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2008.05.30

ジョジョ問題っていうか

 エントリ書こうか、こういうのは書かないほうがいいのではないか、書いても意味ないんじゃないかとけっこう逡巡している自分が結局いるので、とりあえず書いてみる。特にまとまった意見も主張もないが。
 問題は、まず、共同記事”日本アニメ、中東で非難”(参照)より。


 【カイロ22日共同】日本の人気アニメ「ジョジョの奇妙な冒険」の中に、悪役がイスラム教の聖典コーランを読みながら主人公らの殺害を命じる場面があり、アラビア語圏のウェブサイトで批判が高まっていることが二十二日までに分かった。原作コミックスの出版元でアニメ製作も主導した集英社(東京)は同日、問題のアニメのDVDと原作コミックスの一部を出荷停止にすると発表した。
 中東では「コーランを読めば悪者になるという趣旨か」などの書き込みが三百以上のサイトに拡大。イスラム教スンニ派教学の最高権威機関アズハルの宗教見解委員長アトラシュ師は「イスラムに対する侮辱で受け入れられない」と非難した。
 集英社によると、原作コミックスではコーランは描かれていないが、話の舞台がアラビア語圏だったため、アニメ化の過程で採用したアラビア語の文章を「コーランの一部だとの認識を欠いたまま」使ったという。

 この問題は外交問題となりいちおう収まった。「外務省: 日本アニメのイスラムに対する不適切表現について」(参照)より。

 5月22日、アニメ「ジョジョの奇妙な冒険」を制作した集英社とA.P.P.P.社は、イスラムを冒涜する意図は全くない旨述べるとともに、不適切な表現によってイスラム教徒に不快な思いをさせてしまったことをお詫びするとの趣旨の見解を発表した。日本政府は、不注意とはいえ、同アニメの一部内容により、イスラム教徒の感情が傷つけられたことは遺憾と考える。いずれにせよ、異なる宗教や文化への理解と敬意を育み、このようなことが再発しないようにすることが重要と考えている。

(参考)
(1)集英社とA.P.P.P.社の人気アニメ「ジョジョの奇妙な冒険」DVD(日本語版の他に英語版も発売)のなかで、悪役が主人公の殺害を命じる場面でコーランが不適切な形で使用されており、アラビア語圏のウェブサイトで批判が高まっていた。
(2)集英社は、22日、同社ホームページに謝罪文(日本語、英語)を掲載し、当該DVD、原作の一部の出荷停止を決定した。


 集英社側のアナウンスはPDF文書だが、「アニメーション「ジョジョの奇妙な冒険」における表現について (日本語)」(参照)が出た。
 気になるのは追記の部分だ。

 本件に関する報道の一部に、登場人物が「コーランを読んで殺害指示を出している」かの誤解を招く表現がありましたが、本作品のストーリーには、そのような「コーランと殺害指示を関連づける」ような設定はありません。また、「ムスリムを悪者やテロリストとして描いている」といった事実もないことを、ここにお伝えします。

 この追記は、共同の記事に対応しているのではないかと思うが、これについて共同側の応答があったのだろうか。探したがわからなかった。
 少し話を戻す。事件を時事で読み直してみる。”「コーラン」登場の批判、昨年から=数百のサイトに-アニメ「ジョジョ」”(参照)より。なお、この部分、事実認識はかなり重要なのであえて、事実の報道であるとの理解で全文引用する。

2008/05/22-20:31 「コーラン」登場の批判、昨年から=数百のサイトに-アニメ「ジョジョ」
【カイロ22日時事】人気漫画「ジョジョの奇妙な冒険」の原作とDVDの一部がイスラム教に関する不適切な表現を含むとして出荷停止になった問題で、同作品中に悪役がイスラム教の聖典コーランを読む場面が出ているとの指摘は昨年からアラビア語のウェブサイト上に現れていた。
 昨年6月には「ジョジョ」を見た視聴者がアラビア語のアニメ関係の掲示板で、作品中にコーランが出てくるのは奇妙だと批判的に言及。これに対し「ジョジョ」をアラビア語に翻訳したという人物が「登場人物がコーランを読んでいるだけでイスラムへの侮辱ではない」と作品を擁護した。
 今年4月には別のイスラム系フォーラムのサイトで「コーランを読むと悪人になると子供が信じてもよいのか」と批判する投稿が出た。
 この話題は数百のアラビア語サイトに広がっているもようだ。ただ、これまでのところ、日本に対する敵対的行動を呼び掛けるといった過激な反応は見当たらない。

 ここで、共同の記事の別の部分(以下)を含めて考察したい。

 問題の場面は二〇〇一年制作のアニメシリーズ「ジョジョの奇妙な冒険 ADVENTURE」の第六話「報復の霧」の冒頭。エジプトに潜む悪役「ディオ」がコーランを読みながら「(日本から来た主人公らを)始末しろ」と部下に命じる。


