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2008.05.17

[書評]書籍「マイクロトレンド」の序文について

 先日のエントリ「極東ブログ: [書評]マイクロトレンド 世の中を動かす1%の人びと(マーク・J・ペン)」(参照)だが、私の書き方が悪く、誤解されたむきもあるかもしれないが、翻訳として悪いわけではない。誤訳が多いということではなく、むしろ良質な翻訳だろう。

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マイクロトレンド
 訳書の問題点は、私の考えだが、4つあって、1つは一番重要な概論である序文が大幅に編集されていて、冒頭から読み進めると「マイクロトレンド」ということがなにかが翻訳書では理解しづらい。2つめは、三浦展による各項目の補足はそれはそれとして彼の概括はオリジナルの主張と反対になっている。3つめはオリジナルでは75項目あるのに訳書では41項目なので約半分の抄訳である。4つめは抄訳で割愛された部分について、選挙など政治関連の世論調査家としてマーク・ペンが一番主力を置いているはずの政治・人種・宗教といった部分がほとんどタブーであるかのように削除されているということだ。
 以上をのぞけば、訳出された項目についてはさらっと読むことができるし、それなり社会動向や、商品開発、選挙といったことに関心のある人は一読しておいたほうがよいだろう。むしろお勧めしたい。
 4つの問題に点に戻るが、3と4の抄訳についてはいかんともしがたい。別途続巻を出すか(これは皮肉ではなく政治・人種・宗教に詳しい識者の論説をともに出版するとよいと思う)、新装版を出してもいいだろう。
 2の三浦展の概説については、ごく簡単な週刊誌の書評程度で書かれたと見ればあまり目くじらを立てるほどのことでもないだろうし、むしろ抄訳本としてはマッチしていると出版側が考えたのも頷けるかもしれない。
 つまり、ブログなどで対応・補足できるとしたら、序文のサマリーと、マイクロトレンドがどのような意味を持つかという解説だろう。ということで、あまりきちんとした解説ではないけど、少し補足しておきたい。
 最初に翻訳本の「はじめに」がどのように編集されているかを具体的に示すために、オリジナルと対照できる部分をブロックにわけてみた。具体的には、この翻訳の「はじめに」はオリジナルを切り刻んでつなぎ合わせているので、つなぎ目ごとにA、B、Cとブロックわけしてみた。全体は、ABCDEFGHの8つの断片に分かれる。これがオリジナルではどのように出現するかというのを示すと前回言い方はよくないがかなり編集されたとしたことはある程度客観性を持つだろう。
 その順序だが、F、B、D、G、C、E、A、Hである。かなりランダムに近いが、AとHが後半に固まっているので、それを大幅に割愛した前半から切り取り集めたということだろう。
 次に、邦訳書の「はじめに」で省略された部分を基本に、オリジナルの序説を再構成してみたい。なお、邦訳書で編集された「あとがき」とオリジナルの結語の対応についてはここでは触れないが、やはり異質なものに書き換わっている。
 まず、オリジナルの序文だが、断片Fの前にオリジナルの冒頭に数パラグラフがあり、ここでは、米国の60年代のフォード型の画一的生産と、現在の小さく細分化された生産が対比されている。これは、あとで、フォード対スタバという対照になる。フォードのように単一の生産物を単一の工程で生産する段階を米国が終え、スタバのように細かいニーズにカスタマイズしたサービス産業が主流になったということだ。そこはごく常識的でもあるが、次の指摘は多少留意させられるものがある。フォード型の産業に対して。

But ask two-thirds of America, and they will tell you they work for a small business.
(アメリカの三分の二を取り上げれば、労働者はスモールビジネスに従事していると言うだろう。)

 このあたりは、いわゆるSOHOと同定されるものではなく、大企業に属しても自身の理解としてsmall buisinessということはありうるだろう。しかし、サービス側から見れば、いずれにせよ、小範囲の規模で足りる仕事に従事しているとは言えるだろうし、ペンは明記していないが、それがIT革命の達成でもあるだろう(クルーグマンとかわかってないっぽいけど)。さらに言えば、small buisinessはいわばブレーンのビジネスなのでリザルトが小さいということではない。途上国側のフォード的な生産を統括しているとイメージすればいいかもしれない。いずれにせよ、ここからマイクロトレンドが語られる点は興味深い。

Many of the biggest movements in America today are small --- generally hidden from all but the most careful observer.
(アメリカでの大きな変化の大半は規模が小さく、注意深い観察者を除けば一般的には隠されている。)

 マイクロトレンドの累積が大きな変化なのだが、個々のマイクロトレンドはわかりづらい。なぜか。以下は邦訳書の初めにも含まれているのだが原文で引き、訳を変える。

Microtrends is based on the idea that the most powerful forces in our society are the emerging, counterintuitve trends that are shaping tomorrow right before us.
(私たちの社会で最も強い力は、私たちの前に未来の真相を形作る新興で反直感的なトレンドであるという考えにマイクロトレンドは基づいている。)

 マイクロトレンドは、counterintuitve(反直感的)であるというこがとても重要なことで、the most careful observerは理解しえるかもしれないが、いわゆるトレンドウォッチャー的な直感ではわからないものとするのが、本書の方法論的な原点になる。
 なぜそうなのか。

The power of individual choices has never been greater, and the reasons and patterns for those choices never harder to understand and analyze.
(個人選択の力はかつてないほど大きくなり、その理由とパターンの理解や分析もかつてないど困難になった。)

