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2008.04.26

[書評]デフレは終わらない 騙されないための裏読み経済学(上野泰也)

 私は経済学に詳しくはないが日本は依然デフレだし、いろいろ諸物価高騰というけどデフレ基調は終わらないと見ているので、「デフレは終わらない 騙されないための裏読み経済学(上野泰也)」(参照)は表題を見てそのまま買って読むことにした。

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デフレは終わらない
されないための裏読み経済学
 帯にある聡明そうなお写真と「エコミストランキング6年間連続1位の著者」というのも、なんか偉そうでいいなとか思った。どうでもいいけど、本書は、著者上野泰也自身の自分語りや家族のことなどのほうが印象深く心に残った。水泳しているというところもよいな、うんうん。
 本書読後、結論としては、筆者の言われるように、デフレは終わらない、という認識はわかるものの、率直にいうと、なぜ「デフレが終わらないのか」という理路は釈然としなかった。なぜデフレが続くのか。本書のエッセンス部分は次のような観点だろうか。

 根強いデフレ圧力は、今後もさまざな商品の形をとって、「番付」上で確認されていくことだろう。需要面からの構造的なデフレ要因である「人口減少」と「少子高齢化」、そして政府が推進しているさまざまな「規制緩和」。これらが、サービス分野の硬直的な価格をさらに破壊する流れは今後も続く。

 私が本書を読み違いしているのかもしれないが、それがデフレの原因説明というのは、率直に言って納得できなかった。(付け足すと筆者は海外のインフレ要因は独立してみなせるとしているようだが、そこは納得定食。)
 デフレは基本的に貨幣現象だろうと私は見ている(あるいは見るようになった)ので、そうした貨幣要因がどう説明されるかが本書の一番の期待だったったのだが、そのあたりの説明はなかったように思われる。日銀についてもなぜ利上げを求めるか、また内部の意志決定はどうなってんの問題などの部分はかなり議論が裂かれているのだが、デフレを基本にすえてという前提があっての話なので、それはそれとしても良いのだが、日銀と貨幣制御の関係は問われていないように思えた。どうなんでしょうかね、経済学にお詳しいみなさん。
 私は経済学に疎いのでデフレ原因についてよくわからないのだが、本書の「人口減少」「少子高齢化」「規制緩和」については、違うのではないかという印象はもった。つまりそれらは日本をその経済を含め変動させていく主要因ではあるけど、デフレという経済現象をもたらすに中間的な機構なのでは。別の言い方をすれば、「人口減少」「少子高齢化」「規制緩和」があってもデフレにはならないということも可能だろう。素人なりにそう思うのは、世界の国で言えば、途上国と米国をのぞけば日本は人口的に見ても大国でありむしろ普通の国は人口は少ない。ただ、国力の衰退がデフレに繋がるだろうことは否定しないが。また、規制緩和はそれが上手に機能するのであれば生産性向上にむしろ繋がる可能性のほうが強いのではないか。
 私のもわっとした疑念の核にあるのは、本書の主張の理論的な根には、「人口減少」「少子高齢化」「規制緩和」といった要因より、需要の不足がある。つまり、本書の主張は簡単にいえば、日本は需要不足に陥っているからデフレなのだ、ということではないだろうか。
 私も長いことそう考えてきたし、また今でも半分くらいはそう考えているので、需要不足からデフレという話は半分くらいはわかる。ただ、現実にリアル世間とかネットを眺めていると、格差だ貧困が問題だというわりには、奇妙なところに大きなカネが流れては問題を起こしている(そんな投資話はないだろ常考的な)のを見ていると、カネをどう使っていいかわからないという部分もあるし、偉そうな言い方だけど日本の経済の問題はある意味でカネを溜め込んでいることが諸悪の原因とも言えるわけで、マイナス金利しろよ的な意見のほうに私は傾いている。
 まとめると、確かに需要が低減しているしそれが目下のデフレなんだけど、その需要低減は、「人口減少」「少子高齢化」「規制緩和」などからべたに引き出されものなのか。また潜在的な需要は低いのか? そこが皆目わからなかった。
 とはいえ、「デフレが終わらない」を基軸とした未来の死ミレーションの的な部分の話や個別の経済認識については興味深かった。たとえば。

