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2008.08.09

赤塚不二夫のこと

 赤塚不二夫のことといっても、私は赤塚不二夫に面識はまるでない。赤塚不二夫の漫画を読んだ無名の一人というだけのこと。そこから思うことを少し書くというだけのことだ。昨日のエントリ「極東ブログ: [書評]これでいいのだ(赤塚不二夫)」(参照)の続きのような話なので、その2としてもいいのだが、ちょっと違うかもしれない。
 赤塚不二夫が亡くなっていろいろな感想をメディアやネットで見た。私はあるズレを感じた。自分が何か正しい感覚を持っているというようなことではない。なんだろうこのズレの感覚はと自分を訝しく思った。ブログなどでタモリの弔文が賞賛されるのにも少しズレを感じた。弔文が悪いということではまったくない。それどころか畢生の言葉だろうと評価するし、タモリは見えないところで赤塚に尽くしていたに違いないとも確信している。
 ズレの感覚を抱えながら、そこに一番近く触れるのは栗パパの昨日のワッサーステータス「赤塚不二夫の漫画で笑ったことないから世とのずれに戸惑ってる。」(参照)だった。栗パパはまだ二十代だろうか。さすがに二十代ではわからないだろうと思うが三十代から四十代にとっても、実際には赤塚不二夫の漫画は、笑えない戸惑いがあるのではないだろうか。
 竹熊先生は「追悼・赤塚不二夫先生」(参照)で、「自分の幼少期は「赤塚不二夫で始まった」と言って過言ではなく、特にギャグやお笑いに関しては、自分の感性の基盤となった人です。」と書かれたが、私より三つ年下の竹熊先生でそうだろうか。いや疑うわけでもないのだが、私の世代ですら、ある違和感があったのではないだろうか。
 赤塚不二夫は作品が多いようにも見えるが、おそらく代表作は、「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」「もーれつア太郎」「天才バカボン」くらいだろう。もちろん、それらがどれも大量にあるとも言えるし、そして「レッツラゴン」などを代表作に入れるかはいろいろ議論もあるだろう。
 ウィキペディアの記載(参照)を借りてこれらの作品の時系列を見直すと考えさせられる。


1962年、「週刊少年サンデー」で『おそ松くん』、「りぼん」で『ひみつのアッコちゃん』の連載を開始すると一躍人気作家となる。
1963年、トキワ荘時代の仲間が設立したアニメーション製作会社のスタジオ・ゼロに参加。
1964年、『おそ松くん』で第10回(昭和39年度)小学館漫画賞受賞。
1965年、長女のりえ子が誕生[7]。また同年、長谷、古谷三敏、横山孝雄、高井研一郎等とフジオ・プロダクションを設立。
1966年、『おそ松くん』がスタジオ・ゼロ製作で毎日放送系でテレビアニメ化。
1967年、「週刊少年マガジン」(講談社)にて『天才バカボン』を発表。天才ギャグ作家として時代の寵児となる。また、テレビ番組『まんが海賊クイズ』で当時は漫画家としては異例のテレビの司会を担当し、黒柳徹子と共に司会を行った[8]。
1969年、『ひみつのアッコちゃん』『もーれつア太郎』がNETテレビ(現在のテレビ朝日)系列でテレビアニメ化。
1971年、『天才バカボン』が読売テレビ系列でテレビアニメ化。
1972年、『天才バカボン』で文芸春秋漫画賞を受賞。また同年、フジオ・プロに財政的な余裕が生まれたため「赤塚不二夫責任編集」と題した雑誌『まんがNo.1』を創刊。実質的な編集作業は長谷が行い、不二夫の荒唐無稽なイメージを伝える事に腐心した。しかし1号につき250万円程の赤字を出し、1973年に6号で休刊[9]。

 この時系列成立でよいのかわからないのだが、大きなはずしはないだろう。
 はじまりの1962年は昭和37年である。ここが赤塚の人生の大きな起点になることは、「これでいいのだ(赤塚不二夫)」(参照)にもあるのだが、この時系列は同書のほうから、つまり赤塚の内側から見るとわかりやすい。この内在の時系列は昭和34年に始まる。

 漫画週刊誌が創刊されたのが昭和34年、毎週1本、連載を描くなんていう仕事のペースはぼくには想像できなかった。

 私はここでぞっとするほど素直な赤塚不二夫の魂に出会っているように思える。ここには自分にはこんな仕事は無理だったかもしれないというトーンが少し感じられる。
 昭和37年に至る経緯はこう流れていく。

