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2008.04.19

[書評]ウエイン・W・ダイアーのこと

 先日ふとウイエン・W・ダイアーのことが気になってたまたま本屋に行ったら彼の本があった。手にとって見て特に読むことはないかなと思ったが、それからちょっと気になることがあったので買ってみた。最初に手に取って気になったのはこれではなかったかもしれない。

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ダイアー博士の
スピリチュアル・ライフ
 これというのは、「ダイアー博士のスピリチュアル・ライフ―“運命を操る力”を手にする「7つの特別プログラム」(ウエイン・W・ダイアー、訳:渡部昇一)」(参照)だ。ざっと読んだ。ざっとしか読めない本だとも言える。表題から連想される以上のことは何も書かれてない。それでも気になるなら出版社の釣書はこう。

あなたのスピリット(魂)には、人生のあらゆる問題を解決する答えがある! 「自分のための人生」をはじめ、数多くのベストセラーを著してきた著者が執筆。「不思議な偶然」と「幸運」に出会う本。

 そうなのかもしれない。しかし、当面自分には関係ないなと思った。奇妙な空白感があった。この空白感は二度目だ。
 一度目は、沖縄で暮らしていたころ、ふとウエイン・W・ダイアーのことが気になって、「自分のための人生―“自分の考え”はどこへいった! (ウエイン・W・ダイアー、訳:渡部昇一)」(参照)と「どう生きるか、自分の人生!―実は、人生はこんなに簡単なもの(ウエイン・W・ダイアー、訳:渡部昇一)」(参照)それともう1冊アマゾンで取り寄せて読んでがっかりしたことがある。単純に言うと、あの時思ったのは抄訳がひどすぎるのではないかということだった。
 私がウエイン・W・ダイアーの本を最初に読んだのは、「間違いだらけの生き方―あなたは人生に自信が持てますか(訳:多湖輝)」(参照)だった。これも抄訳だったが、けっこう人生観にインパクトを受けたものだった。1977年の出版である。当時の日本語表記では「ダイヤー」だった。オリジナルは”Your Erroneous Zones(Wayne W. Dyer)”(参照)で、アマゾンの広告には「全世界1250万部突破の記録的大ベストセラー」とあるがウィキペディアでは3000万部とある。ちょっとありえねえ感があるが当時、あるいはそれから米人とちょっとした話の際になにげなく聞いてみるとある年代以上の人はほとんどがこの本を読んでいた。今アマゾンを見たらドイツ語版もけっこう売れているようだ。
 ”Your Erroneous Zones”は彼の著作のなかでは2作目で、実際には同書を読めばわかるように当時は彼はカウンセラーで、最初の著作はそうした職業的なもののようだ(私は読んだことはない)。なので”Your Erroneous Zones”が事実上の処女作と言っていいだろう。1976年の作品で頭の体操で有名な多湖輝が感銘して訳したというのだが、ご本人が訳されたのだろうか。そういえば、その後は渡部昇一訳がよく出てくるのだがこれもご本人が訳されたのだろうか。余談だが、私は多湖輝にも渡部昇一にも実際に会ったことがある。しかも会いたくて会ったわけでもなくというシチュエーションなのだが。多湖輝については同訳書が出たころだった。1926年生まれというから、あのころ50歳くらい、つまり今の私くらいの年だったわけか。彼は、人生の選択として子どもを生まないということがあります、と熱心に説いていたのだが、その熱心さになんか奇妙な違和感を覚えたものだった。渡部昇一については、いやそれはまた別の機会でもあれば。
 ”Your Erroneous Zones”は私好みの悪いダジャレは止めてくれ系のタイトルでネタもとは”erogenous zones(性感帯)”である。くだらね。とはいえ意味は、人間の行動パターンでエラーを起こしやすい諸点ということだろう。多湖輝訳では「間違いだらけの生き方」としていたがそのほうが、「自分のための人生」よりもマシな気がするし。くだくだ書いたけど、全世界でこれだけの人が読んだ本は名著というほかはない。英語で読めるなら読んでみるといいと思うし、邦訳なら多湖輝訳を古書でさがされたほうがいいと思う。
 事実上の次作、”Pulling Your Own Strings: Dynamic Techniques for Dealing With Other People and Living Your Life As You Choose ”(参照)も、率直にいってすごい本で、私は若い時にこれ読んでしまったので、行動パターンがちょっと日本人からずれてしまった。あれだ、欧米人や華人といて、この押しの強さはなんだお前らになるコツが延々と書かれている、えげつない本である。読むと得をする本だと言ってもいいが、長期的に見れば、私がいい例だけど、今は反省している。翻訳者渡部昇一はそうではないご様子なのが「ダイアー博士のスピリチュアル・ライフ」の後書きでわかった。彼が英国留学中、地方税をどうするかという問題に直面したときのことだ。

