教育について
国際学力比較について一昨日から昨日、少し話題になっていた。国際教育到達度評価学会が各国の小学4年と中学2年を対象に昨年実施した、国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)の結果が公表され、低かったとされる03年の同調査に比べ、やや上回る結果となり、学力低下には歯止めがかかったいうことだった。しかし、他の調査では落ちているとか、学習意欲が低下しているなど、新聞などメディアでは話題になっていた。
私はまったく関心ない。一つには、日本は国際的に高い教育水準にあるのに何が問題なのだろうかと不思議に思うくらい。今回の調査では、日本は小学4年の算数・理科は36か国中4位、中学2年は48か国中、数学5位、理科3位。そのくらいでいいのではないか。
また私は、公教育は最低限であとは私学にすべきだし、なにより教育に国家が介入するのはやめてくれと思う人だからだ。なので文科省なんて不要だと思っている。
で、なぜですか? どういう教育が理想的ですか、と問われた。前者については、人はできるだけ国家に関わらずに生きていくほうがよいという主義だから、くらいだが、後者については、さて理想の教育とは何だと自分は思っているのか少し考えた。率直にいうと、あまり考えたこともないな。まとまった意見もない。ただ、ちょっと雑談は書いてみたい気がした。
思想家吉本隆明は小学生は遊んでいたらそれでよいと各諸で言っていた。私も今はどちらかというとそれに近い。最低限、読み書き算盤的なものができたらよいのではないか。さらにいうと、私は初等教育は地域の人が先生になるとよいと思っている。警察官に学ぶ、魚屋さんに学ぶ、コンビニのバイトにお姉さんに学ぶ、と。子どもはやがて地域の人になるのだから、そういう人になるという目的がはっきり見えるとよいと思う。科学教育や言語能力の向上などは、そういう生きた地域の人々がそれをどう活かしているかという応用のなかで見ていくとよいのではないか。
中学生については、もう少し学問的な部分はあるかなとは思う。基本的には日本の場合、高校が義務教育化しているので、SATのような達成水準を大学組織で提示して、それを段階的に習得させる学習体系があればよいのではないか。
それと中学については、公民というか、市民教育をもっと徹底させるべきかなと思う。特に、民事訴訟はどのように行うかということは一教科にしたらよい。もう一つやって欲しいのは、「お父さんお母さんの税金」という科目を作ることだ。市民がどのように公僕を養っているかという仕組みは中学生くらいでしっかり知っていてもらいたい。
まあ、そのくらいだろうか。
個人的には、自然の教育を増やすとよいと思う。学校に集まらないで、いろいろな地域に集団で移動したらもっとよい。というか、晴れた日は、公園に集まって授業にしたらよいのではないか。私は大学生のとき、芝生の上でなんどか講義を受けたことがあるが、よいものですよ。
以前に書いたが、私は若いころちょっとしたきっかけで障害児の教育に関わっていた。そのとき、指導の先生が、子どもたちにはできるだけ実物を見せて、触らせてくださいとよく説いていた。モンテッソーリの影響かもしれない。ある時、先生はふと思い出したように、集まった父母を前に「みなさん、茄子の花を見たことがありますか?」ときいていた。私より10歳くらい年上の父母だから、団塊世代だろうか、それにはいと答える人はほとんどいなかったように思う。先生は、茄子の花の話を少しした。
私は茄子の花をよく知っている。茄子を育てたことがあるからだ。キュウリもスイカも南瓜もある。トマトもある、トウモロコシもある。大豆もあるエンドウ豆もある。その花はすべて知っている。大豆の根っこを顕微鏡で観察したこともある。小学生の時のことだ。
モンシロチョウは青虫から飼ってなんどもチョウに育てた。「ちょうちょ、ちょうちょ、菜の葉に止まれ♪」である。尖った黄色い小さな卵を見つけて育てる。アゲハチョウも育てた。後年津島祐子の「歓びの島」(参照)の感覚には共感したものだ。蚕とはなんども一緒に眠ったことがある。
月の満ち欠けの日記を書いていたこともある。太陽黒点の観測を続けたこともあった。試験管、フラスコ、シャーレ一式もっていた。今思うと弱いが塩素なんか発生させたりしたこともあったな。あぶねえ。
父親にならってゲルマニウムラジオも作った。コイルはエナメル線を手で巻いた。エナメル線は蛍光灯を分解して手に入れる……。3球のラジオ、5球のラジオも作った。後者はスーパーヘテロダインだ。なんか言葉の響きが面白い。
で、そういう自分がどうなったかというと、まあ、ブログでよくバカにされるくだらない人間になった。教育成果はなしということだ。どうも人に勧められるものでもないな。ただ個人的には、生命や宇宙というものに、ある実感をもった。この世界に、この生命と共存して生きているという。
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コメント
こういう時代だから、最低限のコンピュータ・リテラシー(使用能力)の教育は、世界中、義務教育化すべきではないでしょうか。私はそう考えます。