 〇七年三月ごろからアラビア語の字幕を付けた海賊版がネット上で流通。視聴者の一人が、問題の場面の静止画をサイトに投稿し批判して以降、多数のサイトで書き込みが相次いだ。

 今回の事件について私はまず欧米のソースをあたってみたのだが、どれも共同をベースにしており、独自ソースからの欧米報道を見つからなかった。ただし、欧米のソースによってはそのソースの限定性に配慮して共同とは異なった懐疑的なトーンが感じられた。
 グーグルでは最近アラビア語の翻訳機能を持っているので、アラビア語圏のニュースも可能なかぎり調べてみたが、欧米と同様で、どうもこの事件は共同以外のソースを見つけることはできなかった。
 しかし、時事のニュースは、共同のソースとは別の情報が含まれており、共同から派生したものではない。共同と時事がどのような関係またはきっかけで同時期のニュースとして発信したのかそこがわからない。過去の慣例からすると、共同が出すとすでに事態を知っていた時事が遅れないように出すということがあり、今回もそうなのかもしれない。
 もう1つ気になるソースがある。読売”「ジョジョ」DVDにコーラン落ちる場面、集英社が出荷停止 : ニュース : エンタメ ”(参照)より。

 アニメで登場人物が持つコーランがいすに落ちる場面が問題と判断したという。原作にはコーランの描写はないが、モスクの描写などが不適切とした。アニメの表現を巡り、イスラム圏のウェブサイトで批判があると、今月上旬、報道機関から指摘があり調査していた。

 今月上旬に集英社は知っていた。
 3ソースからの時系列をまとめるとこうなる。

  1. 2001年にアニメシリーズ「ジョジョの奇妙な冒険 ADVENTURE」第六話「報復の霧」が制作された。
  2. 07年3月ごろからアラビア語の字幕を付けた海賊版がネット上で流通し始めた。(共同)
  3. 07年6月ごろ、字幕付き海賊版を見た視聴者がアラビア語のアニメ関係の掲示板で、作品中にコーランが出てくるのは奇妙だと批判的に言及した。(時事)
  4. 字幕付き海賊版をアラビア語に翻訳したという人物が「登場人物がコーランを読んでいるだけでイスラムへの侮辱ではない」と作品を擁護した。(時事)
  5. 08年4月には別のイスラム系フォーラムのサイトで「コーランを読むと悪人になると子供が信じてもよいのか」と批判する投稿が出た。(共同)
  6. 08年5月上旬、ある報道機関から集英社に指摘が入った。(読売)
  7. 中東では「コーランを読めば悪者になるという趣旨か」などの書き込みが三百以上のサイトに拡大した。(共同)
  8. 08年5月22日、アラビア語圏のウェブサイトで批判が高まっていることが共同に分かったと発表した(読売報道とやや矛盾)。
  9. イスラム教スンニ派教学の最高権威機関アズハルの宗教見解委員長アトラシュ(Sheikh Abdul Hamid Attrash,)師は「イスラムに対する侮辱で受け入れられない」と非難した。(共同)

 事実関係でいつかわからない点がある。問題がニュースで取り上げられるに値する問題となったのは、イスラム教スンニ派教学の最高権威機関アズハルの宗教見解委員長アトラシュ師による非難が出たことで、それが出なければ、曖昧な翻訳であるかもしれない海賊版を見ている、世界のどこにでもいる日本アニメ好きさんのもめ事にすぎないし、その時点では外交問題には発展しない。
 つまり、どのような経緯で、イスラム教スンニ派教学の最高権威機関アズハルの宗教見解委員長アトラシュ師による非難が出たかが重要になるのだが、そこがわからない。
 これに関連して、「非難」が何を意味しているのかが気になる。これはアトラシュ師のステータスにも関連しているが、英語圏では"Sheikh Abdul Hamid Attrash, chairman of the Fatwa Committee at Cairo's Al-Azhar University"とあり、Fatwa(ファトワー:宗教令)に関連している。今回の非難はファトワー(参照)なのだろうか。ウィキペディアでは「宗教令」という訳語を当てていない。

ファトワー(فتوا fatwā, 複数形 فتاوى fatāwā)は、イスラム教(イスラーム)における勧告、布告、見解、裁断のこと。

ファトワーとは本来、「ムフティー」と呼ばれる、ファトワーを発する権利があると認められたイスラム法学者が、ムスリム(イスラム教徒)の公的あるいは家庭的な法的問題に関する質問に対して、返答として口頭あるいは書面において発したイスラム法学上の勧告のことである。ファトワー自体には法的拘束力はないが、著名なムフティーによるファトワーはファトワー集に編纂され、各イスラム法学派の個別事例に対する見解を示すものとして重視された。


