« ウォーレン・バフェットのありがたいご託宣 | トップページ | Whoa, bloggers; this won't last. »

2008.10.19

[書評]おまえが若者を語るな!(後藤和智)

 ちょっと前のことになるが「おまえが若者を語るな!(後藤和智)」(参照)がネットで少し話題になっていたので読んでみた。よくわからない本だった。賛否以前に、この書籍で何が問題なのかという部分でまったく共感できなかった。というか率直に言うとつまらなかった。ただ、このつまらさは著者の論のつまらなさというより、批判対象とされる部分のつまらなさということだ。巻末に参考書がずらっとリストされているのだが、いくつかの社会学的な分析を除けば、よくここまでつまんない本をきちんと読んで論が書けるものだなという敬服感すらあった。
 なんなんだろうこの感じはと思って、あとがきに達して少し得心した。


 多くの読者は、なぜ今更宮台真司などという、ほととんど忘れ去られた論者を批判するのか、と思われるかもしれない。

 まさにその通りで、宮台真司の90年代の議論というのは忘却していいだけのものなのではないか。と、思いながらふと思い出すことがあった。本書でも文庫本のほうで引かれているが、 藤井誠二と宮台真司による1999年の「美しき少年の理由なき自殺」(参照)だ。文庫本では「この世からきれいに消えたい。―美しき少年の理由なき自殺」(参照)となっている。
 この本についてはアマゾン読者評が詳しい。

☆☆☆☆☆ 汚れちまった悲しみに, 2002/12/1
By 生真面目な戯れ - レビューをすべて見る

 宮台真司の最も悲しい本。3つの意味において。
 1宮台真司のようになろうとし、しかし宮台自身の言説によって否定され、死に行き着いた者の死という端的な事実。
 2宮台真司自身が、自殺した者に過去のおのれを見出す瞬間。死が私であったかもしれない可能性。
 3その事実を前にして分析を積み重ねていく宮台真司の悲しさ。
 とりわけ、3の点について、宮台の分析行為そのものへの批判がでていることであろう。おそらく、死を前にすると、その死を特権化することがある意味礼儀にかなった仕方であるのだろう。しかし、宮台真司は、その死を特権化することなく、分析を積み重なる。分析すると死は特権化されなくなる(分析枠組みの応用可能性)。つまり、ある意味礼儀に反している。それゆえ、この態度を批判することも当然である。
 しかし、私としては、あえてそれをやり、読者に送り出す宮台真司の倫理を感じざるを得ない。だからこそ、悲しいのである。特権化することなく、分析し送り出すという強靱な意志、それを評価せざるを得ない。

 加えて、もう1人の著者藤井誠二の役割が極めて重要である。彼がいなければ、そもそもこの本が存在したか分からないし、また彼がいたからこそ、この本を読むことが可能になる。藤井誠二の視点を借りることにより、我々は宮台真司への感情移入したときの苦しさをさけ、この本を読み通すことが可能になるのだ。


