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2008.03.15

[書評]自分の小さな「箱」から脱出する方法(アービンジャー・インスティチュート)

 当初勘違いで、別の小冊子、日本のアービンジャー・インスティチュート・ジャパン監修の編集書「実践 自分の小さな「箱」から脱出する方法」(参照)を購入した。ついでなのでこのパンフレットみたいな書籍に目を通したのだが皆目わけがわからず、結局編集元になる本書、「自分の小さな「箱」から脱出する方法(アービンジャー・インスティチュート)」(参照)を読んだ。2006年に出版された邦訳である。こちらはわかりやすかった。小説仕立てになっていて、よく読むと微妙な心理の動きや伏線などもある。

cover
自分の小さな「箱」から
脱出する方法
 結論から言うと、当初かなり違和感があった(そのために勘違いした)が、本書は良書であると思った。人によってはかなりインパクトを受けるだろう。私も率直なところかなりインパクトを受けた。
 最初に、ネガティブな批判に聞こえるかもしれなが、同書についての違和感をまとめておきたい。
 オリジナルは2002年に出版されたベストセラー「Leadership and Self-Deception: Getting Out of the Box」(参照)で、表題からもわかるように「リーダシップと自己欺瞞」、つまり企業や団体のリーダシップ論が結果的に主要テーマになっている。
 副題は「ボックスから抜け出すこと」ということで、邦訳ではリーダーシップ論よりも、こちらの個人的な人間関係を強調している。また邦訳の「小さい箱」といった「小さい」のニュアンスはオリジナルには含まれていない。日本語の言い回しである「自分の殻」とか「井の中の蛙」といった連想から、日本のマーケットに向けて「小さな箱」という表現が考案されたのだろう。翻訳の質については、ストーリーにあまり関連の秘書の名前などが無断で省略されているものの、それほど強い意訳ではないようだ。
 邦訳書としては別途、2001年に文春ネスコから「箱 Getting Out Of The Box(ジ・アービンガー・インスティチュート)」(参照)が出版されている。英語のオリジナルが2002年の出版ようなので経緯によくわからない点があるが、訳者は同じなのでネスコから大和書房に翻訳権が譲渡され、復刻されたのだろう。
 復刻の由来について、日本のアービンジャー・インスティチュート・ジャパンが関わっているようすが、まぐまぐ”箱「成功してきた私の問題点」たったひとつの問題解決法”(参照)から伺える。

読者の皆さんこんにちは! ご登録いただきホントにありがとうございます。筆者の陶山浩徳と申します。
 【自分の小さな「箱」から脱出する方法】の著者アービンジャー・インスティチュートの日本代表を務めています。
 この本は2001年に「箱」というタイトルで文春ネスコより出版されていましたがその後、絶版状態で手に入らなくなりました。出版前にはアマゾンの中古本価格で1万円を超えて販売されていた希少本です。
 その本が、監修はビジネスプロデューサーの金森重樹さん、イラストは「大人たばこ養成講座」(JTの広告)を手がけた寄藤文平さん、そして「ユダヤ人大富豪の教え」の著者本田健さんまでも編集に関わっていただき
【自分の小さな「箱」から脱出する方法】と生まれ変わって大和書房さんより10月に発売になりました。

 陶山代表については、”ノビテク やれる気の達人たち アービンジャー・インスティチュート・ジャパン株式会社 代表取締役 陶山浩徳 氏”(参照)に自己紹介がある。

Q.今までの経歴を教えてください
工業系の大学を最低の成績で卒業後、大手自動車メーカーの販売店に就職しました。整備士として2年ほど働きましたが、もっと世間を知る事ができる仕事がしたくて上司に相談したところ、営業を薦められ、営業に異動したのです。高級車を売ることで、企業の社長と接する機会ができました。2年間営業をし、そこそこの成績を収めることができたことで調子に乗った私は、その後独立して仲間4人で魚や新鮮野菜を販売する商売を始めました。しかし、仲間割れの大失敗です。その後、生活のため仕方なく再就職した先は、農協関連の食品メーカーで農協の婦人部の方へ漬物の漬け方の講習会をして商品を買ってもらう仕事でした。その後、独立を考えているならと義理の父が経営する会社に誘われて勤めることになりました。(後略)


何のために仕事をしているのか、誰のために仕事をしているのか、自暴自棄に陥って行きました。いやでした。全てが。そんな時に、ある知人から「箱」の本を紹介してもらったのです。出版社に問い合わせたところ絶版になっていたのですが、インターネットの中古本販売でなんとか購入できました。現在販売している緑色の本「自分の小さな箱から脱出する方法」の前身です。早速読んでみると、まさに目からウロコの連続でした。人の気持ち、自分の気持ちが手に取るようにわかりました。そこにはまさに自分のことが書かれていたのです。

 陶山氏は本書との出会いが人生の転機となったということで、その出会いを準備する人生経験もされていたということなのだろう。
 私が本書になぜ違和感をもっていたかだが、以下の米アマゾン読者評(参照)のような関連事実をあらかじめ知っていたからだった。