 ファトワーであったとしてもスンニ派の場合宗教的な拘束力はない(シーア派では異なる)がそれに準じる権威を持つ。しかも、アズハルの法学者によるであれば外交問題となってもおかしくはない。この点が報道からは見えない。また、ファトワーであれば「返答として」ということなので、誰がお伺いを立てたのかかも気になる。
 この問題で次に気になるのは、共同報道の時系列の位置づけだ。この点で重要なのは、集英社に今月初旬指摘したのはどの報道機関なのか?という問題だ。読売が伝えるこの記事からはそこが明らかになっていない。
 一般的な報道となったのは、共同のほうが時事より若干先になっているようだが、事実報道において時事が過去の経緯に詳しいことと、また、記事からの印象では共同がこの事態についての認識を持ったのは比較的最近のことらしいことから、時事が集英社に通知したのではないだろうか。
 すると、これに関連してどの時点で、アトラシュ師の非難が出たのかが気になるし、ざっと報道をみたところアトラシュ師に言及しているのは共同に限定されるようなのも気になる。
 まとめると、疑問点は次の2つに集約される。

  • アニメシリーズ「ジョジョの奇妙な冒険 ADVENTURE」第六話「報復の霧」にファトワーが出されたのか。出されたならどのような経緯であったか?
  • 共同報道以前に集英社に通知したのはどの報道機関なのか?

 話の側面を変える。
 今回の件で、日本のネットの動向を見たのだが、率直にいってどれも上記ソースを超える確かな情報はなかった。逆に不確か情報が迷路にようになっていたし、私もその迷路に戸惑ったがどれも考察に寄与できなかった。が、はてなダイアリ「空き箱」”ジョジョ話に関する英語報道”(参照)と”共同通信のジョジョ問題に関する記事について ”(参照)は事実が手際よくまとめられていて参考になった。
 集英社の今回の対処についてだが、私は妥当ではないかと思う。集英社としてはまさかアラブ圏に及んだ海賊版で、共同から”異文化への無知で波紋”(参照)と非難されると思っていなかっただろうし、制作年が01年であることも昨今の世界の様相とは異なる。参考までに共同の指摘はこう。

日本の人気アニメ「ジョジョの奇妙な冒険」で、悪役がイスラム教の聖典コーランを読む場面が中東のイスラム教徒の強い反発を招いた。世界的な人気を誇る日本のアニメ産業界が異文化圏の宗教や習俗についてあまりに無知であることや、国境を越えるインターネットの普及で、思わぬ地域に視聴者層が拡大したことが背景にある。

 それでも今回の対処が妥当だっただろうと私が思ったのは該当シーンを見たからで、これはイスラム教徒なら明らかにコーランの一節であることがわかるほど鮮明だったからだ。この不手際は弁解できないのではないか。
cover
ジョジョの奇妙な冒険
(1~7巻セット)
 次に、この事件を欧米がどう見ているのか、報道は日本ソースばかりなので、ブログを読んで回ったのだが、私が見た範囲では、なんで日本はこの問題で怖じけているのか、誤解をちゃんとはらすようにしたらどうかという意見が多かった。確かに、そのとおりだと頷けるのだが、その強気の背景には欧米が起こしたイスラム教徒非難にとられかねない漫画の問題と同じ構図がある。日本がそうした構図に載るのは少し違うのではないかという印象を持った。
 対処という点で、自分なり総じてみると、集英社も外務省も妥当だったかな、自分が要所の責任者なら同じことをしただろうなとは思った。

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2008.05.28

[書評]グーグルに勝つ広告モデル(岡本一郎)

 ブロガーのR30さん(参照)が久しぶりにエントリを書かれていて、しかも書評。良書らしいので、「グーグルに勝つ広告モデル マスメディアは必要か(岡本一郎)」(参照)を即ポチっと買って読んでみた。

cover
グーグルに勝つ
広告モデル
 私の評価は微妙。悪い本ではないのだけど、あちこち変な感じがした。その変な感じがうまく焦点を結ばない。著者がお若いせいかあるいは知的なバックグラウンドのせいなのか。例えば、章末などに名言がちりばめられているのだが、違和感を感じる。あえて重箱の隅をつつくように書くが(失礼)、例えば。

