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2008.06.21

[書評]「なんでだろう」から仕事は始まる!(小倉昌男)

 ちょっと思うことがあって、というのと、亡くなられてもう3年にもなるのかということで、「「なんでだろう」から仕事は始まる!(小倉昌男)」(参照)を読み返していた。小倉昌男は、事実上宅配事業を日本に興したヤマト運輸の社長であった。

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「なんでだろう」から
仕事は始まる!
小倉昌男
 本書はインタビュー起こしによるものとはいえ実質彼の最後の著作となるのではないか。80年という人生の、ある意味で総決算ともいえるのだが、すでに読まれた人でも、また書店で手によってめくったかたでも、ふーんというくらいの感想しかもたないとしても不思議ではない。ちょっと読んだ感じでは、ごく普通の社長の爺さんが言いそうなことしか書いてない。むしろ、次のような説教は、若い人にはカチンとくるのではないか。

 会社を経営するのに、「適齢期」というものがあるとは思わない。だが、この仕事を一人前にこなそうと思ったら、それなりの人生経験が求められるのは間違いないだろう。今の時代は、二十代や三十代でベンチャー企業の経営に乗り出す若い人も多いが、旺盛なチャレンジ精神はすばらしいことだと思うものの、見ているといささか心配になることがある。
 というのも若い世代の人間ほど経験の価値を過小評価し、「情報や知識があれば何でもできる」と思っているふしがあるからだ。とくに今はインターネットでだれでも膨大な量の情報を手に入れることができるし、企業経営のノウハウを教えるマニュアル本や雑誌なども山のように出ている。だから余計に情報や知識の価値を過大評価してしまうのだと思う。
 たしかに、そういったものを読んで勉強すれば、会社経営に必要な知識は身につくだろう。法律で定められた手続きをクリアすれば、会社を興して経営者になるのも簡単だ。
 しかし、書類の上で経営者になれたからといって、それだけで経営ができるというものではない。経営とは、生身の人間とつきあう仕事だからである。

 もうこの本、いいです、おなかいっぱいです、いらね、ということになってもなんら不思議ではない。どうしてこんな爺が偉そうなのか本書だけでは疑問に思っても当然かもしれない。まあ、それはそうだ。
 この先、大学生で企業を興した若い経営者に小倉はこう諭すのだが、このあたりの妙味をどこまでわかるかが、本書の評価に関わるのだろう。

そんな彼に、私はある都々逸を教えてあげた。
「お顔見たけりゃ写真あり 声を聞きたきゃ電話あり
 こんな便利な世の中に 会わなきゃできないこともある」

 このなんともユーモアというか、なんだろこの人という変なところが小倉昌男の魅力でもあり、そのおふざけのような根幹に、つねになにかしら人間にとって根源的な視線、いや、なんというのか中二病とでもいうようなシャイでそれでいて原理的な思考が奇妙なリズムのように感じられる。
 小倉昌男の経営思想の、もっとも難しい部分は、こうしたなにか奇妙なところに深く関係しているように思う。ある意味で、これだけ頭のいい人で、経営力がある人でありながら、いやだからなのか、人間というものに答えを出さない。なぜこうまで人間というものを開いて問い続けたのか、しかも80年も、ということが鈍い感動のようなものを残す。
 その最たる部分が、読み返して、嘆息したのだが、人事評価の問題だ。

 しかし、むずかしくても行わなくてはいけないのが人事考課というものである。だからこそ昔から多くの経営者や学者たちが、公平な評価制度についてさまざまな知恵を絞ってきた。研究書や解説書も山ほど出ている。

 だが、小倉はそうした緒論を検討しつつ、「しかし、客観性の問題がどうしても解決しない」と悩む。

 それに、もっと根幹的なことを言っておけば、会社の業績というものは、それがだれの「手柄」なのかを特定するのが非常にむずかしい。たとえば何か新しいプロジェクトが成功すれば、表向きはその担当者の功績のように見えるだろう。しかし、その仕事を今の担当者が一から育てたとはかぎらない。最初に種をまいたのは前任者で、今の担当者はたまたまそれが実ったところで刈り取っただけかもしれない。
 また、大した実力はなくても、たまたま配属された部署に恵まれてよい結果を出せた者もいるだろう。

 ここまではごく普通にビジネスマンも思う部分だろう。小倉は、ヤマト運輸との関わりの最後の仕事として「辞める前にこれだけは答えを出しておかないと悪いな」と考え詰めるのだが、答えはでなかった。
 その先、こう言い放つ。

いささか乱暴に言わせてもらえば、実績だけでは社員を評価できないし、評価しても意味がない、という結論に達してしまったのである。

 このあたり、まさに乱暴ともいえる、アナキーのような不可解な思考が小倉にはある。穏和でとぼけた爺さんのようでいながら、なぜこんな大胆な思考をするのだろうか。

 そうは言っても、社員の中には会社に役に立つ人間もいれば役に立たない人間もいるわけで、そこはきちんと評価しなければいけない。では、会社の役に立つ社員とはどういう人間か。私は最近、それはじつのところ「仕事ができるかどうか」とは関係がないのではないかと思うようになった。

 先ほどの都々逸はユーモアだが、こうなると悪い冗談なのか判断しづらくなっている。だが、小倉はここでまさに本気なのだ。しかも、経営者として大成し、80年の人生を完遂してなお、会社にとって役立つ社員は仕事ができるかどうかに関係なさそうだと思索している。

 いくら分析しても個人の業績を客観的に評価できない以上、だれがどのくらい仕事ができるかを見分けることはできない。ならば、企業が「われわれは仕事ができる人間を求めている」といっても意味がないだろう。
 さらに言えば、仮に仕事のできる人間がいたとして、それが本当に会社の役に立つのかどうかもわからない。