Mormon connection (almost) ruined it for me, May 27, 2002
By A Customer

My boss bought a number of copies of this book to distribute among management, and I found the ideas it espoused quite helpful, although the sixth-grade reading level it's written at can be a bit trying at times. The idea that perceiving those you deal with in your daily life as people rather than objects can help you to be more effective is very valid.
(私の上司が本書を経営陣に配布するために多数もってきた。小学生でも読めることになっているが多少読みづらかったものの、私は同書の考え方は役立つと支持した。日常生活の関わる対象を物として捉えるのではなく人々として捉えることでより自分がより効率的になるという考え方は確かだ。)

Dr. C. Terry Warner, founder of the Arbinger Institute, as well as the Institute itself, are closely linked with BYU and the Mormon community, and when I discovered this after reading the book, it put something of a bad taste in my mouth; I wondered if this was a bonafide business book or simply soft-sell PR for the LDS groups. Simply substitute "in the box" and "out of the box" for "saved" and "sinner" and you have an entirely different book.
(アービンジャー研究所を創立したテリー・ウォーナー博士と、その研究所も同様に、ブリガムヤング大学とモルモン教徒コミュニティに強いつながりももっている。私が本書を読み終えてからそれを知ったとき、口のなかに何か嫌な後味のようなものが残った。この本は、善良な書籍といえるのか、それとも単に末日聖徒イエス・キリスト教会用の口当たりよい広告なのか疑問に思った。「箱の中にいる」や「箱から出る」というのは、「救済」や「キリスト教的罪意識の人」と単純に置き換えてみると、この本はまったく別のものになる。)

Since the book espouses approaches that aren't tied to any specific religion, and since the points it makes are very valid, I'd recommend taking a peek despite the BYU / LDS link.
(この本は特定宗教と結びつかない手法を支持している。そしてこの本の指摘が確実なものなのだから、ブリガムヤング大学やモルモン教徒コミュニティを別にして覗き見しておくことをお勧めしたい。)


 率直なところ、本書を読みながらモルモンの教義のようなものが潜んでいるか、コミュニティ勧誘的な要素が含まれているかについて、警戒しつつかなり構えて読むことになった。読後、そうした懸念はどうかなのだが、完全にクリアとはいかないまでも、この本はこの本で閉じて良書であると思うし、自分自身人生観に修正すべき点を得た。
 内容に立ち入ると、邦題で強調されている「箱」とは何かということがまずポイントになる。これは、おそらく日本語でいう「自分の殻に篭もって」の連想を受けやすいだろうが、箱に入った状態とはそういうことではなく、他者を物として見ている状態を指す。そして箱から出た状態は他者を人として見る状態を指す。もちろん、そうとだけ言ってしまえばそんなことはわかりきったことのようにも思われるが、本書は小説仕立ててで、その微妙な部分を執拗に描いている。
 私は読みながら、これはマルチン・ブーバーの哲学の亜流ではないかと想像が付いた。実際、本書の後半でブーバーの言及は出てくるし、本書の続刊「2日で人生が変わる「箱」の法則(アービンジャー・インスティチュート)」(参照)ではブーバーについての議論はある程度踏み込んで書かれている。
 簡単に言えば、ブーバーが「我と汝」(参照)で言う存在の根源語「我-汝」のありかたが箱から出た状態であり、「我-それ」が箱に入った状態なのだが、この問題については、あるいは森有正が説いたように、日本人は、「我と汝」や「他者を人とみる」ということを、「二人称的おまえのおまえは私」として理解しやすい。あるいは、イザヤ・ベンダサンが日本教という概念で説いたように、「人間」という「自然」という概念に吸着させやすい。おそらく本書は、日本の文化的な背景ではある基本的な誤解に至りやすいと思われるが、私がそれは誤解だと言えるほどのものでもなく、少し困惑している。
 ブーバー哲学の大衆化が本書の本質かというと、そうではなく、最も重要なコンセプトは、オリジナルタイトルにあるように「自己欺瞞(Self-deception)」である。本書では、自己欺瞞というものを、「良心や本心が告げるものに対する裏切り」として捉えている。たとえば、若い夫婦が寝ているとき赤ちゃんが泣き出す。夫か妻が起きて相手をしなければならない。そうした状況で、夫が先に目を覚ましたのに、嘘眠りしてしまう。そんな状況を本書では上げている。
 単純に言えば、自身の良心に反したことをしたときに、人は箱に入る、というのが本書の箱に入るという説明だ。箱からどう出るかについての議論は、ここに書くべきではないので、関心のある人が読まれるとよいだろう。
 私のように懐疑的な人間なら、良心ということを他者から告げられたとき、ある種の宗教的な強制の臭いを嗅ぐ。良心はまさに自分だけの問題であるから、そもそもが箱の内部であるし、そこにかかわる部分で自己欺瞞がどのように起きるかは、自己撞着的なアポリアになる。加えていえば、自我そのものが自己防衛のメカニズムとして発生しているという点で、「私」という意識は自己欺瞞の装置そのものでもあるはずだ。
 宗教が恐ろしいのは、本来自分の内在であるべき良心を、外在的に議論できるかのような装いをする点にあり、本書のようなスキームで言うなら、良心に偽ったというとき、それはもしかすると宗教の教義への偽りによる恐怖に過ぎないのかもしれない。
 この問題、つまり、それが良心なのか、それとも教義なのか、その点は、続刊の「2日で人生が変わる「箱」の法則」に多少ヒントがあるものの、率直にいえば十分にクリアになっていない。もう少しいえば、ブーバー哲学のなかにそのヒントがあるべきなのに、本書の哲学はある異質なものが混入している印象がある。
 以上のように懐疑的に本書を見つつも、私自身は、本書が指摘するように、「箱のなかにいる」という自覚を十分にもったし、そのことでもたらすありがちな諸問題について、かなり示唆深い教訓を得た。本書を人に勧めるかといえば、勧めたい。かなり人生観に衝撃を受ける人がいることは確かだろうと思う。その衝撃は100%良いものではないかもしれないが、人生にありがちな諸問題を解決する可能性が高い。
 結局、私は本書をどう捉えたらよいのか。その問題は、続刊の「2日で人生が変わる「箱」の法則」の読後の問題に移った。こちらの書籍については、新しくエントリを起こしたい。

