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2008.11.15

[書評]〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組(須原一秀)

 須原一秀の「〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組 体は自覚なき肯定主義の時代に突入した」(参照)を読み返した。

cover
〈現代の全体〉をとらえる
一番大きくて簡単な枠組
体は自覚なき
肯定主義の時代に突入した
須原一秀
 以前は彼の自死の文脈で読み、そして今度はさらにそうした文脈で読まなくてはらならだろうと思っていたが、意外とさらっと読めた。もともと私は須原と似たような考えをしていることもあり、どちらかというと私にはつまらない本だった。こんな本だったのかなと、少し嘆息した。ただ、そのあと、あることにはっと気が付いた。そして、この本の意義を再確認した。
 同書についてだが、アマゾンの読者評にとても優れているものがある。これだけ書かれていたら、特にブログでエントリを起こす必要もないのではないかと思えるほどだ。

★★★★★ 密かに読まれ、でも、なかったことにされる(かもしれない)本, 2005/4/30
By モワノンプリュ (Japan) - レビューをすべて見る
 とてもいい本だし、破壊力もある。しかも、それこそちょっと気の利いた高校生ならラクに読みこなせる、易しい言葉と、スッキリした論理で書かれている。
 著者の主張はp175に、これ以上ないほど簡潔明瞭に述べられている。要するに「普遍的な正義と真理の実現という積極的理想は放棄しよう。民主主義制度の枠組みの中で、人類の共存・共栄に向けて地道な努力を続けよう」ということ。
 著者自身も自覚しているように、主張そのものは別に目新しいものではない。しかし、これも著者がp166で述べるように、これを「『哲学の不成立』という事情と『肯定主義』という現実の潮流にしっかり関連づけ」て論じている点が、本書の魅力。しかも韜晦とは一切無縁な、議論そのものに淫することのない、まっすぐな言葉で綴られている。それがどんなに貴重なことか! まともに受け止めれば、現在の思想界に棲息する大半が、自ら恥じて筆を折ることになるはずだ。
(後略)

 概ねそれでいいのだが、より正確にいうと、須原はもっとめちゃくちゃともいえる価値観を日本国家という単位で世界に向けて語ろうとしている。そのあたりの舌鋒はまるでギャグであるかのようだが、たぶん、本気だろう。あるいは本気だったのだろう。こんな感じだ。

○最終提案 そこで日本国民は、自らの悲劇的・消極的傾向を克服しつつ---「原則がなく、非論理的だ」という非難をものともせず---アメリカのブッシュ大統領に、国際テロ組織の黒幕ウサマ・ビンラディン氏に、朝鮮民主主義人民共和国の金正日総書記に、イランの最高指導者ハメネイ師に、そして国連に、そして世界に、積極的に働きかけていくべきではないでしょうか。
 すなわち、「アメリカ的グローバリズム」に対抗して「アマイ!」と言われても、「タルイ!」と言われても、「日本的グローバリズム」を打ち立てるのです。

 太字は本文では傍点が施されている。
 ここは普通に読んだら私のブログのエントリの大半がそうであるようにギャグだ。そして私のブログのエントリの大半が同時にそうであるように本心だ。須原は本当にそう主張している。そしてその矛盾した意味合いは、本書を読むとわかる。
 そしてこのギャグのような理論のどん詰まりというか破綻というものが、哲学の死の後の思想の最後の形態であり、なぜ彼がそれを望んだかというと、それは端的に言えば、妥当なかぎり自由であることによって人々の善が保証されうる世界の前提となると確信したからだ。
 そこも先のアマゾン読者評はよく捉えている。須原は明確に世界を意志をもってこの本を書いたしし、ゆえに易しく書いてある。
 ただ、そのある過剰さが、さらに自死に帰結していく理路をどう読み取るべきかと私は悩んだし、その理路を読み取る意味はないかもしれないとも悩んだ。
 本書の真骨頂は本文やいわゆる主張ではなく、むしろ注記のほうにある。ところどころ、おそらく本文に想定されていない読者に向けて、ぞっとすることが書かれている。例えば、こうだ。

 また、本書で言う「ソフトウェアー主義」とドナルド・デイヴィッドソンの言う「図式と内容の二元論」との関係が気になっている人も居ると思います。
 結果としては、本書はそれらとほとんど同じことを主張していることは間違いありません。しかし、デイヴィッドソンの真理条件的意味論は、結局は本人もよく分からないことを主張しているように思える箇所が何箇所もある上に、基本的には専門家向けの議論でしかありません。

 須原のこの粗雑な小冊子がデイヴィッドソン哲学と同じなのかと言えば、哲学の院生とかは待ってくださいよと言いたくなるだろうが、もし彼らに、じゃ、どう違うのか私らにもわかるように語ってみてくださいなということがマジになれば、恐らく須原と同じことになるだろう。院生は未来があるし、いわゆる象牙の塔の住人はそれをしないだろう。須原が言っているのは、塔に響く音響を窓から出してみたということだ。