 その時、ちょうど『どう生きるか、自分の人生!』の翻訳に関わっていたので、そこに書かれたとおりのことを実行することによって、首尾よく数百万円の地方税がすべて反ってくるという経験をしたのである。
 こうした自身の経験からも、なるほどダイヤーは実践的な生活の知恵を教えるすばらしい人だと思っていたのである。

 この本も翻訳は渡部昇一でないものがあったと思うのだが、わからない。いずれにせよ現在その訳本として販売されている「どう生きるか、自分の人生!」とは別の本のような印象がある。
 その後、ウエイン・W・ダイアーは事実上の三作目"The Sky's the Limit"(参照)を出したあたりから、マズロー心理学のようになっていき、そしてだんだん変な人になっていた。先の「ダイアー博士のスピリチュアル・ライフ」の後書きではこうある。

 しかし、ダイアーは単にこの世の生活技術のみならず、インテリジェントなものからスピリチュアルなものへと興味と関心が動いていったのであった。
 その後、私は彼の主なる著書に二十数年つきあってきたので、彼の成長過程がよくわかる。そして彼は自分の死んだ父との神秘的体験もあって、完全にスピリチュアルなほうにウエイトをかける著者になったのである。

 というわけで、同書はすでにすっかりそっちの人になったウエイン・W・ダイアーがいる。
 エントリの冒頭に戻る。私は、なぜかウエイン・W・ダイアーのすっかり度が少し気になった。人間いったいどこまですっかりその気になれるものなんだろうか、という関心でもある。そして、すごーく行っちゃった人の話を聞くと、自分もすごーく行けちゃうものなんだろうか。よくわかんないけど、自分はどことなく、その手のすごーく行っちゃった人とスピリチュアルな縁というか悪業でもあるのかこんきしょう的な遭遇もないわけでもないので云々。で、読んで気が抜けた。ほとんど空白感だったのである。
 率直に言うと、私はそのすっかりになってしまったウエイン・W・ダイアーにまだちょっと興味がある。それと正確に言えば、私のように今は反省しているタイプの人では、ウエイン・W・ダイアーはないようだ。なんかこの奇妙なねちっこさのようなものが「ダイアー博士のスピリチュアル・ライフ」からはにじみ出ているような気がした。

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2008.04.18

人は年を取るにつれて幸せになるか

 人は年を取るにつれて幸せになるか? なるらしい。いやそこまで一般化はできない問い掛けだろうし、個人の人生観などが関わってくる問題でもあるのだろうけど、今朝のサイエンス・デイリー”Older People Are Nation's Happiest: Baby Boomers Less Happy Than Other Generational Groups(老人がこの国で一番幸せ:ベイビーブーマー世代はそれより年上の世代に比べると幸福感は少ない)”(参照)の記事を読みながら少しそんなことを考えた。このニュースが気になったのは、自分も年を取るについ幸せだと思うことが多くなったような気がするからだ。
 サイエンス・デイリーの記事はもう少し限定されている。表題からもわかるように、ベイビーブーマー世代とその上の世代の比較で、上の世代のほうが幸福度が高いらしい。ベイビーブーマー世代とはウィキペディアを借りると(参照)、「アメリカ合衆国を中心として、第二次世界大戦終了後の復員兵の帰還に伴って出生率が上昇した時期に生まれた世代」で具体的には、「アメリカにおいては世代の範囲についての定義に揺れがあるものの、1946年から1964年の間に生まれた人々を指す事が多い」とある。
 一読して、「え? 俺(57年生まれ)もベイビーブーマー世代なのか?」と驚いて英語ウィキペディアの解説を見たら日本語ウィキペディアは英語の記述に依拠しているようだ。自分がベイビーブーマー世代になるとは知らなかったなと思った。ところがよく読むと、知らなかった理由もわかる。


1947年から1948年、1957年から1958年にかけてと1961年から1964年にかけては明らかに減少しているが、1964年から65年における減少幅の方がそれらより断然大きい[1]。おおよその目安としては1940年代から1960年代となっている。

