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2008.02.23

超訳「片羽少女」

 ユーチューブの”Katawa Shoujo (Disablity Girls):An original visual novel”(参照)が面白くて、ちょっと訳してみようと思ったのだけど、口語が難しいのと、日本語としてこなれないんで、ええい誤訳ごまかしの超訳にしちゃえっていうネタがこれ。ついでに人名には漢字を充ててしまいました。
 関心もった人はもっといい訳にして、字幕ものでも作ってくれると吉。それと、これ、著作権とかでマジーとかでしたら、削除します。じゃ。

 * * * * * * * * * *

 僕は自分が窓の外を眺めているわけに気がついた。
 生徒が多数向かって行く大講堂には食堂がある。下に見える戸口から生徒があふれ出し講堂に向う。この学校の講堂は、まるで伝説の龍が居座っているみたいだ。あるいは丘の上に鎮座する王様。でもこの王様は巨大過ぎたし王位を守る気力もなさそうだ。
 講堂は昔、産業会館にも使われていたらしい。年季の入った装飾に満ちて、赤みがかった二層の瓦屋根は古風な日本建築。大工たちは完璧を狙っていたのだろう。
 お弁当はそこで食べることにしよう。

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 僕は廊下の先を見る。最初に三年生の教室があって、その向こうに表札のない教室がある。静かだ。誰も僕のじゃまをしない。廊下を進み戸に手をかける。
 教室のようだけど、しばらく使われた形跡がない。机と椅子が散らばって埃がかっている。薄暗いのは、重たいカーテンが窓を半分覆っているからだ。埃が少し舞って光りの筋が何本も見える。
 僕は誰もいない教室なのにふざけて声をかけてみる。「誰かいっ……」
 言葉を詰まらせた。
 ショートヘアーの女子生徒が机に腰をかけている。
 でも変だ。男子の制服を着て、ズボンの先の足の指でフォークを掴んでいるし、そこには食べ物が刺さっている。
 僕は彼女が最初よく見えなかった。深い影が彼女を影そのものにしていたからだ。彼女は僕を見つめながら、フォークの食べ物を口に入れようとしていた。僕も口を開けたまま彼女を見ていた。突然、僕は何って言っていいかわからなくなった。

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 「どうしたの?」彼女は声をかけてきた。
 フォークは置いてあった。僕はそのときようやく彼女の上着の袖が肩からそのままだらっとぶらさがっているのに気が付いた。
 「あの、僕はちょっとお弁当を食べる静かな場所を探していただけなんだ。誰かいるなんて思わなかったんだ」
 「でも違った。私がいたんだもの」
 「君が先にここを取ったってこと?」
 彼女は眉をしかめて僕の言ったことを疑っているようだった。
 「いい勘してるわね。で、君、誰?」
 この子はすごいストレートだな。
 「僕? 中井久夫。今日転校してきたんだ」
 「私は手塚凜。握手でもしたいところなんだけど、私がどういうふうなのかもうわかったでしょ?」
 僕は彼女の意図をさぐろうと首を傾げたとたん、ギアを入れ替えるみたいに脳の中身が入れ替わる感じがした。彼女の言っていることがわかった。
 「腕、ないの?」
 「その発言、今日は君が一番乗り。君、けっこうまともな注意力があるね。これで5ポイント・ゲット。それ以前の対応もいいから、あと2ポイント上げる。君の合計得点は7ポイント」
 何が言いいたいんだろ、この女の子。そう思っているうちに、彼女は僕のことなんか気にせず食べ物を見つめている。
 「わたし、ここで食べてていいよね? 君が気にしなければっていうことなんだけど。だから君もそこにいていいし……一緒に食べる?」
 「ご自由に。っていうか僕も自分の好きにするよ」
 僕は近くの机に腰をかけた。凜はまた足の指にフォークを挟んだ。僕もお弁当箱を開けて食べ始めた。
 「中井君って呼んでいいよね。中井君、どうしてここに来たの?」 凜は口いっぱい食べ物をほおばりながらきいた。
 「静かなところだったら、どこでもよかったんだ」
 「そういう意味じゃなくて。あのさ、中井君もわかっていると思うけど、ここにいる生徒ってみんなどっか壊れているじゃない。でも中井君って、見た目フツーじゃない。それとも中身がイカレているとか?」
 「あたり。中身のほう」
 「当ててみようか。わたし、勘がいいんだ」凜は唇にフォークをあてて天井を見る。天井に答えが書いてあるのかもしれない。窓から差し込む光の筋が彼女の横顔を照らし、半面の横顔を暗くしている。
 「頭がイカレているってことないわよね。からだのほうが何かフツーじゃないのよね。私の食事みたいに」 そして彼女は不意を突いて言った「パンツの中身に関係しているでしょ?」
 思わずご飯が喉に詰まって僕は死にそうになった。
 それはないよ。でも、凜の瞳には確信と驚愕が浮かんでいる。
 「アタリでしょ! つまり、チンコに問題がある」
 喉にご飯を詰まらせている場合じゃないな。僕の名誉の問題ってやつだ。咳き込みながら僕は反撃に出た。
 「すごい言いようだね。しかも男子服の女子生徒から言われるなんて。ここって学校だよね」
 「あのね、わたしこう言われているの。『君のような学生がスカートを履いて行動していると他の学生に好ましくない影響がある』って。意味、わかる? わたし、納得はしないけど、ここは学校だし、しかたないかな」
 僕は喉に詰まったご飯にまだむせているのに、アメフトで強烈にタックルされたって感じ。
 「チンコの問題よりはマシかも。心臓だよ。不整脈。親とか先生が、僕はこの学校に転校するのが一番いいんだってさ」
 凜は口をすぼめて僕を睨んでいる。勘が外れたのがそんなに悔しいのかよ。
 「つまんない。チンコ問題のほうがみんなで楽しめるのに」
 「がっかりさせてごめん?」
 そして言うべきこともなく会話も行き詰まった。見つめ合っているのもなんか気まずくて、二人とも食事に専念した。
 でも僕は横目で彼女を見て考えていた。髪の毛は赤毛。っていうかオレンジ色。ショートヘアー。腕がないってことはロングヘアーにはできないってことなんだろうな。それと男子生徒の服装を着ていることと、腕がないことで痩せて見えるわりに胸が強調されている。魅力的というかどきっとする。深海色の瞳は窓の光をすべて吸い込んでいるわけではないけど、深い井戸のようにいろんなものを秘めてるみたいだ。
 凜は普通の人が手を使うみたいに器用に足を使って食べている。でも、普通の人はそういう光景が不快なんだろう。特に食事とかだと。
 しばらく二人とも黙って気まずくなっていたから、僕は勇気を出してこの変な女の子に話しかけてみた。
 「いつも食事は一人? つまり僕は不意のお客さんっていうかさ」
 「そうね、今日最初のお客さん。でも、いつもわたし一人で食べているわけじゃないよ。たまに友だちと屋上で食べる。彼女がどたばたしなければなんだけど」
 「どたばたしないって?」
 「スポーツ好きの女の子なの。彼女は私をよく理解してくれる。彼女も切断手術受けているし。普通に足がないってだけじゃないけど」
 「そうなんだ」 もっと話を引き出すコミュニケーション能力っていうのが僕にはないのか。凜が最後の一口をほおばるとまた二人沈黙した。僕のお弁当箱ももう空っぽ。どうしょう?
 「無理して一緒にいなくていいよ。これからちょっと私は夢の国に行くから。それと、もし君が今日最初の登校だとしたら、校庭にでもいて、他の人が食事しているときは他をうろうろしないほうがいいよ。以上であります。あとは君が寝ている女の子を見ていたいかどうかってこと」
 僕は凜の言っていることがよくわからなかったけど、冗談でもないみたいだった。少し考え込んでいると凜が突然笑い出したから、つられて僕も笑顔にしたみた。
 「じゃ、向こうに行って。わたしこれから半日くらい眠るの。いろいろ夢が必要なんだから」
 「そう。それじゃ、他に行くよ。いろいろ教えてくれてありがとう」
 「どういたしまして。誰かとお喋りするのも久しぶりだったし」
 僕たちはそんなに話したわけじゃないけど、大切なことだったと思う。
 「また話でもできるといいな、手塚さん」
 「『凜』って呼んでいいよ。君とは十分うまくやっていけると思うし」
 「うん。僕は『久夫』で」
 「じゃあね、久夫君」
 僕は教室を出て自分の顔を終了するみたいに戸を閉じた。「面白い女の子だなあ」と独り言を言った。
 「聞こえてますよぉ」と教室の中から凜の声がした。どきっとして気まずい感じで僕は講堂に向かった。