 ある日、『少年サンデー』から毎週読み切りの依頼がきた。読み切りならなんとかなるかと思い、自由にテーマを探し、奔放に描きまくった。
 インスタントラーメンが発売されると、学校から帰って風呂に入り、3分たつと頭が冴えるという『インスタントラーメンくん』、フラフープが流行ると、フラフープで遊んだ後はそれを洗濯の物干しにする、というような漫画を描いた。
 「こんど2週続きで描いてごらん」
 と言われて『スーダラおじさん』を描いた。植木等の『スーダラ節』のヒットをとらえた漫画だった。
 それが終わると、
 「こんど4週描いてみな」
 ということになった。昭和37年のことだ。

 昭和34年から37年への経路は赤塚の内側からはこう見えていたのだが、加えて、「極東ブログ: [書評]これでいいのだ(赤塚不二夫)」(参照)で触れたが、昭和36年に赤塚は江守登茂子と結婚の経緯があった。昭和35年である。

 仕事がますます増えて、アシスタントを入れる必要がでてきた。昭和35年のことである。ある編集者に相談すると、
「うちにちょうどいいのがいるよ」
 と言って若い女性を1人つれてきた。
 その子と仕事を続けて1年にもならないのに、彼女と結婚するムードが高まってきた。何せ、毎日一緒にしる間柄だったからだ。しかし、ぼくはまだ結婚に踏み切る自信がなかった。
 「大ヒットを1本出さないと、飯食っていけるかどうかわからないからな」
 そんなことを言うと、しっかり者の彼女は、ぼくをさとすように、
 「1人では食べられなくても、2人なら食べられますよ。私がちゃんとやりますから」

 彼らは昭和36年に結婚した。
 昭和37年から赤塚の馬車馬のような人生が始まる。

 週刊誌の4週といえば1か月だ。何を描いたらいいんだろう。ぼくは考え込んだ。これまで主人公というのは1人が普通だった。これを思い切って増やしてみたらどうか。そこで前に見た、映画『1ダースなら安くなる』を思い出した。1ダースも主人公がいる話しだ。しかし12人では1コマに描ききれない。そこで半分にした。6つ子である。どうせ4回だから思いっきり暴れさせてやろう、とはじめたのが『おそ松くん』である。
 女房の登茂子がすばらしいアイデアをどんどん出してくれた。

 漫画「おそ松くん」は一世を風靡した。サンデーの連載は昭和42年(1967年)まで続いた。この間、昭和41年にスタジオ・ゼロ製作で毎日放送系でテレビアニメ化されている。このオープニングは現在ではYouTubeで見ることができる。
 ここで時代の傍観者である私をストリートビューの人型アイコンみたいに置いてみたい。私は昭和32年生まれ。小学校に上がる前の5歳の時(昭和37年)にはテレビを見ていた。もちろん、同時代の少年サンデーも知っているし、「おそ松くん」も断片的には見ている。「おそ松くん」のとりあえずの連載が終わった1967年に、私は10歳である。小学校3年生だ。普通に少年サンデーを読んでいるのだが、ここが普通に読んでいる下限に近い年代ではないだろうか。3つ年下の竹熊先生はその時、小学校1年生。リアルタイムに「おそ松くん」を見ることができた本当に最後のラインになるだろう。
 ざっくり言えば、1960年生まれ以降の人は赤塚不二夫が描いた「おそ松くん」をリアルタイムには読んでいないと思う。もちろん、こう言うことには反発があるかもしれない。私は上から目線風に偉そうなことを言いたいのではない。むしろその逆だ。
 が、その補助線で言うなら、すでに私の世代から「おそ松くん」はTVアニメだった。「魔法使いサリー」の枠の後釜で1969年から1970年に放映された「ひみつのアッコちゃん」に至っては私には原作を知らない(当時男の子は女子の漫画を見ることはなかった)。
 赤塚不二夫の作品は「おそ松くん」だけではない。少年サンデーでは続いて「もーれつア太郎」が連載された。この作品は、竹熊先生ではないが、私の人生観の根幹に近い部分に影響を持っている。が、私は1969年に始まる「もーれつア太郎」のTVアニメはほとんど見ていない。
 「天才バカボン」は「もーれつア太郎」の同時期に連載され、これもTVアニメ化された。私は、「天才バカボン」が嫌いだった。連載もアニメもだ。私のごく私的な感想にすぎないが、「天才バカボン」は団塊の世代の学生が好んでいた。1967年に始まる「天才バカボン」の連載は70年代安保の文脈にあった。特に私が嫌悪したのが早大の学生が優越感を隠した自嘲でバカボンのパパの「バカ田大学」を連呼していることだった。うわっついたバカを装いながらインテリ特権意識で女を口説いていた当時の大学生の愚劣さと、それにのっかっていた薄ら左翼のオヤジども、青島幸男だの大橋巨泉、野坂昭如、前田武彦、永六輔などは私の嫌悪の対象だった。赤塚不二夫は本当はそういう人たちに汚れるべき人ではなかった。
 アニメーション作品にどのくらい赤塚不二夫が関わっていたのか私にはわからない。オリジナルを反映している部分はあるだろうし、「めぞん一刻」みたいにあのアニメ絵は受け付けないということはないし、「うる星やつら」のアニメ絵のように品質ががたがた変わるというものでもなかっただろうと思うが、なぜか私には、アニメの赤塚作品は赤塚不二夫の作品とはあまり思えない。が、それでも赤塚の生み出したキャラクターにはみな不思議な魂がこもっていた。「これでいいのだ(赤塚不二夫)」(参照)には「おそ松くん」に出てくるチビ太のモデルの話が出てくる。そこには本当に生き生きとした庶民の世界があり、そのかから生まれてきたことがわかる。
 アニメを別にすれば、赤塚不二夫の作品は60年代で終わっている。もちろん、アニメ作品をもって赤塚不二夫の作品としてもいいだろう。私はポケモンに原作が存在するのか知らない。クレヨンしんちゃんはアニメのほうが原作じゃないのかとも思っている。
 赤塚不二夫の作品は60年代で終わっているということはどういうことなのか。8月4日付け読売新聞記事”追悼・赤塚不二夫さん 本当にサヨナラなのだ(評伝)”が興味深いというか踏み込んだ書き方をしていた。

