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2008.05.24

[書評]もういちど二人で走りたい(浅井えり子)

 読もうと思って過ごしてしまった本がいくつかある。そして時代が変わってしまって、世の中がその本のことを、まったく忘れたわけでもないのだろうけど(人の心に深く残るのだから)、あまり読み返されない本はある。絶版となり復刻されない(そのまま復刻すればただ誤解されるだけだろうし)。文庫にもならない。それはそれでよいのかもしれない。世の中とはそういうものだし、そういうふうに世の中が進むのにはそれなりの意味もあるのだろうから。ただ、私はあまりそうではない。

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もういちど
二人で走りたい
浅井えり子
 「もういちど二人で走りたい(浅井えり子)」(参照)は読むつもりでいて失念し、いつかあっという間に時が過ぎた。私が沖縄に出奔したころ話だ。癌になって余命いくばくという佐々木功は前妻と離婚し、教え子の浅井えり子と結婚した。純愛のような話題にもなったし、私は引いた奥さんは、愛川欽也の前妻でもそう思ったが、偉いものだなとも思った。ただ、こういう話に仔細はあるだろう。気にはなっていたけど、関心をそこに向ける余裕はなかった。
 先日、「極東ブログ: [書評]ランニングとかで参考にした本」(参照)で浅井えり子に触れたおり思い出して読んでみた。
 年齢差はどのくらいだっただろうか。佐々木功(参照)は1943年2月2日生まれ。95年3月13日に死んだ。一週間後にサリン事件なるのでその話題でその死の話題は多少霞んでいたように思う。浅井えり子(参照)は1959年10月20日生まれ。私より2歳年下だが、だいたい同年齢代と見ていい。本書を読みながら、同時代を生きた歴史の感覚はある。佐々木との年齢差は15歳。娘ほど違うというほどではない。
 浅井が日本電気ホームエレクトロニクスで佐々木の指導下に入ったは22歳のころ。佐々木は37歳か。まだ30代だった。厄年の前でもありいろいろな焦りはあっただろうと思う(小学生くらいのお子さんがいたのではないか)。37歳の男にとって22歳の女はたぶんよほど幼く見えたのではないか。
 佐々木は岩手県立美術工芸高校(現岩手県立盛岡工業高等学校)卒業後いったん職についてから22歳で東洋大学に入学し箱根駅伝などで働いた。その後、リッカーを2年で退社し、東洋大学陸上部の監督となる。28歳であろう。監督時代に結婚したらしい。30歳過ぎくらいだろうか。そして奥さんは学生のランナーだっただろうか。なんとなくだが、8つくらい年下の女性を思う。お子さんは二人いる。
 佐々木と浅井がコーチと選手ということで意識し出すのは、本書では82年のペナンマラソンとのこと。その頃浅井は鉄欠乏性貧血になり、食事に注意をしない彼女に佐々木が激怒し、指導を強めるのだが。

一年間も指導を受けて、まともな食事ひとつできなかった私の、口だけの報告では信用できないらしく、夕食をのぞきにアパートを訪れるようになる。練習が終わると、夕食のチェックのために私のアパートに来て、そのままビールを飲みながら、二人で陸上の話をする。そして十時になると帰っていく。それは、しだいに、日課になっていった。

 単純に言えば非常識きわまりないのだが、佐々木という人は、真性の陸上馬鹿であったし、すべてをそこにつぎ込んでしまう人でもあった。が、私はそれを否定しないまでも、少し残余を思う。
 この関係の描写は、本書が出て15年してみると、ある種時代に取り残された、薄気味悪い印象もある。だが、この関係性の風景はそう昔の風景ではない。

「俺は、悪いことをしているわけではないのだから、コソコソする必要はない。本気でおまえを強くしてやりたいんだ」
と言って臆することがなかった。
”本気の思い”というのは、時として”怖い”。
「俺がこれだけ真剣なのに、おまえには、その気持ちがわからないのか!」
 口ごたえして殴られたことは数え切れない。私自身、思ったことを我慢できない性格なので、ついついよけいなことを言ってしまい、怒られた。監督の殴り方はハンパじゃないの。唇が切れたり、顔が腫れて、会社を休まざるをえなかったこともある。

 ただ一方的な関係ではなかった。

 何度も傷つけられた復讐というわけではけっしてないのだが、実をいうと、私も監督を何度となく”痛い目”にあわせている。ビールは好きだが、すぐ酔っぱらってしまう私は、酔うと始末が悪い。あるとき、陸上部の飲み会の帰り、歩けなくなった私がいきなり「おぶって」と、酔っている監督の後ろから抱きついて、アスファルトの上にモロに顔面から倒してしまい、監督の額にダラダラ血が流れるほどのスリ傷をつくってしまった。またあるときは、酔った私に突き飛ばされ、そのはずみで、店のビールケースで胸を打った監督は、肋骨にヒビが入り、しばらく痛みに苦しんだ。