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2008.02.22

[書評]小林秀雄の恵み(橋本治)

 橋本治は直感から本質をさらっと言ってのける頭の良さをもった人で、その直感から言い切りまでのプロセスを文章にするため冗長な印象もあるが、出てきた表明はコピーライティングのようにわかりやすいし、白黒つけやすい明快さがある。小林秀雄も直感から表出のプロセスを迂回して語る癖があり、表出も短く刈り込まれているため「人生の鍛錬 小林秀雄の言葉」(参照)のように断片的に理解しやすいところがある。だがそんなものは無意味で、依然小林秀雄の文学の全体を読めばその表明は白黒つけがたく明晰さには迷路の複雑さがある。体力というのでもないのだが思念の持久力のようなものがないととても読み切れない。
 思念の持久力というものがどのようなのかというのは、「極東ブログ: [書評]小林秀雄の流儀(山本七平)」(参照)で触れた山本の論考が参考になるだろう。小林がどれほど聖書を読み抜き、パウロを心に秘めていたか、そこを読み解くことの難しい理路がそこでよく解明されている。現存する小林秀雄についての評論で、私が読んだなかでは、山本七平のこのエッセイがもっとも優れている。ちなみにそれに次ぐのは竹田青嗣「世界という背理 小林秀雄と吉本隆明」(参照)だろうと私は思うが、だいぶ劣る。江藤淳の「小林秀雄」(参照)は労作だが資料的な意味しかないだろう。
 山本七平はそこまで小林秀雄の本質を理解しつつも、それでも意図して「本居宣長」(参照)には踏み込まなかった。二十年したら言えるかもしれないとトボケていた。もしあの時の山本にあと二十年の命があり、あるいは八十歳という年齢を迎えることがあったら、彼の親族のトリ様のように語ったかもしれない。
 山本が「本居宣長」に踏み込まない理由には複雑なものがあるが、それでもあえて言うなら吉本隆明が「悲劇の解読」(参照)で感得したようにそこに戦後のすべてを無化しようとする妖しい魅力を感じたからだろう。もっとも吉本は同書の「小林秀雄」の項目を読めばわかるが、小林のこの妖しい書籍を理解してはいない。理解などもしたくなかっただろう。山本と対談するときでさえ、そこいらのボンクラ左翼のように天皇への親和を感じる山本への疑念を不愉快に表明したほどだ。近世史の機微は吉本にはわかりえない。吉本の親鸞考察が親鸞伝説をほとんどあっさり捨象している様からもそうした傾向はわかる。
 しかし、山本七平の天皇への親和というのはただ近代国家の王制のごく儀礼にすぎず、そこから逸脱する現人神との格闘が彼の戦後の孤独の戦いだった。そしてこの決戦において、あえていうのだが、小林秀雄が勝利の地歩を得たことを知った。「現人神の創作者たち」参照)によって本居宣長の残した怪物たちは打ち倒したが、その怪物を育てた噴泉である本居宣長を壊すことは山本にはできなかった。できない理由もわかっていただろうし、そこにまた小林へのある畏怖をも覚えただろう。その感覚は私は共感的に理解できる。

