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2008.04.11

[書評]東京奇譚集(村上春樹)

 先日「極東ブログ: [書評]回転木馬のデッド・ヒート(村上春樹)」(参照)を書いたがそういえばこれに類する他者体験聞き書き的短編小説「東京奇譚集(村上春樹)」(参照)をまだ読んでいなかったことを思い出した。以前「極東ブログ: [書評]海辺のカフカ(村上春樹)」(参照)でも書いたが、私は長いこと村上春樹の小説を読めない時期があった。それ以前はほとんどコンプリートと言えるようなファンでもあったのに。

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東京奇譚集
村上春樹
 「東京奇譚集(村上春樹)」だが文章がこなれていて軽く読める。それでいてかなり深みと意匠があり、円熟した作家の作品だととりあえず言える。少し留保がつくのは意匠が強すぎて実験的というのは作品のブレを感じる部分もあるからだ。
 古典作品もよいにはよいのだが、自分の感性にあった同時代の小説家や歌手がもてるというのはちょっとしたあるいはけっこうな幸せの一つだと、本書を舐めるように読みながら思ったし、いくどか中断して思いを膨らましながら読んだ。
 書誌的メモとまだ読んだばかりに近いので個別の感想を簡単に書いておきたい。4作品の初出は文芸誌「新潮」であった。2005年である。同年に「品川猿」を含め単行本化され、昨年12月に単行本化された。作品の順序は公開の順序に従っており、おそらく「品川猿」が群を抜いて優れた作品であることに異論を持つ人はいないだろう。

  1. 偶然の旅人(「新潮」2005年3月号)
  2. ハナレイ・ベイ(「新潮」2005年4月号)
  3. どこであれそれが見つかりそうな場所で(「新潮」2005年5月号)
  4. 日々移動する腎臓のかたちをした石(「新潮」2005年6月号)
  5. 品川猿(単行本収録)

