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2008.10.31

「我思う故に我有り」は微妙に誤訳なんじゃないか

 このエントリを書こうか書くまいかためらっているうるに、なんとなく書かなくなりそうな感じがして、それはそれでいいかなと思うものの、まあ少し気楽に書いてみるかな。おそくらほとんどの人にとってそれほど関心のないことだろうし、そういう話題を扱うのがこのブログだしな、と。さて、結論からいうと、「我思う故に我有り」は誤訳だとは断言しづらい。また、「思う」じゃなくて「考える」だとかそいうレベルの話でもない。
 このことが気掛かりになっていたのは、先日の「極東ブログ: ウォーレン・バフェットのありがたいご託宣」(参照)で取り上げたコラムの標題"Buy American. I Am."をどう訳すかということだった。コメント欄でいろいろご示唆をいただいたけど、正直なところあまりピンと来なかった。来ない理由は、なんとなくこの英語の意味を、ちょっと変な言い方だけど、自分の英語処理脳でなんとなくわかっている部分があり、そこがどうももどかしかった。とりあえず該当エントリでは、あえてぎこちなく「アメリカ製を買え。私あり」とした。理由は、これ、「我思う故に我有り」、英語だと、"I think, therefore I am"と構文ないし語用的な関係があるのではないかと思っていたからだ。あと、もう一つ気になることがあった。それはあとで触れる予定。
 この疑問がアレと解けたように思えたのは、先日、ブログのネタにこれはいいかなとチャールズ・クラウトハマーのコラム”McCain for President”(参照)を読んで物思いにふけっていたときのことだ。クラウトハマーのコラムのネタ性は標題を見ればわかるように、「おいらはマケイン支持」ということで、この期に及んで何をフカすのかだが、まあ、内容を読むとわかるがたいしたことはない。クラウトハマーですらオバマを決定的に下すことはできないのかと落胆したのだが、その冒頭がこうだ。


Contrarian that I am, I'm voting for John McCain.

 しいて訳すと、「天の邪鬼、それが私だ、私はマケインに1票を投じる」ということか。「逆張り男、それはオイラさ」という感じだろうか。どうでもいいけど、私はこのユダヤ人爺さんが嫌いではないが。
 で、この"Contrarian that I am"という構文なのだが、ようするに、「なんとかなのが、それが私だ」というのに使う。
 そう、バフェットのあれ、"Buy American. I Am."もこれの一種なんじゃないかなと思った。"I buy American, that I Am."というか、「アメリカ製を買う、それが私だ」、と。
 厳密に文法的に見ると、クラウトハマーの言い方はOKだが、バフェットはくだけていてるかな。それで、この英文なのだが、こういう仕組みがあるはず。クラウトハマーだと。

   Contrarian that I am
       ↑
   I am that
       ↑
      that is Contrarian

 バフェットでは。

   Buy American. I Am.
       ↑
   I buy American, that I Am.
       ↑
   I am that
       ↑
      that is that I buy American

 厳密には文法議論というわけではないけど、欧米語のCopulaというのは、" A verb, such as a form of be or seem, that identifies the predicate of a sentence with the subject. Also called linking verb."つまり、the subjectに対してpredicateということになっている。
 ちょっと飛躍になるのだけど、欧米哲学の存在論、たとえばハイデガーの「存在と時間」の冒頭にソクラテスの「オン」の議論が出てくるが、あれは、オン=存在というより、Copulaとして、存在=the subjectが、predicateとして開示されるということ、つまり、存在論とは、本質がどのように開示されるかという議論、ではないのか。まあ、私はそう考えているのだけど。
 ついでに言うと、デリダの差延というのも、存在論が問われるとき、the subjectに対してpredicateが開示されるのだが、その問われ方と開示が、ズレたものとして問われるから、だからそこに差延がある、ということなんだろうと自分は理解している。だからデリダが西洋の存在論の総体への根源的な批判者ということなのではないか。まあ、違っているかもしれないが。
 で、ようやく標題の「我思う故に我有り」の話題だが。これは、"cogito, ergo sum"つまり、「コギト・エルゴ・スム」とラテン語命題にされるのだが、これってデカルト自身はラテン語で言ってなくて、ヴァルガーに"Je pense, donc je suis."としか言っていない。ほいで、これの英訳が"I think, therefore I am."なのだが、この直訳は英語的には、"I am thinking therefore I am." のように思えるし、フランス語の語感でもそうではないのか。そこはよくわからないが、この命題では、thereforeが使われていて、先のクラウトハマーやバフェットの言い方とは違う。
 が、意味としては同じなのではないか。つまり。

