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2008.07.19

[書評]中国発世界恐慌は来るのか?(門倉貴史)

 書名に釣られて読んだ。「中国発世界恐慌は来るのか?(門倉貴史)」(参照)だものね。

cover
中国発世界恐慌は
来るのか?
門倉貴史
 気になるといえば気になるし。帯には”「北京五輪後、崩壊が始まる」という説は本当か?”とあり、本当なのか? いや違う。北京五輪を待たずもう崩壊が始まっているから、という冗談はさておき。
 そのスペシフィックな問い掛けについては、ミステリー小説のスポイラーのようになるが、まず3つのシナリオが提示される。

  1. バラ色に彩られた最良のシナリオ
  2. 問題先送りの灰色のシナリオ
  3. 崩壊への暗黒のシナリオ

 さて、どれか?
 著者による表向きの解答はこう。

 さて、では実際のところ、バラ色のシナリオと暗黒のシナリオのどちらが現実的なのだろうか。筆者は、60%程度の確率で、とりあえずはバラ色のシナリオが実現するのではないかとみている。

 というわけで、バラ色に決定!
 というには微妙な書き方になっているのはしかたがないだろう。かくいう私はどうかというと、60%程度の確率で灰色のシナリオあたりじゃないかな、60%で灰色ってなんだとかツッコミ禁止ね、洒落だから。というか、本書の筆者も灰色のシナリオを挙げていていちおうその説明があるのだけど、「実際のところ」の決断で外しているのは何故? というか、そのあたりは、本書を最後まで読んでいくと、なんとなくわかる。わかれよ。
 ところでバラ色60%マゼンタ80%的な理由はなぜか。

 その根拠は、中国政策当局が90年代半ばの引き締め政策や日本のバブル崩壊から教訓を引き出しているという点にある。その教訓とは、金融引き締め解除のタイミングさえ誤らなければ、荒療治を行っても経済をソフトランディングさせることは十分に可能ということだ。

 こ、これはネタ? というか、日本はそれに成功したら教訓なのか、日本は失敗したから、ああすんじゃねーという教訓なのか。どっちだとあなたは思いますか?
 後者でしょ、たぶん、かなり60%以上の確率で。日本はべたにタイミング誤ったわけだし。
 本書でもこのあと「バブル退治に失敗した日本と異なり」とあるので、つまり、日本は失敗したら、だからそうしなければうまくいくという論拠、だなと、ここは微笑むところかも、とか本書を腐したいわけじゃないけど、ダメの道はいろいろとあってダメが一個ならそれを避ければいいけど、右の下水路を避けたら左の肥溜めに落ちるというダメはいろいろあったりして。

 結局、これらの3つのシナリオから言えることは、北京オリンピックの宴が終わった後に中国経済が深刻な不況に見舞われると日本の企業は大変困ったことになるが、かといって、中国がソフトランディングに成功して超大国への道を邁進するようになったとしても、それはそれで厄介な側面もあるということだ。どちらに転んでも大きな影響力がある、それほど日中関係は抜き差しならないものになっているのである。

 そりゃそうでしょ。このあたりを「”俺様国家”中国の大経済(山本一郎)」(参照)は日本国家の存亡の視点から書いているが、ようするにパチンコの玉みたいに中期的には下の穴に入ってしまうわけだ。
 でと、現時点でこの手の話題を論じてそれなりにまともな意見にするなら、最初からある程度このあたりまでしか言えないよなというのがきっちりたらっとふら~っとに本書は書かれているし、途中、いろいろレポートまとめました百科事典的だったり、中国面白エピソード集っぽかったりして、それはそれで面白いし、その価値も十分あるので、お得な1冊でもあるのだが、というか、著者もわかっていて。

 本書では、『中国発の世界恐慌は起こるのか?』という疑問をきっかけとして、様々な側面から、北京オリンピックを開催した後の中国経済がどのような姿になるのかを検討してきた。いろいろな話が出てきて頭が混乱している読者もいると思うので、最後にこれまでの論点を簡素にまとめておこう。

 と率直に書いている。いろんな話はそれなりに面白いのだけど、『中国発の世界恐慌は起こるのか?』とはそれほど強く論拠になっているふうは表向きは、ない。
 が、とこのあたりでマジに読者として本書の評価をすると、北京オリンピック後の崩壊というのはようするにレンジの問題だろう。というか、ここまでよくもったよなということで、そのもった仕組みについて、「第6章 人民元の切り上げと資産バブルの崩壊」という章で縷説しており、率直にいうと、中国経済の専門家は別として一般人なら、この章読むだけで本書の価値がある。よく書けていると思う。というか中国政府はよくやっている。つまり、バラ色60%はここまでよく頑張りましたということだろう。
 なかでも、今年に入ってからの上海株暴落にはよく耐えてきたと思う。本書でも、「中国本土の株価バブルは完全に崩壊したと言っていいだろう」としてそれをすでに過去のこととしている。あとは不動産市場だがこれは率直なところお茶を濁すしかないだろう。「中国社会科学院は、これまでの金融引き締め政策の効果が浸透してくることで、中国の不動産価格が08年以内にスローダウンするとみている」と伝聞にして締めにしている。
 あとは不良債権の問題だが私はよく読み取れなかった。米国のサブプライムローン問題を表に出して論じてるために却ってよくわからないという印象を持った。
 結局どうなのか? 