 タイトルにはそれぞれ込められた思いがあると推測するが私にはわからない。「偶然の旅人」と「ハナレイ・ベイ」は知る人ならなにか曲が浮かぶのかもしれないし、丹念に読んだつもりで私がその意図を読み落としているのかもしれない。
 「偶然の旅人」はゲイの中年男性が中年と呼ぶには若い既婚女性と読書を通した出会いから、彼の姉との和解を描いた作品ということになるのだが、家族的な心性における確執と和解がテーマではない。いろいろな読み方があるだろうと思うが、私は、普通の中産階級の既婚女性が死の影を帯びた乳がんに向き合うとき、夫ではない男と関係を持ちたいという衝迫に捉えられたという、一種の存在的な力と、その力を阻止し迂回させるためのゲイという構築に興味を引かれた。その迂回から存在のデュナミスのようなものが和解や保護に働く。ゆえに、ゲイの男はこう言わざるをえない、「かたちあるものと、かたちのないものと、どちらかを選ばなくちゃならないとしたら、かたちのないものを選べ。それが僕のルールです」。ある意味でそれは村上春樹の小説の作法でもあるだろう。この作品は小さな、ありがちなエンディングがあり、かつて「蛍」が「ノルウェイの森」に至るような、「ねじまき鳥と火曜日の女たち」が「ねじまき鳥クロニクル」に膨れて破綻したようなそういう展開は期待させない。
 「ハナレイ・ベイ」は、ハワイのハナレイ・ベイのサーフィンで十年前に息子を鮫に殺されたジャズピアニストのサチがその後もハナレイ・ベイに愛着を持ち、そこで日本人若者との出会いを通して回想や幻影を探す物語だ。個人的には綾戸智恵をふと連想したがタイプはかなり違う。年代も違う。綾戸は私と同じ年だが、サチは作品中でも「団塊」と呼ばれている。村上春樹の妻のイメージも多少寄り添っているし、「神の子どもたちはみな踊る」の善也の母のイメージもある(余談だが「善也」はヨシュアのダジャレでイエスのヘブライ読みである)。ストーリーからすれば不合理な偶然で失われた息子への鎮魂を思うがむしろその欠落がモチーフに近い。この自然の力による人の喪失は、村上春樹のオウム真理教事件と阪神大震災への思いにも繋がっているだろう。主人公サチという人物の描き込みは、類似のシーンでいえば「ダンス・ダンス・ダンス」のアメの類型のようでもあるが、と、こうして過去作品との対比で思うのだが、その人間的な陰影はこの作品集では深まっている。作品ではエンディング近く、二人の若者が死んだ息子の幽霊を見たのに、サチは見ずにハワイ滞在を終える晩、サチは気が付くと泣いていたとなる。これは「プールサイド」の三五歳の男の泣き方に近く、意味合いも近い。だが六十歳は近いだろうサチにとっては人生の終末に近い実在との遭遇でもあるだろうし、どこかしら癒しの印象もある。
 「どこであれそれが見つかりそうな場所で」は、村上春樹の短編集に特有のヒューモラスな非現実的な設定になっている(表題は私には有名なユダヤ笑話を連想させる)。探偵のような主人公は消失した人間に関心を持つ。物語ではある女の夫が突然マンションの24階から26階で消えた。なぜ? 答えはない。あるいは答えるならそれは品川猿のようなものになるのだろう。その意味で、この作品は品川猿の前哨的な意味合いを持っている。と同時に、村上春樹の初期・中期、いや「海辺のカフカ」でもそうだったが、ストーリーを逸脱した登場人物の消失の類型のメタ的な意味合いがある。エンディングは趣味の悪いものになっている。最終の二段落を書き加える必要があったか。すでに村上春樹は大作家であり、その創作過程に編集者の思いは入らないが、ひと昔の編集者ならここは削っただろう。しかし、この趣味の悪い構成は次の作品にも引き継がれる。
 「日々移動する腎臓のかたちをした石」は、小説家淳平が二人目の女に出会う話だ。彼の父はこう息子に告げる、「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない。それより多くもないし、少なくもない」。読者である中年男性の私はここで目を閉じて、私の女を数える、一人、二人、三人。それでいいのか? あれは一人目なのか、それは二人目なのか。そしてこれは三人目なのか。もちろん、この女を数える含みには性交が含まれているようでもあるが、それだけではない。そして、すでにそうした思いのなかでこの小説のなかに巻き込まれてしまう。男にとって人生で意味のある女は確かに三人しかいない。物語は、その二人目であろうかという女との出会いであり、そしてその、男にとって限定された二人目の女とはどのような意味を持つのかが問われるように女が造形される。ここでさすがに大作家だと溜息をつくのだが、この女の造形には主人公淳平が小説家であことから、その作品のなかの女医が影のように存在し、それがメタ・フィクションの構成を持っている。日々移動する腎臓のかたちをした石はこの小説内の小説の内部に存在し、小説内小説の女と男の関係は、実際には淳平という中年に向かう男の内面を描き出している。ただし、もはや「プールサイド」のようにまさに人生にぶつかるような音は立ない。淳平の父のように老いに至りつつある作者の述懐のなかで、死へターンした中年となる男の契機が描かれる。淳平に老いの男はつぶやかせる、「大事なのは数じゃない。カウントダウンには何の意味もない。大事なのは誰か一人をそっくり受容しようとする気持ちなんだ、と彼は理解する」。つまりそれが二人目の女という意味なのだが、これにこう続く、「そしてそれは常に最初であり、常に最終でなくてはならないのだ」。しかし、ここは作者村上春樹の嘘だ。真実は、もう一人の、三人目の女に中年から老いに至る男は向き合うことになるということだ。それはもしかするとヘルマンにとってのヘルミーネであるかもしれないにせよ。エンディングは前作「どこであれそれが見つかりそうな場所で」のように悪趣味な趣向で終わる。が、それはおそらくこの作品が大作の構成を持っているためだろう。この作品は主人公の名前が同じく淳平であるように「蜂蜜パイ」と一体化した作品だろう。
 「品川猿」は圧倒的な作品だ。私は読みながら爆笑し、エンディングで不覚にも号泣するはめとなった。主人公の、結婚三年目二六歳の安藤みずきは自分の名前を日常でしばしば想起できない事態になっている。精神の病だろうかと、カウンセラー坂木哲子に相談する。カウンセリングの過程で安藤みずきこと旧姓大沢みずきは高校時代の知人松中優子を思い出す。優子はみずきに寮暮らしの名札を預けた翌日自殺した。自分の名前を想起できない既婚女性の物語は、この名札と品川猿によって奇妙な笑い話のような解決を見る。私は、実は、この作品がどのように読まれているかネットをさっとサーチしたところ「品川猿問題」という言葉に出会った。文芸評論家加藤典洋は、「その人の真実をその人を傷つけることなく伝えるかということ」としているらしい。加藤の評論を読んでいないのでなんとも言えないのだが、品川猿が意味するものは、人を傷つけることなく人に真実を知らせるということではない。まったくない。作品では、真実を知る安藤みずきはそれによって大きく傷つく。彼女の真実とは、誰からも愛されず偽りのなかで女性として性を引き受けて老いに向かわなくてはらないという悲しみの受容であり、その傷と悲しみという人生の影を突きつけるのが、表層的には悪のトリックスターである品川猿なのだが、それによって彼女は真実を生きる可能性を得る。彼女は傷つき真実を受け入れるまで、誰にも嫉妬をすることがなかったという。死んだ松中優子は才能も美貌もありながらおそらく嫉妬のような心的存在によって死んだ。いや、品川猿は優子を生かしたかもしれないし、逆に安藤みずきは真実を生きることで同じような死を迎えるかもしれない。およそ真実の生を生きることは自分の死の形を受け入れることだし、愛なき存在として生を受諾しながら、そのために誰かを愛していかなくてはならないプロセスに至る。私は余計なことを言っているとは本当は思っていない。「品川猿」の読後、「蜂蜜パイ」を読み、そして「日々移動する腎臓のかたちをした石」を読み、さらに本書の「偶然の旅人」と「ハナレイ・ベイ」と再読されれば、その問題意識こそこの短編のモチーフであるとわかるはずだ。

