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2008.12.25

[書評]イーゲル号航海記 2 針路東、砂漠をこえろ!(斉藤洋)

 「イーゲル号航海記 2 針路東、砂漠をこえろ!(斉藤洋)」(参照)を読んだ。この本について何か書くべきなのか別に書かなくてもいいのか、とても迷った。その迷いみたいのを書いてみたい気がした。

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イーゲル号航海記〈2〉
針路東、砂漠をこえろ!
 話は「極東ブログ: [書評]イーゲル号航海記 1 魚人の神官(斉藤洋)」(参照)に続くものので、半年前くらいには2巻目も執筆が終わっていたようだった。出版されるまで意外と時間がかかったように思えるのはコジマケンのすばらしいイラストに手間取っていたのか、作品の直しがあったのか、それとも出版の不況とかの要因もあったのだろうかと思った。もちろん、よくわからない。もともと斉藤洋の本が出るのは遅いことがあります、というだけかもしれない。
 1作目を読んだとき、これは大きな物語の助走的な作品かなと思った。2作目からは大きなしかけが入るようになるのではないかと期待した。で、どうだったか。そこがまず微妙なところだった。
 全体としては、今回の話は今回の話としてクローズしていて、その点では1作目と2作目とはフラットに別のテーマでしたとも言える。ただ、それを越えて、主人公のカール・キリシマ・キルシュの、日本人である父が男爵であることや、きな臭い政治的な役割もっていたこと、ローゼンベルク博士の技術には戦争応用への危険性があることなど、シリーズを貫く大きな物語もきちんと描き込まれている。このままシリーズが続けば当然、ナチスの時代がやってくるし、その中でドイツが進めていた原子力爆弾などの話も関わってくるだろう。潜水艦イーゲル号が探索する謎の水域もその大きな物語とも関係するのかもしれない。その歴史の背景を通して、このシリーズは何を訴えようとしているのだろうかということにも私は関心がある。
 個別の物語としては、前作がポストモダン的でポストコロニアル的な展開だったの対して、今回はエコロジーがテーマになっているとも言える。しかし、面白いのは、現代の地球のエコロジーとはまったく異なる生態のエコロジーが問われるところだ。その点ではSFといってもいいくらいで、そういう生物は地球にはないという生物のエコロジーが問われる。人間主義に毒されないエコロジーの根幹的な思考が問われるようでもある。
 読みながら、一種の謎解きをしていくのだが、なんというのだろうか、想定したこともない生物のエコロジーを考えるというのは脳に奇妙な快感というか不思議な感じがする。それは普通にSFの面白さともいえるのだろうが、SFの多くがおそらくは現実の隠喩的であるのに対して、この作品はそうとも言い切れない。
 前作もそうだったし今回もそうだったのだが、物語でありながら、一種の反物語になっている。しかもそうでありながらこれは児童文学だ。子どもたちがこれを面白いと思って読むのだろうか。もちろん、面白く読めるように最大限の工夫はされているし、文体も美しい。それにしても、物語というもの自体を裏切るような想像力の動かし方を強いる子ども向けの物語というのはなんなのだろうか。アマゾンにある出版社側の紹介は。

天才科学者ローゼンベルク博士のつくった最新式の小型潜水艇“イーゲル号”。小学生のぼくは、その乗組員としてふたたび異世界への冒険に出る。なぞの大渦にまきこまれ、たどりついたさきは無人の砂漠のように見えたが―。予測不能の展開にますます目がはなせない、海洋アドベンチャー・第2弾!小学校高学年から。

 たしかに「予測不能の展開」という感じはする。
 面白さの工夫は文体やディテールのシカケにもある。イーゲル号や今回登場するムッシェル号もメカ的に面白い。また個別のシーンでの感性の描写は前回同様きめこまやかだ。キャラクターも生き生きしている。ドイツを場所に設定しながら、日本語の戯れのような話もあり、その点では日本語というコンテキストをハズしているものでもない。
 対象は小学校高学年からということで、実際にそのくらいの年代から読めるだろうが、これを読む子どもというのが私にはうまく想像できない。私からすると反物語をそのまま物語として受容する読書の心というのはかなり高度な知性だろうと思うが、それが子どもに可能なのだろうか。それはもしかして、日本の子どもだけに可能なのかもしれないとも少し思った。
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イーゲル号航海記〈1〉
魚人の神官
 読むのであれば、まだ2巻目までしか出ていないこともあり、1巻目から読むことをお勧めしたい。単純にエンタイメント的ではないが、不思議に面白い。

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コメント

>私からすると反物語をそのまま物語として受容する読書の心というのはかなり高度な知性だろうと思うが、それが子どもに可能なのだろうか。それはもしかして、日本の子どもだけに可能なのかもしれないとも少し思った。

 『AKIRA』(大友克洋・著)の先例もあるから、小学校高学年~中学生程度の知能があるなら、別に高度な知性じゃなくても受容は可能だと思いますよ。私がそうでしたし。

 広く一般受けはしないだろうという前提は付きますが。

 『AKIRA』とか『幻魔大戦』とかは、今風にハイビジョンで作り直して再放映すれば、それなりに逝けるんじゃないですかね? 『火の鳥鳳凰編』とかも、それなりに面白い。3歳児レベルの萌えアニメが多い昨今、逆にインパクトがあって妙にウケてしまうかもしれない。

