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2008.11.23

元厚生事務次官殺傷事件、雑感

 一応世相の記録(ログ)というだけで書くので、だから、このエントリには大した内容はないです。以下はブログとか読む暇人向け。その前に、殺害されたかたに哀悼します。
 さて、私事その他いろいろあって(それほどでもないけど身近で不合理な死に遭遇したりとか)、またブログを書く気力がまたすっかり失われていたが、その間、元厚生事務次官殺傷事件があった。二例にすぎないが元厚生事務次官という意味のつながりが感じられ、印象としては政治テロかとも思えた。ただ、政治テロにしては明白なメッセージ性がいまひとつ弱いのと、警察が、わざとだとは思うが、小出しにする情報をつなぎ合わせると、リアル気違いかなという印象は濃くなる。そして、世田谷一家殺人事件のように迷宮入りかもという印象もあった。
 が、昨晩、犯行者と思われる人物が警察に出頭した。名前も出されている。小泉。ネタかよと苦笑したがその後の経緯ではそうでもない。警察としてもすばやく情報を集めたいところだが、集まったとしても公表されることはないだろうと安心して昨晩は、それほどニュース追わなかった。今朝になってもそれほどニュースはない。その後もニュースは追ってないが出てくる情報は、リアル気違い濃厚路線ばかりだ。
 産経新聞記事「【元厚生次官ら連続殺傷】「今の40代は幼稚な人多い」識者コメント」(参照)では容疑者を幼稚な人と見ている。


評論家の大宅映子さんの話「40代といっても、昔と比べ、今は幼稚な20代に見える人が多い。子供のころからぬくぬくと育ち、見た目だけでなく、中身も20代の人がいる。バックグラウンドが分からないが、そんなに大した人ではないのではないか。最近は理屈なしに、恨みといった古典的な動機の範囲にも入らない理由で事件を起こす人がいる。仮に年金問題が理由だとしたら、奥さんは全く関係ない。常識がない人のことを考えても分からないが、逃げる気もなかったと思う。その気なら、もっと計画するでしょう」

 昨晩私が思ったのは、その逆で、幼稚な人間がこんな犯罪をするわけはないでしょうということだった。それほど難しいとは思えないが、わざわざ特定年代の元厚生事務次官の住所を探し、世の中が迷宮入りか政治テロかと騒ぎ出す手間で出頭って、どういうストリーだよ、と。
 しかし、その後デニーズでぼんやり昼飯食いながら思ったのは、この事件の周到さと無精さだった。周到というのは正確ではない。偏執的というべきだろう。リアル気違い特有のアレだ。そして、ある種の無精さが伴う。とすれば、特定の元厚生事務次官を狙ったというより、犯人の身近な住まいから、三足千円の靴下を選ぶように、選んだというだけではないかと思えてきた。もし、犯人が殺害者の近隣に居住していたなら、その可能性の比重を多くして考え直そうと思った。
 その後、読売新聞記事”小泉容疑者の父、「私の命をささげたいくらい」と謝罪”(参照)を見ると、埼玉県に住んでいたらしい。

 父親によると、地元の小中高校を卒業し、佐賀大学に入学したが、中退。東京のコンピューター関連の会社に就職したものの、2、3年で退職。その後、アルバイトを転々としたという。約13年前、地元に戻り、3年ほど働いたが、「インターネットでいい仕事が見つかった」と埼玉県に移った。その時から、約10年間、音信不通だったという。

 ある程度身近な犯行だったのだろう。
 ネットも使えるようだ。ネットに出頭予告があったらしい。また毎日新聞のようなポカミスかなとも思ったが、ポカミスではなさそうだ。
 産経新聞記事”【元厚生次官ら連続殺傷】出頭前、TBSのHPに書き込みか「年金テロではない」”(参照)より。

 「34年前の仇(あだ)討ち」「年金テロではない」。小泉毅容疑者(46)が警視庁に出頭する約2時間前の22日午後7時過ぎ、TBSのホームページに本人からとみられる書き込みがあったことが23日、分かった。内容は「保健所でペットを殺され、腹が立った」との供述と一致する。「最初から逃げる気はない。今から自首する」とも書かれており、小泉容疑者が犯行を誇示しようと意図した疑いが浮上した。

 全文で200文字程度らしい。全文が読みたいところだが、内容は以下のようなものらしい。

 本文は「今回の決起は年金テロではない!」との一文で始まり、「34年前、保健所に家族を殺された仇討ちである」と動機を示唆したほか、「やつらは今も毎年、毎年、何の罪も無い50万頭のペットを殺し続けている。無駄な殺生をすれば、それは自分に返ってくると思え!」などと記されていた。
 また、事件後一部で「犯人は右利き」と報道されたことに反論するかのように「私は左利きである」と記したり、二つの事件で同じ刃物を使ったとの書き込みもあった。

 今回の事件、幼稚な犯罪でなければ、黒幕は誰だろう、メッセージ性はなんだろうと疑念をふつう持つ。だが、この展開やこの独白は、それらを否定している。穿った見方をすれば、黒幕を守るみたいな陰謀論も考えられないでもないが、だとすれば、そのメッセージ性は、まさに届けたい一群にすでに伝わり(某怪死事件の印象のように)、それ以外の大衆には伝わらなくてもよいという確信のフィルターを通したものになるだろう。
 そうだろうかと再考したがよくわからない。特殊なマインドコントロールで不可能ではないようにも思うが、どっちかというと違うかな。
 TBSに届けられたメッセージからは、リアル気違い特有の芳香感も、私には感じられる。特に、「無駄な殺生をすれば、それは自分に返ってくると思え!」というあたりの、宗教めいたところだ。
 私の当てずっぽうにすぎないが、今回の犯罪の特徴は、政治テロ的にも見える意味性の反面、殺人に対する奇妙な無感覚にも近い残虐性だ。というか、残虐性というより、まるでただ屠殺しているかのようなあっけらかんとした非人間性がある。そのあたりと、「無駄な殺生をすれば、それは自分に返ってくると思え!」という生死観とは、どこかしら論理的な整合性すら感じられる。
 私は現段階では、これはリアル気違いの突発事件なんだろうと、思う。というかそう考えを変えている。政治テロではないだろう、と。
 だが、このタイプの死生観が、どうしてこういうディテールをもった殺人事件として社会に浮上してくるのかとてつもなく奇っ怪な感じはする。
 ネット社会が悪いといった面白い意見を述べる気はさらさらないが、ネットによって情報が扱いやすくなっている分、ある種のリアル気違いが独自の死生観を打ち出すためにもネットは便利なツールになっているんじゃないかなという感じがするし、ちょっと言い過ぎのきらいもあるが、ネットの乱雑な情報の側にそうした死生観を誘発するような欲望みたいなものがあるんじゃないかと、なんとなく思う。
 ネットを規制しろとか、ネットでリアル気違いが増えるとか、そういう面白いこと言いたいんじゃなくて、便利な情報ツールって、リアル気違いにも便利に出来ているのかなということに、ちょっと未知な本質があるんじゃないかなと、そんだけ。

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2008.11.15

[書評]〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組(須原一秀)

 須原一秀の「〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組 体は自覚なき肯定主義の時代に突入した」(参照)を読み返した。

cover
〈現代の全体〉をとらえる
一番大きくて簡単な枠組
体は自覚なき
肯定主義の時代に突入した
須原一秀
 以前は彼の自死の文脈で読み、そして今度はさらにそうした文脈で読まなくてはらならだろうと思っていたが、意外とさらっと読めた。もともと私は須原と似たような考えをしていることもあり、どちらかというと私にはつまらない本だった。こんな本だったのかなと、少し嘆息した。ただ、そのあと、あることにはっと気が付いた。そして、この本の意義を再確認した。
 同書についてだが、アマゾンの読者評にとても優れているものがある。これだけ書かれていたら、特にブログでエントリを起こす必要もないのではないかと思えるほどだ。