 こういう関係がある意味で普通に見える時代があった。
 浅井は84年名古屋女子マラソンで4位、84年東京国際女子マラソンでは2位となりトップランナーの名声を得る。そのころは、二人とも田町勤務となり毎朝笹塚で落ち合って走りながらの通勤となった。浅井24歳、佐々木41歳。「ゆっくり走れば速くなる マラソン・マル秘トレーニング (佐々木功)」(参照)の出た年だ。ある意味で、二人の絶頂期だったかもしれない。
 浅井は30代に入り、長いスランプのような状態に陥る。同棲ということはなく佐々木は十時には自分の家に帰るということではあったが、すでに彼らは事実上の内縁関係にあったと見てよさそうだ。佐々木はこう言う。

「いま、ここで逃げ出してしまったら、すべてが中途半端に終わってしまい、何も残らなくなるんだぞ。それじゃ世間から、不倫のレッテルを張られたままで終わってしまう。何でもう少し、がんばれないのだ」

 男として最低の言葉だなと私は思う。結局、佐々木という人間は浅井を自分の理論のための実験として見ていただけなのだろうかとすら思う。ある意味不快な気持ちにもなるが、彼らの人生はそこで終わらないからこの言葉が女から漏れた。
 浅井は復活した。しかも30代半ばで。94年名古屋国際女子マラソンで優勝する。
 浅井の意地だろうし結局は愛というものだろうと思うと同時に、そこでしばし、いやそれは佐々木の愛かもしれないと思い直し、「愛」というキーワードにある困惑を覚える。
 その年に、佐々木は倒れた。がんが彼を蝕んでいた。
 なんなのだろうと私は思う。人生は物語ではない。しかし、物語のようにしか見えない人生というものがある。
 厚労省は単なる慢性病、しかも遺伝的影響の強い慢性病を「生活習慣病」と言い換えて健康を自己責任化に見せつつ、国民の身体管理を始める時代になった。が、病というのは、人生の物語に仕組まれているものではない。ある程度生きてみると、致死の病というのは、天災のように不運でもあり、そしてどことなく物語のようでもある。精神科医頼藤和寛は世間の悩みを飄々と聞きつつ、自らを蝕む癌も知らずに「人みな骨になるならば―虚無から始める人生論」(参照)を書いていた。彼は53歳で死んだ。
 理性的に考えれば、佐々木の52歳というにはなんら物語的な理由はない。ただ、時代から残されてしまえば物語のように見えるし、物語であることで、「愛」という言葉に再定義を迫る、人の経験というものを残す。

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2008.05.22

[書評]ランニングとかで参考にした本

 なんとく走り出した。「極東ブログ: [書評]走ることについて語るときに僕の語ること(村上春樹)」(参照)を書いてたころは自分が走るとは思っていなかった。水泳も依然やっているし、それほどスポーツしたいとか体を鍛えたいわけでもない。ただ、なんとなく走り出したのだった。
 もちろん、無理はできない。悲しいかな、俺、50歳だし、気が付けば。初老の部類か。健康のためならウォーキングだろう、普通、と思うのだが。まあ、いいや。シューズを買って、ウェアを買った。俺って、走れるのだろうか。走ってみた、もちろん、走れないことはない。無理はきかないだろうなと思いつつ、歩道を4キロを走る。へぇ、走れるか。このまま、走るのだろうか。わからない。
 私は中学・高校と陸上部にいた。選手になる気はなくて、小児喘息だった自分がどのくらい体を動かせるかみたいな感じでやっていた。訓練すればクラスで2番目くらいの俊足なる。へぇと思った。その後は、陸上みたいなことはしていない(と思っていた)。50歳で走ってみると、当時のことを思い出した。14歳とか15歳の自分。そんな自分が自分のなかに生きているような感じもする。
 いちおう走り方は知っているし、無理する気もないのだが、それでもこの間時代は変わったので、ランニングとかのセオリーも違うかもしれない。参考書とかないだろうか。一般向けでいいからと探した。わからない。

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金哲彦の
ランニング・メソッド
 アマゾンでつらつらと見ながら、いかにもスタンダードで評判良さそうなので「金哲彦のランニング・メソッド(金哲彦)」(参照)という本を買ってみた。読んでみた。わからない。読者評に「小難しいことは一切書いてなく、『肩甲骨、丹田、骨盤』の三つを意識する、をしっかりと守ることで綺麗なフォームで歩け、走れるようになるといいます」とあり、たしかにそう書いてあるのだが、はて? 丹田? なんだか中級・上級者向けの書籍なんだろうか。そのわりにはあまり理論的なことは書いてないような気がする。自分には合わなかったのだろうか、それともいずれ役に立つときがくるだろうか。金哲彦という人もまるで知らない。その世界では偉い人なんだろうか。いや私は何にも知らないな。