 マイクロトレンドの背景にあるのは、人々の選択の力の不可解ともいえる増大だとしている。
 これは、私見が入るのだが、多様な消費のなかにしか、消費の可能性がなくなってきているか、あるいは、従来の消費社会のようなベース部分の解放を意味しているだろう。たとえば、エンゲル係数といった観点は、具体的な食品の市場の可能性においてはすでに意味がなくなりつつある。ただし、ここは逆に各種のアナクロニズムが住んではいるが。
 その意味で、ガルブレイスの「ゆたかな社会」(参照)との関連やその後の資本主義観にも関わってくる。多少放言すれば、現代は資本主義だ、マルクスは再解釈されるとかいうのであれば、その前に資本主義の変化が考察されなければならないのだが。
 いずれにせよ、ペンの視線は、個人の解放、しかも、消費動向としての解放が、市場を決定するという日本でいえば吉本隆明の考えに基礎が近い。
 なぜペンはそうした、人々=大衆から思考するにようになったのか。訳書では「あとがき」に編集で移動されているが、それが引き続き語られる。重要なのは、ペンの思想は、米国の古典的な政治学者V. O. Key(参照)を継承していることだ。日本ではキーについてはあまり語られていないようだが、戦前の政治やおそらく日本の統治にもなんらかの影響があるだろう。ペンをキーの系譜で見直すと、マイクロトレンドが実は政治学にもっとも近いことは理解しやすいだろう。
 キーのテーゼは「有権者はバカではない」ということだ。余談になるが、小泉郵政選挙の際ネットではチーム世耕による情報工作だという話も広げられたが、そのあたりはまさにキーのテーゼに反している。
 もちろん、ペンはキーのテーゼをそのまま受けているわけではない。が、むしろ人々の政治行動を、仮定の原則として正しいと見る方法論は重要だろう。この点も吉本隆明の政治観に似ている。
 次に邦訳書の「はじめに」でも引かれている部分だ。そうはいっても、人々の政治や消費活動は、全体として見れば矛盾しているように見える。健康食を求めながらビッグマックが売れているというぐあいに。
 この矛盾は、トレンドをマクロトレンドやメガトレンドとして考えるからで、個人の選択は各人の嗜好を是とする(人々は正しい選択をする)から考えれば、各種のマイクロトレンドとして独立して見る方法論が重要になる。
 ここで当然の流れのようにペンがクリントン政権樹立にどのように関わったかというエピソードが入るのだが、邦訳では一部が訳者の解説に織り込まれ、大半は「あとがき」に移動されている。
 エピソードの重要点は「サッカーママ」だ。中流階級の既婚女性で子どものサッカー活動なに推進するという層だ。クリントン政権樹立時はそうしたグループが政治的には見えてこなかった。しかし、そこへの攻勢が重要になったとしている。ペンは当時のアメリカの有権者分析をして、男性の投票行動に対するキャンペーンがあまり有効ではないことを知った。そして「サッカーママ」の存在を見つけていく。ここでもやや余談だが、ようやく日本でも「サッカーママ」は政治的な力になりそうだ。特に東京郊外部の中流階層からやや下あたりにそうした動向が見られる。
 邦訳書はペンのそうした政治との関わりをごっそりと「あとがき」に回し、1%の人々が世界を変えるという話を取り上げ、翻訳初の副題にもしているのだが、再び、邦訳書から消された部分に文脈を戻すと、その1%は、むしろ、不法移民が参照されているのだ。
 つまり、以前はサッカーママが政治の舞台に上がらなかったように、不法移民もこれまではそうした舞台から見えなかった。しかし、今では新しい政治動向となりつつあるということだ。
 個人の選択力が政治的にも広がるときそれは政治的な力になりうる。
 ペンはその援助としてインターネットが人々を繋げる要因も上げているし、今日世界のテロもそうしたマイクロトレンドに結びつけている。テロはマイクロトレンド的な政治意識から発生しているとも見ている。
 日本と違うのは、ペンはこうしたマイクロトレンドを、米国の成長、巨大化とも結びつけている点だ。ペンは具体的には触れていないが、そう遠くない未来に、中国は老人国となり人口の拡大も止まる。ざっくりと12億人としてよいかわからないが、米国は4億人になる。ちなみにロシアや日本は縮退し、EUやイスラム圏になる。教育差を考えれば米国が来世紀にもスーパーパワーで君臨するだろうが、そうした未来像がなにげなく本書マイクロトレンドに組み込まれている。
 逆にいえば、日本のように縮小し老人化していく国のマイクロトレンドは大枠において異なる可能性がある。(たぶん老人の活動が日本を混乱させるだろうとは思うが。)
 話を戻して、邦訳書ではこの先にその「はじめに」の冒頭が繋がり、フォードとスタバの例が引かれる。
 次に大きく邦訳書の「はじめに」で抜けているのが、"The Power of Numbers"という小項目で、これは「あとがき」に編集で移動している。ここではマイクロトレンド読み出しに関する方法論で、統計をどのように考えるか、恣意的にしないためにはどうするかが論じられる。
 そして最終部は邦訳の「はじめに」でも多めに翻訳されるのだが、次の重要な、と言っていいだろう一文は「あとがき」に回されている。

Hidden right in front fo us are powerful counterintuitive trends that can be used to drive new business, run a campaign, start a movement, or guide your investment strategy.
(私たちの目前で隠されている真相は、強力に反直感的なトレンドであるが、それは、新規ビジネスや、選挙活動、社会運動、投資指針に利用できる。)

 つまり、マイクロトレンドを知ることが、新しいビジネスのチャンスを得ることであり、ペンの専門である政治活動でもあり、さらに投資にも重要だということだ。

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2008.05.15

[書評]マイクロトレンド 世の中を動かす1%の人びと(マーク・J・ペン)

 「マイクロトレンド 世の中を動かす1%の人びと(マーク・J・ペン)」(参照)が翻訳されているのを知らなかったので、えっと思って中身も見ずに買ってしまった。

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マイクロトレンド
 これって弾小飼さんの書評にあったっけ。というのもなんだが、出版社さんはまず弾さんに寄贈というところからブログの世界で新刊書の通知という時代なのかな。
 原書のほう「Microtrends: The Small Forces Behind Tomorrow's Big Changes(Mark J. Penn, E. Kinney Zalesne)」(参照)はすでに昨年に買ってちらほらと読んでいたし、これはきっと翻訳が出るだろうし出たら買うかという心づもりでいたのも、訳本の中身も見ずに買った理由。
 で、びっくりした。というか、ちょっとこの厚みであの内容が入っているわけない感はあったのだけど、この訳本はだいたい中身は半分といったところ。抄訳だ。訳の質は悪くはないし、それなりに編集の手も入っているけど、これは続巻を出していいか、もし原書のほうがさらに生き延びるようなら再出版していいのではないか。
 アマゾンの読者評にもあるけど。

★★☆☆☆ 納得いかない, 2008/5/11
By meta-o (奈良県) - レビューをすべて見る

原書では70のマイクロトレンドが紹介されているそうだが、この訳書ではそのうち41しか載っていない(しかも、抄訳だということに初めて気づいたのは訳者あとがきだった)。監修者の解説テキストが各所に散りばめられているにもかかわらずだ。内容がとても興味深いだけに残念である。


 ええと、正確に言うと、原書では「70のマイクロトレンド」ではなく、75個ある。
 そして訳書を読み返してぎょっとしたのだけど、一番重要な概説が書いてある「はじめに」にかなり編集が入っていてわかりづらい。最初からこの訳書を読み進めると、オリジナルの半分の内容かそれ以下といった印象を持つだろう。またオリジナルの序文の話のかなりの部分が、訳書の「あとがき」へ編入されていて、オリジナルの結語と異なる。
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Microtrends(洋書)
 出版側としても日本人に関心のない項目なんか入れたら厚くって売れないでしょという思いがあったのだろうし、それも出版界の論理としてわからないではないけど、この訳本、人種、宗教、政治がごそっと抜けている。そのあたりの情報はけっこう日本の未来に死活問題が関わってもいると思うだけど。
 たとえば、邦訳書に含まれていない"Christian Zionist"(キリスト教徒のシオニスト)っていうのは、今の大統領選挙戦にかなり死活問題。マケインもイスラエル詣でをしてたり、ヒラリーがイランの核がイスラエルに及べば戦争も辞さないみたいなことを吠える背景には、"Christian Zionist"も考えに入れたほうがいい。それとあまり言うにはばかれるけど日本のマスメディアにも奇妙な影響がある。まあ、そのあたりは私のブログのネタにでもいずれするかもしれない。
 抄訳であることは、訳者も新婚でいろいろ大変だったのかもしれないなか、こっそっと「訳者あとがき」で良心的に書いてもいる。