 ただ私としては、哲学などまったく知らない普通の人に、普通の感覚で通じる内容を伝えるためだけに言葉を使うべきだと考えていますし、それで伝わる内容だけが意味がある主張だと考えているからでもあります。

 ここには奇妙な陥穽があるかもしれないが、次のように続くとき、ぞっとしてくる。

 つまり、デイヴィッドソンの主張はどんな工夫をしても普通の人、あるいは普通の大学生には伝わらないはずです(これは高等数学が伝わらないのと意味が違います。)したがって、それだけの理由で、彼の主張を無視することは正当化されると考えます。
 というわけで、どんなに読書力と好奇心を持っている人でも、哲学の専門以外の人にとって、デイヴィッドソンの書物を読む必要はないと思います。

 それを言うならすべての思想家の思想にも当てはまる、ありがちな粗暴な意見だが、さらにこう続く。

 しかしローティーに関しては知識人は読むべきだと思います。

 本書はローティについては触れていない。が、また注記にはこうある。

 つまり、ローティーが欧米の社会に対して遂行しようとしたことの一部を、多分その影響がなかなか及ばないであろう日本の社会において、日本の社会に受け入れやすい形にして遂行しようとしているのが本書である、と考えていただけないでしょうか。
 あるいは、ローティーとは別の論拠から、別の仕方で根拠付けて、ローティーと同じ主張を展開しているのが本書である、と考えていただけないでしょうか。

 須原はそして、リチャード・ローティの「哲学と自然の鏡」(参照)、「哲学の脱構築」(参照)、また解説書として「リチャード・ローティ ポストモダンの魔術師(渡辺幹雄)」(参照)を進めている。須原は挙げていないが、これにおそらく「リベラル・ユートピアという希望」(参照)を加えてもよいだろう。
 穏健に考えるなら、須原はローティの解説をやや象牙の塔の黴香を漂わせて語りつつ老いてもよかっただろう。だが、彼が直裁にローティを選択しなかったのはまさに彼がローティ的であったからだ。知が知であることを戯れるようなバカを却下し、足下の日本をきちんと見つめないかぎり、それは虚偽だと思えたのだろう。

 本注も哲学に詳しい人だけのためのものですが、本書の主張をここまで読んできた読者の一部は、カール・ポパーの「プラトン批判」、「ペースミール・メソッド」、「反証主義の理念」と本書の主張の関連が気になっていると思います。
 実は、ポパーの著書『自由社会の哲学とその論敵』(世界史思想社)の訳者である武田弘道氏は私の指導教官であり、彼の下で学部の学生の頃から分析哲学を専攻していましたから、もちろん計り知れないほどの影響を受けているわけですが、しかしここでは一般読者を想定していることと、反哲学的・日常的な立場を標榜している関係上、それらの関係で細かい議論をすることを避けました。
 私は、若干の留保付きで、基本的にポパーは正しいと考えており、本書での私の主張も基本的にはポパーを超えるものではありませんが、西洋哲学と啓蒙主義の伝統、さらには合理主義にこだわった彼の議論展開は非西洋人にとってはどうでも良いようなことが多いので、この際避けるのが賢明ではないかと思ったわけです。


 普通人が通常、西洋哲学の伝統や「合理的な一貫性」を気にしないのと同じように、私の主張もまた、西洋哲学の伝統も合理的一貫性も気にしないで、普通の日本人の心情に訴えながら論旨を展開しています。

 それは西洋対日本というより、日本の知識人が擬似的に西洋を装うことのバカさ加減を避けるためであっただろうし、それこそ虚偽であり、須原はそこにまず明解な生き方や国家、社会のあり方の意味を問いたかったのだろう。
 そう考えると、須原の哲学のある一貫性とは、実は、虚偽の拒否であったようにも思える。
 私は、このエントリを書きながら、やはり須原の自死は間違いであると確信するようになった。

 しかし、本書のような一般向けの書物では、そのような言及が成功裏に成立したとしても、煩瑣な構造の立論になってしまうのではないかと危惧し、割愛しました。別冊の形でそのうちに取り上げてみたいと考えています。

 「そのうちに取り上げてみたい」という言葉が、きちんと、沈黙ながら読者の心に約束として響くということを、須原は受け止めるべきであった。

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2008.11.14

[書評]自死という生き方 覚悟して逝った哲学者(須原一秀)

