が見当たらない。なぜなのだろうか。

オバマ政権は木曜、グアンタナモ湾に留めおかれているイスラム教徒ウイグル人を中国に送り返すことは想像できず、迫害に直面している国家にはどんな収監者も送られることはないと言った。

「私はオバマ政権がウイグル人を中国に送還することを支持するとは想像できない。」匿名を条件である高官は言った。
「私たちは被拘束者を虐待するであろう国家には移送しない。」高官はオバマ氏がその「対テロ戦争」収容所を一年に以内に閉鎖することを求める大統領令に署名した数時間後に言った。

President Barack Obama's administration said Thursday it could not imagine returning Muslim Uighurs held in Guantanamo Bay to China and said no inmate would be sent to a nation where they may face persecution.

"I cannot imagine that we would support transferring the Uighurs back to China," said a senior administration official on condition of anonymity.

"We are not going to transfer detainees to countries that will mistreat them," the official said, hours after Obama signed an executive order requiring the closure of the "war on terror" camp within one year.


 オバマ大統領自身の言明ではないが、現時点ではそう期待してよいだろう。

 亡命したウイグル人の指導者ラビア・カーディルさん61歳は、「ホワイトハウスがグアンタナモのウイグル人を中国に送らず、また合衆国のグアンタナモのウイグル人に対する政策が変化していないと聞き、とても喜んでいます。」と言った。
 「私はホワイトハウスがさらに中国に東トルキスタンにおけるその人権状況を改善するように勧告する希望を表明します、東トルキスタンでウイグル人は極端に抑圧的な体制のもとに苦しんでいます。」
 ラビアさんはグアンタナモのウイグル人が合衆国に入国が許されることを求めつつ、付け加えた。

Exiled Uighur leader Rebiya Kadeer, 61, said she was "very happy to hear that the White House will not send the Guantanamo Uighurs to China and that the United States' policy on the Guantanamo Uighurs has not changed.

"I express the hope that the White House will further urge China to improve the human rights situation that exists in East Turkestan, where Uighurs suffer under an extremely oppressive regime," she added, appealing for those at Guantanamo to be allowed into the United States.


 なお、AFPはこう続く。

The Uighurs were living in a self-contained camp in Afghanistan when the US-led coalition bombing campaign began in October 2001. They fled to the mountains, but were turned over to Pakistani authorities, who then handed them over to the United States.

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中国を追われたウイグル人
亡命者が語る政治弾圧
水谷尚子
 当然ながら、ウイグル人を米国本国に移送すると、中国との対立を招くだろうし、米国内に移送するとこのウイグル人には米国での権利が発生することになるだろう。
 日本としては、この問題をどう考えるかなのだが、毎日新聞社説のようにそこは触れないでおくのが無難なところなのだろう。

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2009.01.25

英国大衆紙サンから報道された黒死病とテロの噂

 英国の大衆紙サンに掲載されていた話なので、日本で言ったら日刊ゲンダイとかのネタと同じかなとも思うが、その後の流れを見ているとそのまま消えていくわけでもなく、どうも奇妙な引っかかりがあるので、ざっと触れておこう。
 話は”Al-Qaeda terrorists killed by Black Death after the killer bug also known as the plague sweeps through a training camp”(参照)、つまり、黒死病によってアルカイダのメンバーがその訓練基地で死去していた、ということ。含みとしては、アルカイダが、黒死病の菌を使ったテロを狙っているうちに自らがその被害にあったらしいということだ。死者は40人ほど。
 基地についてはディテールがある。


The al-Qaeda epidemic began in the cave hideouts of AQLIM in Tizi Ouzou province, 150km east of the capital Algiers.

アルカイダ感染は、ティジウズー県(首都アルジェの150km東)で、AQLIMの洞穴隠れ家から始まった。


 アルジェでそしてペストというと、カミュの「ペスト」(参照)をつい連想してしまう。なので、逆にどういうことなんだろうと心にひかっかる。
 このネタだが、一応高級紙であるテレグラフのほうでも引用されていた。たとえば”Black Death 'kills al-Qaeda operatives in Algeria' ”(参照)がある。また、”Al-Qaeda cell killed by Black Death 'was developing biological weapons'”(参照)では、生物兵器の線を出していた。

It was initially believed that they could have caught the disease through fleas on rats attracted by poor living conditions in their forest hideout.
(当初は隠れ家の森の劣悪な環境で鼠の蚤から感染したかもしれないとも見られていた。)

But there are now claims the cell was developing the disease as a weapon to use against western cities.
(しかし、西洋都市で兵器として菌が培養されていたと言われている。)


 大衆紙サンから始まるこの話はそれ以外にはたいしたことはなく、黒死病をむしろ強調していた。英国では黒死病というタームは、それだけで恐怖をもたらすインパクトがあるのだろう。しかし、その他のソースを見ると、米政府では生物兵器ともペストとも見ていないという話もある。ただ、そのあたり米国側での意向もあるかもしれない。
 サンやテレグラフなど英国ソースでの黒死病への恐怖だが、これらの記事ではペストとしており、通説ではそうなのだが異説がある。ウィキペディアを見たら記載されていた(参照)。

2004年に英国で出版された「黒死病の再来」という本によると、当時の黒死病は腺ペストではなく出血熱ウイルス(エボラのような)だったという。北里柴三郎の命をかけた努力により抗血清でペスト等を治す方法はできたがエボラは有効な治し方は無くいまだに脅威があるといえる。

 同書の邦訳はあるのだろうか。ネットを見ると、滋賀医科大学動物生命科学研究センターのサイトに関連記事”中世の黒死病はペストではなくウイルス出血熱”(参照)がある。

 14世紀にイタリアで発生した黒死病はボッカチオのデカメロン、カミユのペストをはじめとして、多く語りつがれています。これは現在では腺ペストであって、ネズミが媒介するペスト菌により起きたものと考えられています。
 英国リバプール大学動物学名誉教授のクリストファー・ダンカン(Christopher Duncan)と社会歴史学の専門家スーザン・スコット(Susan Scott)は教会の古い記録、遺言、日記などを詳細に調べて「黒死病の再来」(Return of the Black Death , Wiley, 2004)を出版しました。彼らの結論では、黒死病はペスト菌ではなく出血熱ウイルスによるものであり、今でもアフリカの野生動物の間に眠っていて、もしもこれが現代社会に再び出現した場合には破局的な事態になりかねないと警告しています。その内容をかいつまんでご紹介します。


 ところで、著者らは英国の古い記録を詳細に調べて、この発生について興味ある考察を行っています。この際の症状は嘔吐、鼻からの出血、皮膚の突然の内出血、昏睡などです。解剖の結果では胃、脾臓、肝臓、腎臓の出血など、さまざまな病変が見いだされています。また、1656年から57年にローマとナポリでの解剖例では全身が黒ずんだ内出血に覆われ、腹腔をはじめ内臓が黒くなっています。これらの症状や解剖の結果は、これまでに信じられている腺ペストとはまったく異なっています。死亡は急速で、その前に内臓全体に壊死が起きている点が特徴的で、著者らはこれらがエボラ出血熱、マールブルグ病などウイルス性出血熱にきわめて似ているという意見です。

 BMJのサマリーは”What caused the Black Death? ”(参照)にある。
 日本では日本人が立てた業績に対する異説はついトンデモ説扱いされがちになるようにも思えるが、黒死病についてはその後、定説はどういう経緯を辿っているのか、わからない。再現すれば研究は進むだろうが、恐ろしい事態でもある。
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Return Of The Black Death:
The World's Greatest Serial Killer:
Susan Scott, Christopher Duncan
 ペストについては生物兵器への応用は日本も含めて検討されていた歴史があり、英語版のウィキペディア”Plague as a biological weapon : Plague (disease)”(参照)には簡素にまとまっている。が、不明なことも多く陰謀論のような印象もある。

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2009.01.22

[書評]出社が楽しい経済学(吉本佳生, NHK「出社が楽しい経済学」制作班)

 この本、「出社が楽しい経済学(吉本佳生, NHK「出社が楽しい経済学」制作班)」(参照)なんだけど、この手の経済学をわかりやすく説明しますよ本の類型としても、よく出来ているんじゃないかと思う。

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出社が楽しい経済学
吉本佳生,NHK制作班
 ただ印象だけど、たぶん執筆者や編集側が想定しているよりこの本の内容はレベルが高いので、昨今の乱造的なビジネス向けの新書より読みづらいかもしれないなという感じもする。もう一ついうと、コンセプトの「出社が楽しい」を意識して、現実に応用できそうなノウハウにフォーカスしているので、経済学的な思考の応用にはなるのだけど、発想のコアの部分は逆に理解しづらいかもしれない。このあたりは微妙。
 で、エントリ起こしたのは書評的な話というよりも、この本、現在放送中の同番組のテキスト的な意味合いがあり、その番組はどうよ、なのだが、これが、よいです。ワタシ的にはかなりグーな番組。そして、いよいよ次回、1月24日(土曜日)23:00-23:29には「比較優位」がテーマになる。これ、高校生以上は知っておくべき常識だと思うし、そんなの当たり前じゃんという人も多いと思うが、感覚として身についていないで変なこと言っている人も多いのも事実だろうと思う。
 「比較優位」の重要性については同書でも。

 大学の教員として、学生さんたちに経済学を教えてきた吉本さん。ミクロ経済学、マクロ経済学、国債金融論……経済学も結構難しいことばかり。正直なところ、卒業していく学生たちがどこまで身につけているのか怪しい(はず)
 そんな中、吉本さんが学生たちに言うのがつぎの言葉。「社会に出てからも覚えておくきっと役に立つことが2つある。『実質金利』と『比較優位』だ。

 ということで、「比較優位」がテーマのこの番組だけでも見ておくとよいのでは。幸い、番組は一回ごとにテーマが終わるのでこの回だけ見ていても大丈夫だと思う。厳密にいうと、比較優位の理解には前回の機会費用の理解があるとよいのだけど、番組の作りとしては配慮しているはず。余談だけど、先日のカンゴロンゴに突然「取引コスト」が出てきたけど、あれで理解できた人いるんだろうか。
 まとめると、今週の土曜日のそれは、みとけ、しっとけ、なっとけ、みないもの。
 番組全体の情報は、「出社が楽しい経済学」(参照)にあり、次回「比較優位」については。

前編「ボクの生きる道」
 オフィスで落ち込む新人社員・小山内。
同じ新人でありながら、社長賞をとった優秀な同期と比べてのこと。全ての能力で同期にかなわない小山内、彼の生きる道はあるのか?

後編「万物は流転する」
 ライバル社がレストラン事業から撤退したとの知らせ。ライバル社の状態が悪いのかと思いきや、必ずしもそうではないという。さらに、不思議なことに、ずっと小さな弁当事業は継続。ライバル社の真意はどこに?