 これは米国を指すのだろうと思うけど、私が生まれた57年は団塊世代の終わりと共通一次世代の狭間にあって奇妙な空白感があった。まあ、私のようなこの間隙の世代を理解してくれと言っても無駄なのがよくわかってあらかじめ黙り老いてしまった世代でもある。余談ついで言えば、この間隙の世代は最初から老いていたので、自分を若者だと思ったこともない。団塊世代の若者文化の偽善性をひんやり横目で見ていた。昨今の若い人たちが自身を若者と同定して語るのに合うと、こいつら団塊世代と同じっぽいな、とか思う。と同時に共通一次世代以降のような社会価値の一元性もなかった。センター試験の点数とかそもそもなかったけど、学歴とかもあまりピンとこなかった。一時期自分の周りに東大生がけっこういたけど、別になんとも思わなかった。それはさておき、日本ではベイビーブーマー世代は団塊世代に相当するとされている。自分は団塊世代と感性もライフスタイルも違うので、だから自分はベイビーブーマー世代じゃないでしょと思っていたわけだ。むしろ、私のような間隙の世代は大正デモクラシーの世代に共感していた。私も50歳になって自分の日本人アイデンティティというのを思うのだけど、父や山本七平、手塚治虫、星新一、といったなんとなく欧風のモダンな日本人の感性に近い気がする。
 余談が長くなるが、米国民主党のクリントンとオバマのごたごたは、ようするにこの広義のベイビーブーマー世代とそれ以下の世代の対立なのだろう。というか、話を戻すとこのサイエンス・デイリーの記事もその陰影がある。

The study also found that baby boomers are not as content as other generations, African Americans are less happy than whites, men are less happy than women, happiness can rise and fall between eras, and that, with age the differences narrow.
(研究でわかったことは、ベイビーブーマー世代は他の世代より満足度が少ないこと、アフリカ系米人は白人により幸福度が低いこと、男性は女性より幸福度が低いこと、幸福度は時代によって起伏があること、年齢差は少ないことだ。)

 黒人と白人とに幸福感の差があるのは社会構造の反映があるのだろう。男女差もそうかもしれない。しかし、概ね時代に流されて、人はその幸福感を決めていると見てもよさそうだ。
 また、この先に白人女性の老人がもっとも幸福感を得ているともあるが、ベイビーブーマー世代より上の世代では、きちんとお婆ちゃんになれたからではないかという印象がある。が、記事では一般化としてはこう言及している。

The increase in happiness with age is consistent with the "age as maturity hypothesis," Yang said. With age comes positive psychosocial traits, such as self-integration and self-esteem; these signs of maturity could contribute to a better sense of overall well-being.
(年齢による幸福度の増加は、加齢成熟仮説に合っている。年を重ねるにつれ、自己統合や自己評価といった心理的形質は積極的になる。こうした成熟の特徴は、健康であることの了解によるのだろう。)

 とはいえベイビーブーマー世代はそれほどではない。老境というのはまだ年齢が若いからとも言えるのかもしれないが、記事では社会的資源の配分にも言及しているので、基本的には社会に還元されるのではないだろうか。
 サイエンス・デイリー記事のネタもとは、the April issue of Media Abstracts for the American Sociological Review。概要は”Media Abstracts for April 2008 ASR”(参照)にある。試訳は添えないがそれほど難しい口調ではないし、サイエンス・デイリー記事から逸れているわけではない。

Social Inequalities in Happiness in the United States, 1972 to 2004: An Age-Period-Cohort Analysis
- Yang Yang, The University of Chicago
Americans Becoming Happier, but Baby-Boomers Less Happy than Others

As Americans live longer, are they living better, happier lives? Research by Yang Yang, a sociologist at The University of Chicago, provides a comprehensive analysis of the disparities in happiness between men and women with different demographic characteristics, such as age and race. While substantial variation in subjective happiness exists between social groups, she finds that overall, levels of happiness increase with age. Since 1995, most groups of Americans have seen an up tick in happiness, with the happiness gap between men and women closing during this time. The racial disparity in happiness, although declining, continues to persist. Interestingly, she finds that baby boomers have experienced less happiness on average than both earlier and more recent cohorts. This suggests that happiness in later life is closely related to early life conditions and formative experiences. For example, larger cohort sizes increase the competition to enter schools and the labor market and create more strains to achieve expected economic success and family life. Baby boomer’s unique experiences during early adulthood may have had a lasting impact on their sense of happiness.