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2008.03.13

支出の倫理

 アマゾンの「ほしい物リスト」で本人の名前が表示されるという話が昨日突然話題になり、12日付け朝日新聞記事”アマゾン「ほしい物リスト」、他人に丸見え 本名も表示”(参照)にまで取り上げられた。


ネット通販大手「Amazon」(アマゾン)のサイトで、欲しい商品を登録したユーザーの個人名やリストが、検索すると他のユーザーから見えてしまうことが、ネット上で問題にされている。表示されないように設定もできるが、大半のユーザーは検索されることを知らずに使っている可能性がある。

 この仕様は以前のウィッシュリスト時代からあるのだが、目立つところに配置されていて今月に入り「ほしい物リスト」と名称が変わったをのがきっかけで話題になったのだろう。
 別段それが公開されて何が話題なのかというと、一つには「ほしい物」がプライバシーに関連する部分があるということだ。

 中には、特定の病気について書かれた本が並ぶリストや、アダルトグッズなどが並ぶリストもあり、そのユーザーが「自分の名前とともに公開される」ことを意識しているとは考えにくいものも多い。

 もう一つは、匿名ブロガーの名前がばれたということ。

 「2ちゃんねる」には「単なるお気に入りだと思っていた」「覚えのないリストが(自分の名前で)表示された」などクレームに交じって、「有名ブロガーのアドレスを入れたら、本名が出てきた」という書き込みもされている。

 私は「有名ブロガー」のうちには入らないと思うが、この件で探した人もいるのかもしれない。私はこの機能を使っていないのでそこからは情報は探れないだろうし、匿名に隠れてなにか書いているという意図はないので公的な必要性があれば公開します。
 匿名ということの余談になるが、マルタのカトリック的な風俗を調べているときKKKのような装束を見つけて驚いたことがある。理由を探ったのだが、善行は匿名でするということが起源で、異様に見える装束も逆の起源があったようだ。つまり、匿名とは善行を隠すためのもの、というのが西洋史的には原義に近い。アルファブロガーというのもがありうるとしたら、有名であるよりマスメディアから独立した匿名の良心の一つの形態であるべきなのかもしれない。
 アマゾンの問題に戻ると、同記事ではアマゾン側の態度をこう伝えている。

サイトを運営するアマゾンジャパンの広報担当者は「公開になるという説明は、必ず目につくような場所につけている。設定の変更もできるようになっている」と説明。「そもそも、ほしい物リストは、アメリカの文化で、友人や家族にプレゼントして欲しいものをあらかじめリスト化する習慣に合わせてできた機能。公開して使うことが前提になっている」としている。

 文化的な背景もあるのかもしれないが、私は、米国的な「ウィッシュ」(ここではサンタさんにプレゼントもらえないかなというような願望だろう)と、「ほしい物」(これ今は買わないけどほしいなという願望)の違いかもしれないと思った。
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静かなる細き声
山本七平
 今回のネット的な騒ぎで、「支出の倫理」も思い出した。山本七平「静かなる細き声」(参照参照)にその章題の興味深い話がある。

 中学何年のときか忘れたが、ヘニガーさんという宣教師(?)の講演会があった。確か、全校生徒が聞いたのではないかと思う。
 もう相当な年の方で、真っ白な頭髪と上手な日本語が印象的だった。


 ただ強く印象に残ったのが、ヘニガー先生の「支出の倫理」という考え方であり、これが私には、今まで耳にしたことのない、全く新しい考え方に思えたからである。先生は確か、次のように話されたと思う。