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ゆっくり走れば速くなる
佐々木 功
 そういえば思い返したのだが、以前「ゆっくり走れば速くなる マラソン・マル秘トレーニング (佐々木功)」(参照)を読んで感銘を受けたことがある。いつのころだろう。この本が出たのは84年なのでそのころには違いない。その頃、自分は走っていただろうかと思い出して、ああ、皇居の回りとか少し走っていたことを思い出した。なんか記憶が消えているな。この本は実家にあるか処分してしまったか。ただ、読後の記憶からするとLSD(Long-Slow-Distance)でよいという以上のプラクティカルな話はなく、どちらかというと選手向けだったような気がした。水泳とかサイクリングも取り入れろとか。

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ゆっくり走れば速くなる
浅井えり子
 そうしてアマゾンを見ていて、佐々木の指導を受けた浅井えり子の「ゆっくり走れば速くなる(浅井えり子」(参照)を見つけた。私はけっこう浅井えり子が好きだったのだった。お弟子のスジからお師匠の本を、あるいは愛というか夫というかまあ、そういう情熱か、いずれにせよ、理論がプラクティカルにリニューされているといいなと思って読んでみた。佐々木の本とはすごく違っているという印象があった。そして佐々木の本よりわかりやすい。なるほどそうだったのかと思うことがいろいろあった。特にLSDは自分が想定したよりはるかに遅いし、遅いことで身体を意識させる……フェルデンクライスみたいだなと。これは参考になった。ただ、後半の選手向けのトレーニングは私には要らないし、50歳向けでもない。なにより医学的な知見はないなと。もうちょっとスポーツ医学的な部分が知りたい。

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賢く走るフルマラソン
田中 宏暁
 そこで次に読んだのが「賢く走るフルマラソン―マラソンは「知恵」のスポーツ(田中宏暁)」(参照)。この人についてもまったく知らないけど、お医者さんらしいし、47歳から初めて今では60歳近いらしい。なんかためになるのではと思った。ためになった。なるほどねということがいろいろあり、自分なりにアレンジしてみた。LSDとは書かれていないが、LSDの考え方とも矛盾しないので、本は買ったけど迷うだけに終わったということにはならなかった。こちらの本もフルマラソンを意識しているので、当面私には関係ないし、あとお医者さんの割にそれって医学?みたいな仮説も入っているので、ある程度は自分なりの科学知識で差し引きして読んで参考にした。

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スポーツ選手なら
知っておきたい
「からだ」のこと
小田伸午
 ついでなので、ランニングという文脈ではないけど、話題だったし水泳とかで勧められたりもしたので「スポーツ選手なら知っておきたい「からだ」のこと(小田伸午)」(参照)も読んだ。これが微妙な本だった。著者はスポーツ医学の第一人者らしいのだが、これってどっちかというとトンデモ本ではないのかという印象がぬぐい去れない。ただ、それをいうなら佐々木功のLSDの本も当時はトンデモ本かもしれないと思ったし、浅井えり子という実践者がいなかったらトンデモ・セオリーだったかもしれない。この本については実によくわからん。私がフェルデンクライスで学んだことと違うことが多いように思えるのもそうした抵抗感だろうか。ちょっとまいった。

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2008.05.21

[書評]霞が関埋蔵金男が明かす「お国の経済」(高橋洋一)

 3月に講談社刊の書籍について、「極東ブログ: [書評]さらば財務省! 官僚すべてを敵にした男の告白(高橋洋一)」(参照)を書いたが、本書「霞が関埋蔵金男が明かす「お国の経済」(高橋洋一)」(参照)は、その高橋洋一による文春新書。

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霞が関埋蔵金男が
明かす「お国の経済」
高橋洋一
 内容的には講談社本に被るところがあるが、視点はぐっと身近な経済学に寄っているのと、インタビュー書籍であるが、インタビューアが高橋の業績をよく知っているらしく、要領のよい質問を繰り出しているので新しい価値がある(ただ、見出しがいくつか変なので編集の不手際は感じる)。
 帯に「新日本経済入門」と「高校1年生~財務官僚・日銀マン向き」とある。どちらも皮肉ではあるが、確かに高校一年生でも読めるだろうし、高校一年生ならこのくらい読んでおいたほうがいいだろう(大学生なら必読かな)。
 ただし、この本で経済学がわかるといった類ではないし、ある意味で最先端の経済学のプラクティカルなエッセンスだけなので、「なぜそうなるのですか」という部分については、私を含め、普通の大人でも答えられないだろう。それでも、ある程度、グローバルに経済を見ているなら(グローバル経済ということではなく)、これらの経済学知見はそれほど常識に反するものではない。が、日本のジャーナリズムの常識に反する部分は多いかもしれないのが、高校生一年生に読ませるときの問題かもしれない。
 「まえがき」がそこをずばりと言っている。