 ざっくり眺めていると、サイエンス・デイリー記事から落ちているのは、老後の幸福は人生の初期地点にも依存するというあたりだろうか。初期というのは、修学から就職を意味しているようだ。
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ヘルシーエイジング
アンドルー ワイル
 ベイビー世代より上の世代ではその頃戦争やまだ恐慌の余波があったようにも思うのだが、とすると悲惨な経験は老後の幸福感にも繋がるのかもしれない。そう言ってしまうのは穿ちすぎだが、最近若い人と話して思うのは、東京オリンピック以前の東京や日本の、本当の風景の感触ってなくなったんだなと思う。臭かったですよ、あちこち、なにかと、あの時代。

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2008.04.16

イタリア総選挙、雑感

 イタリア総選挙でベルルスコーニが帰ってきた。マジかよ。というあたりで、イタリアという国はよくわからないし、よくわかんなくてもイタリアはイタリアなんじゃないか。問題解決は、ようするにG8から抜ければいいだけじゃないか。と不謹慎なことを思いつつ、この話題はどう扱っていいのかわからないなと思ってもいたのだが、今朝の朝日新聞と日経新聞が社説で扱っていた。両紙ともによほど社説のネタに事欠いていたのかと思ったが、一読して不可解。だらっとした話になるけど、朝日新聞社説”イタリア総選挙―政治こそ新陳代謝がいる”(参照)は実に要領を得なかった。というか、肝心なところイタリアの政局がどうなるのかが皆目わからない。締めはこう。


 自民党政権の耐用年数は過ぎたと言われて久しい。なのに、なかなか政治の刷新が起こらない。閉塞(へいそく)感を打破するのに必要と思えば、有権者はすかさず政権を交代させる。そんな政治が、ちょっと、まぶしく見える。

 ようするに、ベルルスコーニの登場でイタリアの政治が刷新されましたということ?まさかね。二大政党制が「まぶしく見える」ほどよいということらしい。途中こうある。

 むろん、政権が交代しても低迷していた経済などがバラ色になるわけではなかろう。しかし、政治が行き詰まりを見せれば、総選挙で民意を問い、政権の担い手を変える。政治の新陳代謝である。その仕掛けがこの国に定着したのは間違いない。

 この国ってイタリアなんですよ。あははって笑っていいかわかんないけど。そういう政治の仕組みがいいならアメリカがガチですよ。もう世界経済とかイランの核問題とか吹っ飛ばして盛り上がっているし(ってそれが問題ですよってば)。
 おちゃらけてしまったけど、もとの朝日新聞の社説がこれはちょっとおちゃらけ過ぎでしょう。日経はどうか。日経新聞社説”伊新政権に構造改革の重責”(参照)が率直にいってまじめくさったジョークのような印象がある。

ベルトローニ前ローマ市長率いる中道左派と大差をつけたとはいえ、安穏としてはいられない。新政権には2つの重大な責務がある。

 なんだなんだその2つ。

 第一は経済の再建だ。イタリア経済は低迷が続き、2007年10―12月期も08年1―3月期も、実質国内総生産(GDP)成長率はゼロまたはマイナスと予測される。


 第二は選挙制度の改革である。同国の現行の選挙制度では、安定した政権維持が極めて難しい。両院が対等であるほか、上院では20州に配分した議席の中で、州ごとに最多得票政党が55%の議席を得る。

 なんかべたなくさしを書きたいわけではないけど、それって無理でしょ。というか、鶏も大空を駆けめぐるべきである的な冗談としか思えない。
 両紙ともに社説ということもあってか、選挙の内実には触れていなかった。むしろそのあたりが奇っ怪に思えた。中国報道だといろいろ触れてはいけないことがあるのはわかるけど、イタリアになぜ?
 今回の総選挙のポイントは北部同盟でしょと私は思う。毎日新聞記事”イタリア総選挙:極右政党、与党中枢に”(参照)がさらっと伝えている。

ベルルスコーニ前首相を復活させたイタリア総選挙では、小政党にも変動があった。東欧、アジアやアフリカなどからの移民を嫌悪する極右政党「北部同盟」が票を倍増させ、与党の中枢に食い込んだ。一方、外国人保護をうたう伝統的な左翼は後退した。新政権の政策次第では、増え続ける外国人への嫌悪など不寛容さが広がる危険もある。
 北部同盟は、ベルルスコーニ氏が率いる中道右派連合の一翼を担い、前回06年の得票率4.5%が今回は上下両院で8%台へと躍進した。

 さらっとしていてベルルスコーニ政権と北部同盟の関係がわかりづらい。というか、毎日の記事は移民排斥はいかんなのイデオロギー的な正義にもたれて作文しているせいで、北部同盟をべたに「極右政党」とか舞い上がり、実際のイタリアの政局を見ていないっぽい。
 では実際はどうか。まず選挙の概要というかファクツだが、西日本新聞”イタリア総選挙 中道右派、両院で勝利 ベルルスコーニ氏 3度目首相に 中小政党は壊滅状態に”(参照)より。