★★★★★ 密かに読まれ、でも、なかったことにされる(かもしれない)本, 2005/4/30
By モワノンプリュ (Japan) - レビューをすべて見る
 とてもいい本だし、破壊力もある。しかも、それこそちょっと気の利いた高校生ならラクに読みこなせる、易しい言葉と、スッキリした論理で書かれている。
 著者の主張はp175に、これ以上ないほど簡潔明瞭に述べられている。要するに「普遍的な正義と真理の実現という積極的理想は放棄しよう。民主主義制度の枠組みの中で、人類の共存・共栄に向けて地道な努力を続けよう」ということ。
 著者自身も自覚しているように、主張そのものは別に目新しいものではない。しかし、これも著者がp166で述べるように、これを「『哲学の不成立』という事情と『肯定主義』という現実の潮流にしっかり関連づけ」て論じている点が、本書の魅力。しかも韜晦とは一切無縁な、議論そのものに淫することのない、まっすぐな言葉で綴られている。それがどんなに貴重なことか! まともに受け止めれば、現在の思想界に棲息する大半が、自ら恥じて筆を折ることになるはずだ。
(後略)

 概ねそれでいいのだが、より正確にいうと、須原はもっとめちゃくちゃともいえる価値観を日本国家という単位で世界に向けて語ろうとしている。そのあたりの舌鋒はまるでギャグであるかのようだが、たぶん、本気だろう。あるいは本気だったのだろう。こんな感じだ。

○最終提案 そこで日本国民は、自らの悲劇的・消極的傾向を克服しつつ---「原則がなく、非論理的だ」という非難をものともせず---アメリカのブッシュ大統領に、国際テロ組織の黒幕ウサマ・ビンラディン氏に、朝鮮民主主義人民共和国の金正日総書記に、イランの最高指導者ハメネイ師に、そして国連に、そして世界に、積極的に働きかけていくべきではないでしょうか。
 すなわち、「アメリカ的グローバリズム」に対抗して「アマイ!」と言われても、「タルイ!」と言われても、「日本的グローバリズム」を打ち立てるのです。

 太字は本文では傍点が施されている。
 ここは普通に読んだら私のブログのエントリの大半がそうであるようにギャグだ。そして私のブログのエントリの大半が同時にそうであるように本心だ。須原は本当にそう主張している。そしてその矛盾した意味合いは、本書を読むとわかる。
 そしてこのギャグのような理論のどん詰まりというか破綻というものが、哲学の死の後の思想の最後の形態であり、なぜ彼がそれを望んだかというと、それは端的に言えば、妥当なかぎり自由であることによって人々の善が保証されうる世界の前提となると確信したからだ。
 そこも先のアマゾン読者評はよく捉えている。須原は明確に世界を意志をもってこの本を書いたしし、ゆえに易しく書いてある。
 ただ、そのある過剰さが、さらに自死に帰結していく理路をどう読み取るべきかと私は悩んだし、その理路を読み取る意味はないかもしれないとも悩んだ。
 本書の真骨頂は本文やいわゆる主張ではなく、むしろ注記のほうにある。ところどころ、おそらく本文に想定されていない読者に向けて、ぞっとすることが書かれている。例えば、こうだ。

 また、本書で言う「ソフトウェアー主義」とドナルド・デイヴィッドソンの言う「図式と内容の二元論」との関係が気になっている人も居ると思います。
 結果としては、本書はそれらとほとんど同じことを主張していることは間違いありません。しかし、デイヴィッドソンの真理条件的意味論は、結局は本人もよく分からないことを主張しているように思える箇所が何箇所もある上に、基本的には専門家向けの議論でしかありません。

 須原のこの粗雑な小冊子がデイヴィッドソン哲学と同じなのかと言えば、哲学の院生とかは待ってくださいよと言いたくなるだろうが、もし彼らに、じゃ、どう違うのか私らにもわかるように語ってみてくださいなということがマジになれば、恐らく須原と同じことになるだろう。院生は未来があるし、いわゆる象牙の塔の住人はそれをしないだろう。須原が言っているのは、塔に響く音響を窓から出してみたということだ。

 ただ私としては、哲学などまったく知らない普通の人に、普通の感覚で通じる内容を伝えるためだけに言葉を使うべきだと考えていますし、それで伝わる内容だけが意味がある主張だと考えているからでもあります。

 ここには奇妙な陥穽があるかもしれないが、次のように続くとき、ぞっとしてくる。

 つまり、デイヴィッドソンの主張はどんな工夫をしても普通の人、あるいは普通の大学生には伝わらないはずです(これは高等数学が伝わらないのと意味が違います。)したがって、それだけの理由で、彼の主張を無視することは正当化されると考えます。
 というわけで、どんなに読書力と好奇心を持っている人でも、哲学の専門以外の人にとって、デイヴィッドソンの書物を読む必要はないと思います。

 それを言うならすべての思想家の思想にも当てはまる、ありがちな粗暴な意見だが、さらにこう続く。

 しかしローティーに関しては知識人は読むべきだと思います。

 本書はローティについては触れていない。が、また注記にはこうある。

 つまり、ローティーが欧米の社会に対して遂行しようとしたことの一部を、多分その影響がなかなか及ばないであろう日本の社会において、日本の社会に受け入れやすい形にして遂行しようとしているのが本書である、と考えていただけないでしょうか。
 あるいは、ローティーとは別の論拠から、別の仕方で根拠付けて、ローティーと同じ主張を展開しているのが本書である、と考えていただけないでしょうか。

 須原はそして、リチャード・ローティの「哲学と自然の鏡」(参照)、「哲学の脱構築」(参照)、また解説書として「リチャード・ローティ ポストモダンの魔術師(渡辺幹雄)」(参照)を進めている。須原は挙げていないが、これにおそらく「リベラル・ユートピアという希望」(参照)を加えてもよいだろう。
 穏健に考えるなら、須原はローティの解説をやや象牙の塔の黴香を漂わせて語りつつ老いてもよかっただろう。だが、彼が直裁にローティを選択しなかったのはまさに彼がローティ的であったからだ。知が知であることを戯れるようなバカを却下し、足下の日本をきちんと見つめないかぎり、それは虚偽だと思えたのだろう。

 本注も哲学に詳しい人だけのためのものですが、本書の主張をここまで読んできた読者の一部は、カール・ポパーの「プラトン批判」、「ペースミール・メソッド」、「反証主義の理念」と本書の主張の関連が気になっていると思います。
 実は、ポパーの著書『自由社会の哲学とその論敵』(世界史思想社)の訳者である武田弘道氏は私の指導教官であり、彼の下で学部の学生の頃から分析哲学を専攻していましたから、もちろん計り知れないほどの影響を受けているわけですが、しかしここでは一般読者を想定していることと、反哲学的・日常的な立場を標榜している関係上、それらの関係で細かい議論をすることを避けました。
 私は、若干の留保付きで、基本的にポパーは正しいと考えており、本書での私の主張も基本的にはポパーを超えるものではありませんが、西洋哲学と啓蒙主義の伝統、さらには合理主義にこだわった彼の議論展開は非西洋人にとってはどうでも良いようなことが多いので、この際避けるのが賢明ではないかと思ったわけです。


 普通人が通常、西洋哲学の伝統や「合理的な一貫性」を気にしないのと同じように、私の主張もまた、西洋哲学の伝統も合理的一貫性も気にしないで、普通の日本人の心情に訴えながら論旨を展開しています。

 それは西洋対日本というより、日本の知識人が擬似的に西洋を装うことのバカさ加減を避けるためであっただろうし、それこそ虚偽であり、須原はそこにまず明解な生き方や国家、社会のあり方の意味を問いたかったのだろう。
 そう考えると、須原の哲学のある一貫性とは、実は、虚偽の拒否であったようにも思える。
 私は、このエントリを書きながら、やはり須原の自死は間違いであると確信するようになった。

 しかし、本書のような一般向けの書物では、そのような言及が成功裏に成立したとしても、煩瑣な構造の立論になってしまうのではないかと危惧し、割愛しました。別冊の形でそのうちに取り上げてみたいと考えています。

 「そのうちに取り上げてみたい」という言葉が、きちんと、沈黙ながら読者の心に約束として響くということを、須原は受け止めるべきであった。

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2008.11.14

[書評]自死という生き方 覚悟して逝った哲学者(須原一秀)