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小林秀雄の恵み
橋本治
 橋本治にはこうしたことはさっぱりわからないだろうと思う。橋本を貶めていうのではなく、本書「小林秀雄の恵み」(参照)はそうした、戦後は終わったという暢気な地点で、しかも小林の死後二年後に、実質、「本居宣長」だけを読んで書かれたものである。本来なら薄っぺらな本になっても不思議ではない。それに橋本なら、三島由紀夫の自決をなぜ小林秀雄が否定しなかったのかをまず読み解かなければならないものだが、本書にはまるでその考察はないのだ。
 もっとも、橋本は吉本とは異なり、近世世界の言葉と思想の感覚をかなり明確にもっているという強みがあり、そのことは本書の半ばでかなり生かされている。というか、橋本はもうこのおちゃらけ文章をやめて普通に老成した学者であってもよいのではないかとも思えるほどの熟達した考察がそこに開陳されていて読み応えがある。
 そしてその達成でいうなら、橋本治は小林秀雄より本居宣長という人を的確に理解している。少し踏み込んで言うなら、いわゆる本居宣長の学術研究からは見えない宣長の本質を橋本は本書でうまく言い当てている。私もおちゃらけで言うのだが、宣長という人は、擬人化萌えのオタクでしかないのだ。今の世にあるなら、はてなダアリーあたりでゴスロリ論とかエヴァンゲリオン論でもやっていそうな、そういう人なのだ。あるいは「語学と文学の間」(参照)ではないが、匿名ダイアリー(増田)あたりでこっそり若い日の恋愛をぐちゃぐちゃ書いていても不思議ではない。
 橋本は「本居宣長」しか読まないことを、ある意味で本書方法論上の強みとしての仕掛けにしているので、そこを批判しても始まらない。実際のところ、彼は方法論としての無知だけに寄っているわけではない。「無常という事」(参照)や、新潮社側の仕込みどおりに戦中の小林の講演「歴史の魂」を引き寄せ、それを縦横に使いこなしている。特にこの講演テキストは事実上戦後封印され2000年以降の全集で姿を現すものだ。これを使わないことには、「本居宣長」も解明などできるわけでもないが、そのあたりは戦中から小林を見ていた吉本隆明などには自明であっても、従来の「本居宣長」論では事実上封印されていたに等しい。その意味で、このミッシングリンク的な接合は誰かが行うべきだったので、それを新潮社が自作自演っぽく実行したのもしかたないことだろうし、橋本治は十分にそれに答えている。しかも橋本治のような団塊世代・全共闘世代にその仕事をさせれば、その世代の言語感覚から、今後退職を迎えるこの世代の人も読むだろうという新潮社側のマーケット感覚もずばりというところだろうか。
 だが、橋本治は小林秀雄と折口信夫の関係すらも理解していない。そのため、ちょっとこれは編集で削れよというくらいのおちゃらけ展開もあり、滑稽というより悲しい部分がある。同じことは「感想」(参照)についても言える。橋本はベルクソン論である「感想」と「本居宣長」の構成はよく似ているとしながら、そしてその同構造にこそ重要な契機が潜むことは、文庫版「本居宣長」の巻末における小林秀雄と江藤淳との対談からもわかりきっていることなのに、彼は「感想」は小林秀雄が自ら封じたから読まなくてもよいのだとしている。それも橋本らしい方法論的な手法といえないこともないし、「歴史の魂」だって事実上封じられたものではないかというのも大人げない。いずれにせよ、小林秀雄と本居宣長の関係について、橋本は最初に大きな禁じ手を置いている。
 いや、橋本治はその禁じ手の意味をまったく知らないわけではない。というのは、本書「小林秀雄の恵み」は、批判的な意味ではなく、戦略的な意味での評価として言うのだが、「本居宣長」を読ませないための作品でもあるのだ。あるいはあえて迷宮に叩き込むように作為されている。特に、冒頭の宣長の遺書を小林が結語で再読して欲しいとした意図を無化しようとしているための構成に端的に表れる。それは橋本が宣長の本質は学者ではなく歌人であり、小林にはそれがわかってないとするしかけにも存在している。
 なぜ橋本はこのような迷宮を構築したのか? 
 私はここで迷宮をあえて暢気に爆破しておこうと思う。
 小林秀雄が「本居宣長」を通して言いたいことは、奇っ怪だが、そう難しくはない。人は素直な心(やまとたましい)をもって人生の機微の情に触れ、それを日本語という歴史の言葉にそって整えていけば、近代世界にあっても、その内面において死後・永世の世界への展望が自然と確信の形になる、と言いたいのだ。
 最初から死後・永世の世界への確信があるわけでもない。ユング派のミンデルが、魂というものが永遠にあるのだと想像してごらんなさいと脳天気に言うようなものでもない。それはむしろポランニ的なパーソナルな契機が働くのであり、あるいは後期ハイデガー的な、言葉というものの存在生起の先行性による果実なのだ。
 だからこそ小林はその説明の仕事を終えたとき、「本居宣長」の冒頭においた、宣長の遺書をもう一度読み直してごらんなさいというのだ。宣長先生のように学べば、このように、この世の様を保ちながらも、永世の中に生きる確信を得るという矛盾が統合するのだ、と。
 もう少し踏み込んで言おう。橋本は宣長を歌人とし、そこに小林の学者とする理解との差を強調する。が、なんのとこはない、じっちゃんは微笑むだけだろう。歌人であるということは、歌によってやまと言葉でやまとたましいの情を整えていく行為であり、学びであり、契沖のいう俗中の真の道にほからない。宣長は学びはなんでもいいと言っているが、その学びとは日本語という言葉の学びなら、いずれその真なるところから歌の情に至るとの確信が小林にあるからなのだ。
 問題はむしろこの先にある。これも端的に言ってみよう。小林秀雄は怪人宣長のように、あるいは、オンム・セティのように死後・永世の世界を穏和に身の丈で受け止めていたのだろうか?
 それは愚問に等しい。なぜならその表明が『本居宣長』という作品であり、そして、それは戦後の世界のなかで、昭和という悲劇が殺傷せしめた日本人の鎮魂と再生の祈念だったからだ。
 だからこそ「本居宣長」を吉本隆明が直感的に忌避し嫌悪したのは正しいし、山本がまたここに悪夢を感じたのも正しい。小林は深く日本の歴史に毒を残した。それは一種の宗教とでもいうべきなにかだ。山本夏彦は小林を神がかりと率直に言った。
 だが、そこにそれだけでは解決できない難問は残る。吉本が喝破したように、およそ民族国家というのは宗教によっているのだから。
 ここまで言えば、そういうお前は小林教を信じるのかと問われているに等しい。
 私はそれを信じていない。そもそも古事記というのは偽書だと言うにはばからない私である。古事記は道教だぜとも言う。ではなぜ、私が、小林に惹かれ、宣長に惹かれるのかと言えば、私の人生が日本人の、日本語の情というものによって成り立っている根底的な限界の意味を受容する他はありうべくもないからだ。
 むしろ、私の死はその限界を超えるものであってもよいに違いないのに。