 哲学者、まさに哲学者としか言えないだろう須原一秀の著作は三冊読み、最初に「極東ブログ: [書評]高学歴男性におくる弱腰矯正読本(須原一秀)」(参照)を書いてからしばらく、その先が書けなかった。その次の「“現代の全体”をとらえる一番大きくて簡単な枠組―体は自覚なき肯定主義の時代に突入した」(参照)はようするに、本書「自死という生き方 覚悟して逝った哲学者」(参照)へのつながりで読むしかないし、そのことは自死という問題に直面することだからだ。

cover
自死という生き方
覚悟して逝った哲学者
須原一秀
 正直にいうとそれに直面することは怖かった。今でも怖いと思っている。ただ、なんとなく今書かなければ書くこともないようにも思えるし、心がまとまらなくてもそれなりに書いておいてもいいかもしれないと思えた。今手元のこの書籍をパラパラとめくってみて、ある意味で普通の本には思えた。またこの須原は、どちらかというといつまでたっても心に老いを迎えることのないタイプの男性として私によく似ているように思えた(お前なんか五〇歳の爺じゃないかと罵声もあろうが)。
 死が怖いというのは、私には率直な感情だ。また率直に言わせてもらえば、死が怖くないという世人は、死の怖さを知らないからだ……おっとここは循環論法であって、そう恐怖が先に立つのである。私は今朝、二度絶叫して目が覚めた。たいていは一度の絶叫で目が覚めて、ああこの世というものはあるものか、トーストでも焼くかと思うのだが、今朝は執拗だった。おい、マジかよ、SFXかよ、というぶよぶぶよとした、水子の霊みたいなものが私を取り巻いてくるのだった。水子? 私には縁がないはずだが。まさかオナニーの精子が五十年分溜まったか呪いか……いやユダヤ教では受胎して初めて生命じゃないか……おっとそれはカトリックか……と冗談でも言わないことにはすまされないようなマジな恐怖だった。私はホラー小説も映画も好きじゃないが、どうしてこの手の絶叫系の悪夢から逃れられないのか。そりゃ心に恐怖を抱えているからで、おそらくすべてがそこにあり、死の恐怖はむしろその派生かもしれない。
 話がそれた。本書は、哲学者須原一秀が自死にいたる理由とそして、端的に言って人に自死を勧める話が、比較的快活に書かれている。読んでいて、うぅ暗いよ、死、死にたいよぉとなるような本ではなく、そうか、それならオレも老いさらばえるまえに死ぬかなふふふん♪というふうに、人によってはご納得するだろうような本、つまり、危険な本だ。本当に、危険な本というのがあるとすれば、完全自殺マニュアルとかよりもこっちかもしれない、そっちを読んだことがないので知らないが。
 本書は須原の自死後、家族に残されて出版された。出版にあたっては浅羽通明が関わり、標題を変え、つまらない前書きの解説がついている。まあ、しかたないか。須原としては本書のタイトルは「新葉隠 死の積極的受容と消極的受容」としていたそうだ。実際に読んでみるとそういうふうになっている。ちょっと正確な読みとはいえないかもしれないが、須原にしてみれば、人はみな死ぬのであるから結果的に消極的受容にあるわけで、それに対して積極的な受容という考えもあってよいだろう、という思想、哲学を開陳し、そして実践した。実践するかよという印象もなきにもあらずだが。
 葉隠についても言及がある。そういえば、本書は、その死の積極的受容のケーススタディとして、三島由紀夫、伊丹十三、ソクラテスを挙げている。須原がどれに近いかといえば須原の理解としてはソクラテスのつもりだったのだろう、と、私がこれにアイロニカルなのは、私はこの三者を須原は誤読していると思うからだ。そのことは後で触れるかもしれない。
 三島も死に際してというほどでもないが、葉隠についての著作を残している。私は当時カッパで読んだが、今アマゾンを見ると、「葉隠入門 (新潮文庫): 三島由紀夫」(参照)とある。悪い本ではないし、ある意味で、葉隠のもっとも根幹をきちんと当てている。つまり、人は生を好むものであり考えれば生を選ぶことになる。考えたら行動はできない。

武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわつて進むなり。

 生か死かという場に遭遇したらか、考えずに死ね、ということだ。「胸すわって進むなり」は、まさに須原もそうで、ゆえに新葉隠でもあったのだろう。
 重要なのは、その有名な冒頭よりこっちだ。