   I am thinking therefore I am.
       ↑
   therefore I am that
       ↑
      that is that I am thinking

 あるいはもっと単純に。

   cogito, ergo sum
          ↑
         sum 'cogito'

 そう考えると、「私は思念している、だからそれが私だ」なのではないか。

cover
方法序説
谷川多佳子訳
 もうちょっとこなれた言い方をすると、「私とは、思考している状態・機能なのだ」であり、「私という存在の本質は、考えていることだ」、ということではないか。
 くどいけど、"cogito, ergo sum"は「我思う故に我有り」というように私の存在を問うているというより、「我思う故に我は思念活動で有る」というように、「私(我)」の本質を命題としているのではないか。
 つまり、デカルトは、「私は存在するのか?」ではなくて、「私とは如何なる存在か?」を考えていたのではないか。
 このスジで原典に当たって読むと、正直に言うと微妙。ああ、私のこの解釈が正解だとはすっきりとはいかない。ただ、このスジで読むとわかりやすい部分は多い。谷川多佳子訳「方法序説」(参照)では、あらゆることを懐疑してもという文脈で。

すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。

 つまり、デカルトは、「私」は「何ものか」という、the subject-predicateで、「私」という存在を問うている。
 そして。

そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する〔ワレ惟ウ、故ニワレ在リ〕」というこの真理は、……

 と訳されるのだが、ここは私の理解で次のように前後で続けるとわかりやすいはずだ。

すなわち、このようにすべてを義と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして、「私は思念している、ゆえにそれが私だ」というこの真理は、……

 谷川の訳はチョムスキーのヘンテコなデカルト解釈まできちんと参照している労作なのだが、このあたりの訳文を読んでいると、どうもすっきりとは理解していないというか、Copulaをそのまま「存在」として訳しているか、「存在」をthe subject-predicateの構図ではうまく訳出してないような印象を受ける。
 しかしそれでも、デカルトはこう敷衍する。

わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって……

 ここでいう実体は、the subjectであり、その存在は、「本性は考えるということだけ」というpredicateの構図に納まっている。
 同部分について三宅徳嘉・小池健男訳「方法叙説」(参照)も基本的に谷川訳と同じだが、参考までに。

何でもにせものだと私がそんなふうに考えたがっているあいだにも、どうしても、私、つまりそう考えているものは、何かでなければならない、ということです。

 やはり、「私」とは何かというthe subject-predicateで「私」という存在を問うている。
 しかし、急所の訳には谷川訳同様うまく反映されていない。

そして気がついてみると、この「私は考えている、だから私は有る」という真理はいかにもしっかりしていて……

 ここも、「私は考えている、だから私とはその考えているということだ」とするほうが文脈が通じる。
 また。

私は一つの実体であり、その本質または本性はただ考えることだけであり……

 ここも谷川訳と変わらない。ようするに、私の読みスジを裏付けている。
cover
方法叙説
三宅徳嘉・小池健男訳
 あまり大それたことは言いたくないが、どうも、「我思う故に我有り」というのは微妙に誤訳であり、ゆえに、どうもデカルトの方法序説の命題、さらにはその存在論はうまく日本人に理解されてこなかったのではないだろうか。
 しかも、この「私という存在の本質は、考えていることだ」という私の理解だと、デカルトがこの命題以降にその思念を、「私」から分離し、いわば思念のエンジンそれ自体を抜き出し、最後にそれを実質的に神に流し込むような理路もすっきする。
 以前「極東ブログ: [書評]反哲学入門 (木田元)」(参照)で触れたが、コモンセンス=良識=理性と呼ばれているのは、実はこの思念のエンジンを指している。
 つまり、デカルトが方法序説で見つけたことは、「私」というのは「思考状態」を本質とする実体であり、その「思考状態」を支える「思考エンジン」がコモンセンス=良識=理性であり、それは神に由来する、ということではないのか。
 ここで先に後で触れるとした部分に移るのだが、西洋において「神」は"I am that I am"(参照)と理解されることがある。元来は旧約聖書・出エジプト記3:14「わたしは、有って有る者」(口語訳)を、過剰に哲学的に理解していったものだが、この"I am that I am"は、一見循環的に見える。

