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2008.11.15

[書評]〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組(須原一秀)

 須原一秀の「〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組 体は自覚なき肯定主義の時代に突入した」(参照)を読み返した。

cover
〈現代の全体〉をとらえる
一番大きくて簡単な枠組
体は自覚なき
肯定主義の時代に突入した
須原一秀
 以前は彼の自死の文脈で読み、そして今度はさらにそうした文脈で読まなくてはらならだろうと思っていたが、意外とさらっと読めた。もともと私は須原と似たような考えをしていることもあり、どちらかというと私にはつまらない本だった。こんな本だったのかなと、少し嘆息した。ただ、そのあと、あることにはっと気が付いた。そして、この本の意義を再確認した。
 同書についてだが、アマゾンの読者評にとても優れているものがある。これだけ書かれていたら、特にブログでエントリを起こす必要もないのではないかと思えるほどだ。

★★★★★ 密かに読まれ、でも、なかったことにされる(かもしれない)本, 2005/4/30
By モワノンプリュ (Japan) - レビューをすべて見る
 とてもいい本だし、破壊力もある。しかも、それこそちょっと気の利いた高校生ならラクに読みこなせる、易しい言葉と、スッキリした論理で書かれている。
 著者の主張はp175に、これ以上ないほど簡潔明瞭に述べられている。要するに「普遍的な正義と真理の実現という積極的理想は放棄しよう。民主主義制度の枠組みの中で、人類の共存・共栄に向けて地道な努力を続けよう」ということ。
 著者自身も自覚しているように、主張そのものは別に目新しいものではない。しかし、これも著者がp166で述べるように、これを「『哲学の不成立』という事情と『肯定主義』という現実の潮流にしっかり関連づけ」て論じている点が、本書の魅力。しかも韜晦とは一切無縁な、議論そのものに淫することのない、まっすぐな言葉で綴られている。それがどんなに貴重なことか! まともに受け止めれば、現在の思想界に棲息する大半が、自ら恥じて筆を折ることになるはずだ。
(後略)

 概ねそれでいいのだが、より正確にいうと、須原はもっとめちゃくちゃともいえる価値観を日本国家という単位で世界に向けて語ろうとしている。そのあたりの舌鋒はまるでギャグであるかのようだが、たぶん、本気だろう。あるいは本気だったのだろう。こんな感じだ。

○最終提案 そこで日本国民は、自らの悲劇的・消極的傾向を克服しつつ---「原則がなく、非論理的だ」という非難をものともせず---アメリカのブッシュ大統領に、国際テロ組織の黒幕ウサマ・ビンラディン氏に、朝鮮民主主義人民共和国の金正日総書記に、イランの最高指導者ハメネイ師に、そして国連に、そして世界に、積極的に働きかけていくべきではないでしょうか。
 すなわち、「アメリカ的グローバリズム」に対抗して「アマイ!」と言われても、「タルイ!」と言われても、「日本的グローバリズム」を打ち立てるのです。

 太字は本文では傍点が施されている。
 ここは普通に読んだら私のブログのエントリの大半がそうであるようにギャグだ。そして私のブログのエントリの大半が同時にそうであるように本心だ。須原は本当にそう主張している。そしてその矛盾した意味合いは、本書を読むとわかる。
 そしてこのギャグのような理論のどん詰まりというか破綻というものが、哲学の死の後の思想の最後の形態であり、なぜ彼がそれを望んだかというと、それは端的に言えば、妥当なかぎり自由であることによって人々の善が保証されうる世界の前提となると確信したからだ。
 そこも先のアマゾン読者評はよく捉えている。須原は明確に世界を意志をもってこの本を書いたしし、ゆえに易しく書いてある。
 ただ、そのある過剰さが、さらに自死に帰結していく理路をどう読み取るべきかと私は悩んだし、その理路を読み取る意味はないかもしれないとも悩んだ。
 本書の真骨頂は本文やいわゆる主張ではなく、むしろ注記のほうにある。ところどころ、おそらく本文に想定されていない読者に向けて、ぞっとすることが書かれている。例えば、こうだ。

 また、本書で言う「ソフトウェアー主義」とドナルド・デイヴィッドソンの言う「図式と内容の二元論」との関係が気になっている人も居ると思います。
 結果としては、本書はそれらとほとんど同じことを主張していることは間違いありません。しかし、デイヴィッドソンの真理条件的意味論は、結局は本人もよく分からないことを主張しているように思える箇所が何箇所もある上に、基本的には専門家向けの議論でしかありません。

 須原のこの粗雑な小冊子がデイヴィッドソン哲学と同じなのかと言えば、哲学の院生とかは待ってくださいよと言いたくなるだろうが、もし彼らに、じゃ、どう違うのか私らにもわかるように語ってみてくださいなということがマジになれば、恐らく須原と同じことになるだろう。院生は未来があるし、いわゆる象牙の塔の住人はそれをしないだろう。須原が言っているのは、塔に響く音響を窓から出してみたということだ。

 ただ私としては、哲学などまったく知らない普通の人に、普通の感覚で通じる内容を伝えるためだけに言葉を使うべきだと考えていますし、それで伝わる内容だけが意味がある主張だと考えているからでもあります。

 ここには奇妙な陥穽があるかもしれないが、次のように続くとき、ぞっとしてくる。

 つまり、デイヴィッドソンの主張はどんな工夫をしても普通の人、あるいは普通の大学生には伝わらないはずです(これは高等数学が伝わらないのと意味が違います。)したがって、それだけの理由で、彼の主張を無視することは正当化されると考えます。
 というわけで、どんなに読書力と好奇心を持っている人でも、哲学の専門以外の人にとって、デイヴィッドソンの書物を読む必要はないと思います。