我人、生くる方が好きなり。多分好きの方に理が付くべし。

 つまり、理があれば、死を避けるようになる。考えるということはそれ自体の営みに生が含まれるし、あるいはそうでなくても、不様が含まれる。

若し図に外れて生きたらば、腰抜けなり。

 不様であるよりは死ぬのが武士道であり、それには理を考えてはならない、ということだ。
 これはこう書いてみるとギャグみたいだが、およそ哲学というもののアンチテーゼになっている。つまり、生と価値を最初に否定してみせる、あるいは肯定するために自らの死を置くという点で。
 私は青春時代にこのパラドックスというのは抜き差し難いものがあるとは思ったが、その後、隆慶一郎の「死ぬことと見つけたり」(参照上参照下)である種解毒した。
 須原には武士道というものはない。しかし、本書を読むと、不様を避ける思いはいろいろ描かれている。耄碌した人を見て、ああなる前に死ねるとほっとするといった心情が描かれている。それは、それだけでは、そう簡単に否定しがたい心情でもあり、倫理でもあるだろうが。
 さて、やはり続ける。
 私は須原は三島も、伊丹も、ソクラテスも、そしてもう一人、キューブラー・ロス(参照)も誤読しているなと思った。そう思うことで私が須原の自死の哲学を否定したいとしているのか、心に問い掛けてみるが、私は私なりに、こりゃ単純な誤読かなと、須原流にあっけらかんと否を唱えたい。しかしめんどくさいので簡単に書いておこう。
 単純に言おう。この四人、伊丹を除けば、死後の生を確信していた。三島についてはあっけらかんとは書いてないが、三島の死んだ日は彼の生誕の四十九日まであるように再生を確信していた。より正確にいうなら、そういう神秘体験があったのだと自身に納得させて死んだ(参照)。
 伊丹については、先日、NHKで伊丹についての番組があって見たが、ああいうライフヒストリーを持てばああもなるかという感じはした。最後に父を継ぐかのように映画監督に到達したのはそういう運命でもあった。おそらく岸田秀ならそのあたりはわかっているだろうが、同番組での岸田はにこやかに微笑み、そうした素振りは見せなかった。
 もし須原に、「自死ですか、はぁ、ところで、三島もキューブラー・ロスもソクラテスも死が生の終わりとは認識してなかったんすけど、どっすか?」と聞いたら、なんと答えただろう。なんだこの薄らバカと言下に嘲笑しただろう。もちろん、私も死後の生を信じているわけでもないし、てへへへと道化笑いをするだろう。そして、「先生が重視された変性意識は死の意味も変えるのではないですか」とまでは問わないだろう。