 悪い言い方をすれば宮台の言説のエピゴーネンが、それゆえの純粋さで、その思想的帰結で自死したとき、当のイデオローグである宮台はどう受け止めたかというテーマだ。ちょっと悪い比喩でいえば、イワン・カラマーゾフとスメルジャコフの問題でもある。
 私はこの本は沖縄で捨ててきた。宮台がこの問題を自身の生きる「倫理」として受け取ったときの、その真摯さにバランスする身体性と役割としての欺瞞性のなかに、私も私自身を見たので、もうそれでいいやと思った。その後、宮台が速水と離婚し、ゆえに仮想的な言説的な「父」と「夫」を終え、二十歳も若い女性と再婚し、子をなすというプロセスは、まさにその「倫理」そのものであっただろうし、自分もそうした世俗の倫理に近いところで生きているおっさんとして、彼への関心は失った。その後、社会学者としての意見を聞くことがあるが、普通に中年の、日本っぽい学者さんというくらいな印象しかない。
cover
おまえが若者を語るな!
 もうちょっと言うと、宮台のエピゴーネンというかその思想の純化が自死にいたり、当の宮台本人がそうではなかったのは、彼が経験した洗脳体験的セミナーやその後の体験的テレクラ実践における、身体性と、東大くらいするっとこなすシュルードな知性にあっただろう。思想からはそこは抜け落ちたり再構成されるが、こういう男はそのあたりの生の基盤を持つものだ、という言い方は批判めいて聞こえるかもしれないが、男の語る思想など身体性から乖離するだけ嘘になるものだし、おっさんは嘘のなかを生きているものだ。
 ただ、その生活的な「倫理」において、「おまえが若者を語るな!」では宮台と一括されている藤原和博への私の評価はまったく異なる。いずれ書評を書こうとは思うが、「つなげる力」(参照)には日本社会を根底から変える革命性に近いものがある。
 話が「おまえが若者を語るな!」から逸れたが、自分としては宮台は終わっている。香山リカには最初から関心もない。東浩紀についてもほぼ同じ。問題意識と課題設定の方法論が自分からはまったく理解不能。どのくらい違うかという例は、「極東ブログ: 秋葉原無差別殺傷事件、雑感」(参照)が相当するかと思う。
 と、宮台真司、香山リカ、東浩紀と並べて見て、そしてこれに福田和也を加えてもいいと思うのだが、私とは、拠って立つ歴史の感覚がまるで違いすぎる。東京オリンピックの前の東京の風景というものの記憶のない人々なのだろう、あの生の歴史の感覚を持たない人々なのだろう、そしてそれは戦争というものの残存の生活空間もないのではないか、という部分で、世界というものの根本的な感触が自分とは違いすぎて、これはどうにもならない。そしてそういう私からすれば「若い」世代の人々が、若者論をおこしても、やはりどういうふうな生活感触、あるいは人間の感触として受け止めてよいのか、皆目わからない。
 このあたりの、どうしようもないズレ感は、「おまえが若者を語るな!」のなかでの藤原正彦への批判からも思った。もしかすると著者は、藤原正彦が「極東ブログ: [書評]流れる星は生きている(藤原てい)」(参照)や「極東ブログ: [書評]祖国とは国語(藤原正彦)・父への恋文(藤原咲子)」(参照)といった背景を持つことを知らないのかもしれない。藤原正彦は、藤原ていが命をかけたあの幼子として日本人は見てきたものだった。そして、てい自身もほとんど発狂に近い戦後の時代も送った。藤原正彦は、福田和也とはまったく逆に、ただあの時代の生活感覚の結果として存在しているのであって、彼の右傾化に見えるようなご意見などはそう目くじら立てるほどの議論でもない。
 梅田望夫「ウェブ進化論」も叩かれているが。

 今までの歴史を振り返ればわかるとおり、「新しい」メディアが産業のあり方を根本から変える、という議論はほとんどが期待はずれであったケースが多い。おそらく梅田の説明も、(中期的に見れば)誇大妄想である可能性が高いと思われる。

 「という議論」のスパンがわからないが、新しいメディアは産業のあり方を変えてきたというのは、単純な真実ではないだろうか。印刷は世界を変えたし、電信は世界を変えた。多く人があまり気にもしてにないが、教科書というメディアは一斉教育を生み出し、近代国家と軍政と「言語」を作り出した。むしろ梅田は新しいメディアがこの一斉教育と軍政的な近代化を打ち破る新しい力の芽を見ているし、そこが見えなければ新しい世界からこぼれていくだけのことだ。梅田望夫はあれだけ語られながら、よく読まれてはいない。
 本書、「おまえが若者を語るな!」のもっとも重要な提起は、しかしそうした90年代的「若者論」の丹念な執拗な否定よりも、以下にあるはずだ。

 下手に壮大な社会論、もしくは世代論に手を出してしまうと、議論は無意味な世代間闘争に陥ってしまうだろう。現在、決してよくない状況に陥っている人たちへの救済は、本来は科学的な実態の把握に基づいて語られるべきものであり、できるだけリスクを少なくして便益を上げる政策設計によって解決しなければならない。