 それを言うならすべての思想家の思想にも当てはまる、ありがちな粗暴な意見だが、さらにこう続く。

 しかしローティーに関しては知識人は読むべきだと思います。

 本書はローティについては触れていない。が、また注記にはこうある。

 つまり、ローティーが欧米の社会に対して遂行しようとしたことの一部を、多分その影響がなかなか及ばないであろう日本の社会において、日本の社会に受け入れやすい形にして遂行しようとしているのが本書である、と考えていただけないでしょうか。
 あるいは、ローティーとは別の論拠から、別の仕方で根拠付けて、ローティーと同じ主張を展開しているのが本書である、と考えていただけないでしょうか。

 須原はそして、リチャード・ローティの「哲学と自然の鏡」(参照)、「哲学の脱構築」(参照)、また解説書として「リチャード・ローティ ポストモダンの魔術師(渡辺幹雄)」(参照)を進めている。須原は挙げていないが、これにおそらく「リベラル・ユートピアという希望」(参照)を加えてもよいだろう。
 穏健に考えるなら、須原はローティの解説をやや象牙の塔の黴香を漂わせて語りつつ老いてもよかっただろう。だが、彼が直裁にローティを選択しなかったのはまさに彼がローティ的であったからだ。知が知であることを戯れるようなバカを却下し、足下の日本をきちんと見つめないかぎり、それは虚偽だと思えたのだろう。

 本注も哲学に詳しい人だけのためのものですが、本書の主張をここまで読んできた読者の一部は、カール・ポパーの「プラトン批判」、「ペースミール・メソッド」、「反証主義の理念」と本書の主張の関連が気になっていると思います。
 実は、ポパーの著書『自由社会の哲学とその論敵』(世界史思想社)の訳者である武田弘道氏は私の指導教官であり、彼の下で学部の学生の頃から分析哲学を専攻していましたから、もちろん計り知れないほどの影響を受けているわけですが、しかしここでは一般読者を想定していることと、反哲学的・日常的な立場を標榜している関係上、それらの関係で細かい議論をすることを避けました。
 私は、若干の留保付きで、基本的にポパーは正しいと考えており、本書での私の主張も基本的にはポパーを超えるものではありませんが、西洋哲学と啓蒙主義の伝統、さらには合理主義にこだわった彼の議論展開は非西洋人にとってはどうでも良いようなことが多いので、この際避けるのが賢明ではないかと思ったわけです。


 普通人が通常、西洋哲学の伝統や「合理的な一貫性」を気にしないのと同じように、私の主張もまた、西洋哲学の伝統も合理的一貫性も気にしないで、普通の日本人の心情に訴えながら論旨を展開しています。

 それは西洋対日本というより、日本の知識人が擬似的に西洋を装うことのバカさ加減を避けるためであっただろうし、それこそ虚偽であり、須原はそこにまず明解な生き方や国家、社会のあり方の意味を問いたかったのだろう。
 そう考えると、須原の哲学のある一貫性とは、実は、虚偽の拒否であったようにも思える。
 私は、このエントリを書きながら、やはり須原の自死は間違いであると確信するようになった。

 しかし、本書のような一般向けの書物では、そのような言及が成功裏に成立したとしても、煩瑣な構造の立論になってしまうのではないかと危惧し、割愛しました。別冊の形でそのうちに取り上げてみたいと考えています。

 「そのうちに取り上げてみたい」という言葉が、きちんと、沈黙ながら読者の心に約束として響くということを、須原は受け止めるべきであった。

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コメント

語学だって、数学だって、記号法と思考法の訓練を受けていなかったら習熟できないように、哲学だって、哲学特有の記号法と思考法の訓練を受けていなかったら、たいした哲学的思考はできないものだと思われます。

哲学の場合は、結論の理解だけではだめなのだろうと持っています。ある思考の筋道についての前提に疑問を持つセンスがないと、哲学というのは前進も新たな成果もなかろうと思っています。まあ、パラダイムを探り当てる直観能力が要求されるというところでしょうか。

気楽な書き方をしてすみません。

投稿: 哲学の訓練 | 2008.11.15 16:27

>すなわち、「アメリカ的グローバリズム」に対抗して「アマイ!」と言われても、「タルイ!」と言われても、「日本的グローバリズム」を打ち立てるのです。

 本文の内容とは直接関係ないけど、「日本の」「日本的な」をマスコミ経由で吹聴する人って信用に値せんのですよね。普通、日本人は自分が日本人であることに疑いも何にも持ってないから、わざわざ「日本の」なんて言わないんだよ。在日の人とかヤクザとかチンピラとか、真っ当の筋から外れてる連中に限って「日本の」って冠詞付けるんだわ。

 なぜだか世間はそんな感じと思いつつ、今に至るんですけどね。何でですかね?

投稿: 野ぐそ | 2008.11.15 18:21

冠詞って外来語?日本語?漢語?よーわからんが
常識的には日本的に日本語って意味以外の定義が附けられるわけないわな。
ぶつぶつっていっぺんも辞書引いたことなくても、言われたら腹立つでしょうに。

投稿: おひさ | 2008.11.15 23:16

finalventさん

いつも興味深い記事をありがとうございます。
しかし、今国会で何が起こっているのでしょうか。
役所に書類を提出するだけで国籍を与えていては、国という枠組み自体なくなってしまう。
そうではありませんか。

まんが お年寄りと自称嫁
http://uproda.2ch-library.com/src/lib072287.jpg

まとめwiki
http://www19.atwiki.jp/kokuseki/

投稿: 鼠男 | 2008.11.21 07:39

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