 山本の記憶に残る「支出の倫理」とは次のようなものだ。

 日本人は、取得もしくは収入の手段方法については、高度の強い倫理観をもっている。これが中国(当時の)の上海などに行くと、「盗む」ことが必ずしも罪悪視されず、盗品市場などが堂々と存在し、盗まれた物はそこに行けば買いもどせるという奇妙な状態である。また盗みの現場を見つかれば返せばよいのであって、それ以上追求すると「返したのだから文句を言うな」と逆襲される。こういう点、日本人とは倫理観が違う。
 ところが、立派な「取得の倫理」をもっていながら、「支出の倫理」となると、日本人はこれが皆無である。
 そしてこの点を指摘すると、必ず返ってくる反論が「盗んだものでも、ひろったのでもない。オレがかせいだカネだ。オレがかせいだカネを、好きなように使って何が悪い。女郎を買おうが、酒を飲もうが、バクチをしようがオレの勝手だ」といった反論である。
 この際、支出とは他にとっては収入であるから、非倫理的な支出が非倫理的収入をもたらすとは考えない。
 そのため、非倫理的収入を得た者が社会的に非難され軽蔑され差別されることはあっても、この収入の原因となった非倫理的支出をしたものは非難されないという奇妙な現象を呈しながら、だれもこれを奇妙とは思わない。

 山本七平のこのエッセイはもう三〇年も前のもので、私は当時これを連載していた「信徒の友」を購読して読んでいたのだが、現代日本ではもう違った部分はあるかもしれない。
 引用が多くなるが興味深いので続ける。

 だが私には、支出は、だれにも拘束されない個人の行為だという点と、拘束されない自由な行為であり、他の収入となる点で他に干与しつつしかも責任を負わないですむ行為であり、いわば「応答の義務のない行為」であるがゆえに、支出は神に対して倫理的な責任を負うという考え方が、非常に興味深かった。

 山本はこうも述懐する。

 支出とは不思議なものである。ふところにカネがあるということは、その範囲内で、それを自由に使いうるということであり、その点、支出は不知不識のうちにその人の本心をさらけ出してしまう。
 こう考えてみると、支出とは、近代人が神と人の前で自覚せずに行っている一種の懺悔であり、偽ることのできぬ自己表現である。

 この山本の印象は、マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(参照)で重視されるプロテスタンティズムの特徴と響き合う点がある。

 これらのさまざまな方向へピュウリタニズムがおよぼした影響をここで詳論することはできないが、次の点だけははっきりさせておきたい。すなわち、純粋に芸術や遊技のための文化財の悦楽にはいずれにせよ、つねに一つの特徴的な許容の限界があった。つまり、そのためには何も支出をしてはならない、ということだ。人間は神の恩恵によって与えられた財貨の管理者にすぎず、聖書の譬話にある僕(しもべ)のように、一デナリにいたるまで委託された貨幣の報告をしなければならず、その一部を、神の栄光のためでなく、自分の享楽のために支出するなどといったことは、少なくとも危険なことがらなのだ。目の見える人々には今日でもなお、こうした思想の持ち主が見あたるのではなかろうか。人間は委託された財産に対して義務を負っており、管理する僕、いや、まさしく「営利機械」として財産に奉仕する者とならねばならぬという思想は、生活の上に冷やかな圧力をもってのしかかっている。

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プロテスタンティズムの
倫理と資本主義の精神
 この思想の根には、聖書時代の貨幣=タラントが才能=タレントとなる構図とも関連し、才能や貨幣は神から貸し付けられた責務を伴う貸与という側面もある。
 山本は日本人には支出の倫理はないというが、物に対するある種のケチの倫理はある。使えるまで使い倒して新製品を買わないというか。私は「物の性を尽くす」という「中庸」(参照)の倫理で教わったように思う。このケチの考えは西洋人もあるが、西洋人の場合は、支出の倫理に関係しているのだろう・日本人の場合は、物に宿る仏性みたいなものとつながっていたのではないかと思う。

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2008.03.12

日銀総裁人事問題雑感

 読売新聞を除いて今朝の新聞各紙は日銀総裁人事問題で、どちらかといえば民主党の対応を批判しているように思えた(読売新聞は8日付け「日銀総裁人事 「財金分離」は理由にならない」で触れている)。例えば、朝日新聞社説”日銀総裁人事 腑に落ちぬ不同意の理由”(参照)では、次のように民主党を批判している。


 注目の日本銀行総裁人事で、民主党は政府が提案した武藤敏郎副総裁の昇格に同意しないことを決めた。
 他の野党も不同意の方針なので、きょうの参院本会議で人事案は否決される見通しだ。福井俊彦総裁の任期切れが19日に迫っている。なのに政府は後任を決められない。なんとも異例の事態を迎えることになる。
 私たちは民主党に対し、大局的な見地からこの人事を慎重に検討するよう求めた。きのう武藤氏らが国会で所信を述べてから時を置かず、不同意を決めたのは残念というよりない。