   I am that I am
       ↑
   I am that
       ↑
      that is that I am

 the subject-predicateの構図でも循環のように見える。しかし、話は逆で、諸存在が、存在論的問われるということは、その存在の本性をthe subject-predicateの構図で開示することだから、それは、差延というより、依存の関係を持つため、諸存在のほうが常に、その本質定義において循環を形成してしまう。
 とすれば、その循環の最終的な停止位置、エンドポイントは論理的に"I am that I am"とならざるをえない。"It is that it is"でもよさそうだが、神の人格性でそうなるのだろう。だが、この構図で西洋哲学史、存在論および神学を見ていくと、結局のところ、神というのは、それ自体を本性の開示として存在する存在の基底として捉えられていたことがわかるし、デカルトも結局その同じ構図のなかにいる(たぶん、ライプニッツのモナドも似た構図なのではないか)。ただ、デカルトの「功績」はそこから思考エンジン=コモンセンス=良識=理性を取り出したことにあるだろう。
 ちょっと説明が飛躍するのだけど、デカルトによる思考エンジン=コモンセンス=良識=理性は、「私」の本性開示を支えるものとして定義されているがゆえに、「私」と「思念」が分離されている。「私」から離れた思念というものが抽出されたとき、それが近代科学の基礎になったのではないだろうか。
 通説の哲学史では、あるいはフッサール的な理解というか、デリダもその部類ではないかと思うが、デカルトによる二元論が近代科学を導いたように描かれているが、これはそうではなく、「私」と「思念」が分離から「思念」の非人格性へ、そしてそれが「真理」に連結されるという構図ではないだろうか。
 だとすれば、この構図のすべてのなかに、最終的なエンドポイントとしての「神」が存在するのであり、近代科学が神学と酷似するのは必然的なのかもしれない。むしろ、「考えること」が人格性のなかにあるとし、それをPersonal Knowingに捉え直したマイケル・ポランニのほうが、西洋哲学・科学の根底を転倒させた哲学者なのではないか。


追記
 もうちょっと補足したほうがいいかな。早速にいくつかコメントをいただき、みなさんご自由にお考えになればいいのではないかと思うのだけど、ちょっと気になったのは、自分の解釈もそう見られてしかたがない面はあるのだけど、「我思う故に我有り」を単独にお考えになる人は多いかな。「方法序説」(参照)くらいは聖書と同じく書架に置いといていいくらいの古典なので、まず文脈に当たってみて、たとえば私の珍解がどう文脈に対応しているのか参照されたらいいのではないかなとはちょっと思った。同書は重訳などがネットのリソースにあるけどざっと見た感じだが、方法序説はそう高価な書籍でもないので、どうせ読むならある程度評価の定まった定訳を求められたほうがよいだろう。
 「自分の解釈もそう見られてしかたがない面」というのは、いかにも文法的に解釈したかのようだけど、"Je pense, donc je suis."を文法的に解釈したというのではなく、欧米語に特有のCopulaというものを考察したかったということだったので、なのでわざわざ、Copulaに潜む「the subjectに対してpredicate」が欧米特有の存在論思考との関係にありそうだと展開した。というか、そこがわからないとたぶんハイデガーもデリダも読めないし、ちょっと言い過ぎかなと思うけど、デカルトがきちんと読めないとハイデガーやデリダとかある意味で、逆説的であれ、その派生の思索を読んでも仕方ないのではないか、とも思う。
 話をもとに戻して、「我思う故に我有り」だが、通解のように「私は考えている、だから私は存在する」というふうにして、誤訳だとは言い難い。たぶん、現代英米人でもそう考えるし、英語のウィキペディアを見るとそれは織り込まれている(参照)。


The simple meaning of the phrase is that if someone is wondering whether or not he exists, that is in and of itself proof that he does exist (because, at the very least, there is an "I" who is doing the thinking).[2]
(この句の単純な意味はこうだ。もし誰かが自分が存在するのかしないのかと思い惑うなら、その思いの中は思いの属性が、その人が存在しているという証明になる。なぜなら、少なくとも、「私」とはその思索行為の主語だからだ。)

 英米圏でもよって通解にして悪いわけでもない。ただ、ここで「なぜなら」以下はちょっと「主語」を補って意訳したが、このあたりも英米語のCopula特有の思考はありそうだ。
 もう少し通解に近づけて"Je pense, donc je suis."を訳せば、欧米語のCopulaを考慮して、「我思う、故に我は、(思念活動として)有り」であり、「として」という本質が問われている、と私は見ている。
 そして、方法序説は、「として」として現れる「思念」が理性というエンジンに基づくということで、有ると言明されたかのような「私」より、一種の純粋理性に起点が置かれ、そこから方法が始まっている。

