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2008.07.04

[書評]人生の危機は宇宙からの贈り物(ローラ・デイ)

 今週のニューズウィークにローラ・デイ(Laura Day)を話題にした記事「困ったときは霊感頼み」があって、そういえばと思って比較的最新の「人生の危機は宇宙からの贈り物(ローラ・デイ)」(参照)を読んでみた。
 デイはそれなり有名な人と言っていいのだろうと思う。ウィキペディアにも簡単な項目がある(参照)。該当記事のオリジナル”The $10,000-a-Month Psychic”(参照)は例によって無料で読める。ついでにご本人が語る動画もあって、ちょっと怖い。
 日本語記事の表題もアレだし、英語のほうもアレで、記事内容もモデレートだけどアレがかっている感じはある。ようするに、霊感アドバイスでコンサルト料を儲ける人がでる時代だというのだが、これって別に現代に限らない。正確な歴史として研究されたことがあるかどうかわからないが、米国でも日本でも少なからぬ政治家にこの手のものがくっついているし、企業経営者とかだともっと多い。あまり言うのもなんだけで、某アレとかも別段TVでメタボ表示しなくても十分やっていける。

cover
人生の危機は
宇宙からの贈り物
 「人生の危機は宇宙からの贈り物 望みをかなえるチャンスに変える」(参照)はどうだったか。結論からいうと意外に普通の啓発書だった。その分、つまらないとも言えるけど、ごく普通の啓発書として読んでみてどうかというと、なるほどこれは売れるかな、上質の部類ではないかな。自分としても、考えさせられるところはあった。ので、あとで触れる。
 邦訳タイトルはまた「宇宙」かよ。「極東ブログ: [書評]身体症状に<宇宙の声>を聴く(アーノルド・ミンデル)」(参照)でも邦題に「宇宙」が出てきてアレなんだが、このあたりの出版社の感性がわからない。「宇宙」だと売れるんでしょうかね。そういえば、デイのこの本だけど、ミンデルに似ている部分はある。
 オリジナルタイトルは「Welcome to Your Crisis: How to Use the Power of Crisis to Create the Life You Want」(参照)、つまり、「ようこそ、あなたの危機:あなたが望む人生を作るために危機の力を使う方法」ということ。なんかよくわからないといえばそうだから、邦訳のサブタイルもしかたないのかもしれない。
 意図は、人生のズンドコに落ちた危機の時が、新しい人生が始まるチャンスでもあるのだということ。んなまさか、だけど。実際、あれですよ、人生ズンドコしちゃって、そこで命果つということがなければ、なんとか乗り越えるのだし、乗り越えた分だけなんとかなっているので、自分なんかもそういうサバイバーなんで、なるほどね、ズンドコ見ちゃうと成長する部分はあるよねとは思う。
 なので、本書は、今まさに人生のズンドコの人向けに書かれているのだが、これは例えば、いや例示はまずいし誤解されるか、でもお勧めすべき本なのか。ちょっと微妙。この本、ニューズウィーク記事や表題から期待されちゃうオカルト度はかなり低いですよ。そして意外にプラクティカル。ディはかなりインテリジェンスが高いんじゃないか。つまり、彼女は別に霊感というか直感で稼がなくても十分やっていける能力はありそうだ、というのがよくわかる。ぶっちゃけ、この本は人生ズンドコだったら助けを求めなさいというふうに誘導するように書かれている。
 それって米国的かなとも思う。日本だと人情とか言われているわりに、困っている人のサポートグループ的なものは政治的な色がないとむずかしいのが現実。それと、これも米国的なのだろうと思うけど、どっちかというと頑張れ自助努力的な部分は大きいので、日本人みたいにズンドコだったら甘えたいべちょべちょでいいでしょ受け入れてくれ的メンタリティーには向かないかもしれない。
 もうちょっと分析的に読むと、この手の業界慣れした人なら、ここはゲシュタルトセラピー、ここはNLP、ここは交流分析みたいに、ネタの仕込みはけっこうわかるというか、ようするにその手のもののええ塩梅のアレンジになっている。
 読んでいて意外と面白いのは、現代米国人のある種の人生の断面というのが、なんというかポエティックにいろいろ描かれていることだ。デイ自身の人生の体験談なんかも、ある意味では壮絶だな。人生ってその悲惨な壮絶感がどことなく詩的なワビサビ感にも通じるみたいな。そういう意味で、他人の人生をなんとなく見つめて、そういえば、自分の人生を横切っていたあいつとかこいつとか、どうしたかな、ろくなことにはなってないだろうなとか、けっこう物思いに浸った。
 私個人しては、それでも読んで良かったかなと思う部分はいくつかあって、その一つは、自分を生態系として見なさいということ。このあたりディがうまく書いているか、私がうまく読み取れてないかちょっと曖昧なところがあるけど、危機に陥ったとき、それは危機そのものを作り出す生態系の一環としての自分は、ある意味で、すでに過去として死んでいるわけで、それはそれで終わりとして別の生態系に移行しないといけない。この時、自分という思念や各種の総合性というのは、必然的に過去のものして終わるには終わる。なんか曖昧なことを言っているようだけど、過去はどうやっても取り返せない。また過去に期待した未来はすべて無くなってしまった。生きるのは今とこれから未知の未来だけで、しかも過去のようには生きられない。
 あたりまえといえば当たり前だけど、そのあたり、自分の思念のなかでぐるぐる考えていてもどうにならないし、まして権力だのカネだのある人はそのあたりのトチ狂いというか孤独はあるだろうから、この手の霊能力者の市場というのはあるのだろう。
 ついでにいうと、危機を乗り越えてバリバリと権力だのカネだの世界に舞い戻る系でない人でマジ人生危機になってしまったなという人なら、本書より、クリシュナムルティの「しなやかに生きるために 若い女性への手紙」(参照)は薄っぺらだけど、お勧めしたい。サブタイトルにあるような若い女性へと限らない本だ。ただ、この本にはなんの救いもないし、きちんと理解するのはとてつもなくむずかしい本で、いろいろ言いたい人は多いと思うので私はあまり言うことはない。