 今回、日本語版を刊行するにあたっては、人種間や宗教のトレンドなどアメリカに顕著な事情や、日本のほうが先行したり逆行していたりするものは基本的に割愛し、結果的に精選した41のマイクロトレンドに絞らせていただいた。原書で紹介されているすべてのトレンドを紹介できなかったことは残念でならないが、割愛せざるを得なかった項目に興味をお持ちの方は、ぜひ原書にチャレンジしてみていただきたい。

 このあとがき、でも、よく読むと、原書の序文を折り込んでいるんですよね。それもちょっとなあという感じはするけど。
 個々のマイクロトレンドについては、読めばわかるというか、普通に面白いので、なんだかんだ言っても日本語で週刊誌のように読める点でお勧めはしたい。というか、とりあえず半分さくっと読むにはお勧め。
 先ほど、訳書の「はじめに」にかなり編集が入っていると書いたが、実際この「はじめに」の概論部分を細かく原文と対照作業してみたら、勝手な作文が書いてあるわけではないのだけど、オリジナルのあっちこっちから順序不同に近いかたちでパッチワークになっている。そして結果、出来た邦訳の「はじめに」はそれなりにスジが通っているからいいのかもしれないといえば、そうかもだが、私の印象ではなんか別の話になっている。
 困ったことに訳書で解説をしている三浦展の「本書の読み解き方」が、私の見た感じだけど、見事に外している。三浦はオリジナルを読んでいないのではないか。別に三浦をタメで批判したわけではないけど、これはちょっと困るなという感じがするので、以下ちょっとメモしておきたい。各種の新しい動向について三浦は。

それらは最初は小さな動きなので見逃しがちだが、実はその根底に社会の大きな構造変動があるのだというのが本書の著者マーク J・ペンの主張であると言えるだろう。

 「であると言えるであろう」というあたりに率直に「読んでないのでわかりません」を聞き取るべきかもしれない。
 確かに現代社会に大きな構造変動があると言えないこともないのだが、ペンの主張は、構造変動よりマス(大衆)がインターネットなどで結合し巨大化したために、全体から見ればわずかな人々の結合でも社会影響力を持つようになったということで、構造変動というより特定分野で可視になる全体の量的拡大のスレショルドが超えたことで、マイクロトレンドのような相対的少数者を介しても構造変動をもたらしうるということだ。
 むしろペンは、「大きな構造変動」といったいわばメガトレンドようなものを否定している。その意味で、三浦の理解は本書の基本コンセプトとまったく逆になっている。繰り返すが、大きな変動を社会に見いだそうとすれば相矛盾した重要なトレンドを相殺してしまい社会考察として意味が失われてしまうということが重要だ。この点はマーケットの世界ではごく常識化してはいるだろうが(だからトレンドウォッチからマーケティングができない)。
 ここも違う。

 考えてみれば、最もマイクロなマイクロトレンドとは、まさに自分という個人の中のトレンドであろう。だとしたら、まず自分の日常生活における意識や行動の小さな変化に対して自覚的であることが、マイクロトレンドを発見するいちばんの早道であるに違いない。

 ここは、しいて言えばと留保はするけど、2点間違っている。ペンがマイクロトレンドを提示したのは、マイノリティグループというべたな意味ではないけど少数の人々が、身近な他者であるとして、見えづらい小さな連携のなかでアイデンティティを見つける傾向を通して、市民社会の内在にある、従来の手法では定義しがたい他者という存在を理解するための方法論、つまり多様な市民を理解する一助にしたいということがある。三浦のように日本人にありがちな自己探し的な枠組みの発想ではなく、ペンはむしろなるほど民主党の参謀らしいリベラルなコミュニティ志向があるのだ。
 2つめの三浦の間違いは(というと言葉もきつくてごめんなさいな)、それが自覚可能だとしている点だ。本書は、訳の都合もあるのだけど、重要なキーワード、"counterintuitive"が文脈に開かれているので、キーワードとして意識しづらい。そこも問題なのかもしれないが、ペンはマイクロトレンドは"counterintuitive"(反直感的)であるということを基軸に置いている。三浦はこれを常識の逆転と理解しているのだが、そうではない。ペンは、社会の常識や直感的な理解からマイクロトレンドは見えないですよと主張しているのだ。だからこそ、統計など方法論を重視している。
 この"counterintuitive"は、先の他者理解とも関連していて、三浦のように自分の身の回りの繊細な観察・理解といったものが自己に閉鎖してしまう点に対する、対抗的な方法論として描かれている。他者理解というものの本質的な難しさがペンの手法に組み込まれているのが本書の重要性だ。
 そもそも、ペンがなぜマイクロトレンドを書いたのかというのは、クリントン大統領時代からの民主党の参謀として、人々を細かく、方法論を介して見ていたからで、そうした政治の関連がある。
 ところがペンと政治の関連について、オリジナルの序文から翻訳書では削除され、訳書の「あとがき」に編集して移されている。
 逆に言えば、本書は、選挙ための書籍だともいえる。自民党でも民社党でもすこし頭の切れる人がいるなら、本書から学び得るところは大きいはずだ。もっともそんなことすでに知っているという返答も来そうだが、いちおう識者とされている三浦展の理解からするとそうでもないように思える。
 オリジナルの内容についての話は、このブログでも別途するかもしれないが、"counterintuitive"であるという他者性は、しかし、その個人がマイクロトレンドにいるときはむしろ自明な自覚になることが、自分でも興味深い。具体的には、個人的にはだが、「はてな村」とかTwitterにいると、自分がまさに各種の未知なるマイクロトレンドにすでに浸されている実感はある。

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2008.05.14

奈良は中日の文化の源を同じくするシンボルです

 私は中国語がわからないのだけど、漢字の字面をつらつらと見ているとそれなりに何を言いたいかくらいはわかるというか、普通日本人はそうかな。いきなり余談だが、台湾を旅行したとき同行した日本人が旧字が読めないので、へえと思った。私は中学生時代角川文庫のショーペンハウエルとかで覚えたものだったのに。
 胡錦濤主席の訪問もつつがなく終え、それはそれでよかったのではないかと思うが、さて中国での受け止め方かたはどうだろうと、報道を見て回ったのだが、げ、日中友好トーンばっかしじゃんという雰囲気で驚いた。しかも、そのトーンがいかにダライが間違っているかの裏返し的トーンなのでさらに萎えた。しかし、そういうことにいろいろ言ってしかたないなと思って、そういえば胡主席が奈良を訪問したとき、どんな印象を持ったのか、あれかな、韓国の人のように彼らの祖先の偉大な歴史遺産に感銘を受けるの類かなと、どうかな。で、中国人もそうみたい。
 チャイナニューズ・コム”背景:文化渊源一线牵 奈良是中日文化同源的象征”(参照)をエキサイトの自動翻訳で読んでみた。表題は、「文化の源の第一線は引っ張ります。奈良は中日の文化の源(語源)を同じくするシンボルです」、はあ?だけど、ようするに奈良の古寺を見ると中日の文化の起源は同じだということっぽい。っていうか、それって、ようするに中国が起源ってことですよね、FA?