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2008.04.09

[書評]回転木馬のデッド・ヒート(村上春樹)

 最近なんとなく村上春樹の短編「プールサイド」と「雨やどり」を思い返すことがあり、たまたま買い物先の本屋でこれを収録する短編集の文庫「回転木馬のデッド・ヒート」(参照)を見かけ、何の気なしに買って読み直した。面白かったといえば面白かった。技巧的ではあるけど春樹さん(なぜか春樹さん)のこのころの感性は若いなというのと、その後の作品に繋がる部分もいろいろ思った。この短編集は彼の短編集のなかでは最高傑作と言えるかどうかよくわからない。が、再読して「プールサイド」と「雨やどり」は自分の人生観を結局大きく変えていたなというのを確認した。

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回転木馬の
デッド・ヒート
 私はこの短編集の作品を講談社のミニ雑誌IN・POCKETに連載中から読んでいた。単行本化されても読んだ。最初の文庫でも読んだ。今回で何回目になるだろうか。今ウィキペディアを見ると2004年改訂とある。この文庫版に改訂部分があるのだろうか。わからなかった。
 IN・POCKET連載の順序は次のとおりだ、とこういうときウィキペディアは役立つ。

  1. プールサイド (1983年『IN・POCKET』10月号)
  2. 雨やどり (1983年『IN・POCKET』12月号)
  3. タクシーに乗った男 (1984年『IN・POCKET』2月号)
  4. 今は亡き王女のための (1984年『IN・POCKET』4月号)
  5. 野球場 (1984年『IN・POCKET』6月号)
  6. BMWの窓ガラスの形をした純粋な意味での消耗についての考察 (1984年『IN・POCKET』8月号)
  7. 嘔吐1979 (1984年『IN・POCKET』10月号)
  8. ハンティング・ナイフ (1984年『IN・POCKET』12月号)
  9. はじめに・回転木馬のデッド・ヒート (1985年10月 『回転木馬のデッド・ヒート』に書き下ろし)
  10. レーダーホーゼン (1985年10月 『回転木馬のデッド・ヒート』に書き下ろし)