 小倉は、「何を言い出すのかと驚かれるかもしれないが」と話を続ける。そしてその思惟の結論は、人柄ではないだろうかということに暫定的に落ち着く。たしかに、それはそうだろうというふうにも思えるし、その落とし所はまた凡庸なようにも思える。
 小倉の不思議さはこの、なんともいえない中学生のような、思索の純粋さにある。人柄なんてことにすれば総体的に無能な社員になるだろうから、売り上げが落ちるかもしれない。そうも彼は考えるのだが、その先また奇妙なことを言い出す。「よくよく考えてみると、売り上げを伸ばすことにどれだけの値打ちがあるのかよくわからない」。そこまで言うか。
 小倉の経営哲学はどこかしら人間離れしたところがあり、なのにそれが人間の、個々人のもっとも深い部分に触れてくる。彼は、自分は気弱だという。だが、国を敵に回しても、びくともしなかった。もっとも本質的な思索が人間というものに深く碇を降ろしていたからなのだろう。

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2008.06.20

[書評]江戸の経済システム 米と貨幣の覇権争い(鈴木浩三)

 以前「極東ブログ: [書評]にっぽんの商人(イザヤ・ベンダサン)」(参照)で、江戸時代の商人倫理に少し触れたが、同書は当時の貨幣経済について詳しくは書かれていない。それがどうしたわけか、このところ江戸時代の貨幣経済がどうなっていたのか気になっていろいろ散発的に調べてみた。面白いのだこれが。
 銭形平次が投げていた銭は寛永通宝だというのはいいが、これって円の単位が確定した昭和28年まで日本国の通貨として使えたとは知らなかった、いやそれは曖昧な情報かもしれないのだが。また寛永通宝は中国やベトナムにも輸出していたともいう。それってどういうことなのか。宋通元宝や太平通宝といった宋銭がなぜ和銭ではなく宋の銭なのかはいいとしても、それが流通していたというのは同じ経済圏だったのだろうか。永楽通宝は明が対日本向け専用に鋳造したというのだが寛永通宝では逆転したわけだ。それにはどういう歴史的な意味があるのか。

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江戸の経済システム
米と貨幣の覇権争い
鈴木浩三
 江戸時代に日本の銀がだいぶ流出したということや、「鎖国」というのはいわゆる通念のそれとは違うでしょ、飢饉は生産の問題より貨幣経済や流通の問題だったのでしょなど、いろいろ散発的な疑問がある飽和状態になって、こりゃ貨幣経済から江戸時代を概括した通史を読んでみたいなものだと、それっぽいのを漁ってなんとなく買って読んでみたのが、「江戸の経済システム 米と貨幣の覇権争い(鈴木浩三)」(参照)だった。かなり当たりだった。うひゃあ目から鱗が落ちまくりんぐでした。自分が無知だったなと反省した。本書は経済史、特に貨幣史的な考察が主軸にあるのだが、個人的な印象では、江戸時代の通史としてかなりすっきりしたものになっていた。
 私などは普通に日本史を学んだから、こうしたことがよくわかっていない。つまりベタなマルクス史学の骨格に奇妙に大日本史的な倫理観と時代劇テイストが加味されていた近世史くらいしか知らない。この岩波新書的山川出版教科書的な歴史はかなり実際には違うだろうなとは薄々思っていたのだが、やはり違うようだ。本書を読んでさっぱりした。
 ちょっと難しいといえば難しいが、本書は高校生でも読めると思うし、歴史に興味がある高校生なら読んでおいたがいいだろう。まげ物も楽しみが増える。ただ、受験に役立つかというと微妙かもしれないが。
 筆者は史学の専門と言えるかわからないし、本書はどちらかというと専門家の学説をエッセイふうに手際よくまとめた印象もあり、史学的にはどういう評価になるのかわからない。が、とにかくわかりやすかった。まえがきより。

本書は、歴史上の人物を通じて江戸時代を語るのではなく、専門家には常識的な事柄であっても一般的にはあまり知られていない事実も含め、さまざまな経済事象やエピソードなどを織り交ぜながら「江戸経済」の全体像を現代から描こうとするものである。

 そのあたり、「専門家には常識的な事柄」がどの程度なのかがいまひとつ自分にはわからないが、おそらく本書の江戸時代像が史学的な概括としてはもっともわかりやすいのだろうし、そのことの意味合いは、明治維新というのは、こう言うのも言いすぎかもしれないのだが、それほど大した事件でもないなという印象を深くした。
 現代日本というのは、きちんと江戸時代の上にのっかており、明治維新も太平洋戦争敗戦も大きな変化ではあるものの、変化しなかった分というか、あえて日本人が忘却しようとしたような日本の部分の連続性はかなりある。それは山本七平が「現人神の創作者たち」(参照上参照下)で言うように、明治時代というのが江戸時代を意図的に忘却する時期であったように、また戦前戦後で言えば山本夏彦が「誰か「戦前」を知らないか 夏彦迷惑問答」(参照)と滑稽に嘆くように。
 話を本書に戻すと、武家のサラリーが石高によっている、つまりコメに依存している、コメ本位制度だということは、市民経済の発展とは本質的に矛盾してくるし、市民経済は貨幣経済になるのだから、江戸幕府という政府の本質的な矛盾というのが江戸時代の根幹的なダイナミズムだったというのは、考えてみればバカみたいに明白なことなのに、どうして私たちは生産性だの生産様式だのという頓珍漢な歴史を教えこまれたのだろうか。権力の圧政から民衆の解放みたいなマンガみたいな歴史をどうして科学的だなどと思い込まされたのか。ちょっと悔しい。
 本書がすごいのは、こうした貨幣経済のダイナミックスが市民社会の組織力と関連して社会システムとして論じていくところだ。が、正直にいうとその手つきはやや危うい印象もある。その分、かなりすっきりと日本社会の歴史的な構造が理解できる。
 自分がかなり無知だったなと思ったのは、江戸の貨幣についてなのだが、私はなんとく小判というか金貨は象徴的なもので現実的には流通していないに等しいと思っていた。また銀貨は銅貨などと同一の体系にあると思っていた。違っていた、金・銀・銅の貨幣はそれぞれのレートが存在していたし、貨幣の銀含有構成を変えるとレートが変わりすらした。まさに現在の為替差益のように利益が得られていた。へぇそうだったのか。
 コメ本位制度ということから、必然的に投機もあった。それは知っていたのだが、どうもかなり広範囲だったらしい。「鎖国」についても嘘だろうなと思っていたが、かなり詳細な密輸のシステム話がある。ただ、幕府管轄以外の貿易の全貌は本書からはよくわからない。銀の流出については絹の輸入が意味を持っているらしいことはわかった。
 火消しが同時に火付けというのもやや驚いた。しかし、これは勝海舟のエピソードからもなんとなくそうではないかとは私も思っていた。が、さらにそれが経済システム化していたらしいとは。
 エピソード的な部分で、思わず、げっと声が出てしまったのは、本願寺が江戸時代を通じて宗号も認められず、寺院扱いもされなかったことだ。浄土宗からの妨害にもよるが、最大の理由は親鸞の僧籍らしい。たしかにそれはそうだ。さらにうなったのは、よって、親鸞上人といった号や見真大師号も公的に禁止されていたことだ。つまり、親鸞上人が成立するのは明治時代だ。しかも浄土真宗が反幕府であったために、逆に明治政府から親近であり、廃仏毀釈時にも優遇されたようだ。そ、そうなのか。
 史観として、げげっとうなったのは次の認識だ。松平定信の寛政改革の反動性について。