 哲学者、まさに哲学者としか言えないだろう須原一秀の著作は三冊読み、最初に「極東ブログ: [書評]高学歴男性におくる弱腰矯正読本(須原一秀)」(参照)を書いてからしばらく、その先が書けなかった。その次の「“現代の全体”をとらえる一番大きくて簡単な枠組―体は自覚なき肯定主義の時代に突入した」(参照)はようするに、本書「自死という生き方 覚悟して逝った哲学者」(参照)へのつながりで読むしかないし、そのことは自死という問題に直面することだからだ。

cover
自死という生き方
覚悟して逝った哲学者
須原一秀
 正直にいうとそれに直面することは怖かった。今でも怖いと思っている。ただ、なんとなく今書かなければ書くこともないようにも思えるし、心がまとまらなくてもそれなりに書いておいてもいいかもしれないと思えた。今手元のこの書籍をパラパラとめくってみて、ある意味で普通の本には思えた。またこの須原は、どちらかというといつまでたっても心に老いを迎えることのないタイプの男性として私によく似ているように思えた(お前なんか五〇歳の爺じゃないかと罵声もあろうが)。
 死が怖いというのは、私には率直な感情だ。また率直に言わせてもらえば、死が怖くないという世人は、死の怖さを知らないからだ……おっとここは循環論法であって、そう恐怖が先に立つのである。私は今朝、二度絶叫して目が覚めた。たいていは一度の絶叫で目が覚めて、ああこの世というものはあるものか、トーストでも焼くかと思うのだが、今朝は執拗だった。おい、マジかよ、SFXかよ、というぶよぶぶよとした、水子の霊みたいなものが私を取り巻いてくるのだった。水子? 私には縁がないはずだが。まさかオナニーの精子が五十年分溜まったか呪いか……いやユダヤ教では受胎して初めて生命じゃないか……おっとそれはカトリックか……と冗談でも言わないことにはすまされないようなマジな恐怖だった。私はホラー小説も映画も好きじゃないが、どうしてこの手の絶叫系の悪夢から逃れられないのか。そりゃ心に恐怖を抱えているからで、おそらくすべてがそこにあり、死の恐怖はむしろその派生かもしれない。
 話がそれた。本書は、哲学者須原一秀が自死にいたる理由とそして、端的に言って人に自死を勧める話が、比較的快活に書かれている。読んでいて、うぅ暗いよ、死、死にたいよぉとなるような本ではなく、そうか、それならオレも老いさらばえるまえに死ぬかなふふふん♪というふうに、人によってはご納得するだろうような本、つまり、危険な本だ。本当に、危険な本というのがあるとすれば、完全自殺マニュアルとかよりもこっちかもしれない、そっちを読んだことがないので知らないが。
 本書は須原の自死後、家族に残されて出版された。出版にあたっては浅羽通明が関わり、標題を変え、つまらない前書きの解説がついている。まあ、しかたないか。須原としては本書のタイトルは「新葉隠 死の積極的受容と消極的受容」としていたそうだ。実際に読んでみるとそういうふうになっている。ちょっと正確な読みとはいえないかもしれないが、須原にしてみれば、人はみな死ぬのであるから結果的に消極的受容にあるわけで、それに対して積極的な受容という考えもあってよいだろう、という思想、哲学を開陳し、そして実践した。実践するかよという印象もなきにもあらずだが。
 葉隠についても言及がある。そういえば、本書は、その死の積極的受容のケーススタディとして、三島由紀夫、伊丹十三、ソクラテスを挙げている。須原がどれに近いかといえば須原の理解としてはソクラテスのつもりだったのだろう、と、私がこれにアイロニカルなのは、私はこの三者を須原は誤読していると思うからだ。そのことは後で触れるかもしれない。
 三島も死に際してというほどでもないが、葉隠についての著作を残している。私は当時カッパで読んだが、今アマゾンを見ると、「葉隠入門 (新潮文庫): 三島由紀夫」(参照)とある。悪い本ではないし、ある意味で、葉隠のもっとも根幹をきちんと当てている。つまり、人は生を好むものであり考えれば生を選ぶことになる。考えたら行動はできない。

武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわつて進むなり。

 生か死かという場に遭遇したらか、考えずに死ね、ということだ。「胸すわって進むなり」は、まさに須原もそうで、ゆえに新葉隠でもあったのだろう。
 重要なのは、その有名な冒頭よりこっちだ。

我人、生くる方が好きなり。多分好きの方に理が付くべし。

 つまり、理があれば、死を避けるようになる。考えるということはそれ自体の営みに生が含まれるし、あるいはそうでなくても、不様が含まれる。

若し図に外れて生きたらば、腰抜けなり。

 不様であるよりは死ぬのが武士道であり、それには理を考えてはならない、ということだ。
 これはこう書いてみるとギャグみたいだが、およそ哲学というもののアンチテーゼになっている。つまり、生と価値を最初に否定してみせる、あるいは肯定するために自らの死を置くという点で。
 私は青春時代にこのパラドックスというのは抜き差し難いものがあるとは思ったが、その後、隆慶一郎の「死ぬことと見つけたり」(参照上参照下)である種解毒した。
 須原には武士道というものはない。しかし、本書を読むと、不様を避ける思いはいろいろ描かれている。耄碌した人を見て、ああなる前に死ねるとほっとするといった心情が描かれている。それは、それだけでは、そう簡単に否定しがたい心情でもあり、倫理でもあるだろうが。
 さて、やはり続ける。
 私は須原は三島も、伊丹も、ソクラテスも、そしてもう一人、キューブラー・ロス(参照)も誤読しているなと思った。そう思うことで私が須原の自死の哲学を否定したいとしているのか、心に問い掛けてみるが、私は私なりに、こりゃ単純な誤読かなと、須原流にあっけらかんと否を唱えたい。しかしめんどくさいので簡単に書いておこう。
 単純に言おう。この四人、伊丹を除けば、死後の生を確信していた。三島についてはあっけらかんとは書いてないが、三島の死んだ日は彼の生誕の四十九日まであるように再生を確信していた。より正確にいうなら、そういう神秘体験があったのだと自身に納得させて死んだ(参照)。
 伊丹については、先日、NHKで伊丹についての番組があって見たが、ああいうライフヒストリーを持てばああもなるかという感じはした。最後に父を継ぐかのように映画監督に到達したのはそういう運命でもあった。おそらく岸田秀ならそのあたりはわかっているだろうが、同番組での岸田はにこやかに微笑み、そうした素振りは見せなかった。
 もし須原に、「自死ですか、はぁ、ところで、三島もキューブラー・ロスもソクラテスも死が生の終わりとは認識してなかったんすけど、どっすか?」と聞いたら、なんと答えただろう。なんだこの薄らバカと言下に嘲笑しただろう。もちろん、私も死後の生を信じているわけでもないし、てへへへと道化笑いをするだろう。そして、「先生が重視された変性意識は死の意味も変えるのではないですか」とまでは問わないだろう。