 ただ、問題は上海万博が終了した後、すなわち2011年以降の中国経済がどうなるかである。より中長期的な視点に立って考えると、中国発の世界恐慌が起こる可能性は排除できない。

 本書はむしろ社会的な要因を主要なものとしているが、どうだろうか。
 私のごく印象だが、北京オリンピックという契機をこれまでの頂点と見るか、来るべきものの前倒しと見るかで、前倒しされる壮大な崩壊は依然ありうるのではないか、というところだ。でも、日本とか米国とか世界経済がその前にチキンレースに負けました、ならそれはそれで、Win-WinならぬLose-Loseでめでたしとかになるかな。
 そのあたりの指標は筆者も指摘しているがインドだろう。長期的に見れば、インドが中国を圧倒してくるし(中国は高齢化する)、そのパワーのぶつかりは激しくなる。
 本書にはいろいろなお話が掲載されていて、飲み会のネタの仕入れにもいい。ただ、石油高騰問題や水問題、三峡ダム、台湾問題など、いろいろというなら項目にあってもいいものはいろいろ抜けている。

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2008.07.18

イラクの対外債務のこととかのメモ

 個人的にちょっと気になるというか、わかるようでいまひとつわからないので気になっているというか、イラクの対外債務のことだ。私だけがとんと無知ということかもしれいが、無知を晒すのにブログはよかろうってなノリというか備忘を兼ねてちょっと書いてみたい。
 話は先日のアラブ首長国連邦(UAE)による対イラクの債権全額放棄がきっかけだ。7日のCNN”アラブ首長国連邦、イラクの債務7500億円を帳消しへ”(参照)より。


ドバイ  アラブ首長国連邦(UAE)は、イラクがUAEに負っている70億ドル(約7500億円)の債務を帳消しにする意向を表明した。イラクのマリキ首相が6日明らかにした。

 なぜこうなったかだが、同記事では。

米国は、イラクの重要問題である対外債務の減免を各国に要請してきた。キミット米財務副長官が5月に明らかにしたところによると、債権国の大半はアラブ諸国。

 というわけで、米国の主導のようだ。そしてイラクへの債権国の大半はアラブ諸国。まあ、ここでなぜアラブ諸国なんだというのはありげにちょっと心にフックしておく。
 同日U.S. FrontLine”対イラク債務帳消しを歓迎 米政府 ”(参照)では、債務を40億ドルとしている。

 アラブ首長国連邦(UAE)が6日、イラクに対する約40億ドル(約4300億円)の債務を全額帳消しにし、駐イラク大使を指名したと伝えられたことについて、米国家安全保障会議(NSC)のジョンドロー報道官は7日「米政府として歓迎する」との声明を発表した。

 額のブレが2倍近くあるが利子らしい。同日のIBTimes”UAE、イラクの債務帳消し、駐イラク大使を指名”(参照)ではこう説明されている。

UAEがイラクに貸し付けていた債務は利息を除いて40億ドルにも達する。UAE政府関係者の話によると、利子も含めれば総額70億ドルとなるという。

 利子の仕組みや慣例がどうなっているのかいま一つぴんと来ない。
 共同もよくわかってない雰囲気が6日付け”イラクの債務全額帳消し UAE、約4300億円”(参照)から漂う。

 【カイロ6日共同】アラブ首長国連邦(UAE)のハリファ大統領は6日、イラクが負っている約40億ドル(約4300億円)の対UAE債務を全額帳消しにすると発表した。首長国通信が伝えた。ロイター通信は延滞利息などを含めると総額約70億ドルとしている。

 続けてIBTでは。

 また国連によると、イラクのクウェート侵攻時に生じた債務が280億ドル残っているという。イラクは同国原油売上高の5%を債務返済のために充てている。イラクは前年に比べ暴力事件発生件数が70%も減少している。近隣国ヨルダンも先週駐イラク大使を指名しており、クウェート、バーレーンも近く駐イラク大使を指名する予定であるという。
 米ホワイトハウス広報官ゴードン・ジョンドロー氏は、米政府もUAEのイラク債務帳消し、国交正常化を歓迎していると述べた。

 ようやく米国主導の戦後の始まりかとも取れるのだが、気になるのは、この280億ドルの債務とは何か? いやとりあえずまたフックしておく。
 同日のロイター”UAE、イラクが負う約70億ドルの債務を全額帳消し”(参照)がまた興味深い。

 イラクが負う対外債務の総額は、最大で800億ドルに上るとみられる。米政府はかねてから、アラブ諸国の政府に対して、欧米諸国と同様に債務免除に応じ、イラクの復興を支援するよう要請していた。

 ここでひょこっと800億ドルが出てくる。これはさっきの280億ドルとどういう関係にあるのか? 今度は3倍以上の差がある。
 ところで今回のUAEには前段がある。5月30日付け読売新聞記事”イラク復興プロセス検証で会議、首相が対外債務削減求める”(参照)より。

イラク復興への具体策を定めた「イラク国際協定」の合意内容を検証する初の国際会議が29日、当地で開かれた。

 会議には、ライス米国務長官やモッタキ・イラン外相ら約600人が出席。約100の国・機関の多くは過去1年間の再建に一定の評価を示したが、焦点のフセイン政権時代からの債務削減では具体的な議論は出なかった。


 そのあたりが今回の前段ではあるのだが、債務の額はというと。

 イラクのマリキ首相は演説で、治安回復など復興に向けた努力の成果を強調した上で、「独裁者から引き継いだ債務によって、再建のプロセスが停滞している」と主張、債権国に債務減免を求めた。イラクの対外債務は現在、500億ドル(約5兆2000億円)を上回ると見られ、経済再建の足かせになっている。ライス長官も演説で、「(イラクの)債務を削減した国もある」と述べ、首相の訴えに理解を求めたが、主要債権国サウジアラビアなどはこの問題には明確に触れなかった。

 今度は500億ドル以上。どうなってんの? ようするに最終的にチャラにするから、そのあたりはレトリックということだろうか。
 で、気になるのは、主要債権国がサウジアラビアだということ。
 というあたりで少し整理というか、7・23日本版ニューズウィークではこうまとめている。