  中日文化同源,奈良是个象征。奈良在日本中南部,是日本文化的发祥地。奈良是公元710年仿照中国唐代的长安城修建的“平京城”,直到784年都是日本的首都,在74年中先后有七代天皇在奈良主政。

 中日の文化は源(語源)を同じくして、奈良はシンボルです。奈良は日本中南部にになって、日本の文化の発祥地です。奈良は西暦紀元710年中国の唐代の長安城の建造する“京城と引き分けします”をまねるので、784年まですべて日本の首都で、74年の中に相前後して7世代の天皇は奈良で統治します。


 “京城と引き分けします”は平城京の意訳かな。とはいえうろ覚えだけど、平城京という名称にはちょっとややこしい由来があったかと思ったがウィキペディアなどには書いてないな、たしか北魏の平城京ではないか。つまり、鮮卑だ。ちなみに、ちょこっとトンデモ話を書くと私は日本王朝の起源は鮮卑の傭兵ではないかと思っている。それはさておき、名前の由来からして、モデルは洛陽城かなとも思っている。このあたりについては専門家的にはすでに決しているのだろうか。
 話を戻すと「中国の唐代の長安城……まねる」として長安の模倣ということで中国的には決まりっぽい。つうわけで、日本の王城は中国のコピーでっせということだ。またちょこっとトンデモにずれるとそれでいいかもとも思う。壬申の乱というのは私は唐がしかけた内戦ではないと思うし、その結果が平城京ならそれもありかもしれない。さらに言うと、これはトンデモのつもりなく書くのだが、唐自身が鮮卑系の王朝で漢族ではない。

 唐代中国的佛学、建筑、医学、诗歌曾是日本古代文明的重要源泉。法隆寺始建于公元607年,是日本圣德太子当政时修建的。法隆寺有48座佛教建筑,其中11座建筑修建于公元8世纪前后,体现了中国古代佛教建筑与日本文化的融合。

唐代に中国の仏教学、建物、医学、詩歌はかつて日本の古代の文明的な重要な源でした。法隆の寺は西暦紀元607年に作られて、日本の聖徳太子の政権を握る時が建造したのです。法隆の寺は造る48基の仏教があって、その中の11基の建物は西暦紀元の8世紀の前後に建造して、中国を体現していて古代仏教が日本の文化との融合を造りました。


 ようするに日本の古代の文化はすべて中国様に由来するよ~んということ。
 それはそんなところだが、聖徳太子が出てくるあたりが香ばしい。そろそろ聖徳太子の実在は歴史学的にも疑問が一般化するのではないか。そして、仮に聖徳太子を認めるとして、法隆寺の様式はたしか高句麗様式。日本書紀などを読んでもこの時代は高句麗僧による歴史が基礎になっている。そしてこの時代、高句麗と隋は対立の関係にあり、というか、隋の滅亡はその対立の影響に由来するといってもよい。倭国王タラシヒコからの書簡は遊牧民族の形式で書かれており、おそらくその時代の外交を反映しているのだろう。

唐招提寺更是中日友好交往历史的见证。它是唐代高僧鉴真(公元688—763年)东渡日本后,于公元759年开工修建的,具有浓郁的中国盛唐建筑风格,已被确定为日本国宝。当时,扬州的鉴真和尚受日本留学僧之邀赴日传道,五次东渡失败,双目失明仍矢志不渝。

唐は招いて寺の更に中日の友好的な往来の歴史の目撃証言を持ちます。それが唐代に高僧の鑑真(西暦紀元688―763年)が日本へ渡ったのになった後に、西暦紀元に759年工事を始めて建造して、濃厚な中国の盛唐の建築の風格を持って、すでに日本の国宝に確定されます。その時、揚州の鑑真は僧のに日本に留学されて日本へ行って布教することを招いて、5回は失敗に日本へ渡って、両眼とも失明して依然として志を変えないことを誓います。


 「唐は招いて寺」は唐招提寺。話は鑑真和上になるのだが、失明してまで日本に文化を伝えようとした先人に胡錦濤さんは自身のなぞらえていらっしゃるのかもしれない。ありがち。
 鑑真の招聘にはいろいろごちゃごちゃした背景があり、必ずしも歴史学的な定見はないと思うが、それでも、仏教として「戒」を伝えなくてはという仏教徒の思いはあるだろう。で、日本はその戒のちゃぶ台替えしをしたし、鑑真和上に窓際冷や飯食わせたり、もうこのあたりの日本人のありかたはちょっと恥ずかしいものがありますなというのはたしかに。これは、ちょっと中国人には内緒ですな。

其后,日本古代高僧空海于公元804年到长安留学,带回大量经书,建立日本真言密宗,醍醐天皇赐为弘法大师,使佛教在日本进一步弘扬光大。

その後、日本は古代高僧の空っぽな海は西暦紀元に804年長安の留学に着いて、大量の経書を持ち帰って、日本の真言の密宗を創立して、精製した乳酪の天皇はいただいて弘法大家になって、仏教に日本でいっそう発揚して盛大にさせます。


 「古代高僧の空っぽな海」というのは案外言えているかも。「精製した乳酪の天皇」も案外体臭とかそれっぽかっとか。
 与太はさておき、空海の留学は留学か。密航とまではいえないか。いずれにせよ、留学僧はそそくさと帰国してはいけないという日本国法はさっさと無視してしまう。まあ、そのくらいの大人物だったとも言えるのだけど。
 たらたら行ってみよう。

 至今,中国传统文化精髓仍然是日本民族的精神食粮。《论语》、《孟子》、《老子》、《庄子》等译著在日本的书店中常年畅销不衰,甚至连明代作者洪应明所著《菜根谭》也成为近年最抢手的畅销书之一。

 今なお、中国の伝統の文化の精髄は依然として日本の民族の精神の糧です。《言葉を議論します》、《孟子》、《俺様》、《庄子》などの訳著が日本の本屋の中でいつもよく売れるのが衰えないで、甚だしきに至っては明朝は作者の洪応が明るくて《野菜の根譚》を書いたのさえ近年最も人気があるベストセラーの1つになります。