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2008.11.12

知人の自殺をきいて

 ごく私事といえば私事なのだがなんとなくブログに書いておきたくなった。知人が自殺した。一歳か二歳年上のかただった。パソコン通信時代からの知り合いだった。そのころの知り合いは、私が言わなくてもこのブログのことをは知っているものだが、彼についてははっきりとこのブログを書いていると告げた数少ない人だった。当初は私が珍妙な古代史観をもっていることに興味を引かれたらしくそんな交流をしていたものだった。
 あのころの私は今のようにネット上での交友関係から引きこもるふうでもなく、よくオフ会なども出たものだった。でも不思議と奇妙な縁で彼と面識をもつ機会がなく、初めて会ったのはこの夏の終わりだった。そしてそれが最後になった。それから数日して彼は自殺したということになる。
 彼とは喫茶店で二時間も尽きぬ話をした。その後の古代史観についても話した。古代史というのは、素人にはトンデモ説花盛りの幻想の領域だし、彼もそこを楽しむ人ではあったが、私も彼も、どこまでが正統説でどこまでがトンデモ説かの線引きの意識があった。この趣味を持つ人だと意外とこのあたりの線引きの意識をもつ人は少ないものなのだが。
 彼はその話題を一通り終えると、もう古代史の興味は終了しましたと言った。私ももう終了していますよと答えた。正確に言うと私の場合は、これ以上考えても、あの一線を越えて主張できるものはない。いずれ二百年もすれば我々の考えのほうが常識になりますよ、とも私は言った。だから私は誰にも言わないけど、おりをみてこっそり考え続けますよ、と。彼にも、そうでしょという含みで言った。
 しかし、彼はそうではなく、本当に終わりにしました、と言った。今思うと、その終わりをきちんと私に告げたかったのかもしれない。
 そのあと、雑駁な歴史の話をしたあと、そういえばキリスト教発生の歴史について最近はどう考えていますかと聞くので、ブログなどにも書いたことがない私なりの考えを話すと、彼は驚き、そしてそれに関心を持った。私としてみると、キリスト教発生についての奇妙な仮説など、よほどの酔狂でなければ関心などももたないだろうと思っていたのに、しかも儀礼的に関心を向けるというふうでもなかったので逆にこちらが不思議な感じがした。そして、ここまで言うと気違いじみていけないかというところまで、さらに話した。彼はその話をまとめないのですかと私に聞いたが、私は公開する気はないですよ、語ったところで狂人の戯言みたいなものですから。私一人、死ぬまで孤独に考えていけば十分です、と答えた。
 私の答えのなかに「死」という言葉が出てきたのはその時だったと思う。彼は笑いながら少し考えていたようだった。そうですか、もったいないなぁとつぶやいていた。
 今思うと、あんな話ができる相手は彼しかいないし、彼としてもその話題をフォローできるのは彼しかいないかもしれないという関心の持ち方があったのかもしれない。そしてそうであれば、彼がいない今、名実ともにこの孤独な思想は私のなかで死ぬまでじっと抱えていくことになる。そんなものかもしれない。
 彼の死、自殺の知らせを不意に聞いたときは、自殺なのかと思わず声を上げ、たまたま居合わせた人を驚かせてしまった。あまり穏当な話題ではない。私はちょっとパニックに陥った。きちんとした筋から聞かされたので嘘ではないのだろうが、パニくりながら今一つ彼が死んだ、しかも自殺だったということに現実感がもてないでいた。伝えてくれた人は、どうやら私と彼との交友の質もよく知っているようだった。
 どのような自殺であったかについては聞かされなかったし、私も聞かなかった。正式な遺書があったかは知らないが、親族には録音したメッセージを残していたようだった。絶望して死んだというわけでもないし、精神的な問題ということでもないようだった。実際、私があった時、彼には特にそうした雰囲気はまるで感じられなかった。
 たぶん、古代史の関心を終えたようにいくつかの関心を終え、元気なうちに、このあたりで死ぬがよいのではないかと考えて、静かに自死を迎えたのだろう。
 そして、そのことをじっと私なりに考えてみると、彼は、私が彼の死をそれほど悲しまないと確信していたのではないかというふうにも思えてきた。
 私は自殺ということを肯定しない人だ。それ以前に死の恐怖にのたうちまわる心性が強い。どんなことがあっても、自殺なんてするもんじゃないと思っていたし、今でもそう思っているのだが、彼に死なれてみて、彼は彼の生き方としてそれを選んだことを私が理解できると思っていたように、思われた。そんなことがあるだろうかとなんども考えなおしたが、それが一番妥当なように思えた。
 このブログで以前「極東ブログ: [書評]高学歴男性におくる弱腰矯正読本(須原一秀)」(参照)を書いた。実は、須原一秀については、「“現代の全体”をとらえる一番大きくて簡単な枠組―体は自覚なき肯定主義の時代に突入した」(参照)と、彼の自死のあと出版された「自死という生き方―覚悟して逝った哲学者」(参照)も読み、続けてエントリを書こうと思ってなんとなく挫折していた。須原の生き方や死に方にどうも納得いかないものがあり、それでいてでは否定できるかというとよくわからなかった。
 最後の書籍で私は初めて須原一秀に息子があったことを知り、そしてその息子が父である須原一秀の生き方と死に方をある意味で自然に受け入れているふうな話を、不思議な違和感のような感銘のような言い難い思いで受けとめた。
 この本では、自死を決めた須原がその理由を長年の友人に語った話がある。友人としても須原の自死の決意を止めることはできなかった。六五歳まで生きたらそれなりの人生の終局というのもあるかもしれない。
 自殺した私の知人は、私に会ったとき須原のように自死を決めていたかはわからない。まだ五五歳にもなっていなかったはずだ。が、思い返すと、いろいろ自身の人生に見きりと終わりを付けている感じはあった。あの時、これから死にますよと言われたら、私はもちろん止めただろうが、逆にそう語ることで私はそれを正常には受け止められなかっただろう。冗談のようにその場を過ごしたに違いない。であれば、ああいう形で、私がその死を後になって信頼できるまで話したというのが彼の思いだったのかもしれない。
 私は四〇代の厄年に死ぬ思いをしたことがあった。自らの人生の不運に絶叫したことがあった。声が枯れるほど泣いて絶叫するなんてことが現代人の、しかも自分にあろうとは、若い頃は思ってもいなかった。そしてなんとかして生きていたいと願った。そして不思議となんとなく生きていた。ブログを始めたころにはまだ死の影を引いていた。が、あろうことか暢気にブログを五年も書いている。ということはずるずる生きてきた。幸せであったかと言えば、それ意外になんの言葉もない。生きていることはいいことじゃないかと思う。死を思う人がいるなら、どうせだから生きてみたらいいじゃないか、どうせ生きていてもいなくてもそれほど重要性のある人は少ないから、生きてみようと冗談のように言いたい。
 そして、今思うのは、死んでしまった彼に、そう言いたい気がする。
 死ぬなよというのではなく、彼がまだ生きていてその思いを聞いてくれるかのように。