 大石教授が、寛政「改革」は「明治維新を百年遅らせた」とされるのもこの点を指しているといえよう。歴史に「もしも」がないと断ったうえでも、経済の流れからみれば、田沼の経済策の延長線上には諸大名の没落と幕府の強大化、一層の市場経済の発達があったことが容易に想像できるし、その過程は西欧の絶対主義国家が成立するに至った条件と非常に似ていることが指摘できる。

 まさにそうだ。大名は廃藩置県などなくてもそのまま財政破綻し自滅しただろうし、武家=コメ本位制度の反動がなければ、山城国の小領主にすぎない天皇家が国家の中枢に持ち出されることもなく、ファナティックな擬古神話も形成されず、市民=ブルジョアワは成熟したのではないか。いやそれは夢想に過ぎないかもしれないが。
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資本主義は
江戸で生まれた
鈴木浩三
 それにしても、江戸時代のこの貨幣経済とある種の市民社会のシステムというのは、明らかにといっていいがアジア諸国には類例がないのではないか。日本はすばらしいといったバカみたいなことが言いたいのではない。しかし、江戸時代の貨幣経済の高度化とそれに伴う社会システムの高度化こそが近代だろう。
 筆者の結語に近い認識にも深く共感した。明治維新の意味について。

 しかも、今までみたきたように社会システム全体を意志決定の方法あるいは経済法則という視点からみると、「近世」ないしは「封建時代」とされている江戸時代と、明治時代以降の「近代」との間には世の中で信じられているほどの決定的な差異はない。むしろ天皇制という名の官僚独裁制ないしは専政性の事実を「近代」だとする時代は、逆に「近代」どころか「古代」的ですらあった。

 私たちは長い長い江戸時代を生きてきたといってもそう間違いではないかもしれない。そして、もしかすると、それが今終わろうとしてるのかもしれない。

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2008.06.19

[書評]わたし、男子校出身です。(椿姫彩菜)

 「わたし、男子校出身です。(椿姫彩菜)」(参照)を勧められて読んでみた。読書前には著者椿姫彩菜についてはまるで知識を持っていなかったし、書籍についても性的同一性障害の子の話らしいという以外は知らなかったが、ためらうことなくポチッと購入して読んだ。

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わたし、男子校出身です。
椿姫彩菜
 今アマゾンを振り返って見ると読者評がきびしいが、私はこれはかなりの良書であると思う。少なくとも星は4つはつける。5つ付けてもいいんじゃないかとも思うが、私はおよそ星数の評価というものが自体が好きではないし、星1つ引く趣向があるわけではないが、この本は受けない人もいるだろうから少しお勧め度を減らすかなくらいだ。しいていえば学校の先生には是非読んで欲しいとは思う。
 版元は、ズッコケ三人組(参照)で有名と言うべきだが、私としてはかいけつゾロリ(参照)で有名なポプラ社というか、原ゆたかのイラストのせいかどうにも坂井宏先社長(参照)につい親近感を感じてしまうポプラ社だったのも、読んでみたいと思った理由だ。坂井社長の思いの、メッセージを受け取ってみたいとも思った。
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月刊 psiko
2006年 09月号 [雑誌]
 と、ポプラ社のサイトを見たら今週の土曜日13時から福家書店銀座店で椿姫彩菜のサイン会があるらしい(参照)。ちょっと行ってみたい感じもするが、私などが行ったら浮くだろうな。サイトにはさらに椿姫彩菜のブログのリンクもあった(参照)。ありゃ、私が最近嫌いになったアメーバブログかあ。
 書籍だが、概要としては帯がわかりやすい。

話題のニューハーフモデル、初のエッセイ!
生まれたときは男の子、今は現役女子大生!
心は女の子なのに、身体は男の子として生まれてしまった著者が、家族との絶縁、恋の苦悩、社会的偏見、命がけの手術…さまざまな困難と向き合い、「女の子」として人生を再スタートさせるまで。

 たしかにそういうふうにも読める。物心ついてから、戸籍の性を変え、23歳の大学生となった現在までの物語だ。
 アマゾンの星1つ評が厳しいが、それはそれで理解できないものではない。

悩んでいる方には参考にならないのでは, 2008/6/12
By ・ (海外) - レビューをすべて見る

この本ですが内容は完全に椿姫さん個人の自分史です。
8割が学生時代にどんな生活を送ってきたかと言う内容であり椿姫さんファンしか楽しめない内容です。
彼女は性同一性障害の方の中でもかなり恵まれているため同じ悩みを持つ方たちはどうすれば?と言う気分でした。



最後に肝心の性転換手術の説明も病院の説明文丸写しでは?