 ご覧のとおり、この短編集は「プールサイド」と「雨やどり」から始まっている。たぶんこの短編集のもっとも本質的な部分がこの2作にある。すでに短編集既読のかたもこの順序で読みなおしされると印象がかなり違うのではないだろうか。
 最初の作品が発表されたのは1983年の秋で、私はその年に大きな人生の転機があった。印象深く思い出す。私が26歳。春樹さん(まだ超メジャーな作家とも言えなかった)が35歳だ。この35歳という年齢がこの作品集にとても重要な意味を持つ。「プールサイド」がまさに35歳という意味の作品でもあるからだ。26歳の私は、そのころ手ひどい失恋の後遺症にあって、それをそれから10年近く引きずりながら自分なりの35歳を迎えた。
 発表時のリストと本書の収録の違いは、その掲載順序以外にすぐにわかることがある。短編集では次の配列になっている。

  1. はじめに・回転木馬のデッド・ヒート
  2. レーダーホーゼン
  3. タクシーに乗った男
  4. プールサイド
  5. 今は亡き王女のための
  6. 嘔吐1979
  7. 雨やどり
  8. 野球場
  9. ハンティング・ナイフ

 そう、「BMWの窓ガラスの形をした純粋な意味での消耗についての考察」が抜けているのだ。この作品はある意味で変な作品で、春樹さんの存在に閉じ込められていた暴力的な部分が強く垣間見られる。長いことこの作品は書籍化されなかったが、たしか現在では作品集には収録されたはずだ。IN・POCKET(1984・8)がレア本ということではもうなくなっただろう。
 再読して、「プールサイド」と「雨やどり」がやはり印象深い。この作品を十分に理解できる年齢に自分がなってしまったのだということもよくわかった。作品としては「レーダーホーゼン」がもっとも完成度が高いかもしれない。その他の作品のモチーフは中断されたような形なっていて他の短編(「トニー滝谷」とか)や長編小説などに引き継がれている。意外と「極東ブログ: [書評]海辺のカフカ(村上春樹)」(参照)で触れた「海辺のカフカ」に繋がる作品として読めるものがあるように思えた。
 この時代の春樹さんは文体が若く、また今の自分の感性からすると稚拙に思える文章も多い。意外と言ってはいけないのだろうが、50歳以降の春樹さんの文体はいわゆる第三の新人の影響のほうが強いのではないだろうか。ネットなどでよく春樹文体のパロディがあるがああいう文体で彼はもう書いていない。
 「プールサイド」と「雨やどり」について少し触れておきたい。「プールサイド」は35歳になったある男の独白だ。人生は好調に過ごしているのに、自分が人生の折り返し点と決めた35歳になって、わけもなく泣いたという話だ。話の表面には「老い」というものの抗しがたい力が暗示されるのだが、そこは別の系列の問題意識のようでもある。むしろ、妻もいながら33歳で24歳の女性とした不倫の述懐に本質がある。

 彼はその情事を通じてあるひとつの事実を学ぶことになった。驚いたことに、彼はすでに性的に成熟していたのである。彼は33歳にして、24歳の女が求めているものを過不足なくきちんと与えることができるようになっていたのである。これは彼にとって新しい発見だった。彼にはそれを与えることができるのだ。どれだけ贅肉を落としたところで、彼はもう二度と若者には戻れないのだ。

 男という存在は、童貞の喪失から、おそらくその九割は、十年近くは女というものに結果的にぎこちなく戦い続けてしまうものではないだろうか(女にも別の戦いはあるだろうが)。そしてふとこの35歳の男のような述懐を持つ。童貞時代あるいは女とぎこちなく性行為を重ねた時代の若さが懐かしいというのではない。「もう二度と若者には戻れない」というのもその喪失を嘆くというのとは少し違う。とても言葉にしがたい何かだし、その時期が過ぎ去ってしまえば、この男のようにもう二度と泣くこともない何かだ。
 「雨やどり」は仕事に破れ、不倫の男とも別れた28歳の女がなんとなく売春をする話だ。お金が欲しいわけではなく、自分の性的な存在に対価を男につきつけてみることでひとときの生(ライフ)の充足を得たという話だ。作品は作者の男の視点が強く混じる。