 一応次のように民主党への配慮はあるものの、朝日新聞は民主党の今回の対応に説得性がないとしている。

 野党とはいえ、目指す政策がある以上、それにそぐわない人事に反対するのは理のないことではない。
 だが、ことは日本の金融政策の司令塔をだれにするかという問題だ。民主党の反対理由を聞いても、政府が最終的に任命責任を負う重い人事を覆すほどの説得力があるとは思えない。

 さらに民主党には政局絡みの思惑があるのではないかとまで批判を展開しているが、穿ち過ぎだろう。
 朝日新聞は民主党の反対理由に説得力がないとしているが、現在の政府案を民主党に飲ませるという朝日新聞の意見にもそれほど説得力はないだろう。そもそも朝日新聞が政府と意見を同じくする理由について十分には語られていないうえ、この人事案は任期切れギリギリで、民主党にとっては「同意困難な無理なボールを投げつけてきた」ように出されたという点には触れていない。
 今回の問題は、朝日新聞の理解とは異なり、基本的に制度の問題である。その点、毎日新聞社説”日銀総裁人事 「採決棄権」も民主の選択肢だ”(参照)は今回の騒動の本質を次のようにきちんと指摘している。

そもそも同意人事の賛否が衆参で分かれた際どうするか、他の法案などと違い明確なルールを作ってこなかったのが混乱の要因でもある。

 具体的には日銀法に関係する。朝日新聞の記事”日銀人事、参院「武藤総裁」を否決 白川副総裁のみ同意”(参照)では、この点を踏まえている。

日銀人事が国会同意人事になった98年の改正日銀法施行後、不同意は初めて。一方、日銀出身の白川方明・京大大学院教授(58)を副総裁とする案は民主党も賛成に回り、賛成多数で同意された。
 日銀法が定める衆参両院の同意が不可能になったことで、政府は19日の福井俊彦総裁(72)の任期切れを控え、今後、同じ人事案を再提出するか、別の人事案に差し替えるかの選択を迫られる。

 他、産経新聞・日経新聞の社説も、どちらかといえば民主党が翻意して丸くおさめることを求めている。なお、毎日新聞社説の後段では「邪道」の自覚の上で民主党は棄権せよと説き、ユーモアと呼ぶには苦笑に近い提言もしているが。
 現実問題としては、政府側としては「同じ人事案を再提出するか、別の人事案にに差し替えるか」ということになる。
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経済政策形成の研究
既得観念と経済学の相克
野口 旭他
 差し替えとなり「白川方明・京大大学院教授」となるならば、これはこれで手順通りすんなりと丸く収まる。そうなれば、今朝の大手紙社説は、「経済政策形成の研究 既得観念と経済学の相克」(参照)が改訂されおりに追記されるべきエピソードとなるかもしれない。
 同じ人事案が再提出された場合はどうか。その場合でも、それほど問題があるとは思えない。FujiSankei Business i.”金融・証券/総裁空席に現実味 武藤氏、低姿勢も通じず 民主、白川総裁代行を視野”(参照)に民主党のシナリオが記載されているが、当面は代行を立てておけばいいだけのことだ。

 民主党としては12日に参院で人事案を否決し、早々にボールを政府側に投げ返す戦略だ。さらに空席の責任を回避するため、総裁代行を準備しておくという策も打ち出した。金融政策の理論・実務両面に精通する白川氏なら当面の政策運営に支障はないと判断したようだ。

 日銀総裁空席が国際的に問題だと騒ぐ向きがあるが、それほどまでに日銀総裁が国際的に重視されていたとは思えない。民主主義とは手順の遂行でもある。当面白川氏を代行にして、その間、議論を尽くせばよいのではないか。
 率直に言うのだが、その間、政府も民主党も大手紙も含め、幅広い層からの意見を聞き、早々に政府及び民主党から切り捨てられた伊藤隆敏東大教授採用の線も再度検討したほうがよいだろう。

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2008.03.11

元米国国防省政策次官ダグラス・ファイスの言い分

 最初に一言。私はファイスの言い分が正しいとは思っていない。ただ、ファイスが本を書いたんだな、でも多分日本では翻訳されないだろうな、と思うので、備忘にブログにログっておくという程度のことだ。イラク戦争も次第に歴史になっていく。
 邦文で読める関連ニュースにはAFP”米国防総省の元高官が暴露本、パウエル元国務長官を糾弾”(参照)がある。


【3月10日 AFP】イラク戦争開戦時に米国防総省の政策担当次官を務めたダグラス・フェイス(Douglas Feith)氏が、最新著書のなかでコリン・パウエル(Colin Powell)国務長官(当時)や米中央情報局(CIA)について、イラク戦争を台無しにしたとして非難していることが明らかになった。同氏の新著『War and Decision(戦争と決断)』の原稿を入手した米ワシントン・ポスト(Washington Post)紙が9日、報じた。

 AFPのニュースはご覧の通りワシントンポストの孫引きに過ぎない。元になるのは、9日付けワシントンポスト”Ex-Defense Official Assails Colleagues Over Run-Up to War”(参照)だ。AFP記事はワシントン孫引きなのでやや引用を多くする。パウエルの批判が続く。