 この評を引用したのは、私としてはその個人史は興味深いものだったからだ。特に、先生が重要な意味をもっていたということが感銘深い。そして、その「病院の説明文丸写し」が私などには社会勉強にもなった。
 おそらくこの評者のように、「同じ悩みを持つ方たちはどうすれば?」という感想もあるだろう。椿姫がつらかったのは共感するとしても、好運だったのではないかという印象ももつ。
 もっと率直に私の感想をいうと、椿姫は美しかったらそうできたのではないかなとも思った。という感想に自分のある種の無意識が反映している。
 話が脱線するかと思うが。私は性的同一性障害はないし、同性愛傾向もない。Twitterなどでは、男の子は若い時には女装しとくといいよとか言ったことがあるが、私は23歳のとき外人グループとの仮装行列で女装して六本木に繰り出したことがあり、その寸前、女装の私にメンバーが「急いで準備しなさいよ」というので「これでOK、僕は男」と答えた。驚いて、きれいだよと褒められた。当時はかなりグッドだったのではないか、写真はないけど。女装自体には関心はなかったし、その後もない。ただ、あの歳くらいまではぎりぎり両性的な資質はもてたのだろうといういい思い出になっている。が、そのせいかわからないが、私は二度ほど男からレイプの危機に遭遇したこともある、まあ問題なく過ごしたが。
 自分の内部にある両性的な資質は、その後傾倒した折口信夫への理解につながった。折口が後年、弟子の寝ている蒲団にせまりそれが弟子から拒絶されたとき、自分が若いときはもっと美しかったと嘆いたそうだ。その感覚は少しわかる。三島由紀夫が自身が老いていく醜さに耐えられないとしたものも少しわかる。
 書籍に戻る。性的同一性障害について、その発生のパーソナルヒストリーに自分はどのくらい共感できるだろうか、というのは読み進める上での関心だった。が、率直なところ、あまり共感できる部分はなかった。性同一の自意識の目覚めについては、著者に嘘があるとは思わないが、うまく語られているとは思えない印象もあった。私は、奇妙に幼児期の記憶があってフロイトのいう多型倒錯やシュレイバー症例などもある種の洞察があるが、著者椿姫については、そういうフロイトスキームというより、自己同定の強度が身体拒否を介して女性への同定意識に結びついているような印象を受けた。
 そこはボーヴォワールが「第二の性」(参照上参照下)で述べた「人は女に生まれない、女になるのだ」という、ある意味で社会制度的な性意識の選択の問題とは違うようにも思えたし、同様にというのは粗雑だがドゥルーズとガタリによる「アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症」(参照上参照下)のいうn個の性からの生成的な説明も違うように思えた。
 というか、本書では、生物学的な男が、社会的な女たらんする欲望の物語のように私には思えた。ボーヴォワール、ドゥルーズ、ガタリらが、むしろ女の性を社会的な制度へのモルドのように捕らえそこからの個の自由の可能性としての不定形な性を描くのとは、逆の構図になっているのではないか。
 このことは、椿姫の生育史における女との関わりにもある影響があるだろう。うまく言えないのだが、友愛原理に潜む本質的な同性愛的な愛の原理としては彩菜は肯定され、自己の居場所を見いだしていくのだが、現実の女社会からはむしろ排除される。男子校出身というのはその点で、むしろ女社会から保護的に機能していた点が本書の感動的な部分だ。
 ここでも、もちろん、と言うべきなのだろうが、そうした女社会こそが、ボーヴォワールらの言うような社会の産出だとも言えはするだろう。だが、それでも、椿姫の自己同定性における女は、その、女社会の女との違和ではない。むしろ、椿姫は、社会的に、普通に、女として生きたいと願うのであり、その意味では、べたに「人は女に生まれない、女になるのだ」という命題に逆説的に従っている。
 話を不要に複雑にしているようで申し訳ないが、椿姫における自己解放の課題にはむしろ社会的な性の、思想的な課題というよりも、友愛原理に潜む本質とその自由の権利の問題として提出されているように思えた。
 その意味で、性的同一性障害というのは、性ホルモンといった生物学的な問題や、ボーヴォワール的な社会思想的な問題もあるにせよ、それらはとりあえず捨象できる課題にあり、むしろ、この社会は、性を個人にとってどこまで自由に選択させるかという点で、社会的な課題となるのだろう。「性同一性障害者特例法」の改正案(参照)などを見るに、日本社会も多少なりの進展はあるようだが。
 原理的には、個人は自由に性を選択できるべきだろう。だが、それが確たる輪郭を持つのは、それが友愛原理、つまり、友人としての他者の現れであって、その先は、本書に描かれる各種の軋轢に潜む問題が露出する。
 たとえば、私が今若く、惚れた女性が、性的同一性障害から性を転換・選択した個人だったとする。それは私に問題か? たぶん問題ではない。性の選択の問題は、実際的な対性的な(恋愛的な)関係性においては問題とならない。子供についても、欧米のように法整備は可能だ。
 では何が問題なのか? 社会的な偏見だろうか? それはもちろんある。
 ここで自分がひっかかるのは、マージナルな問題と、うまく言えないのだが美的弱者の問題だ。マージナルというのは弱い性的同一性障害だ。自己を社会的に実現する上での妥協の閾値が低い場合、その人は自己を穏和に疎外して一生を終える。
 それと美的弱者だが、性的同一性障害において社会的に克服できるだけの美の獲得がほぼ不可能であるという問題は強固にあるように思える。その点では、男性であることを獲得するための性的同一性障害はややハードルは低いようにも思える。
 この問題の、もしそれが問題であるなら、いわゆる非モテ問題のような構図をしているのかもしれないとも思う。そこは冗談ではなく本質的に難しい。
 エントリが錯綜してしまったが、本書はある意味でプラクティカルな書籍である、まず先生にとって、そして次に私たち社会の友愛にとって。