 赤塚不二夫さんの漫画家としてのたたずまいは、同じトキワ荘の仲間の藤子・F・不二雄さんとはまったく対照的だった。職人肌の藤子さんが最後まで第一線で描き続けたのに対し、赤塚さんが漫画家として輝いたのは、「おそ松くん」や「天才バカボン」を描いた1960~70年代のわずか10年間ほど。その後は仕事も激減し、タレント文化人という印象の方が強くなる。


 赤塚さんに、短期間になぜあれほどのヒットが飛ばせたのかを聞いたことがある。「一人じゃなくて、みんなで作ったからだよ」。60年代からペンを握っていなかった。当時のスタッフ――「ダメおやじ」の古谷三敏、「総務部総務課 山口六平太」の高井研一郎、「釣りバカ日誌」の北見けんいち、パロディー漫画の長谷邦夫といったそうそうたるメンバーとアイデアを出し合い、赤塚さんが吹き出しのセリフを作り、絵はスタッフ任せ。「おれの絵なんて、ハンコ押してるのと同じ」とうそぶく一方、会話のテンポには細心の注意を払った。自分のギャグの神髄が「言語感覚」であることを、誰よりも赤塚さん自身が知っていた。

 そうしたみんなのなからタモリもまた生まれた。
 この追悼記事を書いた文化部石田汗太記者は赤塚不二夫の実像をこう見ていた。

 しらふの赤塚さんに初めて会った時、シャイでまじめなことに驚いた。「酒を飲まなければ、まともに人と話せない」とも語っていた。その酒で寿命を縮めてしまうとは、ギャグ求道者の「業」を見る思いだ。

 その「初めて」がいつかはわからない。酒の入らないシャイでまじめな赤塚不二夫は「これでいいのだ(赤塚不二夫)」(参照)にきちんと描かれているようにも思う。
 文化部石田汗太記者は1999年8月10日”赤塚不二夫さん バカになりきれない シャイだから笑いが分かる”という記事を書いている。赤塚は、がんで胃を切って酒の味が変わったとして。

 でも、本当は好きじゃないんだよ、酒。酒は僕にとっての潤滑油。十代から赤面症というか、人と目を合わせて話をすることができないほどシャイだった。先日亡くなった由利徹さんがそう。あの人も酒がないと、他人と顔を合わせられないんだ。そんな二人が、人を笑わせることに一生をかけるんだから面白いね。


 僕はわんぱく小僧と思われてるかもしれないけれど、子供のころから内気でおとなしかった。でも、だからいろいろ考えて、本も読んだし、映画も見たし、音楽も聴いた。その蓄積が役に立った。ふだんから駄じゃればかり言ってふざけている人間には、笑いの奥深さが分からないんだ。駄じゃれは最低の笑い。マジ~メな人間だから、人間にとっての笑い、面白さとは何かをずーっと考えられるんですよね。