665億ドル:対外債務1270億ドルのうち、債権放棄や減額、支払いによって2004年からこれまで減った分。
280億ドル:1990年のクウェート侵攻に対する賠償金として今後も支払うべき金額。イラクは原油取引の利益を支払いにあてている。
250億ドル:サウジアラビアが主張する債権額(400億ドル)と、イラクが主張する債権額(150億ドル)の差額。
80%:パリクラブ(主要債権国会議)に参加する先進19か国が同意した債権放棄の割合。

 さて、これをどう読むか? ニューズウィークはへぇみたいに突き放していて、特に解説はない。基本的に先進国では債務放棄になるのだろうというのはガチ。
 クウェートへの債務がでかいのは賠償金の問題が依然大きい。
 問題はやはりサウジアラビアで、言い分だと400億ドルだから、それは何? 賠償金だろうか? はて?
 ここで歴史を振り返る。イラク戦争開戦は2003年3月19日。ウィキペディアなんかだと今も継続中とのことでまあウィキペディアだからね。いちおう、一つの目安として米国の戦闘終結宣言は2003年5月1日。
 で、イラク債務が問題になるのは、というか、過去を振り返ると、浮上してくるのは、200年4月ごろ。それまでは問題はあるにはあったというか、湾岸戦争と関連しているのでないわけはないのだが、なんとなく冬眠したような状態になっていたと言ってもそう間違いでもない。
 気になるのは、2003年4月11日読売新聞記事”イラク債務削減、G7で話し合う/スノー米財務長官”。べた記事であることと孫引きでもあり事実なのであえて全文引用する。

 【ワシントン=天野真志】ジョン・スノー米財務長官は十日、米FOXテレビに出演し、先進七か国財務相・中央銀行総裁会議(G7)などで、イラクの債務削減問題を議題にしたい意向を示した。長官は「イラク国民にフセイン政権が残した深刻な債務を負わせるべきではない。各国が削減に応じる必要がある」と語った。イラクの対外債務は一千億ドルを超える規模とされる。日本政府や企業も一兆円以上の債権を持ち、削減協議の対象になると見られる。

 まだ米国の戦闘終結宣言前にこれが決まっていた。そしてその額は「一千億ドルを超える」ということで、流れ的に見ると、いやその、爺が引くような予防線気味の「陰謀論じゃないが」という枕を置くわけだけど、このあたりはパイプマン的な勢いが当初あったのだろう。で、詰まっているのは、サウジアラビアを筆頭としたアラブ諸国という図か。ふむ。
 翌日の記事”イラク復興 対外債務処理、難題に 米、各国に削減要求か 仏露の反発確実”はかなり突っ込んでいる。

 イラク復興に関連し、約千三百億ドル(約十五兆六千億円)規模とされるイラクの対外債務の処理問題が、主要国間の重要課題に浮上してきた。新規の借款供与など「本格支援」に進むには、過去の債務処理が不可欠なうえ、膨大な戦費負担を抱え込むアメリカが、主要国に対し、戦費分担の代わりにイラク向け債権カットという形での復興への貢献を求めると見られるためだ。しかし、多額の債権を抱えるロシア、フランスなどの反発は確実で、ワシントンで十一日夜に開幕する先進七か国財務相・中央銀行総裁会議(G7)などでも、同問題を巡る意見調整は難航しそうだ。
 国際開発センターの推計によると、油田開発や発電所、港湾整備などのための資金借り入れにより、イラクの対外債務額は現在、官民合計で金利分を含め約千二百七十億ドルに膨らんでいる。

 まず、1300億ドルだったわけね。そして、ロシアとフランスはこの時点で反発していた。
 内訳はこう。

 主な債権国と額は、湾岸諸国(クウェートを除く)三百億ドル、クウェート百七十億ドル、ロシア百二十億ドルなど。先進七か国では、日本が約五十億ドル(約六千億円)、フランスが四十―五十億ドルと多いが、アメリカやドイツなどは数億ドルにとどまっていると見られる。

 ここでほぉと思った。

 千百二十五億バレルと世界第二位の埋蔵量を持つイラクの油田が原油生産を回復すれば、イラクは年百五十―百八十億ドル規模の輸出収入を確保でき、債務返済の有力な原資となる。しかし、イラクの対外債務規模は国内総生産(二〇〇〇年で約三百億ドル)の四倍強に達している。さらに、これとは別に湾岸戦争に伴って支払う必要がある賠償金が約二千億ドルもあるとされ、原油の輸出収入だけでは、新たな復興資金も含めた財政需要をとてもまかなえそうにない。

 この時点でイラクの対外債務規模は約千三百億ドルということだが、「これとは別に湾岸戦争に伴って支払う必要がある賠償金が約二千億ドルもある」ということなわけだ。
 で、「原油の輸出収入だけでは、新たな復興資金も含めた財政需要をとてもまかなえそうにない」のだが、これ、原油価格が上がれば話は別か。
 このあたりで湾岸戦争ころに遡るのだが、1991年2月20日読売新聞記事”再建険しいイラク経済 たとえ停戦実現しても 賠償・制裁…お手上げ(解説)”が興味深い。