今日存ずるとも明日もと思うことなかれ。死の至ってちかくあやふきこと脚下にあり。
                孤雲懐奘『正法眼蔵随聞記』

 間違いとまではいわない。が、筆者はこの言葉が懐奘によるものではなく、道元の言葉を懐奘がパーソナルに書き留めたことを知っているだろうか。つまりこれは道元の言葉だ。孤雲懐奘『正法眼蔵随聞記』とは、孤雲懐奘編『正法眼蔵随聞記』の意味だ。そして、この引用は岩波文庫に収録されている和辻哲郎校訂であることを知っているだろうか。これはその四の八の部分で、書き写しに一点誤りもあるというか、文語に「至って」がないことはケアレスミスかも知れないが編集者にも素養がなかったかもしれないなという疑念もある。和辻哲郎校訂の原典は江戸時代の改訂である面山本であり曹洞宗はこれを使っているし私もこのバージョンが好きだが、今日ではより原典に近い長円寺本が研究され、この部分も微妙に違っている。しかしそうした細かいこともだが、この道元の言葉がどのような文脈に置かれていているかを理解したうえで、地上波テレビ局の衰退の章に置いのだろうか。原典の文脈を外したコラージュということなのかもしれないとしても、あまりよい趣味とは言えないだろう。古典というのは半可通がもてあそぶものではないとまでは言えないが、それをちりばめるのではなくその知恵の本質を血肉に変えて自分の文章に織り込んでいけばいいのに。
 用語もときおりあれと思った。「取引コスト」で。

 CMスキップに対する対抗策として、番組中に広告商品を露出させる広告手法=プロダクトプレースメントは、なぜうまくいかないのか、という問いですが、これは「取引コストが高くなりすぎる」というのがその答えになります。

 というように「取引コスト」が出てくる。経済学の意味かなとちょっと首をかしげると、こう続く。

 日本のテレビ広告市場は、年間2兆円を超えています。統計を見るとテレビ広告の一回の取引単価は0・2億円弱ですから、年間で10万回の取引をやっているということになります。

 ということで、「取引コスト」は経済学の意味ではない。もちろん、こういう文脈で「取引コスト」を使うことが間違いとも言えないのだが、一瞬戸惑う。
 内容にも関わるのだが、次のような話も、どきっとする。

 マスメディアは非常に完全性が強い業界で、不完全なサービスをパイロットすることを非常に嫌がりますが、新聞社には購読世帯というコネクティビティの強い顧客が数百万人単位でいるわけですから、これを活用しない手はないのではないでしょうか。

 いちおうそういう側面からの提案も理解できないわけではないが、「新聞社には購読世帯というコネクティビティの強い顧客」というとき、現実の娑婆では「新聞はインテリが作ってヤクザが売る」といった放言が聞かれることを筆者は知っているだろうか。知っていて捨象したのだろうか。しかし、この娑婆の部分にこそ新聞社が抱える大きな問題があることは、新聞以外のメディアからはもう白日の下にさられているに等しい。というあたりの齟齬感は読者の意見が違うというべきなのか。
 話が散漫になりぼやきばかりで申し訳ない。が、率直にあれ?と思ったことを続ける。例えば、クリエーターには、メディアの枠組みとコンテンツの両方を進化させる能力が問われるとして。

 そう考えていくと、技術とコンテンツの組み合わせをどういうタイミングでリリースしていくのか、というのが、非常に重要な論点になってきます。

 それは理解できるし、この先に、YouTubeが成功したのは技術的な条件が満たされるタイミングがj重要だとするのも理解できる。で、そこで、あれ?と思うのは、「6章 オンデマンドポイントキャスト事業の提言」で、テレビに対する視聴者のニーズは「タイムシフト」と「編成権」だとして、さらにかみ砕いて「見たいときに、見たいものを、見たい部分だけ、見たい」とし、さらに「とにかく前に動かす方向で議論を進めてほしい」「まずは始めてしまうことです」としているのだが、単純にオンデマンドは、先の技術の条件からすると、どのように技術的に成立するのか疑問に思える。インターネットは端的に言って無理だから、NGNが暗示されているのだろうか。そしてそれはNHKのようにさらなる有償モデルなのだろうか。
 こうしたあれ?あれ?というのが積み重なってふと気が付くと、本書の全体も見えづらくなり、大枠にも、あれ?という印象が深まる。例えば、テレビ、新聞、雑誌、ラジオといったマスメディアはアテンションを卸売りするモデルであり、ヤフーもそうだが、グーグルはインタレストを卸売りするモデルだというあたりだが、まったく理解でないわけでもないだが、それが書名の「グーグルに勝つ広告モデル」というコンプトとどう整合するのか。単純に考えれば、日本の広告業界ないしマスメディアが、グーグルのインタレスト卸売りモデルを超える可能性として理解できるだろうし、広告の打ち方のターゲットを絞れとしているのはその一環でもあるのだろうが、具体的にどうグーグルを超える広告モデルができるのかは見えない。そのうちに、マスメディアの存続に話題が流れていくようにも見える。
 マスメディアの例として新聞の存続では、インターネットの対比から、新聞では「オピニオン軸での差別化」や「マイクロエリア/嗜好(しこう)軸での差別化」が出るのだが、ここでも、「あれ? それはむしろブログやSNSのほうが強いのではないか。そしてだからこそ、グーグルは検索エンジンにブログへのバイアスを高め、そしてSNSへの追撃を狙っているのではないか」などと疑問が湧く。
 さらにグーグルが語られているわりにそれを含んだ昨今のグローバルな広告の問題には触れていないように見える。あえて触れていないのだろうか。