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2008.02.21

[書評]反哲学入門 (木田元)

 率直に言うと暇つぶしくらいの気持ちで木田元「反哲学入門」(参照)を買った。というのも、たぶんまたいつもの木田先生の著書と同じ内容なんじゃないかなと高をくくっていた。が、比較的新刊書っぽいし、見開いたところにちょっと気になる話(subjectという言葉の歴史の解説)があったのと、前書きを見るとまたぞろ口述筆記本らしいが木田先生だからいいかと思った。夜、眠くなるかもなと読み始めたが、やばいやばすぎる。すごい面白い。二時間くらいで読めるが、もったいなくて読書速度が遅くなる四時間くらいかかる。すると徹夜になると思ってとりあえず閉じた。

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単行本
反哲学入門
木田 元
 本書の内容は木田ファンなら特に目新しいことはないと言ってもいい。講談社学術文庫「反哲学史」(参照)と同じと言っていいかもしれない。その意味で結局本書も「反哲学」とメルロー=ポンティ風なタイトルになっているが、要するに後期ハイデガー論である。なので当然、ハイデガーや「存在と時間」(参照)も出てくるし、「ハイデガー『存在と時間』の構築(木田元)」(参照)のダブリがあるのだが、なんというのか、本書はところどころ、はっとさせられる。要点をかなり踏み込んで言い切っているためだろう。あるいは、すいすいと読める読書の速度が理解の全体像を捕捉しやすくしている。それでいて要所のディテールはしっかり語られていて、つまづきがない。たぶん、哲学プロパーというか哲学関連の院生とかでも得るところは多いのではないか。もちろん、ディテールで木田先生それは違いますよといった点はあるのだが(ケプラーとか)、それはそれとしてしかたない。
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反哲学入門 (新潮文庫)
 ハイデガーについては、私は率直なところ竹田青嗣も木田元もなんか違うなという印象を持っていた。特に「極東ブログ: ハイデガー「技術論」から考える新しいゲシュテル」(参照)で触れたあたりだ。本書でもそのあたりはやはり踏み込まれていないのだが、ゲシュテルの視点と木田による後期ハイデガー論のリンケージというか総合理解みたいなものを得る機会は得られた。
 またこれは自分の無知の表明でもあるのだが、「極東ブログ: 「自然」という言葉を愚考する」(参照)あたりの考察もかなり整理できた。
 ソクラテス、プラトン、アリストテレスの三者の微妙な関係についてもかなり腑に落ちた。特にソクラテスについては孔子なんかでもそうなのだが思想家というより史実の人物としての理解も必要になるのでそのあたりは少し勉強しなおそうかなとも思った。
 読みながらはっとしたというか、「そうなんです、木田先生!」とうなるのは次のようなところだ。

 しかし、デカルトの「理性」とわたしたち日本人の考えている「理性」の違いを意識している日本の哲学研究者はほとんどいないのではないでしょうか。デカルトを読みながら、当分自分たちも同じ理性をもっていると思い、そのつもりでデカルトを理解しようとしているようです。

 小林秀雄の愛読者である私は「方法序説」(参照)を高校生時代に読んだし、小林秀雄のいう「常識」くらいには理解していた。が、その後チョムスキーを体系的に読むことになり、特に「デカルト派言語学 合理主義思想の歴史の一章」(参照)と「言語と精神」(参照)でデカルトの言う理性の意味がわかり愕然としたことがある。と同時に、みんなデカルトを理解しているのか、チョムスキーを理解しているのか、と叫びたいような衝撃を受けたものだ。大げさといえば大げさなのだが、その思いはこっそり今でも抱いている。特に、昨今、チョムスキーがアメリカ批判の文脈でしかも先進的な科学者として語られているとき、チョム先生はデカルトと同じだよ、何を考えているのかみなさんわかってんのか、とかちょっと思う。いやちょっと理性を逸した書き方になってしまったが、木田元は本書でデカルトの「理性」をこう説明している。