 まず、イラクの対外債務は、昨年八月のクウェート侵攻時点で、七百五十億ドルに達していたと推定される。これは、途上国の中では、ブラジル、メキシコに次ぐ金額である。このうち、ソ連が武器輸出代金などで二百億ドル、クウェートが百四十億ドルの債権を持つとみられる。
 この負債を返済するだけでさえ容易ではないが、戦後はこれに、侵略で破壊されたクウェートや、ミサイル攻撃を受けたサウジアラビアなどから、賠償金の支払いの請求が待っている。
 クウェート亡命政権の試算によると、クウェートが受けた被害の総額は、六百四十億ドルに達するという。その上、イラクが仕掛けたイラン・イラク戦争でのイラン側の賠償請求問題もくすぶっている。イランとクウェートを合わせた賠償請求額は、二千億ドル(二十六兆円)に及ぶという試算もあり、これを支払うことは、事実上、不可能に近い。
 一方で、イラクは外貨収入の九八%を原油・石油製品の輸出に頼っていた。しかし、現在は経済制裁で輸出はできず、石油生産・石油化学工業の施設もほとんど破壊されてしまった。唯一の収入の道が閉ざされたことになるわけだ。


 また、イラクは、昨年八月以前、輸出の四七%、輸入の七〇%を多国籍軍側の国と行ってきた。しかも、石油輸出の八五%をサウジとトルコを通過するパイプラインを経由して実施していた。つまり、停戦になっても、多国籍軍側の経済制裁が続けば、イラク経済の再建など、絵にかいたモチであることがよくわかる。

 確かにそういう状況だった、と言いたいところだが、実態は少し違う。前年8月8日読売新聞記事”イラク制裁の効果は疑問 原油輸出、相当量が市場に”より。

 イラク経済は、八年間に及ぶイラン・イラク戦争遂行に伴う戦債など、現在総額七百億ドル余の対外債務を抱え、不振にあえいでいる。経済再建のため不可欠な輸出収入の九割までを、原油輸出に頼っている。その輸出先の三分の二が西側各国であり、禁輸措置が、同経済の首をジワジワ絞め上げていくことは間違いない。
 だが、相当量のイラク産原油は、制裁に加わっていない国を経由し、仲介業者の手を通じて世界市場に出回ることが予想されると、ロンドンのエネルギー問題専門家は指摘する。これを阻止するには、イラクからの原油の輸出を完全に封じる以外にない。
 イラク原油の搬出ルートは、トルコ、サウジアラビア両国を走る長大なパイプラインとペルシャ湾の二つ。米国はトルコ、サウジ両国に対し、パイプラインの送油停止を強く働きかけているが、両国がイラクを挑発する手段に出るのは困難との見方が強い。唯一の手は、西側各国によるペルシャ湾の海上封鎖ということになるが、各国がそこまで踏み切れるかどうか。

 このあたりに後の国連不正問題の根があるわけだが、というか、根はそのまま放置されてきた。
 このころの記事が今振り返ると面白い。4日読売新聞記事”OPEC支配の野望? クウェート制圧のイラクのサウジ侵攻説消えず”では。

 イラクのサダム・フセイン大統領の強力な権力志向型の個性を考えると、最終的にサウジアラビア侵攻をひそかに狙っている可能性は否定できない。それだけに米国を始め、湾岸に権益をもつ日本や欧米諸国は不安を募らせる。
 もしイラクがクウェートに加えサウジアラビアの石油まで意のままにできるようになれば石油輸出国機構(OPEC)は、フセイン大統領の個人機関に化しかねない。それでなくとも、ロンドンの専門家筋の間では、石油価格が来年まで一バレル=二十五ドル程度を続ければ、世界的に平均二―二・五%のインフレを生み、成長率を二%近く引き下げるとの声が早くもささやかれている。
 今回の紛争の口火を切ったのは、クウェートなどがOPECの協定枠を越えて増産、その結果、原油価格が急落したため、イラクが百四十億ドルの損害をこうむったとするフセイン大統領の非難だった。ついでタリク・アジズ外相は、「クウェートが十年前からイラク領のルメイラ油田を盗掘し、二十四億ドル相当の原油を盗んだ」として、損害賠償を要求。国家同士が「油泥棒」呼ばわりで、けんかするというスキャンダラスな展開となり、ついにイラク軍の侵攻という最悪事態に突入した。

 このとき原油価格の急落があった。というか、湾岸戦争の理由は原油価格の低迷にフセインが怒ったとしている話もあった。

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2008.07.16

武士というもの

 昨日のエントリ「極東ブログ: 三橋一夫のこと」(参照)の続きのような話。とはいえなんとなくもわわんとして特にまとまりはない。なんというのか、「日本」とか「武術」とか「古武道」とか「武士道」とかまあ、最近言われているその手のものへの違和感にある歴史感覚のズレのようなことをこのところいろいろ思う。「ナンバ歩き」みたいなものも自分ではその部類だろうか。とりあえす、「武士というもの」かな。仮に問いを立ててみる。
 武士道で一番大切なことは何か?
 武士にとって何が一番大切か?と言い換えてもいいような。いやそうでもないような。微妙な感じがするのは、我々が「武士」と思っているもののイメージは、歴史における武士とまるっきり違うのではないか。以前与太で関連エントリを書いたことがあるけど、与太マークをしなかったので誤解されて困惑したが、たとえば宮本武蔵とか、彼は実際には一種の芸人でしょう、と。人斬りとかもどっちかというと大道芸の部類はないか、というのは、組織的な戦闘にはあんなもの役立つわけがないよ、と。日本史における戦闘は基本的に海戦だし、陸上の場合は馬が基本で、刀なんかぶん回すわけがない、というか、日本刀というのはおそらく海戦用だろうし刺身包丁が起源なのではないか、と。与太で言うわけなのだけど、というかその話はもうどうでもいいが。