 選挙は中道右派と、ベルトローニ前ローマ市長(52)率いる「民主党」を中心とする中道左派による、初の本格的な二大勢力対決となった。
 内務省の発表によると、中道右派の得票率は下院(定数630)47%、上院(定数322、うち終身議員7)47%で、いずれも中道左派(下院38%、上院38%)を大幅に上回った。下院は政権安定のためのボーナス制があり、最多得票の中道右派は340議席を保障される。地元通信社によると、上院では162議席以上を確保する見通し。
 二大勢力以外の中小政党はほぼ壊滅状態で、中小政党が乱立してきたイタリア政界の構造が大きく変化しそうだ。

 以上はまあファクツ。で、まとめとしてはこう。

プローディ首相の中道左派連立政権の崩壊に伴うイタリア総選挙が13、14の両日行われた。即日開票の結果、ベルルスコーニ前首相(71)率いる「自由国民」を中心とする中道右派が上下院とも勝利し、2年ぶりに政権を奪還。ベルルスコーニ氏が三度目の首相職に就任する。政治的混乱が続いた同国だが、中道右派は両院を制したことで安定政権としてスタートする見込み。

 このあたりを真に受けて朝日新聞なども二大政党だとか浮かれ上がったのだろう。また、毎日新聞”イタリア総選挙:中道右派が圧勝 2年ぶり、ベルルスコーニ政権に”(参照)の表題のように「圧勝」とか言っている。先の日経新聞社説でも「安定政権」とか言っていた。

イタリアの上下両院総選挙で、ベルルスコーニ前首相が率いる中道右派が圧勝した。5月上旬にも第3次ベルルスコーニ政権が誕生する。中道右派は上下両院で過半数の議席を確保した。伊共産党左派の流れをくむ小政党は議席を失い、政党数が激減した。プロディ政権と異なり、安定政権を樹立できそうだ。

 数字的にはそうかもしれないが、たぶん、「安定政権」にはならないだろう。理由は、日本の報道にはなぜ指摘がないのか不思議なくらいにごく単純なことに思えるのだが、ようするに、第三期ベルルスコーニ政権は、かなり穏健になったとはいえ北部同盟に依存しなければならないのに、今回破れたとはいえベルトローニ側の勢力は衰えたわけではない。そういう状況でベルルスコーニ政権がどうでるかだが、第一期のベルルスコーニ政権が北部同盟のごたごたで潰れたことを思い出せば、また同じようなストーリーになりかねない。
 不思議なのだが、普通にイタリアを見ていたら今回の選挙がどうなるというより、ドイツではないけど大連立くらいしか打つ手はないのはわかりそうなもの。ニューズウィーク日本版4・9「イタリア救う秘策は大連立」ではこう。

 小党乱立で歴代政権が機能不全に陥ってきたイタリアでは選挙制度改革、労働改革など問題が山積。タカ派のベルルスコーニと左派のブルトローニの協力(=ベルトルスコーニ)以外、この国を救う道はない。

 ベルルスコーニはそのカードを切りたがっているが、まだブルトローニ側では動きがない。そりゃ日本の大連立フカシのどたばたでもそりゃそうだの内情はあるもの。
 結局どうなるかなのだが、さらによほど追い詰められないとどうにもならないし、私はどっちかというとさらに追い詰められても結局どうにもならないんじゃないかにちょっと賭けている。イタリアってそれほど国家的な求心力はないのだろうと思うし。
 それにしても、10年以上も前になるが日本のジャーナリズムは随分と「オリーブの木」に期待をかけたものだった。あのころの朝日新聞でも読み返してみたい気がするけど、それももう歴史の物語というところか。

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2008.04.14

[書評]宮大工西岡常一の遺言(山崎祐次)

 西岡常一(にしおかつねかず:1908-1995)は奈良県法隆寺の宮大工の家に生まれ希代の棟梁となった人だ。薬師寺金堂、西塔の再建も行った。この話はNHK「 プロジェクトX 挑戦者たち〈5〉そして、風が吹いた」(参照)でも紙芝居風に放映された。「西岡常一」を著者名に含める「木に学べ 法隆寺・薬師寺の美(小学館文庫)」(参照)や「木のいのち木のこころ―天・地・人(新潮文庫)」(参照)の他に、最近の新書では「宮大工の人育て (祥伝社新書)(菊池恭二)」(参照)などもある。

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宮大工西岡常一の遺言
山崎佑次
 そうしたなかで、本書「宮大工西岡常一の遺言(山崎祐次)」(参照)がとりわけ優れているというわけでもないだろう。私はたまたま西岡常一と遺言という言葉に惹かれてなんとなく買って読んだくらいだが、存外に面白かった。著者は映像プロダクション関連の仕事をされた人で、西岡常一の生前の映像なども撮っていた。率直なところ、西岡常一自身が語られる言葉は無性に面白いが、筆者の文章にはやや浮いた感じの思い入れも感じないではない。
 本書を読みながら、西岡常一という人は優れた宮大工というより、希有な仏教信者なのだという思いにとらわれた。むしろその生き方は神官に近いのかもしれない。神官として生まれついて定められた信仰の派生に宮大工があるのだろう。