 「今なお、中国の伝統の文化の精髄は依然として日本の民族の精神の糧です」とのことで、それはというと、《言葉を議論します》……はてなかよ。《俺様》……アルファブロガー? 《庄子》……知らないなあ。
 「甚だしきに至っては明朝は作者の洪応が明るくて《野菜の根譚》」は、たしかに、甚だしきに至っているかもだけど、野菜の根の物語というのは、意外とよい訳かもしれない。「汪信民、嘗って人は常に菜根を咬み得ば、則ち百事做すべし、と言う。胡康侯はこれを聞き、節を撃ちて嘆賞せり」という。格差社会で成功する金言というべしだけど、あれですよ、メタボを避ければよろしという現代的解釈も可。

各种版本的《三国演义》家喻户晓,连《杨家将》也成为日本当代作家手中的创作题材。在日本,学习汉语的人不断增加,据报道现约有200多万人,仅次于学习英语的人数。

各種のバージョンの《三国史演義》は津々浦々に知れ渡っていて、《楊の家》さえ日本の現代の作家の手の中の創作する題材になります。


 各種のバージョンの《三国史演義》は横山光輝かな、《楊の家》さえ日本の現代の作家というのはソープに行けでネットで有名な北方先生でしょうか。
 そして中国語熱というのはたしかにあるかな。

回顾中日友好交往的这段历史,更加坚定了双方在新世纪构筑全面战略互惠关系,共同为亚洲及世界和平发展做出贡献的决心。

中日の友好的な往来のこの歴史を振りかえって、いっそう双方が新世紀に全面的な戦略を構築して相互に利益があって関係を固めて、共にアジアと世界平和のために発展して貢献の決心をします。


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楊家将〈上〉
北方謙三
 まあ、歴史を忘れるなという対象がなんであれ友好っていうのはいいことなんじゃないでしょうかっていうか、この論説、中国向けなんですよね。ちょっとなあ。

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2008.05.13

昨日の朝日新聞のクルーグマンのインタビューとか読んで

 私が書くと与太話になってしまうかな。昨日の朝日新聞9面にクルーグマンのインタビュー記事があって、軽いタッチで書かれていて面白かった。たぶん、一日遅れくらいでネットに掲載されるんじゃないかな、と思っていたけど、どうなんでしょ。「グローバル化の正体@米国経済」ってやつです。まあ、ちょっとアレゲな枠がかっちり感はあるのですがね。
 じゃ、たらたらと。
 まず、グローバル化って何?というのが冒頭あって。


政府や自然による障壁が減り、世界の人々とさまざまな仕事や取引をしやすくなったということだ。

 なんとま大雑把な。間違ってはいないけど意味のない定義とか昔のチョムスキーが言いそうな感じ。
 その歴史背景はというと、まず第一段階はこう、世界経済の形成時期。

19世紀半ば、鉄道と汽船、電報で遠隔地の経済が結ばれ、例えば英国がニュージーランドからの肉輸入で食料をまかなうようになった。

 なんかリカルドとかマルクスとか読んでる雰囲気。第二段階は。

これは70年代以降のコンテナ輸送とファクスの急速な普及や、関税引き下げなどによるもので、はるか遠く離れた顧客のために多くのモノやサービスを互いに生産しあうような世界になった。

 クルーグマン御大だと、ほいだけ。IT技術というのはとくにどってことはなさげ。
 金本位制崩壊、プラザ合意、金融テクノロジーっていうのが重要なんではないのかな、ぽりぽりっとか私なんかは思うのだけど、どうなんすかね。え、先に行け? はいはい。
 つうことでグローバル化で世界はどうなったか。

経済をより効率的にした半面、所得配分を悪化させた。工業製品の生産を途上国に移転することで、値段が安くなった半面、高等教育を受けていない労働者の賃金を削減した。

 え? これってマジ、クルーグマン御大? なんか冗談を読まされているような。なんか昔のアルジリ・エマニュエルでも読んでいるような感じ。ってか、違うのかもしれないけど、でもだとするとそれって労働力の可動性の問題で、で、っていうことはまさにそれがITで移動したりっていうのが現在のグローバル化の問題ではないの。違う? あ、違いますか。っていうか、クルーグマンって保護主義者だったのか? 
 で、あれですかい、話題の格差っていうか不平等?

米国の不平等については、他の先進国以上に政治が最大の問題だ。もちろん、技術革新や貿易などの要因もあり、その背景にグローバル化がある。

 いや率直に何おっしゃてるのかわからん。引用が少ないせいもあるのだろうけど、でも全文引用してもわからんと思う。グローバル化つまりクルーグマン的には、70年代のモノ・情報の移動の高度化が背景となって技術革新や貿易がある? わからん。で、それと米国の不平等は直接は関係しない、と。
 つまり、米国の社会問題は、グローバル化とは直接は関係ないってこと。ああ、それならわかるな。日本のグローバル化が格差問題に関係してないことからでも(いやこれは冗談です)。
 共和党のイデオロギーは保守的か? という朝日新聞の問い掛けに。

そう。裕福な人々の税金を軽減し、社会保障のプログラムを減らすことをめざす動きで、基本的に不平等を拡大するものだ。

 でもグローバルにはそれで富は拡散して、世界全体的には貧困や飢餓から抜け出せたのではないかな。っていうか、民主党のほうが保守主義っぽく見えるんだけど。
 ようやくキモだけど。

米国のセーフティネットは他の先進国に比べて極端に弱いから、強化すべきだ。とりわけ重要なのは、国家的な医療保険制度を持つことだ。底辺の不平等を改善し、貧困の削減に大いに役立つ。一方、労働政策を変更し、労働者が労働組合を組織しやすいようにすることも必要だ。

 つまり日本のほうがセーフティネットがしっかりしているんですよ。つまり日本のほうが医療保険制度がしっかりしているんですよ。
 話が右往左往して。

世界は決してフラット(平ら)ではない。先端技術を担える人材がいるところと、そうでないところでは投資に差が出る。米国と中国の製造業の平均賃金が将来は同等になるとしても、それは何十年も先のことだ。中国の製造業の生産性は先進国の10%以下だから、中国の賃金が上がるにしても限度がある。

 これは概ねそうかな。
 もっと、医療従事者とか学者とか、国境を越えちゃうし、シンガポールとか呼び寄せているし、そういうのがグローバル化なんすけどはまあとりあえずおいといてもいいか。で、中国の生産性というのは、あれ、資源利用の効率とかも関係するというか、中国人これからどう働くのでしょうっていうか、南アに出稼ぎとかね、よしとけばいいのに。
 金融危機については。

中国からの資金流入が金利低下を加速し、低所得者向け(サブプライム)融資ブームに油を注いだ面がある。

 へぇ。っていうか、資金流入させた別の国へのご配慮、ありがとう。でも、まあそういう面もあるくらいかな。

だが、金融機関の破綻がグローバル化のせいだとは言えない。これは基本的にウォール街の取引の複雑化に由来する危機で、米国産の現象だ。

 まあ、そうかな。EUの信用縮小は目をつぶると。
 目下の危機には、公的資金投入で30年代の不況再来を防ごうというのだけど、それなあ、むしろ雇用の問題じゃないかな。ロバート・サミュエルソンが言っているけど、失業補償を伸ばしたほうが効果的なんじゃないか、っていうか、サミュエルソンのように本当に危機なんかいかな的気分があるのだが。
 締めは日本だよ。日本。