 オンデマンドポイントキャストは通信を用いますから、クライアントごとにダイナミックにコンテンツを切り替えることが、技術的には可能になります。この特性を利用して、視聴者一人ひとりのプロファイルに基づいたターゲッティング動画広告を展開かできないか、というのが、筆者の考え方です。

 という考えがこそ、このグーグルがこの一年EUで起こしたすったもんだに深く関わっていた。結局グーグルはその逆にプライバシー強化として市場を安定させる方向で進もうとしている。
 なんだか難癖を付ける話ばかりになったが、ある意味でコントロヴァーシャル(controversial)であることが本書の価値であるかもしれない。
 最後にもう一点、私はメディアはむしろ人に従属すると見て、そこからマスメディアや、マイクロトレンド的な視点を持つほうがよいのではないかと思う(というか本書の大半はマイクロトレンドで解けるようにも思えた)。そうすれば、セブンイレブンの商品棚もメディアとして扱えるだろうし、具体的に新聞などについては、戸配よりもセブンイレブンに吸収させてしまうほうがいいだろうといった視点も開ける。つまり、セブンイレブンのようなコミュニティ的な場そのもの(SNSなども含めて)が、広告対象のピンポイントメディアになりつつあると考えている。

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2008.05.27

日本の備蓄米放出の話

 多少時期を逸したけど今日のワシントンポストの社説を読んで思い出した。簡単に食糧危機と日本のコメ問題をメモしておきたい。話はまずニューズウィーク日本版5・21「真犯人は愚かな農業政策だ(It's the Stupid Politics)」がよいだろう。英語版は無料で読める(参照)。全体の概要はリードでわかるだろう。つまり、「先進国の農業補助と途上国政府の無策がこの危機を招いた」と。英語のほうのリードは"The world's poor are paying the pirce for years of bad goverment policy in agriculture.(世界の貧困は歴年の悪農政の対価を払っている)"。冒頭が面白い。


 コメを輸入する必要などないと、多くの日本の政治家は考えている。実際、昨年の国内の収穫高は国内の需要を大幅に上回った。コメ生産農家を国際競争から守るのは、自民党が長年貫いてきたポリシーだ。
 輸入米は何年でも倉庫で寝かされることが多い。その後で加工用に使われたり、援助食糧として外国に送られたり、家畜の飼料になったりする。
 日本がコメを輸入する理由はただ一つ。WTO(世界貿易機関)の言うことを聞かなければならないからだ。93年に妥結した農業交渉で、日本は年間の国内コメ消費量の4~7・2%を輸入しなければならなくなった。
 昨年は77万トンを輸入。世界のコメ価格を上昇に向かわせた一つになった。
 「自由貿易の番人」であるWTOに言わせれば、日本がコメ市場を開放するのは当然のことだ。日本と韓国は農家を手厚く保護しているため、消費者は主食の米を世界の平均より3~4倍も高い価格で買わされている。こうした閉鎖的な政策により、途上国の農家は日本のコメ市場に参入できず、貧困が解消されにくい状況になっている……。

 と、この先がある。そう驚くほどの展開でもない。

 だが、ようやく開放された日本の市場でコメを売って大きな儲けを得たのは、米政府から手厚い保護を受けているカリフォルニア州のコメ生産者だった。
 95年以降、日本の輸入米のざっと半分をカリフォルニア米が占めている。同時期にカリフォルニアのコメ農家に米政府が与えた補助金は20億ドルに登る。

 知っている人には知っているごく当たり前のことなんだけど、意外に知らない人もいるかもしれない些細な逸話といった感じ。いや、つまりこれがアジアの貧困の要因の一つでもある。
 ニューズウィークはさらに途上国側の農政の問題を挙げるが、これは「極東ブログ: コメ急騰問題メモ」(参照)とそれほど変わらない。のでそこは省略。
 アフリカ開発会議とかやってアフリカの貧困とか日本の新聞とかは話題にしているけど。

 マイク・ムーアWTO元事務局長は新多角的貿易交渉(ドーハ・ラウンド)の早期妥結を訴える。妥結すれば、13年までに農産物の輸出補助金が打ち切られることになるだろう。
 それによりアフリカが受ける経済的な恩恵は「債務経済と開発援助をすべて合わせた金額の4~5倍にのぼる」と、ムーアはみる。