 2005年まで国防総省の政策担当次官を務め、米国の対イラク戦争政策で中心的役割を担ったフェイス氏は著書の中で、パウエル氏が当時のイラク政府の脅威の程度と緊迫性を「軽視」したこと、にもかかわらずイラク戦争に対する反対の意思を公に示さなかったことを指摘。イラク戦争への支持を仏独から取り付け損なったことや、イラク攻撃にあたってトルコ政府から同国領内の米軍基地の使用許可を得られなかったことについて、「パウエル氏の努力と熱意が欠けていたため」と強く非難した。

 ファイス側から見ればパウエル元米国国務長官の位置づけはそんな感じなのだろう。さらっと読むとここで描かれているパウエルはこれまで流布されているイメージとそれほど違いはない。だが少し留意しておきたいのは、ファイスがパウエルについて、フセイン政府の脅威の程度と緊迫性を軽視したことを間違いとしている点だ。
 AFP記事はパウエルに続いて非難の矛先が向くようなトーンで伝えている。

 さらに、トミー・フランクス(Tommy Franks)元中央軍司令官についても、侵攻後の占領計画に意欲を示なかったとして、また当時、国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めていたコンドリーザ・ライス(Condoleezza Rice)国務長官については対イラク戦争政策をまとめることができていなかったとして、それぞれ非難している。

 以上がAFPの伝えるところだが、ワシントンポストのオリジナルはややトーンが違う。

In the first insider account of Pentagon decision-making on Iraq, one of the key architects of the war blasts former secretary of state Colin Powell, the CIA, retired Gen. Tommy R. Franks and former Iraq occupation chief L. Paul Bremer for mishandling the run-up to the invasion and the subsequent occupation of the country.

 パウエル批判がメインではなく、最初から、トミー・フランス、ポール・ブレマーが対象に上がっている。特にAFPではブレマーに言及がないが、ファイスはブレマーをかなり非難している。

The idea to which Feith appears most attached, and to which he repeatedly returns in the book, is the formation of an Iraqi Interim Authority. Feith's office drew up a plan for the body -- to be made up of U.S.-appointed Iraqis who would share some decision-making with U.S. occupation forces -- in the months before the invasion. But while he says that Bush approved it, he charges that Bremer refused to implement it.

 ファイスはイラクの戦後体制を計画し、ブッシュに進言したがブレマーが潰したと主張している。この点ワシントンポストは、ファイスの書籍紹介に留まらず、ブレマーに抗弁させているのが興味深い。

In an interview yesterday, Bremer disputed Feith's narrative, saying he believes that Bush gave up on the idea of a quick transition shortly after Baghdad fell and widespread looting broke out in April 2003.

"By the time I sat down with the president on May 3, it was clear that he wasn't thinking about a short occupation," Bremer said. After consulting his records, Bremer also said that at a White House meeting on May 8, Vice President Cheney said, "We are not yet at the point where people we want to emerge can yet emerge." He said that Feith omits that comment. On May 22, he added, the president wrote to him, saying that he knew "our work will take time."


 ファイスとブレマーの間の、時間経過を含めた認識の違いは、歴史としてのイラク戦争について後代の歴史家の関心を呼ぶだろう。
 話をイラク開戦の秘話的な部分に移す。

Among the disclosures made by Feith in "War and Decision," scheduled for release next month by HarperCollins, is Bush's declaration, at a Dec. 18, 2002, National Security Council meeting, that "war is inevitable." The statement came weeks before U.N. weapons inspectors reported their initial findings on Iraq and months before Bush delivered an ultimatum to Iraqi leader Saddam Hussein. Feith, who says he took notes at the meeting, registered it as a "momentous comment."

 「極東ブログ: [書評]石油の隠された貌(エリック・ローラン)」(参照)でも触れたが、イラク戦争開戦が大量破壊兵器の有無以前に既定の事項だったことはかなり確かなことではないだろうか。つまり、ブッシュ、というより、チェイニー副大統領が中心だが、彼らの錯誤というより、別の政策の当然の帰結だったとして見たほうが理解しやすい側面がある。
 ファイスのこの認識はファイスのイラク戦争観でもある。そこまで言うものかと少し嘆息するのは次のような点だ。

In his book, Feith defends the intelligence activities on grounds that the CIA was "politicizing" intelligence by ignoring evidence in its own reports of ties between Hussein and international terrorists.

 ファイスとしてはもともと大量破壊兵器の有無などは問題ではなし、であればそれで国策を誘導することもたいしたことではなかったのだろう。次のようなワシントンポストのまとめかたは、意味の取り方が微妙になる。

In summarizing his view of what went wrong in Iraq, Feith writes that it was a mistake for the administration to rely so heavily on intelligence reports of Hussein's alleged stockpiles of biological and chemical weapons and a nuclear weapons program, not only because they turned out to be wrong but also because secret information was not necessary to understand the threat Hussein posed.