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「健康」の日本史
(平凡社新書)
北沢一利
 昨日のエントリで三橋一夫の父、つまり本当に武術家だった彼は、「剣道」とはいわず「撃剱」と言っていた。「撃剱」とは何かだが、いわゆる竹刀の稽古と言ってもいいかもしれない。が、およそ竹刀なんて軽っちょいもので、鉄の塊である日本刀の代わりになるわけないのでというのは後で触れるのだが、いちおう江戸時代を通じて剣術家はいた。それりゃそうだだが、このあたりのことも今一つよくわからない。わからないというのは、どうもチャンバラものという時代劇映像の武士というのは実際の当時の存在とはまるで違っているのでないかという疑念があるからだ。
 話を端折って「撃剱」だが、これにある種の奇妙な歴史的な語感が付くのは「撃剱興行」があるからだ。「撃剱会始末(石垣安造)」(参照)の書籍解説に「明治六年剣士救済のため榊原鍵吉によって始められた撃剱興行のてん末を直心影流正統の流れを汲む著者ならはで詳細に描き切ったものである」とあるが、明治4年の脱刀令公布で帯刀できなくなった剣術家を大道芸として職をつけるべく直心影流第14代榊原鍵吉が官許の撃剣興行を開始した。これが明治時代の間中紆余曲折がありながらけっこう続いた。撃剱興行はある意味で相撲興行にも似ていて、興業としての家制度もあったようだ。私はこの撃剱興行がチャンバラ劇やチャンバラ映画の起源なのではないかと思っている。つまり、武士のイメージの起源。
 撃剱興行は東京府では明治6年にいったん禁止され11年に再開するのだが、この間、西南戦争が起きている。「「健康」の日本史 (平凡社新書)(北沢一利)」(参照)によると。

(前略)道場の剣術家たちは、興業などでかろうじて食いつないでいたにすぎません。
 皮肉なことに、この剣術の滅亡を救ったのは西南戦争でした。この戦争で官軍の中心勢力は先にも繰り返し述べたように徴兵軍隊です。しかし、政府はこれを補うために、地方で職にあぶれていた士族を警察官である「巡査」として採用し、これを前線の薩摩兵と戦わせたのです。西南戦争後、多くの剣客が警察に残り、なおかつ警視庁も巡査の訓練に剣術を採用することになったので、剣術は柔術のように転向することなく、警察のなかで生き延びる道が確保できたのです。

 「柔術」の転向も面白いのだが、そこは端折って、この警察に生き延びた剣術は、その後、実際上の「警視庁流」を生み出した。同書によると「これがのちの剣道の起源になります」とこのと。いやはや。剣道の起源は韓国にありのほうがまだよかったかもしれない。
 その後日清戦争を契機に、「武士道」の復古となり、桓武千百年祭で「大日本武徳会」ができてくる。というか、どうも現代の武士道とやらの起源はこのあたりにありそうだ。新渡戸稲造の「武士道」もこうした擬古的な歴史幻想の文脈から生まれている。
 話を先の「武士道で一番大切なことは何か?」に戻すと、こうした擬古幻想を外して、実際に武術家だった、この時代の三橋一夫の父はどう考えていたかだが、おそらく次のエピソードが答えになる。三橋一夫はこう言う。

 八月末、私は満十五歳になりました。
 父は月給取りのくせに、まだ武士のつもりでしたから、
 「いよいよ、お前も満十五歳で、元服したのだから、切腹の仕方を教えてやる。それから、毎日、この棒を素振りしろ。一日千回は振れるようになれ」

 ということで、まず切腹の作法を教えた。
 武士道で一番大切なことは、切腹だろう、常考、である。
 なにより先に切腹の気構えと作法ありきが、武士道である。なんでそんな当たり前のことがなんかすこんと見えなくなった感じがするのかというと、そんな自殺はあかんということもなのだろうし、確かに切腹は自殺には違いないが、どうも歴史の感触として奇妙なものがある。いずれにせよ、やはり切腹無くして武士道はないだろう。現代の選挙とかでハラを切れと宣う人もいるが、武士でないものにそんなことを言っても意味ないが。
 話はずれるのだが、三橋が父からもらったこの棒だが。

 といって、元服記念に六角棒をくれました。
 鬼のもっている鉄棒みたいに、先が太くなっている。竹刀くらいの長さの棒です。
 柄だけが丸く、先は六角になっていました。

 というわけでやはり竹刀なんかぶん回しても意味ないからだろうと思うのだが、その先の話が、なんというか私などは呆れる。というか、武士ってこういうものか。

 「赤樫だ。船大工に作らせた。丁度二貫目ある。三八式歩兵銃と大体同じくらいの重さにしてある」

 本当の武士というのは剣にはこだわっていなかったのだろう。江戸時代でもいわゆる剣術は表向き盛んだったが、それに槍術が迫る。むしろ日本の歴史の戦場で役立ったのは槍術だろうし。
 そして幕末では砲術が武士に重視される。あれだよ、武士っていうのは、国を守るためにいるのであって剣術興行が主目的ではない。三橋の父も、武士のままその時代時代にその根幹を見ていたから、「三八式歩兵銃」を想定したのだろう。武士というのはこういうものなんだろうなと私は思う。
 三橋は元服のときに、切腹作法と六角棒に加えて、健康法として革身術をその父から教わる。三橋はさらっと書いているが、革身術は切腹作法と関連をもつ武家の秘伝だったのではないか。
 八十歳になった三橋はこう述懐する。

 六角棒は、七十歳くらいまで、いつもそばにおいて、ほとんど毎日振っていましたが、だんだん素振りの数も少なくなり、二年ほど前、親しい友人にやってしまいました。
 しかし、関東大震災の日、亡父から習った革身術は、今日でも、毎日欠かさず実行しております。

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2008.07.15

三橋一夫のこと

 三橋一夫という著作家を書店で検索すると各種の書籍が出てくるのだが、これが同姓同名の4人くらいが混ざっている。ウィキペディアを見ると同項目(参照)はその点を考慮しているが。