 最近よくマスコミに出てくる言葉として、埋蔵金、道路特定財源、財政再建、日銀総裁人事、公務員制度改革、地方分権などがあります。これらについてどのくらい語ることができますか。
 いくつかのキーワードとちょっとした経済理論がわかれば、簡単ですよ。経済学なんて役に立たないと思っている人は多いでしょう。でも、複雑な経済問題を理解するためには本当はけっこう役に立ちます。

 として日本の目下の課題を最新の経済学的な知見でばさばさと切り込んでいく。
 私は本書を読みながら、「ああそうだ、そう表現すればすっきりするな」とか、「その知識を最初に得ていたらよかったのに」と、随所で思った。
 読みながら違和感がないわけでもない。例えば、道路特定財源の問題だが、そもそもガソリン税をどう考えるか。高橋はこれを「ピグー税」(参照)としている。ああ、なるほどそう考えるとすっきりするなとは思いつつ、ガソリン税が導入された経緯としては、それは違うだろうなとも思える。いずれにせよ昨今の状況ではピグー税として位置づけるのでよいと思うし、すっきりする。
 「マンデル・フレミング理論」(参照)も、これまでわかんないしモデルが単純過ぎるから現実には合わないのではないか、「極東ブログ: [書評]「陰」と「陽」の経済学―我々はどのような不況と戦ってきたのか(リチャード・クー)」(参照)も専門家としていちおうそれを踏まえて反対しているのではないか、などと思っていた。しかし、高橋がばっさりと言い切ると、そう考えたほうがわかりやすいなと、そそくさと軍門に下るの感がある。
 為替介入にしても、「極東ブログ: [書評]デフレは終わらない 騙されないための裏読み経済学(上野泰也)」(参照)を読みながら、この理解でいいのかなと不安でもあったが、高橋がばっさりと説明すると、ふん、それでいいかと納得する。いや、ちょっとこの問題はまだ疑問が残るか。
 「国際金融のトリレンマ」(参照)についても、私はこれは経済の範疇であるが、経済理論というより国際政治的な合意の問題ではないかとなんとなく思っていた。しかし、これも高橋が単純に言い切るほうが正しいと思えた。このあたりそれで納得すると、日本てなんて変な国なんだろうというか、その変な理由もなんとなくわからないでもない。
 どれもそれほどはっとする知見というわけではないが、なるほどなあ、もっと経済学をシンプルに見ていいのかとは思った。

 経済学は一日一日はわからないけど、半年くらいのスパンをとればけっこう当たるものです。

 というのは確かなのだろう。ただ、これも率直に言うけど、経済学で現在世界のキチガイみたいなホットマネーが扱えるかというと私は依然疑問符ではあるけど。
 あと2点。
 「極東ブログ: 祝日本インフレ、日本賛江、フィナンシャルタイムズより」(参照)については、あの状況下で日銀がまた大ポカしそうという文脈ではシリアスだけど、概ねのところでは洒落もあるなとは思った。どのくらい洒落かというと、そこの見極めは難しく、逆にどっちかというと、全体的にはインフレ的な傾向にはなるだろうからいいのではないかとは思ったのだが、本書の高橋の説明はすっきりする。

 海外の物価が上がったときは、お金を国内から海外にとられる。つまり、海外の物価が上がるということは、国内の所得が減るということだよ。
 だから、国内の所得を埋める分だけお金をつぎ込むんだ。ガソリン価格みたいなもので輸入物価が上がったときは、実は金融緩和なんだよ。
 国内の物価が上がったときには引き締めなんだけど、海外の物価が上がってそれが国内に波及するようなときには、金融を引き締めないと大変なの。

 私なんかでは、単純に、ほう、そうか、とか思う。まあ、このあたりは完全に腑に落ちるというものでもないのは、やはり経済学的に納得しているというわけではないからだ。
 そうした、なるほどそれが正解だろうなと思いつつ、きちんと自分で経済学的に説明できるかとなると、できそうにないなという隔靴掻痒感は多い。でも、本書は、普通の人には必読だろう。これだけ単純に説得力ある本は読んだことがない。
 消費税については、私は現状ではどうにも動けないでしょくらいに思っていたが、高橋はこれを地方分権から見ていく。消費税は本質的に国税か地方税か。