 個人的な話をすると、僕も金を払っては女と性交しない。したこともないし、この先とくにしようとも思わない。しかしこれは信念の問題ではなく、いわば趣味の問題である。だから金を払って女と寝る人間をまっとうじゃないとは僕には断言できないような気がする。たまたまそういう巡りあわせになっているだけのことなのである。

 単純に言えばそれはかなり嘘だ。趣味の問題ではない。この作品は、山火事のようにセックスがただだった時代があるといったうそぶいたエンディングがあるが、それもまた違う。対価をもって性と関わるようなそういう存在のある種の救済の物語だ。もちろん、それは私たちの表向きの社会とは違う。にも関わらず、春樹さんや私のように金で性を買わない市民的な市民ですらその内奥には同じ文学的な存在が潜んでいる。
 最初に買われた、いや売ったときの女の述懐はやや男の視点に濁っているが何かを言い表そうとしている。

男がペニスを抜きとってシャワーを浴びに行ったあと、彼女はしばらくベッドの上に横になり、じっと目を閉じていた。そしてこの何日間かずっと彼女の中でわだかまっていた名状しがたい苛立ちがもうすっかり消え失せていることに気が付いた。

 森有正ならその「名状しがたい苛立ち」をアンゴワッス(angoisse:懊悩)と呼ぶのではないだろうか。英語ならanguishだ。森は西洋的な個人の性の内奥にあるものをそう呼び、それを喉が締め付けられるような情感として捉えた。西洋人の存在喪失のような迫力をもつ性欲はしばしば「乾き」ととらえられるが(ちなみにこれはイエスの受難の含みがある)、たぶん、thirstyという感覚はanguishに近い「狭隘」といった感覚を伴うものなのだろう。
 こうした感覚はたぶん東洋人にはない。日本人にもあまりない。しかし、個人がその存在の輪郭を深めるとき性の圧倒的な衝動として訪れる。と同時にそれはどかしら、カトリック的な救済の陰影を持つ。
 短編には救済というには滑稽にも思えるエピソードがある。

「ねえ」と僕は言った。「もしさ、僕がお金を払って君と寝たいと言ったとするね。もしだよ」
「ええ」と彼女は言った。
「君はいくらって言う?」
 彼女は唇を少し開いて吸いこみ、三秒ばかり考えた。それからもう一度にっこりと笑って「二万円」と言った。
 僕はズボンのポケットから財布を出して、中に幾ら入っているか勘定してみた。全部で三万八千入っていた。
 「二万円プラス、ホテル代プラス、ここの払い、そして帰りの電車賃、そんなもんじゃないかしら?」
 実にそのとおりだった。

 どこかしら告解のようでありながら、その存在の限界が性の対価として告げられる。そのようにしてしか存在しえないような人の関わりとういものがあり、それが実現しないせによ、私たちの生活の根の部分に、おそらく救済に近い形で潜んでいる。

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2008.04.08

アルゼンチン・タンゴ的アルゼンチン

 アルゼンチン情勢はあまり日本の話題ではないが、なんとも微妙な感じがある。いやネットで注目のベンジャミン・フルフォードさんの大著「日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日」(参照)という趣向でもないのだが。
 比較的最近のアルゼンチンを伝えるニュースとしては、エープリルフールネタとして読み過ごしたかたもいるかも知れない読売新聞”輸出税引き上げ反対、農民が道路封鎖…アルゼンチン”(参照)がある。


 AP通信などによると、トラクターなどで封鎖されているのは国内の主要幹線道路400か所以上。流通網の寸断で、数百万トンの穀物が港に到達せず、中国や欧州向けの輸出が滞っている。アルゼンチン国内のスーパーでも、牛肉や鶏肉、イモの供給が不足しているという。地元紙ラナシオンは、デモによる損害額は約23億5000万ペソ(約750億円)に達すると報じた。

 背景は農産物税率の問題だ。

 政府は3月11日、大豆や小麦など4品目の輸出税について、税率を固定制から国際価格に応じた変動制に切り替えた。これにより、大豆の税率が35%から45%に上昇したことから、農業団体が反発。同13日から抗議活動が始まった。