 まあね、法隆寺棟梁いうても、毎日仕事があるわけやない。仕事のないときは農業をやって食っていたんです。宮大工というのは百姓大工がええのかもわかりません。田んぼと畑があればなんとか食っていけますんでな。ガツガツと金のために仕事をせんでもええわけですから。儲けを考えたら宮大工なんかできません。やってはならんことです。食えても食えんでも宮大工は民家はやらんのです。この家もわたしが作ったんやない、ほかの大工さんに作ってもらってるでっせ。

 祖父もまた棟梁であり、孫の常一にはある意味で厳しく仕込んだ。具体的にどう教えるというのではなく、幼いころから仕事を見ていろふうなものだ。すごいなと思ったのは、常一の高校に農学校を選ばせ農業を学ばせる点だ。そのおかげで常一は樹木というものをしっかり見るようになる。たぶん、食う分は農家をしろという意図もあったのだろう。
 本書を読んで思ったのだが、宮大工といっても室町時代以降の宮大工と、法隆寺宮大工とはかなり異なり、ようするに白鳳の建築とは山を買ってその樹木をすべて無駄なく作るという点で、山の命そのものが移し替えられたものだ。そしてその建築技術というのは古代だから劣っているということではなく、中世以降とは思想が異なるということなのだ。このあたりは、私にはちょっと唖然とするものがあった。私は日本の古代とはそれほど大したもんじゃないという歴史の感覚を持っているのだが、山そのものが白鳳の建築の命となれば、山そのものをはぐくむ生活の感性がそのまま仏教に移されることになるし、山の樹木と共生する感性はおそらく千年のスパンがあるだろう。
 西岡常一にとって寺院建築とは千年近い山の命の形を変えたものだ。そしてこれも私の無知で唖然とすることになったのだが、コンクリート建築は数百年の命しかない。それに対して白鳳の建築はそれを守っていく人がいるならまだ千年に耐えるものだ。薬師寺金堂の復興でこういうエピソードがある。

 金堂の申請をしましたときに、白鳳様式といえども建築は昭和の建築で国宝ではない、けれども内部は世界的な宝である薬師三尊をまつるんやから耐震耐火のコンクリートにせよ、そして収納庫の周辺を木造で包むというやり方でやれということでしたんですが、わたしの意見は反対でしてね、コンクリートは村松禎治郎さん(建築学者)に聞いたら百年しかもたんと言いますねん。百年しかもたんものを千年もつ木造を使うてはあかんやないかと、コンクリートがあかんようになるとき木造もあかんようになるやないか、やめてくれと言うたんですが、そんな勝手なことを言うなら金堂を建てる許可をせんということでしたんで、しゃあないからコンクリートにしたんですが、あまり感心したことではありません。

 西岡常一は結局コンクリートを認めるのだが、コンクリートがダメになるときそこだけユニット的に取り外せるようにした。
 法輪寺三重の塔のときは鉄ボルトを入れろと言われて、西岡常一は抵抗する。

 竹島博士の言わはることもわからんでもないのです。けれどももし鉄材を入れるんやったら、法隆寺金堂のときのように千三百年たってから入れたらどうでしょうかと。なにも新しい木に穴をあけるようなことはできんと。わたしは飛鳥の工法にこだわってるんやない、聖徳太子ゆかりの寺です、すこしでも木のいのちをもたすことを考えてのことですわ。けどまあ、決着はつきませんでした。で、仕方なしに(委員会の)鈴木嘉吉さんを呼んで、その立会いのもとに使わんということに決めまして、ボルトだけつけて、入れておいたことにして、中には(鉄材が)通ってませんにゃ。竹島博士は月一回しか(現場に)来ませんのでわかりませんねん。鉄を入れたあと埋め木しますんで知ってませんねん。飾りでボルトが付いているというだけで、へっへっへっ。

 「へっへっへっ」がおかしい。しかし、これは恐ろしい覚悟の上からできたことでもある。

 棟梁というもんがあってその下に集まってくる人は、恐れずに思い切って仕事をやれと。まちがえば棟梁が腹を切るんやから、これ以上できんという仕事をやってもらいたい。

 この人は本当に腹を切る覚悟で棟梁をしてきた人だというのがわかる。集まってきた大工の一人はこう述懐する。

「最初、棟梁とお会いしたとき、失敗を恐れるな、思い切ってやりなさい、失敗したところでいつかまた修理せにゃあかん、何百年後かに誰かが直してくれんで、と言われたときにはビックリしました。すべての責任は自分がとるということでしょうが、すごいことを言う人や思いました」