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2008.07.03

原油高騰の雑談、2008年前半版

 テーマはある意味で深刻だけど雑談です。またまた与太話と言ってもいいかもしれないけど、専門家でもないことだし、ブログなんで気楽にさらさらと始めますか。
 最初に、原油高騰がここまで上がると予想していたかと自問すると、いや予想してなかったな。ホットマネーが溢れていて、米国威信の低下でドルが下がるのだから、それにヘッジして原油が上がるだろうとは思ったけど、ここまで上がるという勘はまるでなかった。そのダメな勘で言うなら、1バレル120ドルくらいで「このチキンゲーム止めようぜ」の空気になると思っていた。そうはならないようだ。まだまだやるらしい。正気かよ。正気のようだ。
 先日のNHKのクローズアップ現代だったか、どの回だったか忘れたが、原油の適正価格は70ドルだったか80ドルだったか、そのくらいで、それに投機資金が流れ込んで現在の高騰になったのだというグラフを描いていた。
 そうなんじゃないかというのと、ホントかねという思いがあい半ば。実際のところ、目下の原油高騰は投機によると言われているのだが、どうやってその議論が裏付けられていて、どの程度なのかは私なんぞにはわからない。でも投機の部分は大きいのではないか、うーむ、120ドルくらいがチキンゲームの正しい水準ではないか、とかまたぐるぐる思う。
 原油の価格だが、私はこれから下がると見ている。いやまるでポジショントークとかじゃなくて、ここの部分も勘だ。よって与太でしかないのだが、中国経済がクラッシュするでしょとまでは蛮勇無き身としては口が裂けても言えないが、成長率は鈍るし、そもそもエネルギー効率が悪過ぎなので一息つけよ中国といった感はあるだろう、し、石炭のシフトやそれにまつわるいろいろがあるのではないか。いずれにせよ、中国の原油消費はそのまま伸びていくことはないんじゃないか。
 でも中国以外の国では原油の需要は伸びているのではないかだが、概ねそうだとは思う。そのあたりの需要の伸びと投機とドル低下のバランスは今の景色の彩色でいいのか、なのだが、なんとなくちょっと違うんじゃないか、印象としてだか。
 原油高騰なんで必然的に愉快なオイルピーク説も散発的に出てくるが、むしろ諸通貨の低落に関連して、実際には、昔の金本位制じゃないけど、原油本位制的な部分もあるかもしれないなとは思う。このあたりは以前、「極東ブログ: 本物のダイヤモンドと偽物のダイヤモンドの違い」(参照)を書いたときに思ったのだが、宝石としてはダイヤモンドよりルビーやサファイヤのほうが希少性があるのに、ダイヤモンドが価格維持されるのは、ようするにメタメタぐるぐるだけで価格維持される仕組みがあるから、ということらしい。同じようなことが原油にもあるのだろう。すでに石油メジャー陰謀論が成立できないほど、原油は産油国の国家管理になっているわけで、まあ、そんなものなのかな。
 というわけで、原油自体が、デフレ下における貨幣みたいに、ほっとけおけば増殖していくわけだから、実質金利と名目金利の議論みたいに、貨幣側の金利に見合わなければそのまま出し惜しみして原油金利みたいなものが増加するのだろう。備蓄っていうか地中に埋めたままにしておくっていうか。巨大な箪笥預金というか。
 ただ、どっかでオイルサンドとかその他のエネルギーへのシフトも散発的に起きるだろうから、産油国のチキンゲームには抑制があるだろうとも思っていたが、そのあたり、なかなかそうもいかないようだ。
 先のクローズアップ現代の話ではオイルサンドから精製される石油は世界の需要の数パーセントにしかならないらしい。そうなのか。そうなんだろうな。となるとあとは原子力のシフトということになるし、実際そうはなるのだろう。フランスとか原子力で電力の7割だしな。この分野の技術を握っていてよかったね、ニッポン、とか喜んでいいのかよくわからないが。
 で、これからどうよ?
 最初のカタストロフ的な兆候は、インドネシアとかとか国家が石油の価格を維持・補填しているあたりから発生してくるのではないかな。別の言い方をすると民主主義や市場経済が成熟してない国の暴動的な、国家総ぐるみ的な馬鹿騒ぎが起きるのではないか。いやはや、なんか考えたくもないけど。その点日本は、まだまだええ湯加減かもしれない。
 もう一つ危険な兆候は、なんだかんだ言ってもイランは潤うということだ。日本ではなぜか報道されていないが、イスラエルがある日突然ぶっち切れ起こす可能性はこのところ妙に懸念されている。というか、意外と米国大領線をメタ的に決めてしまうのはその構図だったりして。桑原。
 以上は手前のバカ頭でひねった与太話だが、以下はもうちょっと与太からずれて雑話。
 日本版ニューズウィーク6・25に、尊敬するロバート・サミュエルソンが面白いコラムを書いていて、そうかあと素直に思ったということ。元ネタは「オイルショックの学習効果」。オリジナルタイトルは「Learning From the Oil Shock」で、英語のオリジナルはワシントンポスト(参照)で無料で読める。