 過熱した中国の景気が目立って減速する時期は、おそらく2008年夏の北京五輪終了後には到来するだろう。実はすでに、当局による金利引き上げなどの景気抑制策を受けて、07年12月分のマネーサプライ伸び率が予想外に鈍化するという変調が出始めている。中国など新興諸国の景気が勢いを弱めることは、原油や穀物といった国際商品の市況を下落させる効果を間違いなく有する。

 目下の原油高騰や穀物高騰について本書でもドル安へのバーターという説明があり、私もそう見ているのだが、この部分の指摘、つまり、現在世界的なインフレを進めている投機の部分だが、いわゆるデカプリグン論の逆みたいだけど、需要の低減予測で価格ががっこんと変化を来すのではないだろうか。
 というか、どうもこの夏はしんどいことになるのではないかな。米国大統領選挙もこのまま暢気なシーンが続かないんじゃないかみたいな不安はある。
 なんとなくだけど、日本はなんだかんだ言っても好運だし鎖国的だから、地味にこの世界が維持できるならどかんと投資が流れ込むなんて変な図が出てくるかもしれない……うーん、ちょっと違うかな。

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2008.04.24

[書評]それでもなお、人を愛しなさい 人生の意味を見つけるための逆説の10カ条(ケント・M・キース)

 先日、ウエイン・W・ダイアーの「ダイアー博士のスピリチュアル・ライフ」(参照)をざっと読んだとき、そのなかに「逆説の十戒(The Paradoxical Commandments)」が出てきて、しばらく考えこんだ。

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それでもなお、
人を愛しなさい
人生の意味を見つけるための
逆説の10カ条
ケント・M・キース
 「逆説の十戒」は多少なりとも良心的な教養のある英米人ならそらんじているとまではいえなくても、たいていは知っているものだ。あるいはなんとなく壁に貼ってあったりする有名な教えだ。旧約聖書のモーセ十戒にちなんで十戒になっているが、逆説(パラドキシカル)とあるように合理的ではない不合理な教えだ。有名なので英語版のウィキペディアにも項目がある。日本語の項目はないので試訳を添えておこう。

  1. People are illogical, unreasonable, and self-centered. Love them anyway. (人は論理的でも合理的でもなく自己中心的なものだ。それはそれとして、人を愛しなさい。)
  2. If you do good, people will accuse you of selfish, ulterior motives. Do good anyway. (あなたが良いことをしても人はわがままだと非難するし動機を邪推する。それはそれとして、いつも良いことをしなさい。)
  3. If you are successful, you will win false friends and true enemies. Succeed anyway. (あなたが成功すると、間違った友人と本当の敵を得る。それはそれとして、成功させなさい。)
  4. The good you do today, will be forgotten tomorrow. Do good anyway. (あなたがする今日の良いことは明日には忘れられる。それはそれとして、よいことをしなさい。)
  5. Honesty and frankness make you vulnerable. Be honest and frank anyway. (正直と気安さはあなたを弱い人にする。それはそれとして、正直で気安くありなさい。)
  6. The biggest men and women with the biggest ideas can be shot down by the smallest men and women with the smallest minds. Think big anyway. (最大級の発想を抱く最大級の男も女も、最低の心情を抱く男や女によって打ち落とされる。それはそれとして、大きな発想をしよう。)
  7. People favor underdogs, but follow only top dogs. Fight for a few underdogs anyway. (人は負け組に同情しても勝ち組に追従するものだ。それはそれとして、負け組のために戦いなさい。)
  8. What you spend years building may be destroyed overnight. Build anyway. (幾年もかかる建物も一晩で壊される。それはそれとして、建てよう。)
  9. People really need help, but may attack you if you do help them. Help people anyway. (人が本当に助けを必要としているのに、あなたが助けようとすればあなたが非難される。それはそれとして、人を助けなさい。)
  10. Give the world the best you have and you’ll get kicked in the teeth. Give the world the best you have anyway. (自分の持っている最善を世の中に尽くしても、それで酷い目に合わされる。それはそれとして、世の中に最善を尽くしなさい。)