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2008.11.11

外国の軍人に関するごくつまらない話題だが

 ブログをやっていて世間で話題になっていることは、時代のログ(記録)としてできるだけ触れておこうと思うけど、それでも世間の空気があまりにも自分の理解を絶していることもある。ので、そんなときはちょっと避けていようなかなと思うようになった。というわけで現下そんなときかもしれないので、暢気に外国のつまらない話題でも取り上げるのがいいだろう。できるだけ日本に関係ない話がいいだろうな。といえば、そうだな、日本には存在しない軍についての米国の話題なんかがいいかもしれない。
 スターズ・アンド・ストライプスというと、星と縞模様ということで米国旗のことだが、その名前がついた軍の新聞がある。米軍となにかと付き合いがうまれる沖縄でもよく目にしたものだが、東京でも、以前「極東ブログ: Google Earthで六本木ヘリポートも見えた」(参照)で触れた米軍基地内にあり、知人が勤めていた。
 私の理解ではこの新聞は米軍に所属していて、米軍の機関紙みたいなもの、だから、いわゆる言論の自由みたいなものはなくて、軍とか政府見解とは異なる意見とか報道とかしちゃだめなんだろうなと思っていた。それ以前に、軍とか軍人には言論の自由なんてないかもしれないとも。
 ところが、ニューヨークタイムズ”Keep Your Euphoria to Yourself, Soldier ”(参照)にはこう書いてあって、へぇと思った。


The boneheaded muzzling of the newspaper, which is protected by First Amendment guarantees against editorial interference, barred reporters assigned to do simple color stories from the public areas of military bases in order to “avoid engaging in activities that could associate the Department with any partisan election.”
(新聞というのは、米国憲法修正第一条によって編集干渉の禁止が保証されているのに、「軍が政党色のある選挙関連する活動に従事することを避けるべし」という理由からこの新聞へ間抜けな弾圧がなされ、基地内の公共区域を写真付き紙面に取材することが妨げられた。)

 米国だと、軍の機関紙みたいな新聞でも言論の自由というのは憲法で守られているのか、というか、米国って憲法による言論の自由をニューヨークタイムズのような新聞が危惧するわけか。
 ところでこの間抜けな弾圧を行ったのは国防総省で、対象はれいの大統領選挙だった。弾圧は成功したか?

The good news is that Stars and Stripes found commanders in the Middle East and Europe that ignored the foolish directive, as if it were a premise for a “M*A*S*H” episode.
(あたかも「M*A*S*H」向けのネタのように、中東や欧州の指揮官がこんな指令はくだらないと無視したのをスターズ・アンド・ストライプス紙が伝えたのはよい知らせである。)
When other commanders clamped down in Japan and South Korea, the paper properly took the ban as illegal under longstanding Congressional and military policies. Its reporters did their jobs until forced to stop.
(日本や韓国にいる他の指揮官が取り締まりをしたとき、同紙はきちんとその禁止は長く維持された憲法と軍の方針から違法であるとみなした。そして記者達は強制的に停止されるまで仕事をした。)

 つまり、まともな軍指揮官も、憲法に違反した禁止命令は無視したし、ましてスターズ・アンド・ストライプス紙はそれが明確に憲法違反だとわかって無視しつづけた。憲法による思想信条の保護の意識が国民や軍に行き渡っている国はちょっと羨ましい。
 ところでそもそも、軍人に、思想信条を表明する自由があるのだろうか? もちろん、米国の話だが。
 ニューヨークタイムズ社説はこの先でこう断言している。

By law, troops are allowed to express their political opinions in a nonofficial capacity.
(法律によって、軍隊は、公務外の許容性として、自分たちの政治的な意見を表現することは許可されている。)

 つまり、米国の場合は、軍務でなければ、軍人はどのようにでも自分の思想信条を吐露してもまったく問題ないし、それは憲法で守られているというのだ。
 「そりゃ、飲み屋でくだを巻くくらいなものならいいけど、ブログとか新聞とか公共の目に触れるところに、軍人が自分の思想信条を公表してよいものだろうか」みたいな疑問もついわいてくる。どうかな。
 これもニューヨークタイムズ社説はこの先でこう断言している。

These days, they do so nonstop by name in blogs and newspaper letters.
(今日では、ブログや新聞投稿において記名でひっきりなしに思想信条を発表している。)

 軍人が軍務外で、新聞など公衆の目にとまるところで思想信条を表明してもまったく問題ないわけか、米国だと。
 国防総省が軍人の個人個人の思想信条表明に干渉することについて、ニューヨークタイムズ社説はこの先でこう断言している。

Inane is more apt than apolitical.
(非政治的であるというより、ノータリンというべきだ。)

 軍人と限らず、民主主義国に所属する人間に、公務員だから政治的であるなとするのは、ノータリンになれということか。なかなか他国の仕組みはわからないし、軍というものがどういうものかは、日本人にはわかりづらいものだなと思う。ニューヨークタイムズ社説を読んでいると、米国では、軍機関紙のように見える新聞ですら、思想信条の自由は保障されているし、軍人にも個人の思想信条を公的に表明する権利は憲法で保護されているということが、なんとなくわかってくる。