 赤塚不二夫は若い頃一生懸命映画を見ていた。手塚治虫に芸術を勧められたせいもあった。

 僕? ダメ。まだ徹底してない。だって、こんなちゃんとした話をしてるんだから(笑い)。本当にすごい奴(やつ)は、バカの面しか人に見せない。がんで逝った谷岡ヤスジがそうだった。僕も「赤塚ってバカだねぇ」って思われたいんだけれどね。かといって、現実にバカになり切ったら、漫画だって描けるかどうかわからないし、こんな生活してないかもしれないしね。
 結局、シャイな部分とハチャメチャな部分が両方あるから、「いかにバカっぷりを見せるか」という計算がばちっとできる。それでやってきたから、シャイな自分が嫌ではないんだな。

 ここに父母の墓に一人参って、「それはぼくが東京へ出てきて、初めて持った不思議な自分の時間だった」という孤独な赤塚不二夫がいる。
 歴史がこの人を生み出したのだろうし、この人を生み出した歴史の力は存分にそのエネルギーを放出した、それがアニメであれ。
 この時赤塚はこう問い掛けている。

 だって、今の子供はおかしいだろ? 車いすが来たら逃げたりして。俺(おれ)たちのころはそうじゃなかった。からかったりもしたけれど、みんな一緒で、おんぶして歩いたりしていた。それが人間だよ。

 石田汗太記者はこのとき赤塚不二夫がチビ太のことを思い出していることに気が付いただろうか。
 これでいいのだ(赤塚不二夫)」(参照)より。疎開先の郡山のことだ。

 ある時、いつものように遊んでいると、矢田山の向こうに煙りが見えた。
 「火事だっ!」
 「屋根に上がって見て見よう」
 するとチビ太も、
 「ぼくだって見たい!」
 と言い出す。今までさんざんチビ太からメンコを巻き上げたり殴ったりしているのに、みんなはこういう場面になると当然のように親切になってしまう。チビ太を肩車に乗せる者、上へ押し上げる者、上で受け取る者と手分けして、屋根に乗せ、山の向こうの煙を眺めた。これはたしかに火事だった。

 そして火事を見に行こうということになった。チビ太も行きたいと言ったが足手まといになる。それでもチビ太は行きたいという。鳩の糞を舐めたら連れってやるというと、チビ太は鳩の糞を舐めた。結局みんなで必死になってチビ太を火事場につれていくが、手間取って火は消えていた。

 みんなは代わる代わるチビ太の手を引っ張ったり、遅いといっては頭をコキンと殴ったりしながら火事の現場へ走った。しかし、現場に着いたとき火はもう消えていた。
「ほら見ろ、お前が連れてってくれなんて言うから、間に合わなかったじゃないか!」
 そう言ってまたひっぱたく。するとチビ太は、
 「ごめん」
 とすまなそうに、率直に言うのだった。
 帰り道はきた道とは違い、山の尾根道を歩いた。チビ太は疲れてしまいさすがにもう歩けない。みんなで代わる代わるおんぶして歩いた。山肌一面につつじか満開の季節だった。おりしも夕暮れとき、夕焼けがこれに映えて、全山萌えるように景色のなかを歩いた。

 この光景が終生脳裏を離れなかったことは、「極東ブログ: [書評]これでいいのだ(赤塚不二夫)」(参照)で触れた。

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2008.08.08

[書評]これでいいのだ(赤塚不二夫)

 ウィキペディアの赤塚不二夫の項目(参照)は比較的充実しているが、ネットのリソースが多く、漫画以外の赤塚不二夫の単著についての記載はない。来歴の記載もネット上のリソースに偏っていて、誰が執筆したものかはよくわからないが、ヴィレッジセンターの情報(参照)と公認サイト(参照)が参照されている。

cover
これでいいのだ
赤塚不二夫
 参考文献としては、1997年の「ギャグにとり憑かれた男 赤塚不二夫とのマンガ格闘記(長谷邦夫)」(参照)と2005年の「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!(武居俊樹)」(参照)の二点が挙げられている。
 赤塚不二夫には平成五年(1993年)にNHK出版から出された本書、つまり本人による単著の自伝的エッセイ「これでいいのだ」(参照)がある。2002年に日本図書センターから刊行された「赤塚不二夫 これでいいのだ (人間の記録)」(参照)は本書の改題である。

軍人気質で潔癖、一徹なおやじ、なんでもできてガンバリ屋、世話好きなかあちゃん。ニャロメやイヤミなど、ユニークなキャラクターを生み出した著者が親子の絆を語り、人生をふり返る。戦中・戦後の赤塚家を通して、戦争と家族を描く感動のドラマ。涙と笑いの自伝的エッセイ。