日本の景気は回復したが、それは経済政策のおかげではなく、技術革新が進み、投資が望ましい水準に戻ったからだ。

 一瞬、え゛とか言いそうになるけど、概ねのところそう言ってもいいか。

しかし、日本経済はまだデフレのがけっぷちにある。経済をさらに上向かせるには、日銀が2%今日の物価上昇率を目標に掲げるよう私は提案してきたが、今も同じだ。

 それは言わないお約束。

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2008.05.12

[書評]私塾のすすめ(齋藤孝・梅田望夫)

 私などはブログの世界にいるせいか「私塾のすすめ ここから創造が生まれる」(参照)を梅田望夫対談シリーズ第三弾として読んでしまいがちになるが、二、三度読み返して、本書は基本的には斎藤孝ワールドを広げる形で読まれるというのが現在の日本の読書界あるいは出版界の妥当な位置づけではないかと思えた。たぶんその意図は達成されるだろうし、広く好意的に受容される対談になっていると評価する。

cover
私塾のすすめ
齋藤孝・梅田望夫
 うまく配慮が盛り込めないので失礼な言い方になるかもしれないが、対談の当初から斎藤孝はそういう構え(齋藤ワールドのまた一冊を作ること)でいたのだろう。多作の斎藤にしてみれば編集者から期待された著作群の拡張の一つだ。梅田もそこにビジネス的によく配慮し、齋藤の著作をよく学んでから対談に臨んでいる。
 だから齋藤ワールド的な滑らかな対談の流れが想定されるはずなのだが、実際の対談は梅田の情熱の側に歪むというか引きつけられトーヌスが発生している。齋藤は梅田からの問い掛けに、従来どおりの齋藤ワールドで答えつつも微妙なズレのところで引き返し、また梅田が問い掛けるという波がこの対談にはある。
 両者とも対談に手慣れた人だし、おそらく編集の阿吽もあってそうしたズレのような部分は表面的には見えにくい。対談書としての基本的なテーマ「私塾」にもうまく統合しているかに見える。さらに梅田は「おわりに」で二人が共通して戦っているものという統一的な視点を明確にして見せる。
 だが私はこの対談では、そうした対談の意図からのズレに関心を持った。本書の「私塾」はブログの世界に関わっているが、齋藤はその世界について調和しない。何が齋藤ワールドとブログの世界を調和させずにズレを残すのか。何が梅田を執拗にズレに押し出していくのか。
 齋藤の側のズレを責めるわけではないが、そのズレはネットの世界で可能になった、発言する個人なり、開かれた「私」の問い掛けの強さによるものだろうし、梅田の情熱はそこに根をもっている。また、そのズレは、プライベートと、出版的かつ公的な発言の関係に、本来的に潜んでいたものでもあるだろう。そのズレはネットの世界で増幅された。ネットがなければそのズレは見えなかった。
 対談に潜むズレは、微妙に50代に向かいつつある男の生き方に関わっている。性的な関係性に転機を迎えた中年の男の、「夫」あるいは「父」という、「私」から疎外された意識は、現在の状況ではある種のズレを持たずにはいられないからだ。たぶんこの対談は、40代の「父」であり「妻という女に対する夫という男」に、こっそりとだが強く揺さぶるものを持つのではないだろうか(もちろん「女」にも)。
 下品な切り込みになるかもしれないが、二人の次のような対話にそうしたズレの顕著な事例を私は見る。齋藤が「暗黙知を共有しているときに幸福感を味わえる」とした文脈のなかで、梅田はやや唐突に「夫婦」を問い掛ける。将棋や碁の感想という話についてだが。

齋藤 感想戦ができるということじたい、幸福なことですよね。すごく濃密なやりとりを非言語的におこなっていて、それについてあとで、言語的にふりかえることができるというのは。そういう濃密な関係性が築けることは素晴らしいことだと思います。
梅田 ご夫婦もそうですか?

 引用はあたかも夫婦関係の語りの文脈が滑らかに流れたかのようだが、実際の対話の文脈では、たとえば齋藤にしてみると濃密な関係に言及しながら、夫婦は想定されていない。まして齋藤にしみれば彼自身の夫婦関係が問われているようには理解していない。もちろん、この梅田の問い掛けに齋藤がそれほど違和感であったわけでもなく、武道の受け身のようにさらりと齋藤はこなしてはいる。

齋藤 これまでの会話の累積量が多いので、僕が言いそうなことはたいてい予測ついていますね。

 齋藤の簡素な「妻」語りは、中年の夫なら当たり前のようでもあるが、夫婦という関係性が、過去の会話の累積性として描かれていることは興味深い。逆に言えば、夫婦というのは齋藤にとって過去の会話の関係なのだろうかという疑念もある。予測可能な既知の関係性は、「濃密な関係性」とは当然あるズレを持つ。
 梅田はそのズレを感受したかわからない。流れるように、自身の文脈でこう続けていく。

梅田 うちも、アメリカに来てからの十四年で、ふつうの夫婦の一生分の話をしたね、一生分一緒にいたねとよく言い合っています。お互いに打つ手がすべてわかってしまうほど。

 私はあえてここで引用継続せず、梅田の対性と齋藤の対性の差異のようなものを少し感じる。
 齋藤はさらにこう受ける。

齋藤 一緒に暮らして二十年にもなると、あらゆる生活習慣を共有している。そうなると「いい悪い」という段階を超えますね。関係性の歴史というのは、暗黙知が積み重なれば積み重なるほど、言わなくてもわかる部分が増えて楽になる。だから、つい、仕事のパートナーでも慣れた人とやってしまいがちになります。ときどき、新しい人で勘のいい人が暗黙知を吸収すると、そっちにくっつきたくなりますね。

 細かいことを言えば齋藤は「暗黙知」を理解していないが、さし当たって問題ではない。私がここで注意したいのは、齋藤が二十代の結婚であるということと、恐らく学生結婚であることだ。さらにその関係が二十年後の今「ある段階を超えている」ことと、文脈が夫婦関係の深淵から、やや軽薄な印象を伴って仕事の関係に置換されていくことだ。
 梅田はたぶん齋藤の話に同感しながらも、人によって夫婦関係は違うものだろうしと流しているのだろう。だが、梅田の夫婦というものへの了解は齋藤のそれとは違っている。違いは両者が思っているより長い影を引く。たぶん齋藤には成人されたお子さんがあるだろうが、梅田には子どもはいない。その見えづらい差は同じように「私塾」と「子」の問題に反映されるのだが、それは問題の多面性を表出させるより、たぶん同じような年代にある「男」に重く問い掛けてくる。
 梅田が切り出した夫婦関係的な問題意識はしばらく対話が進んだあと、さらにまたひょっこりと蒸し返される。