1. 小説家、健康体育研究家(1908年8月27日 - 1995年12月14日)
2. 音楽評論家(1928年 - )
3. 日本庭園研究会千葉支部代表(1941年 - )

 がというのは、その先の記載はない。私が関心を持っているのは、小説家、健康体育研究家の三橋一夫で、なぜかはてなキーワードの解説が詳しい(参照)。なぜかで思うこともあるがあえて書かない。

作家(1908年(明治41年)8月27日~1995年(平成7年)12月14日)
本名:三橋敏夫。
戦後の「新青年」誌に、形容不能の幻想小説「ふしぎ小説」を連続発表して話題となる。
ユーモア小説等も発表した後に、小説の筆を折り、健康法の著作等をものした。
別名として森九又、信濃夢作もある。

 同項目には”三橋一夫作品目録”(参照)へのリンクがあり、これはこれでたいしたものなのだが、「健康体育研究家」についての著作の話はない。
 ぐぐるとガラクタ風雲というサイトに「三橋一夫」(参照)の春陽文庫書籍についてのやや詳しい話がある。ここにも同姓同名のことが書かれている。

確かに、同姓同名の三橋一夫がいるのである。建築関係の本を出している三橋一夫、音楽関係の本を出している三橋一夫などなど、どういうわけか数人の三橋一夫が確かに存在しているのである。そして、本家本元の三橋一夫はというと、ひとりで複数のジャンルにわたる本を出していたのである。不思議小説を書き、明朗青春小説を書き、健康本を書いていたのである。ああもう、ややこしい。
著書の数は半端でなくたくさんあるらしいのだが、そのほとんどを持っていないので、とりあえずここでは春陽文庫にしぼりこんで三橋一夫を紹介しよう。

 「本家本元」というのは表現にもよるのだろう。が、私が関心をもつ三橋一夫は少なくとも健康体育研究家でもあった。というか、その側面を歴史の中に置き直すと、日本の近代史の奇妙な証言になっている。
 というあたりで、三橋一夫の「らくらく体操健康法 著者80年の体験」(参照)という本の話を少し書きたい。さすがに「書評」とは言い難いし、この本自体に関心があるわけではない。いや、この本は絶妙に面白い本なのだがそのことは今回は触れない。(余計なお節介でいうと、三橋の本は希少化しつつあるので今が最後の買い時かもしれない。)
 話がずれるのだが、私が結局傾倒することになった山本七平(その傾倒ゆえにとばっちりや陰湿な嫌がらせも光栄にも受けることになってしまったが)は大正10年の生まれ。1991年に亡くなっているのでもう随分経ってしまったことになる。同じく傾倒した吉本隆明は大正13年生まれ。二人の対談は一度あったが、率直に言って吉本が大人気ない対応をしていて失敗したと見ていいし、吉本はあえてそうしたかったのかもしれないが、この二人のズレは戦中派と戦後派の微妙な差異がもっとも際立ったところだ。吉本を戦後派とするのはやや異論があるかもしれないが、山本は戦地の体験があり、吉本にはない。ここでいつも自分の父を思うのだが、彼は大正15年生まれで、戦地に行く前に大病し、そして一命を取り留め、かくして私がこの世にいる。父の友人たる同窓会のリストでずらっと並んだ戦死の文字が未だに忘れられない。2歳ほど上の父の兄はインパールで戦死した。殺されたと言うほうが正確だろうが。
 そういえば2002年に亡くなった山本夏彦は大正4年の生まれで、山本七平より10歳近く年が上だ。彼は87歳まで矍鑠と生きて、最晩年には戦争真っ暗史観と彼が呼ぶものにヒューモラスな批判活動をしたが、夏彦は七平とはまた違った戦争観がある。このあたりの戦争というものの実感のグラデーションをどう見ていくか、つまり、きれいにイデオロギーで滅菌された歴史ではない内省の側から日本の近代史はどう見えるかということを知るうえで、三橋一夫のような視点は興味深い。
 三橋が生まれたのは明治41年ということで、私の祖父母が明治30年代だったので、それよりは若いが、漱石が亡くなった大正5年からすると、三橋の目から漱石などはその現代の流行作家であったろうしそういう感覚が生きている。
 話が散漫になるが、私はいつのまにか50歳になってしまったが、祖父母が明治の人であるといことは、この年になってみると恩恵とまではいえないが、いろいろと今でも学ぶことが多い。というか、この年になってみて百年の歴史を人間の体温を伴って伝えてくれるものがある。
 三橋が同書を書いたのは昭和63年、81歳のことだ。昭和63年は事実上昭和の最後になる。亡くなったのは平成7年ということで、山本夏彦のように87歳だったことになる。この本を書いてから6年後に亡くなった。そういえばと連想するのだが、佐保田鶴治は明治32年生まれ、昭和61年に亡くなった。本人は「八十八歳を生きる」(参照)としていたが、満年齢では87歳だった。彼は私の祖父母の世代になる。
 三橋は小説家でもあったが、なりたくてなったわけでもなかった。40代半ばにヨガを知ったとして。

 そのころ私は、もう四十代半ばになっていました。
 長い戦争のおかげで、教師にもなりそこない。進駐軍の命令で、武術を教えることも禁じられていたので、仕方なしに小説を書いて生活していました。