戦中編 満州(誕生;お返し;あと継ぎ;結婚;氷の華 ほか)
終戦編 満州(8月15日前後;恨みと恩;シベリア送り ほか)
戦後編 大和郡山・新潟(親孝行な死;悪ガキ仲間;ボス;柿と栗;チビ太;早弁;女の子 ほか)
戦後編 東京(化学工場;映画;投稿;神様とドンブリバチ;世間知らず ほか)


photo
裏表紙から

 また本書は刊行翌年1994年8月22日からNHKドラマ新銀河「これでいいのだ」の原作ともなった。ドラマでは主人公フミオを堤大二郎、母花江を佐久間良子が演じた。NHK側の説明ではドラマのテーマは母子愛とのことだが、私はこれは見ていない。原作の本書のテーマが母子愛かというとそうは言い切れない。本書がNHK出版から刊行されたのは、翌年のこのドラマ化を見据えたものであったのかもしれない。なお、NHKと赤塚の関係だが彼の父が晩年NHKの集金人をしていたという興味深いエピソードも書かれている。
 昭和10年(1935年)9月14日生まれの赤塚不二夫は、本書初版刊行の1993年(平成5年)8月25日の時点で57歳である。ウィキペディアの同項の1994年には次のようにアルコール依存症であったことの記載がある。


1994年、赤塚のアルコール依存症が回復しないことにより、長年アイデアブレーンとして赤塚を支えてきた長谷がやむなくフジオプロを脱退[10]

 本書は、アルコール依存症の過程で本人によって十分に書けたものなのか、あるいはむしろその治療的な意味合いをもって書かれたのかよくはわからない。私の印象では、本書はぞっとするほどの達文であり、文筆の素人が書けるものとは思われない。が、そこに息づく精神は間違いなく赤塚不二夫のそれである。どのような過程で本書が形成されたのかはわからないが、本書には赤塚本人の魂が描かれている。
 そしてその魂の多くは赤塚の父母のことでもある。赤塚が世にでなければ市井の人として消えたかもしれないこの男女には時代が強いたドラマが確かにあった。
 本書には赤塚の男女のドラマは直接的には描かれていない。
 赤塚が後の眞知子夫人と再婚したのは、1987年(昭和62年)のことだった。赤塚が51歳か52歳のことだ。私の現在の年齢に近い。スタイリストだった眞知子夫人はその時37歳であったようだ。再婚を勧めたのは前妻の江守登茂子さんだった。眞知子夫人は2006年7月12日56歳でくも膜下出血で亡くなった。” [追悼抄]7月 赤塚眞知子さん 「生きがいは赤塚不二夫」”(読売新聞2006.8.22)より。

 「先生、眞知子さんを籍に入れたら?」。1987年、不二夫さんに再婚を強く勧めたのは、73年に離婚した前妻の江守登茂子さん(66)だった。「その時、『本当にいいのか?』って。ずっと、私に気兼ねしてたんでしょう。でも、眞知子さんなら私もうれしいし、大丈夫だって思ったから」
 不二夫さんの数多い“恋人”の中で、元スタイリストの眞知子さんだけが最初から違った。アルコール依存症で入院した不二夫さんを付きっきりで看病し、当時、仕事が激減していた漫画家のため、実家から借金までした。登茂子さんを「ママ」と呼んで慕い、長女のりえ子さん(41)を実の子のようにかわいがった。そのことで登茂子さんが感謝すると、「何よ他人みたいに! 私の娘でもあるんだからさ!」と笑った。「しばらく関係が途絶えていた私とママが、再びパパと仲良くできるようになったのは、眞知子さんのおかげ」と、りえ子さんは涙ぐむ。

 赤塚不二夫は2002年に脳内出血で倒れていた。ウィキペディアには2004年には意識不明のまま植物状態にあったと書かれている。
 編集者でもあり前妻である江守登茂子と赤塚が結婚したのは、昭和36年(1961年)10月24日。赤塚26歳。新婦は21歳だったと本書にある。長女が生まれたのは昭和40年(1965年)。結婚生活は12年続き、1973年(昭和48年)に離婚した。不思議な縁というべきなのかわからないが、江守登茂子は赤塚不二夫の死ぬ3日前の7月30日に68歳で病死した。
 赤塚不二夫は8月2日に亡くなった。72歳だった。
 死について本書の赤塚は深い視線を残している。
 赤塚は母親の死に際し、一度は死んだとみなされたものの彼の絶叫で一時蘇生したという話を書いている。が、母リヨは翌朝昭和45年(1970年)8月20日に亡くなった。59歳だった。父親藤七は昭和54年(1979年)5月17日にリンパ腺癌で亡くなった。71歳だった。癌で苦しむ父に彼はやさしく引導を渡していた。