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マザー・テレサ語る
 ウィキペディアの解説にあるように、1949年生まれのケント・M・キースさんが大学生時代、1968年に学生向けの小冊子に書いたものだった。一種の詩でもあったようだ。それが不思議と人々の間に広まり、マザー・テレサのグループのもとに至り、彼女たちが愛唱した教えとしてルシンダ ・ヴァーディ編著「マザー・テレサ語る」(参照)に掲載され、いわばマザー・テレサの教えとしてさらに世界中に広まった。
 ケント・M・キースさん本人はそれを25年後に知ることになる。本書「それでもなお、人を愛しなさい 人生の意味を見つけるための逆説の10カ条」(参照)はそうした不思議な経緯で書かれたものだった。

「逆説の十カ条」が世界に広まって、二十年後にさまざまな形で私のところに戻って来始めたのです。不思議な感じに打たれました。人々はいま、これまでもそうであったように、生きることの意味とスピリチュアルな真実に飢えているということを暗示しているように思われました。また、「逆説の十カ条」について人々はもっと知りたがっているのではないかとも思われました。
 本書はもっと知りたい人のために書かれました。「逆説の十カ条」とは何を意味するのか、その背後にはどんな物語があるのか、その考えを生きるとはどういうことなのかといった質問に答える本です。世界がどんなに狂っていたとしても、人は人間としての意味を見つけることができると私は確信しています。同時に、他人から認めてもらうことや拍手喝采を受けることに心の焦点を合わせる代わりに、人間としての意味に焦点を絞って逆説的な人生を生きたなら、この世界はもっと意味のあるものになるだろうことも確信しています。自分の人生に意味を発見する中で、私たちの一人ひとりがこの世界をすべての人にとってより住みやすい場所にすることができると思うのです。

 私はうかつにもこの本の存在を知らなかったし、エッセンスがすでに10カ条にうまくまとめられているなら、それをたぶん薄めたようなご教訓の本など読むことはないのではないかと思った。それに高校生に毛が生えたくらいの青年の詩にそれほど意味を求めるべきでもないのではないかと思った。でも、なんか自分にも奇妙な巡り合わせのようなものをスピリチュアルというか感じたので読んでみた。読んで良かった。読みながらなんども泣いてしまった。
 すでに老人の域に入っているケント・M・キースさんがまさにこの「逆説の十カ条」を生き抜いた総括がわかりやすく書かれている。そしてその話からもう一度「逆説の十カ条」を読み返すと、これはすごい教えなのだなと思う。
 逆説というのは、つまり、合理的に考えるなら人生に意味はない。だけど、あなたや私の人生の意味がないということではない。それは不合理な言い方だし、逆説だ。

 この世界は狂っているということをまず認める、そこから始めるのが最善です。この世界はまったくどうかしています。


 確かに、この世界は狂っています。あなたにとってこの世界が意味をなさないと言うのなら、それはあなたの言うとおりです。この世界はまったく意味をなしていません。
 大切なことは、それについて不平を言うことではありません。希望をすてることでもありません。それはこういうことです。世界は意味をなしていません。しかし、あなた自身は意味をなすことが可能なのです。あなた自身は一人の人間としての意味を発見できるのです。それがこの本のポイントです。これは、狂った世界の中にあって人間として意味を見つけることについての本です。

 私はこの本を読み終えて、これまで出会った良い人たちのことを思い出してみた。人はどの民族に所属してもどの宗教に所属していてもあるいは宗教など信じていなくても、良い人がありうる。そしてその良い人々にはなにかある普遍的な倫理性の確信のようなものがある。それはこの「逆説の十カ条」にとても近いという感じがする。
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Anyway:
The Paradoxical Commandments:
Finding Personal Meaning
in a Crazy World:
Kent M. Keith
 "Honesty and frankness make you vulnerable."は、正直で気安く生きていると、人はvulnerableになる、弱みを握られたようになる、弱くなるということだ。それは、負け組の心理に加担し正義の仮面を被って人を罵る人の弱さとは違う。でも、弱いには弱いし、"can be shot down "というように、狙い撃ちされる。でも、そうしなさいということができれば、その弱さこそが逆説のなかで強さを意味するのだろう。