 彼は先祖代々の武術家の嫡男でもあった。
 世の中には文学好きの人がいるが、として。

 ところが私は、子供のころから文学は好きで、高校時代は和歌の会に、大学時代は詩と小説の会の同人になったりしていましたが「詩人になりたい」とか、「小説家になりたい」などとは、夢にも考えたことはありませんでした。
 父は「会社員になれ」というし、大学では「教師になれ」というので、どうしようかと考えている……そんなヒマもなく、満州事変で、幹部候補生になり、それから長い戦争。
 戦争が終わったら、二十代前半だった男が、もう四十歳のオッサンです。
 私は子供のときから、武術家として育てられ、体育家になっていました。
 軍服を着ようが、何を着ようが、私は武術体育家のつもりでしたが、戦後は、それでは生きてゆけない。
 そこで、仕方なしに「芸は身を助ける」式に小説家に化けました。

 小説家としては大成しなかったが、ネットなどを見ると愛好者は少なくはない。

 文学賞の候補にも三度なりましたが、三度とも次点でした。
 当選したら、お断りしようと思っていたくらいですから、そのためではないのですが、小説家としての生き方が、私にはむずかしく、性に合っていないようで、いろいろ悩んでいました。

 ということで、本書には武術家であった彼の父の姿や三橋が子供のころ、つまり、大正の始めのころの風景が何気なく描かれている。それがいろいろ面白い。
 昨今、古武術ということがいろいろ言われているが、三橋一夫はその正統伝承者でもあった。さりげなく「父は剣道とも剣術とも云わず、撃剱と言っていました」という思い出にも「撃剱」の語感がうまく生きている。
 三橋は子供のころこう思った。

 「道場の試合用の武術ではダメだ。実戦用でなくては……!!」
 父にたのんで、道場の稽古とは別に、居合抜刀術や古流ヤワラや、骨法(当身術)などもはじめました。

 ということで、彼は子供ながらに表向きの武術とは違う武術を知り、父から教わる。その父がさすがなのだが。

 中学一年のころ、日本の拳闘(ボクシング)が輸入されました。
 アメリカで修業してこられた渡辺勇次郎先生や郡山東郷先生が帰国して、それぞれボクシングの団体を結成したのです。
 父が「西洋の当身術も稽古しておけ」
 というので、さっそくボクシングもはじめました。

 このあたりの、明治の武術家の父と子の「西洋の当身術」への感覚も面白い。
 三橋の父はその後武術家ではなくなり、三橋もそうではなくなった。しかし、三橋はこっそり武術が殺人技術であることはよく知っていたし、その側面はざっと見た限り伝えることもなく歴史から消えていった。

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2008.07.13

[書評]兵法三十六計 かけひきの極意 中国秘伝!「したたか」な交渉術(ハロー・フォン・センゲル)

 昨日取り上げた「極東ブログ: [書評]中国人のビジネス・ルール 兵法三十六計(梁増美)」(参照)だが、これは日本人作ではあるけど、実際のところ欧米での最近の「兵法三十六計」ブームというか対中国系の本の派生として書かれているっぽいので、そのあたりの空気というかどうなんだろと、本書「兵法三十六計 かけひきの極意 中国秘伝!「したたか」な交渉術(ハロー・フォン・センゲル)」(参照)も読んでみた。

cover
兵法三十六計 かけひきの極意
中国秘伝!「したたか」な交渉術
ハロー・フォン・センゲル
 こっちはドイツ人ですよ。中国とドイツといったら「極東ブログ: 時代小説 黄宝全」(参照)の元ネタを思い出すけど、特にその雰囲気はない。ドイツも歴史を忘れているかも。それはそれとして、この本、微妙に怪著でしたよ。その意味で面白い。ビジネス書として読んで面白いかというと、面白い。対中国関連で読んで面白いかというか、これがまたねじくれて面白い。ちょっとそのあたりを説明したい。
 この本、普通は兵法三十六計の解説書として読まれると思う。ドイツ語で書かれ、釣書的には、「ビジネスマンに向けて解説。英語、ドイツ語、スペイン語など9カ国語に翻訳された世界的隠れたベストセラーが日本に登場」とのこと。そのあたりは、べたに対中国ビジネスものとして読まれちゃったのだろう。たしかにそう読んでもいいのだけど、ドイツ人が中国について書いてそれを日本人が漢字交じりに翻訳して読むというヘンテコ回路にぴったりの変な構図がこの本にある。
 ちょっと言い過ぎかもしれないけど、話を端折るためにぶっちゃけ的にいうと、この本、台湾とか香港とか北京とか出たらしい兵法三十六計の大衆書を買いこんでそのエピソードを、いやその、コピペっている感じがすごいする。いちいちエピソードの出典が記載されているのだけど、それを見ていくと、逆に中華圏でこの手の本がしこたま近年出ていた雰囲気もわかる。ただ、実際に出典を見ているとそれは多数というより、ネタ本は2002年に北京で出た「商戦兵法三十六計全書」というののようだ。だったら、日本人的にはそれ中国語から直接翻訳してくれねか的ではある。
 著者フォン・センゲル(参照)はいちおう中国学の専門家らしいのだが、日本人から見ると、なんかこの人漢籍の教養はないのかも的な雰囲気は漂う(ヘルマン・ヘッセとかカール・ユングとかはなんか逆で嫌味があるけど)。もっともそんなもの出してもターゲット読者層へのじゃまかなと判断されているのかもしれない。幸い訳者のかたに普通に日本的な漢籍の教養があり、それで補っている印象もある。
 逆にこの西洋人漢籍素養なさげというのは、欧米人の書籍にありがちなんだけど(タオとかの本ですらそう)、原理性への知性的追求がきっちりしている裏腹であることもあって、つまり、フォー・ダミーズ的でありながら、きっちり高度な部分まで描くことがある。本書もそういう面はあって、昨日取り上げた「中国人のビジネス・ルール 兵法三十六計(梁増美)」(参照)がべたっと三十六計を並べてしまうのに対して、フォン・センゲルのほうは三十六計の内的な原理を洞察し再組織化している。
 この部分の知的作業がフォン・センゲル自身によるのかよくわからないのだけど、梅田望夫風にいうと情報が構造化されているのでわかりやすい。また、ある意味で西洋人にありがちな東洋神秘観のせいか、各計についても、それぞれこれが秘伝解だみたいな切り込みはせず、複数解を並置している。というか、いくつかの複数解を読みながら、私は、ああなるほど、これは易の象なのだなとわかったというか個人的に理解した。その「わかった」感は自分的にはけっこう衝撃だったので、その意味で、ちょっと皮肉に評してしまうけど、本書は意図されたものではないにせよ、自分にとっては良書だった。なるほど兵法とは易か。
 各計のエピソードはたぶん中華圏で作成されたコピペのせいか、これも端折って言うと、日本人への偏見に満ちていて笑える。フォン・センゲル自身も日本人と中国人の違いがよくわかってないんじゃなかろかねみたいなところがある。また、エピソードに対するフォン・センゲルのコメントもある意味で笑えるのが多いというか、西欧の人だとそんなふうに反応するのかという大衆的な感性(おいおいオッサン的)が露出している。そのあたりは、逆に西欧人の発想が逆に伺える。