Hussein's history of aggression and disregard of U.N. resolutions, his past use of weapons of mass destruction and the fact that he was "a bloodthirsty megalomaniac" were enough, Feith maintains.


 私の理解が偏向しているかもしれないが、ファイスにしてみれば、大量破壊兵器についての報告に米政府が拘泥しまったのがそもそもの間違いだということなのだろう。つまり、ファイスにしてみると、報告書のインチキ具合はフセインの危険性認識とは関係ないという認識なのだろう。
 ファイスの議論にワシントンポストが注目しているのは、その真偽なり、あるいは一方の言い分も聞いているみるという以上に、ファイス自身のこの問題への関わりについてさらに探求したいという意図があるからだろう。単純にいえば、ファイスの胡散臭さだ。

Feith left the administration in mid-2005 and is now on the Georgetown University faculty. He was the subject of an investigation early last year by the Pentagon's inspector general for his office's secret prewar intelligence assessments outlining strong ties between Iraq and al-Qaeda. His reports, deemed "inconsistent" with those of the intelligence community, were judged "inappropriate" but not illegal.

 ごく単純にいえば、イスラエル・ロビーといったものが想定されるのかもしれない。
 ここで少し私の感想を述べると、先のエリック・ローランの書籍でチェイニーがサウジとの関係で懸念をもっている点を指摘していたように、チェイニーやブッシュ王国は、イラク対イスラエルというより、イラク対サウジの構図に懸念していた。雑駁にいえば、イスラエルとサウジの共通の敵として米国を動かしたというスジもうかばないではない。が、そんな単純なことでもないように私は思う。
 この問題は、「極東ブログ: イラク混乱中の国連事務所爆破テロ」(参照)でログした国連への反感を含めて、いろいろ錯綜した問題が眠っているようにも思える。

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2008.03.09

スティーブン・ジョブズとかウイリアム・ゲイツとか名前についての些細な話

 先日メモ書きの日記に「スティーブンジョブス」と書いたら、こんなコメントをもらった。


スティーブンジョブスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

 wが連続しているのは2ちゃんねる語なんかの連想だと嘲笑ということかなと思うので、ありがちなネガティブ・コメントというか私を罵倒しているのかもしれない。が、さて思い至らない。中点を抜いたのと「ズ」にすべきかということかもしれない。「スティーブン・ジョブズ」ならよかったのだろうか。
 別のかたから「本名はスティーブンStevenと綴ると記憶してますが」というコメントもいただいて、もしかすると、先のかたのw連続のコメントは、私が「スティーブ」を「スティーブン」だと思い違いしているか、よくある入力ミスだと思ったのだろうか。
 私はスティーブン・ジョブズをApple IIが出たころから知っていて、ずっと「スティーブン・ジョブズ」と呼んでいる。たぶん彼の名前を知った最初がそうだったのではないだろうか。というか、いつから「スティーブ・ジョブズ」なんだろうかと逆に思い返してみたが、昔の雑誌などは捨ててしまっていてよくわからない。最初から「スティーブ・ジョブズ」だったのかもしれないが、私は彼の正式名を知っているし、英語の過去記事を見るとニューヨークタイムズとかでも、Steven Jobsという表記がある。たとえば、”Steven Jobs Making Move Back to Apple - New York Times”(参照)。
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Steven Jobs & Stephen Wozniak
 言うまでもなく彼の正式名は、Steven Paul Jobsなので、ミドルネームを入れると、「スティーブン.P.ジョブズ」とすべきかとも思うが、そういう表記は見たことない。バラック・オバマの正式名は、(Barack Hussein Obama, Jr.だが、通常、「バラック・オバマ」というわけで、「スティーブン・ジョブズ」式になっている。
 ちなみに、ビル・ゲイツは、キバット三世のように、William Henry Gates III、だが。こちらは最初からビル・ゲイツと呼ばれていたような気がする。ついでに、カート・ヴォネガットは、Kurt Vonnegut, Jr. だが、父が亡くなってから、Jrを落とした。というか、本名は自分で決めていいようだ。
 ウィキペディアを見ていたら「名前の短縮型」(参照)という項目があり、いろいろ書いてある。

 注意しなければならないのは、短縮型も正式名と同様に本名として扱われることがあるものであって、通称や愛称 (あだ名) とは性質が異なるものである、ということである。
 よく引き合いに出される例が、第39代アメリカ大統領のジミー・カーター (Jimmy Carter) と第42代大統領のビル・クリントン (Bill Clinton) である。この二人の正式名は、それぞれジェームズ・アール・カーター・ジュニア (James Earl Carter, Jr.) と ウィリアム・ジェファソン・クリントン (William Jefferson Clinton) だが、二人とも幼少の頃からから ジミー (Jimmy)、ビル (Bill) と呼ばれており、成人してからも、州知事時代から大統領時代にいたるまで、すべての公式文書に一貫して “Jimmy Carter”、“Bill Clinton” と署名している。これはとりもなおさず、この二人がこれらの短縮型を「本名」としているからである。