 たとえばデカルトは、この本の本文の冒頭、つまり第一部の冒頭でこう言います。「良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである」。この「良識(ボン・サンス)は数行後に「正しく判断し、真と偽を区別する能力、これこそ、ほんらい良識(ボン・サンス)とか理性(レゾン)と呼ばれているものだ」と解説され、さらに「自然の光(lumiere naturelle)とも言いかえられています。そして、この「自然の光り(lumen naturale)は『哲学原理』(Ⅰ三〇)で「神からわれわれに与えられた認識能力」と定義されます。
 要するにデカルトの言う「理性」は、神によってわれわれに分かち与えられたものであり、われわれ人間のうちにありながらもわれわれのもつ自然的な能力ではなく、神の理性の派出所とか出張所のようなものなのです。だからこそ、そこに個人差はなく「公平に分け与えられていて」、これを正しく使いさえすれば普遍的な認識ができるのであり、のみならず、世界創造の設計図である神の理性の出張所なのだから、これを正しく使いさえすれば、世界の奥の奥の存在構造を捉えることもできるのです。
 わたしたち日本人も、「理性」という言葉を使うことはあります。「あまり感情的にならないで、理性的に話し合おうよ」といった言い方をすることは珍しくありません。しかし、そうしたばあい、私たちが考えているのは、やはり人間が持っている認知能力――生物として環境に適応するための能力の一種――の比較的上等な部分のことなので、わたしたちのもつほかのさまざまな能力と同じように個人差もあれば、その時どき働き方にも波があります。こんな「理性」の概念でもって、デカルトのいうような神的理性の派出所としての「理性」を理解しようとしても、できるはずはありません。

 とてもではないが、これは「分別」などと訳せるような概念ではない。そしてこの木田の解説からうっすらチョムスキーが見えてくる不気味さをなんと言っていいのかわからない。もちろん、チョム先生は「神」なんてことは言わないのだが、彼が説く人間の尊厳の根拠性としての創造力というのはほぼユダヤ教的な「神」に等しく、またその理性が進化論的な説明を拒絶しているのは往年のピアジェをコケにした議論からも理解できたものだった。
 チョムスキーの言う言語能力というのもこの理性の数学的な表現になる。言語能力とは構文能力であり構文の同値を維持しつつ変換する数学的な演算群なのだ。このあたりも本書の木田の説明が呼応する。ここでいう数学を言語に置き換えてみるとわかりやすい。

ところが、数学的諸観念、たとえば数の観念や幾何学的図形の観念は、感覚的経験に与えられたものから獲得された経験的観念ではありません。2や3といった数の観念に対応する対象や、純粋な二次元の平面に幅のない直線で描かれた三角形の観念に対応する対象が、われわれの感覚的経験に与えられることはけっしてないのです。にもかかわらず、われわれの精神のうちにはそうした観念がある。しかもすべての精神に普遍的にそうした観念がそなわっていて、それによって普遍的な数学的認識をおこなうことができる以上、こうした観念はわれわれの精神に生得的なもの、神が精神に等しく植え付けた「生得観念」だと、当時の人たちは考えたのです。

 チョムスキーの言う言語の生得性はこれとたいして違いはしない。
 他にもいろいろ啓発される指摘があるが、後期ハイデガーについて、次の説明はごくあたりまえものだが、木田が説明している以上の含みをもつと思った。いわゆるサルトルとの対比されるヒューマニズム論なのだが。

 ここでハイデガーは人間よりも〈存在〉の方が、そしてその存在の住まいである〈言葉〉の方が先だと主張します。ただ〈存在〉と言われても、雲をつかむような感じですが、『存在と時間』の時代には〈存在了解〉(〈ある〉ということをどう了解するか、〈つくられてある〉と了解するか、〈成りいでてある〉と了解するか)と言われていたものを思い出せばよいと思います。その後ハイデガーは、〈存在〉というものは、現存在(人間)がああ了解したりこう了解したり、現存在に左右することのできるものではなく、むしろ存在自体の方から現存在に、ああ現れてきたりこう現れてきたりするもので、現存在はそれを受け容れるしかないと考えるようになり、それを〈存在の生起〉と呼ぶようになりました。彼の考えでは、その〈存在の生起〉は〈言葉〉のなかで起きるのであり、だからこそ〈人間〉より〈言葉〉の方が先だと言うのです。
 (中略)
 しかし、ハイデガーのこうした考えた方が、人間より構造が先だと主張し、やはり反ヒューマニズムを標榜することになる二十世紀後半のフランスの構造主義やポスト構造主義の思想家たち、デリダやラカンやフーコーやドゥルーズといった人たちに大きな影響を与えたことは、ご存じの方も多いと思います。

 木田はこうして人間を越える構造や、人間主義的なものや形而上学の解体という思想史の理路を眺望させるのだが、それよりも、ハイデガーが戦争との関わりで見せた、民族主義化した情念的な政治実践傾向に、むしろ民族言語という経験=歴史の、人(現存在)への優位という奇っ怪なイデーが存在したのだろう。つまり〈存在の生起〉は民族言語として意識化された言語の内部から発生する。
 そこにある意味でファイナルな問題が存在する。それは小林秀雄の『本居宣長』(参照)のテーマである。後期ハイデガーと本居宣長の奇妙な連携のようなものも見えてくる。

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2008.02.20

米国偵察衛星のミサイル破壊

 米国偵察衛星のミサイル破壊実験だが、15日付け産経報道では”米衛星破壊、ミサイル発射は20日以後”(参照)とあり、そういえば今日だなと思い出し、欧米のニュースを見ると19日ロサンゼルスタイムズ”Pentagon might launch missile at satellite Wednesday”(参照)によれば米時間で今日ということだ。けっこう早いものだなと思うので忘れないうちに雑感程度だが書いておこう。
 米国偵察衛星のミサイル破壊実験についてだが、15日付け朝日新聞記事”米、偵察衛星をミサイルで破壊へ 人体に有害な燃料搭載”(参照)の書き出しが簡素に要点をおさえている。