 私は違うと思う。
 日本には世代は存在する。戦中世代、団塊世代、ポスト団塊世代の三つだけだが。そして、団塊世代とポスト団塊世代の間には、国家ビジョンの変更から大きな制度の変更が迫れているにも関わらず、それが実現していない、どころか逆行しつつある。そこには利害対立があり、世代間闘争は利害から必然的に発生する。
 そしてそれは科学によって調停されるものではない。科学的を標榜する社会主義がみごとに失敗したようにこれらは理想論から演繹されるものではなく、政治的なプロセスによって達成されるものだ。政治的な意志という政治の前面があり、その後、官吏たちが「便益を上げる政策設計」の詳細を作るのであって、逆ではない。
 その意味でいうなら、「おまえが若者を語るな!」で批判されている「若者論」というのは、どのような政治的な集団の利益であるが分析されるべきであり、それらの利害の対立をどのような政治プロセスに改変して直面していくべきなのが問われなくてはらないものだろう。

|

« ウォーレン・バフェットのありがたいご託宣 | トップページ | Whoa, bloggers; this won't last. »

「書評」カテゴリの記事

コメント

>>弁当じーちゃん

 面白かったですよ。なので「私は違うと思う。(以下略)」の部分を面白く語っていただければ、もっと面白いと思いました。ありがとさん。

投稿: 野ぐそ | 2008.10.19 18:45

宮台真司・香山リカ・東浩紀・福田和也についてはそれなりに当時面白く読ませて頂きましたので感謝してます。確かに言われてみれば今日的に彼らの言説やどれ程耐えられるであろうか?意味があろうか?と考えてみると「忘れて良い」とは適切な評価かもと同意してしまって微笑してしまいました。
藤原正彦氏について自分は知らなかったのですが興味深く思ったので今度引き寄せて何冊か読んでみようと思いました。
今回は書評と言うことですが、それを超えて弁当氏がとても熱く語ってる部分が読ませるというか、何というか書評と言うより不思議な公憤混じりの雑記風メモって感じで、なかなかこれをこういう風に書ける人は居ないなぁと思ったので、え~今後も偶にこんな風に頑張ってください。

投稿: ト | 2008.10.22 03:59

正直申しまして、わたしは、東京オリンピック開催のほとんど半年前にこの世に生を受けました。

そんなわけで、私も、東京オリンピック開催前の東京というものがわかりません。物心がついたときには、東海道新幹線も、東京モノレールも、首都高羽田線も、所与のものでした。それら抜きの東京は知りません。

だから、私の感性も、finalvent先生にはよくわからないだろうし、わたしも、finalvent先生を理解できているなどとはとても思っていません。だいたい、極東ブログはひどく難しくて、自分で考えの及ぶ範囲でコメントを入れさせていただいています。

それでも、宮台真司氏は好きではないですね。自著の中で、女子高生の援助交際を研究することで国会に呼んでもらえて話をさせてもらえたことを自慢しているような書き振りをするような人は、自分とは人種が違うと思っています。

投稿: 東京オリンピック以後 | 2008.10.22 08:43

 弁当爺さんの良いところと良くないところが同時に出てるよね。良いところは、トさんの言うような「なかなかこれをこういう風に書ける人は居ないなぁ」…で、良くないところは、「私は違うと思う。(以下略)の部分を面白く語っていただければ、もっと面白いと思いました」…って期待しても、絶対その先を書かないこと。

 今まで書いたの見たことねーよ。3年も4年も見てるけどさ。それが「ポジション」なの?

 だから、いっこ前のエントリーで「Buy Buy G-class lunch」って茶化したんだ。言ってる私がたかだか野ぐその分際だから「忘れて良いとは適切な評価かもと同意してしまって微笑して」流せばそれでいいと思うけど、それだけじゃ詰まらんよ。

 20年後(笑)の輝く(笑)未来(笑)に瞳(笑)を輝かせる(笑)50歳(←笑)を、俺ちゃん(←哂)は見たいんです。じゃなかったら、わざわざ見に来ないよ。みーさんにしてもたけくまさんにしてもパチモノの良心さんにしても404式戸外弾翁にしても余丁町のおっさんにしても大阪の障害者の姉ちゃんにしても、「何でわざわざ観に行くのか」。
 コメント欄が馬鹿みたいに過熱して野次や罵倒が飛び交ったとしてもそれでもいいって俺ちゃんは思ってんだけど、それでも見たいって思うのは何故なのか。

 そこんとこ、も少し考えて貰えれば嬉しいね。
 生きる力を感じない。それが一番詰まらんのよ。

投稿: 野ぐそ | 2008.10.22 12:12

団塊の世代とポスト団塊の世代の違いって、よくわからないのだけれど、ともに、大学は当然新制大学で、団塊の世代って言うのは、基本的にマルクス主義が正しい世界観であると考えるのが所与である青年期を過ごしていて、ポスト団塊の世代って言うのは、マルクス主義が政治的にも経済的にも倫理的にも破綻しているのが自明と考えるのが主流の世代なのですか。