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2008.11.12

知人の自殺をきいて

 ごく私事といえば私事なのだがなんとなくブログに書いておきたくなった。知人が自殺した。一歳か二歳年上のかただった。パソコン通信時代からの知り合いだった。そのころの知り合いは、私が言わなくてもこのブログのことをは知っているものだが、彼についてははっきりとこのブログを書いていると告げた数少ない人だった。当初は私が珍妙な古代史観をもっていることに興味を引かれたらしくそんな交流をしていたものだった。
 あのころの私は今のようにネット上での交友関係から引きこもるふうでもなく、よくオフ会なども出たものだった。でも不思議と奇妙な縁で彼と面識をもつ機会がなく、初めて会ったのはこの夏の終わりだった。そしてそれが最後になった。それから数日して彼は自殺したということになる。
 彼とは喫茶店で二時間も尽きぬ話をした。その後の古代史観についても話した。古代史というのは、素人にはトンデモ説花盛りの幻想の領域だし、彼もそこを楽しむ人ではあったが、私も彼も、どこまでが正統説でどこまでがトンデモ説かの線引きの意識があった。この趣味を持つ人だと意外とこのあたりの線引きの意識をもつ人は少ないものなのだが。
 彼はその話題を一通り終えると、もう古代史の興味は終了しましたと言った。私ももう終了していますよと答えた。正確に言うと私の場合は、これ以上考えても、あの一線を越えて主張できるものはない。いずれ二百年もすれば我々の考えのほうが常識になりますよ、とも私は言った。だから私は誰にも言わないけど、おりをみてこっそり考え続けますよ、と。彼にも、そうでしょという含みで言った。
 しかし、彼はそうではなく、本当に終わりにしました、と言った。今思うと、その終わりをきちんと私に告げたかったのかもしれない。
 そのあと、雑駁な歴史の話をしたあと、そういえばキリスト教発生の歴史について最近はどう考えていますかと聞くので、ブログなどにも書いたことがない私なりの考えを話すと、彼は驚き、そしてそれに関心を持った。私としてみると、キリスト教発生についての奇妙な仮説など、よほどの酔狂でなければ関心などももたないだろうと思っていたのに、しかも儀礼的に関心を向けるというふうでもなかったので逆にこちらが不思議な感じがした。そして、ここまで言うと気違いじみていけないかというところまで、さらに話した。彼はその話をまとめないのですかと私に聞いたが、私は公開する気はないですよ、語ったところで狂人の戯言みたいなものですから。私一人、死ぬまで孤独に考えていけば十分です、と答えた。
 私の答えのなかに「死」という言葉が出てきたのはその時だったと思う。彼は笑いながら少し考えていたようだった。そうですか、もったいないなぁとつぶやいていた。
 今思うと、あんな話ができる相手は彼しかいないし、彼としてもその話題をフォローできるのは彼しかいないかもしれないという関心の持ち方があったのかもしれない。そしてそうであれば、彼がいない今、名実ともにこの孤独な思想は私のなかで死ぬまでじっと抱えていくことになる。そんなものかもしれない。
 彼の死、自殺の知らせを不意に聞いたときは、自殺なのかと思わず声を上げ、たまたま居合わせた人を驚かせてしまった。あまり穏当な話題ではない。私はちょっとパニックに陥った。きちんとした筋から聞かされたので嘘ではないのだろうが、パニくりながら今一つ彼が死んだ、しかも自殺だったということに現実感がもてないでいた。伝えてくれた人は、どうやら私と彼との交友の質もよく知っているようだった。
 どのような自殺であったかについては聞かされなかったし、私も聞かなかった。正式な遺書があったかは知らないが、親族には録音したメッセージを残していたようだった。絶望して死んだというわけでもないし、精神的な問題ということでもないようだった。実際、私があった時、彼には特にそうした雰囲気はまるで感じられなかった。
 たぶん、古代史の関心を終えたようにいくつかの関心を終え、元気なうちに、このあたりで死ぬがよいのではないかと考えて、静かに自死を迎えたのだろう。
 そして、そのことをじっと私なりに考えてみると、彼は、私が彼の死をそれほど悲しまないと確信していたのではないかというふうにも思えてきた。
 私は自殺ということを肯定しない人だ。それ以前に死の恐怖にのたうちまわる心性が強い。どんなことがあっても、自殺なんてするもんじゃないと思っていたし、今でもそう思っているのだが、彼に死なれてみて、彼は彼の生き方としてそれを選んだことを私が理解できると思っていたように、思われた。そんなことがあるだろうかとなんども考えなおしたが、それが一番妥当なように思えた。
 このブログで以前「極東ブログ: [書評]高学歴男性におくる弱腰矯正読本(須原一秀)」(参照)を書いた。実は、須原一秀については、「“現代の全体”をとらえる一番大きくて簡単な枠組―体は自覚なき肯定主義の時代に突入した」(参照)と、彼の自死のあと出版された「自死という生き方―覚悟して逝った哲学者」(参照)も読み、続けてエントリを書こうと思ってなんとなく挫折していた。須原の生き方や死に方にどうも納得いかないものがあり、それでいてでは否定できるかというとよくわからなかった。
 最後の書籍で私は初めて須原一秀に息子があったことを知り、そしてその息子が父である須原一秀の生き方と死に方をある意味で自然に受け入れているふうな話を、不思議な違和感のような感銘のような言い難い思いで受けとめた。
 この本では、自死を決めた須原がその理由を長年の友人に語った話がある。友人としても須原の自死の決意を止めることはできなかった。六五歳まで生きたらそれなりの人生の終局というのもあるかもしれない。
 自殺した私の知人は、私に会ったとき須原のように自死を決めていたかはわからない。まだ五五歳にもなっていなかったはずだ。が、思い返すと、いろいろ自身の人生に見きりと終わりを付けている感じはあった。あの時、これから死にますよと言われたら、私はもちろん止めただろうが、逆にそう語ることで私はそれを正常には受け止められなかっただろう。冗談のようにその場を過ごしたに違いない。であれば、ああいう形で、私がその死を後になって信頼できるまで話したというのが彼の思いだったのかもしれない。
 私は四〇代の厄年に死ぬ思いをしたことがあった。自らの人生の不運に絶叫したことがあった。声が枯れるほど泣いて絶叫するなんてことが現代人の、しかも自分にあろうとは、若い頃は思ってもいなかった。そしてなんとかして生きていたいと願った。そして不思議となんとなく生きていた。ブログを始めたころにはまだ死の影を引いていた。が、あろうことか暢気にブログを五年も書いている。ということはずるずる生きてきた。幸せであったかと言えば、それ意外になんの言葉もない。生きていることはいいことじゃないかと思う。死を思う人がいるなら、どうせだから生きてみたらいいじゃないか、どうせ生きていてもいなくてもそれほど重要性のある人は少ないから、生きてみようと冗談のように言いたい。
 そして、今思うのは、死んでしまった彼に、そう言いたい気がする。
 死ぬなよというのではなく、彼がまだ生きていてその思いを聞いてくれるかのように。

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2008.11.11

外国の軍人に関するごくつまらない話題だが

 ブログをやっていて世間で話題になっていることは、時代のログ(記録)としてできるだけ触れておこうと思うけど、それでも世間の空気があまりにも自分の理解を絶していることもある。ので、そんなときはちょっと避けていようなかなと思うようになった。というわけで現下そんなときかもしれないので、暢気に外国のつまらない話題でも取り上げるのがいいだろう。できるだけ日本に関係ない話がいいだろうな。といえば、そうだな、日本には存在しない軍についての米国の話題なんかがいいかもしれない。
 スターズ・アンド・ストライプスというと、星と縞模様ということで米国旗のことだが、その名前がついた軍の新聞がある。米軍となにかと付き合いがうまれる沖縄でもよく目にしたものだが、東京でも、以前「極東ブログ: Google Earthで六本木ヘリポートも見えた」(参照)で触れた米軍基地内にあり、知人が勤めていた。
 私の理解ではこの新聞は米軍に所属していて、米軍の機関紙みたいなもの、だから、いわゆる言論の自由みたいなものはなくて、軍とか政府見解とは異なる意見とか報道とかしちゃだめなんだろうなと思っていた。それ以前に、軍とか軍人には言論の自由なんてないかもしれないとも。
 ところが、ニューヨークタイムズ”Keep Your Euphoria to Yourself, Soldier ”(参照)にはこう書いてあって、へぇと思った。


The boneheaded muzzling of the newspaper, which is protected by First Amendment guarantees against editorial interference, barred reporters assigned to do simple color stories from the public areas of military bases in order to “avoid engaging in activities that could associate the Department with any partisan election.”
(新聞というのは、米国憲法修正第一条によって編集干渉の禁止が保証されているのに、「軍が政党色のある選挙関連する活動に従事することを避けるべし」という理由からこの新聞へ間抜けな弾圧がなされ、基地内の公共区域を写真付き紙面に取材することが妨げられた。)

 米国だと、軍の機関紙みたいな新聞でも言論の自由というのは憲法で守られているのか、というか、米国って憲法による言論の自由をニューヨークタイムズのような新聞が危惧するわけか。
 ところでこの間抜けな弾圧を行ったのは国防総省で、対象はれいの大統領選挙だった。弾圧は成功したか?