 消費税はどっちになるか分かる? たぶん地方税になっちゃうよ。消費税みたいな安定的な財源というのは、本来、マクロ経済政策がなくて景気対策ができない地方が安定的に行政をするためのものなんです。

 そうかなとちょっと疑問を抱きつつ、でも米国では州法の規定が強いところを見ると、たしかにそうだ。州というのは地方分権と同じだ。
 そしてそう考えない日本国について。

 これに対しては財務省は反対でしょう。せっかく財務省が必死になって導入した消費税を地方に渡せないという議論がある。
 それが嫌だから、消費税を社会保障の税財源という目的税にしようという話を打ち上げているという噂も出ている。社会保障税にしておけば、国が社会保障の地域間バランスを保つという名目で、国税にしておけるから。

 高橋の真骨頂は、意外と経済ではなく、この地方分権への情熱にある。なぜなのだろうかと、率直なところよくわからない。
 私は金融政策のテクニカルが議論が実は好きではない。国家を操作するという発想にどうも不愉快を感じる。私は、基本的に国家なんてものは小さければ小さいほどよいと考えるからだ。
 高橋がそういう国家と金融問題のプロ中のプロでありながら、ここまで確固たる分権主義者であるのはなぜなのだろうか。

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2008.05.20

小中学生の携帯電話利用についてなんとなく考えたこと

 問題の全体像というか問題の感触がつかめないのと、とりわけ自分に確たる意見もないので、なんとなく書かないでいようかと思っていたのだが、ぼんやりと心にひっかかっているようでなんどか繰り返し考える。ブログだし、思ったことをメモ的に書いてみるかな、という程度で、率直なところあまり関連する喧しい話題というか、一部のかたの思いのこもった議論に私は関心はない。で、それはなにかというと、政府の教育再生懇談会がその報告書に小・中学生の携帯電話の使用制限を盛り込む云々という関連のことだ。繰り返すけど、その事自体には私はあまり関心はない。率直にいうと、無理でしょFAというくらいしか思わないからだ。で、なにが私の心にひっかかっているのかというと、端的に言えば、なぜ親たちは子どもに携帯電話を与えているのだろうということだ。もちろん、すぐにというか脊髄反射的にそりゃという答えが出てくるということかもしれないが、まずはファクツ回りを簡単にまとめておこう。
 17日付け毎日新聞記事”教育再生懇談会:小・中学生の携帯使用を制限 報告に盛る”(参照)がわかりやすい。


 政府の教育再生懇談会(座長・安西祐一郎慶応義塾塾長)は17日、東京都内で開いた会合で、6月初めにまとめる報告書に小・中学生の携帯電話の使用制限を盛り込む方針で一致した。報告書は小・中学生に極力、携帯電話を持たせないよう保護者らに促す一方で、所持する場合には法規制をかける内容となる見通しで、今後、論議を呼びそうだ。

 まあ、ネットでは議論を呼んでいるようだ。背景は犯罪との関連の認識がある。

 町村信孝官房長官は会合で「携帯を使った犯罪に子供が巻き込まれている以上、ある程度の規制の検討も必要だ」と明言。出席者からは「携帯依存症が懸念される」など携帯電話所持に否定的な意見が相次いだ。

 話を簡素にするために、携帯依存症については捨象しておこうと思う。
 具体的な報告書の方向は次の3点らしい。

 こうした意見を踏まえ、報告書には(1)小・中学生に携帯電話を持たせない(2)機能を通話と居場所確認に限定する(3)有害サイトへの閲覧制限を法的に義務付ける--などの内容が盛り込まれる見通しだ。
 