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2008.06.17

中台緩和にフィナンシャルタイムズが望むとした2つのこと

 この話題は誤解されがちなので、ごく簡単に触れるだけにしておきたい。別に触れなくてもいいんだけど、このところの台湾関連の国内報道が多少だけど奇妙なんで、多少は関連があるかなというくらい。
 話はまず、中国最南端のトロピカルアイランド、海南島・三亜かな、リゾート地だ。ググルとそんな話題が「イーチャイナ」というサイトに出てくる(参照)。


中国最南端の島「海南島」は、ハワイとほぼ同じ緯度にある亜熱帯性気候と熱帯海洋気候の常夏の島です。中でも、海南島最南端の三亜(サンヤ)は、本格的な国際リゾートホテルも多く、透明度の高いエメラルドグリーンの海と白いビーチで一年中マリンスポーツが楽しめ、また、トロピカルムードあふれるゴルフコースも多数ある、アジア有数のリゾートエリアです。

 いいんじゃないかな。それは別にいいなあと思う。
 共同による邦文のニュースもあったと思うけどちょっと見かけないので、日本語で読めるものとして4月19日の朝鮮日報”中国、海南島に原潜基地を建設か”(参照)より。

 18日付香港紙・文匯報などは、中国が最南端の海南島三亜市に空母と原子力潜水艦が停泊できる大規模な海軍基地を建設していると報じた。
 報道によると、米英両軍による衛星写真解析の結果、中国は三亜市亜竜湾に原潜の停泊施設を建設しているという。同施設は射程距離が8000-1万4000キロに達し、米本土も攻撃可能な大陸間弾道ミサイル「巨浪」を10基余り搭載可能な最新鋭原潜の「晋級」(094型)が停泊可能な規模だ。

 もとネタはジェーンズ・ディフェンス・ウィークリー(参照)らしい。テレグラフでも報道されたようだ。朝鮮日報”中国海南島の原潜基地、英紙に衛星写真”(参照)より。

 中国南部のリゾート地、海南島三亜市の亜竜湾に建設が進められている大規模は原子力潜水艦基地の工事現場の鮮明な衛星写真が、2日付英紙デーリー・テレグラフに掲載された。
 写真は米国の民間衛星写真会社デジタル・グローブが2005年8月5日から08年2月28日までの間に撮影したもので、英軍事専門誌のジェーン・インテリジェンス・レビューが入手した写真を転載したものだ。

 この話をどう受け止めるかなのだが、単純に言えば、中国脅威論の煽りでしょ。そのまま食うなよというふうには思う。脅威としては、スパイ衛星監視を避けるために、最大20隻の原子力潜水艦を隠すことが可能というあたりだが、軍事的というより威嚇的な意味合いしかない。
 総合的な話としては、ニューズウィーク日本版5・21”中国の脅威は水面下にあり”がわかりやすい。英文はまいどながら無料で読むことができる。”An Underwater Threat”(参照)だ。
 ポイントは三亜原潜基地はなのためというあたり。まあ、単純な問いだが。

 専門家の多くは、中国の急速な軍備増強を台湾独立を阻止するためのものとみている。しかし中国は、台湾から重大な挑発は受けていない。つまりここ数年の中国は、台湾の独立を阻止する以上の軍事力をもっていることになる。
 実際、両岸の関係において、中国の要求をのむように台湾に強制できる軍事力を中国がそなえているおそれがある。

 ちょっとそうかいなという疑問もあるが、案外、すでに威嚇的な効果は十分にあるかもしれない。
 国際的には問題はこの先になる。

さらに、台湾に標準を合わせた新たな軍事力が別の目的に使われる可能性に近隣諸国は注目している。
 現実の脅威にさらされていないなかで、軍事増強の真の目的は謎のままだ。

 とか言うけど、これは単純にシーレーンです。

 警戒感を強めているのはアメリカだけではない。インドの海軍参謀総長は、インド洋を管理する同国海軍への挑発だと危惧している。中国が思い通りに日本周辺に軍を展開させる能力と意欲を高めることに日本も徐々に不安を感じはじめている。

 どうですか、日本国民、不安ですか。不安という人もいるだろうな、当然。

ここ数年、領海粗祖のある日本近海への中国の侵犯が続発。南シナ海の南沙諸島の領有権問題でも、中国はまもなく強制的に問題を収拾する軍事力をもち、同じく領有権を主張しているフィリピンやベトナムを驚かすことになるだろう。

 ここはけっこう重要なんで、日本人が危惧を覚える時期は、フィリピンやベトナムが悲鳴をあげるか素っ頓狂な歓迎の声を上げるかを見てからでもそう遅くはない。
 というわけで、この寄稿記事の著者ダニエル・ブーメンソル(Daniel Blumenthal)のフカシは中国脅威論という展開になる。
 私としては、これはもうちょっと中国よりから、むしろ、中国がシーレーン確保への脅威を感じているんじゃないのと見ていいように思うし、そのあたりの恐怖心を除くように、日米が平和的な対応をするとよいのではないかと思うのだけど。
 ただ、現実問題として中国の軍事というのは剥き出しになっていて、しかもなぜか日本では報道が歪む。どのくらい歪んでいるかというのは、またれいによってフィナンシャルタイムズを出すのだけど、普通に英米紙を読んでいると、嘆息してしまう。
 たとえば、馬政権の台湾での中国との緊張緩和だが、フィナンシャルタイムズそれを歓迎しつつ、きちんと言うべきところは言っている。”Detente in the Taiwan Strait”(参照)より。