The good news is that Stars and Stripes found commanders in the Middle East and Europe that ignored the foolish directive, as if it were a premise for a “M*A*S*H” episode.
(あたかも「M*A*S*H」向けのネタのように、中東や欧州の指揮官がこんな指令はくだらないと無視したのをスターズ・アンド・ストライプス紙が伝えたのはよい知らせである。)
When other commanders clamped down in Japan and South Korea, the paper properly took the ban as illegal under longstanding Congressional and military policies. Its reporters did their jobs until forced to stop.
(日本や韓国にいる他の指揮官が取り締まりをしたとき、同紙はきちんとその禁止は長く維持された憲法と軍の方針から違法であるとみなした。そして記者達は強制的に停止されるまで仕事をした。)

 つまり、まともな軍指揮官も、憲法に違反した禁止命令は無視したし、ましてスターズ・アンド・ストライプス紙はそれが明確に憲法違反だとわかって無視しつづけた。憲法による思想信条の保護の意識が国民や軍に行き渡っている国はちょっと羨ましい。
 ところでそもそも、軍人に、思想信条を表明する自由があるのだろうか? もちろん、米国の話だが。
 ニューヨークタイムズ社説はこの先でこう断言している。

By law, troops are allowed to express their political opinions in a nonofficial capacity.
(法律によって、軍隊は、公務外の許容性として、自分たちの政治的な意見を表現することは許可されている。)

 つまり、米国の場合は、軍務でなければ、軍人はどのようにでも自分の思想信条を吐露してもまったく問題ないし、それは憲法で守られているというのだ。
 「そりゃ、飲み屋でくだを巻くくらいなものならいいけど、ブログとか新聞とか公共の目に触れるところに、軍人が自分の思想信条を公表してよいものだろうか」みたいな疑問もついわいてくる。どうかな。
 これもニューヨークタイムズ社説はこの先でこう断言している。

These days, they do so nonstop by name in blogs and newspaper letters.
(今日では、ブログや新聞投稿において記名でひっきりなしに思想信条を発表している。)

 軍人が軍務外で、新聞など公衆の目にとまるところで思想信条を表明してもまったく問題ないわけか、米国だと。
 国防総省が軍人の個人個人の思想信条表明に干渉することについて、ニューヨークタイムズ社説はこの先でこう断言している。

Inane is more apt than apolitical.
(非政治的であるというより、ノータリンというべきだ。)

 軍人と限らず、民主主義国に所属する人間に、公務員だから政治的であるなとするのは、ノータリンになれということか。なかなか他国の仕組みはわからないし、軍というものがどういうものかは、日本人にはわかりづらいものだなと思う。ニューヨークタイムズ社説を読んでいると、米国では、軍機関紙のように見える新聞ですら、思想信条の自由は保障されているし、軍人にも個人の思想信条を公的に表明する権利は憲法で保護されているということが、なんとなくわかってくる。

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2008.11.09

オバマ大統領の試金石は「ビッグ3」救済かな

 朝日新聞でこの記事を読もうとはちょっと思っていなかったが、別にそう違和感のあるものでもないのかもしれない。”ビッグ3、国にすがる 公的資金、生き残りへ頼みの綱”(参照)だ。話の発端は標題どおり。


 米自動車大手ゼネラル・モーターズ(GM)のリチャード・ワゴナー会長兼最高経営責任者(CEO)は7日、7~9月期決算発表後の電話会見でこう話し、政府による資金支援に期待を寄せた。


 ワゴナー会長も、政府に「資金支援を求めている」ことを隠そうともしない。危機の打開策とみられた米同業大手クライスラーとの合併交渉を中断し、政府による「救済」が生き残りへの頼みの綱であることを印象づけた。
 GMとフォード・モーター、クライスラーの米大手3社「ビッグ3」は今夏以降、米政府・議会への資金支援の働きかけを強めてきた。今秋成立した総額250億ドル(約2兆4600億円)の政府保証融資の活用は具体化してきたが、ブッシュ政権は融資増額や公的資金の注入などには消極的とされる。

 さらにオバマ政権下で私企業救済がありうるかが注目される。ありそうな空気がないわけではないのが記事のツボともいる。

 ただ、ビッグ3の拠点である中西部が地盤のオバマ氏が次期大統領の座を射止めたことが、自動車業界には「追い風」となる。労組を支持基盤とする民主党政権の誕生を視野に、ワゴナー会長らビッグ3と全米自動車労組(UAW)の各トップは6日、民主党のペロシ下院議長らを訪れた。「支援増額の感触を得て、7日の決算発表を行ったのではないか」。米アナリストらの間ではこんな観測も出ている。
 GMの決算発表直後、大統領選に当選後初の会見に臨んだオバマ氏は、ワゴナー会長の支援要請に呼応するかのようにこう語った。
 「米製造業の中軸である自動車産業の救済策に優先して取り組む」

 記事ではさらにその可能性を示唆するのだが、もちろん反対意見はあると続く。

 なぜ自動車を助けるのか。道路建設など関連業種も幅広く含めた自動車関連産業は、全米の労働人口の「5人に1人」にも上るとされてきた。GMやフォードは今も、売上高では米企業の上位10社内にいる。国民皆保険制度がない米国で、ビッグ3は現役から退職者にまで医療費や年金を手厚く保証してきた。雇用と地域経済を支える「最後のとりで」で、その破綻を食い止めるために地元議員も救済策の実行を目指して奔走する。

 ここはちょっと問題があるのであとで触れる。

 だが、ビッグ3の救済をめぐって、世論は一枚岩ではない。米国の自動車業界は産業の多様化とともに米経済での存在感は徐々に小さくなり、すでに国内総生産(GDP)に占める割合は3%。「金融機関と違って世界的な連鎖倒産の危険がない自動車会社を政府が救済するのは良くない」。ニューヨーク大のリチャード・シーラ教授は救済に反対する。経営危機をあえて公表し、労働者を人質にとって政府に支援を迫るようなビッグ3の姿に、他業界からの際限ない追随を懸念する声も根強い。

 以上が朝日新聞記事がまとめた反論。結語は率直に言ってつまらない。

 存亡の崖(がけ)っぷちに立つビッグ3。製造業に代わって冷戦後の米経済を先導した金融業界も危機のさなかにあり、経営難を支える役回りどころか、事業会社の経営の足を引っ張る存在になっている。金融から一般企業へと連鎖する危機は、柱を失った米経済がどこに向かうのか、という問題も突きつけている。

 この話題だが、今週の日本版ニューズウィークに寄稿されたジェフリー・ガーテン、エール大学経営大学院教授のコラム「公的救済の連鎖を止めろ」が反対の立場を明確にして興味深い。毎度ながらオリジナル”Stop The Bail Outs Now”(参照)は無料で読める。
 このコラムから朝日記事を補足する点は、2兆4600億円政府保証融資だが、これは表向きは公的救済ではなく燃費基準への対応支援となっていることだ。ブッシュ政権での限界でもあったとは言える。
 自動車関連産業の問題については手厳しい。

 ビッグスリーがつぶれても、アメリカの自動車産業が終わるわけではない。トヨタやホンダ、韓国の現代自動車が空白を埋める。いずれの企業もすでに製造拠点をアメリカに設けているので、デトロイトが潰れたら彼らが増産すればいい。ビッグスリーの工場も一部は買収されるだろう。

 このあたりのあっさりとした物言いには多少驚かされるものがあるが、考えてみれば、自動車産業としては新陳代謝があるくらいなものだろう。逆にこのところの日本のトヨタ減益の話も、日本というくくりでそれほど考える問題でもないのかと気づかされる。
 さらに中期的に見るとグローバル経済下で様相は大きく変わる。

 中国とインドが日本と韓国に続いて自動車大国となる日は近いだろう。インドのタタ・グループはジャガーを所有しており、初めて価格が3000ドル以下の実用車も製造する。政府がデトロイトを救済しても、その消滅を遅らせるだけだ。