 9年前、かあちゃんが臨終の時、ぼくの「かあちゃーん!」の一声でかあちゃんを幽冥の世界から呼び戻した。今度は「もういいよな!」でおやじを冥土へおしやったことになる。

 本書は終わり近くにこうある。今年の春とあるから、1993年(平成5年)赤塚不二夫57歳のことだろう。

 おやじもかあちゃんも、ともに波乱に富んだ人生を生きて死んで行った。その2人の子であるぼくのこれまでの人生も、また決して平穏ではなかった。おやじやかあちゃんが知らなかった世界もいっぱい覗いてきた。この先、どういう人生を生きることになるのか。

 本書には赤塚の父母の波乱に富んだ人生を子から見た姿が描かれていると同時に、かけがえのない昭和史にもなっている。だが本書は、彼自身の平穏ではない人生はあまり描かれてはいない。

 今年の春、久しぶりにおやじとかあちゃんが眠る八王子の富士見台霊園へ1人でふらっと行ってみた。ちょうど桜の季節で、前にはまだ小さかった染井吉野の枝が大きく伸びて、おやじとかあちゃんの墓に手をかざすような風情で五分咲きの花を開かせていた。
 晴れた日の夕暮れで、周りを囲んだ雑木林の丘陵が、夕映えで薄い紫色のシルエットに浮かび上がっている。それは奉天の空いっぱい数限りもなくからすが飛んだ夕焼けとも、火事見物の帰路、全山満開のつつじの花と夕陽に真っ赤にそまった大和郡山の日暮れとも違う。一種の静寂をたたえた夕景色だった。
 ――ぼくは死に際に、誰かに呼びもどされるのかな、それとももういいだろうと念を押されて行くのかな……。
 ふとそんなことを考えた。それはぼくが東京へ出てきて、初めて持った不思議な自分の時間だった。

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2008.08.07

中国製毒入り餃子、雑感その2

 中国製毒入り餃子事件だが、なんとなくこれは迷宮入りでしょと思っていた。が、昨日、流れが変わる報道があった。意外といえば意外なので少し雑感を書いておきたい。というのも、この問題の本質は毒入り餃子自体ではないだろうから。
 餃子に毒を入れたのは中国か日本かということで言えば、「極東ブログ: 中国人のわかりづらさという雑談」(参照)で李小牧が指摘している通りなので、ようするに後は外交的な問題だった。
 そこが曖昧になるだろうなと私が思っていたのは、中国がけっこうな強気で小日本をパスしてやっていけるとまでそっくり返ったのだろうなと見えたからだ。が今回、逆に、毒を入れたのは中国かもシグナルを出してきたということは、中国様だいぶ日本にご配慮しているなという感じがする。このご配慮の意味はなんだろうか。
 西欧の先進国が人権問題で騒いでいるのにぐっと堪えて偉いぞ、東洋鬼。ちがった、小日本。ちがった、蛮族。ちがった、二文字姓の少数民族。ちがった、まあ、日本人。ということか。かく言う私も、別になんのポジションもないけど、チベット問題やダルフール・ジェノサイドで現時点で中国を叩くようなこと言っても、遅いよ、遅すぎ、詮無き、夏ばてだよ、かつ屋でかつ丼食えよ的になっている。みんな未来に耐えていこうじゃないかみたいな。
 余談ついでに言えば竹島問題で、米国があっさり韓国領とか言いだしのは、あれはブッシュ訪韓前の韓国への配慮なんだろう。なかなか南部の人のハートウォーミングなところ、かもしれない。余談がさらにそれると先日映画「ボラット」(参照)を見たが、表向きのえげつない政治性や米国批判よりも、米国の根の部分の温かさや良心みたいのを随分感じた。木で鼻をくくったようなリベラルな人の前でバロン・コーエンのギャグがすべってもそれはそのまま気まずい沈黙で終わる部分はむしろああいうリベラルな感性が優れていることなんだろう。
 話を戻す。ステイルメイトかに思える毒入り餃子事件の状況をとりあえず中国側から崩したのは中国の意図なのか、日本の努力なのか。後者はあるだろうが、ざっくり見れば、中国側に変化があった。現状では大きな変化とはまだ言い難いが、ボールは打ち返されたわけで、外交がまた始まることになる。そうするしかないじゃないかね。
 ただ今回の打ち返しは三十六計のお国柄としても奇妙な感じはする。また陰謀論ですかみたいに三十六計も知らない人からネガコメ食らうものうんざりするのだけど、私が最初に思ったのは、オリンピックのどさくさに紛れてというより、戒厳令の効果があったかなだった。戒厳令下である程度まで北京にグリップが来たかな、と。
 この先は陰謀論的なスジが濃いと自覚があるのだけど、昨今のウイグルがとされる事件も本当にウイグルが主体なのか、私は疑問に思っている。すでに述べてネガコメ食らったけどチベット暴動もチベットが主体の暴動なのか依然疑問だ。大局的に見れば、中国はチベットとウイグルの地域を資源的に地政学的に確保しなければならないという至上命題があるので、すべてはその派生の最適化にしかならない。だとすれば叩く口実を付けて叩くのはごく当たり前の歴史常識の部類でしかない。
 どうも話がそれるが、北京オリンピックを出汁にした戒厳令のうま味がだいぶ効いているような感じがするし、そうでないとだいぶやばいのかなとも思う。ただ、本当に北京側のグリップなのか、また私兵集団人民解放軍とかのグリップというか揺さぶりがないのか。いやそれはまたあるでしょとは思う。しばらくすると軍関連で、げげげみたいなニュースが出てくるのがまいどのパターンだし。
 さて、今回の毒入り餃子事件進展だが、日本国内報道がなんとも奇っ怪。いったいこれはどこから出てきた話のなのか。私が最初にこの話を聞いたのは読売新聞記事”「天洋食品」回収ギョーザ、中国で中毒…現地混入が濃厚に”(参照)だ。各紙の報道はそれに次いだような記憶がある。読売の情報経路は「関係筋だ」。