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2008.10.28

フィナンシャルタイムズ曰く、かくなる上はリフレしろ、日本

 もともと円キャリー産んでいたのは実質的なリフレ政策なんじゃないか。リフレ政策っていうのは国内モデル的にはなんとなくグッドだけど、グローバル化した世界においては円キャリーになるよな。ほいで、今回の世界の失態圧力のホットマネー大杉に加担していたよなみたいな思いがあって、いま一つすっきりしないし、なんだかんだ言っても、っていうか小宮隆太郎が言うように、民主主義の手順的にはいかがなものか的な部分はあるんでねーのとも思うので、ようするに書生論でしょ、与謝野先生ぇ、みたいな思いもあったのだけど、昨日付のフィナンシャルタイムズ社説”Yen is caught in carry-trade turmoil(キャリートレード騒動に巻き込まれた円通貨)”(参照)を読んでいたら、ようするに、かくなる上はリフレしろ、日本、と言っているのだね。すこしびっくらこいた。
 手間がないので、ちょっと手抜きでさらさらと書くけど、じゃあ。
 まず出だしは、フィナンシャルタイムズ爺さんは昨年から円キャリートレードはよくねえ、って言っておったという爺にありがちな、フカシ。


The steamroller has finally arrived. In February 2007, the Financial Times warned that carry trades – borrowing in a currency offering low interest and investing in high-interest currencies – might look attractive but were also extremely risky: like having a free lunch in front of a steamroller. Even a relatively small appreciation of the loaned currency might wipe out any gains from the trade, or worse.
(地ならしローラーがついにやてきた。2007年2月に、フィナンシャルタイムズは、安い金利の通貨を借りて高い金利の通貨に投資するというキャリートレードは魅力的に見えても、同時にかなり危険だと警告した。地ならしローラーの前でただ飯食いしているようなものだ。比較的小規模の借り入れ通貨の騰貴ですら取引利益を吹き飛ばすし、さらにひどいことにもなる。)

 "having a free lunch in front of a steamroller(地ならしローラーの前でランチタイム)"というのがなんだかアスキーアートの絵になりそうだが、危険極まりない、と。それが現実になっちゃったよ、と。考えようによっては円キャリ自体が博打だよな、とも。
 出だしには、円キャリとはないが、ついで指摘はある。

As interest rates look set to be slashed around the developed world and risk-appetite slumps further, carry trades – largely involving the Japanese yen – are being unwound.
(途上国で金利が刈り込まれ、リスクに賭ける意欲が減退しているかに見えるなか、大半は日本円によるものだがキャリートレードは巻き戻されている。)

 "largely"に若干、中国元の含みもあるのかもしれないが、まあ、ないでしょ。要するに、円通貨の問題だ。
 そのあと、G7もいろいろ頑張ったし、それなりに長期的には効果はあるだろうけど、もううだうだ言ってる場合じゃねーよ、と話にもってきて、後半、こうなる。

Given the current pressure on the yen, additional measures may be needed. Japan could print yen and use them to buy foreign currencies, putting a floor under the yen and preventing deflation.
(目下のところ円通貨に圧力がかかっている以上、さらなる対応が必要になるだろう。日本は、紙幣を刷れ、そして、それでもって外貨を買え。そうすることで、円通貨の底値を下げ、デフレから免れることになる。)

 うぁ、リフレそのものじゃないの。いや、筋金入りのリフレ論はもっと書生臭がするけど、それでもよくここまで社説で言うよね。っていうか、言わなければ世界でもっとも信頼される経済紙にはなれないから、たまには本気だよな。

While this would slow a correction of global imbalances, highly disruptive jumps in currencies due to speculative flows are the greater of two evils.
(それによってグローバル経済の不均衡是正が減速するとしても、騰貴による急激な円通貨高騰のほうが、悪事としてはひどいのだ。)

 続けてフィナンシャルタイムズは円買いというのはしかたない面もあるみたいな話があって、締めはこう。

In contrast, the yen’s surge does not reflect economic realities. The G7 should be bolder and attempt to slow the steamroller through concerted action.
(対比して、円通貨高騰は実体経済を反映していない。G7は協調行動を取って、大胆に、この地ならしローラーを減速させるべきなのだ。)

 ということはですね、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、カナダの六人衆が雁首揃えて、うりゃ日銀、札刷ってドル買えや、ってことですな。あー、ユーロ買え?

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