 アルゼンチン政府側がどう見ているかというと、抗議農民の実態は富裕層であり事態はその造反としているようだ。

 昨年12月に就任したクリスティナ・フェルナンデス大統領は当初、「抗議しているのは、最も収益を上げている連中」とデモを批判、交渉に応じない考えを示していた。だが、混乱が長期化するなか、大統領は3月31日、「対話の用意はある」などと述べ、融和策を発表した。

 関連の日本国内報道を見ていて「へえ」と思ったのだが、赤旗はクリスティナ・フェルナンデス大統領の見解を支持しているようだ。”アルゼンチン農業スト/富農・富裕層が“指図”/輸出利益への増税に抵抗/革新政権への攻撃にも利用”(参照)より。

 【メキシコ市=島田峰隆】農産物の輸出税引き上げに反対するアルゼンチンの農業団体による抗議行動は、各団体が一カ月間のスト休止を決めたことで五日までに収束しました。この抗議行動には多くの農民が加わりましたが、最も積極的にあおったのは、輸出で収益を上げる一握りの大土地所有者や富農、都市部の富裕層で、これにたいする労組や社会団体の反発も起きています。

 農民を締め付ける税制を赤旗は支持しているようだ。国家主義的にはそれでまっとうなあり方だからか。赤旗の考えの裏付けは貧富の問題らしい。

 アルゼンチンでは、大土地所有者、富農とその他の中小零細農民の間には規模の点で著しい格差があります。
 たとえば土地の55%を2%の富農が所有。大豆では、わずか20%の生産者が収穫全体の八割を独占し、さらにその20%のうちの2・2%が収穫全体の46%を占めているといいます。
 最近の穀物価格の上昇によって輸出で莫大(ばくだい)な利益を上げているのは、これらの大土地所有者や富農です。今回の抗議行動の背後には、こうした特権層の指図があったといいます。

 ちょっとぼかして書かれているものの、赤旗というか日本共産党はクリスティナ・フェルナンデス大統領の施策を支持している。儲けているやつから国家が搾り取るのは当然ということかな。
 今後はどうなるか。Sao Paulo Shimbun”アルゼンチン農業者ストは30日間の休戦”(参照)によると一息ついたという感じらしい。

 二一日間に及んだ農業者ストは中止になったが、アルゼンチンではインフレ問題で国民の前途期待感がしぼんだ。
 OPSMコンサルタント調べによると、経済の前途楽観は昨年末に五一%だったのが三七%に下がった。悲観は大統領選挙終了の直後に一〇・四%だったのがここに来て二二・二%に上昇した。
 農業者側は、ストは三〇日間の休戦としており、ぶり返すことも考えられる。ストはクリスチーナ大統領に政治的なダメージを与えた。

 数値的にはまだそれほどお先真っ暗感はないようでもある。
 フィナンシャルタイムズの1日付けの冗談のようなタイトルの”Where’s the beef?”(参照)は、赤旗の方向とは違っている。

Workers in the booming soya industry are being laid off. Food shortages have come in the wake of energy cuts for business users, pushing up prices. The private sector has no confidence in this meddling government's inflation statistics. Independent economists say prices rose by about 20 per cent in 2007 and may have increased by as much as 3 per cent last month.
(急成長の大豆産業労働者は解雇されつつある。産業用電力供給不足から食物不足となり、物価が上昇した。民間部門は干渉する政府のインフレ率統計を信じていない。民間のエコノミストには、2007年に20%上昇し、先月だけで3%上昇したと見るものもある。)

 政府統計を民間は信じていないし、対外的な投資もそれでは難しいだろう。フィナンシャルタイムズ的にはどうすべきか。

It is high time Ms Fernandez realised that the interventionist policies introduced after the 2001-02 crisis are no longer appropriate. In the short term, she should negotiate with farmers and be prepared to offer concessions. Windfall taxes are warranted when commodity prices soar but the scale of those imposed on the farm economy makes little sense, especially when the proceeds are in effect financing subsidies.
(フェルナンデス大統領は、2001年から02年の危機後に導入された干渉主義政策がもはや有効ではないと理解する時期に来ている。短期的には、彼女は農民と交渉し、譲歩するべきだろう。棚ぼた式な税収は物価高騰時には支持されるが、農業経済に強制する量として見るとあまり意味がない。特に収益が経営の助成になっているときはそうだ。)