 これがわかると世の中の見方が確かに変わると思いますよ。
 番組で演じているのは、スーパーエキセントリックシアター(参照)で、野添義弘(参照)が好演、というか、彼、私より一歳年下か。なんか乾いた笑いが出そう。

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2009.01.21

オバマ大統領の就任演説を聞いて

 オバマ大統領の演説が日本でブームらしい。声はセクシーだし……ということではないらしい。希望がわいてくるといった類のようだ。よいことなんじゃないか。ということで、就任演説(参照)も人気がありそうだ。
 なんとなく、ふーんと聞き過ごすような英語だったけど、気になる部分をいざ試訳してみたら、意外にむずかしいので、つい他の人はどんな訳を充てているのか、ちょっと並べてみた。


What the cynics fail to understand is that the ground has shifted beneath them - that the stale political arguments that have consumed us for so long no longer apply. The question we ask today is not whether our government is too big or too small, but whether it works - whether it helps families find jobs at a decent wage, care they can afford, a retirement that is dignified. Where the answer is yes, we intend to move forward. Where the answer is no, programs will end. And those of us who manage the public's dollars will be held to account - to spend wisely, reform bad habits, and do our business in the light of day - because only then can we restore the vital trust between a people and their government.

《finalvent訳》
冷笑家は、その寄り立つ地平が変化してきたことを理解できないでいる。過去費やしてきた不毛な政治談義はもう通用しない。我々が今日問うのは、我々の政府が強大か弱小かということではなく、それが機能しているかということだ。つまり、家族が適切な賃金を得る職業を見つけ、家計内で医療や介護が得られ、貶められることなく引退できるように支援することだ。可能なら我々は前進しようとするし、否定なら政策は行き詰まる。そして、公金を預かる者は、賢明に支出し、悪弊を正し、陽の差すところでその職務を遂行するよう、釈明義務を負い続ける。なぜなら、その時に限って、我々は、国民とその政府の間に不可欠な信託を復旧させることができるからだ。

《毎日新聞訳(参照)》
皮肉屋が理解できないのは、彼らの下で大地が動いたということだ。我々を余りに長期間、消耗させた使い古しの政治論議はもはや適用されない。今日、我々が問うのは、政府が大きすぎるか小さすぎるかではなく、機能しているかどうかだ。家庭が人並みの収入を得られるよう仕事を見つけ、威厳をもって引退できるよう助けているかどうかだ。
 答えが「イエス」の施策は継続する。「ノー」の施策は廃止する。公金を預かる我々は、説明責任を果たさなければならない。適切に支出し、悪い習慣を改め、誰からも見えるように業務を行う。それによって初めて、国民と政府の間の重要な信頼を回復できる。

《ダンコーガイ訳(参照)》
皮肉屋に理解出来ないのは、状況が根底から覆ったということです。我々にあまりに長い時間を無駄にすることを強いてきた、不毛な政治談義はもうないのだということを。政府が大き過ぎるか小さ過ぎるかはどうでもいいのです。重要なのは、それがうまくいくかどうかなのです。十分な仕事があるか。十分な給与が得られるか。十分な保証が手に入るか。それらを手助けしているか。答えがイエスなら、我々はさらに手を入れます。ノーならそこでおしまいです。そして我々のうち公金を預かる者たちは、賢くそれを使い、悪癖を改め、やるべきことをやる責任があります。我々だけが、国家と国民の間の信頼を取り戻すことが出来るのですから。

《朝日新聞訳(参照)》
 皮肉屋たちは、彼らの足元の地面が動いていることを知らない。つまり、これまで私たちを消耗させてきた陳腐な政争はもはや当てはまらない。私たちが今日問わなくてはならないことは、政府が大きすぎるか小さすぎるか、ではなく、それが機能するかどうかだ。まっとうな賃金の仕事や、支払い可能な医療・福祉、尊厳をもった隠退生活を各家庭が見つけられるよう政府が支援するのかどうかだ。答えがイエスならば、私たちは前に進もう。答えがノーならば、政策はそこで終わりだ。私たち公金を扱う者は、賢明に支出し、悪弊を改め、外から見える形で仕事をするという、説明責任を求められる。それによってようやく、政府と国民との不可欠な信頼関係を再建することができる。


 さらっと聴くとすらっとわかるようだけど、"care they can afford"とか訳すには微妙なところ。
 それにしても、いやはや、"because only then can we restore the vital trust between a people and their government. "の箇所は、こりゃ日本国憲法と照応しているわな、さすが日本国憲法は米国産だわなと思った(参照)。

Government is a sacred trust of the people,
 政府は国民による神聖な委託物(信用貸し付け)である。

the authority for which is derived from the people,
 その(政府の)権威は国民に由来する。

the powers of which are exercised by the representatives of the people,
 その権力は国民の代表によって行使される、

and the benefits of which are enjoyed by the people.
 だから、それで得られた利益は国民が喜んで受け取るものなのだ。


 国民と政府の関係というのは、trust、つまり信託ということ。
 で、と。
 なぜ就任演説のここに関心を持ったかというと、いやそこは、無理じゃね、と冷笑家の私などは思っているからだ。いや私だけでもない。ロバート・サミュエルソンも今週のニューズウィークのコラム”ベイビーブーマーという重荷”で触れていた。オリジナルの”Boomers Versus the Rest”(参照)は無料で読むことができる。

「子供たちのために○○しよう」……政治家が使う決まり文句のなかでも、これほど人々の心を動かす言葉はないだろう。子どもたちの将来の幸せのためにいま私たちが犠牲を払うべきだという言葉は道徳心に強く訴えかける。
 だからこそ多くの政治家がこの手の公約を掲げる。バラク・オバマも同じだ。「子供たちの未来を抵当に入れないために歳出を抑制すべきだ」と大統領選挙中、彼は繰り返し訴えた。1月15日のワシントン・ポストとのインタビューでも、彼は社会保障や医療保険の制度改革をあらためて公約した。
 だが悲しいかな、政治家が常に有言実行だとはかぎらない。
 オバマ政権下で、世代間の緊張や対立が起こるのは避けられない。

 Probably no political platitude is more invoked or more ignored than this: let's do it for the kids. Everyone recognizes the moral power of making sacrifices today for our children's well-being tomorrow. That's why most politicians embrace this promise, as Barack Obama has. "We know we have to get spending under control in Washington so that we're not mortgaging our children's future" was a favorite campaign line. Just last week, in an interview with The Washington Post, Obama again promised to overhaul "entitlements." But alas, politicians don't always practice what they preach.
 Generational tension, and maybe generational war, is an inevitable part of the Age of Obama.


 なぜ世代間対立が起こるかという理由は簡単で、高齢者が増えて若者が減るからだ、あー、もちろん米国の話だけどね。
 そして政治というは一般的に高齢者に有利になるものだ。

 だが高齢化社会では、若者より高齢者が政治的に優遇されるということは意外と認識されていない。アメリカ社会は今、未来ではなく過去に投資するというリスクを冒そうとしている。

What's less understood is that the political system favors the old over the young in this fateful transformation. We risk becoming a society that invests in its past.


 投資にはリスクはつきものだし、人はつい過去に投資するものだし。

 今後、若者達の稼ぎは高齢者に吸い取られることになる。

 What looms is a huge transfer of income from younger workers to older retirees.


 これも、もちろんアメリカ社会の近未来の予測ということに過ぎないが。
 そしてこの問題はどうなるのか、サミュエルソンに言わせると、オバマは矛盾するだろう、と。

 これまで子供にも高齢者にもいい顔をしてきたオバマは今、ジレンマに陥っている。選挙運動中、オバマは「子供たちの将来の未来のために……」と説く一方で、受給開始年齢の引き上げによって社会保障やメディケアにかかるコストを減らすという提案に反対した。つまり高齢者への公約の一部をほごにしないかぎり、子供たちへの公約を守ることはできないのだ。

Beyond reassuring speeches, Obama hasn't confronted the conflicts. He's been all things to all people. Rhetorically, he's for the children. But he's also for the elderly. In the campaign, he opposed proposals for reducing the future costs of Social Security and Medicare through higher eligibility ages and lower benefits. Obama is in a box of his own making; he cannot fulfill his promises to children without repudiating some promises to the elderly.


 とはいえ、それは高齢化するアメリカ社会のことだ。
 それに、希望の星、オバマ大統領なら、なんとかするのでしょう。
 冷笑家は歴史は繰り返すというし、二度目は喜劇だともいう。だが、私はちょっと冷笑家をやめて、歴史は繰り返さないかもしれない、という可能性も考えてみたい。

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2009.01.18

ポークビーンズ

 久しぶりにレシピというか。
 ポークビーンズは、英語だとPork and beans。キャンベル缶にもそう書いてあるし、英語のウィキペディア(参照)にもそうある。
 どのような食べ物かというと、ポークは豚肉、ビーンズは豆、なので、豚と豆を煮たもの、なのだが、実際にはトマトソースの豆煮込みみたいに見える。缶詰のなかのどこに肉があるんじゃ、とつい探したくなる。ヴァン・キャンプの缶でもそう。アオハタの缶のもある。というか、ポークビーンズというと缶詰のイメージが強い。
 似たものにチリビーンズというのがある。チリ、つまり唐辛子で辛くしてあるのだが、私がこれを知ったのは刑事コロンボの番組なのだが、どうもあのときコロンボが食べていたのは、チリコンカン。日本語のウィキペディア(参照)だと。


チリコンカーン(chili con carne、チリコンカン、チリコンカルネとも言う。通称"チリ"とも。)は、代表的なテクス・メクス料理のひとつ。メキシコに近いアメリカテキサス州が発祥とされる。

水に戻した豆(金時豆やエンドウマメなどを用いることが多い)を柔らかくなるまで煮て、そこに牛や豚の挽肉、タマネギ、トマト、チリパウダーなどを加えて煮込んだ煮込み料理。シチューの一種とされることもある。

豆ありをチリビーンズ、豆なしを単にチリと呼ぶ場合もあるが、厳密に定義されているわけではない。豆なしのものはホットドッグにかけてチリ・ドッグとしたり、トルティーヤで挟んでタコスとして食べることがある。


 ということで、豆なしもあって、それを「チリ」と呼ぶらしい。とすると、コロンボが豆なしでもいいよみたいなことを言っていたのと辻褄が合う。
 英語のほうではこう(参照)。

Chili con carne (often known simply as chili) is a spicy stew made from chili peppers, meat, garlic, onions, and cumin. Traditional chili is made with chopped or ground beef.

 ということで豆は強調されていない。チリだけだと、豆は重要ではない。そして、とすると、チリビーンとポークビーンの一番の違いは辛みだろうか。
 ところで、チリビーンズを私が初めて食べたのは、ウエンディーズだった。今サイトを見ると「チリ」と書いてある。最初に食べたのは大学生のときだと記憶しているのでそのあたりも調べてみると、ウェンディーズの日本創業は1980年の銀座ということなので、記憶違いでもなさそうだ。最近はウェンディーズに行ってないのでわからないがあのころは、ハンバーグもそうだたけど注文がめんどくさくて、チリビーンでもオニオンやチーズがチョイスできた。で、それがけっこう私の好物になっていた。
 さらに沖縄暮らしではよく缶入りのポークビーンズやチリビーンズを食べた。米人のBBQでチリビーンズをステーキソースにしていて、あれはうまかったなぁという記憶もある。ベイクトビーンズ(参照)の発想なのだろう。
 さて、ポークビーンズの作り方なのだが、よくわからない。もちろん、ネットにはいろいろレシピがある。英語でもあるのだけど、よくわからない。どうも御馳走にしたり、缶から作ったりとかで、どうもシンプルではない。
 さきのチリコンカンの日本版ウィキペディアでは「金時豆やエンドウマメなどを用いることが多い」とある。そうか? 英語ウィキペディアのポークビーンズの説明ではレシピ関連で豆についてこうある。

The recipe for typical American canned pork and beans varies considerably, but generally consists of navy beans stewed with pork or rendered pork fat.

 navy beansですか、それってとリンクがあって見ると、Common bean(参照)に飛び、ようするにインゲン豆だ。まあ、スペイン料理とか考えるとそれもわからないではないのだけど、大豆でいいんじゃないのかな。
 作り方のほうはトマトソースなのだけど。

At present, pork and beans is usually also stewed with tomatoes, but this is a 19th century development.