 米国防総省は14日、制御不能で地上に落下する見通しのスパイ衛星を、大気圏再突入前にミサイルで破壊する、と発表した。衛星には人体に有害な燃料ヒドラジンが積載されており、地上への飛散を回避するのが主な目的。米国のミサイル防衛システムが人工衛星の破壊に使われるのは初めて。

 さらりと書いているがこの記事を書いた記者はかなり優秀で、今回の実験目的がミサイル防衛システム(MD)の一環である示唆を巧妙に含めている。

 発表によると、この衛星は米国家偵察局(NRO)が06年12月に打ち上げたもので、直後に制御不能になった。小型バスほどの大きさで、重さは約1.1トン。姿勢制御用燃料ヒドラジンを約450キロ積載している。2月下旬から3月にかけて地上に落下する見通し。

 サイズ的には大きいようにも思えるし、有毒なヒドラジン関連の米国説明もあながち嘘ということでもないようだ(ちなみヒドラジンを含む衛星落下の懸念が今回初ということではない)。が、米国艦船つまりイージス艦から海上配備型迎撃ミサイルSM3で打ち落とすということでこれはMD実験であることは明白だろう。中国報道CRIが17日付け”米の衛星破壊は「新たな戦略兵器の実験」とロシアは懸念”(参照)でロシアの懸念を伝えているのが奥ゆかしい。

 アメリカ国防総省が、制御不能になって地球に落下する恐れがあるスパイ衛星をミサイルで破壊すると発表したことに対して、ロシア国防省は16日、「アメリカは、新たな戦略兵器の実験を計画しているのだろう」と懸念を示しました。

 やはりわかりやすいコミュニケーション技術というのは必要なものでロシアはきちんとメッセージを受け止めているし、中国も中華風に伝えていることになる。
 今回の実験だが、ネットを見ていたら、先日の中国による衛星破壊実験を米国が責めていながら、その米国が同じことをするというのはどうよという意見もあった。この点についてはしかし、軍事的な威嚇という意味では正しいが、汚染について米国が理不尽ということではない。

 人工衛星のミサイルによる破壊は、07年1月に中国が実験として実施。破片が他の衛星などに衝突する危険性や、宇宙での軍拡競争につながりかねないとの懸念などから、米国などは中国を強く批判した。
 今回の衛星破壊について米航空宇宙局(NASA)のグリフィン長官は「中国の衛星破壊実験は高度約850キロで行われ、破片は数十年とどまるが、今回は(破壊高度が低く)破片は数カ月以内に落下する」と話し、問題はないとの認識を示した。

 上空約240キロの大気圏外で破壊になるので、この米国の認識は科学的に正しいと言ってよいだろう。そのあたりの科学的な理解がなく反米なり親中といったイデオロギー的な理解に矮小化しても問題は見えない。むしろ、SM3ってそんなに高度が上がるのかというのは強い軍事的なデモンストレーションになるのだろう。
photo
LA Timesイラスト
 気になるのは、中国もやったから米国もやった的な議論もまた、どうも浅薄な印象を受ける。詳しく情報を整理するのがめんどくさいので記憶によるだが、昨年1月の中国による衛星破壊だが、中央の北京政府側がきちんと軍事部門を統制できてなかったような情報の混乱と、さらに事後米国は中国を非難したが事前のプロセスでは実質的に中国が衛星破壊を行ってもよいと見なせるようなシグナルを出し、ある意味で中国がこれにひっかかったような経緯がある。陰謀論とまでのことではなく、こうしたシグナリングは軍事外交上普通のことだがそれでも米国が端から中国による衛星破壊を阻止しようせず、これを機会とする可能性と北京政府側のグリップを注視していたようすはあった。今回の件でも北京政府側はオリンピックなどを控え忍耐強く耐えているかのようだが案外米国の今回の実験に親和性をもっている可能性もある。が、経済関係で実際にはポールソン・ウー対談の失敗から米中関係が冷え込んできており、また中国政府投資の背景などもあり、いろいろ慎重にならざるえないというあたりが妥当な観測だろう。
 今回の実験について米国ジャーナリズムの受け止めはどうかというと、先のロサンゼルスタイムズの記事でも実質MDに焦点を当てていることから、やはり軍事威嚇としての理解は広まっている。16日付けニューヨークタイムズ社説”Taking Aim at a Disabled Satellite”(参照)でもその配慮が見られる。冒頭から衛星攻撃兵器(anti-satellite:ASAT)の話題が出てくる。

The United States has given a plausible reason for wanting to shoot down an errant spy satellite before it can tumble to Earth and release potentially harmful gas near the impact point. But that hasn’t calmed suspicions that what the Bush administration really wants to do is test its capacity for waging anti-satellite warfare.

 社説の次の指摘はブロガーに焦点を当てている点で興味深い。

Some experts and bloggers are skeptical that safety concerns are the main reason for this effort. They speculate that the Pentagon is worried that if the satellite does not burn up it might give away secret technology to any enemy that found it. Another theory is that the Navy really wants to test whether its missile might have applications as an anti-satellite weapon, or that the United States is eager to trump China, which shot down one of its own satellites last year. American officials firmly deny all of these speculations.