兵法三十六計

第一計 瞞天過海 《まんてんかかい》
天を瞞いて海を過る《てんをあざむいて うみをわたる》
第二計 囲魏救趙 《いぎきゅうちょう》
魏を囲んで趙を救う《ぎをかこんで ちょうをすくう》
第三計 借刀殺人 《しゃくとうさつじん》
刀を借りて人を殺す《かたなをかりて ひとをころす》
第四計 以逸待労 《いいつたいろう》
逸を以って労を待つ《いつをもって ろうをまつ》
第五計 趁火打劫 《ちんかだごう》
火に趁んで劫を打く《ひにつけこんで おしこみをはたらく》
第六計 声東撃西 《せいとうげきせい》
東に声して西を撃つ《ひがしにこえして にしをうつ》
第七計 無中生有 《ちゅうしょうゆう》
無の中に有を生ず《むのなかに ゆうをしょうず》
第八計 暗渡陳倉 《あんとちんそう》
暗かに陳倉に渡る《ひそかに ちんそうにわたる》
第九計 隔岸観火 《かくがんかんか》
岸を隔てて火を観る《きしをへだてて ひをみる》
第十計 笑裏蔵刀 《しょうりぞうとう》
笑いの裏に刀を蔵す《わらいのうらに かたなをかくす》
第十一計 李代桃僵 《りだいとうきょう》
李、桃に代わって僵る《すもも ももにかわって たおる》
第十二計 順手牽羊 《じゅんしゅけんよう》
手に順いて羊を牽く《てにしたがいて ひつじをひく》
第十三計 打草驚蛇 《だそうきょうだ》
草を打って蛇を驚かす《くさをうって へびをおどろかす》
第十四計 借屍還魂 《しゃくしかいこん》
屍を借りて魂を還す《しかばねをかりて たましいをかえす》
第十五計 調虎離山 《ちょうこりざん》
虎を調って山を離れしむ《とらをあしらって やまをはなれしむ》
第十六計 欲檎姑縦 《よくきんこしょう》
檎えんと欲すれば姑く縦て《とらえんとほっすれば しばらくはなて》
第十七計 抛磚引玉 《ほうせんいんぎょく》
磚を抛げて玉を引く《れんがをなげて ぎょくをひく》
第十八計 擒賊擒王 《きんぞくきんおう》
賊を擒えんには王を擒えよ《ぞくをとらえんには おうをとらえよ》
第十九計 釜底薪抽 《ふていちゅうしん》
釜の底より薪を抽く《かまのそこより まきをぬく》
第二十計 混水摸魚 《こんすいぼぎょ》
水を混ぜて魚を摸る《みずをかきまぜて さかなをさぐる》
第二十一計 金蝉脱殻 《きんせんだっかく》
金蝉、殻を脱ぐ《きんせん からをぬぐ》
第二十二計 関門捉賊 《かんもんそくぞく》
門を関ざして賊を捉う《もんをとざして ぞくをとらう》
第二十三計 遠交近攻 《えんこうきんこう》
遠く交わり近く攻む《とおくまじわり ちかくせむ》
第二十四計 仮道伐鯱 《かどうばっかく》
道を仮りて鯱を伐つ《みちをかりて かくをうつ》
第二十五計 偸梁換柱 《とうりょうかんちゅう》
梁を偸み柱に換う《はりをぬすみ はしらにかう》
第二十六計 指桑罵槐 《しそうばかい》
桑を指して槐を罵る《くわをゆびさして えんじゅをののしる》
第二十七計 仮痴不癲 《かちふてん》
痴を仮るも癲せず《ちをいつわるも てんせず》
第二十八計 上屋抽梯 《じょうおくちゅうてい》
屋に上げて梯を抽す《おくにあげて はしごをはずす》
第二十九計 樹上開花 《じゅじょうかいか》
樹上に花を開す《じゅじょうに はなをさかす》
第三十計 反客為主 《はんかくいしゅ》
客を反して主と為す《きゃくをはんして しゅとなす》
第三十一計 美人計 《びじんけい》
美人の計《びじんのけい》
第三十二計 空城計 《くうじょうけい》
空城の計《くうじょうのけい》
第三十三計 反間計 《はんかんけい》
反間の計《はんかんのけい》
第三十四計 苦肉計 《くにくけい》
苦肉の計《くにくのけい》
第三十五計 連環計 《れんかんけい》
連環の計《れんかんのけい》
第三十六計 走為上 《そういじょう》
走ぐるを上と為す《にぐるをじょうとなす》

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