 原形はかならずしもトマト煮ではなかったようだ。その他、いろいろ調べてみてもよくわからない。なんか歴史に関係しているので専門書がありそうだが。
cover
スロークッカー
 というわけで、ほいじゃ、私が推測して作ってみよう。当然ながら、当ブログでのレシピにありがちで、野蛮で原形的で簡単で、そしてまじうまいやつということで。
 必要な調理機材はスロークッカー(1万円はしないです)。二人前か三人前というか、二食分というか。

材料


  • 大豆(乾燥したもの) 150g (300g単位でよく売っているやつ)
  • 豚肉 100g~200g (部位はなんでもいい。脂肪が多いほうがよさげ)
  • ケチャップ 200g~250g (500gのがあればその半分くらい)
  • コンソメ 適量 (マギーだと1キューブくらい)
  • 水  3カップ
  • あく取り紙 (100円ショップとかに売ってる)

作り方

  1. 大豆をさっと水で洗って水を切る
  2. スロークッカーに材料を全部入れかきまぜる
  3. あく取り紙を乗せる
  4. LOWにして8時間煮る

cover
スロークッカーでつくる
はじめてレシピ
材料を入れたら鍋におまかせ!
 そんだけです。豆も肉も軟らかく煮えて、ワタシ的にはかなりうまいです。
 しいていうと、煮た後、一旦切って冷まして煮直すと味がしみてもっとうまい。
 8時間煮るってどんだけと思う人がいるかもしれないけど、これ、寝る前にがしょっとやっておけば、朝に出来ているということ。

Q & A
 乾燥した大豆を戻しておく必要がないのか? それが、ないですね。
 味付けはそれだけでいいのか? いやこれで十分。
 豚肉は炒めておくとかしないの? ご自由に。

alert

追記
 インゲン豆の系統はスロークッカーの弱が80℃だと毒性が残る可能性があり、100℃の10分の継続過熱が必要になります。
 ⇒厚生労働省:白インゲン豆の摂取による健康被害事例について(参照
 ⇒Disadvantages : Slow cooker - Wikipedia, the free encyclopedia(参照
 ⇒Slow cooking red kidney beans : Cooking safely with slow cookers and crock pots(参照

追記
 レシピを改良しました。

材料


  • 大豆(乾燥したもの) 150g (300g単位でよく売っているやつ)
  • 豚肉 100g~200g (部位はなんでもいい。脂肪が多いほうがよさげ)
  • 砂糖 大さじ2
  • 水  3カップ
  • あく取り紙 (100円ショップとかに売ってる)
  • ケチャップ 100g~220g (適量で)
  • コンソメ 適量 (マギーだと1キューブくらい)

作り方

  1. 豚肉を軽く焦げ目がつく程度に炒める。
  2. 大豆をさっと水で洗って水を切る
  3. 水3カップに砂糖大さじ2と大豆150gをスロークッカーに入れかきまぜる
  4. あく取り紙を乗せる
  5. LOWにして6時間煮る
  6. 水気を調節し(多すぎたら少し減らす)、ケチャップとコンソメを入れて別鍋で3分くらい煮る

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2009.01.15

それってとにかく説明体系としての進化論や脳科学のような気もするが

 NHKスペシャルの「シリーズ 女と男 最新科学が読み解く性」(参照)という3回シリーズの番組があり、すでに2回まで放映され、私も録画したのを見た。面白いといえば面白かった。特に西田尚美が好演という印象だった。
 1回目は”惹(ひ)かれあう二人 すれ違う二人”(参照)ということで、こんな話から。


男女はなぜ惹かれあうのか。脳科学はいま、恋のメカニズムを解明しつつある。その中心はドーパミンという脳内物質。快楽を司るドーパミンの大量分泌が恋する二人の絆となっているのだ。ところが脳科学は同時に、皮肉な状況も浮かび上がらせている。高い代謝を要求するドーパミンの大量分泌は身体への負担が大きく、長く続かない。そのため、“恋愛の賞味期間”はせいぜい3年ほどだというのだ。

 まあ、よくある話だ。以前、「愛はなぜ終わるのか―結婚・不倫・離婚の自然史(ヘレン・E・フィッシャー)」(参照)も話題になった。と思い返すにこれ1993年。もうそんなに経つのか。そういえば草思社って文芸社の子会社になったのだったな。フィッシャーはその後どうしているかなと見るとに、「女の直感が男社会を覆す―ビジネスはどう変わるか〈上〉」(参照)、「女の直感が男社会を覆す―恋愛、家族はどう変わるか〈下〉」(参照)がある。あ、これもあるな。「人はなぜ恋に落ちるのか?―恋と愛情と性欲の脳科学」(参照)。番組のほうもこれらを読んでべたに企画したんじゃないかなという感じだった。
 それと。

しかし、いまの男女関係は子育てのためだけにあるのではない。そこで、男女関係はどうすれば長続きするのかという科学的な探求がさまざま進められている。アメリカでは30年に及ぶ家族の長期研究を通して、長続きしない男女関係では、男女差が大きな障害になっている事実が浮かび上がってきた。

 とういところで、ゴットマンの話が出てきて、これもあれだ。「結婚生活を成功させる七つの原則(ジョン・M. ゴットマン, ナン シルバー)」(参照)や「「感情シグナル」がわかる心理学 人間関係の悩みを解決する5つのステップ(ジョン・ゴットマン)」(参照)。というわけで、どうもNHK側の作りの思い入れが強すぎるというか、邦訳書文化の延長みたいな感じの既視感が多かった。
 このあたりの最新話題は、そのスジの識者というか専門家の示唆をきちんと聞いて、古げな邦訳書とは違った取材をしてもよかったんじゃないかなとも思ったが、どうなんだろう。ただ、映像で見ると思いを新たにする面白さはあった。たとえば、ゴットマン博士キッパを被っていましたな。キッパとは違うのだろうか。へぇと思った。一応学問だから、ユダヤ教的な思想とは違うのかもしれないけど、そういえばエリスとかセリグマンとかもユダヤ人だし、なにか共通の夫婦観みたいなものがありそうな印象はあるかな。
 話を戻すと、そうした、邦訳ベストセラーでお馴染みの話で、さらに、なぜそうなのかという説明なのだが。
なぜ4年程度しか恋のシステムはもたないのか。それはそもそもの起源と深い関係があると考えられている。もともと恋愛システムは、人間の子育てのために発達したという。二足歩行と脳が大きくなったために、人間の出産・育児は他の類人猿に比べても極端に負担が重いものになっている。そのため、子どもが確実に育つよう、いわば夫婦で協力して子育てするという仕組みを発達させたと考えられるのだ。

 とか。

こうした男女の違いは、長い狩猟採集時代の遺物ではあるが、無意識のなかに深く根ざしており、日常生活のなかで深刻な影響を与えやすいという。違いをちゃんと意識して、相手の気持ちを理解する努力が欠かせないのだ。

 とか。
 見ていて、いや我ながらオッサンになったなと思うけど、つい、そ、それ根拠レス、それ違うだろ、とか思わずツッコンでしまった。
 進化論は正しいかみたいなネットで愉快なお話はさておき、進化論がこの手の説明体系の物語に利用されるっていうのは、どうなんだろ。それをいうなら、脳もそうだな。ぶっちゃけ、人間行動とかって、進化論とか脳を持ち出したお話をでっちあげると、それが科学っぽくなるんじゃなかろうか。それって、進化論とも脳科学とも違った、微妙な逸脱なんじゃないか。
 とか思う人はいないのかと思っていたら、今週の日本版ニューズウィークにサイエンス担当のシャロン・ベグリーのコラム「まちがいを認めない学者の誠意(On Second Thought)」があって、ちょっとほっとした。例によって原文は無料で読める(参照)。
 学説が否定されても科学者は考えを考えを変えないものだみたいな話なのだが、例が面白い。例よって邦訳はちょっと変なところがあるが。

 最も興味深いのは、進化心理学を推進してきた科学者たちの転向だ。この学問は、人間が今も石器時代に繁殖の成功に役立つ機能を果たした遺伝子を持っていると仮定する。男性は遺伝子的に気まぐれで、女性は内気であり、男性は女性をレイプし、裏切った女性を殺す生物学的性質がある、と考える。

The most fascinating backpedaling is by scientists who have long pushed evolutionary psychology. This field holds that we all carry genes that led to reproductive success in the Stone Age, and that as a result men are genetically driven to be promiscuous and women to be coy, that men have a biological disposition to rape and to kill mates who cheat on them, and that every human behavior is "adaptive"—that is, helpful to reproduction.


 さらに、ピンカーとか出てくるあたりが愉快。

 しかし、ハーバード大学の生物学者マーク・ハウザーは、言語や道徳、その他の人間の行動理由が繁殖における優位性にあるという説には証拠が「欠けている」ことを認めた。著名な進化心理学者スティーブン・ピンカーも、多くのヒト遺伝子が想像以上に速く変化していることを認めた。

But as Harvard biologist Marc Hauser now concedes, evidence is "sorely missing" that language, morals and many other human behaviors exist because they help us mate and reproduce. And Steven Pinker, one of evo-psych's most prominent popularizers, now admits that many human genes are changing more quickly than anyone imagined.


 つまり、男女の差とかを進化論的に説明するっていうのは、ただの、フカシ、なんじゃないの。
 それと、ピンカーの邦訳書の話は、御大がすでに転向してんじゃないの。
 とか思った。

脳機能に影響を及ぼす遺伝子が高速で進化しているとすれば、石器時代の遺伝子が存在するという前提も見直す必要があるかもしれない。

If genes that affect brain function and therefore behavior are also evolving quickly, then we do not have the Stone Age brains that evo-psych supposes, and the field "may have to reconsider the simplifying assumption that biological evolution was pretty much over" 50,000 years ago, Pinker says.