 おそらくそうなのだが、この指摘はまたも日本にも関連してくるというか、あてはまる。日本の自動車産業の一部は、タタなどに対抗できなくなるだろう。すると製品の棲み分けが起きることになり、日本は別種の自動車を作るか、あるいは新しい市場を創出しなければならない。
 デトロイトの労働者問題でいえば、同コラムでは、産業救済ではなく労働者の直接保護を訴えている。端的に言えば、オバマ大統領の試金石は、公的資金によるデトロイト救済か、あるいは労働者の直接救済かとなるように思われる。選挙戦での曖昧で妥協的なオバマのありかたを見るとその中間的な部分になるのではないか。
 この流れで、ヒラリーが雪辱した健康保険改革の問題がまた浮上する。流れ的にみるなら、この話が推進されればよいかのようだが、過去の失敗原因をどうとらえるか。フィナンシャルタイムズ”Barack Obama's historic victory”(参照)が参考になる。

Republicans now are counting on a rerun of 1992-94, after Bill Clinton led the Democrats to a victory comparable to Mr Obama's.
(共和党員は、オバマとの対比で、ビル・クリントンが民主党を勝利に導いた後の1992年から94年の再来を期待している。)
The Democrats overreached, aiming to govern as though the US had become a solidly Democratic country.
(民主党員は、米国を民主党単独で率いようと、過剰反応していた。)
Voters rebelled, the party lost its control of Congress at the next mid-term elections, and Mr Clinton was then obliged to govern almost as though he were a conservative.
(有権者は反抗し、民主党は次回中間選挙で制御能力を失った。そしてクリントン氏はあたかも保守主義的に政治をせざるをえなくなった。)
Much was subsequently achieved - but the greatest prize, healthcare reform, fell victim to the hubris of those first two years.
(それで多大な成果はあったものの、最大の報酬であるべき健康保険改革は初期二年の傲慢さの犠牲となった。)

 この先フィナンシャルタイムズが予想するように、このあたりのこともオバマは学習済みだろうが、ヒラリーの呪いの圧力は再発するのではないか。ここでもやはり曖昧なバランサーとなるか、忍耐を強いられるか。あるいは小泉元総理のように大衆的な支持でゴリっと押してしまうか。そのあたりも見ものとは言える。

It is not as though Democrats are unaware of the risk.
(民主党員がその危険性を知らないふうではない。)
This bitter experience is seared into their collective memory.
(苦い経験は彼らの積み重なった記憶として共有されている。)
Many in the party vow that there will be no repetition.
(同党の大半は再現しまいと誓っている。)
But the exuberance aroused by Mr Obama's triumph will be a force to be reckoned with.
(だが、オバマ勝利で引き起こされたバランスの歪みは無視できない影響力を持つ。)
Already some Democrats are talking as though the entire US has repudiated not just the Bush administration, but also the centre-right political values that put George W. Bush in the White House (twice) to begin with.
(すでにブッシュ政権だけではなく、ブッシュを大統領職に押し上げた中道右派の政治観すら払拭されたように語る民主党員がいる。)

 意外にもこうしたうかれた米国民主党支持者が日本にも、ブログの世界にもいるもんだなと最近驚いたこともあったが、それは結局どういうことになるとフィナンシャルタイムズは見なしているのか。

This is the surest path to disillusion and disappointment.
(幻滅と失望に至る確実な道である。)

 試訳がど下手ただが、暗記して使いたくなるほど、詩的で美しく、皮肉で、それゆえに真理の言葉だ。
 もちろん、私と同様にフィナンシャルタイムズはオバマを腐しているわけではない。私と同様にオバマに期待している、" We congratulate him, and wish him well."と。

Mr Obama appears to understand.
(オバマ氏はわかっているようだ。)
He ran a campaign that appealed to the centre, promising, among other things, tax cuts for almost all US households.
(彼は、他の政策に併せ、全世帯向けの減税を約束するなど、中道を訴える選挙活動をしていた。)
Because of this carefully nurtured breadth of appeal, he starts with an enormous stock of political capital and the goodwill of much of the nation. He must take care to conserve both.
(慎重に訴えてきたゆえに、彼は米国民から政治的な資産と善意の大半を蓄えて開始することになる。)

 外国人である私たちからすれば米国外交に関わるところが気になるが、まずは内政の産業支援のお手並み拝見というのが、またーりとしたヲチのありかただろう。

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2008.11.05

フィナンシャルタイムズ曰く、じたばたせずリフレしろ、日銀

 吉例化しつつあるフィナンシャルタイムズ暴言シリーズ、って、暴言かどうかは意見はいろいろあるだろう。いずれにしろ、さすが世界の経済紙、日本の新聞とは違って、おもろいこといいはるぅ的なお話が多く、しかもなぜだかわかんないけど(と保身にすっとぼけておきたい)、その手の話題に限って日本のジャーナリズムはフィナンシャルタイムズの意見を黙殺するので、ブログのネタにはたまりませんな。今回は何をほざいておるかというと、「じたばたせずリフレしろ、日銀」である。あはは。
 話は2日付け”Japan needs more than gestures”(参照)。「日本はジェスチャー以上のものを必要としている」ということだが、このジェスチャーっていうのは、思わせぶりという含みがあるから、「思わせぶりでその場しのぎをすんじゃねぇ、日本」ということ。では冒頭。


The rate cut by the Bank of Japan is a stopgap that will change nothing.
(日銀による利下げはその場しのぎであって、何も変化をもたらないだろう。)
If Japan’s monetary policy-makers fear a return of deflation --- and their own forecasts suggest that they do --- rates must be cut to zero and Japan must consider some unconventional alternatives sooner rather than later.
(もし日本の金融政策立案者がデフレーションの復活を恐れるなら、そしてそうなると予測するようなら、金利はゼロにまで下げ、日本は、後回しにせずに、さっさと常識はずれた代案を考慮すべきだ。)

 ゼロ金利にせよ、日銀、そして、常識なんか忘れてしまえ、と。
 "unconventional alternatives"(常識はずれの代案)が何を意味するかは微妙、わくてか。
 先月31日、日銀は金利を0.5%から0.2ポイント下げ0.3%としたけど、フィナンシャルタイムズはこれでは効果がないだろうとしている。理由はFRBも下げたから金利差は小さくなったということ、固定金利の住宅ローンに意味がないこと、外国投資家を呼び戻すうま味がないこと、さらにリスクのある融資に銀行を誘導できないことなどを挙げている。それはそうか。日銀もそれがわかってないわけではないから、形だけのことと割り切ったのだろう。
 重要なのは、このままだと日本はまたデフレに突っ込むだろうということ。日銀の見解をなぞっているだけだが。

Unfortunately things are not OK --- Japan is racing back into deflation.
(残念ながら事態は良好ではなく、日本はデフレに舞い戻りつつある。)
The Bank cut its own forecast for core consumer price inflation in 2009 to zero, and now expects only the most minimal growth in output either this year or the next.
(日銀は2009年のコアインフレ率の予想をゼロに下げ、現時点では今年も来年も最小限度の経済成長しか見込めないとている。)

 これに続いてフィナンシャルタイムズは、日本政府の銀行への資本注入発表を評価し、また円高は消費者物価を下げるメリットがあるとも説く。これは悪くはない("That is no bad thing")。

That is no bad thing, but the stronger yen will also depress exports, creating slack in the economy, and cut import prices.
(政府による銀行資本注入や円高メリットも悪いものではないが、強くなった円は輸出を抑制し、不景気を産み、輸出価格は下がる。)
It is hard to believe that Japanese consumers will create enough growth in demand to avoid deflation.
(日本の消費者がデフレを回避できるほどの経済成長を遂げられると信じがたい。)

 デフレ必至。
 麻生総理の五兆円の景気刺激策はどうか。

But that is too small to make much difference, while general income tax rebates and small business loan guarantees look more like populist electioneering than an attempt at serious economic policy.
(五兆円では少なすぎて変化は起きない。しかも、一般所得税の還付と中小企業ローンの担保は、まともな財政政策というより、選挙目当ての人気取りのようだ。)

 それもそうでしょう。じゃ、どうしろ、と。いや、それ、ばっちり予想が付くな。

Japan’s huge public debt makes it deeply undesirable, but it is time to think about a much larger stimulus.
(日本の巨額な債務超過は大変好ましくはないが、今やもっと大きな経済刺激策を考える時だ。)
Policymakers missed opportunities to move Japan away from being so heavily export-dominated during its half a decade of growth;
(政策立案者はこの5年の成長期間に、過度な輸出依存から脱却する機会を失した。)
the only way to shift the economy toward domestic consumption is to put money into the pockets of low and middle income earners whose wages have now been stagnant for almost two decades.
(国内消費に経済を転換させる唯一の方法は、20年ものあいだ賃金が低迷していた低所得者や中間層にカネをぶちこむことだ。)

 "put money into the pockets"という表現はすごいな。ポケットに銭を突っ込め、と。
 日銀は?