 私は、サミュエルソンに、このチキンゲームは早晩終わるよ、を期待していたのだが、コラムの結論は、なかなか微妙。まずは、このまま高騰でGOGOGOという流れで話が進む。サミュエルソンは、ここでジェフリー・ルービンの説を借りて話を進める。で、結局、原油高騰で何が起きるか? もちろん、アメリカにということだが。
 まず、アメリカの製造業が潤うというのだ。へえ。理由は、輸送コストが上がるから、地元産業へのシフトが起きる、と。
 そういえば、地球温暖化を防止するために、国内産業を育成しましょうなんて与太話も最近どっかで読んだ気がする。そりゃいいとか皮肉につぶやいたが、サミュエルソン御大も似たような感じになってしまったのか。いや、さすがに地球温暖化じゃないよな、そりゃな。
 いずれにせよ、輸送コストの問題は、原油高とバランスする部分は出てくるだろうし、その要因は大きくはなるだろう。日本でいえば、東京集中はさらに進むのでその周辺に食料品関連の産業が再組織化されるのではないかな。
 次に。FRBがインフレコントロールしづらくなる、と。へぇ。食品とエネルギーを除いたコア・インフレの場合は、ある種の自動調整的な動きになるらしいのだが、原油価格と食品価格が上昇し続けると、そうもいかないらしい。そういうもんか。そしてこの傾向は当分続くとのこと。
 日本はどうだろ。食品とエネルギーは上がるが他はデフレのままだろう。そのあたり、よさげなバランスになる? いやこれは冗談にしても悪過ぎるな。
 三番目に。住宅建築業と自動車産業の低迷はさらに深刻化する、と。それはそうだろう。ただこの側面では、抑制の反動が出てきているそうだ。それこそ地球温暖化を防止によいのではないか。冗談抜きで。
 さて、処方箋。そんなのがあるのかよくわからないがみたいな感想を私はもつが。
 まず、投機を問題にしてもしかたないよ、と。そうかなと思う。理由は詳しく書かれていない。
 次に。米国内でエネルギー供給を増やせ、と。そりゃそうだろ。書かれていないが、オイルサンドとかもあるし、と思ったら、バイオ燃料も増やせと。うーむ、うなるな。問題をこじらせるんじゃないかという懸念も私はもつ。
 結末近くなって、サミュエルソンは、こんなことを言う。


ガソリン価格高騰は、木くずや生ゴミなどから作られるバイオ燃料の開発を促進させるかもしれない。自動車研究センターのデービッド・コール所長は、バイオ燃料の生産コストは1リットル当たり、約0・26ドルの範囲内だろうと言う。これが本当なら、現在のガソリン価格よりはるかに安い。
 そのためには、原油価格が下がったときに、バイオ燃料の生産者が倒産しないように、原油の下限価格を50~80ドルに設定すべきだ。これは関税を使うことで簡単に導入できる。

 むむむ。その含みはなんだ?
 締めはこう。

 原油価格は予測不能だし、もし価格が崩壊しても、これで永遠に安価な石油が手に入るという幻想をアメリカ国民がいだくことはないだろう。オイルショックの苦い経験は、それほど遠い昔のことではない。

 原文を読むとわかるが、関税の話はコールによるもの。それと原文と訳文は微妙に違う。

Finally, we need to realize that high prices may stimulate new biofuels from wood chips, food waste and switch grass. Production costs of these fuels may be in the range of $1 a gallon, says David Cole of the Center for Automotive Research. If true, that's well below today's wholesale gasoline prices. To assure new producers that they wouldn't be wiped out if oil prices plunged, we should set a floor price for oil of $50 to $80 a barrel, says Cole. This could be done with a standby tariff that would activate only if prices hit the threshold. Oil prices are unpredictable, and should a price collapse occur, Americans wouldn't be deluded into thinking we've returned permanently to cheap energy. We've made that mistake before.