 自由貿易を緩和するほうがナンボか援助になるはずだが、あまりそういう議論は聞かないというか、聞かないわけもないけど、なんとく別の話が喧しい。
 記事の結語がまた秀逸。

 EUは近年、90年代には150億ユーロだった輸出補助金を減らしており、昨年は30億ユーロを切った。だが食糧危機を解決するには、世界各国がもっと大胆な変革に乗り出す必要がある。
 日本の倉庫で眠っている莫大な古米を見るかぎり、道のりは険しそうだ。

 ほいで、ワシントンポストの話に移る。19日付け”Release the Rice”(参照)では。

AS PRICES rise on global commodity markets, U.S. agriculture policies that contribute to higher food costs are coming under fire -- especially subsidies for ethanol production. That criticism is warranted. But this country does not have a monopoly on irrational food policy. Consider Japan's rice mountain.

(世界の商品市場の価格上昇で、食料価格高騰による米農政が問題になっている。特にエタノール生産への補助金が問題だ。批判は当然だ。しかし、米国は非理性的な食糧政策を独占しているわけではない。日本のコメの山を考えよ。)


 ということでちょいと日本の内情に色目を使ったあと(そりゃね)、日本のコメを巡る状況に触れて、こう来る。

This is crazy. Though they've edged down lately, rice prices have risen by about 75 percent since the beginning of this year, causing real hardship in the Philippines and elsewhere.

(気が狂っている。コメの価格は最近やや下げてきたが、コメの価格は年初に比べて75%も上がり、フィリピンや他の地域に問題を起こしている。)


 日本農政はcrazyと。そういえば、ニューズウィークのほうはstupidだった。まあ、そんなもの。

Japan could help. Its stockpile of imported rice now stands at 1.5 million metric tons. That is enough to feed 24.5 million Japanese for a year, at current average rates of consumption. But since the Japanese don't want to eat it, perhaps they could let other people have at least a taste. Instead of turning the rice into animal feed or, even sillier, ethanol, the Japanese should release it to the world market. That alone wouldn't cause prices to plummet. But it might undercut the export bans other countries are trying to sustain. At a time when so many people in East Asia are going without, the United States should not object, despite its past insistence that Japan use imported rice for domestic consumption. It is in no one's interest for wealthy Japan to be the world's No. 1 hoarder.

(日本は援助ができるはずだ。輸入米の山は今や150万トンある。現状の消費ならこの量は向こう一年2450万人を十分食わせることができる。日本人がそれを食いたくないなら、多国民が味わうことができるはずだ。動物の餌にしたり、愚かしいエタノールに転換する代わりに、日本人はそれを国際市場に放出すべきだ。それだけでは価格を下げることにはならないだろうが、他国の輸出規制維持は切り崩せるかもしれない。過去において日本に対して国内消費に輸入米を回せと米国は主張したが、東南アジアの諸国民に欠乏がある現在、米国は反対すべきではない。富裕な日本にとって世界買いだめナンバー1になることは誰のためにもならない。)


 そりゃなというのが19日のこと。日本政府はワシントンポストが言うほど気が狂っているわけでもないし、米国もそうなので、事態はやや好転した。
 23日日経新聞”フィリピンへの支援米、米国からの輸入分で・米側も容認”(参照)より。

日米両政府は23日、市場価格の高騰でアジアを中心に不足感が強まっているコメの国際需給について、米農務省で対応策を協議した。日本はフィリピンからの要請を受け、同国に対し、主に米国から義務的に輸入・保管している「ミニマムアクセス(MA)米」から20万トンを提供する方向で検討している状況を説明。米側は「日本の取り組みを支持する」とし、容認する考えを表明した。

 米国が「容認」というのは、ワシントンポストが触れているように、それお前ら食えとか言っていた手前があるからだ。日本としても、米国様の顔色をうかがうと。24日付け朝日新聞”フィリピンへのコメ支援、米国からの輸入米でも容認”(参照)はそこも補足している。

 協議の対象は93年のウルグアイ・ラウンド合意で日本が輸入を義務づけられた「ミニマムアクセス米」。年間輸入量約77万トンのうち米国産が5割程度を占める。米側はこれまで「輸入米は日本国内で消費されるべきだ」と主張してきたが、人道支援目的に限って容認する方針に転換した。米議会などからも日本などに対し、国内産も含めた備蓄米の放出を求める声が出始めていた。