 米国では対抗ジャーナリズムとして"Some experts and bloggers"が存在感をもっている。引用後半部はすでに触れたように対中軍事的な疑念だが、前半の"it might give away secret technology to any enemy"という技術的な疑念もあるらしい。そこまでは考えすぎだろうと、日本のブロガーの一人として思うが。

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2008.02.19

[書評]脳を鍛える!(シンシア・R・グリーン)

 表題から連想できる程度のハウツー物なので「脳を鍛える! ボケないための8つの習慣」(参照)はブログで取り上げるほどのことはないかというのと、でも2002年の出版で新刊書でもないので弾小飼氏に献本されてもいないだろうから……。ただ読み方のアングルがハウツー的ではなかったせいか、自分なりには面白かった。

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脳を鍛える!
ボケないための
8つの習慣
シンシア・R・グリーン
 読んだ理由は、またしても「極東ブログ: [書評]奪われた記憶(ジョナサン・コット)」(参照)なのだが同書の対談者シンシア・R・グリーンの本の邦訳本を探したらこの本が見つかったのでなんとなく読んでみたというくらいだ。オリジナルは「Total Memory Workout: 8 Easy Steps to Maximum Memory Fitness」(参照)。初版は1999年らしい。邦訳は2002年。いずれにせよ古い本かな。邦訳はたぶん、「脳を鍛える」と「8つの習慣」という当時のベストセラーのドジョウ狙いがあったのではないかと思うが、オリジナルタイトルの「Total Memory Workout」の主眼は「全体的な記憶力」という点にありそうだ。そして「Memory Fitness」には老化防止の含みもあるだろう。ベイビーブーマー世代が老化を迎えそれにライフスタイルの一環として対応しようという意図がある。
 コットの書籍では、シンシア・R・グリーンはこう紹介されている。

グリーンはニューヨーク市のマウント・サイナイ医学校およびマウント・サイナイ医療センターに勤め、マウント・サイナイ病院における記憶力増強プログラムの創始者である。これは健康な成人のための記憶管理プログラムで、このテーマに関する最新の神経科学的研究を応用した「脳を鍛える! ボケないための8つの習慣」(手塚勲訳、山と渓谷社)の原理に沿った六週間の授業からなる。

 著者シンシアは医師であり、健康者を対象とはしているが本書は基本的に医学的な観点から書かれている。
 コットのインタビューでも強調されているが、シンシアの記憶増強の原理はAM原理とされている。Aはアテンション(注意力)、Mはミーニング(意味)である。記憶力を増強したいなら、記憶対象に注意力を払えるようにすること、そしてその意味を了解すること、ということだ。
 AM原理は、ごく当たり前といえば当たり前のことだが、いわゆる記憶力ハウツー本は本書の後半に書かれている、トリックフルな記憶術的訓練と習熟の関連が多い。つまり、コンピューターのように記憶を入れては出すといった頭脳を獲得したいという要望に応える書籍がどうしても多い。だが、AM原理はそれと本質的に異なっている(まったく異なっているわけではない)。全体的な記憶力にとって重要なのは、覚えるべきことにいかに注意を払えるかということであり、その意味をどう了解したかということだ。いわゆる記憶はそれに従属的なのだ。
 私自身おやっと思う間に50歳とかになってしまい、記憶力衰えたかなと思うことがある。アレなんだっけ思い出せないな、みたいな状況がある。爺だな俺みたいな。ただ、冷静に考えてみるとどうも自分が溜め込んだゴミのような記憶が膨大になっていて、それに対する注意力の配分が問題らしく、記憶力自体はそれほど若いときと変わってないようでもある。本書でも老人の記憶力低下とされているものは、病変でなければ、注意力の維持が年齢とともに衰えることだとされている。そう言われてみるとそのほうが思い当たることはある。
 新しいことを覚えるときでも、基本的に過去の学習の枠組みを応用してしまい、そしてたいていの場合はそれが有用なので、新規なものの学習が阻まれるし、新しい名称など過去の枠組みの名称分類に影響されるあたりが、記憶力の低下のようにも現れてくるのだろう。が、案外、若い学生さんとかでも同じようなことがあるかもしれない。若いときはいわゆる学習に向けるべき注意を散漫にする魅力的なことが多いだろうから。
 何に注意を払いどこに意味を感じるかということに、年を取ると過去の記憶が影響するのが問題なんだろうなと本書を読みながら理解した。
 関心や感覚をリニューしつつ、古い関心を整理して、注意力を維持し、未知な分野を理解しようとしてくと、それなりに脳の機能というのはそれほどは老いないものかな。そのあたりに関心がある人ならこの本、図書館とかで読んでみてもいいかもしれない。

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2008.02.17

[書評]記憶と情動の脳科学(ジェームズ・L・マッガウ)

 先日のエントリ「極東ブログ: [書評]奪われた記憶(ジョナサン・コット)」(参照)にも書いたが、コットのインタビュー相手、神経生理学者ジェームズ・L・マッガウによる、初心者向け書籍の邦訳がブルーバックスにあることを知ったので、この機会に比較的最近の脳機能の知識についてまとめておいてもいいかなと思い読んだ。「記憶と情動の脳科学」(参照)である。

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記憶と情動の
脳科学
 一読して、特に新しい知見はないなと思い、ましてブログに書くこともないだろうと思っていたが、もし書くとしたらどのあたりがポイントだろうかと再読してみて、これは重要な書籍かもしれないと考えを改めた。
 まず、これも先日のエントリ「極東ブログ: [書評]アリはなぜ、ちゃんと働くのか(デボラ・ゴードン)」(参照)ではないが、ちょっと利発な高校生くらいなら読んでおくとよい。ゴードンとは違った意味で、科学の考えかたというものがよく理解できる。
 本書だが一読して概ねたいしたことはないと思ったのだが、読みながら最初にアレ?と思ったことは、パブロフの古典的条件付けについてだ。これは間違いですとマッガウが断言し説明していた。率直に言うと30年前の私でもこんなソ連のバカ学者のくだらない理論が大手を振るっているのは、しかも米国で大手を振るっているのは、どうかしてんじゃないのと思っていたが、それでも主要学派の基礎理論っぽいのでどうでもいいやとしていたのだが、きちんとこれは間違いですという解説があったのでアレ?と思った次第だ。ちなみに、ウィキペディアの同項目(参照)にはつまらない話しか掲載されていない。どころか、ヘッブ学説がさも古典的条件付けを裏付けているような変な説明がある。