But it is important not to let expectations run riot, especially among mainland Communist party leaders. They tend to assume that the incorporation of Taiwan into the People’s Republic of China is inevitable, long overdue and devoutly desired by all right thinking people of Chinese origin, and they have arrayed hundreds of missiles along the Strait to make sure it happens --- by force, if necessary.
(しかし重要なのは期待を暴走させないこと。特に、大陸共産党指導者についてだ。彼らは台湾を中国自民共和国への併合は、不可避であり、延期されているに過ぎず、信仰的に中国自民国家の起源から想定する傾向がある。だから、だからその機会のために、数百発ものミサイルを海峡に配置済みだし、必要ならそれは軍事力を行使も厭わない。)

 これは別に中国に悪口を言いたいわけではなく、そういう歴史背景がある。
 ただ、国際社会はそれを望んでいない。そして、中台緩和にフィナンシャルタイムズが望むとした2つのことはこれだ。

The first such concessions should include dismantling the coastal missile forces aimed at the island and the granting of observer status to Taiwan in the World Health Organisation.
(最初の譲歩には、台湾を標準とした大陸弾道弾の解除と、世界保健機関(WHO)へのオブザーバーとしての加盟を認可することだ。)

 朝日新聞もようやく5月21日社説”台湾新総統―現状維持は賢明な選択”でこの問題に触れた。

ジュネーブで始まった世界保健機関(WHO)総会で、台湾が切望するオブザーバー参加は、中国の反対で議題にすらなっていない。新型インフルエンザなど感染症の脅威は、地球全体の問題でもある。人道的な見地から中国は度量を見せてはどうか。

 北京政府側としてはその程度の度量はあるよという信号でもあるのだろう。6月1日の日経社説”中台の対話再開を見守ろう”ではその含みを深めた。

新型インフルエンザが懸念されるなか、台湾は世界保健機関(WHO)への加盟を望んでいる。胡氏は対話による解決を示唆した。一連の発言は中台の雪解けを象徴している。

 とはいえ、日本の国内紙はフィナンシャルタイムズのように、台湾を標準にしたミサイルの撤廃を提言することはしない。いろいろむずかしいのだろうと思う。ブロガーですら現実的にはむずかしいし。
 ただ、日本には平和を望み核のない世界を望む多くの人々がいるのだから、核弾頭を装備しかねない原潜の問題にも、もうイデオロギー的な枠組みに絡め取られずに言及していい時期なのではないか。

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2008.06.16

アイルランド国民投票によるリスボン条約否決

 単純な見落としがあるかもしれないが、アイルランド国民投票によるリスボン条約否決を扱ったのは大手紙では毎日新聞だけだったということだろうか。明日あたりにひょっこり朝日新聞や日経新聞の社説に出るだろうか。特に日経新聞は昨年10月22日に”新条約で機動力を増すEU”で次のように述べていた。リスボン条約のおさらいもかねて。


 欧州連合(EU)の首脳会議が、未発効に終わったEU憲法に代わる新たな基本条約を採択した。新条約は「リスボン条約」と名付け、EU大統領の創設や政策決定を迅速化する多数決制度など、さまざまな斬新な工夫を盛り込んだ。新条約が発効すれば、半世紀にわたる欧州統合が新たな進化の段階に入る。


 名を捨てて実をとる。その策のおかげで、新条約は逆に当初のEU憲法より濃い内容となった。新体制への移行は09年だが、新条約が機能し始めれば、EUの国際社会への影響力は一段と高まるだろう。

 と期待をフカした。さらに、昨年12月19日”機動的なEUを生む新条約”では。

 リスボン条約は、本来は05年にフランスとオランダが国民投票で否決して廃案となった「EU憲法」の代替案だった。憲法の呼び名やEU国旗、国歌に相当する条項を捨て、“欧州連邦”の色彩を薄めることでようやく合意に至った経緯がある。


 EU憲法に比べて、リスボン条約の中身が薄まったと考えるのは誤りだ。政策決定の仕組みは、むしろ大幅に強化される。導入は14年以降になるが、最高決定機関であるEU理事会の表決制度が変わり、現在の全会一致の原則は廃止となる。
 現行の制度では、理事会で一国でも反対すればEUとして共通政策を打ち出せない。新条約の下では、こうした意思決定の停滞を回避でき、政策の機動力が高まるはずだ。
 新条約で注目すべき分野は、エネルギー、環境、知的財産権、移民、観光などの経済政策だ。これらの政策は欧州だけでなく、世界経済を動かす枠組みや日本企業の経営戦略にも、直接関係する分野である。

 それが今回見事にと言っていいくらいに頓挫することになった。
 毎日新聞では今年の1月8日”欧州連合 統合と拡大の効果を示す時だ”でこう述べていた。

 発効にはすべての加盟国の批准が必要だ。国民投票の否決にこりて、多くの国は議会で批准を目指す。1カ国でも拒否すれば、リスボン条約は失敗し大きな危機となる。市民には拡大への不信感もある。幅広い理解を求める努力が必要だ。

 という「リスボン条約は失敗し大きな危機」がやってきたわけだ。ようこそ!
 そして毎日新聞は、今回の結果について昨日社説”EU条約否決 帰属意識は国民国家か欧州か”(参照)で、こう驚いてみせた。

 有権者の意思はどこの国でも投票箱を開けてみるまでわからない。だが、これほど国外で驚かれ、かつ深刻に受け止められた結果は珍しいだろう。

 ところがそうでもない。8日の時点でフィナンシャルタイムズは”An Irish bombshell”(参照)でこう述べている。

If the latest opinion polls are accurate, there is a real possibility that Irish voters will reject the European Union’s Treaty of Lisbon this week. A No vote would be a political bombshell in Brussels and would threaten to set the whole EU reform debate back to first base.
(最新の世論調査によると、アイルランド国民は実際に今週EUリスボン条約採決で否決を下す可能性がある。否決はEU本部ブリュッセルにおいて政治的な爆弾となりかねず、EU改革全体が最初の段階に戻る危険性すらある。)