 もうちょっと補足すると、AFP”食糧危機対策、日本の備蓄米に世界が注目”(参照)より。

 ただし、備蓄されているこれらの輸入義務米を国外に売却するためには、日本は輸出国の承認を必要とする。

 いずれにせよ、20万トンを放出。ワシントンポストが触れたように各国の規制への緩和的効果はあっても目下の食糧危機にはあまり効果はない。AFPの説明は正しいだろう。

 しかし観測筋は、日本の思い切った備蓄米放出がない限り、フィリピンのコメ不足は解消されないだろうとみる。大和総研(Daiwa Institute of Research)のアナリストは「10万トンや20万トンの放出では効果は限定的」と厳しい見方だ。このアナリストによると、フィリピンにはパキスタンその他の国からの輸入米のほかに、日本から60万トンの輸入が必要だという。

 きつくキチガイだろ日本と名指しをしたワシントンポストだが、その後、ちゃんと仁義は切っている。今日付”Release the Rice (II)”(参照)より。

KUDOS TO the government of Japan, which we recently urged to sell or donate a substantial portion of its massive stockpile of U.S.-grown rice.

(日本政府に賞賛を送りたい。私たちは先日米国米の大量の備蓄のかなりの部分を売却するか供与せよとしたことゆえにだ。)


 このあと、ワシントンポストはブッシュ大統領にも賞賛を送っている。私はこういう米人のさっぱりとしたところが好きだな。
 ワシントンポストによれば20万トンは想定した効果はあったようだ。そして、もっと放出せよという。私もそう思う。
 もっと日本はきちんとアジアやアフリカの人の飢えを助けるべきだ。

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2008.05.25

[書評]あなたの職場のイヤな奴(ロバート・I・サットン)

 「あなたの職場のイヤな奴(ロバート・I・サットン)」(参照)を読んだ。

cover
あなたの職場の
イヤな奴
 読んだ理由を忘れたが良書だった。ある意味、ごく普通の経営書でもある。私は普通に書店で買ったのだが、献本速報の弾小飼さんあたりがすでに書評していいんじゃないのか、なぜ漏れたんだろうと疑問に思って検索したら、いや、すでに、あった(参照)。というわけで、私がなんか書くほどのことでもないかなと思ったが。弾さん指摘に首を傾げたのをきっかけに少し書いてみよう。弾さんの指摘はこう。

本書に「クソッタレから逃げろ」という対処法が出てこなかったのが不思議であったが、それは本書の欠点というにはあまりにささいなものであろう。

 というのはあれ?と思った。私の読書としてはそこはちゃんと書かれていると思ったからだ。たとえば。

逃げろ、無理なら近づくな --- 予防法2

(略)
〈ダ・ヴィンチ・ルール〉はこんなときにも役立つ。大切なのは、できるだけ早くその職場から逃げ出すことだ。
(略)
 たとえば、クソッタレが出席するミーティングにはできるだけ行かない。クソッタレから質問された場合はできるだけ返信を遅らせ、できることならあまり答えない。クソッタレとのミーティングをどうしても避けられないときには、できるだけ短く切りあげる。このようにしてクソッタレから逃げたり隠れたりすれば、機嫌の悪さをうつされる危険をぐっと減らすことができる。
 ただし、これを実践するためには、小学校で教えこまれたこと --- いわく、「よい子は自分の席から離れない」「授業がいくら退屈でも我慢する」「先生がどんなに嫌なやつでもとにかく耐える」などなど --- を忘れる必要がある。
 わたしたちの多くは、大人になってからもこうした教えを振り払えずにいる。そのため、会話中やミーティング中にクソッタレから逃げ出すのは悪いことであるかのように感じてしまう。


 というわけで、弾さんの疑問はきちんと書かれていると思うし、これってあたりまえの人にはあたりまえのことだけど、青少年期に優等生だった人には行動パターンに染みついていてなかなか抜けないし、善人オブセッションや母親オブセッションの人なんかもなかなか抜けきれないものだ。露悪的に書くけど、自分を愛してくれた人、助けてくれたという人が実はただのクソッタレであることを心理的に認めたくないという無意識があるとけっこう最悪になる。つまり、そういうことなんだよ。
 ところでクソッタレ(asshole)とはなにか。ショートバージョンではこう。

基準1/ その人物がつねに他人を貶め、やるきを喪失させる人間かどうか?
基準2/ その人物がつねに自分より力の弱い(もしくは社会的地位の低い)相手を標的にしているかどうか?