古典的条件づけのモデル
ドナルド・ヘッブは1949年、神経細胞間の結合強度(伝達効率)の変化によって古典的条件づけを説明できる仮説を提案した。こうした、神経細胞間の結合強度が刺激によって変化していく性質を、シナプス可塑性という。のちに生理学的にもその存在が確認され、ヘッブの法則(あるいはヘブ則)と呼ばれてる。

 ついでにパブロフの項目(参照)を見て、笑った。

晩年は睡眠や本能などを研究する傍ら、再教育を考えていたウラジミール・レーニンと親交を結び、条件反射の発見は「全世界の労働者階級にとって重大な意義をもつ」と賛辞が与えられた。

 いやはや。本書ではこう指摘されている。

 古典的条件づけが単に学習された反射から成るという見方も、また多くの実験によって問題されました。パブロフの研究室のほとんどの実験で、イヌは、「条件づけされ」て、装具で制限された状態でテストされていました。あるとき、食物によって(反応として唾液分泌を起こすように)訓練されたイヌが装具から解放されました。条件づけの刺激が示されると、イヌはすぐに給餌装置に走りより、装置に向かってしっぽを降り、装置に飛びかかろうとし、吠えたりしました。
 言い換えると、そのイヌは、食物を求める行動パターン全体を、非常にはっきりと示したのです。古典的な実験で条件づけされていたのは、唾液分泌反応というたった一つの反応ではなく、食物を求めるというシステム全体だったのです。

 皮肉な言い方をすれば、犬を縛り付ける装具が社会主義だったようなものだが、冗談はさておき、類似のS-R理論や報酬理論なども同じことが言える。

 報酬は、ヒトや他の動物がすることに影響します。しかし報酬が自動的にS-R結合を強化することによって影響を与えるのではないことが、現在でははっきりとわかっています。したがって「効果の法則」は、今となっては歴史上の遺物です。「効果の法則」は現代の学習と記憶の理論としては不適切なのです。

 この先でマッガウはなぜこんな間違いが科学とされてきたかについて「ハルが効果の法則を提唱した頃は、そもそも合目的的に動くしくみという発想そのものがなかったのです」として、合目的性が現代の学習・記憶理論の基礎にあることを示している。つまり、「合目的的に行動する能力には記憶が必要なのです」ということ。
 引用が多くなり、考えようによってはあたりまえのことだが関連をもう一箇所引用しておきたい。

重要なのは、ある出来事が、別の出来事が起きること(あるいは起きないこと)を予告する情報を持っているかどうかです。既に動物が持っている知識からのずれがあるとき、古典的条件づけは成立します。それよって、動物はさまざまな出来事の関係を理解し、自分を取り巻く世界のありかたを学ぶのです。

 合目的性や世界認識、予想といったものによって記憶や学習が秩序づけられている。さらにラットなども認識、判断による記憶の秩序付け、推論といったことから行動していることも示される。
 あたりまえなのだが、このあたりの科学について、どうもいわゆる応用された学習理論というか現場の教育理論のベースには至ってないように思われる。というか、現状の教育理論はいまだにS-R理論的な古い時代の理論に基礎をもっているように思える。
 いわゆる学習や記憶について、教育の現場では反復の重要性などが説かれているが、本書を読めばわかるように、それは脳機能の点からは概ね否定されている(だから反復的な学習が不要だということではないが)。「短期記憶と長期記憶は同一のプロセスで形成され耐久性が異なる」ということも否定されている。もちろん、長期記憶は時間をかけて固定するのだが、短期記憶とは異質なものだ。この異質性は、陳述記憶と非陳述記憶の差にも表れ、さらにそれが脳機能構造の差異にも由来する。
 具体的に、海馬、扁桃体、大脳皮質についての関わりが本書では丹念に慎重に語られているので関心ある人は一読されるとよいだろう。このあたりの説明だが、簡単に海馬が記憶を担っていますというような単純なものではない。加えて、「健常者でも猛烈に記憶すれば海馬の構造が変わる」という事実は何を意味しているのか現段階では不明だが非常に興味深い。
 本書からは箇条書きにできるような記憶や学習のコツを取り出すことは難しいし、そうした記憶力の賛美をマッガウはどちらかといえば否定している。だが、ストレスは記憶力の向上に役立つとはいえそうなので、学校とかの場所はストレスフルであったもよいのかもしれないなと寝惚けた感想ももった。逆に想起するときはリラックスしたほうがよさそうだ。
 結局、記憶とは何か? 脳の機構として見た場合、何なのか。そういえば以前、半分おふざけで「極東ブログ: おばあちゃん細胞が発見された」(参照)を書いたことがある。
 記憶や学習成果というのは、先にパブロフについてのウィキペディア項目からヘッブ仮説を引用したが、一般的にはシナプス可塑性から理解されることが多い。本書では、LTPとして扱っている。

 この活動依存性のニューロン結合の変化は、プリスとレモが「長期持続増強」と呼んだもので、今では「長期増強(LTP)」と呼ばれています。

 マッガウはこれに慎重な態度を示している。

 このように、これまでのたくさんの研究で、LTPが多くの条件で学習に関係していることが示され、そのことを疑う余地はほとんどありません。
 しかし、今までの研究で欠けているのは、LTPと学習が決定的に関係しているという証拠です。言いかえると、LTPが学習に必須であるかどうかを明らかにする証拠がまだありません。また、記憶を固定化する過程は時間がかかりますが、LTPがその過程の中のいつ起こっているかもわかっていません。

 マッガウはこの分野の世界的な第一人者であると言っていいだろうし(参照)、脳の形成にはごくあたりまえに進化論的な枠組みで考えている。が、すでに見てきたように、パブロフ的な単純な機械論や、シナプス可塑性がイコール記憶や学習の実体としているわけではない。むしろ、記憶の持つ合目的性という枠組みが見て取れる点は生化学の現在の側面をよく示している。

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