As for the Bank of Japan, its eagerness to raise rates before inflation was properly established looks more mistaken than ever.
(日銀については、インフレ前の金利上昇の狙いは、以前にも増して間違いといってよくなった。)
Last time the country was in deflation, the Bank had to go beyond zero interest rates to “quantitative easing”, and there was no monetary disaster.
(前回日本がデフレに落ち込んだとき、日銀はゼロ金利を超えて「量的緩和」をせざるをえなくなったが、それによって金融危機が起きたわけではなかっった。)
More than any other central bank, the Bank of Japan knows what works.
(日本以外の中央銀行よりも、日銀は量的緩和に効き目があることを知っている。)
If need be, it should not hesitate.
(必要があれば、ためらうべきではない。)

 これってシェークスピアかなんかのもじりかな。
 まあ、リフレというのは、「常識はずれた代案」かもしれないし、「常識はずれた代案」というなら、政府紙幣とかもポケットに突っ込む銭としてはよいかもしれない。
 フィナンシャルタイムズ暴言シリーズは続くのでしょうかね。ではまた、アディオス!

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2008.11.04

[書評]治療をためらうあなたは案外正しい EBMに学ぶ医者にかかる決断、かからない決断(名郷直樹)

 ああ、これ本になって出ちゃったのか、というのが率直な印象。「治療をためらうあなたは 案外正しい EBMに学ぶ医者にかかる決断、かからない決断(名郷直樹)」(参照)である。書評に書くかためらう部分もあるし、書くとなるとつい言いたくなることもあり、心が揺れる。一般向けに書かれて、一般の方が読まれると、戸惑う人も多いだろうし、だがそろそろ社会もこの問題に向き合うほうがよいと思うので、この本は読まれるべきだろうし、その意味で、向き合いかたの一例として私もさらっと書いてみたい。メモ程度な気持ちで書いているので、そこはご配慮を。

cover
治療をためらうあなたは
案外正しい
名郷直樹
 この本の内容を、やや粗暴だが一言でいうと、とか言って標題どおりなのだが、「治療をためらうあなたは案外正しい」ということだ。
 いわゆる生活習慣病(こんな自己責任を押しつける病があるのは日本だけだけど)や癌、花粉症、風邪、インフルエンザなど、私たちの社会が普通に直面する、ある意味でありふれた病について、これをEBM(エビデンス・ベイスト・メデシン:根拠に基づく医療)から再検討してみると、意外それほど治療に効果はないものが多いものだ。そうした内容が項目的に書かれている。もっとも本書で掲載されている項目で、喘息と胃潰瘍などについては、さっさと普通に治療して効果がありそうだという話もあり、効果があるものにはあるという印象だろうか。
 この本ので触れられている内容だが、医療関係者や関連の識者は、おそらくみんな知っているだろう。ではなぜ一般にそれほど知られていないかのように見えるのか(意外とマスメディアの人が無知だったりする)、という問題になり、そこは本書が出た後でも依然問題になるだろう。
 基本的に、この本が日経BPから出版されたように、同社から出ていた「クリニカル・エビデンス ISSUE9 日本語版: 日本クリニカルエビデンス編集委員会」(参照)を読めば、本書の内容の、言い方は悪いが、ネタは出尽くしている感はある。
 クリニカルエビデンスというのは、ごく簡単に言えば、実際に特定治療にどのくらい効果があったかを科学的に評価して記したものだ。単純に考えれば、医療はクリニカルエビデンスに基づいて行えばよいということで、これがEBM(エビデンス・ベイスト・メデシン:根拠に基づく医療)と呼ばれている。と言いながら、心がくぐもるのにはわけもあるが。
 ここでちょっと、ここまで言っていいかちょっとためらうのだけど、前述のクリニカルエビデンスの書籍は2004年で。本書「治療をためらうあなたは案外正しい」も2004年から2007年の3年に書けて連載されたものだ。加筆はされているが、そのあたりの時系列が微妙に出版状況や内容に反映している点は業界的にも面白い、というか面白いではすまないかなという細部の業界もあるかもしれない。現状にもっとも近いクリニカルエビデンスの書籍は昨年出た医学書院の「クリニカルエビデンス・コンサイス 日本語版」(参照)だろうか。こちらは、ISSUE16なので、その点では先ものより新しい。どちらもBMJである。この読者評が微妙に厳しいが問題の側面をよく語っている。

★☆☆☆☆ お金を捨てるようなもの, 2008/8/11
By ezy01757 - レビューをすべて見る
以前から、EBM関連書籍は6ヶ月で時代遅れと記載されている。にもかかわらず、過去のissueは、約1-2年でのタイムラグ内容の記載であった。2004年3月に発刊されたバージョンでは、当時の最新検索日は2002年12月で、旧版の役割は終わったと述べられている。
それでは、本バージョンはどうであろうか?2007年7月発刊であるが、内容の多くが2004~2005年であり、発刊時にすでに役割は終わっていることになる。
EBMは、その時点での入手可能な最良のエビデンスではなかったのか。購入者は数年前の検索データ内容を読むことになるが、このような古い内容をどのような人が利用するのだろう。
お金のある人は、本書内の2004年4月検索時点データなどを収集してもよいだろうが、BMJ Clinical EvidenceでのGRADE systemの利用方針など全く触れていない、というか編集者チームは知らなかったのだろうか・・・ また、10年前の発表のNNT計算の付録なども、いまだ必要なのだろうか。
表紙のカラーはみずみずしいが、内容は陳腐であり、価格1万円ならばonline を推奨する。

 そこまで言うのもきついかなとは思うが、現状最新のものでも3年は遅れているとなると、現場での利用には耐えないし、また一般の人がその時点までの評価をどう見るかはさらに難しい。ちなみにこのezy01757さんは2007年JAMAの「Users' Guide To The Medical Literature: A Manual for Evidence-Based Clinical Practice」(参照)を推奨しており、その推奨理由に納得はできるものの、要するに日経BP社出版の邦訳書がかつてインパクトがあったのと逆に、英語で読むという壁はあるかもしれない。
 本書に戻ると、現時点での加筆があるゆえに本書の内容が古いということはないが、現時点に近いほど、臨床との関係の議論は複雑ならざるをえない。
 話が前後するが、それでも大筋のところ、いわゆる生活習慣病に、主に投薬による治療が必要かという点では、微妙な問題が多い。
 この点について、私もこのブログを始めたころ、ああ、もう5年も前になるのか、「極東ブログ: 「コレステロール」にご注意」(参照)を若気の至りで書いてしまったことがある。今の私ならもうこういうエントリは書かないだろうと思うが、一応私が死ぬまで、そしてニフティに支払いできるまで(誤解が一部あるようだけどこのブログは無料ブログではない)とりあえず残しておくかとも思うが、このエントリに興味深いコメントが後日あった。

しかし、いざ私の専門である医療関係の話になると、finalventさんは知識が豊富であるにもかかわらずミスリーディングなエントリーが多く、困惑しています。

とりあえずコレステロール(悪玉であるLDLコレステロール)に関しては、大規模な臨床試験が複数あり、基本的には薬剤により下げれば下げるほど心血管イベントや総死亡を下げることが証明されています。



で、コレステロールに戻りますが、スタチンによるコレステロール低下の効果に関しては、無作為化された二重盲検の前向きの大規模臨床試験が複数あり、ほぼそれらのすべてで有益であることは証明されており、この世界では非常に確度が高いエビデンスです。この有益というのは、基本的には総死亡率を下げると言うことであり、横紋筋融解などの副作用をすべて含めての話です。スタチンはコレステロール低下以外の作用があることはすでに広く知られていますが、他の薬剤での臨床試験でも同様の結果が得られています。