 邦訳のほうではピンカーの明記はないけど、まあ、現存の人類ってこの5万年くらいの進化の産物かもしれない、っていうか、脳とかに関連していうと。栄養吸収とか代謝とかはそうもいかないだろうけど。

 それにしても、人間は本質的に原始人と変わらないという説が長い間支持されたのはなぜか。「科学の世界でも」と、神経学者ロジャー・ビンガムは言う。「魅力的なストーリーはときにデータに勝る」

How has the view that reproduction is all, and that humans are just cavemen with better haircuts, hung on so long? "Even in science," says neuroscientist Roger Bingham of the University of California, San Diego, "a seductive story will sometimes … outpace the data." And withstand it, too.


cover
神々の沈黙
意識の誕生と文明の興亡
ジュリアン・ジェインズ
 というわけで、人類の脳機能の高度化は、けっこう最近のことかもしれないというか、それって進化というより、特定の脳機能の一時的な定着みたいなものかもしれないなとも思うが。っていうか、ジュリアン・ジェインズが微妙に正しいのかもしれん。


追加(2009.3.18)
 ピンカーはペグリーの記事に苦情を述べていた。日本版ニューズウィーク(3.25)より。


人間の心理は子諾の環境の中ではぐくまれたものに加え、現代の環境に適応して変化すると思われるからだ。
 ペグリーはこの結論を曲げて解釈し、私が「転向」したと決めつけた。さらにペグリーは、「すべての心理的特性は環境で変わる」という仮説を、あたかも私が信じているかのように書いている。

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2009.01.14

本屋が変わったなぁと思った

 先日九段下あたりを歩いていたら歩道に警官が集まっていて通れませんと言われた。困惑した。なんだろと思っているのは私ばかりではなく、なんとなく、なんだなんだの小さな人集りができている。私も気になって、そこいらにいる人の立ち話をそれとなく聞いていたのだが、爆弾だとか靖国神社とかそんなキーワードがあり、要するに私には関係ないな、桑原桑原と思って回り道したのだが、そういえばと神田の古本屋街に回ってみた。自分がいままでまるで関心をもったことのない領域のある種の本をちょっと調べてみたいと思っていたのだった。
 神田の古本屋街を歩くのは別段久しぶりでもないのだが、意外と神田で本屋の中に入るということはなくなったなと思った。もちろん、私も本好きにありがちな行動だが歩道に並んでいる古書店の店頭の本のツラなどはよく見るし、のらくろの昔の本とかめっけて買うかなとか立ち止まって考えることもある。学生時代も沖縄出奔前も終日この町をしらみつぶしに見て歩いたものだったが、あのころの自分はどうしたのだろう。そういえば知人が構えていた事務所とかどうなかったかなとか、町並みを歩きながら懐かしく思った。
 今回は書泉と三省堂に入ってみたのだが、お目当ての本がまるで無かった。それ以前に、うぁ売り場が狭いなと驚いた。実際に狭いのか記憶と照合してみるとそうでもない。三省堂のほうもそういう印象があった。もちろん建て替え後の三省堂なのだけどね。
 しばしそういう思いの自分に呆然としたものの、これじゃ埒があかないと神保町から都営で新宿に出てジュンク堂に回ったのだが、その過程でようやく気が付いた。狭いというのはジュンク堂と無意識に比較していたわけか。東京に戻ってから見る本屋といえば、池袋のジュンク堂と新宿のジュンク堂、それと紀伊国屋くらいなものだな。しかも、ジュンク堂についてはあらかた出かける前にネットで蔵書の状態を下調べしたりする。
 どうして自分はこうなっちゃったんだろとジュンク堂に着いてから考えた。もちろん、ジュンク堂にはお目当ての本はあったし、その関連書もわかって、一通り欲しかった情報のメンタルマップみたいのもわかったのだが、それでも10年以上前の本とかはないし、アマゾンで古書の状況を照合したくもなった。というあたりで、いつからそんなふうに書籍を考えるようになったのだろうかと、我に返った。
 そういえば、昔は紀伊国屋など毎日に近く寄って舐めるように書架を見ていたので、店員くらい書籍の状態を知っていたものだ。つまり本屋に自分がアクセスするという行動それ自体に意味があったし、その行動でしか知り得ない、ある体系的な知識のようなものがあったものだった。いつからか、それが、なんというのだろう、フラットな、電子テキスト化された情報になったような気がする。本という物じゃなくて。
 そういえばの続きで、私はオープン書架の図書館で学部生時代短期だったがアルバイトをしていたこともあった。もともと図書館が好きでうろうろしているのと書棚の整理をしているのとたいして変わらないなということでもあったが、バイトのおかげで若干の図書館学の勉強にもなったし、なんというのか人がどういうふうに書籍を手に取るのか感覚的にわかったように思えた。ああいう感覚って、現代の若い人は持てるのだろうか。持てないわけもないと思うし、それが重要だと言いたいわけでもないのだが、もどかしい感じがする。
 物思いだけで疲れた感じがしてジュンク堂で休んで、そういえば、古書というのも大きな存在になったと思った。アマゾンでも古書が充実しているようになったが、ようするにネットのおかげで探してカネだせばたいていの古書は見つかるようになった。学生時代に読みたかったけどなんとなく機会を逸したような本でも、思い出せば入手できる。そして購入して読む。不思議なものだ。選んだ古書は面白く、読めば新鮮に感じられもする。
 ブログでは、ここでもそうだが、書籍にアフィリエイトコードを貼ったりするし、なんというのか書評ブログみたいのもあるが、たぶん儲けというかビジネス的には、エントリでは新刊書を回したほうがいいのだろう。そういえば年末、2008年に読んだベスト本リストというエントリもよく見かけたものだった。それが悪いわけでもないし、出版業界や本屋は新刊書を回していかなくてはならないのだろうが、人が読むべきというか人が書籍に出会うというのとはなにか違うように思う。本屋でないと本に出会えないとまでは言わないが。
 神田の古本屋街を迂回しているとき、ふと、あのあたりにはエロ本屋があったっけとか思い返したりもした。当時はビニ本と呼ばれていた。気取るわけではないがあまりご厄介になったことはないが(高かったし)、なんというのかこの手のアングラ・エロ本というのはそれなりに戦後の歴史そのものという部分もあったに違いない。エロ本はあまり見て無いというのに続けていうのもなんだが、ヌード写真に盲腸手術の跡なんていうのも、見かけなくなったな。縦に切らなくなったからか手術が少なくなったのか、画像処理で消してしまうのか……いや、それ以前にヌード写真とか見なくなったな、俺。ああいう世界もずーんとデジタル化されちゃったということなんだろうか。

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2009.01.12

成人の日に

 さっきNHKの「爆笑問題のニッポンの教養 成人の日スペシャル」(参照)という番組を見ていた。爆笑問題(漫才師)、立花隆(評論家・ジャーナリスト)、 糸井重里(コピーライター)、矢口真里(タレント・歌手)という面子。番組は現代らしく、40歳過ぎの面々が一様に、20歳になったからといって大人になったという自覚はなくて、そう思えたのは、40歳過ぎてから、人を雇うにようになってから、子どもができてからみたいな話だった。爆笑問題が二人とも40代半ば、糸井が60歳、立花が68歳で、矢口が25歳ということで、そうだな、俺みたいな50代はなかったが(今年で私は52歳になる)。
 話の流れで、糸井さんにお子さんができたのはというのがあって、1981年と聞き、ふーんと思った。33歳くらいにできた子で今27歳くらいになるのだろう。その話はそこでぷつんと切れたが。
 番組を見たのは偶然だったが、今日街中で成人式の女性をずいぶん見かけたこともあっていろいろ物思いみたいのはあった。新成人についての私の率直な印象は、げ、でかいな、この女、というのと、首に巻いた、あれなんというのか、ショール? 随分派手だな、くらいか。もちろん、着物も派手だし、私が二十歳ころの着物となんか違うようにも思ったし、それをいうなら所作も違うのだが、時代の変化にどうこういうのも野暮というものだろう。
 成人の日といえば、新聞社説でもまいどながら新成人の若者に語るふうの話がある。今年は平成生まれが二十歳になるというのだから、その趣向もわからないでもない。私はといえば特に、新成人に語ることなんかない。ああいうのは、それなりに社会的に成功した人が、若者に私たちのようになれよ、と、フカすものなんで、私のような人生の失敗者には出る幕もないのだが、が、というのは、こう言うとなんだが、たぶん、新成人の多くは、普通の意味では社会的には成功しないだろうと思う。どっちかといえば失敗したな俺の人生って、50歳くらいに思うようになると思う。もちろん、結論を先にいうと、その途中くらいで、人生って別段社会的な成功とか失敗ってもんじゃないなという転機はあるものだけど。
 ということをちょっと書いてみてもいいかもしれないなと思った。このねじくれた精神のブログを新成人が読むとも思えないけど。
 52歳にもなる私だが、20歳の成人の日のことはよく覚えている。地方行政が用意した集会で中学の同級生とすげー久しぶりにあって驚いたものだった。つうことは、15歳からの5年間というのはすげー長い日々だったという実感がある。恐ろしいことに、その5年間と、それからの30年ン年とどっちが長いかという、印象としては前者だったりする。つうことは、人生は短い。唖然とするね。
 会合では国歌斉唱だったか君が代斉唱だったかでご起立をと言われてたが、たぶん私だけ座っていた。口パクもしなかった。バカじゃね、君が代は国歌でもなんでもねーよ、法的根拠もないし(当時はなかった)、歌詞の来歴もわからねー(典拠はないはず)、メロディーも明治政府が擬古的に作り直したもん(最初外人に作らせてこけた)で伝統も歴史もねーよ、けっ、とか思っていたし、私は全共闘世代ではないけど、戦後民主主義教育をべたに受けた真っ直ぐ少年でもあった。そんなもの。
 それからとある著名人の講演があった。今でも覚えているのは、そのオッサンが自分の人生を実現するのに子どもを作らないと決めた、そういう人生もあるのだと熱弁していたことだった。もちろん、何言ってんのこのオッサンと思っていた。今思うと彼は今の私の年だった。そう考えると、今頃、彼の心情がわからないでもないなと思うことはあるにはある。彼は社会的に成功した人だったし、その後の人生も成功と言えるだろう。今もご健在だし。ただ、お子さんはその後もなかっただろうな。
 成人したという記憶といえばそのくらいか。私が酒を飲んだのは20歳以降だったと思う。家にある酒をちらと味見くらいはしたことはあったかと思うが、飲むというほどでもなかったと記憶している。そして、それから人生に二度くらい悪酔いした。三度くらいだったかな。でもそのくらい。酒で吐いたことはない。酒に合う体質でもなかった。遺伝的なものだろう。が、今思うと、それでもひどい酒飲んでいたなと思う。若いとまずい酒飲めるよなと思う。というあたりで、自分はもう若くはない。いつまでたっても私の心性は中二病みたいなところがあるけど、それでもどっかで、えいやと死の方向の橋をなんどか渡ってしまった。
 人生厳しいなというのの最初は25歳で人生に蹉跌したことだった。ああ、俺の人生終わりだなと思った。実際人生終わりだったと言ってもいいだろう。自分が社会的な失敗者になったのは、あそこで決まっていたなと思う。あの感覚は、なんというか、20歳過ぎていつになったら自分の本当の人生が始まるんだろうと思っていたのに、緞帳が上がったら終わっていたみたいな感じだった。へぇ、人生って終わった光景を見ることから始るんだと思った。イヤミで言うわけじゃないけど、これはたぶん少なからぬ人が普通に経験することだと思う。
 それから社会的にはいてもいなくてもいいような些細な人間として生存していたのだがそれなりいろいろあったり死にかけたりした。つまり、そういうのが自分の人生だったし、運命だった。
 夏目漱石を思うと50歳まで自分が生きているとはあのころ到底思えなかったし、それを言うなら40歳に達しなかった太宰治の享年も越えたのが、へぇと思ったし、三島由起夫の年も越えた。へぇ、俺って生きているんだ、ウソみたいじゃね、と。そうした、なんというか道標のように思った人の享年を越えて思った。
 新成人の人も、大半はたぶん50歳くらいまでは生きている。邱永漢が、人間というのは酷使しても50歳までは生きるものだなと書いていたが、それはそうかもしれない。無謀な人はそのあたりで消えるが、そのくらいまでは生きる。
 新成人のなかには、あと30年も生きるなんて悪夢だと思う人もいるだろうけど、そんなものだ。二回くらい大きな蹉跌があって、それを越えて、ぼろぼろになって、へぇ、自分ってもう子どもじゃないなって悲しい感じがする。泣くかもしれない。私は泣いたな。そして、ああ、自分にも20歳だったころがあったなと思い返した。そう思うときに、どんなにみじめでも20歳の日々はそれなりに、というか、自分にとっては大切ものだったと確認する。それがつまりは、自分が自分であることなんだろうし、自分で自分の運命を了解しつつ生きることになる、というか、20歳以降はふつうにそうなるだろうと思う。