 サミュエルソンはあまり大胆に言ってないというか、蛮勇無きか、けっこう韜晦して言っているけど、でも、短期的には原油が暴落するリスクをヘッジしつつ、産油国の政治から米国は独立できるように政治をしたらあ、ということかな。
 たぶん、日本もな(オイルマネーとかなんとかマネーで日本売却完了前に)。

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2008.07.01

[書評]「はだかの王様」の経済学(松尾匡)

 松尾匡「「はだかの王様」の経済学 現代人のためのマルクス再入門」(参照)は、私にとっては、とりあえず難しい本だったと言っていいかと思う。

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「はだかの王様」の経済学
松尾匡
 内容が難しいわけではない。また評価が難しいわけではない。結論を先にいうと、私の評価は筆者にきびしいものになるだろうと思うが、その理由については後半に触れる。否定的な評価に聞こえることを懸念するが、意図としては肯定的に筆者に伝達できればよいと願っている。
 では何が私にとって「難しい」のか。理解も評価も容易である本の難しさというのは修辞的になりがちだが、端折って言えば、著者松尾匡の師匠である置塩信雄の思想が現代というコンテクストにおいてこのように、つまり疎外論に総括された形態で後継されるものなのだろうか、という問題だ。違うのではないかとどちらかといえば思う。
 よりマルクス経済学的に言えば、「マルクスの基本定理(Fundamental Marxian Theorem)」つまり、「置塩の定理」の今日的な意味付けは、本書のような入門書になるのだろうか。
 こう問わざるをえないのは、置塩の思想を継承できるのは松尾をおいていないだろうに、それがこの本という結実なのだろうか。そこの受容が難しい。私のこの希望は、著者による本書の位置づけとは異なるかもしれないが、さらに希望を重ねれば、スラファ(Piero Sraffa)の思想の延長し統合した入門書が読みたい。
 本書の内容だが、表題「「はだかの王様」の経済学 現代人のためのマルクス再入門」が簡素に表現している。現代経済学が「はだかの王様」なのだ、と読みたい誘惑にも駆られるが、そうではなく、マルクス思想が、その経済学として、現代という状況を「はだかの王様」であると描く点だ。
 この「はだかの王様」という比喩は、本書でも挙げられているが、現代よりも戦時下の状況のほうがわかりやすい。日本はなぜ愚かな戦争をしたのか。当時の軍部や支配階層は日本があの戦争に勝てるとでも思っていたのか。たぶん、思っていなかっただろう。だが、それを言うことはできなかった。まるで、「はだかの王様」ではないか。そういう意味合いが本書の根幹の比喩としてある。
 この比喩はさらにその解決も示唆する。つまり、みんなが戦時下の日本の状況を「はだかの王様」ではないかとコミュニケーションし、合意すれば、あの愚かな戦争にはならなかったはずだ。
 「はだかの王様」的状況を作り上げているのは、戦時下では、日本という民族的な依存の関係(偽装の関係かもしれないがだが)に加えて、個人がばらばらにさせれていたことだった。つまり、「依存関係+ばらばら」という図式がある。それを松尾はマルクス思想の「疎外」と位置づける。だから、「ばらばら」がなくなれば、疎外はなくなる、と松尾は強く本書で主張している。
 本書は、前半において、マルクスの思想の根幹を「依存関係+ばらばら=疎外」と描き、次にその根幹の思想がマルクスの諸著作にどのように体系的に現れているかを描き出し、後半において、その疎外という状況は、ばらばらをもたらすコミュニケーションの不在性という点で、ゲーム理論的にも妥当に説明できると描く。結論としては、松尾は、コミュニケーションによる「ばらばら」解消として、アソシエーションとしての地域の共同体という可能性を描き出す。
 以上の私の読解はそれほど本書の概要を外していないのではないかと思う。どうだろうか。
 仮に私が大きな誤読をしていないとして、そして戦時下の日本の状況はそれで理解できるとして、現代日本は同じように理解ができるのだろうか。そう問いを進めたい。
 端的なところ、現代日本の疎外の状況、具体的には、労働者の労働が自身のものにならない状況、別の言い方をすれば、労働は時間として表現されるのだから、時間的な豊かさを享受できない日本の労働者の、ばらばらにされた状況に、松尾の提言はうまく対応しているだろうか。
 松尾の理路からすれば労働者のコミュニケーションがまず求められるはずなのだが、そこが本書では薄い。IT技術への言及はわずかにあり、まったく描かれていないわけではないが、提言のビジョンとしては、労働者のアソシエーションというより、地域社会の回復という話に逸れていく印象が強い。
 本書は講習会テキストとして2006年にできていたものとあり、おそらくその読者層はこの構成でうまく取り込めているのだろうし、それはたぶん、旧来のマルクス主義経済学からの脱却の可能性でもあるだろう。この点では、置塩信雄の思想の一般化とも言えるはずだ。
 だが、もう少し広い読者層を想定したときに本書の目論見が成功しているかは難しい。従来の国独資論を中核とするようなマルクス経済学に対して、本書の立ち位置が、初期マルクス的疎外論による一貫した批判と受け取れないこともないが、旧マル経的な諸派から見れば、ごく散発的な批判にしか見えないだろう。さらに、残念なことに広義のマル経以外からの立ち位置からは本書の位置づけはおよそ前提から理解されないだろう。
 逆説的なのだが、本書は入門書でありながら、むしろ置塩信雄や森嶋通夫の著作を読んだことのない読者には問題意識は了解されにくいのではないか。筆者からすれば、異質な読者との出会いで、どうしてそんな誤解がされるのかという奇異な印象すら得ることなるではないだろうか。繰り返すが、より広い視座で読者を再包括するのであれば、マルクス思想再入門というよりも、置塩経済学の意味付けと展望を丹念に描いたほうがよいだろう。
 「マルクスの基本定理」については、松尾も知っているはずだが、現代的な課題は多い。「正の利潤を発生させるような価格なら労働が搾取されている」は、サミュエルソンが言うように逆も成立するから、「搾取される剰余価値が成立するのは正の利潤が発生した場合だけ」ということにもなる。この皮肉は、正の利潤を発生させない、つまり、ダメな経営こそが剰余価値の搾取を解消するという冗談になりかねないことだ。利潤はドラッカーが見直したように、経営の目的ではなく、経営健全性の尺度として認めざるをえない。
 ネットのリソースでいえば、「ちきゅう座 欧米マルクス価値論の新たな潮流〈吉村信之〉」(参照)が触れているが、ローマーの描いた「一般化された商品搾取定理」などの問題もある。