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2008.11.09

オバマ大統領の試金石は「ビッグ3」救済かな

 朝日新聞でこの記事を読もうとはちょっと思っていなかったが、別にそう違和感のあるものでもないのかもしれない。”ビッグ3、国にすがる 公的資金、生き残りへ頼みの綱”(参照)だ。話の発端は標題どおり。


 米自動車大手ゼネラル・モーターズ(GM)のリチャード・ワゴナー会長兼最高経営責任者(CEO)は7日、7~9月期決算発表後の電話会見でこう話し、政府による資金支援に期待を寄せた。


 ワゴナー会長も、政府に「資金支援を求めている」ことを隠そうともしない。危機の打開策とみられた米同業大手クライスラーとの合併交渉を中断し、政府による「救済」が生き残りへの頼みの綱であることを印象づけた。
 GMとフォード・モーター、クライスラーの米大手3社「ビッグ3」は今夏以降、米政府・議会への資金支援の働きかけを強めてきた。今秋成立した総額250億ドル(約2兆4600億円)の政府保証融資の活用は具体化してきたが、ブッシュ政権は融資増額や公的資金の注入などには消極的とされる。

 さらにオバマ政権下で私企業救済がありうるかが注目される。ありそうな空気がないわけではないのが記事のツボともいる。

 ただ、ビッグ3の拠点である中西部が地盤のオバマ氏が次期大統領の座を射止めたことが、自動車業界には「追い風」となる。労組を支持基盤とする民主党政権の誕生を視野に、ワゴナー会長らビッグ3と全米自動車労組(UAW)の各トップは6日、民主党のペロシ下院議長らを訪れた。「支援増額の感触を得て、7日の決算発表を行ったのではないか」。米アナリストらの間ではこんな観測も出ている。
 GMの決算発表直後、大統領選に当選後初の会見に臨んだオバマ氏は、ワゴナー会長の支援要請に呼応するかのようにこう語った。
 「米製造業の中軸である自動車産業の救済策に優先して取り組む」

 記事ではさらにその可能性を示唆するのだが、もちろん反対意見はあると続く。

 なぜ自動車を助けるのか。道路建設など関連業種も幅広く含めた自動車関連産業は、全米の労働人口の「5人に1人」にも上るとされてきた。GMやフォードは今も、売上高では米企業の上位10社内にいる。国民皆保険制度がない米国で、ビッグ3は現役から退職者にまで医療費や年金を手厚く保証してきた。雇用と地域経済を支える「最後のとりで」で、その破綻を食い止めるために地元議員も救済策の実行を目指して奔走する。

 ここはちょっと問題があるのであとで触れる。

 だが、ビッグ3の救済をめぐって、世論は一枚岩ではない。米国の自動車業界は産業の多様化とともに米経済での存在感は徐々に小さくなり、すでに国内総生産(GDP)に占める割合は3%。「金融機関と違って世界的な連鎖倒産の危険がない自動車会社を政府が救済するのは良くない」。ニューヨーク大のリチャード・シーラ教授は救済に反対する。経営危機をあえて公表し、労働者を人質にとって政府に支援を迫るようなビッグ3の姿に、他業界からの際限ない追随を懸念する声も根強い。

 以上が朝日新聞記事がまとめた反論。結語は率直に言ってつまらない。

 存亡の崖(がけ)っぷちに立つビッグ3。製造業に代わって冷戦後の米経済を先導した金融業界も危機のさなかにあり、経営難を支える役回りどころか、事業会社の経営の足を引っ張る存在になっている。金融から一般企業へと連鎖する危機は、柱を失った米経済がどこに向かうのか、という問題も突きつけている。

 この話題だが、今週の日本版ニューズウィークに寄稿されたジェフリー・ガーテン、エール大学経営大学院教授のコラム「公的救済の連鎖を止めろ」が反対の立場を明確にして興味深い。毎度ながらオリジナル”Stop The Bail Outs Now”(参照)は無料で読める。
 このコラムから朝日記事を補足する点は、2兆4600億円政府保証融資だが、これは表向きは公的救済ではなく燃費基準への対応支援となっていることだ。ブッシュ政権での限界でもあったとは言える。
 自動車関連産業の問題については手厳しい。

 ビッグスリーがつぶれても、アメリカの自動車産業が終わるわけではない。トヨタやホンダ、韓国の現代自動車が空白を埋める。いずれの企業もすでに製造拠点をアメリカに設けているので、デトロイトが潰れたら彼らが増産すればいい。ビッグスリーの工場も一部は買収されるだろう。

 このあたりのあっさりとした物言いには多少驚かされるものがあるが、考えてみれば、自動車産業としては新陳代謝があるくらいなものだろう。逆にこのところの日本のトヨタ減益の話も、日本というくくりでそれほど考える問題でもないのかと気づかされる。
 さらに中期的に見るとグローバル経済下で様相は大きく変わる。