 ということで、実は国際的には危惧されていた。ちなみに、私はEUダメダメ論者だったこともあり、今回は酸鼻な結論になるんじゃないかとは思っていたが、率直なところ逃げ切れるかなとも思って予想は日和って書かなかった、というか、もうこんな予想当ててもなあという思いもあった。
 日本の毎日新聞が事後びっくりし、フィナンシャルタイムズが事前に懸念していたのは、現実認識に差がある。

Yet that tale may not persuade sufficient Irish voters to say Yes to the Lisbon treaty.
(アイルランド国民が可決できるほど十分にリスボン条約は説得されていないかもしれない。)


The Lisbon treaty is an impossible document to explain, with 346 unreadable pages of assorted articles, amendments and protocols.
(リスボン条約は、関連条約、修正条項、議定書など346ページにもおよび説明するのは不可能である。)

 現実問題、EU統合文書は膨大すぎて読めるものではないし、一般人には理解できるものではない。国民投票は馴染まない。ここはあれだ。日本人にとってアメリカ様が作ってくれた日本国憲法が日本国民には理解でないのと同じで、憲法改正は国民投票にはなじまないもなのですね、わかります。いや不謹慎な冗談にしてしまったが、それでもこの事態は、大きな国策に国民投票のような手法は適合しないかもしれないという、ある意味で民主主義の限界という側面があるにはある。毎日新聞社説は結語でこう述べているが、民主主義の未来というのはその逆かもしれない。

民主主義社会では、国の行方を決める壮大な実験を左右するのは指導者ではなく市民一人一人の意識だ。それを示した国民投票だったと考えたい。

 今回の否決の結果説明について、毎日新聞社説はナショナリズムとしている。よくわからないのだが、日本のインテリってなんでもナショナリズムとかにラベルするのが好きなような気もするが。

 アイルランドは1973年、EUに加盟した時は最も貧しい国だった。EUから多額の補助金を受け取り、90年代から外資導入に力を入れた。民族の名をとり「ケルトの虎」と呼ばれ、経済成長のモデルと称賛される。1人あたり国民総所得は日本や米国を追い抜き4万5580ドル(06年)で世界6位の豊かさだ。19世紀、飢えたアイルランド人は米国に移住したが、21世紀のいま東欧から移民が職を求めて入ってくる。
 この成功体験があるからこそ、アイルランド人は誇りと自信を強め、今回、ナショナリズムの意思表示につながったのではないか。

 としているが、フィナンシャルタイムズ社説では逆。

Many voters say they will vote No simply because they do not understand the treaty. Others want to register a protest against the political establishment that is all on the Yes side. The economic slowdown, and immigration, are other issues.
(条約が理解できなからという単純な理由で否決の投票をするのではないと多数は言う。が、他は批准側の政治的支配体制に反対の意を示したがっている。経済低迷、移民、その他の理由で。)

 EU側としてはアイルランドにやられるとはな、というか、国民投票にかけやがってとか思っているのだろうが、アイルランドはそういう国家規定があるので、言っても詮無い。今後はどうなるか。
 動向だが、社説を出さなかった朝日新聞記事”EU各国、「リスボン条約」否決に衝撃と落胆”(参照)が賛否両論的。

 イタリアのナポリターノ大統領は「一国の有権者の半分以下で、しかも人口でもEUの1%に満たない数の人々の決定(反対)によって、かけがえのない改革が止められてしまうことがあってはならない」と述べ、「小国の反乱」への不快感をのぞかせた。
 一方、EUに批判的な発言で知られるチェコのクラウス大統領は声明で「リスボン条約の企てはきょうで終わりだ。批准(手続き)を続けることはできない。エリート主義的な欧州の官僚支配に対する自由と理性の勝利だ」とした。大国主導、本部があるブリュッセル中心のEU運営が加速することへの不満をぶちまけたかたちだが、EUへの懐疑はチェコだけでなく一部加盟国に根強くある。

 毎日新聞は社説の同日記事”リスボン条約:EU委長、加盟国に批准手続き継続を要請 アイルランドに圧力”(参照)で、圧力を強調している。

欧州連合(EU)の内閣にあたる欧州委員会のバローゾ委員長は13日、アイルランド国民投票によるEU基本条約「リスボン条約(改革条約)」の批准否決を受け、加盟国に批准手続き継続を要請した。議長国スロベニア、欧州議会、仏独首脳も共同歩調を取った。既に18カ国が批准しており、批准続行でアイルランドの「外堀」を埋め、圧力をかける形で、批准プロセスを進めるもくろみだ。

 そうなるか。私はそうならないのではないかと思う。単純な話、アイルランドの国家の枠組みでどのように批准に至るのかイメージもわかない。カウエン首相は、リスボン条約を微調整しただけでは再度の国民投票はしないと言明しているし、なにより、国民投票というものをコケにしてはいけない。再投票はありえない。
 むしろ、EU側が少し引くのではないか。フィナンシャルタイムズもその後”Time to put the EU treaty on ice”(参照)で凍結したらあぁ、という提言をしている。

It would be more sensible to put the Lisbon treaty on ice for several years, and try to rescue those parts that are important, uncontentious, and capable of being carried out without treaty amendment.
(より合理的なのは、リスボン条約を数年凍結することだ。そして、重要な部分、異論なき部分、修正なしに実行可能な部分で救済策を模索することだ。)

 でも、結語はかなりぶっちゃけている。

The Nice treaty is not ideal, but losing Lisbon should not be seen as the end of the world.
(ニース条約は理想的ではないが、リスボン条約失効で世界が終わりになように見なすこともないだろう。)

 つまり、ニース条約に戻れと。私が生まれた年にできたローマ条約に1992年のマーストリヒト条約を加えて、2000年にニースでできた条約だ。2000年は20世紀である。20世紀へようこそ!