戦後におけるこの第二期に当たる「転形論争」を通じて生み出された一応の有力な回答の一つは、日本の経済学者である置塩信雄氏が出したものであり、「マルクスの基本定理」と呼ばれている。この定理は、生産条件と実質賃金からなる価格方程式、および労働時間を単位とする価値方程式から、数理的に「利潤の存在は剰余価値の存在と同値である」ことを証明した。しかしマルクスが転形問題の重要な柱とした「総計一致の二命題」(総価値=総生産価格、総剰余価値=総利潤)は成立しないことをも、同時に明らかにした(置塩[1978/初版1965][1977] )。いわばマルクスの価値論を、マルクス自身の主張よりは幾分弱めた形で立証したのである。

しかしこれに対する批判も出されている。1981年のボウルズ=ギンタス(Bowles and Gintis[1981])が、更には日本では「クーポン社会主義」や「アナリティカル・マルクス主義」の旗手として知られているローマー(Roemer [1986])が一層精緻に、この「マルクスの基本定理」が、労働力のみならず、鉄や小麦といった生産投入要素にも同様に成立することを数理的に証明した。「一般化された商品搾取定理」と呼ばれるものがそれである。生産過程において投入される生産要素が利潤を生み出すことに寄与していること、この点で労働力も鉄や小麦と無差別であることが証明されれば、マルクスの剰余価値論、さらにはその上に打ち立てられたマルクスの経済学体系は砂上の楼閣に帰してしまう。事実、ローマーらはその後、もはや生産関係を問題とするマルクス主義の系譜を引いた「アナリティカル・マルクス主義」という呼称を止め、生産における分析ではなく分配的な正義を追及することに関心を移している。日本でも近年この方面の諸議論を紹介した幾つかの書籍が出版されたことは記憶に新しい