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2009.01.09

ガザのトンネル

 ガザ地域にはエジプトに通じるトンネルがある。かなりあるようだ。フランスPlaypodによる2006年作成「Rafah:One Year in the Gaza Strip」を放映したNHKの番組案内の話ではこう(参照)。


パレスチナ・ガザ地区とエジプトの国境の町ラファには、パレスチナ人が、イスラエル軍との戦闘に備え武器を密輸していた秘密トンネルがあった。そのトンネルが、2005年9月にイスラエル軍がガザ地区から撤退した後も存在し、頻繁に使われている事を、国境地帯に潜入したフランスの取材班が突きとめた。

 これは「フランスの取材班が突きとめた」というほどでもなく、他でも報道されている。1日付けBloomberg記事「ガザ住民 命の地下トンネル ガソリン・家畜・iPodも密輸」(参照)ではこう。

 140万人のパレスチナ人が暮らすガザ地区では、イスラエルによる封鎖が続いている。無数に掘られたトンネルは、ガザ地区住民の生活を支える生命線だ。トンネルを経由してガソリンや食肉、洗濯機からiPodまでさまざまな品物が密輸される。
 ◆流入物資の90%担う
 「トンネルなしでガザ地区の経済は成り立たない」とガザ市のエコノミスト、オマル・シャバン氏は話す。「経済が闇市場に完全依存していると非難されるが、国境が封鎖されればこうならざるを得ない」

 ライフラインでもある。が、先の引用にもあるように対イスラエルの武器の流入口でもある。

地下ネットワークは、同地区を実効支配下に置くイスラム原理主義組織ハマスの武器調達にとって欠かせない役割を担っている。

 武器の利用について、先のPlaypodではこうも指摘している。

ラファではイスラエル軍の撤退後、パレスチナ人住民の地縁血縁ごとの派閥間の抗争が激化。トンネルを介して運ばれる拳銃や弾丸などは、皮肉なことに、今度は身内同士の戦いに使われていた。部族間で起きた殺人の和解交渉の現場では、息子を失った父親の脇で、部族の自警団十数人がカラシニコフを手に待機。住民は「パレスチナ警察には何の力もない」と、治安が良くなる兆しのないことを嘆く。

 「パレスチナ警察」が、ファタハを指しているのかハマスを指しているのか。前者だろうとは思う。
 これがイスラエル空爆の目的にも関係しているという推測をBloomberg記事が書いている。

 「空爆の標的の一つにトンネルが入っていることは間違いない。イスラエルは、エジプトとガザ地区の行き来を遮断したいと考えているだろう」とテルアビブ大学の軍事アナリスト、イフタク・シャピール氏は指摘する。

 そうなのだろうか。というか、国際政治ではそれがどのくらい、ガザ侵攻において重要性があると見なされているのか。
 また、ガザのトンネルについてPlaypodとBloomberg記事からは、ハマスや武器そのもの提供者についてはよくわからない。が、トンネルなんだからガザ側の向こうから武器が来るわけで、その地がエジプトであることは間違いない。
 では、エジプト政府がハマスに武器を提供しているのかというと、ガザ和平の仲介を買おうとしているエジプト政府がこれに関与していると見るのは、少なくとも表面的には難しい。
 では、誰が武器を提供しているのか。
 ニューヨークタイムズ”Incursion Into Gaza”(参照)が参考になるだろう。和平条件についての文脈だが。

Israel, aided by the United States, Europe and moderate Arab states, must try to end this conflict as soon as possible and in a way that increases the chances for negotiating a broad regional peace.

That means ensuring at a minimum that Hamas — a proxy of Iran — is not seen as gaining from the war, that the rocket fire is halted permanently and that the terrorist group can no longer restock its arsenal with more deadly weapons via hundreds of tunnels dug under the Egypt-Gaza border.


 ニューヨークタイムズでは、ハマスをイランの代理と明言し、和平条件について、ハマスに利益がないこと、ハマスからのロケット弾攻撃がないこと、そして、ガザのトンネルを経由した武器の流入がないことを挙げている。
 やや曖昧だが、これはようするに、イランが供与したロケット弾などの武器がガザのトンネルを経由して持ち込まれているのをやめるのが和平条件だと、読んでもそう違和感はないだろう。
 そういうことなのだろうか。
 クリスチャン・サイエンスモニター”The long tunnel to a Gaza peace”(参照)は、ガザのトンネルをイランの文脈で重視している。

After nearly two weeks of war in Gaza, indirect talks between Israel and Hamas have begun. That should bring some hope to civilians who face needless killings on both sides. The talks, however, hinge on the future of tunnels from Egypt used to smuggle arms to Hamas – courtesy of Iran, the stealthy Middle East meddler.

 つまり、イランが供与する武器がガザのトンネルを経由して持ち込まれるなら、和平は難しいだろうというのだ。
 記事はむしろ、この問題をアラブ諸国とイランの関係において展開していくのだが、ここで当然気になることがある。武器の流入口であるエジプトはこの問題をどう考えているのか。昨年11月のAFP”ガザ地区で密輸トンネル13本摘発、高まる人道危機”(参照)が参考になる。

 エジプト治安当局はこのほど、パレスチナ自治区ガザ地区(Gaza Strip)のラファ(Rafah)検問所付近で、13本の密輸用トンネルを摘発した。
 イスラム原理主義組織ハマス(Hamas)が2007年にガザ地区を制圧して以来、イスラエルはガザ地区に対し経済封鎖を実施しており、パレスチナ人らは密輸用トンネルが生命線だと話している。国連(UN)の試算によれば、ガザ地区内の住民の半数以上がすでに貧困ライン以下の生活を送っているとみられる。

 同記事では武器の密輸については触れていない。また、視点は生活物資に置かれている。ガザのトンネルがないと「高まる人道危機」というのだ。
 エジプトとしては、単に密輸として取り締まるが、人道的な配慮もあって強力な摘発は難しいということだろうか。
 いずれにせよ、エジプトの及び腰というのは受け止められるし、この記事が武器について言及していないものその関連かもしれない。
 クリスチャン・サイエンスモニター記事に戻ると、ここではエジプトが槍玉に挙がっている。エジプトはガザのトンネルについて取り締まりができていないというのだ。もちろん、その槍玉挙げはイスラエルによるものだが。

Blocking the smugglers and their tunnels appears to be Israel's main goal in this war – and it doesn't trust Egypt, whose border guards are either corrupt or incompetent, to again keep watch over the sandy, 10-mile border. "Preventing a Hamas arms buildup is the necessary foundation of any new calm arrangement," says an Israeli spokesman.

 なぜエジプトは及び腰なのだろうか。また、それはエジプトだけの問題なのか。同記事では、これをアラブ諸国全体の動向として見ている。

But Egypt, under President Hosni Mubarak, balks at allowing foreign troops from, say, Turkey or France, to infringe on its sovereignty in the Sinai. And that hesitancy reflects a wider problem: Arab states from Saudi Arabia to Morocco are reluctant to stand up to Iran, at least openly.

 エジプトしてみると、トルコやフランスがシナイ半島にしゃしゃり出てくるのは不快だし、アラブ世界としては、イランと事を荒立てたくはない。
 そうはいってもアラブ諸国は核化するイランを恐れているとも指摘している。

Yet these Arab leaders need to better confront the region's Islamic extremism that Iran represents, seen starkly in Hamas's rocket attacks; the Iranian-controlled group in Lebanon, Hezbollah; and the global standoff over Iran's race to develop a nuclear-weapons capability.

 以上、クリスチャン・サイエンスモニターの見方はやや陰謀論に近いかなという印象もある。だが、今回のガザ空爆でアラブ側での躊躇のように見えるものの背景の一つの説明になるだろう。
 そして、結局、このガザのトンネルという問題は、どういうところに落とし所があるのだろうか。

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2009.01.06

[書評]鷹は昼狩りをしない(スコット・オデール)

 なんとなく積ん読にしてあった「鷹は昼狩りをしない(スコット・オデール)」(参照)をこの正月に読んだ。もっと早く読んでもよかったのだろうが、好きな物は最後まで残すといった心理がついにここまで引っ張ったことになった。25年以上か。読んで、とても面白かった。深く感銘した。

cover
鷹は昼狩りをしない
スコット・オデール
犬飼 和雄
 話は、結果として欽定訳聖書の元になった聖書を翻訳をしたウィリアム・ティンダルのエキザイル(国外逃亡・流浪)と船乗りのトム・バートン少年がその間青年になる物語だ。ティンダルについてはウィキペディアの日本語にはごく簡素な説明しかない(参照)。

ウィリアム・ティンダル (William Tyndale, 1494年あるいは1495年 - 1536年10月6日) は、聖書をギリシャ語・ヘブライ語原典から初めて英語に翻訳した人物。宗教改革への弾圧によりヨーロッパを逃亡しながら聖書翻訳を続けるも、1536年逮捕され焚刑に処された。

 邦訳書のほうはすでに絶版だがアマゾンを見ると古書の入手は可能だし、地域の図書館には残っているところもあるかもしれない。ティンダルと聞いて、えっと身を乗り出す人には、ティンダルの人柄が彷彿とさせられるという意味で楽しい読書になると思う。
 当然ながら英語のウィキペディアの項目は詳しい(参照)。中でも、多少私には意外に思えたのは、ヘンリー・フィリップスの記載もあったことだ。が、そのあたりの史実は、本書を普通の書籍として読む人には、多少ミステリー仕立てにもなっているので、とりあえず知らないほうがいいかもしれない。
 ティンダルについては、近年田川健三先生が翻訳されたデイヴィド・ダニエルによる「ウィリアム・ティンダル―ある聖書翻訳者の生涯」(参照)があるが、その価格に恐れをなして私はまだ読んでいない。勁草書房のサイトには同書の目次が掲載されていて(参照)、内容への想像がつく。先のヘンリー・フィリップスについても詳細な話がありそうなので、聖書学や史学的な関心以外に史実的な興味も満たされるようにも思う。いずれ読むことになるだろう。
 私がティンダルについて関心を持ち、本書を知ったのはもう25年以上も前になる。NHKで放映されたアニメ「太陽の子エステバン」(参照)の原作「黄金の七つの都市」(参照)の作者ということでスコット・オデールを知り、そして彼がティンダルの物語を書いていることを知った。
 エステバンの放送は1982年から1983年の1年間で、本書「鷹は昼狩りをしない」(邦訳書)は1980年に出ている。「黄金の七つの都市」の邦訳書は1977年なので、「鷹は昼狩りをしない」の翻訳はテレビの影響ということはない。そして長い間、私はこの本をなぜか読みたいと思いつつ読まないでいた。
 版元の「ぬぷん児童図書出版」は1985年には倒産したようだが、ググってみると、「Alisato's 本買い日誌 2003年 01月 下旬」(参照)に、そうなんだろうなと思うことが書かれている。