投稿: 野ぐそ | 2008.12.26 00:02

「AKIRA」や「幻魔大戦」は、オウム真理教の興隆と関連したものとして私は理解しています。

投稿: summercontrail(左近) | 2008.12.27 20:24

私の追及のきっかけがなぜ西尾幹二先生が多いのかというと、その答えは、まさに西尾先生の「国民の歴史」682ページにあるとおり、加藤周一、大江健三郎、柄谷行人、立花隆、加藤典洋、樋口陽一、浅田彰といった方々を相手にする気になれないからです。西尾先生は敬意を表すべき言論人だと思っています。ただ、あしらいは手荒ですけど。

自分をドゥンス・スコトゥスにたとえる資格など自分にはないけれど、ドゥンス・スコトゥスがなぜガンのヘンリクスに対立し、対決したかといえば、ドゥンス・スコトゥスにとっては、ガンのヘンリクスくらいしか、まじめに相手にしたい敵対者がいなかったからです。

このブログだって、「野ぐそ」さんが「弁当爺さん」に突っかかるのは、別に「弁当爺さん」を憎んでいるからではなくて、よそに突っかかって張り合いのある相手がなかなか見つからないからだというのは誰でもわかることだと思います。

繰り返しますが、私は西尾幹二先生の学問上の恩恵をずいぶん受けているものです。臨済禅師は、開悟した後、師匠の黄檗禅師をぶちのめしたそうだけれど、なんにでも反抗期はあります。それを過ぎると、学問上の父親(たち)の賢明さがいろいろわかるのかもしれません。

私なんかは、後の時代の人たちに反抗されるどころか、まったく相手にしてもらえないことと思います。また、それでいいから匿名でやっています。極東ブログにお世話になっているのは、ここが自分の活動しやすい場所を提供してくれるところだからです。

投稿: 付記 | 2008.12.28 14:35

>このブログだって、「野ぐそ」さんが「弁当爺さん」に突っかかるのは、別に「弁当爺さん」を憎んでいるからではなくて、よそに突っかかって張り合いのある相手がなかなか見つからないからだというのは誰でもわかることだと思います。

 あらやだ、ご賢察。見切られて腹立つぜ~。まぁいいや。

 ネットで鉄砲@おすもうやってもよさげな界隈って、みどりのおいちゃんと弁当爺ちゃんとテレビ屋のお兄ちゃんとこくらいしか無いのよね。残念なことに。あとはMSNとかニュースサイトくらいかな。でもMSNは界隈によってやたらひ弱な面子が居るから、あそこはちーと微妙な感じ。だからって、やって「いい」ことが前提とも思ってないから、退去勧告出すなら受けますよ、とは常々言ってんですけど。言わないね。何でだろね?

 他で言うならR30さん式黒社長ブログも素敵だったけど、更新頻度が落ちて閑散としてるから逝ってもしょうがないし、たけくま書店は管理人が病み上がりだから突っ掛かり過ぎると死ぬし、小飼弾翁ブログはネタ振りが余りにも詐欺臭くて逝く気が失せたんでもう二度と逝かんし、他にもちょこちょこあるっちゃあるけど、コメント規制が入ってるとか知識量競争に持ち込むような学問面ばっかりだし商売に徹し切ってて客層がえらい低いソフトバンク系界隈ばっかりだしで、ぷらぷら遊びに逝けるような所って、本当に少ないなぁと大実感。

 結局、緑運動公園でストレッチやってジョギングしてそのまま極東弁当書店まで走ってって爺ちゃんと与太話してテレビ屋さんの裏庭で猫ごっこしたら終わりなんよね。ネット社会ってさみしいなー、としか言いようがないの。リアル社会…と言うか俺んち周辺の現実社会の方が、遥かに出歩く箇所も触れ合う人々も多いのって何なんだろうか? って感じです。それが世相なんですかね?

 (環境的には)ネット界隈はまだまだ荒野で開墾・開拓の余地なんか幾らでもあるんだけど、どっかの『日刊三浦美紀』(地方紙各紙で連載中の4コマ漫画、さくらももこ・著)みたいに日々めんどくせーだのだりーだの言い出しかねない横着者が増えたら、結局開墾するのはごく少数で他多数はイナゴか乞食かみたいになっちゃって、開墾者が飽きてどっか逝ったら食い尽くして終了路線が見えるだけで、(人的には)将来性無さげだよなー、としか言いようが無いんですが。

 目の前に無人の荒野が広がってたとして、それ見て「イヤッハー!! 開墾すれば俺の領地だゼ~!!」って思うか「何だよ何にもネーのかよ詰まんねーなー」って思うか、結局はそこに尽きるんだろうけど…。フロンティアスピリッツ無さ杉!!!!!! あってもひ弱すぎ!!!!!! というのが、何気に残念な感じ。感じただけ。

投稿: 野ぐそ | 2008.12.30 03:28

2008.12.28 08:54の「左近様へ」さん、レスポンスありがとうございます。

 私はああいった作品群を、世紀末を控えた当時の雰囲気や価値観が現れたものであり、またその時代の雰囲気や価値観を作っていったものとして理解しています。
 「オウム真理教の興隆と関連」という表現はその程度の意味です。

 オカルトだからとか、終末思想だから、ニューエイジだからということで即悪いものとは考えていませんし、私もそれなりに鑑賞して楽しみましたが、「野ぐそ」さんのコメントを読んで、ひとことその危険性についても触れておいた方がいいかなと思ってコメントを書きました。

 『イーゲル号航海記2』の書評エントリの内容からだいぶずれてしまったので、私としてはこの話題はそのうち改めて自分のブログで書きたいと思います。

投稿: summercontrail(左近) | 2008.12.30 22:11

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