 私はこの本から西岡常一を見ながら、あの白鳳の建造物というのは、まさに樹木の命と宮大工という形の一つの信仰の形態なのだと思った。もちろん、千年にもわたって受け継がれた過去の遺産はすばらしいが、価値はその物そのものあるのではない。樹木と宮大工さえいたらそれは再生する。つまりはそれは信仰の形であり、信仰そのものなのだと亀井勝一郎みたいに思えることができた。
 それとともに自然というのはつまりは日本人と山との精神的な交流そのものであるなと思う。環境というのをすこし考え直した。

いま緑や緑やゆうてやかましいですけども、ベランダの緑なんかどうでもよろしい。山は母のふところです。ふところがなくなったら人間は生きていけません。日本はもっと自然に感謝する気持ちをもたなあかんのとちがいますやろか。

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2008.04.13

コメ急騰問題メモ

 朝ラジオをつけたらフィリピンでのコメ不足問題を扱っていた。十数名の子どもを食わせるのは大変といった声を聞いて、それは確かに大変だろうけど同時に立派なものだなとも思った。日本も昔はそういう時代があった。
 私は1957年生まれで団塊世代から十年ほど下になる。団塊の世代には飢えの記憶がある人もいるかもしれないが、「ひもじさ」のほうが鮮烈だろう。私の世代になるとそこからも脱却している。しかし世界の飢えの問題はまだ解決されたわけではない。それでも私の子どものころに予想されていた悲劇的な食糧危機のかなりの部分は緑の革命が変えた。功罪はあるのだろうが。
 今朝の朝日新聞社説”食糧高騰―市場の暴走が飢餓を生む”(参照)が関連の話題を扱っていた。朝日新聞によれば全世界的に食糧不足の時代なのだそうだ。


 地球上を妖怪が歩き回っている。食糧不足という妖怪だ――マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」流で言えば、こうなるだろう。

 この痛い趣味にはついてけないな。食糧不足の理由について朝日新聞はこう説明している。

 なぜ、いま、食糧不足なのか。
 確かに、オーストラリアの干ばつなど、主要農業国の不作が重なった。中国やインドといった人口大国で食生活が変わり、肉の消費と飼料の需要が急増したこともある。トウモロコシなどの穀物を、ガソリン代わりのバイオ燃料に転用し始めた影響も大きい。
 だが、今回の事態を招いた要因として何より注目されるのは、投機資金が食糧市場に流れ込んでいることだ。米国の金融不安を機に金融・株式市場から引き揚げられた資金が穀物などに向かう。価格が上がり、それがまた投機資金を呼び込むという悪循環である。
 その結果、食糧輸出国は売り惜しみをし、輸入国は買い占めに走る。世界の食糧生産は増えているという現実があるのに、貧しい国、貧しい人々には手が届かなくなってしまうのだ。市場の暴走というほかない。

 一読したとき、大筋でそうだろうなと思った。逆にそうであるというなら、表題のような「市場の暴走が飢餓を生む」ということについては、人類の知恵で対応可能かもしれないとも思った。つまり食糧の絶対量の不足という事態と、市場の暴走は別だからだ。あまり単純な話にしてはいけないが食肉を減らせば穀物が食糧に回る。
 そういえば、この関連の話題は以前にも書いた。昨年1月17日に書いた「極東ブログ: このところの穀物高騰など」(参照)に続く。他に2004年の「極東ブログ: 中国はもはや食料輸入国」(参照)、「極東ブログ: 世界市場の穀物価格は急騰するか?」(参照)がある。2008年に私は次のように書いた。

 もう1つは、いずれにせよ穀物価格はじわじわと高騰する、か、あるいはどっかでカタストロフ的に高騰するかだ。これも避けられない。そのあたりの反射が、どう国際経済を襲うのだろうか。単純に考えれば、以前極東ブログでも触れたように一次産品の価格上昇という問題かもしれないし、石油を含めて、中国発デフレが中国発インフレになるか、ということだが、どうもそこまで話を進めると実感はない。

 4年前のことだ。世界はある程度理路を辿るものだ。どのような理路であるかは別としても。
 話を今朝の朝日新聞社説に戻す。次のような困惑する記述もある。

 日本の私たちも、その余波を肌身で感じさせられている。パンや即席めん、乳製品などの値上げラッシュである。だが、いちばんの被害者は最も弱い立場の人たちだ。
 たとえば、紛争が続くスーダン。難民キャンプにいる200万人への食糧支援がおぼつかない。このままではさらに新たな難民が出る恐れもある。