 すでに記事に書かれているが、異論はこうらしい。

 ただ、(1)に関しては実効性が問題視されており、(2)の携帯電話は商品開発が進んでいない。(3)には「表現の自由」との関係で異論がある。

 実は、この異論について、最初なんとなくふーんと思ったのだが考えてみるとよくわからない。私の思いはこう。(1)の実効性というのは技術の問題ではなく、つまりは親の問題ではないのか。(2)はGPSと音声通話ならよいのか。(3)有害サイト規制については、表現の自由以前に技術的にどうなんだろ。
 愚考を続けるのだが、まず問題範囲は、小中学生であって高校生ではないとしておきたい。そして小中学校にいる間は現状でも携帯電話の利用は禁止されているはずだし、学校が規制できる。
 ということは、問題の領域は、小中学生の通学時、および帰宅後の家庭外活動、家庭内活動という3つの時間領域で区分される。
 そして、ここに親が子どもに携帯電話を与えた理由というかその限定性があるはずだ。このことは先のGPSと通話ならよしということとも関連し、つまり、親の見えないところでの子どもの安全性を確保したいということだろう。
 それが理由で親は子どもに携帯電話を与えているのだろうか。
 そこがどうも世間を眺めてみる感じでは納得いかない。というのは毎朝見かける携帯メール打ちながら歩道を行く学生や、マクドナルドや地域の小図書館に集まってメール見ている学生、夜塾帰りかと思える電車で携帯電話を見ている学生とかの像ととうまく馴染まないからだ。
 とすると、親の思いは思いとして、子どもがたちが勝手に携帯電話を使っているのが問題だということ。つまり、知らぬは親ばかりなり、と。これは、家庭内での携帯電話の利用にも関連してそうなのか。
 繰り返すけど、親は子どものそういう携帯電話の利用を知らない、ないし、困っているのだろうか。そのどちらの理由であっても、小中学生への携帯電話の規制は理解しやすい。
 で、どうか?
 そこが皆目私にはわからない。
 この問題の自分の心でのわからなさは、50歳の私といえば、普通なら小中学生の親どころではなく、高校生・大学生の親の年齢である。だから、自分の同年の人々を見回してみればなるほど、多少は共感的にわかりそうなものだが、そこがわからない。多分に、私のこういう面での感性がないのだということは了解するとしても。
 もう少し言うと、どうも小中学生の親というのは、30代後半から40代前半くらいの親のようだし、母親はそのあたりに固まっている。彼女たちは、いったいこの問題をどう考えているのか。
 ということで視点を変えてそのあたりの年代層の女性を見回すと、私から見るという限定なのだが、彼女たち自身もけっこう携帯メールのやりとりをしている(意外と旦那との連絡にも使っている)。ちょっと誇張して言うと、今回問題とされる小中学生の携帯利用と、母親たちの携帯利用はそれほど変わってない。逆にだから、まるで親には問題意識なんてないんじゃないかと考えるほうが、事態に整合的に思えてくる。
 ここで、私は先日の「マイクロトレンド」のことをふと思い出すのだが、著者マーク・ペンは90年代半ば、クリントン元大統領の選挙参謀的なポジションにあるとき、「サッカーママ」を発見した。中流階級で小中学生の活動に熱心な層だ。ペンはそこの票を狙うには、クリントンに小中学生の教育を語ればよいとした。今回の彼の著作「マイクロトレンド」では、それから10年後としてもはや「サッカーママ」は大半は離婚していることや離婚してなくても家庭経済に対する高等教育の経済負担に関心を持ち、公教育的な充実には関心を失っているとメモしている。
 私がこの「サッカーママ」を連想したのは、先の日本の小中学生の母親たちが、10年前の米国の「サッカーママ」に近似しているのではないかなと思ったからだ。その線で言うと、子どもたちの活動を支援するために子どもにも携帯電話を与え、自分たちも利用している。そしてそのニーズというのは、あまり今後も変わらないだろうし、さらに政府の教育再生懇談会がどうたらまとめても、公教育の公のセクターと、私的なセクターとの分別の暗黙の了解は成立しているのではないか。ちょっと露悪的に言うと、公教育のセクターの限界は親たちにきっちり認識されていて「義務教育なんて、まあ、あんなもの」くらいになっているから、私的なセクターとしての教育を含んだ時間領域の充実に携帯電話が投入されているのではないか。
 とか、思ったのだけどね。

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2008.05.18

イスラエル建国60年周年記念、欧州からの論点

 先日沖縄本土復帰記念日の前日、イスラエル建国60年周年記念があった。欧米紙ではいろいろ取り上げられていた。国内大手紙でも、私の見落としがなければ、朝日新聞”パレスチナ60年―難民の苦境に終止符を”(参照)、読売新聞”イスラエル60歳 現状維持では未来はない”(参照)、毎日新聞”中東紛争60年 国連にもっと大きな役割を”(参照)があった。大手紙ではないがNHKは”時論公論 「イスラエル建国60年、遠のく和平」”(参照)で触れていた。
 率直なところ、平和のためには話し合いが大切、米国や国連はもっと頑張れといった感じで、どれもピンと来なかった。しいて言えば、毎日新聞が重要な問題部分に少し踏み込んでいたかもしれない。


 第二次大戦後の47年、国連総会はパレスチナ地域を二つに分割する決議を採択した。これを後押ししたのは米国だが、ナチスによるホロコースト(大量虐殺)で何百万人もの同胞を失ったユダヤ人に国を与えようという発想が間違っていたわけではあるまい。

 多少なりとも常識のある人なら、イスラエル建国の主体が米国であるかのように読める、この書きように少し首をひねるではないか。というか、なぜバルフォア宣言に触れないのだろうか。
 バルフォア宣言についてウィキペディアの記載は薄いしやや偏向している印象もあるが、それでもそれなりの要点は描かれている(参照)。