 中国とインドが日本と韓国に続いて自動車大国となる日は近いだろう。インドのタタ・グループはジャガーを所有しており、初めて価格が3000ドル以下の実用車も製造する。政府がデトロイトを救済しても、その消滅を遅らせるだけだ。

 おそらくそうなのだが、この指摘はまたも日本にも関連してくるというか、あてはまる。日本の自動車産業の一部は、タタなどに対抗できなくなるだろう。すると製品の棲み分けが起きることになり、日本は別種の自動車を作るか、あるいは新しい市場を創出しなければならない。
 デトロイトの労働者問題でいえば、同コラムでは、産業救済ではなく労働者の直接保護を訴えている。端的に言えば、オバマ大統領の試金石は、公的資金によるデトロイト救済か、あるいは労働者の直接救済かとなるように思われる。選挙戦での曖昧で妥協的なオバマのありかたを見るとその中間的な部分になるのではないか。
 この流れで、ヒラリーが雪辱した健康保険改革の問題がまた浮上する。流れ的にみるなら、この話が推進されればよいかのようだが、過去の失敗原因をどうとらえるか。フィナンシャルタイムズ”Barack Obama's historic victory”(参照)が参考になる。

Republicans now are counting on a rerun of 1992-94, after Bill Clinton led the Democrats to a victory comparable to Mr Obama's.
(共和党員は、オバマとの対比で、ビル・クリントンが民主党を勝利に導いた後の1992年から94年の再来を期待している。)
The Democrats overreached, aiming to govern as though the US had become a solidly Democratic country.
(民主党員は、米国を民主党単独で率いようと、過剰反応していた。)
Voters rebelled, the party lost its control of Congress at the next mid-term elections, and Mr Clinton was then obliged to govern almost as though he were a conservative.
(有権者は反抗し、民主党は次回中間選挙で制御能力を失った。そしてクリントン氏はあたかも保守主義的に政治をせざるをえなくなった。)
Much was subsequently achieved - but the greatest prize, healthcare reform, fell victim to the hubris of those first two years.
(それで多大な成果はあったものの、最大の報酬であるべき健康保険改革は初期二年の傲慢さの犠牲となった。)

 この先フィナンシャルタイムズが予想するように、このあたりのこともオバマは学習済みだろうが、ヒラリーの呪いの圧力は再発するのではないか。ここでもやはり曖昧なバランサーとなるか、忍耐を強いられるか。あるいは小泉元総理のように大衆的な支持でゴリっと押してしまうか。そのあたりも見ものとは言える。

It is not as though Democrats are unaware of the risk.
(民主党員がその危険性を知らないふうではない。)
This bitter experience is seared into their collective memory.
(苦い経験は彼らの積み重なった記憶として共有されている。)
Many in the party vow that there will be no repetition.
(同党の大半は再現しまいと誓っている。)
But the exuberance aroused by Mr Obama's triumph will be a force to be reckoned with.
(だが、オバマ勝利で引き起こされたバランスの歪みは無視できない影響力を持つ。)
Already some Democrats are talking as though the entire US has repudiated not just the Bush administration, but also the centre-right political values that put George W. Bush in the White House (twice) to begin with.
(すでにブッシュ政権だけではなく、ブッシュを大統領職に押し上げた中道右派の政治観すら払拭されたように語る民主党員がいる。)

 意外にもこうしたうかれた米国民主党支持者が日本にも、ブログの世界にもいるもんだなと最近驚いたこともあったが、それは結局どういうことになるとフィナンシャルタイムズは見なしているのか。

This is the surest path to disillusion and disappointment.
(幻滅と失望に至る確実な道である。)

 試訳がど下手ただが、暗記して使いたくなるほど、詩的で美しく、皮肉で、それゆえに真理の言葉だ。
 もちろん、私と同様にフィナンシャルタイムズはオバマを腐しているわけではない。私と同様にオバマに期待している、" We congratulate him, and wish him well."と。

Mr Obama appears to understand.
(オバマ氏はわかっているようだ。)
He ran a campaign that appealed to the centre, promising, among other things, tax cuts for almost all US households.
(彼は、他の政策に併せ、全世帯向けの減税を約束するなど、中道を訴える選挙活動をしていた。)
Because of this carefully nurtured breadth of appeal, he starts with an enormous stock of political capital and the goodwill of much of the nation. He must take care to conserve both.
(慎重に訴えてきたゆえに、彼は米国民から政治的な資産と善意の大半を蓄えて開始することになる。)

 外国人である私たちからすれば米国外交に関わるところが気になるが、まずは内政の産業支援のお手並み拝見というのが、またーりとしたヲチのありかただろう。

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