ジリアン・クロス作/安藤 紀子訳/八木 賢治画『幽霊があらわれた』(ぬぷん児童図書出版,1995.11,, ISBN4-88975-149-1)読了。

版元が倒産したかなにかで、在庫がブックオフに流れていたのを拾った。(bk1でも取り扱い不可だから、多分倒産。)ぬぷん児童図書出版はピーター・カーター『果てしなき戦い』のような硬派の児童文学を出していた版元でしたが、硬派すぎてイマドキの子供には受けなかったんでしょうね。 これも割と硬派な作品。児童書の体裁ですが、ヤングアダルト向けプロブレム小説に近い。初期の三原順の短編のようです。


 「鷹は昼狩りをしない」と同じく「心の児童文学館シリーズ」の作品である。たしかに、「鷹は昼狩りをしない」は「イマドキの子供には受けな」いかもしれないが、けっこう絵にもなるシーンもありストーリーも面白いのでアニメにして再現されてもかなりいけるだろうが、それでもティンダルが大きく取り上げられるということは日本ではありえないかもしれない。
 金原瑞人さんのホームページにも興味深い話「金原瑞人のあとがき大全(1)」があった(参照)。

 金原瑞人という名前で出した最初の訳書が、『さよならピンコー』(じつは、それ以前に数冊、ハーレクインを訳したことがあるが、そのときはペンネーム) いやあ、なつかしい。たしか八六年の発行だったと思う。十五年前。大学院の博士課程を修了して(正確にいうと「単位取得満期退学」)、あちこちの大学で非常勤講師を務めていた頃だ。出版社は昨年倒産した「ぬぷん児童図書出版」。なぜ、ぬぷんから訳書を出版することができたかというと、当時そこの選本や翻訳を担当していた犬飼和雄先生が、「訳してみないか」といってくださったから……なのだが、そこへいくまでにはかなり長い話がある。

 この犬飼和雄が本書の翻訳者でもある。金原の話の続きも面白い。

 一九七八年、つまり大学四年生の十一月、いくつかの出版社を落ちて、卒業後どうするかという決断に迫られた。そこでカレー屋をやることにした。その頃東京にきていた妹と妹の彼氏(わが高校の同級生で、現在、わが弟になっている)を巻きこんで、屋台のカレー屋をやることにしたのだ。そして一ヶ月ほどカレーばかり作っていた……ところ、大学で卒論の指導教授だった犬飼先生とばったり会ってしまい、「やあ、金原君、就職はどうなったね」ときかれ、「全部だめだったので、カレー屋をやります」と答えたところ、「カレー屋はいつでもできるから、大学院にこないか」と誘われてしまった。恥ずかしながら、当時は大学院がなんのためのものかちっとも知らなかった。いや、そもそも法政大学に大学院があることさえ知らなかった。

 人間には未来を見る能力はないが、その時代から到達した今という未来からそのエピソードを顧みると感慨深いものがある。
 話を戻すと、たぶん、「鷹は昼狩りをしない」(スコット・オデール)を翻訳しようと選定したのも犬飼和雄であっただろう。その後、犬飼先生はどうされているのか調べてみると、昨年4月27日の読売新聞「ほのぼの@タウン」という記事にこうある。

◆甲府市 「やりたいことがあると人生は楽しい。夢はあきらめないこと」
 法政大名誉教授の犬飼和雄さん(78)(酒折)は、様々な夢を追い求めて半生を生きてきた。
 入学した東京大学では理2が希望だったが、小説を書きたかったこともあり、芥川龍之介や夏目漱石をまねて英文科に。何度も行き詰まったが選んだ道だと自分を納得させ、33歳で文学界新人賞を受賞した。
 27年前からは、2~3000年前の古代中国語を学んでいる。古代の甲斐の国を知るため、「百子全書」などの書を読み解きたいからだ。ペースはゆったりで「200単語を暗記しても300単語は忘れるため、あと30年以上はかかる」と冗談も飛ばす。
 中国文化研究所を設立したのは10年前。収集した資料の情報を共有する目的からだが、訪ねてくるのは中国人学生ばかり。レプリカだが甲骨文字が刻まれた亀の甲羅やヒスイの白菜、守墓神など珍しい物もあり、日本人も「気軽に来てほしい」と呼びかける。
 子どものころは、授業中に試験問題がひらめくことが多かった。基礎知識に乏しいのは要領よく勉強してしまったためだと思う。漢字に不必要な「、」を付けたり、46歳のときまで喉(のど)を「のぞ」と発音していたり。
 いまでも、人に言えないような失敗を犯し、落ち込むこともある。でも、「夢を持っているから」乗り越えられると思う。

 ご健在のようす。
cover
The Hawk
That Dare Not Hunt by Day
Scott O'Dell
 「鷹は昼狩りをしない」に話を戻すと、邦訳書は他社にも継がれず絶版の憂き目のままのようだが、オリジナルの「The Hawk That Dare Not Hunt by Day(Scott O'Dell)」(参照)ほうでは古典として定着しているようだ。

Tom Barton and his Uncle Jack live on the edge of danger, smuggling goods under the very nose of the king's searchers. Shrewd, brave, desperate at times, they make run after run across the Channel, braving rough seas, heavy winds, and a growing restlessness among their countrymen. All Europe is aflame with the writing and preaching of Martin Luther.
(トム・バートンと叔父のジャックは、王監視下にありがなら密輸というやばい仕事をしている。悪知恵と勇気を持ち、時にはやけっぱちでありながら、彼らは運河を渡り、荒くれた海や嵐を勇敢に越え、同国人のなかにあって不穏ながらも成長する。全欧州はマルチン・ルターの文書と説教で燃えている。)

Tom and his uncle come into contact with another man, William Tyndale, whose work and prayer is to put an English Bible into the hands of the common people. While Uncle Jack sees only the profit in a religious Reformation, it is Tom who sees in Tyndale's work the dawning of a new age and a new way of life for himself and England.
(トムと叔父は、ウィリアム・ティンダルと面識を持つ。彼の仕事と祈りは、庶民の手に英語の聖書を渡すことだ。叔父ジャックが見るものは宗教改革による利益だが、トムはティンダルの作品が新時代とをもたらし、また彼の人生と英国に新しい道をもたらすことを知っている。)

William Tyndale was the hawk that dare not hunt by day. Hunted, hated by many, a fugitive in several countries, this humble man's pen changed the course of history. For modern Christians, he is the symbol of scholarship and courage, determination and meekness. For Tom Barton, he was father and friend, teacher and comforter, and the first true testimony of Christ in a godless age.
(ウィリアム・ティンダルは、昼はあえて狩りをしない鷹であった。お尋ね者であり、多くの人に憎まれ、国々を逃亡したこの謙虚な男のペンは歴史の流れを変えた。現代のキリスト教徒にとって、彼は学問と勇気、決意と柔和の象徴でもある。トム・バートンにとって、彼は父でもあり友でもあったし、教師でもあり安らぎを与える人でもあった。そして、神無き時代のキリストの最初の真の証人でもあった。)


 ということで、The Hawk That Dare Not Hunt by Dayはティンダルを指すのだが、私にはその含みがいま一つわからない。そして率直にいって、邦訳のタイトルは誤訳とまではいえないにせよ、失敗だろうと思う。
 英語ペーパーバックの説明では叔父ジャックを利益にこだわる人間のように描いているが、実際に読んでみるとそう断定もしがたい。むしろこの時代のハンザ同盟の気風をモデルにしているふうでもある。
 本書を読みながら、グーテンベルクの貢献は聖書の印刷にこそ意味があったのだろうなという印象を深めた。また時代はヘンリー八世の時代でもあり、短い物語ながらもこの時代の空気をうまく伝えている。
 物語では主人公トムは当初文盲であり信仰もない少年だったが、ティンダルから文字を学び、そして静かに敬愛を深めていくようすが、抑えた筆致で感動的に描かれている。

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2009.01.04

[書評]吉本隆明の声と言葉。〜その講演を立ち聞きする74分〜(吉本隆明,・糸井重里)

 今日、NHKの教育で22:00~23:29に、ETV特集「吉本隆明 語る ~沈黙から芸術まで~」(参照)が放映される。いちおう録画予約を入れた。リアルで見ることはないと思うし、予約がこけることもないと思うのだけど、そうだな、ワンセグのほうでもダブルで予約入れておくかな。


戦後思想界の巨人と呼ばれ、日本の言論界を長年リードしてきた吉本隆明(よしもと・たかあき)さん。84歳になった今も、自らの「老い」と向き合いながら、思索を続けている。

吉本さんは、目が不自由になり読み書きがあまりできなくなった。足腰も弱り、糖尿病を抱えている。しかし、2008年夏、「これまでの仕事をひとつにつなぐ話をしてみたい」と親交のあるコピーライター糸井重里氏に協力を依頼し講演会を開いた。