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2008.04.23

光市母子殺害事件高裁判決、雑感

 光市母子殺害事件高裁判決の印象だが、率直に言って気が重い。気が重くなるようなことは趣味でやっているブログに書くことはないだろうとも思うし、最近ではそれ以外でも気が重いときや無理にネタを書くことはないなというときは書いていない。ただ、この話については、普通の国民の一人として雑感を書くくらいはしてほうがいいのではないなと思うので、ちょっと書こう。その程度なので、大した議論とかにとらないでほしい。
 私は、以前にも書いたと思うが、大阪教育大学附属池田小学校事件以降、死刑廃止論者というほど大それたものではないが、死刑廃止の考えに傾いてきた。理由は以前も書いたけど、死を決心したらなんでもできるというありかたを拒絶したいというのがある。ただ、それについては違うよという意見もあるだろう。あと、先進国は米国をのぞけば表向きは死刑を廃止しているし、米国も基本的に州法の問題になっている。日本も先進国ツラをしておくのもいいのではないかとも少し思う。ただし、実際に死刑を廃止するなら別途きちんとした終身刑は整備されないといけないとも思うが、そのあたりは私が論じるよりよい論者が社会にたくさんいらっしゃるだろう。
 もう一つ。私は未成年の行動は社会の大人にかなりの責任があると考えている。今回の例でもやはり未成年のことだしという思いは強い。ただ、最近の世界の潮流からみると、18歳を未成年と見るのは難しいというのもあるかもしれない。そういう議論であれば選挙権と併せて18歳を成人とすべきかと思う。
 ということで、今回の高裁判決は、自分の信条としてはやるせないものを感じた。
 しかし、私の信条というか理念というのは、当然現行法の変更への期待にすぎないのであって、現行法が適用されている現状の元での判決ということであれば、法理に照らして妥当かどうかが問われる。この部分については、私は法律の専門家ではないのだが、今回の最高裁差し戻しの経緯などをざっと見ると、妥当なのではないかと思う。つまり、今回の死刑判決は現行の法の視点からみて妥当だろうと思う。ただ、それと私の信条は違うなということで特に大きな矛盾は感じてはいない。
 その意味で、今朝の朝日新聞社説”母子殺害死刑―あなたが裁判員だったら”(参照)のように、今後現行法の下で私が裁判員になるというなら、現行の法と社会通念に照らしてそのとき、他の裁判員と対話して考えて結論を出すだろうということで、対話を優先し予断をもたないでいたい。
 同社説ではメディアへの批判もあったが、私がもしこうしたケースの裁判員になるなら、米国のO・Jシンプソン裁判の陪審員のようにメディアの情報はいったん遮断すると思う。そのあたりは、私の個人的な思いより、制度に組み込んでもよいようにも思うが、実際は難しいのだろうか。
 今回の判決について以上のように述べたものの、難しいなと思う部分は、法理とか偉そうにいっても、その内部に社会通念というか世相の判断が必然的に含まれる部分があることと、裁判員制度はむしろそれを積極的に推し進める制度であるという点だ。そこが自分ではうまく整理はできていない。
 この問題については、日経新聞社説”国民の感覚を映した死刑判決”(参照)が示唆深かった。


 死刑は憲法が禁止する「残虐な刑罰」にはあたらない、との判断を初めて下した48年の最高裁大法廷判決には「ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によって定まる」との補足意見がついている。
 これを敷衍(ふえん)すれば、死刑適用を判断するには、裁判官は専門家の「量刑の適正感」でなく、国民の「何が適正な刑罰か」の感覚をくむべき、といえよう。さらに刑罰全般についても専門家の「適正感」が妥当か一般国民の感覚と常に照らし合わせる必要がある。裁判員制度を始める理由の1つがそこにある。

 最高裁判決ではなく補足意見であり、かつ48年と古いことを考慮すると、「これを敷衍すれば」とまで言っていいのか、つまり、そのまま敷衍とかしちゃっうとふえ~んってなことになりはしないかと懸念もあるのだが、指摘の大筋としては正しいように思う。つまり、死刑の量刑も「一般国民の感覚」によるということだろう。
 メディアの騒ぎを完全に別にできると思うわけではないが、今回のケースなどを見ると、「一般国民の感覚」としては、あれが死刑でなければどういう処罰がいいのかという感覚は強いと思われるし、それは私の印象だけではなく、各種アンケートなどをしてもそういう結果は出てくるだろう。
 死刑廃止や未成年犯罪の問題は、だからこそ、「一般国民の感覚」にまで降りて議論されなくてはならないだろうし、そういう点にブログは、それが些細な存在だからということで、ちょっこし近いところにいるのかもしれない。

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