 中国製冷凍ギョーザ(餃子)中毒事件で、製造元の中国河北省石家荘の「天洋食品」が事件後に中国国内で回収したギョーザが流通し、このギョーザを食べた中国人が有機リン系殺虫剤メタミドホスによる中毒症状を起こして、重大な健康被害が出ていたことがわかった。
 関係筋が5日明らかにした。これまで日中双方の警察当局がそれぞれ自国内でのメタミドホスの混入を否定してきたが、中国国内で同様の事件が発生したことにより、中国での混入の可能性が強まった。


 関係筋によると、中国側は7月初め、北海道洞爺湖サミット(主要国首脳会議)の直前に、外交ルートを通じて、日本側にこの新事実を通告、中国での混入の可能性を示唆したという。

 今回の問題な局所的な重要性はこの「関係筋」にかかっている。
 読売の記事を読んだ印象では、読売の関係筋は日本政府側の内情を知っているように見えるので、政府側から読売へのリークと見ていいのだが、政府側が現政権そのものなのかはよくわからない。一応話の可能性としては、北京または福田政権を困らすためにリークしたというのもあるが、まあ、それはないでしょ。事後の流れスムーズ過ぎるし。
 外交と内政の構図としては、産経”五輪成功目標の中国に配慮 ギョーザ問題解決、先送りに同意の日本 ”(参照)がわかりやすい。

 中国製ギョーザが同国内でも中毒事件を起こしていたことを受け、町村信孝官房長官は6日、8日の日中首脳会談で早期の事実解明に向けた捜査協力を確認するとの見通しを表明した。ただ、北京五輪の無事成功を至上命題とする中国側は、これまでに日中間の諸懸案の協議は五輪終了後に先送りしたいとの希望を伝えてきており、日本側も了承していた。食の安全という国民の関心事についても中国側の事情への配慮を続ける日本政府の「待ち」の姿勢が問われそうだ。
 五輪開会式出席のため、8日に中国を訪問する福田康夫首相は、温家宝首相、胡錦濤国家主席と相次いで会談するが、当初はギョーザ事件を取り上げるとは決まっていなかった。

 少し大きめな構図で言うと、毒入り餃子は一つのシンボルであって、「日中間の諸懸案の協議は五輪終了後に先送り」が基本構図だとわかる。
 ところが、8日訪中福田総理に合わせ、先送りでなくさせたのは、この流れで読めば中国側なので、だとするとリークの構造は、中国側からの口裏合わせに福田政権が流したものだろう。その意味で、政府側はリークがなければこの問題は日本国民に隠蔽していたのだ、というバッシングのストーリーは、ありえない、というか当初からそのくらいの泥かぶりを落とし所として意図されたものだろう。
 毒入り餃子問題はカモフラージュかもしれないという線も考えておきたい。