梅田 自営の会社を始めて、あるときフルタイムの人を雇わなくなってから、自分の時間を完全に自由に使えるようになりました。人に会うのも好きなんだけれど、一人でいるのも好きだし、飲みに毎日行きたいという気持ちがある一方、引きこもっているのも好きです。過去のある時期は毎日飲みにいくような生活をしたから今はこっち、という振れかたに近いです。会社でみんなでわーわーやりたい、というのもあるんだろうけど、一人のほうがいい、という気持ちも両方ある。僕の妻は、淡々と一人で何かをずっとしているというのが好きな性格で、彼女のスタイルからずいぶん影響を受けた気もします。
 ところで、齋藤さんは、奥様から影響を受けていますか?
齋藤 受けていますね。僕は攻めを中心に考えるタイプであまり守りを考えないので、デフェンス面を補ってもらうという感じですね。
梅田 女性のほうが危機察知能力があるんですよね。僕は独立をするときに、最初、三人で会社をつくろうと思ったんです。アメリカ人一人と日本人一人と僕と、三人でチームを組んで、前の会社の中でかなり大きいビジネスをやっていたので、そのまま三人で会社を始めるという案があった。妻と相談したら、「一人でやるなら賛成、三人なら反対」と言われて、一人で独立することにしました。まったくもって正しい判断だったと思って、感謝しています。大きい判断については『君について行こう』の向井万起男先生の感覚に近いです(笑)
齋藤 大きい判断は当事者がすべき、という考えもありますが、勢いがあまっているし、人間関係にまみれているし、そういう事情を離れて客観的に見ることができにくいということがありますね。判断のスケールも、人によって得意不得意がありますね。僕は、仕事を受ける、引き受けないみたいな日々の細かいことについての判断というのは苦手です。

 あえて齋藤の受けまで引用した。梅田の「ところで、齋藤さんは、奥様から影響を受けていますか?」という唐突感と、梅田の自分語りに齋藤が実際には答えていないズレが興味深いからだ。
 齋藤は、「大きい判断は直接的な人間関係から離れた客観性が大切」という性の含みのない文脈にしているのだが、梅田の話では「妻」という、ある意味でもっとも深い関係性のなかで問われいる。齋藤はそこに気が付かない。
 梅田の「男・夫」としての自分語りはむしろ客観的に見るなら別の文脈がある。つまり、毎日でも飲みに行きたい行動と引きこもりもよいとする、双方の特質を持つ梅田という「夫」を「妻」が見るなら、彼女がその彼女自身の関与性から、「夫」の仕事について「一人に賛成」と答えるのは、ごく普通の帰結にすぎない。梅田はそこに気が付いていない。
 何かが語れることによって語られない何かが、実は、齋藤と梅田の、二人の表向きのテーマに深く関わってきている。それは「妻」と「夫」の他に、「父」と「子」という側面もある。
 例えば、次のような、齋藤による「父」語りだ。ここでは先ほどとは逆に齋藤の問いかけに梅田が沈黙している。

齋藤(中略)僕は、その場を祝福するような感じの祝祭体験を大事にしています。何かアイデアが浮かんだら、ああよかったね、みたいに拍手しあうとか。「場」を、「時」を祝福するというのは現実の人間でないとできないことです。
 語り合う相手が現実にそこにいるかいかないかというのは、必ずしも絶対的なことではありません。先日、父親が亡くなったのですが、亡くなった結果分かったのは、悲しいのは悲しいのだけれど、今でも父親が心の中に行き続けている、住み込んでいるという感じがするということです。亡くなるまでに、とことん語り尽くしたんですよ。

 齋藤は「現実の人間」の祝祭性を語りながら、「現実の人間」ではない死んだ「父」を語り出す。それは彼にとって違和感はない。「現実の人間」は、そこにいなくてもよいとしても、齋藤には矛盾ではない。なるほど、それはそれでもよい。
 死者の「父」が「子」である自分の中に生きているという感覚は、率直に言うのだが、子が40歳なるまで見届けた父親がもたらす好運に過ぎない。齋藤はおそらくこの語りが若くして「父」を失った梅田にどう響くかは意識していないだろう。
 梅田はこの齋藤による「父」の問い掛けに答えていない。語ることが難しい文脈を惹起することに配慮したかもしれない。さらに微妙な陰影があったのかもしれない。あるいはそういう私の読みは考え過ぎですよと笑ってすごすべきものかもしれない。
 齋藤の「父」語りにはまた独特のズレがある。齋藤は「父」をこう語る。

父親とは、「仕事をする心構え」の話しかしなかったんですが。父は家具屋業界で、こちらは学者で、職業は全然違うのだけれど、仕事をする心構えに関しての、お互いの燃える思いについて語り合いました。

 齋藤が父と語りあったのは40歳という文脈ではない。子どもの頃からそうだったと言う。子どもの頃から仕事をする心構えを語り合うわけはないから、ある種の生き方を、齋藤が幼いころから語りあっていたのだろう。
 そういう親子を想像できるだろうか? 私は想像しにくい。私はそういう父子を否定はしないが、率直に言えば、何かがおかしいと思う。
 父親は子にある「含羞」を持つものだし、子は子で父親に「含羞」を持つものだ。「含羞」は、妻であり母である女の関係や自身の性の関係を含み込む距離感もあるだろうが、むしろそうした「含羞」のなかで、子は「男」なり「女」なりという性によって自立した人間であることの感覚を持つようになる。齋藤にはそういう「含羞」が私はあまり感じられない。
 教育者であること、著名人であること、そうしたことが、齋藤の何かを覆っているし、あるいはそうした覆いの部分が教育者や著名性の基礎になっている。というのは、齋藤はこう自身を語る。梅田のブログに対して齋藤の本という文脈で。

齋藤 本というものは、文章にせよ、主題にせよ、ある程度以上の秩序が要求されますよね、編集者というフィルターも入りますし。でも、ネットで僕が直接メッセージを書いたときに、舌禍事件をおこしてしまいそうということがあります。本ではコントロールしているのですが、なまみの人間としては、そうとう危険な発言が多い。それが一つ。それから、ブログで日常をオープンすることによって、プライベートに入り込まれる、というのも危惧しています。実際いろんな人がいますから。本より、ネットのほうが読者との距離は近いですよね、双方向というか。
梅田 教室、本、ネットと並べれば、教室の祝祭空間とネットのほうが、教室と本より近い感じがするのですが。
齋藤 質的には近い感じがしますね。

 齋藤はそのブログ的なメディアに対して、プライベートの境界で危機感を持っているし、それはある意味で、教育者や著名人の特徴的な対応だろう。しかし、祝祭性が重要だとしながら、その祝祭性の濃い危険なブログが一つ前に突き出ているところから齋藤は引いていることになる。それに対して、梅田はそこに一つ突き進んでいる。その差異が「私塾」の意味合いにも反映している。
 この対談が暗黙に含み込んでいる差異は、繰り返すことになるが、仕事の第一線にある40代の男にとって、「夫」であることと「父」であることに静かな振動を与えている。おそらくズレは肯定されてもよいのではないか。もちろん、「妻」であり「母」である中年の女にとっても。