 レスをするかためらったのは、繰り返すけど今の私ならもうこの手のエントリは書かないだろうということが一つにはあった。もう一つは、コメントをくださった方に、私の考えを理解してもらうにはやっかいな議論をしなければならないなという先行した疲労感のようなものもあった。
 そのあたりで、私が書いた本ではないけど、今回のこの「治療をためらうあなたは案外正しい」を読んでいただければ、概ね私と同じ意見なので、それをもってレスの代わりとしていただきたい。
 ただ本書とまったく同意見ではない部分とすれば、スタチン系の薬剤がシャープであることやその機序解明によって多様な知見が続出していることから、そう否定的に捉えるものでもないかとは思う。その意味ではこのコメントをくださった方の心情に今の私は近い。
 どうも当初思っていたエントリのイメージと違う方向に暴走しつつあるが、本書をもって、つまりEBMが科学的だから、よってそれで治療の是非を考えるとなると、実は簡単な指針が出ないものだ。本書でもこう述べられている。糖尿病の項目の終わりで(強調は同書ママ)。

 糖尿病についてはこの項で終わりですが、いろいろと意外なデータが多くて混乱したかもしれません。しかし、よく勉強すると混乱する、これは私自身がEBMから得た最大の教訓のひとつです。

 これは現状、医療関係者なら大半が同意せざるを得ないところで、であれば、現実の臨床においてどうすべきというのは、それ相応に難しくなる。患者さんにそれを理解してくださいというのは無理だろうというのが実質前提にもなっているので、本書のような一般向けの書籍の意味合いも難しくなる。
 本書の評価が難しいのもそのあたりだが、一般的な書籍という点では、リファレンス的にまとまっているので関心のある人は読んでおいたほうがいいだろう。ただ、安易な結論はでない。安易にあおった週刊誌記事とか書かないでいただきたいとも思う……。
 もっとも「むずかしいだろう」と言いながら、現実の臨床の場では、医療というのがScience(科学)であると同時にArts(手技)の体系であるということから、ある意味では日々の臨床ではそれほど困ることはないという現実もあるし、EBMにどう対応するかということもこの間年月が経ったのでArtsとしてのそれなりの対応を関係者みなさんは持っているだろう。その意味では早急の課題ではない。
 長くなったのでここでエントリを終えたい。本書を読みながら、「ああ、ここの表現ではまずいんじゃないか」「これは偏った意見ではないか」と思う部分は数カ所あった。それをエントリでちょっと指摘しようかとも当初思っていたが、やめにする。ほのめかして終わりだとか思わないで欲しい。私の指摘もそれほど正しいものとは言えないし、こうしたブログのエントリで書くべきことではないように思えるからだ。

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2008.11.03

仮にイスラム教徒が米国大統領になったとしてそれが問題なのかとパウエルは問うた

 米国大統領選挙はオバマが勝つだろうというか退屈な話題になった。最終局面ではありがちのネガティブキャンペーンも両陣営から続出したが、そのなかで、オバマはイスラム教徒だというのがあった。これに対して、パウエル元国務長官がオバマを擁護し、オバマを大統領候補として支持した。そのときのワシントンポスト社説”What Colin Powell Also Said”(参照)をとあるきっかけで思い出した。標題は「コリン・パウエルがこうも語った」ということ。つまり、オバマを支持することに加えて重要なもう一つのことを語ったというのだ。


NATURALLY, WHAT garnered the most attention on the day after former secretary of state Colin Powell's endorsement of Sen. Barack Obama was its political significance. But we hope that another message that Mr. Powell tucked into his endorsement isn't forgotten.
(パウエル前国務長官によるオバマ上院議員の支持の翌日、自然な成り行きなのだが、注目されたのは、その政治的な重要性だった。しかし、私たちは彼がその支持に盛り込んだもう一つのメッセージを忘れないように望む。)

 もう一つのメッセージとは何か。オバマはイスラム教徒ではないとパウエルは答え、そしてもう一つこう加えた。

"But the really right answer," Mr. Powell continued on NBC's "Meet the Press," "is, 'What if he is? Is there something wrong with being a Muslim in this country?'
(NBC「ミート・ザ・プレス」でパウエル氏はこう続けた、「しかし、正しい答えは、仮に彼がそうであるとしたら、この国においてイスラム教徒であることは何か間違っているのか?」)
The answer is no, that's not America. Is there something wrong with some 7-year-old Muslim American kid believing that he or she could be president?"
(「答えはノーだ。それが間違いだというならそれはアメリカではない。7歳のイスラム教徒の米国人の子どもが、大統領になろうと信念を持つことに何か間違いでもあるのか?」)

 キリスト教からは異端ともされるモルモン教信者が大統領になってもまったく問題どころか、イスラム教の信者が米国の大統領になってもまったく差し支えない。米国の大統領の職務を全うすることと、思想信条にはなんら関係がない。
 しかし、人は問うかもしれない。穏健なイスラム教徒ならよいが、アルカイダを支持する人が大統領になるのは問題だ、と。この問いはパウエルに課せられなかったが、その回答はそう難しくなく想定できる。パウエルならこう答えただろう、「アルカイダを支持するというのはどういう意味か?」と。そして、「アルカイダの行為にもそれなりの理由がありそれは心情的に理解できる部分がある」というくらいの支持なら、パウエルなら問題にすらしないだろう。
 ワシントンポスト社説はパウエル発言のもう一つの重要性をこう称賛する。

That's why Mr. Powell, unhindered by such calculations, deserves thanks for the lesson on tolerance.
(駆け引きなく、パウエル氏がこう言明することで、寛容について学べたということは、謝意に値する理由だ。)

 「ありがとうパウエルさん、思想信条の自由には寛容が必要だと学ぶことができた」ということだ。
 なぜそれが感謝に値するのか。憲法と国家の関わりを再認識させてくれたからだ。

This is not, by its Constitution, a Christian country, or a Judeo-Christian country, or even a God-fearing country.
(この国は、キリスト教徒の国でもユダヤ・キリスト教徒の国でもないし、まして神を恐れる国でもないのは、その憲法によってそうだからだ。)

 憲法は宗教を差別しない。当たり前のことだが、我々はそれを忘れがちだ。オバマながイスラム教徒であることがネガティブキャンペーンであると思っていた人は、その人なりの「正義」があった。しかし、その「正義」は正しくない。人は他者の正義について寛容でなくてはならない。
 2006年11月の中間選挙で民主党のキース・エリソン(Keith Ellison)氏(参照)が下院選議員選出されたとき、彼は翌年の連邦議会の就任宣誓に、従来は聖書に手を置くことが慣例となっていることに反して、イスラム教徒としてコーランを使い話題になった。ある意味で話題になることがおかしいともいえる。正式な宣誓式の規定では、議員は右手を挙げて宣誓することが重要で、そこに聖書を使うことは一切義務づけられていない。1997年にはモルモン教徒のゴードン・スミス上院議員は聖書にモルモン経を加えた。セオドア・ルーズベルトはそもそも聖書を使わなかった。
 聖書といった宗教的なシンボルは、議員らの内面の思想信条に関係するのかもしれないが、国家はまるで関知しない。国家にとって重要なのは、宣誓ということだ。
 もしかすると多くの日本人には理解されていないかもしれないが、思想信条が問われるのはこの宣誓と矛盾した場合だけだ。
 逆に言えば宣誓と矛盾しない思想信条によって人が排斥されることがあれば、憲法はそれを国家の意思として保護しなければならない。
 カルト的な宗教は人の内面や本心、本音を審判しようとする。西洋ではそのために魔女狩りも行われた。カルト的な政治集団も、お前の本音はこうだろうと糾弾を重ね地獄図を描いてきた。
 ローマ帝国はそのような愚さを知っていたから、皇帝に香を捧げ宣誓することだけが問われた。現代世界には皇帝は存在しないが、宣誓によって信条を守るという智慧は、人をカルト的な世界から守るために、憲法というものの根幹に生き残っている。

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