バルフォア宣言(ばるふぉあせんげん、英:Balfour Declaration)とは、第一次世界大戦中の1917年11月に、イギリスの外務大臣アーサー・ジェームズ・バルフォアが、イギリスのユダヤ人コミュニティーのリーダーであるライオネル・ウォルター・ロスチャイルド卿に対して送った書簡で表明された、イギリス政府のシオニズム対処方針。


一方で、パレスチナでの国家建設を目指すユダヤ人に支援を約束し、他方でアラブ人にも独立の承認を約束するという、このイギリス政府の矛盾した対応が、現在に至るまでのパレスチナ問題の遠因になったといわれる。

 歴史を顧みるならバルフォア宣言にまつわるイギリスの位置が当然問われるだろうし、毎日新聞社説がホロコーストに言及していた関連もある。つまり、ドイツの問題だ。言うまでもなく、イスラエル建国というのは歴史的に見れば一義に欧州の問題が関わっている。
 なのに国内報道では、私の読み落としかもしれないのだが、まるでタブーのように触れられてなかったし、問題を米国の枠組みに落とし込もうとしている密約でもあるかのようだった。なぜなのだろうか。
 あまり重要な指摘ではないが毎日新聞はさらにこれを国連に結びつける。

 だが、この決定が60年余りに及ぶアラブ・イスラエルの対立を生み出し、その対立解消に国連が実効的な手を打てないできたことを、国際社会は反省する必要がある。和平仲介がもっぱら米国の役目になっているのは、イスラエルの国連不信が一因だが、本来は国連がもっと大きな役割を果たすべきである。

 国連というのは一種の社交界、あるいは連絡会議のようなものでそもそもそんな大きな役割を担えるわけでもない。日本の国連拠出は大きいが平和維持的には他国に比べて弱いなか、どうして日本がこうも国連幻想をいだけるのか不思議に思える。
 話を少し戻すと、イスラエル建国には大きく欧州が関わってくるし、流民という点では旧ソ連や東欧諸国が関連している。そうした配置のなかで、つまり、欧州とイスラエルという図式のなかでは、当然ユダヤ人が問われるはずだ。そこは今どうなっているのだろうか、というのが欧米紙の一つの関心になっていた。なぜか。私の印象では欧州におけるユダヤ人問題があるのだろう。
 日本ではあまり報道されていなかったのではないかと思うが、フランスでは昨年反ユダヤ主義としてイラン・アリミさんをしのぶ無言のデモ(参照)が行われた(なおこのデモはあらゆる人種差別への反対ということになっている)。類似の事件の懸念もときおり話題になる。
 少し古いが状況はそれほど変わっていないだろうとも思うので04年のシャロン発言についても触れておこう。”「在仏ユダヤ人、早く移住を」 シャロン首相発言、仏で反発 ”(2004.07.20読売新聞)より。

イスラエルのシャロン首相が、嫌がらせなどが相次ぐフランスのユダヤ教徒に対し、イスラエルへの移住を奨励する発言を行い、フランスで反発を呼ぶ騒ぎとなっている。シャロン首相はこのほど、エルサレムで開かれた会合で、「仏国では人口の約一割がイスラム教徒で、反イスラエル感情と宣伝工作により、反ユダヤ主義の温床になっている」とした上で「仏国内にいる同胞へ助言するとしたら、一刻も早くイスラエルに移住せよと言うだろう」と述べた。

 なお、同記事でも触れられているが、フランスにはユダヤ系住民約五十万人いる。内年平均二千人がイスラエルに移住する。
 欧州のユダヤ人はイスラエルを安住の地と見ているかというとそこは難しい。記念日にあたりテレグラフは難しい論点を描いた。”Israel's anxiety as Jews prefer Germany ”(参照)より。

In 2003, for example, 12,383 Jews reportedly chose to emigrate from the former Soviet Union to Israel. But 15,442 went to Germany. The latter country, which had conceived the idea of eliminating Jews altogether just 60 years previously, was more enticing to them than the promised land itself.

 旧ソ連からのユダヤ人流出先はイスラエルよりもドイツが多い。

Such a powerful wave of immigration has multiplied Germany's Jewish population tenfold from the 20,000 or so at the time the Berlin Wall fell.

 ドイツにおけるユダヤ人人口の増加は現時点で難しい問題にもなってきている。

But the decision by Soviet Jews to choose Germany over Israel has been cause for serious friction between the two countries.

 ドイツとイスラエルの国家間の問題になっているとしている。

Israel lobbied hard - and ultimately successfully - to persuade Germany to end its generous immigration laws for Jews which encouraged hundreds of thousands to head to the reunited European state after the collapse of communism.