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2008.06.15

1978年宮城県沖地震のこと

 私自身は1978年宮城県沖地震について強い思い出はない。ちょうど30年前になる。
 この地震は、1978年6月12日の夕方5時14分に、宮城県沖を震源に起きた。全壊家屋1183戸。マグニチュード7・4、震度5。被害は宮城県に集中し、死者は28人に及んだ。この地域では今年も同日に防災訓練が行われた。13日付け河北新報”わが町内自分で守る 独自訓練で防災力向上”(参照)はこう伝えている。


 わが町の防災は住民の力で―。1978年の宮城県沖地震から30年がたった12日、地域の防災力アップに腐心してきた仙台市宮城野区の福住町町内会の菅原康雄会長(60)は、新たな気持ちで防災訓練に臨んだ。


 切迫感が強まったのは03年7月。宮城県連続地震で被災した東松島市の住民が近所同士で支え合って生活している姿を報道で見て、災害に備えた町内会活動の必要性を痛感した。


 30年前の記憶の風化が気掛かり。「時の流れとともに油断が生じている。30代半ばまでの若い世代は、あの地震を知らない」

 その二日後、今回の岩手・宮城内陸地震が起きた。マグニチュード7・2、震度6強。地震の速報を聞いたとき、私は即座に宮城県沖が震源かと思ったが、内陸であった。
 河北新報にある「03年7月」の地震は同年26日の宮城県連続地震(北部地震)である。死者はでなかったが、全壊家屋489戸に及んだ。
 私が今回の地震で当初宮城県沖かと思ったのは、12日の朝、NHKラジオ「時の話題」で「切迫する宮城県沖地震」を聞いた記憶があったからだ。同地域は2つのプレートがぶつかる部位(震源域は両側に2つ)でしばしば地震が発生する(周期は過去平均37・1年)。
 1978年の地震では死者が28人に及んだが、うち18人がブロック塀や門柱の下敷きになった。このことから以降ブロック塀の耐震性が強く問われるようになった。
 また、水田だった地域に作られた新興団地被害が際立った。新聞に掲載されたその写真の記憶は私にも鮮明にある。仙台郊外の丘陵地も盛り土が崩れたことも被害を拡大させた。
 それに比較すれば仙台市中心部の被害は少なかった。当時は人口50万人以上の都市が初めて経験した都市型地震の典型(参照)とも言われたが、むしろ日本の高度成長求めた地域での、人災的な要素の強い地震災害だったとも言えるだろう。
 14日の、今回の地震で、ある意味で特徴的なのは、全半壊家屋が少ないことだ。14日付け読売新聞記事”短い揺れ周期、雪に強い構造…地震の建物被害目立たず”(参照)より。

 岩手・宮城内陸地震は、阪神大震災に匹敵する揺れの強さにもかかわらず、14日午後10時現在、判明している建物の全半壊は13棟にとどまり、昨年7月の新潟県中越沖地震(6940棟)などに比べはるかに少ない。
 専門家らは、建物被害につながりにくい地震波の特徴や、地震に強い東北地方の住宅構造を指摘している。


震源に近い岩手県奥州市も65%だったが、壁のひびやブロック塀の倒壊など軽微な被害が中心だった。

 全半壊家屋が少なかったことは、キラーパルスが少なかったせいもあるだろう。
 関連して2005年8月16日の宮城県沖地震(ただし政府想定の地震ではなかった)では震源より遠い地域での被害を伝えている。2005年8月29日読売新聞記事”福島の住宅被害 宮城の1.7倍”(参照)より。

 今回の地震による住宅被害は4県計889件(全壊1件・一部損壊888件)で、このうち福島県が554件で6割を占め、震源に近い宮城県(326件)に比べて1・7倍となった。
 福島県の被害は、震度5強を記録した相馬市や新地町に集中し、計419件。このうち9割に当たる398件が瓦の落下・破損だった。

 私がこうした側面に関心をもつようになったのは、「コウアン先生の人を殺さない住宅―阪神大震災「169勝1敗」の棟梁に学べ」(参照)を読んでからだ。同書の紹介より。

21世紀を迎えようという時代に、なぜ6300人もの死者を出す大惨事が起こったのか――著者の1年間にわたる綿密な被災地踏査からは、信じられないような事実が次々と浮かび上がってきました。倒壊、圧壊しても当然といえるほど悪辣な手抜き工事のあまりの多さと、それを助長する法律の不備。そして呆れるばかりの建築業界のモラル低下、行政サイドの怠慢。その結果、死者の約8割は建物の下敷きになり圧死していったのです。しかし、その一方で活断層のすぐ横に建てられていた木造住宅やマンションがほとんど無傷の状態で残されたケースや、激震の中心地にありながらわずかな補強をしただけで難を逃れた古い民家もありました。いったいどこで生と死は別れたのか。
 現地調査中に著者はひとりの元・大工棟梁と知り合いました。彼は引退するまでに被災地を中心に170棟の家屋を普請しましたが、今回の震災で大きな被害を受けたものは、わずか1棟で、他はほとんど無傷で残りました。
 本書は、被災地の手抜き、欠陥工事の実態と元・棟梁が建てた無事だった家屋の検証を通して、安全で人にやさしい住宅の建て方、買い方、補強のし方を、図解、写真を駆使して、わかり易く解説しています。(マンションについても、同様) 絶対に失敗しないために、マイホーム購入前には必ず読んでもらいたい「安全住宅造りのバイブル」です。

 内容だが、必ずしも伝統工法の耐震性が高いということの主張ではなく、むしろ、大工さんのメンテナンスが重要だとしていた。
cover
コウアン先生の
人を殺さない住宅
阪神大震災「169勝1敗」の
棟梁に学べ
中村幸安
 本書をどう評価するべきかは、私は専門ではないのでよくわからないが、私は実家を昔気質の棟梁に建ててもらったこともあり、頷けることは多かった。

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