 とういこと。
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吉本隆明の声と言葉。
〜その講演を立ち聞きする74分〜
吉本隆明, 糸井重里
 かなりたぶん、この講演のころ出版された「吉本隆明の声と言葉。〜その講演を立ち聞きする74分〜(吉本隆明,・糸井重里)」(参照)と関連があるのだろうと思う。で、この本は献本を頂いていた。私が吉本隆明の熱烈なファンであることと理解してもらったことでもあり、それはそれで嬉しかった。
 私は吉本隆明に会ったことがない。知り合いが彼の本の編集に関係していたことがあり、私淑とまではいかないけどそのツテがないわけではないし、また1987年のイベント「いま、吉本隆明25時―24時間連続講演と討論・全記録(吉本隆明, 中上健次, 三上治)」(参照)にも行かないかと誘われてもいた。行かなかった。行った人の話では、話の合間、舞台隅でお山座りでじっとしている吉本の姿がベトナムのボートピープルみたいでよかったよとのことだった。そうだろうなと思った。
 その後、弓立社からこの録音が販売もされ、当時は私は小林秀雄の講演録音などを好んで聞いてもいたので(で時間系列は合っているかな)、少し気になっていた。しかし、吉本の肉声は聞かなかった。どういう声質でどういう語り口の人かは予想はついていた。それは、彼の結婚の経緯を知ればわかることじゃないかとも思っていた(この本には書かれていない)。今回、糸井さん企画の「立ち聞き」で、MP3嗽エンコーディングの向こうから肉声を聞いたが、そこはあらかた予想どおりだった。初めて聞くのに懐かしいという感じでもあった。ただ、ちょっと違った印象もあった。
 このブログを始めたころ、私にとっては吉本隆明は終わりという意識があり、それと格闘していた。今の時点で言うなら、私は吉本隆明に完敗というか、まったくこの人にはかなわないと思うようになった。そういうと心酔者のようだが、自分自身の理解としては少しずれる。むしろ、自分が無名であり知識人としては公的には無だがそれでも、昔吉本さんの講演録で「おまえさんたちみたいなインテリは一生インテリなんだから、あきらめな」という話があり、自分のことを言われたように思った。また、私は20代後半の一夏、シモーヌ・ヴェイユのひそみで工場現場の仕事(といってもラインではなかったが)もして自分の知の撲滅を図っていたころ、吉本さんの宮沢賢治の評論だったか、「知識人はそうやって自滅を計るものだがやめときな」というのを読んだ。正確な言葉は忘れたが、ああ、そうだと思った。で、なんというか、それで救われた。吉本さんには恩義がある。
 自分が半可通なできそこないの知識人であることは自分の宿命みたいなものでそれは受け入れていくしかないんだろうと観念したし、「では吉本さん、その知が非・知に解体する姿をきっちり見せて下さいね」とも思った。そして吉本さんは、きちんと見せてくれたと思う。私も、80過ぎまで生きられて、ボロボロな爺さんになれたらいいなとまで思う(なれないにせよ)。なにより、この時代にあって、知が巨大な自然のなかに起立しつつ回帰しいく光景を見るというのは、思想というものが辿りうるもっとも壮絶な光景ではないかとまで思う、いや、レトリック過剰。ウソが入った。もしそうだったら、それをじっと見ていたはずだ。でも必ずしもそうではない。なぜ私は吉本の肉声を避けていたのか。
 そういえばと思い出すことがある。ビートたけしが監督として受け出し、いっぱしに知識人みたいなことを言い出して、ついでに吉本批判をしたころ、吉本はそれを聞いて、記憶なので不正確だが、けろっとビートたけしみたいなのに批判されるほど自分の思想は小さくないと思うがねというのと、むしろたけしには話芸ということで勝ちたいものだと言っていた。力点は話芸のほうにあった。吉本は、自身の話芸というものを磨こうとしていたのだろう。たぶん、80年代の初めではなかったか。今回の「立ち聞き」をこれはいつの年代かな、話芸としてはどうかなといろいろ思った。言うまでもないが、小林秀雄の話芸のほうはまさに話芸としかいえないようなものがあった。この話芸に匹敵するのは、五木寛之くらいかな。
 本の話に戻る。その前に率直に言うと、私は糸井重里という人にアンビバレンツがある。こっそりいうが私は萬流コピー塾に投稿して一点掲載されたことがある。自分にはコピーの才能はないなという確認で終わったが、逆にその過程で、糸井さんの才能というものを深く理解した。また彼の前妻はクリスチャンで当時の彼は、嫁さんがクリスチャンであることはどういうことなのか考えていたようだったのも関心を寄せていた。
 私は、他者を見るとき、その人がどのような恋愛的な情熱と罪を意識を隠蔽して生きているのかとつい考える、つまり下衆であるのだが。当時、糸井重里が村上春樹と気楽な共著を書いているとき、糸井さんは村上夫妻に、あれは夫婦っていう関係と違うなという感想をしゃらっと洩らしていた。あるいは彼の前妻がそう言ったのかもしれない。で、村上春樹のほうも似たようなことを言っていたように記憶するのだが、このあたりの本、吉本の著作を含めてぜーんぶふててしまったのでよくわからん。
 下衆の勘ぐりには延長があって、女を捨てた男を私は認めない、というのがある。小泉元首相が出て、世の中が熱狂していたときも、私は、こんな、女を捨てる男をオレは信じないねというのはあった。実は今でもそう思っているが逆に受け止められるふうはある、どうでもいいが。ほいで、糸井さんの離婚・再婚でもそう思った。下衆の勘ぐりは続くもので、その後も通販生活のエッセイでご夫妻の様子をじっと見続けていた。これについては、私も年を取ったのでいろいろ思いが変わった。率直にいうと、糸井さんは糸井さんなりに、なんつうか若い日の思いは思いとして受け止めているんだろうし、そこに自分があまり関心がもてなくなった。下衆度が少し減ったのか。
 だらだらした話になってきたが、続く。糸井さんを受け入れにくいなと思っていたのは、ニューアカ全盛のころ、浅田彰や中沢新一なんかとつるんでほいほい吉本隆明の悪口の座にしらっといるあたりだった。もちろん、同調はしてないし、そのあたりの立ちまわりがずるこいなとも思っていた。吉本隆明ってただのトンデモさんでしょと普通に思っているだろう浅田彰に媚びているふうでもなかった。蓮実重彦に罵倒されるのが嬉しくてよっていくエピゴーネンとも違っていた。
 で、吉本はどう見ていたか。これは今思うのだけど、糸井も中沢も信じていたと思う。率直にいうとこういうあたり、私が吉本隆明にアンビバレンツをいだくところだ。
 吉本は糸井がゲバ学生だったことを知っており、こっそりサポートしようとしている。これは高橋源一郎についてもそうだ。坂本龍一についてもそうだ。この二人はその後、朝日・岩波的というか、しゃらっとした昭和モダンな左翼に吸引されていくのだが、彼らは吉本は批判しないし、吉本もそこは批判しない。中沢についてもその背景を吉本は知っているのだろうと思う。つまり、なんのことはない、セクト的な感性が吉本さんにはあるなと私は思っていた。というか、それこそが吉本さんが30代だった敗北というものの意味かもしれない。吉本がそういう部分でなくて、自然に共感や好意を持っていたのは江藤淳や小林信夫などのほうだろう、年代的にも。
 本書を見るとしゃらっと糸井は「25年以上前、糸井重里は「戦後思想界の巨人」と呼ばれる吉本隆明さんにお会いしまいた。それ以来、吉本家のお花見や海水浴などに参加したり、ときどきお家におじゃましたり、というおつきあいを続けてきました」と言う。間違いでもないだろうし、そうして見える部分の、つまり、非・知として完成に向かう吉本隆明を、きちんと受け止めてもいだろうし、それの一部がばななさんに結集していくのも興味深く見ていただろう。ついでに言うけど、この親子のオカルトのトンデモ度はかなりなものですよ、私がいうと失笑する人も多いだろうけど。
 で、ようやく本書、というか、CD。聞いた。圧倒されましたよ。何にって、糸井さんが、どれほど吉本の声と言葉を聞き続けていたかということがわかった。何十時間というものじゃない、何年にもわたり、吉本隆明が語るということはどういうことかを糸井さんは聞き続けたのだなと。こりゃ奇跡的だなと思いました。まいりましたよ、糸井さん、すごいよ。
 そして今回の「立ち聞き」がこういうビジョンを描くというのにも圧倒された。これ、読売新聞記事「「ほぼ日」10周年記念に吉本隆明講演デジタル化 」(参照)より。

――50講演だけでも大変な量ですが、残りの講演はどうなりますか。
糸井 最終的には、無料にするのが目的です。CD集が売れたら、残りはタダでだれでも聞けるようにしたい。高速道路のように最初は有料でも償還後はタダにする計画で、お金を出してくれた人は「あなた方が後でお金のないひとがタダで聞けるようにしてくれた」と感謝される形になります。吉本隆明の“リナックス化”がそこから始まります。吉本さんの講演が百何十回分無料で聞けるって、実現できたらすごいことだと思います。世界中を探してもそんな人はいないでしょう。

 吉本隆明の思想が無料化されることなど、率直に言えば、大したことではないと思う。そうではなく、戦後が終わり、日本が新たな混迷を迎える時代のなかで思索を続け、もどかしく語り続けた人のなかに、大衆の原像の声が聞きうるかもしれないということだ。
 いや、思想的に大衆の原像というものはすでに解体されている。しかし、歴史というのは、知ではなく、非・知の側から揺り動く。その言葉にならないものが言葉になろうとしているあり方は、人の歴史そのものだろうし、戦争を経験して考えて、うちのめされた普通の人の肉声に近いものからその意味に至ろうする何かを日本語として聞くことが可能になることは得難い恩恵でもある。
 それに何の意味がある?
 あると思う。たぶん、それは、歴史の反面がゆさぶる時代の狂気を癒す。

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2009.01.03

[書評]水辺で起きた大進化(カール・ジンマー)

 以前ニューヨークタイムズでカール・ジンマー(Carl Zimmer・参照)による生物学のコラムを読んで、この人は面白いな、何か邦訳本でもあるかなと思って買ったのが「水辺で起きた大進化(カール・ジンマー)」(参照)だった。購入時にざっとサマリーを知るべく速読したものの、これはじっくり読むタイプの本だなと思いつつ積んでおいたのを崩して正月に読んだ。面白かった。かなり読み応えがあり、いろいろ考えさせられた。

cover
水辺で起きた
大進化
カール・ジンマー
 話は、邦訳題からもわかるように進化論がテーマで、このタイトルだと「水辺」が注目されているし、巻末の訳者解説もそうなっているのだが、どちらかというと「大進化」という現象をどう考えるかという基本的な進化論の難問のケーススタディーと、本書執筆時までの最新の進化論状況の話だ。当然ながら遺伝子的な見方が主流にも思える現代の進化論における、考古学や解剖学的・形態的な思考による「大進化」との関連に焦点が当てられ、総じて、この時点までの進化論のまとめというふうにも読める。高校生が読むと面白いのではないかというか、かつてローレンツに熱中した高校生であった私はそう思った。
 オリジナルタイトルは「At the Water's Edge: Fish With Fingers, Whales With Legs, and How Life Came Ashore but Then Went Back to Sea」(参照)なので、副題を訳すと「指のある魚、脚のあるクジラ、そして水辺の生命は海に戻った」と冗長になるが、実際に内容は指と脚の進化にかなりの論を割いているので正確だろう。
 訳書の出版側の説明は以下だがこれもそれなりに要領よくまとめている。

かつて水辺では、“魚が海から陸へあがる”という進化史上の一大事件が起き、さらに陸にあがった生物のなかから、クジラのように水中生活へと戻っていくものが出現している。この2つの“大進化”がなぜ、どのようにして起こったのかという謎が、進化生物学者たちを長年にわたって悩ませてきた。しかし、近年の分子生物学などにおける長足の進歩が、状況を一新した。魚のひれが指のついた手へと変わっていった経緯や、クジラが何から進化したのかという類縁関係が最先端の研究によって解明され、驚くべき真相が明かされるにいたったのだ。気鋭の科学ジャーナリストが、進化学草創期のエピソードから、今日の研究現場の臨場感あふれるレポートまで、興味のつきないトピックをまじえて綴る、水辺をめぐる変身物語。古生物の在りし日の姿を再現したイラストも多数収録。