 私が誤解しているかもしれないが、農業部門の成長を阻害するようなことはするなということだろうか。
 フィナンシャルタイムズはいくつか政策提言をして、こうまとめる。

None of this will be easy. But the longer Argentina's problems are allowed to fester the more difficult they will become to resolve. Argentina is still a long way from the meltdowns of the 1980s and early part of this decade. But it is just as far from seizing yet another golden opportunity to turn itself into the prosperous nation it should be.
(どの施策も簡単ではない。アルゼンチン問題の悪化を長引かせればより解決が難しくなる。アルゼンチンは1980年代のメルトダウンから離れこの10年の初期段階にある。とはいえ、もう一つの好機を得て繁栄国にするにはまだ遠い。)

 今なら好調のラインに戻せるかもしれないがこのままではまずい、と。なんだかどっかの国の話のようだし、総じて見るとアルゼンチンは好機を掴むことはたぶんないだろう。案外赤旗の視点も正しいのかもしれないな。
 そういえば、この事態はある意味で、昨年フェルナンデス大統領が就任した10月のワシントンポスト”New President, Old Cycle”(参照)で予想されていた。

For the last century, Argentina has lived by a cycle of economic boom and bust, driven by prices for its agricultural exports, by the fondness of its governments for populist policies and by its resistance to playing by the usual rules of global financial markets.
(農産物輸出の価格、政府の大衆迎合政策、国際市場の常識への拒絶によって、何世紀もの間アルゼンチンは、盛衰を繰り返してきた。)

 まあ、タンゴのメリハリというのは国民性なんだろう。
 エビータ再来のタンゴのお相手が誰かなんていう話題もちょっと書こうかと思ったけど、どうでもいいや。

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2008.04.07

日本でもシトルリン(Citrulline)ですか

 ちょっとたらっと書くのと、記憶に頼るのであまり正確な情報ではないかもしれない。なので雑談程度に受け止めておいていただきたい。
 ニュース的には3日付けFujiSankei Business i”アサヒ飲料、資生堂、ロッテが共同PR シトルリンで健康維持して”(参照)がわかりやすい。


 アサヒ飲料、資生堂薬品、ロッテは2日、食品用の機能性素材「シトルリン」を配合した新商品の合同発表会を開催した。3社が新商品を22日に一斉発売するほか、「シトルリン健康プロジェクト」を立ち上げ、シトルリンの認知度向上に取り組む。

 機能性というのだからそれはなにか。

 シトルリンは、スイカなどに含まれるアミノ酸の一種で、昨年8月に食品への使用が認められた。すでに体内の血流を改善する効果が確認されている。これにより、栄養分や酸素が順調に細胞に届けられ、新陳代謝が活発になるほか美肌や筋力強化、冷え性改善などの効果が期待できるという。

 その期待がどれだけ裏付けられるかということと、こうした食品の摂取のメリットがどれだけあるかは、市場にまかされている。
 ところで、なぜシトルリンが今頃日本に出てきたかというと、この4月の食薬区分改正で非医薬品リストのL-シトルリンが食用解禁されたからで、チオクト酸以降こうした区分変更が3年間ほど事実上凍結されていたので解禁のシンボルにもなっているようだ。ちなみに、チオクト酸は区分変更後は米国のサプリメント風にアルファリポ酸と呼ばれていることが多い。あまり受けてないようだが。余談だが、こうした変更は日本では法律によってなされず、厚労省による知事通達でなされる。私はこういうやりかたはまずいんじゃないのと思っている。
 シトルリンについてはすでに米国で5年以上前だったか話題になり、その後も市場的な問題を起こしていないようなので、厚労省側としても実質米人の人体実験でも大丈夫とみたのだろう。
 シトルリンとはだが、ウィキペディアの項目は間違いではないのだがわかりづらい(参照)。