 実際、7月中に公表予定だった日中両国の歴史学者らによる「日中歴史共同研究」の報告書も、歴史認識をめぐる対立を起こしかねないため、五輪後に先送りとなっている。

 日中の歴史認識問題はそれ自体は問題であるには違いないのだが、実際には日中ともに内政政局のための弾にしか扱われてこないことが多い。しかも江沢民一派が多少整理されてからは、中国にとってナショナリズムの高揚は諸刃の剣より自国への剣の面が強い。中国側のほうが目下のところは歴史認識問題を持ち出したくないというか、北京側の思惑はそうだろう。
 ここで少し陰謀論的な読みに踏み込むとすれば、この構図で北京側が憂慮するのは、上海閥かあるいは軍か、いずれもまた歴史認識問題のカードを対北京向けの抗争手段に切り出す構図の危機を北京側が察知して日本に協力を求めている、というのもありそうだ。が、この構図はそれほど強いだろうか。評価がむずかしい。中国は自国の崩壊の危機をほったらかしても内政の権力闘争するか。意外とやるんですけどね、歴史を見ていると。
 事態を考察するに当たって、中国は日本のジャーナリズムにチャネルを持っているので、そのあたりから、微妙な本音というか声を聞き取ることもしてみたい。その最大チャネルは中国友好を掲げる朝日新聞の社説だったりするから、日本は国際情報に恵まれている。今朝の朝日新聞社説”中国ギョーザ―事実を国民に公表せよ”(参照)は微妙な面白さがあった。

 真相解明が立ち往生していた中国製冷凍ギョーザの中毒事件について、驚くような事実が報道で明らかになった。日本で事件を引き起こしたメーカーのギョーザを食べた中国の人たちも、中毒症状を起こしていた。
 原因をめぐっては、日中双方が自国で混入された可能性は低いと主張し、平行線をたどっていた。それが中国でも中毒事件が発生し、日本で検出された有機リン系農薬成分メタミドホスが原因と特定されたとなれば、中国国内で混入された疑いが濃厚になる。
 中国政府も国内での中毒の発生を認め、「全力で捜査している」との談話を発表した。

 ちょっと待ってくれ。
 新聞の基本の5W1Hが抜けている。「日本で事件を引き起こしたメーカーのギョーザを食べた中国の人たちも、中毒症状を起こしていた」はどういう事態なのか?
 先の産経のニュースでも指摘されているが、その事実確認はできていない。

 今回、中国側が国内での中毒事件発生を認めた経緯には「回収されたギョーザを食べているなど不自然な点がある。早期の問題決着を急いだ中国政府が無理やり解決のためのストーリーを書いたのではないか」(日中外交筋)という疑問も出ている。

 つまりこの話自体が中国様のよくできたお話という可能性があるのだが、朝日新聞社説はそこをスルーしている。そもそも、朝日新聞社説では「日本で事件を引き起こしたメーカーのギョーザを食べた」としているが、「回収」については触れていない。回収ってなんだよと疑問に思わないわけもないのだから、朝日新聞社説にはそこをスルーする意図があるだろう。
 加えて、朝日新聞社説では「中国政府も国内での中毒の発生を認め、「全力で捜査している」との談話を発表した」としてこの話が中国から公式に切り出されたふうに描かれている。リークの経路もスルーしているわけだ。
 さらにこの後。

 それにしても、である。
 この事実が7月の洞爺湖サミットの直前に外交ルートを通じて日本政府に伝えられていたのに、国民には一切知らされなかったことが理解できない。
 福田首相は「わが国の捜査当局と情報交換している状況だ。どういう状況か今申し上げるわけにはいかない」と述べたが、この弁解も納得できない。ことは人々の命にかかわる問題である。政府はただちに事実を公表すべきだったし、いまわかっていることをきちんと説明すべきではないか。

 としているが、それは話が逆であることは先に触れたとおりだ。「黙ってろ」といったのは中国様で、今回の切り出しも中国様イニシアティブと見ていい。
 というわけで、この朝日新聞社説のメッセージはいったい何だろう?
 朝日新聞を批判したいのではない。まったく逆だ。この社説自体が中国様の、今回の報道の、正しい読み方を示唆してくださっているわけだ。つまり、「回収」話の奇っ怪点はスルーしろよ、リーク経路は問うな、日本政府が隠蔽したことが問題だぜ(福田は泥を被ってくれるから)、問題は食の安全であって歴史認識とかは関係ないよ、というわけだ。わかりやすい。
 火もと近い読売新聞社説”ギョーザ事件 「混入元」はやっぱり中国だった”(参照)は一見すると中国非難のようだが、伝達部分を抜き出していくと朝日新聞社説と同じ主張に帰着している。「回収」話は問うなよ、リークじゃないよ関係筋だ、日本政府が食の安全をしっかりせよ、歴史認識問題は言及せず、と。
 日本人としてはまあ中国様の内情を察しつつ、日本文化お得意の勧進帳をするしかないだろう。っていうか、勧進帳だよ、盆踊りシーズんだからって踊るなよ。

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