 スーダンの難民キャンプにはダルフール危機が含まれているのだろうが、「ダルフール」というキーワードが抜けているのは、そのキーワードを書くと、スーダン政府によるこの数年の援助妨害の問題に朝日新聞も直面しなければならなくなるかもしれないからか。
 日本の食品価格上昇と世界の食糧危機の問題は、朝日新聞がいうほど直結していい議論とは思えないが、それでも世界の食糧危機という現実は4年前に想定したようにある。
 最近の事態の時事的な話題のまとめとしては、FujiSankei Business i.「中国・アジア/「コメ騒動」拡大中 1年で70%の価格高騰」(参照)がわかりやすい。

≪投機資金流入も≫
 AP通信によると、国連食糧農業機関(FAO)がコメの主要輸出銘柄からまとめた「全米価指数」は1998~2000年を「100」として、昨年3月の130から今年3月に216まで約66%も上昇。コメの最大輸出国、タイの代表銘柄タイ・ホワイト・グレードBの場合は、今月初めに1トン=795ドルと昨年12月の2倍以上になった。
 FAOでは中国、インドやベトナムなどの主要輸出国がコメ輸出を制限していることが価格急騰原因と指摘している。燃料費高騰で肥料や輸送、脱穀用燃料などのコストが上昇、米価に跳ね返ったほか、米国で小麦などに転作が進んでいることも供給減少の背景にある。相場のつり上げを狙った投機資金の流入が価格上昇に拍車を掛けており、米シカゴのコメ先物相場は史上最高値が続いている。

 フィリピンのコメ高騰の背景は、ベトナムのコメ輸出制限が関係している。

 タイに次ぐコメ輸出国ベトナムは今年初めに寒波に見舞われ、生産に大きな影響が出ている。だが、業者がより多くの利益を得ようとコメを輸出に振り向ける動きも広がり、今年1~3月のコメ輸出量は約300万トンと昨年同期(約183万トン)を大きく上回った。このためベトナム当局は、国内の食糧確保のためコメの年間輸出量の上限を400万トンと決めて、新規のコメ輸出商談を停止させた。

 タイもまた同じように輸出制限するかもしれない。
 どうしたらよいのか。朝日新聞的にはこう提言する。

 先進国の投機と無策が人道危機を引き起こしている。飢餓の広がりを防ぐために、日本をはじめとする先進国は緊急支援に動かねばなるまい。

 先進国の投機と政策に原因があるのだから、先進国は緊急支援をすべきだというのだ。
 フィナンシャルタイムズはそれとは違った視点を出していた。9日付け”Restocking the empty global larder”(参照

Advice for those trying to solve the global food crisis: do not start from here. As governments across the developing world impose export bans on staple foods, further worsening the shortages on inter-national markets, the shortcomings of a system designed around the expectation of plenty are becoming painfully evident.
(世界食糧不足を解決しよとするためのアドバイス:ここから始めないこと。途上国政府が主食の輸出制限を課しているので、国家間市場の不足が悪化し、潤沢の期待から作られたシステムの欠点は痛ましいほどに明白になってきている。)


There are, sadly, few quick fixes, not least because food production responds only slowly to changes in price, although restricting global supply via export bans is certainly not a sensible solution.
(輸出禁止による国際的供給の制限は理性的な結論に程遠いにも関わらず、特に食糧生産は価格に対してゆるやかにしか対応しないのだから、悲しむべき事ではあるが、応急処置はほとんどない。)

 短期的な解決はないというなら、中長期的にはどうか。

In the medium term, the imperative must be on increasing supply, for which much of the responsibility lies with developing countries - improving infrastructure, including storage where necessary for buffer stocks, bringing more land into production and encouraging crop insurance or forward markets where they do not exist. Those countries resisting the introduction of genetically modified food should take another look at the productivity gains that it can unleash.
(中期的には、供給を増やすしかないし、それは途上国に多く責任がある。そのために、問題緩和のための貯蔵、生産用地拡大、現在は存在していない先物取引市場や農産物保険の推進を含め、インフラを強化しなければならない。遺伝子組み換え作物導入を規制している国は解放に向けて再検討すべきだ。)


Security and stability of food supply are enhanced when markets are allowed to work by being given clear and enduring price signals, with governments providing social and physical infrastructure support.
(市場が明確で継続的な価格を示せるようになれば、途上国政府が社会的かつ目に見えるインフラを提供することとあいまって、食糧供給の確保と安定が向上する。)

 これは朝日新聞にとっても、途上国支援の人々にも受け入れがたいことかもしれない。私としてはその視点が依然暢気な先進国の空気を反映しているような気もするが。

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