シトルリン (Citrulline) はアミノ酸の一種で、尿素回路を構成する化合物のひとつ。1930年に日本でスイカの中から発見され、そのラテン語citrullusに因んで名づけられた。動物、特に哺乳類で広く存在する。化学式は 6H13N3O3、IUPAC命名法では 2-アミノ-5-(カルバモイルアミノ)ペンタン酸であり、分子量は 175.2 g/mol。CAS登録番号は [372-75-8] である。

 日本で昭和5年に発見された。発見者はM.Wadaというのだが日本語での名前を私も知らない。

ミトコンドリアでオルニチントランスカルバモイラーゼによって触媒される、オルニチンとカルバモイルリン酸の反応でリン酸と共に生成する。また、サイトソルでアスパラギン酸、ATPと反応し、オルニチンとAMP、ピロリン酸となる。この反応はアルギニノコハク酸シンテターゼによって触媒されるが、この酵素が欠けていると血中にシトルリンが蓄積し、また尿中に排出されるようになってシトルリン血症(シトルリン尿症)を発症する。

 後半部については、アスパルテームにおけるフェニルケトン尿症患者のような懸念がないわけでもないが、概ね市場的にはないだろう。
 前半の説明だが、サプリメントの立場からすると重要なタームが抜けている。アルギニノコハク酸からL-アルギニンになりまたシトルリンに変換される過程でNO(一酸化窒素)を出す。これが血管拡張に寄与すると想定されている。
 のだが。
 この一酸化窒素とサイクリックGMP(cGMP)の関係はバイアグラの機序を連想させるところが米国でシトルリン・サプリメントのバカ騒ぎが起きたツボだった。このバカ話がすでに日本に上陸しているか、シトルリンでぐぐったら案の定だった。
 この手の際物サプリメントの第一人者サヒリアン医師はこう簡素に答えている(参照)。

Q. Is citrulline taken daily or every other day. How does citrulline supplement affect erections and sexual desire? How does citrulline affect the penis in the flaccid state since there is more nitric oxide in the system.
A. We are not impressed by citrulline as a supplement for erection enhancement or sexual desire improvement. The use of a citrulline supplement is not likely to influence penis erection.
(質問:シトルリンは日々または一日おきに摂るものですか。シトルリンはどのように勃起と性欲増進に役立ちますか。シトルリンが萎えたペニスに影響を与えるのに一酸化窒素以上の効果はありますか。回答:私たちは勃起改善や性欲増進にシトルリンのサプリメントを勧めません。シトルリン・サプリメントはペニスの勃起には影響しそうにありません。)

 この他の米国のバカ騒ぎとしては、アルギニンやオルニチンから成長ホルモンの分泌をよくするといったものがあった。
 シトルリンに健康面での効果がないかどうかはわからない。ざっと見た感じでは厚労省側は食品区分に移しただけで、機能性食品として認可された製品はまだなさそうだ。が、機能性食品でも特保は個別の食品の認可であって、ビタミンなど栄養機能食品は別扱いになる。シトルリンあたりは今後は特保だろうか。
 ところで、なぜ私がシトルリンに関心を持っていたかというと、第2レベルに上がれません問題ではなく、沖縄暮らしで、ゴーヤーが精力剤として伝統的に理解されていたことになんか薬学的な根拠でもあるのかなと調べていて見つけた。ゴーヤー(ニガウリ)にもシトルリンは多く含まれている。といいつつ、スイカより多いかどうか忘れたし、ググっても簡単な解はないようだ。ゴーヤーも種類が実はいろいろあるので推定値が難しかった記憶がある。
 ネットを見ると協和発酵データとして(参照)、スイカは100gでシトルリン180g。ヘチマ(可食部)で57mgとある。多いのか少ないのかもよくわからないが、健康食品としてみたばあいは、デザートのスイカ一切れ程度でしょう。夏スイカよく食って血行が良くなったという実感はあまりないが。
 ヘチマの可食部で思い出したが、沖縄暮らしではよくヘチマを食った。東京に戻って食えずにさみしくなり実家で植えてもらった。上野アメ横のアジア食材の店に食用ヘチマが売っているが、もっと一般的に購入できるようならレシピでも書きますかね。

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