理性的情念主義とオカルトに関する実証主義の違いも団塊の世代とポスト団塊の世代の違いみたいなものかな。

ポスト団塊の世代も、ソ連が軍事大国であることが自明であることが幼児体験である世代と、ソ連が軍事的にも破綻していることが明らかであることが幼児体験である世代に分けられるかもしれないとも思います。

細かなことをいってしまえば、戦前戦中と、朝鮮戦争前の戦後と、東京オリンピック前の戦後と、大阪万博前の戦後と、日韓共催ワールドカップ前の戦後と、それ以降とは、別の時代の生まれとも言えるのではないでしょうか。

finalvent先生に対して言いがかりをつけているのではありません。どうか気を悪くしないでください。

投稿: 団塊世代とポスト団塊世代 | 2008.10.22 12:51

良くも悪くも振り回している観念が所詮生業上のポーズ程度のお坊ちゃんで、頭のいい人のアリバイ工作便宜的なものなので、それを本気にして純粋になされたらば、そりゃ戦後食糧危機時の某裁判官みたく法を守って飢え死にしなければならなくなるわな。
そうでない普通の人は、お国はお国の都合で法や理念を振りかざす都合があるし、生活者は生活者の生きるための都合があるから適当に勝手にやるよ、ってなぐらい適当に意味をとったんだけど。
ん~確かに弁当さんの仄めかしメソッドもあまり多用されると問題だろうね。
人によっては仄めかしに何かしら実態があるのか無いのか判断しないまま走り出すから。
その場合、弁当さんはたぶん「実体なんて無いんですよ、単なる痴呆の独り言です」って邪魔臭がって安全策・誤魔化しそう。だけどそういう態度は口を開いた以上はたぶん駄目なんだよ。
結局、沈黙より語る事を選んだんだから、少なくとも感じたものの自分なりの実感について言及しないと。

投稿: ト | 2008.10.23 05:06

鉄オタなら席譲ろ、ジジババには席譲ろ、鉄オタなら態度で示そうよ、ジジババには席譲ろ
↑違ーう!!!
若ぶってないで、空いてたらさっさと座れ、いちいち気ィ遣わせんな!
え、おまえが若者を煽るな!じゃなかった?

投稿: おひさ | 2008.11.08 13:38

私は、現在、自動車を持っていませんが、鉄道オタクではありません。自動車の免許は持っています。そして、今後の産業の重要根幹は物流関連インフラであると思っているだけです。増田悦佐氏への関心もそういう観点から。

私は、若者を煽るつもりはありません。だから、匿名にしています。自分を中心にして若者たちを糾合する気などまったくありません。だから、finalvent先生に間借りさせていただいています。そして、恥ずかしながら、まだ自前のサイトは開設していません。必要となればそのようにします。必要となれば、実名を明かして表現活動をします。煽る、というより、僭越な言い方をすれば、お釈迦様に習って、「見よ、甘露の門は開かれたり。耳あるものは聞け。」というところでしょうか。これは、finalvent先生も同様のお考えであろうと思っています。

「おひさ」さんのスタイルとキャラクターも、それはそれで尊重すべきであると思うのですが、できれば、もう少しメッセージが明確で、対話のしやすい意思表示をしてもらえると、こちらも、「おひさ」さんの考えていることが把握しやすくなるのでありがたいと思います。どんな僻論邪説であっても、それはそれで新しい発想の展開の契機になりうると思うので、せっかくそちらもボランティアで表現活動されるのだから、お互い有益な実りを得たいものだと思います。

まだ、インターネットの使用を細かく規制する公共表現法のような法律は制定されていませんが、インターネットは、用途が何であれ、公共の利器だと思われます。快適に、有益に利用したいものだと思います。道路交通法で規制されている自動車や単車の様に。

投稿: 鉄道オタクではない緑のおっさん | 2008.11.10 10:46

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: [書評]おまえが若者を語るな!(後藤和智):

« ウォーレン・バフェットのありがたいご託宣 | トップページ | Whoa, bloggers; this won't last. »