 むしろ現代の状況は、「一般化された商品搾取定理」の上に諸理論が成立するかもしれないように見える点にあることではないか。
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マルクス経済学の
解体と再生
 このあたりの切り口からさらに深化させれば、高須賀義博が80年代「マルクス経済学の解体と再生」(参照)において、置塩やスラファを念頭に置きながら、国際金融や国際的な通貨の問題へも目配せを始めていた視点が重要になる。この点は過去「極東ブログ: World 3.0 という雑想」(参照)で少し触れた。
 本書の文脈でいうなら、貨幣の一般的な現象は、他のマルクス経済学のモデル全般にいえるが(リカード的な国際間経済がまったく捨象されているはずはないのだが)、どちらかといえば、一国経済学のモデルであり、国際通貨とそのシニョリッジや、端的にいえば金融帝国主義的な帝国における中央銀行の意味付け、それが必然的にもたらすというと言い過ぎだが、余剰マネーからホットマネーと投機といったマネーの問題がある。さらに個別に国家に幽閉された一次産品といった極めて現代的問題は、本書の視座にはない。
 労働価値説の理論面からすれば、こうした現代的なマネーの問題は確かに不要なのだが、現実の日本の労働者がおかれている状況には、その影響力はかなり大きい。具体的に目下の状況のように外在的なインフレでは日本の国富は結果的に吸い取られていくわけだし、それは労働者の賃金にも影響している。日本の労働者と日本国家の金融政策の関与の部分は少なくないし、松尾がこの分野に目配せできないはずもないことは、本書のエピソードからわかるのだが、それでも本書では、まずマルクス思想、特にその疎外論が突出しているため、現実の日本との乖離感は強い。
 本書の根幹の疎外論に話を移す。
 私は、本書のマルクス思想の理解、特に、疎外論の理解には異論を持った。私見では、疎外は、けして悪なり単純に解消されるべき現象ではない。むしろ、必然の現象であり、歴史における、根幹的かつ一元的なプロセスの産物である。マルクスはヘーゲルを転倒したと言われるが、それは歴史の実体を精神と見るか、物質的な生産向上と見るかの転倒性であって、方法論的な転倒はない。つまり、自己が疎外によって反自己を生み出し、その対応の能動性から止揚に至る図式では、ヘーゲルとマルクスに差はない。
 より具体的に本書の疎外論を私のマルクス理解から批判してみたい。もちろん、私が正しいと主張したいわけではない。
 松尾は「国家」を疎外論によって次のように説明する。図自体が誤解を招きやすいので、それも引用したい。

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 国家とは何か。社会の共同利益・共同秩序のための公的な観念(法・制度など)が、個々人の具体的な事情を離れて、あたかも何か一つの実体がある物のようになって人々の外にひとり立ちしたものだ。いったんこうなると個々人には、公的なものの抜け殻となった、自己利益を追うわがままな自分しか残されていない。そこで、国家が警察や軍隊などの権力で無理矢理抑圧することによって、やっと個々人の社会性が実現されることになる---こういう図式です。

 この図式の前段には国家を神に置き換えたフォイエルバッハの図式があるが、そこでなぜ人が自己疎外して神を生み出したかについて、こう説明している。

この図式においては、もともと生身の人間のくらしの欲望に根ざしていたはずの理性や思いやりが、神の性質として人間の外から立ち現れます。そしてそんな神様の目におそれいって、生身の人間の利己的な欲望を抑えつける、それではじめて人間の本質たる共同性が保たれます。しんどい話です。

 確かに「しんどい話」ではあるが、何がこの「しんどさ」を生み出しているかといえば、トマス・ホッブズがいうような「万人は万人に対して狼」による「万人の万人に対する闘争」の調停への希求であり、そのような調停なくして共同性は実現できないことだ。
 国家についても同じだ。国家は、市民個々人の権利を社会や伝統集団の因習から保護するための意志として疎外されて出現する。より正確に言えば、共同体はイコール国家ではなく、国家を生み出す疎外の契機は別途存在するのだが、ここでは触れない。
 国家を疎外する必要性については、こう言い換えてもいいかもしれない。「万人は万人に対して狼」である自然性のなかで、個人が存在するためには、その防衛のために自己を疎外せざるをえない。
 この意味で、疎外の図式は無制限に何にでも適用できるようなギャグネタではないことは明白だが、問題は、疎外の解消ではなく、疎外を必然として受け入れた場合の両義性にある。
 もちろん、松尾はそうした疎外の必然性を理解していないのかというと、かならずしもそうではないことは次の部分から了解できる。しかし、その了解は十分ではないように私には思える。

(前略)社会の共同利益がひとり立ちしたものと国家を既定するとき、共同利益だからいいと言っているわけではなくて、それが現実の生身の人間の利益から切り離された、具体的な人間不在の観念的な「共同利益」であるかぎり、どんなにエコヒイキない理想的なクリーン国家でも、それは疎外であり人間に対する抑圧だと批判しているのです。