 ホワイトハウスのサイトにも同じようなことが書いてあるのでこれでいいのだろう(参照)。ただ、私はカーター時代のことをよく覚えいるのだが、確か当選したころ、Jimmyが正式なんだと言っていた。英語のウィキペディアを見るとこうある(参照)。

James Earl "Jimmy" Carter, Jr. (born October 1, 1924) was the 39th President of the United States from 1977 - 1981, and recipient of the Nobel Peace Prize in 2002. Prior to becoming president, Carter served two terms in the Georgia Senate, and was the 76th Governor of Georgia from 1971 - 1975.[1]

 英語のウィキペディアには「James Earl "Jimmy" Carter, Jr.」とある。ただこれが本名または正式名というわけでもなくウィキペディアの記載上の決めごとかもしれない。が、米人で名前のところにダブルクオートでこういうふうに呼称を入れる人はいて、ミドルネームとか言うのだが、違うだろと思ったことがある。
 話を戻して、「名前の短縮型」の項目には、Stephen/Stevenも載っている。どっちも短縮形ではSteveになるようだ。「Stephen Robert Irwin → Steve Irwin」という例もある。でも、スティーヴン・キング(Stephen Edwin King)は、Stephen King で、Steve Kingにはならない。本人がそう決めているのでしょう。
 話のついでに、あれ、ハイフン付き名というのはなんだろというのも調べてみた。例えば、「ティム・バーナーズ=リー」ってやつだ。このイコール記号なんだろ? というと、本名でハイフネートしているとこうなるっぽい。この例だと、Sir Timothy John Berners-Lee、なので空白を中点、ハイフンを=にしているのだろうが、このあたりの日本語の表記もちとなんだかなという感じはしないでもない。たしか、文部省時代は中点を認めず全部イコールだったような気がするが。とぐぐると「外国人の「姓」と「名」の間に入る「・」と「=」はどう違う?」(参照)という記事をめっけ。結論、よくわからない。
 話がずるずると流れていくが、Sir Timothy John Berners-Leeは、略すとどうなるか。ネットを見ていると”TLF: For Shame!”(参照)、ちょっと笑える話が。

How idiotic is the suggestion that Timothy B. Lee is part of an attempt to confuse readers into thinking that he is Tim Berners-Lee? Let us count the ways.

(1) Google it! By my count, 42 of the first 50 results refer to *this* Timothy B. Lee, not Tim Berners-Lee. Guess what? None of the other eight refers to Berners-Lee either.

(2) Anyone who knows enough to know who Tim Berners-Lee is knows he doesn't work for the Show-Me Institute.

(3) Tim Berners-Lee's name isn't -- and *couldn't* be -- abbreviated as Timothy B. Lee. Berners is not his middle name. Berners-Lee is a hyphenated last name. His middle name is John (per Wikipedia entry above). So the closest you could get is Tim J. Berners-Lee. How confusing!

(4) *This* Tim Lee isn't a knight!

I'll predict right now that the Times won't run any kind of clarification because absolutely none is necessary. His actual name and affiliation were enough to identify him accurately.

Speaking of Tim's picture, he does appear to have white skin ... just like Tim Berners-Lee. What's he trying to pull? Oh, Timmy, where will the deception end?!

Posted by: Kevin B. O'Reilly on August 3, 2006 3:50 PM


 まあ、英語国民でも間違いやすいには違いないのだろう。
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人名の世界地図
 というところで、ふと「極東ブログ: Deed Poll(ディード・ポール)」(参照)を思い出した。ティムの両親は二人とも数学者で、もしかして、両方のファミリーをハイフンで結合したかな、と。違った。父親もBerners-Lee姓をもっている(参照)。と、調べていくと、祖父は、Cecil Burford Berners Leeとあり、ハイフネーションはない。ティムの父親の代で付けたのだろう。なぜかよくわからないが。そういえば、サルトルは名前のほうにハイフネーションがあった。Jean-Paul Sartre、正式には、Jean-Paul Charles Aymard Sartre。
 名前は難しいな。どうでもいいけど、「佐藤寛子」って聞いて、佐藤栄作の奥さんを思い出す私は、wwwwwwってことなんでしょうね。

追記
 「ティム・バーナーズ=リー」といった表記の「=」を、エントリではイコールとしたが、出版界ではこれはイコールではなく「ダブルハイフン」(参照)としているとのご指摘を受けた。なるほど。


ダブルハイフン(?)は、2本のハイフンである。二重ハイフン(にじゅう - )とも呼ばれる。ハイフンの長さは半角幅である。しばしば数学記号の等号 ( = ) や下駄記号 ( 〓 ) で代用される。縦書文書内で表記する時には90度回転した字形となる。


・複数語からなる外国人名をカタカナで記述するときに、各語の区切りとして使用される。(例:チンギス=ハン、レオナルド=ダ=ビンチ)。
・日本語以外の単語を片仮名で記述するときにハイフンの置き換えとして使用される。(例:ウォルドルフ=アストリア)
・日本語以外の熟語を片仮名で一語として記述するときに単語間の区切りとして使用される。

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