それから、母国語の教育は、それなりに抽象概念の理解力を付与させるように勤めるべきだと思います。第二次性徴以降の年齢になって、芸能関係の関心と、性的関心と、賭博への関心しかないようでは、当人がひどく不幸です。
きわめて知的に優れた素質のある人には、ラテン語と、漢文と、サンスクリットの徹底高等教育を付与すべきだと考えます。自分の専門分野について、いくつもの言語を操れる人間は、今後急速に、かつ大量に必要になると思われるからです。ラテン語と、漢文と、サンスクリットを知っていれば、非常に多くの言語の学習に応用が利くはずです。
もちろん、数学教育については、すべての数学教育者がルベーグ積分を理解し、「プリンキピア・マセマティカ」を理解できるようになる必要はまったくないと考えます。でも、文科系の人にも、大学院に進学するような人たちには、偏微分の基本的なものの考え方くらいは教育すべきではないでしょうか。
投稿: 必要な教育 | 2008.12.11 15:20
なんていうか、TIMSSの学力ランキングなんてどうでもいいかな・・・
小中学校で身に着けるべき基礎学力というのは、言ってみれば「消化酵素」のようなものだと思うんですよ。最近の教育ではそれが身についていないから、高等教育の場でより高度なというか骨太な問題に取り組むことができくなってきているように思います。いつまでたっても離乳食レベルの問題しか消化できない。そんな状況で猫も杓子も大学に行ったところで意味がないようにも思います。
学習ということを考えると「五感で学ぶ」というのは貴重ですよね。五感を使った体験から学ぶということが少なくなっているかもしれない。ヴァーチャルな体験で「知ったつもり」になっていることも多いように思います。
「学ぶための基礎体力」みたいなものをもっとつけられるような教育がないとダメですね。
投稿: SHU | 2008.12.11 18:08
いいなー、弁ちゃん。直球できた感じがしますね。
子どもは地域が育てるというのは、私の世代の普通の事なのですね。で、今では考え方として別格に扱うことになるのだと思います。そうなると直ぐにお堅い人がお堅く囲っちゃうような気がしますね。
学校なら、校庭に水溜りが出来るような地面のままで、雨が降ったら皆で長靴で飛ばしっこができるとか。道草が出来るように、草も生やしておくとか。帰り道に、もよおしたら、何処かの家に駆け込めるとか。忘れ物をしたら、その時間かけても家に取りに返せるくらい、治安がいいとか・・・。とかですよ。(ちょっとズレタか)
サイドバーの紹介の書籍が、なんですか、ガラッと変化しましたね。ここで今までに紹介した書籍でしょうか?
投稿: ゴッドマー | 2008.12.11 18:43
今の都会の子はどーだか知りませんけど。今日など広島県三原市の行きつけのお店に逝って店主の婆ちゃんと小一時間お喋りして思ったんですが。お孫さん20歳は「徒歩3分以内にコンビニの無い生活なんか耐えられん。あり得ない」とか言ってて、まぁそーゆーもんでしょね、みたいなお話してましたよ。
教育効果なんか正直どーでもいいっていうか、それより金くれなんじゃねーかという。
あと、ね。必要な教育さんの
>それから、母国語の教育は、それなりに抽象概念の理解力を付与させるように勤めるべきだと思います。第二次性徴以降の年齢になって、芸能関係の関心と、性的関心と、賭博への関心しかないようでは、当人がひどく不幸です。
↑コレはまぁそうだよね、とは思いますけど。
>きわめて知的に優れた素質のある人には、ラテン語と、漢文と、サンスクリットの徹底高等教育を付与すべきだと考えます。自分の専門分野について、いくつもの言語を操れる人間は、今後急速に、かつ大量に必要になると思われるからです。ラテン語と、漢文と、サンスクリットを知っていれば、非常に多くの言語の学習に応用が利くはずです。
↑コッチは極めて人を選ぶから、方向性として必要なのは認めても、話の流れ的に「常識として認知すべき」的な路線に流すのは危険な感じがしますけどね。
あと、教育の効果ってのは学んで直ぐに出るものでも時期をおいていずれ発露するものでも無いですから、教えた→でも駄目、に至ることは相当以上ありますし、言葉の意味や方法論やシステムの意味・意義が分からなくても消化力・解釈力が異常?に優れて…世間一般的に「天才的」と評されるに至る人が出る可能性があるわけで。
そういう事例に対して無力であることを否定してはいけないというか。教育は意味合いや方向性としては重要なことであっても、万能・絶対では無いという。そこんところに虚心でない限り、いずれは破綻を呼ぶと思います。
損得を超えたところにあるものを見る心が無い限り、損得勘定の具になったものは端的に価値を失い滅びるんですよね。減価償却完了っつーか。そこらへんは、今後利得を追求するための学問を積んでいるであろう子弟に含めて聞かせるのは難しいと思います。私なんかそうだし弁当翁もそうだし家庭に入る女性なんかそうだけど、ある程度世間と距離を置き得る身の上にならないと分からないこともあるわけで。そこで得られる賢さ(笑)ってものもあるわけで。