 イスラエルとしてはドイツにユダヤ人を気前よくそう受け入れないでくれということらしい。

Israel's concern is prompted in large part by the word "demographics", which has become a hot topic in the Holy Land. Israel may define itself as the Jewish state, but more than a million of its citizens are Arab Muslims. They have a higher birth rate than Jews, and many in Israel worry that their country's Jewish identity is being diluted. This has inspired headlines warning of a "demographic time bomb".

 このあたりの話は世界を眺めるうえでごく常識だと思うのだがなぜかあまり日本のジャーナリズムでは指摘されていないように思える。少なくとも今回の60周年記念では指摘もされていない。それは、イスラエルという国はけしてユダヤ人の国とは言い難い点だ。イスラエル人口は700万人ほどだが、うちアラブ人が100万人を超える。端的にいえば、アラブ人の同意なくしてイスラエルは存立しないし、今後さらにアラブ人比率が高まる。そのあたりをここでは爆弾と比喩している。
 さらに問題がある。

The other factor, they say, is that with Jewish life flourishing, even where it was all but erased by the Holocaust, Zionism's very raison d'etre is being challenged.

 この問題は非常に微妙だし、関心のある人はテレグラフ論説の文脈を追ってほしいのだが、私が思うのは、ユダヤ人文化というのがそもそもドイツ文化なのではないかということだ。ドイツの文化は第二次大戦前が顕著だが実際にはプロテスタント文化とカトリック文化に分かれており、それにユダヤ文化がグリューの役割として国民文化なり国民国家の様相を示してきた。むしろユダヤ人があってこそドイツのナショナリズムであることは白バラ(参照)がドイツ青年運動に関連することから類推されるだろう。
 この問題の微妙な部分はウォールストリートジャーナル寄稿コラムが”German War Guilt and the Jewish State”(参照)が扱っている。

As Israel celebrates its 60th anniversary there is no denying that the Jewish state has an image problem in Europe.

 イスラエル建国60周年において、ユダヤ人の欧州でのイメージに問題が起きているというのだ。

Opinion polls in the U.S. consistently show that a majority of Americans are sympathetic to Israel. But the situation is the reverse on the other side of the Atlantic. It's particularly bad in Germany. In a British Broadcasting Corp. (BBC) survey last month, for example, Germans were among the Europeans with the least favorable views of Israel, second only to Spain. Even the respondents in the United Arab Emirates had a more positive perception of the Jewish state than Germans did.

 米国は親イスラエルだが、欧州ではそうではないという世論動向がある。しかも、世論的に見れば、日本人には意外かもしれないのだが、アラブのほうが親イスラエル的だという。先にイスラエル内のアラブ人人口に触れたが冷静に考えればそのほうが納得しやすいだろう。
 ドイツには歴史的に難しい問題がある。

In light of the Holocaust, Germany seems to have no choice but to support the Jewish state. Former Green Foreign Minister Joschka Fischer advocated this policy of "historical responsibility" as effortlessly as Christian-Democratic Chancellor Angela Merkel does.

 ドイツはホロコーストの歴史から、対ユダヤ人国家に「歴史的責務」を追うしかないとしている。そこは了解しやすい。

But guilt is an unhealthy basis for a relationship; it easily turns into resentment. This may help explain why so many Germans ? 30% according to last year's survey by Bertelsmann Foundation --- are eager to compare Israel to fascist Germany. If it were true that Israelis are modern-day Nazis, there would be less reason to feel guilty about the real Nazis.

 だがそうした歴史観をベースにした罪責観が世論的には逆に触れてしまっているらしい。そしてむしろ、現イスラエルをナチスになぞらえて考えるドイツ人が増えている。この寄稿でも触れているが、戦後世代のドイツ人にしてみると、「歴史的責務」がうまく共有されないこともあるのだろう。
 逆にイスラエルの建国を是とできないという世論もあるらしい。

Israel's detractors take this argument one step further, claiming it was immoral to establish a Jewish state in the Middle East to atone for European crimes.

 歴史が流れるというのは皮肉なものだとも思える。
 文脈では米国が親イスラエルである理由を宗教文化的な背景で見ている。

A key factor is Americans' appreciation of their Judeo-Christian heritage. While this is a common term in the U.S., it is a novel concept in Europe. Only recently has it found its way into the vocabulary of a few conservative Germans. Ms. Merkel and colleagues from Poland and Italy wanted to add a reference to the Continent's Judeo-Christian heritage to Europe's proposed constitution. The idea was rejected as too divisive.

 このJudeo-Christian heritageというのは、「極東ブログ: ヒラリー・クリントンはユダヤ人じゃないよというお話」(参照)のような事例からもわかりやすい。
 しかし、昨今の米国の親イスラエルや欧州における反イスラエルの動向は、さらに言い尽くしがたい微妙な問題を孕みつつあるようにも見える。

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