 ある意味でそれはマルクスの思想に合致している部分もある。つまり、「エコヒイキない理想的なクリーン国家」の追求が結果的にスターリンやポル・ポトなどを生み出したのは、まさにマルクスが指摘した疎外の問題の本質的な倒錯の結果であることだ。
 だが、松尾の了解がマルクスの疎外論を十分に表現しているとは私は思えない。人間不在の観念的な「共同利益」が同時に公正をも意味していることは、西洋近代の基本を是認しているマルクスにとっては自明であったからだ。
 西欧においては、法は、目隠しをし秤と剣を持つ女神として象徴されるものだが、これは、人間的な感情や縁故なり、共同性的な結合の権力関係を排除し、非人間化することによって正義が出現することを示している。と同時に、この正義が死刑を国民にもたらすような権力となるのは、その必然的な両義性にある。
 問題は、では国家をどのように暴走させないようにするかだ。また法によって実現される権力の行使はどのように箍を嵌めるべきなのかだ。けして、疎外を後ろ向きに解消させることではない。後ろ向きの解消は、公正な正義の欠落をもたらし、日本赤軍のリンチのような「万人は万人に対して狼」を露出させることになる。
 別の言い方をすれば、問題は、疎外自体を解決させて本来性を復元させようとすることではなく、疎外の必然性を受容し、その先に、国家をいかに止揚するかという課題を提出することであるはずだ。だが、松尾の視座にはそれはないのが残念だ。
 同様に松尾の疎外論理解にはマルクス思想からみてもう一つ大きな逸脱があるように私には思えた。簡単に言えば、市場とはそれ自体がコミュニケーションの場だということだ。
 マルクスは、人間と人間の関係を商品という物の関係に物象化したものとして資本主義を了解したということはよく指摘される。さらにその商品の関係性から貨幣が出てくる過程も松尾が本書で説明する通りでもそれほど問題はないのだが、なぜそのような疎外が起きたのか、またその疎外は解消されるべきかという点では、ここでも国家と類似の論点が出てくる。
 簡単に言えば、労働は交換可能になるには商品として疎外されなけばならず、また労働が時間差をもって蓄積され交換されるためには商品化からさらに自然に簡便性の高い貨幣化に至るものだ。
 物象化は非人間化だから、魔法で蛙された王子様の魔法を解く、というような単純なことではない。むしろ、市場という、コミュニケーションの場に現れるために、物象化は必然として現れる。
 だからこそ、マルクスは労働価値説において、リカード的なモデルでの単純な労働価値説を取らなかったのだ。
 マルクスは、価値の実現の契機に市場を本質的に介在させた(この部分はマルクスが思想を完成させずに死去したので、異論が多いところでもあるが)。
 市場というコミュニケーションの場、ないし共同意識(これもまた疎外された意識)を介在しなくては、労働の価値そのものが創出されない。労働の価値は疎外と市場というコミュニケーションの場を経て初めて現れる。
 「依存関係+ばらばら=疎外」をとりあえず認めるとしても、ばらばらを統合するのは、市場のコミュケーション機能であり、労働の価値は市場を本質的な契機とするのだから、むしろ、労働が正確に疎外されない状態は、市場に問題がある。

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2008.06.29

[書評]江戸時代(大石慎三郎)

 先日のエントリ「極東ブログ: [書評]江戸の経済システム 米と貨幣の覇権争い(鈴木浩三)」(参照)を書いた後、江戸時代の経済史をもう少し概説的に考えてみたいなと思い、同書に参照されている「江戸時代(大石慎三郎)」(参照)を読んでみた。

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江戸時代
中公新書 (476)
大石慎三郎
 1977年初版でかなり古いが、逆に自分が高校生だったころの時代なので自分なんかには馴染みやすい歴史観の部分も多いかというのと、この本はある意味ですでに古典となっているふうでもあるので、読んでおくべきだろうなと思った。
 面白かったかというと面白かった。率直なところ当初予想していた、江戸時代の経済史の大枠のような部分は自分ではそれほどよくわからなかった。銀の流出もそれが生糸のためであり、女性の華美な着物にあてられたという説明も間違いではないのだろうが、関連する考察はやや皮相というか全体像が見えづらい。総じて各種のエピソードは面白く、そのエピソードが暗示する部分に全体象のイメージはあるのだが、もどかしい感じはした。個人的には個別のケーススタディとして言及されている、信州佐久について、そこが自分の祖先に関連する部分があるので興味深かった。
 江戸における女性の人口などいくつかこの話は知っているなというのがあって、自分がなぜ知っているのか思い出し、そして杉浦日向子のことを思い出し(参照)、少し悲しい気持ちになった。
 本書の中心的な課題ではないのだろうが、「はじめに」の次の指摘は、いろいろ考えさせられた。なぜ江戸時代を自由に問うのかとして。

 その第一は、江戸時代(または近世)とは、本当の意味で庶民の歴史がはじまった時代である、ということである。天皇制の古さを強調するために故意に無視されてきたきらいがあるが、わが国における庶民の歴史は、普通漠然と信じられているほど古くはないのである。というのはつぎのような意味からである。