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2008.05.11

学習すると早死にするらしい

 また3日穴が開いてしまった。しまったな。ちょっと気を抜いていたというか、日々ブログを書いていた時間をTwitterにシフトすると、なるほどそれなりにブログを書く気力みたいのも抜けるものなのかな。ブログが書けないわけでもない。いろいろ思うことはあるし、いくつか書評めいたことも書きたい本もある。だけどネットに向き合う時間がなんとなく減りつつある。ジョン・マエダではないけど、背をもたれて本を読むほうが心地よいし、ジャーナルもマシンの前を離れてコーヒーを飲みながら読むほうを好みつつある。年齢ってやつか。でも考えてみたら、こんなにネットにプラグする以前の行動パターンだったか。

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パラサイト・レックス
生命進化のカギは
寄生生物が握っていた
カール・ジンマー
 そういえば「極東ブログ」という鉄人28号ばりのふざけた名前をブログ名にしたのは、できるだけ世界の端っこから世界を見つめていたいという思いもあった。以前なら目下のグルジア情勢やレバノン情勢についてもエントリを書いたものだった。そうした気力が抜けつつある。継続的に関心を持つことにしたダルフール危機も内戦の様相を深めており、スーダン政府が空爆で学童を殺害してもニュースにしないNHKなどが、反抗勢力の活動となるといそいそと報道するのもなんだなとは思うが、それでも報道しないよりはましだろう。ブログで何か言及すべきか。目下の状況はチャドとの関連があるようだし、大きな構図ではまだ変化もないといえばないのかもしれない。
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水辺で起きた大進化
カール ジンマー
 というあたりで、一息ついて、ちょっくら身近な温泉でも行ってくるなとかつい思ってしまう。いやいやなんかエントリを書こう。素直に思うのだけど、私は、できるだけブロガーでいたいなという気持ちもある。ブロガーなんてもちろんバカみたいな存在、糞みたいな存在だろうけど。
 で、おネタなのだが、日本で報道されただろうか。へぇと思ったし、どうせどっかのブログがネタに書いているんじゃないかと思うのだが、ジャーナル発ロイター経由みたいなものではないからそうでもなかったか。ネタは、サイエンスライターのカール・ジンマー(CARL ZIMMER:参照参照)が6日のニューヨークタイズムのサイエンス欄に書いた記事”Lots of Animals Learn, but Smarter Isn’t Better
”(参照)だ。面白かった。その後、エディトリアルなんかでも取り上げられていた。

Lots of Animals Learn, but Smarter Isn't Better

“Why are humans so smart?” is a question that fascinates scientists. Tadeusz Kawecki, an evolutionary biologist at the University of Fribourg, likes to turn around the question.

“If it's so great to be smart,” Dr. Kawecki asks, “why have most animals remained dumb?”

学習行動をする動物は多いのに賢いことがより良いわけでもない
「なぜヒトは賢いのか?」という疑問は科学者を魅了する。フライバーグ大学の進化生物学者タデューツ・カウツキーは問題の転換を好む。彼はこう問い掛ける、「もし賢くなることがすばらしいなら、大半の動物が愚鈍のままなのはなぜだろう?」)


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「進化」大全
カール・ジンマー
 もちろん、コラムだし、ネットでいう「釣り」ではあるのだが、ようするに学習しないことの生物進化的な意義というのがありそうだということだ。
 その前に、動物や昆虫というのはそんなに学習するものなのか?
 するらしい。というか、するというのが最近の生物学の常識と見てよいらしい。つまり、行動は本能行動というだけではなく状況における学習の意義が大きいようだ。という話がちと続く。
 であれば、なぜ学習がそれほど普遍性があるのに、そうは見えないのか。

Although learning may be widespread among animals, Dr. Dukas wonders why they bothered to evolve it in the first place. “You cannot just say that learning is an adaptation to a changing environment,” he said.
(学習が各種動物に広まっているかもしれないとして、ではなぜそれを優先に進化しないのか、そうデュカス博士は問う。「学習は環境変化による適合であるというだけではすまない」)

 そういう疑問から、学習、つまり環境変化による適合、というものが、神経システムに対してなんらのデメリットを持っているのではないか、という疑問になり、ほいじゃ、ショウジョウバエを学習させて、どーんなデメリットがあるのか調べてみようということになった。いいんじゃないかな。水とかに語りかけるよりショウジョウバエというのは。

It takes just 15 generations under these conditions for the flies to become genetically programmed to learn better.
(遺伝的に学習効率良くプログラムさせるためには、こうした環境下で15世代を経過させる。)

 で、どうなったか? 

The ability to learn does not just harm the flies in their youth, though. In a paper to be published in the journal Evolution, Dr. Kawecki and his colleagues report that their fast-learning flies live on average 15 percent shorter lives than flies that had not experienced selection on the quinine-spiked jelly. Flies that have undergone selection for long life were up to 40 percent worse at learning than ordinary flies.
(ショウジョウバエが若いときは学習は有害ではない。が、「進化」誌掲載論文で、カウツキー博士と同僚の報告では、初代の学習ショウジョウバエは、キーネ入りゼリー選択を経験しない普通のショウジョウバエより、平均寿命が15%短かった。長期生存で選択下にあったショウジョウバエは学習によて通常のショウジョウバエより40%も悪化した。)

 つまり、学習すると、早死にするようになった。
 なぜ? 理由はわからない。

“We don’t know what the mechanism of this is,” Dr. Kawecki said.
(カウツキー博士は、我々にはこの機序がわからないと言った。)

 わかんないじゃすまないので、理由を考える。
 現状のところ、ようするに学習っていうのは神経系に負荷が大きすぎるのではないかということになりそうだ。
 そのあたりは、別コラムニストが”The Cost of Smarts”(参照)も書いていた。
 いずれにせよ、学習というのは一種のダークサイドというか副作用とか、生存によからぬ影響を持っていると仮定してもよさそうだ。

Dr. Kawecki says it is worth investigating whether humans also pay hidden costs for extreme learning. “We could speculate that some diseases are a byproduct of intelligence,” he said.
(人間の過度の学習にはどんな損失が隠されているのか調べる価値があるとカウツキー博士は言う。「ある種の病気というのは知性の副作用であると考えられるではないかな。」)

 そしてオチ。ネタにはオチだよ。

“If you’re using your intelligence to outsmart your group, then there’s an arms race,” Dr. Kawecki said.
(きみが所属する集団により優れるために知性を使うなら、それは軍備拡張となる。)

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セレクション
たま
 なんかあれだな、平和のためには逆進化というか、むかし「たま」の歌にあったように退化していくのがいいのかもしれないし、その率先にある世界の範たる国民といえば……、ちょっとヨタがすぎました。

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