そういうのも含めて勉強であり学習ですから、特定部位のシステムをいじったからどーなるこーなるってもんでも無い。「差し当たって必要なこと」に対して全力を注ぎすぎると目的と手段を取り違える愚の道に踏み込んでしまうあたりが、現代社会の病理のひとつなのかもね? って感じです。感じただけ。
あとどうでもいいですけど、昨今異常に懐くねこ(雉トラ・2歳・顔面騎乗)がここ2,3日餌を要求するとき足元にまとわり付いて、すねにしがみ付いて2,3歩踏み出したところでポイッと放られて地べたに転がって「なぁ~ん」とか鳴きながらクネクネ裸踊りをするんですけど踏み潰してもいいですか? みたいな。
投稿: 野ぐそ | 2008.12.11 22:04
ブログでよくバカにされるfinalvent先生がくだらないのではなくて、finalvent先生をブログでバカにしている連中がくだらないのでしょう。
論語を読めば、孔子だってつまらないやつらにからかわれているし、「荘子」では、荘周のくだらない後継者たちが寄ってたかって孔子のことをからかっているし、スッタニパータをみても、ブッダに当てこすりをしているやつが同時代にちゃんといたことがわかります。どっちがくだらない人間なのかは後の時代がちゃんと決めてくれますよ。
あんがい、finalvent先生をブログで馬鹿にしているやつらの中に、スピリチュアルにはまっているやつとかいるんじゃないんですか。わたしはスピリチュアルとかよく知らないけれど、あの類は、たいていは、低級な動物霊の憑依によって成立しているまじないみたいなことが多いんです。バカもあんまり程度が低いと、本当に頭のいい人のことがバカに見えるんですよ。
投稿: どっちがくだらないのやら | 2008.12.12 07:27
現在の教育は日本社会の真実を教えないようになっています。例えば日本社会とヤクザの構造、原理原則よりもお金儲けを優先する社会になってしまっていること、日常的に見ているテレビの情報にはプロパガンダが混在しているということなど。何の疑いもなく純真無垢に先生のいうことを信じて、教科書を信じて勉強してきた子供達ほど、社会に出ると理不尽な現実を突きつけられ世の中に失望します。
大人たちは現実を公教育の中で教える責任があります。もしそれができないのであれば、子供達に胸を張れる現実社会に変えるべきです。
つまり、現在の教育は制度以前の問題なのです。せめて子供達に、現実と向き合い理不尽な現実を受け止めさせるだけの力をつけさせてあげるべきです。それをしてこなかった大人たちは卑怯です。責任逃れです。子供達に嘘をつくなと教えるな。嘘をつかなければならないことがある事実を教えるべきだ。努力すれば必ず報われると教えるな。努力するだけではダメだという事実を教えるべきだ。
子供達は大人の背中を見て育ちます。教育改革など必要ありません。本当に必要なのは大人社会の改革です。
投稿: gott | 2008.12.12 09:28
日本の教育に限らないと思うのですけど、肝心なことを教えないために、どうでもいいことをこれでもか、というほどつめこむ、ということはあると思います。
別に現代に限った話ではないですけど。いわゆる愚民化政策というやつです。宗教的偏見の強い社会ほどひどいのだろうと思います。無神論も、1種の宗教的偏見ですけれど。
投稿: 本末転倒 | 2008.12.12 12:25
はじめてコメントします。
小学校の教育は、人に迷惑をかけないとはどういうことかを教えることです。
中学校の教育は、他人と協力するとはどういうことかを教えることです。
だから、小学校時代に詰め込み型の、正解がある、正しく効率的な道があると信じる、世の中には善と悪しかないという考え方、を子どもに植え付ける中学受験は日本を滅ぼすと思う。
公立のセンセイは自分の役割をここまでだとクールに割り切って振舞うべきだし、親は自分の責任を強く認識すべきです。
「センセイ」なんて言葉がなくなる世の中が正しいと思うなぁ。
投稿: こいち | 2008.12.13 20:09
日本ボーイスカウト連盟の初代総長は後藤新平だそうです。
東京という都市はソフトウェアベースでつくられたんでしょうね。
今は、閉じたグランドキャニオンってかんじですけど
投稿: liez | 2008.12.14 11:42
生きているうちに使うかもしれない情報は図書室に山ほどある。闇雲につめこめても、時間はいくらあっても足りない。
授業は実践をつうじて学ぶ方法を自分で身に付ける(編み出す)為のサンプルショーなので、二次創作以降はピンボケで意味がない。
処世術だけでも渡っていけるが、それでは幾つになってもセンセを探さなければならず、いつか行き詰まる。
退職してガンになって死んだひとはいっぱいいるのに、どうしたらいいか判らない。自分の身体なのに。健康ブームの当事者側のわけ。
「私は教師です」というのは日本語として間違っているか若しくは恥を知らない。師と慕われるような人物は公務員以外でも食っていける。
投稿: おひさ | 2008.12.22 15:54