 ここで、日本史を問うとき、邪馬台国がどうたらという国家の始まりが近代の人々の関心になるのだが、というくだりがある。大石は、しかし、そうした国家起源に歴史は、実際の日本人の祖先という意味での歴史像には結びつかないとしている。

 天皇家だとか藤原家といったごく特殊な例を除いて、今日の日本社会を構成している一般市民の家は、九九パーセント以上の確率で歴史的に自分の祖先をたどってさかのぼりうるのは江戸時代初頭まで、もう少し無理をしても戦国時代末までなのである。

 これは自分の祖先を以前調べたときもそうだった。私は武家、そして曾祖父は近衛兵でもあり、それなりに家系図があるのだが、戦国時代末あたりでどうもぼやけて、その先は源平の伝説に融合している。逆にいうと、源平の伝説というのは、中世日本のかなり重要な部分だろうとは思うが。

「Ⅲ 構築された社会、2 近世城下町の成立事情」の蜂須賀小六のところで述べたように、そのなかから近世大名および武士階級を生み出した室町末期の在地小領主層でも、その素姓は正確にはわからないのである。ましてその在地小領主のもとで、半ば奴隷的な状態で支配されていたわれわれ庶民大衆の祖先のことがわかろうはずはないのである。

 これは実感してそう思う。そして仔細に家系を見ると、家の名を継いでいるものの、血統はさらにわからない。ただ、うっすら血統のシステムが存在していることはわかるので、なんらかの血統の連続性のようなものはあるのだろう。
 さらに私事になるが私は三〇代半ばから四〇代半ば沖縄で暮らし、この、民族と言ってもとりあえずもいいだろう、琉球の人々の庶民史を考えたが、私の印象では室町時代の庶民がここで連続している印象を持った。
 明治時代の民俗学は日本民族起源に沖縄を想定することが多いが、実際の沖縄の歴史は日本の室町時代、特に、和冦や浄土教や習合した神道と海洋民に関連している。いわゆる中国的な琉球王国は、華僑が交易のために、でっちあげというのはなんだが、虚構化したというか、東アジアにありがちな華僑文化の一環にも見える。もちろん、こうした私の印象はごく私見であり、通説からはトンデモの部類だろう。ただ、琉球史を見ることで、日本史というものが、室町的な原形の連続(琉球)と、非連続(本土)という文化があるように思えた。そして、奈良時代以前のいわゆる古代というのは、こうしたその後の庶民史的な日本のコアからするとむしろトリビアルな位置づけになるのではないか、とも思った。
 本書を読みながらまたいろいろ思ったのだが、さらに私の家系が武家といっても、それは父系の一部であり、実際の私に至る各種の人々の生きた歴史ではないし、特に、女たちがどのように生きていたのかというイメージはわからない。
 本書の次の指摘は当たり前といえばそうなのだが、自分の史観には痛烈な批判にはなった。

 在地小領主が戦国大名にまで成長した段階でだした領内統治のための法である分国法には、多くの場合子供の配分のルールを決めた項目がある。それは主人の違う男女のあいだに生まれた子供の配分であるが、たとえば、「塵芥集」では男の子は男親の主人が、女の子は女親の主人が取ることを決めている。また「結城家法度」ではそれが原則ではあるが、一〇歳、一五歳まで育てた場合には、男女とわず育てたほうの親の主人がその子供を取るべきだと既定している。

 こうしたことを知っていたか知らなかったかといえば、うっすら知っているのだが、うまく子供や、その男女のイメージに結びつかない。いずれにせよ、子供は労働力や、端的にいえば商品としての価値があり、それを育てる環境が存在するのだが、その多様性がよく見えない。主流は、女の家だろうとは思う。あるいは女集団なのだろう。その歴史的なイメージが自分にはまだ大きく欠落している。
 本書、大石はそうした私の考えとはやや違う方向でこう問う。

 このことはまだ庶民大衆の祖先たちは、この段階では夫婦をなして子供まであっても、夫は甲という在地小領主の隷従者であり、妻は乙の隷従者であるというように、夫婦が家族とともに一つの家で生活するという家族の形態をとっていないことの反映である。つまりわれわれ庶民大衆が家族をなし親子ともども生活するようになったのはこの時期以降、具体的には江戸時代初頭からのことである。

 その推定に間違いはないだろうが、むしろ家族より、家族ではない子供の所有・育成のシステムが重要だろうし、実質、江戸時代でもそれは機能していたのだろう。
 このあたり、江戸時代以前の日本人、江戸時代以降の都市・非都市の日本人が、どのように子供から生育し、また男女がどのように子供をなしていたのか、いくつか基本的なモデルが自分には見えてこない。たぶん、民話などに反映しているのだろう。恐らく、近代が作り直したものではない民話というのを、総体的に探るイメージの研究は重要になるのだろう。

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