 簡単にさらにまとめると、口答えできないポジションの人なのに、合うといつもやな感じにさせられるというヤツがクソッタレということ。
 あれですよ、ネットなんかによくいる、「テラワロスw」とか書いていそうな人。他者に悪意をまき散らさずにはいられない人。
 でも、正確にはそうではない。
 どう違うかというと、ネットは職場とは違って、人間関係で明示的な上位のポジションということはないからだ。本書を読みながら、ネットに溢れるクソッタレをどうしたものかな、どうしようもないだろなと思ったのだが、ネットは職場とは違って上位ポジションはないけど、匿名でいることがややそれに近いかもしれない。その意味で、匿名でテラワロス発言をするのはクソッタレFAなんだけど、まさに特定されないのであまりそう考えても意味がない。つまり、ネットのクソッタレ問題にはあまり適用できないように思った。
 職場とネットに少し関わる部分としては、次は参考にはなる。

 もしあなたの働いている部署にクソッタレがはびこっているとしたら、メールや電話はあなたを彼らの悪意から守ってくれるどころか、問題をさらに大きくしてしまう危険がある。それを避けるには、仕事仲間と直接顔を合わせる時間をつくり、相手が直面しているプレッシャーを理解し、より大きな信頼関係を築くように努力する必要がある。

 ただ、その対応法もどちらかというと経営者の力量に拠るだろう。現実には、経営者がクソッタレだったり、ぼんくらだったりして、クソッタレ被害にあった人間を包み込もうとする人間関係の基盤がない職場のほうが多い。
 それと本書は、実は、べたな経営論であって、職場や会社のなかのクソッタレをどう管理するかということがテーマで、あからさまに言えば、本書は管理者向けの本だ。毎日クソッタレに向き合わされて困っている人にはそれほどには役に立たない。逆に、有能な管理者は本書を読まなくてもクソッタレの被害を算定できる。ちょっと横道にそれるが、基本は人事だろうし、人事以外では、経営がきちんと開かれていると自然にクソッタレの生息は減少するものなので、そうではない閨閥的な企業や閨閥的な官僚なんかのほうがクソッタレ満載になる。
 本書は管理者向けの本だから、日々クソッタレに向き合わされて困っている人にはあまり役に立たないのではないかと書いたが、でも先の予防法などはそれなりに役に立つ(ただ、その予防法も、実は、経営の立場と、クソッタレに苦しめられている立場が多少混同されてはいるようだが)。
 先に紹介した予防2には、〈ダ・ヴィンチ・ルール〉が出てきたが、これはこういうこと。

かのレオナルド・ダヴィンチも言っているとおり、「最初に抵抗するほうが、あとになってから抵抗するよりも楽」なのである。

 実際にはそれは微妙かな。浅薄に書くとよくある釣りっぽい話になってしまう。でも以下はけっこう言えている。

自分が足を踏み入れようとしている職場がどんなところかしっかり見きわめ、もしクソッタレの巣窟だとわかったら、たとえどんなに待遇が魅力的でもその仕事につくべきではない。

 この部分あたりは本書の白眉とも言えるので、気になる人は立ち読みでもするか買って読む価値はあると思う。
 本書はいろいろ啓発されるところが多いが、個人的には、以下の話が奇妙に心にひっかかった。クソッタレというのは先天的なものなのではないかという疑いだ。著者サットンはかなり控え目に提起し単純に肯定はしていないが。

 子供時代にいじめっ子だった人間が職場でもいじめをする傾向が強いかどうか、はっきりとした調査結果が出ていない。しかし、オルヴェウスの調査は、子供のころの卑劣さが大人になるまで尾を引くことを示している。

 クソッタレの根にある卑劣さというのは、私の人生観察でもかなり先天的なものではないかと思う。ただ、卑劣さがそのまま先天的というより、卑劣さになりうるなにかが先天的なのであって、その何かは集団においてある種のメリットを持っているのだろう。たぶん、支配についての経済学的なものだろう。
 サットンは、クソッタレの存在意義・メリットについても触れている。クソッタレは、撲滅してしまうのではなく、ある程度の閾値以下にしておくほうが、経済学的にメリットが出そうだ。そのあたりに、クソッタレという表現形を持つなんらかの先天的傾向が関係するのかもしれない。
 そういえば、本書では、スティーブ・ジョブズを、単純に排除してはいけないクソッタレの例としてあげている。彼を長年ウォッチした人ならその評価に異論はないだろうが、彼は閾値で管理すべき凡庸なクソッタレとは違う。そのあたりの有能なクソッタレの問題は、実は、さらに大きな問題が潜んでいるかもしれないし、イノヴェーターは多分にクソッタレであるものだ。
cover
The No Asshole Rule:
Building a Civilized Workplace
and Surviving One That Isn't:
Robert I. Sutton
 とはいえ、全体として、ある種の会社はクソッタレを排除するシステムを円滑化することでかなりの利益に貢献できるはずで、私たちの身近な接客サービスのインタフェースでは実はかなり、このクソッタレ排除ルール、No Asshole Ruleが、すでに、実装済みになっているようだ。

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