 進化論的な議論として興味深いのは、いわゆるエルンスト・ヘッケルのテーゼの逆でもある「系統発生は個体発生を繰り返す」とも言える、ホメオシスについて一般向けの解説にもなっていることだ。大進化の説明についてはこれを大きく援用している。
 精読していて面白いなと思ったのは、そういう進化論的な議論もだが、19世紀のプレ・ダーウィンからダーウィンまでの時代を、地層学や分類学、解剖学などといったこの時代を特徴付ける知識のあり方のなかでいきいきと描き出しているところだ。ラマルクなどがかなり強い勢力をもっていたようすや、ある意味で現在のID論のネタになりそうな反ダーウィニズムの当時のエピソードなども面白く、先のヘッケルもそうしたコンテクストにあったことがよくわかる。本筋ではないのだろうが、チューリングが進化論に関心をもって論文を書いていたというエピソードも興味深かった。
 個別には、後半のテーマである、クジラ(つまりイルカを含む。余談だがクジラとイルカは呼び名の差でしかない)に至るまでの進化の途中の種についての考察が面白い。大半は考古学的・解剖学的に問われているのだが、この研究者たちの冒険心というか、パキスタンでの大活躍など現代の冒険譚とも読めるし、科学というのは取り澄まして理系な理論を扱っているんじゃなくて、まさに無謀ともいうか夢に駆られる腕力みたいなところがあるものだなとしみじみ思えた。
 本書のテーマである「大進化」については、かなり学問的に書かれているのだが、だからこそ、うまく定義できないのだろうと私は受け取った。実は本書を読もうと思ったのも、90年代の進化論について遺伝子の側だけ追っていけばよいのではないかな、となんとなく前提のように思っていたことの反省もあるのだが、それが間違いとも言えないまでも、進化論というのは実に難しいなと痛感した(いうまでもなく進化論の否定といった愉快な話ではなくね)。
 本書でも、終盤で遺伝子の近隣性からみたクジラの系統と、考古学を元にした解剖学というか形態な考察との差異が厳しく問われるのだが、明確な議論にはなっていない。著者はできるだけ議論を明解にしているが、そもそもホメオシスや、ピアジェ的な表現型を考慮すると遺伝子のそのままの情報と、それが実際にどのような生物として出現するかはそう直線的には結びつかないのだろうとは思う。が、それにしても、本書執筆時事点での乖離はなんだろうと疑問が残る。
 本書は1998年の刊行でしかも90年代の知見がかなり盛り込まれているので、その後の10年でこの問題はどうなったのか、続編が知りたいとも思うが、そのあたりの総合的な概説書みたいなものはあるのだろうか。日本だと科学分野の概説書はつい新書的なレベルでこじんまりとまとまってしまって、本書のように議論のフレームワークや歴史、そして最新の状況までが読み込める本というのはむずかしいのだろうか。
 カール・ジンマーの邦訳書はあと二点あるのだが、最新のものはない。最新の「Microcosm: E. coli and the New Science of Life」(参照)は私が特に関心を持つ分野でもあるので、読みたいと思うが英書で読むのは手間がかかって難儀だなともつい思う。そういえば、「水辺で起きた大進化」でさらっと、クジラに至る種の草食と肉食について議論されていたが、考えてみると、草食が出来るというのは腸内細菌と共生が可能になったということで、その意味はたぶん人間にとっても大きなことなんだろう。

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2009.01.01

初笑い、今年の予測

 恭賀新年。よいお年を。
 初笑いに、今年がどんな年になるのか予想してみたい。年末DVDで見た感動的な大作「カンフー・パンダ」(参照)ではないけど、予想にあたって、秘伝は、ない。なーんも、ない。お笑い程度のお話だ。では。

cover
カンフー・パンダ
 今年はどういう年になるのか、というとき、問われているのは、要するに景気だ。景気はどうなるか。そりゃガチでダメでしょ。そうわかっているのに、つい今年の予想とかに心惹かれてしまうのは、なんとかならないかな、なんとかなる方法はないのかな、と思ってしまうからだ。叡智があれば、この難局をアムンセンのように克服できるのではないか。暗黒卿復活でリフレのサンライズがあるのか……。あー、ないと思います。ぜんぜんだめだと思います。麻生総理のいうように全治三年というのはそれでも希望があるほうなんじゃないか。そしていつの日か日本で消費税をアップできる日が来るんだと財務省官僚ですら希望をもっているんだから、だめでしょ。全然ダメ。困ったなぁ。
 内需拡大なんてどうすかね。読売新聞の元旦のリキ入り社説「急変する世界 危機に欠かせぬ機動的対応、政治の態勢立て直しを」(参照)でも、内需拡大に知恵絞れ、って言ってる。

 日本の強みは、減少したとはいえ、まだ1467兆円もの個人金融資産があることだ。
 このうち、150兆円から170兆円が平均的な個人のライフサイクルから見て「余剰貯蓄」といえるとの、総合研究開発機構(NIRA)による試算もある。
 また日銀は、いわゆるタンス預金だけでも30兆円、投資や利殖より安全を志向する当座・普通預貯金としてほぼ眠っている資金が、120兆円あると見ている。
 こうした“眠れる資金”を掘り起こして活用することは、重要な政策課題だ。

 それにまだ埋蔵金もざくざくある。頑張れニッポン!凄いぞニッポン!頭の良い国ニッポ~ン!! だな。
 読売新聞新年社説によると、日本には個人セクターでざくざくとカネが余っている、と。使えばいいよ、と。ここ掘れワンワン、と。
 で、周りを見回す。何処にそんなカネがありや? たぶん、高齢者が持っているんじゃないかな。じゃ、そこに儲けのマーケットはあるんでしょ。なんかすごく簡単な論理的な帰結だけど、実際そうなんじゃないか。振り込め詐欺なんかも考えようによっては明日のビジネスモデルを暗示しているのかもしれない……いや冗談にもほどがある。
 マスコミでは高齢者が貧しく困っているというし、落ち葉マークなんてとんでもないという高齢者の怒りは警視庁にも届く(若者の怒りは届きません)。それは、きっと、そうなんだろう。まあ、そういう面もあるのだろう。ただ、全体のバランスからすると、それでも高齢者層がもっていそうな余剰金はビジネス的にターゲットになるだろうし、そういう幻想のビジネスにシフトしていくだろう。そういう点からすると貧乏臭いインターネットなんてまったく未来がないな。
 高齢者層に余剰金があるということは、その層のファミリーにぶらさがっている若者もグッドな状況にあるから、話を端折ると、若者間の格差というのはどんどん広がっていく。ということは格差解消って不満を政治に持ち込むとなかなかルサンチマンで通りがよい。つまり、解消はないでしょ、政府が悪いんだ、云々、と。
 こうしたなか、いよいよこの夏までに衆院選挙となる。自民党というか公明党がどう生き延びるかだけど、これだけ背景ができあがってしまうと、というか、その部分で自公の利害が強く結束できないなら、これは潰れるでしょう。じゃ、民主党が政権を取るのだろうか。私が夢に見た小沢総理が実現するのだろうか。そのあたり、どうかな? 
 率直にいうと現実感がまるでない。たぶん衆院選はグダグダな結果になって、その敗戦処理みたいな形で、やっぱ大連立でしょうという冴えないことになるのではないかと思う、というか世論調査を見てるとそうした流れが感じられる。なので、政界再編みたいな元気のいい話もないでしょと思う。
 大連立になって日本はなんとかなるかというと、たぶん、どうにもならないと思う。しいて希望があるとすれば、この大連立は、前回の小泉郵政選挙とは違って、都市民の利益を反映しないから、きちんと地方にバラマキをしたり道路を造ってくれるのではないかな。そうした昭和な香りの財政政策が案外、ぼちぼちと日本の延命に繋がるかもしれない、というか、日暮れまでもう少し的な。
 暗いなあ。もっと明るい今年の展望はないのか?
 なんとなくだけど、そうした政治の動向を実際には日本人というか若い層は嫌って、人口の都市流入が進み、よって都市の、妥当な価格帯の賃貸や不動産のニーズは高まるのではないかな。ついでになんとなく印象なのだけど、住居を失った契約社員に住居を提供という美談がこのところニュースになっているけど、これって案外、だぶついてしかもリニューもできない公共住宅の問題を上手に隠蔽しているんじゃないか。まあ、それが悪いっていうわけじゃないけど、いずれにせよ、その部分をうまく切り離すと、妥当な低価格帯の賃貸や不動産ニーズは高まるし、貧乏人の生活は都市のほうが楽なので、都市はもうちょっと貧乏でもそれなりに幸せな文化が興隆するのではないか。とすれば、そういうあたりの、貧乏臭いけど幸せに花を添える的な産業が儲かるかな。なんだろ。鯛焼き屋かな。
 世界情勢はどうなるか? 危険な部分はパキスタンや中央アジアではないかと思うけど、これに米オバマ政権がどう対応するかが実際上のキー。パキスタン問題はアフガンやイランの問題ともいえる面があるので、なんらかのちょっかいに出てくるかもしれないし、アフリカのあまりの非人道的な状況にもなにか対応があるかもしれない。目下殺害が進むガザを含めてのイスラエル状況については、もうちょっと経つと意外なものが見えるかもしれない。
 サルコジが息巻いているしソマリア沖海賊問題ではNATOが蘇ったかのような印象もあるので、そのあたりでぼちぼちでんなの、弱いかたちの有志同盟みたいなものができて、そしてそれに中国も参加し、ほいで、日本はつまはじきになるのではないかな。一国平和こそ日本の実際の国是だし。
 中国はどうなるか。すでに沈没しているのにどうなるかもないしょ論もあるかもしれないけど、結果として共産党政権を弱体させるという道はありえないのだから、その線でぼちぼちと農村籍というか農民問題に取り組むことかな(実質土地の所有権のようなものができそう)。こういうと皮肉みたいだけど、急激な発展をしたけど都市化に移行しきれなかったから、いざとなったら労働者を農村へ追い戻しということが可能だったということだろう。
 あと日本を巻き込む国政状況で、セプテンバーイレブンみたいななんか予想外の出来事があるかだけど、それは予想外なんだからわからない。北朝鮮? いや何があると予想するやら。韓国の動向と併せて考えてもいいでしょう。
 技術の世界の見通し? ああ、昨年インプレスで答えた「アルファブロガーが予想する、2008年のインターネット業界」(参照)が微妙にハズしたな。こんな感じ(なので今年は問われなかった)。

・NHKアーカイブス
 戦後史が包括的に含まれていて、人生に余裕のできた団塊世代が再考するようになるから。

・NGN
 現状のIP高速回線にはいろいろ限界がある。NGNがCATVからIPTVへの変化のインフラになる。

・動画対応iPodによるテレビ
 業界的にはiPod touchやiPhoneに関心が集まっているが、iPodとテレビの融合のほうがより身近で多くの人に魅力がある。


 今年はどうか。この延長か? なのだけど、NHKアーカイブス的な団塊世代コンテンツというのはもうしばらくありかと。テレビコンテンツは実際のところNHKの一人勝ちなんじゃないかと思うし。
 NGNの目はなさそうだと思いつつ、案外今年あたりでインターネットはゲロ低速で使えない状況になるかもしれないなと思うので、目が出てくるかも。
 iPod TVは、ワンセグに移行するかな。昨年は私はワンセグをけっこう使った。便利ですよ、こりゃ。お風呂ワンセグとかありですよ。
 他、今年は携帯業界が再編成されるだろうから、そこでは微妙な動きがあるかな。やばそうなので私なんぞは沈黙。ネットの通販とかは、より身近な部分に下りたところが勝ちになるだろうけど、現状のネット通販という方向ではなく、コンビニやスーパーを経由した形になるのではないかと思うが、そう急ぎの進展はないだろう。
 ブログは? わかんないな。ブログの世界にはあまり関心ないといえばないかなという感じ。というのも昨年実質的にSNS志向や煽りメディアとしての性格がきつくなって、ブログってアクティブなメディアとして楽しくねーよという感じが深まった。というか、ブログって原点に戻って、手作りのちっこい個人メディアでええんでないの。少なくとも、自分はというか、このブログは。

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